中学時代より少しだけ伸びた気のする、ショートボブの色素の薄い髪。一度も太陽の光を浴びたことがないような、真っ白い肌。まっすぐにこちらを見据える、茶色い瞳。
半年前とほとんど変わらない姿に、すぐに記憶がよみがえる。
春野花耶。
中三のときのクラスメイト。
彼女との関係を説明するとしたら、それ以外の表現は思いつかない。
間違いなく、友達と呼べるほど親しくはなかった。だけどその顔も名前も、僕はしっかりと覚えていた。
中学を卒業するよりだいぶ前に彼女は学校に来なくなっていたから、他のクラスメイトよりいっしょに過ごした期間は短いけれど、それでも他のクラスメイトより、僕は彼女のことをよく覚えていた。
「うれしいな」
「え?」
「倉木くん、わたしのこと覚えててくれたんだ」
そんなことを考えていたら、僕の反応を見て春野がうれしそうに顔を輝かせる。
かすかに紅潮した頬が間近に見えて、僕はそこでようやく我に返って視線を外した。
「最後に倉木くんと会ったの去年の十月だから、半年ぶりぐらいだよね。もう忘れられてるかもって、ちょっと心配だったんだ」
「……覚えてるよ、そりゃ」
忘れる、わけがない。
正直ろくに関わりのなかった他のクラスメイトの記憶はもうおぼろげだけれど、春野のことはきっと、忘れたくても忘れられなかっただろう。
あの日、泣いていたひまりの姿といっしょに、記憶にこびりついてしまっている。
久しぶりに見た春野の顔に、にわかにあの日の衝撃がよみがえってきた気がして、すっと身体の芯が冷えたとき、
「ね、それより倉木くんさ、今バイト探してるんでしょ?」
これが本題だというように、意気込んだ調子で春野が話を戻した。僕の顔を覗き込むように、軽く身を乗り出してくる。
「浮かない顔してたけど、なかなか良いところが見つからない感じ?」
「……まあ」
僕が曖昧に頷けば、春野がなぜかうれしそうに笑って、
「それならさ、良いバイトがあるんだけど!」
「え」
思いがけない言葉が続いて、僕は春野のほうを見た。
目が合うと、彼女は僕に向けて指を三本立ててみせ、
「三十万」
「は?」
「三十万円、払うから」
まっすぐに僕の目を見据えたまま、春野が重ねる。顔は笑っていたけれど、その目は怖いぐらいに、真剣だった。
「倉木くんの一週間を、わたしに買わせて?」
ゆっくりと告げられたその言葉は、聞き間違えようもないほどくっきりと、耳に響いた。
「……は?」
それでも咄嗟に、なにを言われたのか理解できなかった。
ぽかんと春野の顔を見つめ、僕は間抜けな声をこぼす。そのあいだも春野は視線を揺らさず、ただじっと僕の目を見つめ返していた。
冗談ではないのだと、それだけは、その目から読み取れた。
「なに、どういうこと」
乾いた声で、なんとかそれだけ聞き返せば、
「一週間だけでいいから、倉木くんの時間を買いたいの。今日が月曜日だから、来週の日曜日までの七日間。三十万円で、わたしといっしょに過ごしてほしい。もちろん平日は学校が終わったあとの放課後だけでいいから、どうかな?」
「いや、どうかなって……」
丁寧に説明されても、理解は追いつかない。
なにを、言っているのだろう。
三十万円で、僕の時間を買う?
「買って、なにするの」
「いっしょに過ごすだけだよ。わたしと遊んでほしい。わたしの行きたいところに、付き合ってほしいの」
「いや、意味わかんない。それで三十万?」
「うん。大丈夫、ちゃんとあるよ」
僕がなにを疑っていると思ったのか、春野はおもむろに膝の上に置いていたハンドバッグを開けると、中から茶封筒を取り出した。
「ほら」と封筒の口をこちらに向けて開いて、中を見せてくる。たしかにそこには分厚い札束らしきものが見えて、なんだか軽く目眩がした。
「前払いでいいよ。倉木くんが受けてくれるなら、今ここで、このお金、倉木くんにあげる」
「いや、ちょっと待って……」
押し寄せてくる困惑に、僕は右手で額を押さえながら春野の顔を見ると、
「なんで、そんなこと。なんのために?」
「倉木くんと、いっしょに一週間過ごしたいから」
「いや、だからなんで。なんで僕と」
「ずっと、好きだったんだ、わたし」
ふいに耳を打った切実な言葉に、一瞬息を止めた。
春野はちょっと照れたように表情を崩すと、指先で頬を掻きながら、
「中学のときから。わたし、ずっと倉木くんが好きだったの。だから倉木くんといっしょに過ごしたい。だけどそれはわたしだけで、倉木くんはわたしのこと、好きじゃないでしょ?」
そんなことない、と言うべき場面だったのかもしれないけれど、僕は言えなかった。
包帯を巻いた足を引きずり、青い顔をして教室に戻ってきた沙和の姿が、なぜかそこで一瞬、頭に浮かんだ。
「だから」
春野はそんな僕の気持ちもすべて心得ているような表情で、静かに続ける。
「タダで時間をもらえるなんて思ってない。ちゃんと買うよ。倉木くんの一週間を、三十万でわたしに買わせてください」
僕は心底困惑しながら、そんな春野の真剣な顔を見つめていた。
