翌日も、雨はやまなかった。
 昼過ぎに僕はまた市立病院を訪れ、指の怪我を診せた。
 昨日と同じようにギプスで指を固定した医師に、「次は三日後に来てください」と告げられ、診察室を出る。

 会計を済ませると、僕は階段で三階へ上がった。
 昨日、春野に聞いていた。普段、検査などがない暇な時間は、たいてい三階の談話室で過ごしていること。天気が良い日は中庭を散歩するとも聞いていたけれど、今日は雨だ。
 明るい木目のフローリングに、緑を基調とした椅子やテーブルがゆったりと並べられた談話室に、春野はいた。いちばん奥のテーブルに、背中を丸めて座っている。
 広々とした談話室にいるのは、春野と、テレビ前のソファに座っているおばあさんだけだった。

 近寄っていくと、春野がなにか描いているのが見えた。手元のノートにかじりつくように顔を近づけ、握ったシャーペンを無心にすべらせている。
「――あ、漫画?」
「わっ!」
「続き描いてんだ」
 思わずうれしくなって僕が覗き込もうとすると、春野は素早い動きでノートを閉じた。ばん、と勢い余って彼女の手がテーブルを叩いた音が響く。
「く、倉木くん。びっくりした」
「今日も診察だったから」
「……また会いにきてくれたの?」
「退屈してるかと思って」
 言いながら、テーブルを挟んだ春野の向かい側に座る。
 驚いたようにそんな僕を見つめていた彼女は、一拍置いて、ふわりと表情をほころばせた。「ありがとう」と弾んだ声で笑う。

「本当にね、すっごい退屈だったんだ」
「今日も雨だしね」
「ね。全然やまなくて嫌になっちゃうよ」
 そうぼやく春野の顔は、言葉とまったく釣り合わない、にこにこ顔だった。
「漫画、進んだ?」
「けっこう。朝からずっと描いてたから」
「マジで。ちょっと見せて」
「ま、まだ途中だから。完成したら見せる」
 あわてたように、ノートを自分のほうへ引き寄せる春野に、

「なんで漫画、自分でも描こうと思ったの?」
 ふと浮かんだ疑問を訊ねると、春野は、へ、と聞き返しながら顔を上げた。
「いや、僕も漫画は好きでわりと読むけど、自分で描こうと思ったことはないから。なんか、描こうと思うのがすごいなって」
「……わたし、ずっと読んでたから」
「漫画?」
「うん。小さい頃からずっと。わたしの好きなものって漫画ぐらいしかなくて」
 春野はテーブルの上で組んだ自分の手に目を落とし、訥々と続ける。
「小説は読めないし、スポーツとかもできないし。ずっと漫画が唯一の趣味だったのに、最近、漫画を読むのがつらくなってきちゃったの。なんか……毎日楽しそうに生きてる登場人物たちが、うらやましいなって思っちゃうから」
 力のない笑みを浮かべる春野の肌の白さが、なぜかそこで目についた。
 今まであまり陽の光を浴びたことがないことが伝わる、文字どおり病的な白さだった。
「だからね」
 指を何度か組み替えながら、春野は言葉を手繰るようにして続ける。
「読めないなら自分で描いてみようかな、なんて思って。漫画以外、好きなものもないし。でも入院生活はめちゃくちゃ暇だし。だからやむにやまれずというか、消去法みたいな感じで」
「いいじゃん」
 自虐するように春野が言うので、僕は思わず口を挟んでいた。
 え、と驚いたように言葉を切った春野に、
「たしかに読みたいものがないなら、自分で描くのがいちばんいいと思う。頭良いよ、春野」
「そ……そう、かな?」
「うん。やっぱ春野、そのまま漫画家になっちゃえばいいじゃん。上手いんだし、そんだけ漫画が好きなら。なれるよ、春野なら」
 つい勢い込んでまくし立てた僕の顔を、春野は目を丸くして見つめていた。
 それから少し間を置いて、
「……ありがとう」
 と、はにかんで目を伏せた。

「倉木くんは、いつから野球してるの?」
「小学一年生から。少年野球にも入ってた」
 答えてから、思えば僕にも野球以外の趣味なんてとくにないなと、ふと気づく。
「わたし昨日ね、はじめてテレビでプロ野球の試合見たよ」
「お、いいね。楽しかったでしょ?」
「それが、ルールがよくわかんなくて……」
「よし、じゃあ教える。簡単だから」
 春野が野球に興味を持ってくれたのがうれしくて、僕は基本的なところだけかいつまんでルールを説明した。
 攻撃と守備の流れ、どうすれば点が取れるのか、どうすればアウトが取れるのか。
 春野は、そこまで真剣にならなくても、というぐらい真剣な顔で僕の説明を聞いてくれた。時折手元のノートにメモまでとっていた。

「とりあえず、今日またテレビで試合見てみる」
 僕が説明を終えると、春野は満足げに手元のメモを眺めながら言った。
「退院したら、倉木くんの試合も見にいきたいな」
「うん、見にきてよ」
「倉木くんどのポジションなの?」
「今はサードが多いかな。たまに外野もするけど」
「じゃあ今日は、サードの選手に注目して見てみよう」
 弾む声でそんなことを呟く春野に、ちょっと照れた。