僕は心底困惑しながら、そんな春野の真剣な顔を見つめていた。
 ずっと好きだった。
 生まれてはじめて向けられた、告白の言葉を反芻する。それでも湧いてくるのは、喜びとは程遠い、困惑だけだった。
 だって、わからない。なんで、

「……なんで、僕なの」
 春野に好かれるようなことをした覚えはない。そもそも、彼女とはあまり関わりがなかった。クラスメイトだったのだから何度か話したことぐらいはあるけれど、それだけだ。
 思えばあの頃から、僕はずっと春野に困惑していた。しばしば話しかけてくる彼女に、どう対応すればいいのかわからずにいた。
 教室で顔を合わせるなり、『野球やめたって本当?』と怒ったような表情で訊いてきたり、その翌日、突然漫画本を十冊ほど持ってきて、『これ面白いから貸してあげる』なんて言ってきた彼女に。

「なんでって、うーん」
 僕の質問に、春野は顎に手をやり、考え込むような表情になる。そうしてしばし、難しい顔で宙を睨んだあとで、
「うれしかったから」
「え」
「去年の夏休みに、病院でわたしたち何回か話したでしょう。あれがすごく楽しくてね、それにうれしかったの。わたし、それまで、あんなふうにおしゃべりできるような友達っていなかったから」

 言われて、ふいに記憶が手繰り寄せられる。
 教室で、彼女から話しかけられるようになる少し前。
 たしかに僕は病院で、何度か春野に会っていた。野球の試合で怪我をして、通院していた市立病院に、春野がいたから。
 彼女は入院していて、病院に行けばいつも談話室にいた。だから通院のついでに、彼女とも少し話をするのが日課になっていた。春野とまともに話したのは、そのときがはじめてだった。
 たしかにそのときの春野は、楽しそうにしてくれていたような気はするけれど、

「……いや、それだけ?」
 答えを聞いても疑問は晴れず、僕は眉を寄せる。
 話をしたといっても、本当に他愛のない会話だけだった。彼女を喜ばせるようなことを言った覚えはない。だから今この瞬間まで、自分が春野に好意を向けられているなんて、まったく考えたこともなかった。
 けっきょく春野とは連絡先の交換もしなかったし、彼女がなんの報告もなく学校に来なくなったあとは、一切の関わりがなくなっていたから。

「うん。それだけじゃだめ?」
 だけど春野は迷いなく言い切って、ちょっと困ったように首を傾(かし)げる。
「いや、だめっていうか……」
 そう無邪気に訊ねられると返事に詰まって、僕は口ごもる。
 わからない。あんな関わりの中で、いったい僕なんかのどこを好きになったのだろう。
 たしかに春野は、クラスでは少し浮いている感じの女子だった。休み時間も、誰と話すでもなく、ひとり黙々と漫画を読んでいた姿を覚えている。
 だけどべつに、それで嫌われているというわけではなかった。彼女に友達がいなかったのは、ただ単に、彼女があまり学校に来ていなかったからだ。
 実際、春野ともっと仲良くしたいと思っていたクラスメイトは多かったはずだ。女子のあいだでの評判はよく知らないけれど、少なくとも男子のあいだでの春野の人気はわりと高かった。単純に、春野の見た目がかわいかったから、というその一点で。
 だからきっと、その気になれば彼氏のひとりぐらい、春野には簡単に作れたはずだ。べつに、僕しかいなかったから、なんていう卑屈な理由で、こんなパッとしない男にこだわらなくても。

「とにかくわたしは、ずっと好きだった倉木くんと、一週間いっしょに過ごしたいんです」
 理解が追いつかずにいる僕を待たず、春野は真剣な口調で畳みかけてくる。
「わたしの片思いなのはわかってるから、ちゃんと対価は払うし。すごく割の良いバイトだと思うけどな。一週間で三十万。ね、どうかな?」
「……いや、どうもこうも」
 本気なのだ。
 まっすぐな目で見つめてくる春野に、それだけは嫌になるほど、理解した。
 また軽く目眩を覚えながら、僕は黙って春野の持つ茶封筒に目を落とす。

 春野が、本気で言っているのだとしても。
 ……ありえないだろう。一週間で三十万なんて、割が良いどころじゃない。どう考えてもおかしな話だ。三十万は、こんなに簡単に手に入れていい金額じゃない。
 僕は目を伏せ、短く息を吸う。そうして、無理だよ、とゆっくり告げようとしたときだった。
 ふいに、声が喉の奥で絡まった。

 ……手術。
 脳裏を、そんな単語がよぎる。どくん、と耳元で心音が鳴った。

 もうすぐだと、聞いている。
 ひまりの病気を治すための、手術の日は。
 母は僕を心配させるようなことは言わない。お金のことなんて、僕の前ではなにひとつ口にしない。だけどもちろん、手術費が決して安くはないことぐらい、僕にもわかる。それだけではない。手術後はしばらく入ることになるという特別個室の入院費も、きっとバカにならないのだろう。
 少しでも家計の足しになればと思って始めたバイトも、実際は高校生が稼げる額なんてたかが知れていた。これから先同じように働いたところで、きっとたいした助けにはなれない。

 ――だけど。
 だけど、もし。
 今、ここで、この三十万が手に入るとしたら……?

