「皆の者、聞いてほしい。今日より無期限で、苺苺を妾の宮に招待することにした」
 朝餉を終えたあと。
 木蘭は紅玉宮の女官を一堂に集めてそう告げたかと思えば、隣に立つ苺苺の腰辺りに、遠慮なくぎゅうっと抱きついた。
(ひえっ! 木蘭様が、木蘭様がっ)
 朝の支度を整えるために若麗が寝室を訪れるまでの間、木蘭から『お泊まり会によって歳の離れた妃たちが親密になった様子を演出する』とは聞いていたが、抱きしめるとは聞いてない。
 木蘭と紫淵は完全なる別の生き物と捉えている苺苺は、ただひたすら朝から強制過剰摂取させられる可愛さに頬を染めて悶える。
(目がぐるぐる回って、頭がくらくらします〜〜〜!)
「ふ、ふつつか者ではございますが、皆様どうぞよろしくお願いいたしますッ」
 やっとの思いで挨拶を言い切り、苺苺は遠慮がちに木蘭をきゅっと抱きしめ返す。
「ふふっ。苺苺お姉様と一つ屋根の下で過ごせるなんて、妾は幸せものです」
(あああっ、木蘭様とこんなに仲良くなれるだなんて、紫淵殿下に怒られないでしょうかっ)
 その紫淵が木蘭であることなど、もうすっかり忘れてしまった苺苺である。
「お待ちください、木蘭様! 白蛇妃を無期限で招待って……それはいったい、どういうことですか!?」
 筆頭女官の隣に立っていた苺苺と同じ年頃の勝気な相貌の女官が、キッと眉を吊り上げる。
「お泊まり会を延長ということでしょうか?」
「まあ、それは良いわね。紅玉宮がもっと明るくなるわ」
 若麗と、先ほどの勝気な女官とは反対側に立っていた背の高い年嵩の女官は、顔を見合わせて柔和に微笑む。
「ちょっと若麗様、怡君(イージュン)様、なに和んでるんですか!『白蛇の娘』を紅玉宮預かりにするなんて縁起が悪いです。それも無期限なんて! 木蘭様と紅玉宮に障りがあったらどうするつもりですか!?」
春燕(チュンエン)様の言う通りだわ」
「そうね、木蘭様がいくら姐姐と懐いていても……『白蛇の娘』だわ」
「一泊二日だけだったらまだしも、ずっとなんて」
 勝気な女官、春燕の言葉を皮切りにして他の女官たちもざわざわと話出し、口々に不信感をあらわにする。
 年上の妃に甘える幼妃の演技に徹していた木蘭は、総勢十五人の女官を見渡す。
 なあなあな理由で煙に巻けたら御の字と考えていたが、やはり一筋縄ではいかなかったか。
 そう考えながら木蘭はむっとした顔をすると、抱きついていた苺苺から離れた。
 いつものお澄まし顔をして、ぱんぱんっと手を叩く。
「静粛に」
 幼い、けれどどこか凛とした木蘭の声で、紅玉宮は一斉に静まり返った。
 しんと静まり返った中、苺苺もつられるようにして、慌てて背筋を伸ばす。
「皆が知っての通り、妾は先日あやかしに襲われた。そのあやかしを退け、命を懸けて助け出してくれたのが白蛇妃、白苺苺だ。……若麗、そうだな?」
「はい。私もしかとこの目で拝見しました」
 筆頭女官の若麗が木蘭の付き添いとして事件現場にいたことは周知の事実。その若麗の証言を聞いて、反対していた女官たちは押し黙る。
「どうして苺苺が妾を助けられたのか。それは『白蛇の娘』である彼女に、あやかしを退ける異能(・・・・・・・・・・)があるからだ」
「あやかしを……?」
「そんな異能が……?」
「『白蛇の娘』の異能の噂は本当だったのね……」
 ざわめき出す女官たちに、木蘭は再び「静粛に」と言い放つ。
「過去後宮で起きた事件に、『白蛇の娘』がなんらかの関わりがあった可能性が指摘されているのは妾も知っている。だが、皆の者が恐れているのは、伝説や歴史書に描かれた物語の中の『白蛇の娘』に他ならない」
 木蘭はキリリと目を細め、貴姫としての風格を見せつける。
「つまり! ここにいる白苺苺の異能は、妾たちが恐れるものではない!」
 その言葉に、女官たちは困惑げにそれぞれ顔を見合わせて、「そうかも」と頷きあう。
「今後また、先日のあやかしが紅玉宮を狙わぬとも限らない。そのために苺苺には、妾をあやかしから守護する『異能の巫女』として、護衛や夜警をしてもらう。紅玉宮の皆のためにもなるだろう。……苺苺、皆に異能の説明を」
「はい。ええっと、わたくしの異能は、わたくしの血を使ってあやかしを退けるというもの……です。宦官の方々は妖術だと騒がれておりましたが、ただの退魔の術だとお考えください。ど、どうぞよしなに」
(それだけがわたくしの異能ではありませんが、すべて開示することはできませんので、どうかご容赦くださいませ……!)