ずっと好きだった。
生まれてはじめて向けられた、告白の言葉を反芻する。それでも湧いてくるのは、喜びとは程遠い、困惑だけだった。
だって、わからない。なんで、
「……なんで、僕なの」
春野に好かれるようなことをした覚えはない。そもそも、彼女とはあまり関わりがなかった。クラスメイトだったのだから何度か話したことぐらいはあるけれど、それだけだ。
思えばあの頃から、僕はずっと春野に困惑していた。しばしば話しかけてくる彼女に、どう対応すればいいのかわからずにいた。
教室で顔を合わせるなり、『野球やめたって本当?』と怒ったような表情で訊いてきたり、その翌日、突然漫画本を十冊ほど持ってきて、『これ面白いから貸してあげる』なんて言ってきた彼女に。
「なんでって、うーん」
僕の質問に、春野は顎に手をやり、考え込むような表情になる。そうしてしばし、難しい顔で宙を睨んだあとで、
「うれしかったから」
「え」
「去年の夏休みに、病院でわたしたち何回か話したでしょう。あれがすごく楽しくてね、それにうれしかったの。わたし、それまで、あんなふうにおしゃべりできるような友達っていなかったから」
言われて、ふいに記憶が手繰り寄せられる。
教室で、彼女から話しかけられるようになる少し前。
たしかに僕は病院で、何度か春野に会っていた。野球の試合で怪我をして、通院していた市立病院に、春野がいたから。
彼女は入院していて、病院に行けばいつも談話室にいた。だから通院のついでに、彼女とも少し話をするのが日課になっていた。春野とまともに話したのは、そのときがはじめてだった。
たしかにそのときの春野は、楽しそうにしてくれていたような気はするけれど、
「……いや、それだけ?」
答えを聞いても疑問は晴れず、僕は眉を寄せる。
話をしたといっても、本当に他愛のない会話だけだった。彼女を喜ばせるようなことを言った覚えはない。だから今この瞬間まで、自分が春野に好意を向けられているなんて、まったく考えたこともなかった。
けっきょく春野とは連絡先の交換もしなかったし、彼女がなんの報告もなく学校に来なくなったあとは、一切の関わりがなくなっていたから。
「うん。それだけじゃだめ?」
だけど春野は迷いなく言い切って、ちょっと困ったように首を傾(かし)げる。
「いや、だめっていうか……」
そう無邪気に訊ねられると返事に詰まって、僕は口ごもる。
わからない。あんな関わりの中で、いったい僕なんかのどこを好きになったのだろう。
たしかに春野は、クラスでは少し浮いている感じの女子だった。休み時間も、誰と話すでもなく、ひとり黙々と漫画を読んでいた姿を覚えている。
だけどべつに、それで嫌われているというわけではなかった。彼女に友達がいなかったのは、ただ単に、彼女があまり学校に来ていなかったからだ。
実際、春野ともっと仲良くしたいと思っていたクラスメイトは多かったはずだ。女子のあいだでの評判はよく知らないけれど、少なくとも男子のあいだでの春野の人気はわりと高かった。単純に、春野の見た目がかわいかったから、というその一点で。
だからきっと、その気になれば彼氏のひとりぐらい、春野には簡単に作れたはずだ。べつに、僕しかいなかったから、なんていう卑屈な理由で、こんなパッとしない男にこだわらなくても。
「とにかくわたしは、ずっと好きだった倉木くんと、一週間いっしょに過ごしたいんです」
理解が追いつかずにいる僕を待たず、春野は真剣な口調で畳みかけてくる。
「わたしの片思いなのはわかってるから、ちゃんと対価は払うし。すごく割の良いバイトだと思うけどな。一週間で三十万。ね、どうかな?」
「……いや、どうもこうも」
本気なのだ。
まっすぐな目で見つめてくる春野に、それだけは嫌になるほど、理解した。
また軽く目眩を覚えながら、僕は黙って春野の持つ茶封筒に目を落とす。
春野が、本気で言っているのだとしても。
……ありえないだろう。一週間で三十万なんて、割が良いどころじゃない。どう考えてもおかしな話だ。三十万は、こんなに簡単に手に入れていい金額じゃない。
僕は目を伏せ、短く息を吸う。そうして、無理だよ、とゆっくり告げようとしたときだった。
ふいに、声が喉の奥で絡まった。
……手術。
脳裏を、そんな単語がよぎる。どくん、と耳元で心音が鳴った。
もうすぐだと、聞いている。
ひまりの病気を治すための、手術の日は。
母は僕を心配させるようなことは言わない。お金のことなんて、僕の前ではなにひとつ口にしない。だけどもちろん、手術費が決して安くはないことぐらい、僕にもわかる。それだけではない。手術後はしばらく入ることになるという特別個室の入院費も、きっとバカにならないのだろう。
少しでも家計の足しになればと思って始めたバイトも、実際は高校生が稼げる額なんてたかが知れていた。これから先同じように働いたところで、きっとたいした助けにはなれない。
――だけど。
だけど、もし。
今、ここで、この三十万が手に入るとしたら……?
