降車駅に着いたときには、雨はやんでいた。
 見れば春野の持ち物は小さなハンドバッグだけで、傘の類はなにも持っていない。だから雨がやんでくれていたことに、僕は少しほっとしていた。
 もし雨が降っていたら、駅から神社までの道中、彼女を僕の傘に入れて歩かなければならないのだろうかと思っていたから。

 市街地から少し離れ、お店の代わりに田んぼと民家が増えてきた街並みの中に、目的の神社はあった。
 全国でもめずらしい『恋命(こいのみこと)』を祀る神社として、このあたりでは人気の観光名所となっている恋木神社も、平日の夕方はひとけがなかった。
 緑が深く、風が街中よりも涼しく感じる。

「わー、かわいい!」
 カラフルなハートの陶板が敷き詰められた参道を見つけるなり、春野がはしゃいだ声を上げた。参道だけでなく、入り口に置かれた石碑や灯篭など、境内のいたるところにハートのモチーフはちりばめられている。
 キラキラした目でそれを見渡している彼女に、僕はふと怪訝に思って、
「まさか、ここ来るのはじめてなの?」
 僕の家は、この神社の徒歩圏内にある。そしてたしか、春野の家も近かったはずだ。中学の頃、家の方向が同じだという春野と、何度かいっしょに帰ったことがある。
 若い女性向けに全振りしたような神社なので、このあたりに住んでいる女子なら、当然一度は来たことのある場所だろうと勝手に思っていたけれど、
「うん、はじめて来た!」
「え、マジか」
 お嬢様はこんな庶民的な場所には来ないものなのだろうか。やっぱり、住む世界が違う人間のことはよくわからない。

「倉木くんは来たことあるの?」
「そりゃ何回かは」
「えっ、恋愛祈願に来たの?」
「いやべつに、ふつうに散歩で」
「あ、そっか。倉木くんの家、この近くだったもんね」
 思い出したようにそんなことを呟く春野に、僕はふと眉を寄せる。
「春野もでしょ?」
「え?」
「春野の家も、この近くなんじゃないの」
 言うと、なぜか一瞬、春野はきょとんとした顔をした。なにを言われたのかわからなかったみたいに。
 だけどすぐに、「あっ、うん、そう」と笑顔に戻って頷くと、
「でも今まで来たことはなかったよ。ね、じゃあ倉木くん、案内してくれる?」
 そう言って、楽しそうに参道の先を指さした。

 案内と言っても、こぢんまりとした神社だ。参道を歩いた先にある鳥居にたどり着くまで、三分もかからず終わった。
 御神紋であるハートのモチーフがほどこされた鳥居をくぐった先には、鮮やかなピンク色の御社があり、その横にはずらりと絵馬が吊るされている。
 わあ、とそこでまた春野は黄色い声を上げ、
「すごーい。神殿までかわいい! ()えるね、これは!」
「写真撮ってあげよっか?」
「え、ほんと!?」
 なんとはなしに向けた提案に、春野がぱっと顔を輝かせる。そうしてバッグからスマホを取り出しかけたようだったけれど、途中でふと思い直したように手を止めた。「あ、ううん」独り言のように呟いて、そのままなにも持たずにバッグから手を出す。

「やっぱりいいや。ありがとう。それより、早くお参りしよう」
 そう言って春野はさっさと御社の前まで進むと、財布を取り出した。
 がま口の部分を開け、おもむろに手のひらに向けてひっくり返す。じゃらじゃらと音を立て、軽く十枚以上の小銭が春野の小さな手のひらに落ちてきた。
 それをしっかりと握りしめながら、春野は賽銭箱のほうへ歩み寄る。そうして迷いなく、手の中にある小銭を、すべてその中にこぼした。
 こんな豪快なお賽銭の入れ方をする人を見たのははじめてだった。
 がらららと派手な音を立てながら、小銭が賽銭箱の中に消える。
 あっけにとられてその様子を見ている僕にかまわず、春野はそのまま手順に沿って鈴を鳴らした。二回お辞儀をしてから、ぱんぱんと手を叩く。そうして目を閉じると、手を合わせ、じっとなにかを祈りはじめた。

 長いこと、春野は動かなかった。
 三分は経っただろうか。いつまでこうしているのだろう、と僕がちょっと心配になってきた頃、ようやく彼女は目を開け、こちらを振り向いた。
「おまたせ」と少し照れたように笑う。
「……ずいぶんたくさん願いましたね」
「なんかね、願いはじめたら止まらなくなっちゃった。倉木くんは? お参りしないの?」
「いい。べつにここで願うようなことないし」
「え、好きな人とかいないの?」
 その質問がなんともさらっとした調子で向けられたことに、僕はちょっと驚いた。春野の顔を見ると、彼女はその口調と同じさらっとした表情で、僕を見ている。
 僕に好きな人がいてもべつにいい、と思っていそうなその表情に、なんとなく困惑しながら、
「……いないよ」
「そっか」と春野はあいわらずあっさりとした声で相槌を打って、
「でもせっかくだし、なにか願ったら? べつに恋愛関係以外のことでもいいんじゃないのかな」
「いいのかな。ここ、恋愛専門の神様っぽいけど」
「いいよいいよー、そんな固く考えなくても。せっかく来たんだから願っちゃおう、ほら」