 唾を飲み込む。知らず知らず握りしめていた拳に、力がこもった。
「……どうやって」
「ん?」
「どうやって用意したの、こんな大金」
 三十万だと春野は言った。中身は確認していないけれど、彼女の様子を見るに、それは間違いないのだろう。ぺらぺらの薄い封筒に入れられたそれは、まるで飴玉でも差し出すかのような軽さで、こちらへ向けられている。
「お小遣い」
「え?」
「わたしのお小遣いだよ。わたしの家、すっごいお金持ちで、お小遣いたくさんもらってるんだ」
 また、彼女の言葉を理解するのに、少し時間を要した。
 あっけにとられて春野の顔を見ると、彼女はなぜかちょっと困ったように笑って、
「でもね、わたしあんまり買いたいものとかなくて、お金があまっちゃってたんだ。それで考えたの。わたしの欲しいものってなんだろうって。そうしたら倉木くんが浮かんだの。倉木くんしか浮かばなかった。だからこれはもう、倉木くんに使うしかないなって」
 恥ずかしい秘密を打ち明けるみたいに、はにかみながら話す春野の顔を、僕は黙って見つめていた。

 お小遣い。
 彼女の口にしたその単語を、胸の中で繰り返す。
 不思議な感覚だった。吉村のギターやスマホを見たときのようなどす黒い感情は湧かず、むしろあらゆる感情が、すうっと引いていくのを感じた。
 その言葉を、僕は心のどこかで期待していた気がした。
 この三十万を、春野がはした金だと言ってくれることを。
 そしてそんな自分に気づいたとき、喉奥から笑いが込み上げてきた。口元が歪む。

「なんだ、それ」
 額を押さえていた右手で、ぐしゃりと前髪を握りしめる。顔を伏せると、足元には僕の汚れたスニーカーと、おろしたてのような春野の真っ白いパンプスが並んでいた。
 その光景にまた、乾いた笑いが漏れる。
 きっと違うのだ、なにもかも。僕と春野は、生きている世界が違う。だから僕にとっての三十万と、春野にとっての三十万は、まったく別物なのだ。
 ――だったら。
 べつに、いいんじゃないのか。

「倉木くん?」
 急に笑いだした僕に、春野が戸惑ったように声をかけてくる。
 僕は息を吐くと、目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭ってから、顔を上げた。
 心配そうに眉を寄せて僕を見ていた春野と、まっすぐに目を合わせる。そうしてすっと息を吸ってから、口を開いた。
「いいよ」
 短く返した僕の声は、自分でも驚くほど投げやりに響いた。
「三十万で、春野に売るよ。僕の一週間」
「えっ、ほんとに!?」
「うん。こんな割の良いバイト他にないし」
 そう、これはバイトだ。自分の口にした単語を、確認するように繰り返す。
 春野もそう言っていた。べつに、春野からただ三十万をもらうわけではない。僕は春野といっしょに過ごすという仕事をする。
 春野も言っていたように、僕にとって春野は好きな女の子というわけでもない。むしろどちらかというと苦手で、あまり関わりたくない相手だった。だから対価をもらうのは正当なことだ。金額が釣り合っていないのではないか、とか、そんなことは僕が気にするべきところではない。だって、春野がそれでいいと言っているのだから。

「わあ、よかった!」
 僕の答えにぱっと顔を輝かせた春野が、茶封筒をあらためて僕のほうへ差し出してくる。うれしそう、というより、どこかほっとしたような笑顔で。
「じゃあ一週間よろしくね、倉木くん!」
 それは本当に、なんのためらいもない渡し方だった。三十万というお金に対して少しの未練も執着も感じない、まるで本当にいらないものみたいに。
 いや、みたいではなく、本当にいらないのだろう。はした金なのだから。春野にとっては。何日働けば稼げるのかと、僕が考えることすら嫌になったその金額が。 

 考えているとまた苦い笑いが込み上げかけて、僕は唇を噛む。振り払うように目を伏せ、差し出された封筒へゆっくりと手を伸ばす。
 受け取ると、見た目以上にその封筒は重量感があって、三十万という金額を実感した。
「よし、じゃあさっそく行こっか!」
 僕の手に封筒が渡るなり、春野がきびきびと言って立ち上がる。僕にふたたび迷いが生じる隙を与えないような早さだった。
「え、どこに」
「とりあえず今日はね、恋木(こいのき)神社に行こ!」
 そう告げた春野の声に重なるように、電車の到着を告げるベルが鳴った。まもなく上り電車がまいります、とアナウンスが続く。
「恋木神社?」
 彼女が挙げたのは、地元にある縁結びの神社だ。
 困惑する僕にかまわず、電車はさっさと目の前の線路に滑り込んでくる。
「さ、行こ!」と楽しそうな春野に促されるまま、僕たちはふたりでその電車に乗り込んだ。