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 八月の頭だった。
 部活中にデッドボールを指に受けた僕は、その日はじめて、市内でいちばん大きな総合病院を訪れていた。

 検査の結果、薬指の骨にヒビが入っていることがわかった。しばらく治療のため通院することになり、医師からはまた明日診せにくるよう告げられた。
 ギプスで固定してもらった指を気にしながらゆっくりと帰っていたとき、通り過ぎようとしたロビーに、見覚えのある横顔を見つけた。

「――えっ、春野?」
 思いがけない姿に、僕は思わず声をかけていた。
 まさかこんなところで、クラスメイトに出会うなんて思わなかったから。
 しかも春野は私服ではなく、青い水玉模様のパジャマを着ていた。一目で入院患者とわかる出で立ちで、背中を丸めるようにしてロビーの椅子に座っている。

 見れば、彼女は膝の上にノートを広げ、それになにかを描いていた。そのせいか、声をかけるまで近づいてくる僕に気づかなかったらしい。
「へっ」急に呼ばれた名前に、びくっと身体を震わせた春野は、拍子に膝の上にあったノートを落とした。軽い音を立て、ノートが床にぶつかる。

「あっ、ごめん」
 驚いた顔でこちらを振り向いた春野に、僕はあわてて謝る。そうして床にしゃがむと、彼女が落としたノートを拾おうとした。
 ノートは開いた状態で落ちていた。そのせいで、僕にはそこでノートの中身が見えた。
「わ」
「あっ」
 僕の驚いた声と、春野の引きつったような声が重なった。
 春野が咄嗟にノートのほうへ手を伸ばしかけたようだったけれど、それより先に僕はノートを拾っていた。
「え、すご!」そこに描かれたものを眺め、感動して声を上げる。
「なにこれ、春野が描いたの!?」
「あ、う……うん」
「え、めちゃくちゃ上手いじゃん! こんなん描けるんだ、すご!」

 見開き一面にシャーペンで描かれていたのは、漫画だった。少女漫画のようなキラキラとした絵柄は繊細で、普通に上手い。
 興奮気味に春野のほうを振り返ると、彼女はぽかんとした顔で僕を見ていた。
 こちらへ伸ばしかけた手を中途半端な位置に浮かせたまま、短くまばたきをする。そうして、
「……上手い?」
 と掠れた声で聞き返してきた。
「うん」と僕は力いっぱい頷いてみせる。
「上手いよ、めっちゃ。すごいな、背景もめっちゃ細かく描き込んである」
「あ……入院中、暇だから……描き込む時間があって」
 漫画をまじまじと眺めながら僕が感心していると、春野はうつむいてぼそぼそと答えた。
 それからふと、思い出したように顔を上げて、
「倉木くんは、どうしたの。なんでここに」
「ああ、部活中に怪我しちゃって。指をちょっと」
「大丈夫?」
「うん。全然たいした怪我じゃない」

 そこで僕は、漫画に気を取られて訊き忘れていたことをようやく思い出した。
「春野は?」
 訊ねながら、彼女の隣に座る。
「え」
「なんで入院してるの?」
 そう質問を重ねたあとで、はっとした。春野の顔が軽く強張るのを見たから。
「あ、ごめん」デリカシーがなかったことにすぐに気づき、僕はあわてて謝ると、
「言いたくなかったらいいよ」
「あ、ううん、べつに……ちょっと、心臓の病気で」
 心臓。その単語に少し動揺してしまったのを悟られないよう、
「そうなんだ。いつから入院してるの?」
 僕は何気ない調子で質問を重ねた。
「えっと、今回のは七月二十日から……」
「え、じゃあ夏休み始まってからずっとだ」
 今回の、という春野の言い方は、彼女の入院がはじめてではないことを示していた。
 そういえば春野はこれまでも、一ヵ月ほど長期で学校を休んでいた時期があった。理由を聞いたことはなかったけれど、あれも入院のためだったのだろうか。

「そうなの。だから暇でしょうがなくて、漫画なんて描きはじめちゃった」
「前から描いてたの?」
「ううん、今回はじめて描いた。読むのはずっと好きだったんだけど」
「え、はじめてでこれ? やばくない? 漫画家になれるよ」
 僕が力を込めて告げると、春野はくすぐったそうに目を伏せて、
「それは無理だよ」
「いやなれるって。マジで上手いし」
「……でも、病気だし」
「関係ないでしょ。描けてるし。てか春野、これ続きは? ここまでなの?」
 話しながら春野の漫画を眺めていた僕は、めくったページの先が真っ白だったことにがっかりして、春野に訊ねた。
「あ、うん。まだそこまでしか描けてない」
「続きも描くんだよね?」
「……どうだろう。気が向いたら」
「え、描いてよ。続き読みたい。ここで終わってんのモヤモヤするし」
 春野の漫画は、ヒロインがヒーローらしき男子に告白したところで終わっている。開始二ページでいきなり告白しているのもなかなかびっくりしたし、ヒーローの反応的にヒロインが振られそうな気配なのも気になる。

 僕の言葉に春野は顔を上げると、こちらを見た。
「読みたい?」
 ぱちぱちとまばたきをしながら、ゆっくりと訊き返してくる。
「うん」と僕は強く相槌を打った。
「僕が読みたいから、描いてよ」

 それから、ロビーの椅子に並んで座ったまま、しばらく春野と話をした。
 小さな頃から病気がちで、入退院を繰り返していること。そのせいでしばしば学校を休んでいたこと。入院中の暇つぶしには昔からもっぱら漫画を読んでいたこと。少女漫画も少年漫画もなんでも読むこと。対して活字はまったく読めず、すぐに眠くなってしまうこと。
 久しぶりの同級生との会話がうれしかったのか、春野はよくしゃべった。

「天気が良い日はね、中庭をお散歩するんだけど」
 入院中の一日の過ごし方を僕に教えてくれていた春野は、そこでふっと窓のほうに視線を飛ばし、
「雨の日はお散歩できないから、わたし、雨って嫌いで」
 彼女が見つめる窓の外は、薄暗く、細い雨粒が窓の表面を流れ落ちている。数日前から降り出した雨は、今も断続的に降り続いていた。
「わかる」
 恨めしげな彼女の口調に、僕も心底同意して相槌を打つと、
「僕も雨は嫌い。野球できないし。プロ野球の試合も中止になるし」
「倉木くん野球するの?」
「三年間野球部だよ」
「え、うそ。なんかバット持ってるの想像つかない」
「どういう意味? いいや、じゃあ退院したら野球してるところ見にきてよ。わりと上手いから」
「……うん。見たいな」
 呟いて、春野はふいに目を伏せると、
「雨ね、ずっと、ずっと嫌いだったんだけど」
「ん?」
「今日は、雨が降ってよかったな」
 噛みしめるように彼女が口にしたその言葉の意味は、よくわからなかった。