唾を飲み込む。知らず知らず握りしめていた拳に、力がこもった。
「……どうやって」
「ん?」
「どうやって用意したの、こんな大金」
三十万だと春野は言った。中身は確認していないけれど、彼女の様子を見るに、それは間違いないのだろう。ぺらぺらの薄い封筒に入れられたそれは、まるで飴玉でも差し出すかのような軽さで、こちらへ向けられている。
「お小遣い」
「え?」
「わたしのお小遣いだよ。わたしの家、すっごいお金持ちで、お小遣いたくさんもらってるんだ」
また、彼女の言葉を理解するのに、少し時間を要した。
あっけにとられて春野の顔を見ると、彼女はなぜかちょっと困ったように笑って、
「でもね、わたしあんまり買いたいものとかなくて、お金があまっちゃってたんだ。それで考えたの。わたしの欲しいものってなんだろうって。そうしたら倉木くんが浮かんだの。倉木くんしか浮かばなかった。だからこれはもう、倉木くんに使うしかないなって」
恥ずかしい秘密を打ち明けるみたいに、はにかみながら話す春野の顔を、僕は黙って見つめていた。
お小遣い。
彼女の口にしたその単語を、胸の中で繰り返す。
不思議な感覚だった。吉村のギターやスマホを見たときのようなどす黒い感情は湧かず、むしろあらゆる感情が、すうっと引いていくのを感じた。
その言葉を、僕は心のどこかで期待していた気がした。
この三十万を、春野がはした金だと言ってくれることを。
そしてそんな自分に気づいたとき、喉奥から笑いが込み上げてきた。口元が歪む。
「なんだ、それ」
額を押さえていた右手で、ぐしゃりと前髪を握りしめる。顔を伏せると、足元には僕の汚れたスニーカーと、おろしたてのような春野の真っ白いパンプスが並んでいた。
その光景にまた、乾いた笑いが漏れる。
きっと違うのだ、なにもかも。僕と春野は、生きている世界が違う。だから僕にとっての三十万と、春野にとっての三十万は、まったく別物なのだ。
――だったら。
べつに、いいんじゃないのか。
「倉木くん?」
急に笑いだした僕に、春野が戸惑ったように声をかけてくる。
僕は息を吐くと、目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭ってから、顔を上げた。
心配そうに眉を寄せて僕を見ていた春野と、まっすぐに目を合わせる。そうしてすっと息を吸ってから、口を開いた。
「いいよ」
短く返した僕の声は、自分でも驚くほど投げやりに響いた。
「三十万で、春野に売るよ。僕の一週間」
「えっ、ほんとに!?」
「うん。こんな割の良いバイト他にないし」
そう、これはバイトだ。自分の口にした単語を、確認するように繰り返す。
春野もそう言っていた。べつに、春野からただ三十万をもらうわけではない。僕は春野といっしょに過ごすという仕事をする。
春野も言っていたように、僕にとって春野は好きな女の子というわけでもない。むしろどちらかというと苦手で、あまり関わりたくない相手だった。だから対価をもらうのは正当なことだ。金額が釣り合っていないのではないか、とか、そんなことは僕が気にするべきところではない。だって、春野がそれでいいと言っているのだから。
「わあ、よかった!」
僕の答えにぱっと顔を輝かせた春野が、茶封筒をあらためて僕のほうへ差し出してくる。うれしそう、というより、どこかほっとしたような笑顔で。
「じゃあ一週間よろしくね、倉木くん!」
それは本当に、なんのためらいもない渡し方だった。三十万というお金に対して少しの未練も執着も感じない、まるで本当にいらないものみたいに。
いや、みたいではなく、本当にいらないのだろう。はした金なのだから。春野にとっては。何日働けば稼げるのかと、僕が考えることすら嫌になったその金額が。
考えているとまた苦い笑いが込み上げかけて、僕は唇を噛む。振り払うように目を伏せ、差し出された封筒へゆっくりと手を伸ばす。
受け取ると、見た目以上にその封筒は重量感があって、三十万という金額を実感した。
「よし、じゃあさっそく行こっか!」
僕の手に封筒が渡るなり、春野がきびきびと言って立ち上がる。僕にふたたび迷いが生じる隙を与えないような早さだった。
「え、どこに」
「とりあえず今日はね、恋木神社に行こ!」
そう告げた春野の声に重なるように、電車の到着を告げるベルが鳴った。まもなく上り電車がまいります、とアナウンスが続く。
「恋木神社?」
彼女が挙げたのは、地元にある縁結びの神社だ。
困惑する僕にかまわず、電車はさっさと目の前の線路に滑り込んでくる。
「さ、行こ!」と楽しそうな春野に促されるまま、僕たちはふたりでその電車に乗り込んだ。
「さて、まずは契約の内容を確認しておこうか」
扉近くのボックス席が空いていたので、向かい合う形で座ったところで、春野がちょっとあらたまった調子で口を開いた。
「契約?」
「うん。アルバイト契約の内容。大事でしょ?」
電車が動きだし、走行音のせいで声が少し聞き取りづらくなる。
春野は軽くこちらへ身を乗り出すようにして、「まずはね」とさっきまでよりいくらかはっきりとした声で話しだすと、
「期間は、さっきも言ったけど、今日から来週の日曜日までの七日間。時間は、学校が終わったあとの放課後、七時ぐらいまで大丈夫かな? 倉木くんって門限何時?」
「門限とかとくにないよ」
むしろ門限を気にしないといけないのは春野のほうじゃないのか。お金持ちのお嬢様らしいし。そんなことを思ったけれど、あえて言いはしなかった。
「そっか。ちなみに今週の放課後は毎日空いてるの?」
「空いてる」
「そういえば倉木くん、部活は? 野球してないの?」
思い出したように春野が口にしたその単語に、ちりっと口の中に苦みが広がる。
「……してないよ。もうやめた」
「え、なんで?」
「時間もお金もないし」
話題を打ち切るように素っ気なく返せば、春野もなにか察したようにそれ以上は訊いてこなかった。