 頭を下げた苺苺は、ぎゅっと目を瞑ってやり過ごす。
「そういうことだ。あやかしが再び現れない確証を得るまで、苺苺には妾のそばにいてもらう。紅玉宮は白蛇妃を歓迎し、貴賓としてもてなすように。いいな?」
「――御意」
 それぞれの胸中に思う気持ちはあるが、事の次第を理解した女官たちは木蘭の命令に一斉に応じると、一糸乱れずに恭しく(こうべ)を垂れた。


 ◇◇◇


 ――時は少し遡り、朝日が昇りきった木蘭の寝室にて。
 最上級妃・貴姫と最下級妃・白蛇による今後の話し合いは行われていた。
『木蘭様も朝の身支度があるでしょうから、わたくしは一度失礼させていただきますね』
 そう言って一度退出しようとした苺苺だったが、そんな苺苺をムッとした顔で通せんぼしたのが木蘭である。
『どうせなら、同じ寝台で眠って〝お泊まり会を満喫しまくったふたり〟を演出するために、あえて女官たちが来るのを待とう。苺苺、女官が来るまでは話し合いを続けるぞ』
 木蘭はそんな提案して、再び寝台に腰掛けるよう苺苺の手を引いた。
 そうして提案されたのが、紅玉宮への無期限滞在だったわけだが――。
「これ以上、木蘭様にご迷惑をおかけするのはわたくしとしても心が痛みますッ。秘密は死守しますので、夕餉を終えてからお泊まり会にだけご訪問させていただくというのは……!?」
「却下だ。夜だけ紅玉宮に来るだなんて、事情を知らない女官や宦官の間で変な噂が立つだろう。ただでさえ木蘭暗殺未遂の容疑で投獄されていたのに」
「うぐっ。確かに『白蛇妃が木蘭様を毎日呪いに通っている』なんて噂されそうです。ですがわたくしにも、立派な水星宮がございます。白蛇妃として管理をせねば!」
 現在、苺苺は大反対の真っ最中である。
 なぜなら推しに迷惑をかけないのが、推し活を嗜む者の流儀だからである。
「水星宮の実態は調査させている。あんなところに住まわせて悪かった。これからは心置きなく、妾の紅玉宮で過ごしてくれ」
「いえ、あんなところだなんて! わたくしだけ離れだなんてむしろ好待遇、極楽お気楽自由気ままな刺繍道楽〜な毎日を過ごさせていただいておりましたわ! 鼻歌も歌い放題ですし」
「湯船は三尺の木桶。厨房は茶の湯が沸かせる程度。煎餅かと見間違う褥が敷かれた下女用の寝台。窓枠はどこもがたがきているし、日が暮れたら隙間風で冷えたはずだ。なにより、部屋が一室しかない。なんだあれは、馬小屋か? 誰が造った? 馬鹿なのか?」
「木蘭様、水星宮は歴史的建造物なのですっ。なにより一室にぎゅぎゅっと全てが整えられた画期的設計! むしろ時代の最先端やもしれません! 単身者向け一室住居(風呂、御手洗完備、厨房無し)ですっ」
 頭を抱える木蘭に、苺苺はふんすと鼻息荒く力説して詰め寄る。
 木蘭は「はあ?」と幼妃に似合わぬ呆れた声を出して、「とにかく」と苺苺の額を指先で小突いて押し返した。
「妾が自分の怪異に掛かりきりだった弊害だ」
 青年から幼女になるという怪異のせいで、青年の時間には天藍宮に籠もって溜まりきった多くの執務をこなさなければならず、幼女の時には妃らしくあるために授業がある。
 しかも後宮に入ってからは悪意による体調不良にも見舞われていた。
 そのせいで身動きが取れなかったというのもあるが、最も東八宮を調査しなかった理由は――。
 罪悪感と後悔が鬩ぎ合う。
「栄養たっぷりの朝晩の食事に八つ刻(三時)の茶菓子、燐華国十三大銘茶も苺苺のためだけに取り寄せる。美肌に効くという薔薇もすでに用意させた、湯浴みも妾の湯殿で好きなだけしてくれ。寝台も苺苺にふさわしいくあるよう、昨日のうちに十分に整えさせてある。犯人探しの時間以外は、ぐっすり昼寝をしてて構わない」
「な、なんと。豪華薔薇風呂と三食昼寝つき……!?」