 なぜか春野に許可をもらって、僕も御社の前へ進む。お賽銭は省略させてもらうことにして、春野に倣って鈴を鳴らし、お辞儀をした。ぱんぱんと手を叩き、目を閉じる。
 なにを願おう。考えたとき、真っ先に浮かんでしまったのは、『お金が欲しい』だった。
 だけど神様へ向けるにはさすがにゲスすぎる願いのような気がして、やめておく。代わりに、少し考えてから、『ひまりの病気が早く治りますように』と願っておいた。

「なに願った?」
「……家族の健康」
「おお、いいね!」
 なにがいいのかはわからないが、春野は笑顔でぐっと親指を立ててみせてから、
「そういえば、ひまりちゃん元気にしてる?」
 僕の口にした家族という単語で思い出したらしい。笑顔のまま向けられた質問に、口の中でかすかに苦い味が広がる。
 適当に頷いておこうかと、僕は少しだけ迷ってから、
「……元気ではない。入院してる」
「え、あれからずっと?」
「いや、何回か退院もしたけど、けっきょくまたすぐ入院して、の繰り返し」

 ひまりは、年の離れた僕の妹だ。今は六歳で、本来なら、今年の四月、小学校に入学するはずだった。
 ひまりは入学式を楽しみにしていた。去年の夏に買ってもらったランドセルを、毎日うれしそうに眺めていた。
 だけど去年の秋に心臓の病気が見つかったせいで、ひまりの日々は一変した。
 家にもほとんど帰れず、毎日たくさんの薬を飲む、闘病生活が始まった。
 まだ、たったの六歳なのに。楽しみにしていた入学式にも出られず、半日迷って選んだ水色のランドセルも、まだ一度も背負えないままで。
 本当に不運でかわいそうな、僕の妹。

「そうなんだ。大変だね」
 僕の話に、春野は神妙な顔になって目を伏せると、
「あの、腕の傷は?」
「もうほとんど消えてる。頭のほうの後遺症もないし、そっちはたぶんもう大丈夫」
「そっか。……よかった」
 なんとなく空気が重くなって、僕たちは無言のまま鳥居をくぐり、参道のほうへ戻った。

「沙和ちゃんとは」
 春野がその名前を口にしたのは唐突だった。だけどなんとなく、さっきまでの話題と一続きのように聞こえた。
 春野の声で形作られたその響きに、どくん、と心臓が嫌な跳ね方をする。
 え、と聞き返しながら春野のほうを見ると、
「沙和ちゃんとは、今も会ってるの?」
 静かな目でこちらを見据える彼女と目が合い、一瞬、ざわりと胸の奥が波立った。
 包帯の巻かれた沙和の足が、その日以降、僕を避けるようになった沙和の強張った顔が、また久しぶりに、瞼の裏で弾けた。

 冷たい唾が喉に落ちる。
 僕は短く息を吸うと、できるだけなんでもない口調になるよう努めて、
「……会ってないよ。中学卒業してから全然。高校違うし」
「そっか」とだけ相槌を打って、春野はそれ以上なにも言わなかった。

「――じゃあ、今日はここで解散にしよう!」
 神社の入り口まで戻ってきたところで、足を止めた春野が、やけに明るく僕に告げた。神社に着いた頃はまだ黄金色だった日差しも、気づけばすっかり赤く染まっている。
「ここで解散でいいの?」
 本当に、ただいっしょに過ごすだけだった。はじめて訪れた神社に、春野は楽しそうな様子ではあったけれど、それはべつに僕の力ではなく、この神社が魅力的だったおかげだ。
 三十万ももらっているのに僕はとくになにもしていないことが、やっぱりどうしても気になって、

「家まで送ろうか?」
「え!?」
 どうせ近くだし、と思ってそんな提案をしてみたけれど、素っ頓狂な声を上げた春野は、すぐに首を横に振った。
「いいよいいよ! そこまでしてもらうのは申し訳ないし!」
「べつに、そこまでってほどのことじゃないと思うけど」
 むしろ三十万の対価としては、これでもぜったいに足りないと思う。
 けれど春野は、「いいの、本当に!」ともう一度はっきりとした口調で言い切って、
「それにわたしね、ちょっとここに残ってやることがあるし」
「やること?」
「うん、だから今日はここで解散。あ、そうだ、その前に明日の確認だけしておかなきゃ」
 言いながら、思い出したように春野はバッグからスマホを取り出した。それからふと、窺うように僕を見て、
「あの……よかったら、なんだけど」
「うん」
「倉木くんの連絡先、教えてもらえる?」
 おずおずと向けられた質問には、とくに迷う間もなく、「いいよ」と頷いた。むしろ春野が言い出さないなら、僕のほうから訊いておこうと思っていたことだった。
「ありがとう!」
 ほっとしたように息を吐いた春野と、メッセージアプリのIDを交換する。
 画面に現れた春野のアイコンは、どこかの庭を写した写真だった。なんとなく見覚えがある気もしたけれど、小さな画像ではよくわからない。

「じゃあ、明日の集合場所とか時間とか、あとで送るから見てね!」
「了解」
 そんな確認をしてから、僕たちは神社前で別れた。
 しばらく歩いたところで、なにげなく後ろを振り返ってみる。
 春野はまだ別れた場所にいて、こちらを見ていた。目が合うと、春野はちょっと恥ずかしそうに笑って、胸の前で手を振ってくる。
 それに僕も小さく手を振り返しながら、ふいに、半年前もこうして僕に手を振っていた彼女の姿を思い出した。
 去年の夏休み。病院で別れる僕に、いつも手を振っていた、パジャマ姿の春野を。