「そっか」となんとなく神妙な声で相槌を打ってから、
「それで、土日だけどね」
と気を取り直すように話を戻した。
「できれば土日は朝から夕方まで、一日時間をもらいたいんだけど、いいかな?」
「いいよ」
三十万ももらうのだから、さすがにそれぐらいはしようと思っていた。
それでも時給換算すればえげつない金額になることに違いはないだろうけれど、そこについてはもう気にしないことにする。有り余るほどお金を持っているやつが、自分の好きなようにお金を使っているだけなのだ。僕が気にする必要はない。
「よかった。じゃあ土日、空けておいてね。予定入れちゃだめだよ」
「わかった」
言われなくても、バイトが入らない限り、もともと僕に土日の予定なんてない。野球もやめたし、友達とどこか遊びにいくなんてことも、もうぜったいにない。そんなことに使えるお金はないから。
「次に遊ぶ場所だけど、基本的にわたしの行きたいところに付き合ってもらいます」
「うん、それでいいよ」
僕のほうには春野といっしょに行きたい場所なんてとくにないのだから、むしろそうしてもらわなければ困る。
「そこで使うお金も、ぜんぶわたしが出します。だから倉木くんはお財布持ってこなくていいよ」
「いや、そのお金はこの三十万から出せばいいんじゃ」
「ううん、それは倉木くんの時間代だもん。別途経費はこっちで出すよ、もちろん」
「……それはどうも」
春野がそう言うのなら、もうなにも考えず、言われたとおりにすることにした。一円も使わなくていいのなら、それに越したことはない。
「それで、僕はどんな感じにすればいいの」
「ん、なにが?」
「いっしょにいるあいだ、春野の彼氏っぽく振舞ったほうがいいの? どういう感じで春野といっしょに過ごせば」
くわしくは知らないけれど、そういうサービスがあることはちらっと聞いたことがあった。レンタル彼女とか、レンタル彼氏とか。お金を払って、疑似恋人としてデートをしてもらう。
三十万ももらって、ただただいっしょに過ごすだけでいいとはさすがに思えなかったので、春野が望んでいるのもそういうことなのかと思ったけれど、
「えっ!? いや、か、彼氏なんてそんなっ!」
春野はなぜかぎょっとしたように大声を上げ、両手をぶんぶんと顔の前で振った。彼女の顔が耳まで赤くなったのを見て、僕までぎょっとしながら、
「いや、本当に彼氏になるわけじゃなくて、その、いっしょに遊ぶあいだだけ……」
「そんなそんな、とんでもない! ふつうでいいよふつうで! 倉木くんにわたしの彼氏なんてそんな、振りでも申し訳なさすぎる! めっそうもないです!」
本気で焦ったように全力で首を横に振る春野に、僕のほうがなにか変なことを言ってしまったような気がして、急に恥ずかしくなった。
「あ……そ、そうですか」
「うん! ああ、びっくりした」
春野は赤くなった頬を冷ますように、自分の手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、
「倉木くんはべつに、わたしになにもしてくれなくていいんだよ」
「なにも?」
「うん。ただ、わたしといっしょに一週間過ごしてくれれば。わたしはただ、それだけでいいんだ」
穏やかな声で言い切った春野は、本当に、心からそう思っているように見えた。
降車駅に着いたときには、雨はやんでいた。
見れば春野の持ち物は小さなハンドバッグだけで、傘の類はなにも持っていない。だから雨がやんでくれていたことに、僕は少しほっとしていた。
もし雨が降っていたら、駅から神社までの道中、彼女を僕の傘に入れて歩かなければならないのだろうかと思っていたから。
市街地から少し離れ、お店の代わりに田んぼと民家が増えてきた街並みの中に、目的の神社はあった。
全国でもめずらしい『恋命』を祀る神社として、このあたりでは人気の観光名所となっている恋木神社も、平日の夕方はひとけがなかった。
緑が深く、風が街中よりも涼しく感じる。
「わー、かわいい!」
カラフルなハートの陶板が敷き詰められた参道を見つけるなり、春野がはしゃいだ声を上げた。参道だけでなく、入り口に置かれた石碑や灯篭など、境内のいたるところにハートのモチーフはちりばめられている。
キラキラした目でそれを見渡している彼女に、僕はふと怪訝に思って、
「まさか、ここ来るのはじめてなの?」
僕の家は、この神社の徒歩圏内にある。そしてたしか、春野の家も近かったはずだ。中学の頃、家の方向が同じだという春野と、何度かいっしょに帰ったことがある。
若い女性向けに全振りしたような神社なので、このあたりに住んでいる女子なら、当然一度は来たことのある場所だろうと勝手に思っていたけれど、
「うん、はじめて来た!」
「え、マジか」
お嬢様はこんな庶民的な場所には来ないものなのだろうか。やっぱり、住む世界が違う人間のことはよくわからない。
「倉木くんは来たことあるの?」
「そりゃ何回かは」
「えっ、恋愛祈願に来たの?」
「いやべつに、ふつうに散歩で」
「あ、そっか。倉木くんの家、この近くだったもんね」
思い出したようにそんなことを呟く春野に、僕はふと眉を寄せる。
「春野もでしょ?」
「え?」
「春野の家も、この近くなんじゃないの」
言うと、なぜか一瞬、春野はきょとんとした顔をした。なにを言われたのかわからなかったみたいに。
だけどすぐに、「あっ、うん、そう」と笑顔に戻って頷くと、
「でも今まで来たことはなかったよ。ね、じゃあ倉木くん、案内してくれる?」
そう言って、楽しそうに参道の先を指さした。
案内と言っても、こぢんまりとした神社だ。参道を歩いた先にある鳥居にたどり着くまで、三分もかからず終わった。
御神紋であるハートのモチーフがほどこされた鳥居をくぐった先には、鮮やかなピンク色の御社があり、その横にはずらりと絵馬が吊るされている。
わあ、とそこでまた春野は黄色い声を上げ、
「すごーい。神殿までかわいい! 映えるね、これは!」