「どうだ。好条件だろう?」
 ふふん、と木蘭は胸を張る。
 その仕草のあまりの可愛さに思わず胸がそわそわした苺苺だったが、
「はっ、自分を見失うところでした」
とぶんぶんと首を振る。
(それに、栄養満点の朝晩の食事とお茶の時間は魅力的ではありますが、わたくしは日がな一日刺繍をしているので、昼寝の時間はあまり意味はありません。薔薇風呂は、その、ほんの少し興味はありますが……やはり湯浴み時間を長く使っては刺繍ができませんし、本末転倒です。わたくしは木蘭様を全力でお守りするためだけに、後宮へ参ったのですから)
 苺苺は寝台に三つ指をついて深く頭を下げる。
「あ、ありがたいお申し出ですが、辞退させていただきます」
 得意顔をしていた木蘭は、すっと表情をなくして閉口した。
「〝異能の巫女〟として紅玉宮でのお勤めは果たさせていただきます。ですが、やはり日中にはお暇を……」
「なぜだ」
「木蘭様にご迷惑をおかけしたくないからです」
「それは最初に聞いた。迷惑じゃないと言っているだろう。……ここにいてくれ、苺苺」
「で、ですが……」
 真剣な表情でこちらを見上げてくる木蘭が、そっと小さな両手を苺苺の頬に添えた。
 あたたかい。紫水晶の大きな瞳に吸い込まれそうだ。
 何も答えぬ苺苺に焦れたのか、木蘭の瞳は徐々に捨てられた子犬のような眼差しになる。
 苺苺はぐるぐると目が回り動悸が激しくなるのを感じた。
(ううっ。かわゆすぎます、木蘭様の命じられるままに、ここは)
と芯がぶれぶれになったところで、
(それでは推し活を嗜む妃として示しがつきません!)
と脳内の荒ぶる苺苺がお怒りの様子できゃんきゃんと叫び出したせいで、なんとかぎりぎりで踏みとどまる。
(そうです。それに水星宮には大事な、養うべき家族もいます!)
「わたくし、水星宮の庭で野苺を育てているのです。今朝には果実も赤く色づいているやもしれません。お世話をしに帰らなくては――」
「は?」
 紫淵は自分が今、木蘭の姿だということを忘れて、地獄の底から出たような低い声を出した。
 ――俺より野草が大事、だと?


 ◇◇◇


「宵世、盆器はこちらに」
「かしこまりました」
 普通の宦官よりも上質な官服をまとった青年、宵世が大きな古盆器を両手に室内へ入ってくる。
 侍女たちに朝の支度を手伝ってもらった木蘭は、堂々と皇太子付きの筆頭宦官に指図を出した。
 貴姫という立場上、東宮補佐官を呼び捨てても許されるようだ。
 宵世も当然といった表情だが、彼こそが紫淵が幼い頃から信頼している腹心の臣下のひとりだというから納得である。
「え、ああっ」
 同じく朝の支度のために紅玉宮で与えられた部屋に一度戻り、女官の手を借りずに身支度を自分で行った苺苺は、目まぐるしい展開に今だについていけていない。
 寝室での話し合いから宵世がやって来るまで、木蘭が本当になんでも決めてしまったからだ。
 苺苺はどうして良いのかわからずに、木蘭の一歩うしろでおろおろと動き回る。
 そして宵世が手に持っている古盆器に植えられていた緑の正体を知り、目を見開いた。
「あ、あ、わたくしの野苺ちゃんが……!」
 御花園で雑草抜きをしていた宮女たちが、ぽいっと投げてきた洗濯桶。それをありがたくもらってきて、寄せ植えにしていた野苺を栽培していた。
 洗濯桶栽培の野苺も見慣れると味があって乙なものであったが、……今はなぜだが、燐華国の千年の歴史を感じさせる上等な古盆器に植え替えられているではないか。
「まったく。僕に野草の植え替えを命じるなんて、どこのどいつですかね」
 窓際の日差しが丁度良い飾り机の上にそれを置きながら、小言を呟いた宵世がぎろりと苺苺を睨む。
(ひえええ。東宮補佐官様、申し訳ございません! ですがこの事態はわたくしも不本意でして……!)
