リビングに入ると、お母さんが子機を持ったままぼんやりと立っていた。
 焦点の合わない瞳が、ゆっくりと私に向いた。

「お母さん」
「あ……」

 私に気づくとお母さんは「月穂……」と震える声で言った。

「あの、ね。今日は学校を休みなさい」
「星弥が危篤……なんでしょう?」

 そう尋ねると、お母さんはひどく狼狽した顔をした。
 やっぱりそうなんだ……。
 さっきまであった温もりがもう恋しい。

 でも星弥、私は受け止めるよ。
 今はまだ不安定でも、きっといつかちゃんと前を向けるはず。

「ホスピスに行ってくるね」

 部屋を出ようとしたとき、お母さんが「つ、月穂」と呼び止めた。

「もし……万が一のことがあったとしても、お母さんたちがいるから。だから、どうか……」

 覚えている。
 あの日、私はお母さんに『万が一ってなに? ひどいこと言わないで!』って叫んで家を飛び出したんだ。
 今ならわかる。お母さんは、これが最後の面会になるって知ってたんだ。
 涙目のお母さんに、大きくうなずく。

「お母さんありがとう。行ってきます」

 ホスピスへの道を歩く。
 夢のなかでも雨はリアルにカサを打ちつけている。
 けぶる信号機、置き忘れられた三輪車、くたびれたスーツのサラリーマン。
 どれもが悲しい色に見える。でも、あの日とは違う。

 私は弱くてもろくて全然ダメだけど、少しでも強くなりたい。
 周りのみんなに力をもらうだけじゃなく、いつか与えていけるように。
 
 全部、星弥が教えてくれたんだね。

 ホスピスの門をくぐると、駐車スペースの真ん中で空翔が立っていた。
 雨に濡れるのも構わず立ち尽くす姿を、あの日も見た記憶がある。
 悪い予感が当たらないように、声もかけずに星弥のもとへ走ったよね。

「空翔」

 雨に負けないように大きな声で呼びかける。

「ああ、月穂」

 ふり向く空翔は、まるで夢から醒めたようにぽかんとしていた。

「星弥は……?」