「写真撮ってあげよっか?」
「え、ほんと!?」
なんとはなしに向けた提案に、春野がぱっと顔を輝かせる。そうしてバッグからスマホを取り出しかけたようだったけれど、途中でふと思い直したように手を止めた。「あ、ううん」独り言のように呟いて、そのままなにも持たずにバッグから手を出す。
「やっぱりいいや。ありがとう。それより、早くお参りしよう」
そう言って春野はさっさと御社の前まで進むと、財布を取り出した。
がま口の部分を開け、おもむろに手のひらに向けてひっくり返す。じゃらじゃらと音を立て、軽く十枚以上の小銭が春野の小さな手のひらに落ちてきた。
それをしっかりと握りしめながら、春野は賽銭箱のほうへ歩み寄る。そうして迷いなく、手の中にある小銭を、すべてその中にこぼした。
こんな豪快なお賽銭の入れ方をする人を見たのははじめてだった。
がらららと派手な音を立てながら、小銭が賽銭箱の中に消える。
あっけにとられてその様子を見ている僕にかまわず、春野はそのまま手順に沿って鈴を鳴らした。二回お辞儀をしてから、ぱんぱんと手を叩く。そうして目を閉じると、手を合わせ、じっとなにかを祈りはじめた。
長いこと、春野は動かなかった。
三分は経っただろうか。いつまでこうしているのだろう、と僕がちょっと心配になってきた頃、ようやく彼女は目を開け、こちらを振り向いた。
「おまたせ」と少し照れたように笑う。
「……ずいぶんたくさん願いましたね」
「なんかね、願いはじめたら止まらなくなっちゃった。倉木くんは? お参りしないの?」
「いい。べつにここで願うようなことないし」
「え、好きな人とかいないの?」
その質問がなんともさらっとした調子で向けられたことに、僕はちょっと驚いた。春野の顔を見ると、彼女はその口調と同じさらっとした表情で、僕を見ている。
僕に好きな人がいてもべつにいい、と思っていそうなその表情に、なんとなく困惑しながら、
「……いないよ」
「そっか」と春野はあいわらずあっさりとした声で相槌を打って、
「でもせっかくだし、なにか願ったら? べつに恋愛関係以外のことでもいいんじゃないのかな」
「いいのかな。ここ、恋愛専門の神様っぽいけど」
「いいよいいよー、そんな固く考えなくても。せっかく来たんだから願っちゃおう、ほら」
なぜか春野に許可をもらって、僕も御社の前へ進む。お賽銭は省略させてもらうことにして、春野に倣って鈴を鳴らし、お辞儀をした。ぱんぱんと手を叩き、目を閉じる。
なにを願おう。考えたとき、真っ先に浮かんでしまったのは、『お金が欲しい』だった。
だけど神様へ向けるにはさすがにゲスすぎる願いのような気がして、やめておく。代わりに、少し考えてから、『ひまりの病気が早く治りますように』と願っておいた。
「なに願った?」
「……家族の健康」
「おお、いいね!」
なにがいいのかはわからないが、春野は笑顔でぐっと親指を立ててみせてから、
「そういえば、ひまりちゃん元気にしてる?」
僕の口にした家族という単語で思い出したらしい。笑顔のまま向けられた質問に、口の中でかすかに苦い味が広がる。
適当に頷いておこうかと、僕は少しだけ迷ってから、
「……元気ではない。入院してる」
「え、あれからずっと?」
「いや、何回か退院もしたけど、けっきょくまたすぐ入院して、の繰り返し」
ひまりは、年の離れた僕の妹だ。今は六歳で、本来なら、今年の四月、小学校に入学するはずだった。
ひまりは入学式を楽しみにしていた。去年の夏に買ってもらったランドセルを、毎日うれしそうに眺めていた。
だけど去年の秋に心臓の病気が見つかったせいで、ひまりの日々は一変した。
家にもほとんど帰れず、毎日たくさんの薬を飲む、闘病生活が始まった。
まだ、たったの六歳なのに。楽しみにしていた入学式にも出られず、半日迷って選んだ水色のランドセルも、まだ一度も背負えないままで。
本当に不運でかわいそうな、僕の妹。
「そうなんだ。大変だね」
僕の話に、春野は神妙な顔になって目を伏せると、
「あの、腕の傷は?」
「もうほとんど消えてる。頭のほうの後遺症もないし、そっちはたぶんもう大丈夫」
「そっか。……よかった」
なんとなく空気が重くなって、僕たちは無言のまま鳥居をくぐり、参道のほうへ戻った。
「沙和ちゃんとは」
春野がその名前を口にしたのは唐突だった。だけどなんとなく、さっきまでの話題と一続きのように聞こえた。
春野の声で形作られたその響きに、どくん、と心臓が嫌な跳ね方をする。
え、と聞き返しながら春野のほうを見ると、
「沙和ちゃんとは、今も会ってるの?」
静かな目でこちらを見据える彼女と目が合い、一瞬、ざわりと胸の奥が波立った。
包帯の巻かれた沙和の足が、その日以降、僕を避けるようになった沙和の強張った顔が、また久しぶりに、瞼の裏で弾けた。
冷たい唾が喉に落ちる。
僕は短く息を吸うと、できるだけなんでもない口調になるよう努めて、
「……会ってないよ。中学卒業してから全然。高校違うし」
「そっか」とだけ相槌を打って、春野はそれ以上なにも言わなかった。
「――じゃあ、今日はここで解散にしよう!」
神社の入り口まで戻ってきたところで、足を止めた春野が、やけに明るく僕に告げた。神社に着いた頃はまだ黄金色だった日差しも、気づけばすっかり赤く染まっている。
「ここで解散でいいの?」
本当に、ただいっしょに過ごすだけだった。はじめて訪れた神社に、春野は楽しそうな様子ではあったけれど、それはべつに僕の力ではなく、この神社が魅力的だったおかげだ。
三十万ももらっているのに僕はとくになにもしていないことが、やっぱりどうしても気になって、
「家まで送ろうか?」
「え!?」
どうせ近くだし、と思ってそんな提案をしてみたけれど、素っ頓狂な声を上げた春野は、すぐに首を横に振った。
「いいよいいよ! そこまでしてもらうのは申し訳ないし!」
「べつに、そこまでってほどのことじゃないと思うけど」