 獰猛な黒狼に睨まれた生まれたての白蛇のごとく、苺苺は「すすすすみません」と小刻みに震える。
「ふむ、完璧だ。苺苺、これで妾より大切なものなどないな?」
 木蘭が満足げな表情で腰に手を当てながら、策士の笑みを浮かべる。
「もちろんでございます……っ」
 えぐえぐと悲喜こもごもの涙を流した苺苺は、「ありがたき幸せ」と完璧な礼をとる。
 こうして苺苺は紫淵の〝異能の巫女〟として、紅玉宮での無期限住み込みが正式決定した。

 苺苺が滞在する部屋は、昨日のお泊まり会決定の際、若麗たち女官が苺苺のために用意してくれた場所をそのまま使用することになった。
 木蘭の住まう本殿の隣にある、二番目に豪華な建物だ。
 この場所を女官たちが用意したのは、苺苺の妃の位や、一応ではあるが木蘭の安全を考えてのことだろう。
 建物同士は廻廊で繋がっているので、犯人探しの計画上にはなにも問題はない。
 その後は筆頭女官に呼ばれるがままに木蘭と一緒に優雅な朝餉を取り――あの、木蘭が『苺苺お姉様』と呼んだ、女官たちへの説明に至るのである。
 女官への説明を終えたあと。紅玉宮預かりとなった白蛇妃、苺苺の部屋にはふたりの上級女官が来ていた。
 勝気な十六歳の少女、紅玉宮の侍女の中で第参席を務める春燕(チュンエン)
 そして、おとなしく控えめな十四歳の少女、鈴鹿(リンルー)
 どちらも皇太子宮解禁の際に女官登用試験を勝ち抜き、若くして貴姫・木蘭妃付きの上級女官になった、見目麗しく器量も好しの後宮の花だ。
「なんで私たちが『白蛇の娘』の世話なんか……」
「白蛇妃様なのです、春燕」
「だあって! ……私たちは木蘭様の侍女なのに。仮とはいえ最下級妃の侍女なんて、左遷もいいとこよ」
「白蛇娘娘(にゃんにゃん)、お許しください。本心ではないのです」
「勝手に謝らないで鈴鹿! 本心よ!」
 春めくような容貌と陽の気をまとう春燕と、冬の静けさを思わせる容貌の陰の気をまとう鈴鹿は対照的ではあるが、ふたりの掛け合いからは仲がすこぶる良好らしいことがうかがえる。
「大丈夫ですよ。(いわ)れもなく嫌われるのには慣れていますので」
「うっ」
 苺苺がにこにこと笑顔で対応すると、元気の良かった春燕が(ひる)んだ。
 苺苺はぴかぴかの笑顔でにこにこし続けながら、ふたりを観察する。
「ちょっと、なんなのあいつ! ……ごほっ、ごほっ」
「白蛇妃様なのです。ほら、興奮しすぎは身体に毒なのです。大丈夫なのです?」
「興奮なんかしてない。ちょっと咳き込んだだけ。いつものやつよ」
 ふん、と春燕がそっぽを向く。
(……不覚にも眠ってしまった昨晩でしたが、『恐ろしい女官発見器』と化したぬい様に変化はありませんでした)
 犯人である女官が木蘭への悪意を抱くのをやめた、と判断するのは時期尚早だろう。
 隠密に犯人探しをしたかったが、どうやら苺苺の存在事態がなんらかの抑止力になっていて、『恐ろしい女官発見器』に引っかからなくなってしまったようだ。
 苺苺は女官ふたりのやりとりを眺めつつ、頭の中では今朝方の木蘭と宵世との作戦会議を思い出す――。

 朝方、水星宮にある野苺の寄せ植えを古盆器に植え替えて紅玉宮へ運んでくるという任務を終えた宵世は、堂々と室内に居座り、「どういう風の吹きまわしです?」と心底不服そう木蘭に問いかけた。
「警戒はできています。僕の得意分野ですから」
 ――事情を洗いざらい話せ。でなければここから出ていかない。
 そう言外に含んだ問いかけに、頑固だなと言いたげな顔をした木蘭が、昨晩からの事情を語り出す。
 宵世は少しだけバツの悪そうな顔をしながら苺苺に向かって、「木蘭様をお守りする仲間なので、東宮補佐官じゃなくて〝宵世〟でいいです」と言い捨てると、今度こそ堂々と居座ることにしたらしい。
 こうして、「頭痛が痛い、みたいなひどい状況だ」なんて頭を抱えた宵世が、恐ろしい女官探しの仲間に加わった。
