「さて、まずは契約の内容を確認しておこうか」
 扉近くのボックス席が空いていたので、向かい合う形で座ったところで、春野がちょっとあらたまった調子で口を開いた。
「契約?」
「うん。アルバイト契約の内容。大事でしょ?」
 電車が動きだし、走行音のせいで声が少し聞き取りづらくなる。
 春野は軽くこちらへ身を乗り出すようにして、「まずはね」とさっきまでよりいくらかはっきりとした声で話しだすと、
「期間は、さっきも言ったけど、今日から来週の日曜日までの七日間。時間は、学校が終わったあとの放課後、七時ぐらいまで大丈夫かな? 倉木くんって門限何時?」
「門限とかとくにないよ」
 むしろ門限を気にしないといけないのは春野のほうじゃないのか。お金持ちのお嬢様らしいし。そんなことを思ったけれど、あえて言いはしなかった。

「そっか。ちなみに今週の放課後は毎日空いてるの?」
「空いてる」
「そういえば倉木くん、部活は? 野球してないの?」
 思い出したように春野が口にしたその単語に、ちりっと口の中に苦みが広がる。
「……してないよ。もうやめた」
「え、なんで?」
「時間もお金もないし」
 話題を打ち切るように素っ気なく返せば、春野もなにか察したようにそれ以上は訊いてこなかった。
「そっか」となんとなく神妙な声で相槌を打ってから、

「それで、土日だけどね」
 と気を取り直すように話を戻した。
「できれば土日は朝から夕方まで、一日時間をもらいたいんだけど、いいかな?」
「いいよ」
 三十万ももらうのだから、さすがにそれぐらいはしようと思っていた。
 それでも時給換算すればえげつない金額になることに違いはないだろうけれど、そこについてはもう気にしないことにする。有り余るほどお金を持っているやつが、自分の好きなようにお金を使っているだけなのだ。僕が気にする必要はない。
「よかった。じゃあ土日、空けておいてね。予定入れちゃだめだよ」
「わかった」
 言われなくても、バイトが入らない限り、もともと僕に土日の予定なんてない。野球もやめたし、友達とどこか遊びにいくなんてことも、もうぜったいにない。そんなことに使えるお金はないから。

「次に遊ぶ場所だけど、基本的にわたしの行きたいところに付き合ってもらいます」
「うん、それでいいよ」
 僕のほうには春野といっしょに行きたい場所なんてとくにないのだから、むしろそうしてもらわなければ困る。
「そこで使うお金も、ぜんぶわたしが出します。だから倉木くんはお財布持ってこなくていいよ」
「いや、そのお金はこの三十万から出せばいいんじゃ」
「ううん、それは倉木くんの時間代だもん。別途経費はこっちで出すよ、もちろん」
「……それはどうも」
 春野がそう言うのなら、もうなにも考えず、言われたとおりにすることにした。一円も使わなくていいのなら、それに越したことはない。

「それで、僕はどんな感じにすればいいの」
「ん、なにが?」
「いっしょにいるあいだ、春野の彼氏っぽく振舞ったほうがいいの? どういう感じで春野といっしょに過ごせば」
 くわしくは知らないけれど、そういうサービスがあることはちらっと聞いたことがあった。レンタル彼女とか、レンタル彼氏とか。お金を払って、疑似恋人としてデートをしてもらう。
 三十万ももらって、ただただいっしょに過ごすだけでいいとはさすがに思えなかったので、春野が望んでいるのもそういうことなのかと思ったけれど、

「えっ!? いや、か、彼氏なんてそんなっ!」
 春野はなぜかぎょっとしたように大声を上げ、両手をぶんぶんと顔の前で振った。彼女の顔が耳まで赤くなったのを見て、僕までぎょっとしながら、
「いや、本当に彼氏になるわけじゃなくて、その、いっしょに遊ぶあいだだけ……」
「そんなそんな、とんでもない! ふつうでいいよふつうで! 倉木くんにわたしの彼氏なんてそんな、振りでも申し訳なさすぎる! めっそうもないです!」
 本気で焦ったように全力で首を横に振る春野に、僕のほうがなにか変なことを言ってしまったような気がして、急に恥ずかしくなった。
「あ……そ、そうですか」
「うん! ああ、びっくりした」
 春野は赤くなった頬を冷ますように、自分の手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、

「倉木くんはべつに、わたしになにもしてくれなくていいんだよ」
「なにも?」
「うん。ただ、わたしといっしょに一週間過ごしてくれれば。わたしはただ、それだけでいいんだ」
 穏やかな声で言い切った春野は、本当に、心からそう思っているように見えた。