むしろ三十万の対価としては、これでもぜったいに足りないと思う。
けれど春野は、「いいの、本当に!」ともう一度はっきりとした口調で言い切って、
「それにわたしね、ちょっとここに残ってやることがあるし」
「やること?」
「うん、だから今日はここで解散。あ、そうだ、その前に明日の確認だけしておかなきゃ」
言いながら、思い出したように春野はバッグからスマホを取り出した。それからふと、窺うように僕を見て、
「あの……よかったら、なんだけど」
「うん」
「倉木くんの連絡先、教えてもらえる?」
おずおずと向けられた質問には、とくに迷う間もなく、「いいよ」と頷いた。むしろ春野が言い出さないなら、僕のほうから訊いておこうと思っていたことだった。
「ありがとう!」
ほっとしたように息を吐いた春野と、メッセージアプリのIDを交換する。
画面に現れた春野のアイコンは、どこかの庭を写した写真だった。なんとなく見覚えがある気もしたけれど、小さな画像ではよくわからない。
「じゃあ、明日の集合場所とか時間とか、あとで送るから見てね!」
「了解」
そんな確認をしてから、僕たちは神社前で別れた。
しばらく歩いたところで、なにげなく後ろを振り返ってみる。
春野はまだ別れた場所にいて、こちらを見ていた。目が合うと、春野はちょっと恥ずかしそうに笑って、胸の前で手を振ってくる。
それに僕も小さく手を振り返しながら、ふいに、半年前もこうして僕に手を振っていた彼女の姿を思い出した。
去年の夏休み。病院で別れる僕に、いつも手を振っていた、パジャマ姿の春野を。
***
八月の頭だった。
部活中にデッドボールを指に受けた僕は、その日はじめて、市内でいちばん大きな総合病院を訪れていた。
検査の結果、薬指の骨にヒビが入っていることがわかった。しばらく治療のため通院することになり、医師からはまた明日診せにくるよう告げられた。
ギプスで固定してもらった指を気にしながらゆっくりと帰っていたとき、通り過ぎようとしたロビーに、見覚えのある横顔を見つけた。
「――えっ、春野?」
思いがけない姿に、僕は思わず声をかけていた。
まさかこんなところで、クラスメイトに出会うなんて思わなかったから。
しかも春野は私服ではなく、青い水玉模様のパジャマを着ていた。一目で入院患者とわかる出で立ちで、背中を丸めるようにしてロビーの椅子に座っている。
見れば、彼女は膝の上にノートを広げ、それになにかを描いていた。そのせいか、声をかけるまで近づいてくる僕に気づかなかったらしい。
「へっ」急に呼ばれた名前に、びくっと身体を震わせた春野は、拍子に膝の上にあったノートを落とした。軽い音を立て、ノートが床にぶつかる。
「あっ、ごめん」
驚いた顔でこちらを振り向いた春野に、僕はあわてて謝る。そうして床にしゃがむと、彼女が落としたノートを拾おうとした。
ノートは開いた状態で落ちていた。そのせいで、僕にはそこでノートの中身が見えた。
「わ」
「あっ」
僕の驚いた声と、春野の引きつったような声が重なった。
春野が咄嗟にノートのほうへ手を伸ばしかけたようだったけれど、それより先に僕はノートを拾っていた。
「え、すご!」そこに描かれたものを眺め、感動して声を上げる。
「なにこれ、春野が描いたの!?」
「あ、う……うん」
「え、めちゃくちゃ上手いじゃん! こんなん描けるんだ、すご!」
見開き一面にシャーペンで描かれていたのは、漫画だった。少女漫画のようなキラキラとした絵柄は繊細で、普通に上手い。
興奮気味に春野のほうを振り返ると、彼女はぽかんとした顔で僕を見ていた。
こちらへ伸ばしかけた手を中途半端な位置に浮かせたまま、短くまばたきをする。そうして、
「……上手い?」
と掠れた声で聞き返してきた。
「うん」と僕は力いっぱい頷いてみせる。
「上手いよ、めっちゃ。すごいな、背景もめっちゃ細かく描き込んである」
「あ……入院中、暇だから……描き込む時間があって」
漫画をまじまじと眺めながら僕が感心していると、春野はうつむいてぼそぼそと答えた。
それからふと、思い出したように顔を上げて、
「倉木くんは、どうしたの。なんでここに」
「ああ、部活中に怪我しちゃって。指をちょっと」
「大丈夫?」
「うん。全然たいした怪我じゃない」
そこで僕は、漫画に気を取られて訊き忘れていたことをようやく思い出した。
「春野は?」
訊ねながら、彼女の隣に座る。
「え」
「なんで入院してるの?」
そう質問を重ねたあとで、はっとした。春野の顔が軽く強張るのを見たから。
「あ、ごめん」デリカシーがなかったことにすぐに気づき、僕はあわてて謝ると、
「言いたくなかったらいいよ」
「あ、ううん、べつに……ちょっと、心臓の病気で」
心臓。その単語に少し動揺してしまったのを悟られないよう、
「そうなんだ。いつから入院してるの?」
僕は何気ない調子で質問を重ねた。
「えっと、今回のは七月二十日から……」
「え、じゃあ夏休み始まってからずっとだ」
今回の、という春野の言い方は、彼女の入院がはじめてではないことを示していた。
そういえば春野はこれまでも、一ヵ月ほど長期で学校を休んでいた時期があった。理由を聞いたことはなかったけれど、あれも入院のためだったのだろうか。
「そうなの。だから暇でしょうがなくて、漫画なんて描きはじめちゃった」
「前から描いてたの?」
「ううん、今回はじめて描いた。読むのはずっと好きだったんだけど」
「え、はじめてでこれ? やばくない? 漫画家になれるよ」
僕が力を込めて告げると、春野はくすぐったそうに目を伏せて、
「それは無理だよ」
「いやなれるって。マジで上手いし」
「……でも、病気だし」
「関係ないでしょ。描けてるし。てか春野、これ続きは? ここまでなの?」
話しながら春野の漫画を眺めていた僕は、めくったページの先が真っ白だったことにがっかりして、春野に訊ねた。
「あ、うん。まだそこまでしか描けてない」
「続きも描くんだよね?」