「ということは、『白蛇の娘』の異能を警戒して鳴りを潜めることに徹底していたか……。わたくしの存在のために、木蘭様に対して悪意を抱く必要がなかったと考えられます」
 昨晩は【お泊まり会をする】という内容の文を皇太子殿下宛に出すように、木蘭がわざわざ女官たちに命じている。
 狙いは〝皇太子殿下が駆けつけたりしない密室を作り出すことで、好機と捉えた犯人が悪意を持った計画を練るのをうながす〟ためであったが、逆に皇太子殿下の訪問はないと知って、寵妃へ抱く悪意の溜飲が下がった……なんて可能性も考えられる。
「その、呪毒(じゅどく)でしたっけ? それを生じさせるまでに精製された殺意を持っていて、なおかつ、あやかしを虐げてけしかけるほどの残忍な女官なのでしょう? 今さら計画を変更するわけがない。相手は今も木蘭様を殺す気です」
 言葉も選ばずに宵世が厳しく言い放つ。
「妾もそう思う。呪毒が食事に混じり始めたのは清明節以前なのだから、今さら計画の変更はないだろう。あやかしをけしかけるくらいだ、足がつきやすい毒殺や刺客を放っての暗殺はしない主義に違いない」
「呪毒を生じさせるほどの悪意を抑え込めるだなんて、自己感情の制御も得意な方です。長期戦を覚悟しなくてはいけませんね。この調子では安易には尻尾を掴ませてはくれないやも……」
「裏で糸を引くのが得意な陰湿な性格の女でしょうね。まさに紫淵様が嫌いな典型的な後宮の女だ」
「宵世、余計なことを言うな。……こほん、とにかく。ここに来て苺苺に警戒しているというのなら、あえて苺苺の手札を晒して(おび)き寄せるしかないな」
「わたくしの手札、ですか?」
「ああ。嘘も方便というやつだ」

 そんな作戦会議があり、木蘭の策略で『苺苺はあやかしをその血によって退けられる〝異能の巫女〟である』と、女官たちに情報開示されることになったわけである。
(確かに一部の手札を晒したことで、紅玉宮内を動きやすくなりました)
 苺苺を歓迎していない女官は春燕を代表して多くいるみたいだが、今後は朝だろうが真夜中だろうが、『あやかしがいないか警戒している』とひとこと言うだけで反対派の女官たちをも黙らせることができる。
(わたくしにあやかしを退ける力しかないと知ったら、相手の気も多少は緩むはずです)
 そうでなくては困る。
 木蘭は再度確認をするため、朝餉の準備を整える女官も昨晩とは違う顔ぶれにした。十五人の女官を、明言はせずに三つの班に分けたのだ。
 お茶会の準備を行った筆頭女官が率いる侍女五人、そして夕餉を準備した古参の女官五人、今朝の朝餉を担当した年若い女官五人。
 暗殺を謀った犯人をさらに絞るため、今後はその三組の体制で徹底的に給仕にあたらせるそうだ。
(女官の皆様は順当という反応でしたね)
 当初は苺苺にお礼をするためのお茶会を予定していただけだったので、それを最も木蘭に近しい上級女官の侍女たちが準備するのは当然である。
(急遽決まったお泊まり会の準備を侍女の方々、そして夕餉を古参の女官の方々がするのも納得の配置です)
 最下級妃の白蛇の位といえど、苺苺は妃。
 貴賓を迎える準備に女官歴の長い上級女官たちが腕を振るうのは、木蘭からの信頼の証である。彼女たちにとっては名誉だったはずだ。
(そして中級女官の皆様。朝餉の準備は夕餉に比べると簡単ですし、普段はしないはずの仕事を任せていただけたのは、『紅玉宮は素晴らしい女官ばかりなのだと木蘭様が自慢したいからだわ』と、満更でもないご様子でした)
 上級女官見習いという立場の、普段は紅玉宮の掃除を専門に行う中級女官たちだ。
 慣れない給仕をしながら、嬉しそうにクスクス笑い合いながら喋っていたのは聞こえていた。
(けれどもこの給仕で、本当に確定してしまいましたわ。木蘭様の五人の侍女のどなたかが、呪毒をもたらす悪意を秘めていると)
 結果、監視や行動把握がしやすいよう、木蘭は五人の侍女をふた組みに分けた。
