トントン、と指先で肩を叩かれた瞬間からもう、苛立ちが湧いていた。
「なあなあ倉木(くらき)
 後ろの席の吉村(よしむら)が、笑いの交じる声で僕を呼ぶ。
 振り返ると、まず目に飛び込んできたのは、吉村のにやけ顔ではなく、彼がこちらに向けて掲げたスマホの画面だった。
「そういや倉木に見せんの忘れてたわ、これ」
 画面を見る前から、そこに映っているものは知っていた。今日、吉村が興奮気味に、別のクラスメイトに自慢している姿を見ていたから。
「昨日買ってもらったんだけど、やばくね? めっちゃかっこよくね?」
「……やば」
 僕は口元が引きつりそうになるのをなんとか堪え、驚いた表情を作ると、
「マジで買ってもらったんだ」
「おう、誕生日プレゼントで! めっちゃ頼み込んだわ。これから勉強死ぬ気で頑張るからっつって」
 吉村がうれしそうに掲げていたのは、赤いエレキギターの写真。趣味でバンドを組んでいるという彼が、以前から欲しいと繰り返していた、人気ブランドの高級ギターだった。

「音もすっげえ良いの。今度聞かせてやるよ」
「いいよ。どうせ違いわかんないし」
「いやいや、これは倉木でもぜったいわかるぐらい良いから。やっぱ良いギターは全然違う」
 熱弁する吉村に曖昧な笑顔だけ返して、僕はおもむろに立ち上がると、鞄を肩にかけた。
「そろそろ電車来るから」
「あ、ごめんな、呼び止めて」
 話をさえぎられたことに気を悪くするでもなく、吉村は感じの良い笑顔で、「じゃあな」と手を振る。
 その手に握られたスマホがいつの間にか最新機種になっていることに、そこで気づいた。先週までは違ったはずなのに。

 いつ変えたのだろう。昨日が誕生日だったらしいから、そのタイミングだろうか。
 先ほど見せられたピカピカの高級ギターよりもなぜか、そちらのほうが頭に引っかかった。
 吉村は、それについてはなにも言わなかった。まるで取るに足りないことみたいに。実際、今の彼はギターのことで頭がいっぱいで、スマホの機種を新しくしたことなんて、どうでもよかったのだろう。
 彼にとっては、きっと、その程度のことなのだろう。

「ね、そういえば明日さ、初バイト代が入るんだよねー」
 下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから女子のそんな声が聞こえてきた。
「え、いいね」と別の女子の声が続く。
「なんか買うの?」
「とりあえず、あのバッグか財布かなって」
「あー、この前の雑誌に載ってたやつ?」
「そうそう、めっちゃかわいかったから、やっぱ欲しくて」
「うわ、いいなー。買ったら見せて」
 否応なく耳に入ってくるその華やいだ声に、思わず顔が歪む。先ほどの吉村に対する苛立ちと合わさって、胸の奥でどす黒い感情が膨らむのを感じた。

 いいな、お前らは。心の中で吐き捨てる。
 履き古したスニーカーの踵を乱暴に踏み、早足で下駄箱を離れる。これ以上、彼女たちの声を聞きたくなかった。
 なんの迷いもためらいもなくバイト代を自分のために使うという、そんな自分以外の“当たり前”を、これ以上突きつけられたくなかった。

 外に出ると、雨が降っていた。
 念のため持ってきていたビニール傘を差し、黒い雲が重く垂れ込める空の下を歩きだす。普段より早送りな周りの景色につられるよう、自然と早足になった。

 駅のホームに人は少なかった。
 スマホを取り出し時間を確認する。次の電車が来るのは十五分後だった。
 僕は空いていたベンチに腰を下ろし、そのままスマホをいじる。昨日から何度眺めたかわからないバイト求人サイトを、また開く。

 高校に入学してすぐ始めた短期バイトが、先週終了した。早く次のバイトを探さなければならない。しかし家から通える距離で高校生可という条件で絞るだけでもかなり限られてしまい、なかなか見つけられずにいる。
 できるだけ近場がよかったけれど仕方ない、と少し範囲を広げて探しはじめたところで、ひとつ通えそうな距離にあるファミレスの求人を見つけた。

《時給870円》
 タップするなり真っ先に飛び込んできたその文字に、ふと指先が止まる。
 べつに特別安いわけではない。このあたりでの、高校生の平均的な時給だ。今まで働いていたところもそれぐらいだった。深夜は働けないので、学校に通いながらだと、入れるのは一日に四時間程度。

 何日かかるのだろう。
 ふと頭の隅でそんなことを思い、どうしようもなく乾いた気分になった。
 吉村が欲しがっていたあのギター。たしか値段は三十万ほどだと聞いた。ここで何日働けば、あれを買うことができるのだろう。
 計算しかけて、すぐにやめた。考えたくなかった。そもそも三十万稼いだとして、僕はそれを自分のために使うことなんてどうせできないのだから。

 理解できない、と思う。たかだか趣味のバンドのために三十万もするギターを欲しがるのも、なにより、それを誕生日プレゼントとして親にねだれる神経も、心底理解できない。
 三十万あれば、なにができるのだろう。何日分の入院費がまかなえるのだろう。何日分の薬が買えるのだろう。
 考えていると胸の奥のどす黒い靄がさらに広がりそうで、追い出すようにまた画面を眺める。頭上の屋根を叩く雨粒の音が、耳を覆う。

 二年前から使っているスマホの画面は、右下の隅に細かなヒビが入っている。それでも動作に問題はないので、修理する気も買い替える気もなかった。きっとこのまま、完全に壊れて使いものにならなくなるまで使いつづけるのだろう。ずっと。
 普段は気にもしていなかったそのヒビが、なぜか今はやけに目についた。
 爪先で触れ、削るようになぞる。

 もうなにも考えないようにしようと思っても、いつもうまくいかない。
 吉村に見せられた赤いエレキギターが、彼の持っていた最新型のスマホが、下駄箱で聞いた女子たちの会話が、ぜんぶ頭にこびりついている。
 もし、と思う。
 ――もし僕に、そのお金があれば。
 何度となく浮かんできてしまうその言葉に、ぐっと唇を噛みしめたときだった。

「ねえ、バイト探してるの?」
 ふいに真横から声がした。僕に向けられた声だと、はっきりわかる近さだった。
 驚いて振り向けば、いつからいたのか、そこにはひとりの女子が座っていた。
 思いのほか近くまで顔を寄せていた彼女と至近距離で目が合い、ぎょっとして一瞬息が止まる。
 けれどそのまま、視線を動かすことはできなかった。
 数秒、固まったように彼女と見つめ合ったあとで、え、と声が漏れる。

「春野……?」
「うん。久しぶりだね、倉木くん」
 白いシャツワンピースの上に淡い黄色のカーディガンを羽織った彼女が、にこりと笑いかけてくる。
 僕は笑顔を返すのも忘れて、そんな彼女の顔を呆けたように眺めていた。