「……どうだろう。気が向いたら」
「え、描いてよ。続き読みたい。ここで終わってんのモヤモヤするし」
春野の漫画は、ヒロインがヒーローらしき男子に告白したところで終わっている。開始二ページでいきなり告白しているのもなかなかびっくりしたし、ヒーローの反応的にヒロインが振られそうな気配なのも気になる。
僕の言葉に春野は顔を上げると、こちらを見た。
「読みたい?」
ぱちぱちとまばたきをしながら、ゆっくりと訊き返してくる。
「うん」と僕は強く相槌を打った。
「僕が読みたいから、描いてよ」
それから、ロビーの椅子に並んで座ったまま、しばらく春野と話をした。
小さな頃から病気がちで、入退院を繰り返していること。そのせいでしばしば学校を休んでいたこと。入院中の暇つぶしには昔からもっぱら漫画を読んでいたこと。少女漫画も少年漫画もなんでも読むこと。対して活字はまったく読めず、すぐに眠くなってしまうこと。
久しぶりの同級生との会話がうれしかったのか、春野はよくしゃべった。
「天気が良い日はね、中庭をお散歩するんだけど」
入院中の一日の過ごし方を僕に教えてくれていた春野は、そこでふっと窓のほうに視線を飛ばし、
「雨の日はお散歩できないから、わたし、雨って嫌いで」
彼女が見つめる窓の外は、薄暗く、細い雨粒が窓の表面を流れ落ちている。数日前から降り出した雨は、今も断続的に降り続いていた。
「わかる」
恨めしげな彼女の口調に、僕も心底同意して相槌を打つと、
「僕も雨は嫌い。野球できないし。プロ野球の試合も中止になるし」
「倉木くん野球するの?」
「三年間野球部だよ」
「え、うそ。なんかバット持ってるの想像つかない」
「どういう意味? いいや、じゃあ退院したら野球してるところ見にきてよ。わりと上手いから」
「……うん。見たいな」
呟いて、春野はふいに目を伏せると、
「雨ね、ずっと、ずっと嫌いだったんだけど」
「ん?」
「今日は、雨が降ってよかったな」
噛みしめるように彼女が口にしたその言葉の意味は、よくわからなかった。
翌日も、雨はやまなかった。
昼過ぎに僕はまた市立病院を訪れ、指の怪我を診せた。
昨日と同じようにギプスで指を固定した医師に、「次は三日後に来てください」と告げられ、診察室を出る。
会計を済ませると、僕は階段で三階へ上がった。
昨日、春野に聞いていた。普段、検査などがない暇な時間は、たいてい三階の談話室で過ごしていること。天気が良い日は中庭を散歩するとも聞いていたけれど、今日は雨だ。
明るい木目のフローリングに、緑を基調とした椅子やテーブルがゆったりと並べられた談話室に、春野はいた。いちばん奥のテーブルに、背中を丸めて座っている。
広々とした談話室にいるのは、春野と、テレビ前のソファに座っているおばあさんだけだった。
近寄っていくと、春野がなにか描いているのが見えた。手元のノートにかじりつくように顔を近づけ、握ったシャーペンを無心にすべらせている。
「――あ、漫画?」
「わっ!」
「続き描いてんだ」
思わずうれしくなって僕が覗き込もうとすると、春野は素早い動きでノートを閉じた。ばん、と勢い余って彼女の手がテーブルを叩いた音が響く。
「く、倉木くん。びっくりした」
「今日も診察だったから」
「……また会いにきてくれたの?」
「退屈してるかと思って」
言いながら、テーブルを挟んだ春野の向かい側に座る。
驚いたようにそんな僕を見つめていた彼女は、一拍置いて、ふわりと表情をほころばせた。「ありがとう」と弾んだ声で笑う。
「本当にね、すっごい退屈だったんだ」
「今日も雨だしね」
「ね。全然やまなくて嫌になっちゃうよ」
そうぼやく春野の顔は、言葉とまったく釣り合わない、にこにこ顔だった。
「漫画、進んだ?」
「けっこう。朝からずっと描いてたから」
「マジで。ちょっと見せて」
「ま、まだ途中だから。完成したら見せる」
あわてたように、ノートを自分のほうへ引き寄せる春野に、
「なんで漫画、自分でも描こうと思ったの?」
ふと浮かんだ疑問を訊ねると、春野は、へ、と聞き返しながら顔を上げた。
「いや、僕も漫画は好きでわりと読むけど、自分で描こうと思ったことはないから。なんか、描こうと思うのがすごいなって」
「……わたし、ずっと読んでたから」
「漫画?」
「うん。小さい頃からずっと。わたしの好きなものって漫画ぐらいしかなくて」
春野はテーブルの上で組んだ自分の手に目を落とし、訥々と続ける。
「小説は読めないし、スポーツとかもできないし。ずっと漫画が唯一の趣味だったのに、最近、漫画を読むのがつらくなってきちゃったの。なんか……毎日楽しそうに生きてる登場人物たちが、うらやましいなって思っちゃうから」
力のない笑みを浮かべる春野の肌の白さが、なぜかそこで目についた。
今まであまり陽の光を浴びたことがないことが伝わる、文字どおり病的な白さだった。
「だからね」
指を何度か組み替えながら、春野は言葉を手繰るようにして続ける。
「読めないなら自分で描いてみようかな、なんて思って。漫画以外、好きなものもないし。でも入院生活はめちゃくちゃ暇だし。だからやむにやまれずというか、消去法みたいな感じで」
「いいじゃん」
自虐するように春野が言うので、僕は思わず口を挟んでいた。
え、と驚いたように言葉を切った春野に、
「たしかに読みたいものがないなら、自分で描くのがいちばんいいと思う。頭良いよ、春野」
「そ……そう、かな?」
「うん。やっぱ春野、そのまま漫画家になっちゃえばいいじゃん。上手いんだし、そんだけ漫画が好きなら。なれるよ、春野なら」
つい勢い込んでまくし立てた僕の顔を、春野は目を丸くして見つめていた。
それから少し間を置いて、
「……ありがとう」
と、はにかんで目を伏せた。
「倉木くんは、いつから野球してるの?」
「小学一年生から。少年野球にも入ってた」
答えてから、思えば僕にも野球以外の趣味なんてとくにないなと、ふと気づく。
