「ちょっと、お話しない?」
お姉さんはそう言って、コートのポケットからコーンスープの缶を取り出した
手に取るとそれは冷めきっていた。
私はそれを飲み干し、缶を逆さまにしたまま口につけた状態でいると、お姉さんが私の缶の底を叩いてきて、缶に残っていたコーンが私の口に入ってきた。
「あっ、ごめんなさい」
その行為を終えたあと、お姉さんは謝ってきた。
「私の心、生きるよりも死ぬのほうにいつもいたの。まぁ、今もかもだけどね」
突然、何故初対面の私にそんな話をするのだろうと思いながらも、私はお姉さんの顔を見て頷いた。お姉さんもこっちを見ながら頷き、ふたりで川を見た。
「私、すっごく馬鹿でね、周りによく馬鹿のくせにとか、頭悪いとか言われてきたの」
話を聞きながら私は口の中に残っていたコーンのかすを飲み込んだ。
「その度に傷ついていたけれど、笑って傷を隠しながらごまかして生きていた。もう、これ以上生きているの辛いなって思った時、どうせなら私を傷つけてくるこの人達よりもキラキラ輝いて生きてやるんだ!ってなって、今を生きてる。……生きて欲しかった」
お姉さんは目と声を潤ませながらこっちを見つめてきた。
あぁ、そっか。お姉さんは今、私の事を彼だと思いながら話しているんだな。
私もつられて目が熱くなり視界がぼやけてきた。
今この場には、彼にそっくりなお姉さんと、彼と重ね合わせられている私がいる。
――彼はいない。
「話聞いてくれてありがとね!」
特に何もしていないのにお礼を言われた。
お姉さんは、近くに立っていた木の方向に向かって歩いていった。そして、折れて垂れ下がっている木の枝に触れ、それを立たせて他の強そうな木の枝に寄りかからせた。この枝は、まだ木と微妙に繋がっているから、これからも生きていられる気がした。
雪が完全に溶けてしまえば、彼が遺したこの足跡の気配も完全に消えてしまうのだろう。
お姉さんが戻ってきて「そろそろ帰ろうかな。途中まで一緒に帰る?」と誘ってくれた。私は頷き「ちょっと待っててください」と言い、手袋を脱ぎしゃがむと、私の手を彼の足跡の気配と重ね合わせた。久しぶりに冷たさを感じた。
私はいつからか、人前で泣けなくなって、笑えなくなって、話すのが怖くなった。
泣けなくなった理由は、幼い頃、叔母さんに「泣かないし、大人しくてえらいね」って言われたから。
笑えなくなったのは、小学五年生の頃、初恋の人に「その笑顔がなんか、怖い」と言われたから。
そして、人と話すのが怖くなった理由は中学二年生の、死にたいと言いながら家を出ていった日まで、母の機嫌を損ねるような発言を私がすると、その度に叩かれていたから。
泣かないのがえらいのか、じゃあ泣かない。
笑顔が怖いのか。じゃあ笑わない。
叩かれるのが嫌だから余計な事は何も言わない。
そんな考えで生きてきた。
けれど、中学三年生の時に彼が言ってくれた言葉
「笑ったらいいよ。うん、可愛い」
その言葉をあの時から、繰り返し繰り返し彼が頭の中で唱えてくれて、少しずつ呪いを解いてくれた。あれから人前で笑う事も、泣く事も、人に自分の気持ちを話す事も、もしかしたら怖くないのかもしれないと思えるようになってきた。
そして、彼の前では自然に笑えたし、泣けた。話す事も出来た。彼が呪いを解いてくれた。
――本当に彼を好きになって良かった。
人間は、常に生きると死ぬの間で生きている。私も次の瞬間どうなるのか分からない。
彼は、亡くなった。私と会った次の日の朝から行方不明になっていて、川で発見されたらしい。
もしかしてまた行きたくなって、さまよっていたら足を滑らせたのかもしれないし、自ら飛び込んでいったのかも分からない。
彼はあの時、“幸せ”という言葉を口にした。もうそれすらも本当なのか分からない。止めた時、一緒に川に飛び込んでしまえば、彼と両思いになれたのかな?
現実を受け入れられないし、会いたくて、苦しくて、心が押し潰されそう。
自殺の原因は……。ってテレビで分析されていたりするけれど「いや、私はその理由違うと思う。何故勝手にそうだって決めつけるの?」って事がよくある。
真実は分からない。だって、中学の時、私がこの世界から消えようとした時だって、本当の理由は周りの誰も知らなかったのだから。
彼はずっと淡雪みたいに、すぐに溶けそうな状態だったんだ。それすらも周りは気づいていなかった。
彼への想いは、私が生きている限り一生消えない。恋焦がれたまま。心の中でずっと泳いでいる。
消えていった彼にずっと、片思い。
やっぱり片想いは切ない。でも、彼と最後に見たダイヤモンドダストの影響で美しい世界ともなった。
彼と見た事で、意味を持ったあの景色。
――片想いは切なくて、美しい世界。
今は苦しい気持ちの方が多いけれど、いつか純粋にそう思える日が来るのかな?
帰り道。あの日、彼と歩いた時に見た、商店の大きなつららは小さくなっていて、水滴が落ちていた。まるで泣きながら「生きて」と私に語りかけてくれているように。
*僕が消えたいと思った日
僕は初めて“ダイヤモンドダスト”を見た。
細かい宝石が自由に舞っている。スポットライトを浴びながら。なんて綺麗なんだ。
さっき川に飛び込まなくて良かった。もし飛び込んでいたら僕は今ここにいなくて、この美しい風景を見る事が出来なかったんだ。
長岡さん、ありがとう。僕を止めてくれて。正直、彼女が泣いた事に驚いた。中学の時、僕がペンケースとコーンマヨネーズパンを間違えて学校に持ってきた時に、大笑いした顔を見た事はあったけれど、それ以外は無表情で感情を表に出さないイメージで。こんなに取り乱して泣く人なんだとは全く思っていなかった。
人が僕の為に、心を込めて泣いてくれたのは生まれて初めてだった。この短時間で“初めて”をいくつも経験した。もしかしたらこれからも沢山の初めてに出会えるのかもしれない。そして窮屈で苦しい世界から脱出出来るのかも。生きていれば。
帰り道、僕は
――もう一度、今隣にいる子とダイヤモンドダストを見たい。
と思った。さっきダイヤモンドダストを見た後、すぐに僕は“ダイヤモンドダストが見られる条件”をスマホのネットでチェックしていた。
氷点下十度以下で晴れた日、風が無くて湿度が高いなどいくつかの条件が書いてあった。
誘う時は、きちんと天気予報をチェックして、早朝が良いらしいけれど、早すぎて寒さで風邪をひかせてしまったらあれだから、少し明るくなってから待ち合わせをして……。で大丈夫かな? そして次は、温かいコーンスープとカイロを僕が彼女に渡そう。
そんな事を考えながら、それは伝えずに別々の道を進んだ。
少したってから「あ、連絡先聞かないと待ち合わせ出来ないじゃん」と、彼女の連絡先を知らない事に気が付き、僕は急いできた道を戻り、彼女のいそうな方向に向かって走った。彼女は見当たらなかった。
また明日も同じ時間、川に行ってみよう。
会えるかな?