「わたし昨日ね、はじめてテレビでプロ野球の試合見たよ」
「お、いいね。楽しかったでしょ?」
「それが、ルールがよくわかんなくて……」
「よし、じゃあ教える。簡単だから」
春野が野球に興味を持ってくれたのがうれしくて、僕は基本的なところだけかいつまんでルールを説明した。
攻撃と守備の流れ、どうすれば点が取れるのか、どうすればアウトが取れるのか。
春野は、そこまで真剣にならなくても、というぐらい真剣な顔で僕の説明を聞いてくれた。時折手元のノートにメモまでとっていた。
「とりあえず、今日またテレビで試合見てみる」
僕が説明を終えると、春野は満足げに手元のメモを眺めながら言った。
「退院したら、倉木くんの試合も見にいきたいな」
「うん、見にきてよ」
「倉木くんどのポジションなの?」
「今はサードが多いかな。たまに外野もするけど」
「じゃあ今日は、サードの選手に注目して見てみよう」
弾む声でそんなことを呟く春野に、ちょっと照れた。
それから僕の通院が終わるまで、談話室にいる春野のもとへ通う日々が続いた。
「わかってくると、野球って面白いねえ」
あれから春野は毎日テレビでプロ野球中継を観るようになって、すぐに細かいルールまで理解していた。
親に野球雑誌まで買ってもらっていて、それを捲りながら楽しそうにしゃべる春野に、
「ハマった?」
「うん。楽しい!」
「描いてる漫画にも、野球要素入れてみれば」
「あ、それいいね!」
二週間もすれば怪我は治り、その後は軽くリハビリがあった。小さな怪我だったし、治るまでの期間も短かったので、リハビリを始めて一週間後には、軽くなら野球をしてもいいという許可が出た。
「春野、野球好きになったって言ってたよね?」
「言ったけど……」
診察を終えるなり、喜び勇んで春野のもとを訪れた僕を、春野はちょっと警戒するような表情で見ていた。
きっと、僕の手にあるふたつのグローブに気づいたからだろう。続く言葉をだいたい予期しているような春野に、僕はおそらくそのとおりの言葉を続ける。
「じゃあ、やろう。今日はちょうど曇ってて涼しいし」
「あの、わたしいちおう病人で……」
「ちょっとキャッチボールするだけだから」
三週間も野球ができずにいた僕は、ついさっき医師が下した許可に、もういてもたってもいられなかった。
中庭は広々としていて、一面に芝生が敷きつめられていた。どこを見渡しても緑が深く、花壇には色とりどりのペチュニアやマリーゴールドが咲き乱れている。
今日は朝から曇った涼しい日だったからか、ベンチには数人の入院患者らしき人たちが座っていた。
「好きって、やりたいってわけじゃないんだけどな……」
春野はしばらくぼやいていたけれど、僕がグローブを渡すと、あきらめたように手にはめていた。
「いくよー」
「や、優しく投げてね?」
「わかってる。――はいっ」
「うわあ!」
上投げでぽんっと放ったボールは、ちょうど春野の胸元あたりに飛んでいったのだけれど、なぜか彼女は思いきり身体をひねってそれを避けた。
「いや、取ってよ」
「無理だよ、速すぎ!」
僕は奥の花壇のほうまで転がっていったボールを拾いにいくと、今度はそれを春野に渡した。
「じゃあ次、春野が投げて」
「ええ……投げれるかな」
「どんな球でも取るから大丈夫」
「おお、言うね」
じゃあいきます、と真剣な顔で宣言した春野は、ぐっと身体をひねり、腕を振り上げた。
まさかの本格的なフォームに面食らっていると、えいっ、という気の抜けた掛け声とともに、放られたボールが彼女の目の前に落ちた。
「……下じゃなくて前に投げるんだよ」
「わ、わかってます。ちょっと間違えちゃっただけ」
「はい、じゃあもう一回」
「まかせてよ、今度こそ!」
春野にボール拾いをさせるわけにはいかないので、彼女がとんちんかんなところに投げるボールをぜんぶ僕が拾いにいっていたら、あっという間に汗だくになった。
「そろそろ終わろっか」
けっきょく、三十分も経たないうちに、僕はそう告げていた。春野の体調が心配になったからと、単純に僕が疲れたから。いくら曇りといっても、今日も気温はそれなりに高い。
「倉木くん大丈夫? 汗すごいよ」
「春野が上手かったからね」
「え、ほんとう? やった」
僕の皮肉が通じなかったらしい春野は、無邪気に喜んでから、
「思ったより楽しかったな、キャッチボール」
「それはよかった。僕は思ったより疲れたな」
「ね、次はいつ来る?」
笑顔で向けられた質問に、僕はちょっと困った。「あー……」と答えに迷って口ごもっていると、
「……あ、もしかして」
すぐに春野は察したように、笑顔を少し強張らせた。
「今日で最後だった?」
「……うん。実は」
あとは自分でリハビリを続けるように、ということで、通院は今日で終わりだと告げられていた。
「そっか」と春野は強張った顔にまた押し出すように笑みを戻して、
「よかったね。おめでとう! じゃあ次は、九月になったら学校で……」
「あのさ」
その笑顔に隠しきれない寂しさがにじんでいるのを見た僕は、思わず口を開いていた。
「また時間があったら来るよ」
「え」
「春野はまだしばらく入院してるんでしょ?」
「う、うん。今月いっぱいは……」
「じゃあ、また。涼しい日があったら、キャッチボール付き合ってよ」
ぽかんと僕を見つめていた彼女の顔に、一拍置いて、弾けるような笑みが広がった。
「……うん! またね!」
心底うれしそうな笑顔で、春野が大きく手を振る。
それに手を振り返しながら、また来よう、と僕は思っていた。入院生活の退屈さは、もう充分すぎるほど春野に聞かされていたから。中学最後の夏休みを、退屈な入院生活で終わらせなければならない気の毒な彼女の、話し相手にぐらいなってやろうと思っていた。そのとき、僕はたしかに、そう思っていた。
だけどそれきり、僕は一度も春野のもとを訪れなかった。
直後にひまりの病気が発覚して、春野のことを考える余裕もなくなってしまった。