 木蘭付きには侍女頭・若麗(ジャクレイ)、侍女頭補佐・怡君(イージュン)、第伍席の侍女・美雀(メイチュエ)
 そして、苺苺付きとなったのが第参席の侍女・春燕(チュンエン)と第肆席の侍女・鈴鹿(リンルー)である。
(春燕さんは正真正銘の木蘭様推しみたいですし、とっても仲良くなれそうな気がするのですが……。残念ながら、目の前にいるどちらかが、呪毒を秘める恐ろしい女官の可能性もあるのですね)
 今もまだ、怒りがおさまらないのか、春燕は鈴鹿に噛みついている。
「異能があるからなんだっていうの?」
「あやかしから木蘭娘娘を守ってくれるのです」
「あやかしなんて見たこともないし、もう出ないに決まってる。――『白蛇の娘』なんて、絶対に追い出してやるんだから」
「春燕」
「左遷なんてまっぴらごめんよ! 左遷先がなくなったら、戻れるんだから!」
 部屋の隅でフンッとそっぽを向いている春燕と、しずしずと控える鈴鹿を観察していても、怪しい様子は見当たらない。
 ――追い出したいくらい、『白蛇の娘』を厄介に思っているところを除いては。

 ◇◇◇


「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」
「……春燕? その言葉、この三日で聞き飽きてしまったわ」
「若麗様ぁ。そんなこと言うなら交代してください!」
「木蘭様の命令よ、代わったりできないわ。わかっているでしょう」
 紅玉宮の厨房で材料を広げ、本日の飲茶(やむちゃ)点心(おやつ)となる生地を手でこねながら、若麗は苦笑する。
「それに苺苺様って、とっても素朴で良い方よ? 妃であるのに威張っていないし、白州出身だから針仕事もお上手で……。しっかりした姫君だけれど、ふふっ、ぬいぐるみがないと夜は眠れないんですって」
「ふふふっ、そういうところが木蘭様の姐姐(おねえさま)たるゆえんでしょうか? 『白蛇の娘』なんて恐れられていたけれど、近くで過ごせばお優しい方だとすぐにわかりました」
 くすくすと、若麗と怡君は穏やかな声で微笑む。
「そうそう。水星宮を訪れた時には、女官の私を部屋に招いて手作りの薬草茶をご馳走してくれたのよ? 野苺の葉の薬草茶」
「野苺の葉が薬草茶になるのですか? それは知らなかったです」
「ええ、私もよ。なんでも、胃腸や美肌にとっても良いんですって」
「まあ。春先の御花園ではよく見かけますよね。まさか胃腸や美肌に良いだなんて」
 怡君は生地をこねていた手をつい頬に当ててしまい、舞った小麦粉に驚く。
 そんな様子を見て、厨房には侍女たちのクスクスという賑やかな笑い声が響いた。
「あらあら」
怡君(イージュン)様のお顔、真っ白なのです」
「ごめんなさい、つい驚いてしまって」
 若麗と鈴鹿の言葉に、怡君は恥ずかしそうに頬を染めながら、「やっぱり美肌には興味がありますから」と、口元にはにかんだ微笑みを浮かべる。
「作り方は、野苺の葉をそのまま乾燥させて薬草茶になさるのですか?」
「いいえ、葉を摘み取ってからよく乾燥させて作るそうよ。野苺の葉は生乾きのままだと腐敗の過程で(こうそ)を生んで、飲むと体内で急性中毒が発生してしまって、場合によっては死ぬこともある猛毒になるらしいの。だけどしっかり乾燥させて作ると、生薬と同じ効果が得られるそうよ」
「まあ。そのお話を聞くと少し怖いですが……美肌に良いとあっては飲んでみたくなりますね」
「ふふふ、そうね」
 毒にも薬にもなるという薬草は、生薬にも多い。そしてそういう生薬は希少で、病に非常に効くことも、有名な話だ。
 よほど美肌効果があるのだろう、と怡君は再び頬を押さえる。
 今朝も皇太子殿下の命で、東宮補佐官様が紅玉宮に来訪された。女官の憧れの的の宵世を前にして、やはり自分の身なりは気になるものである。
「ここだけの話、実は私も、お茶をいただいた日からお肌の調子がいいの」
「若麗様のお肌、最近きめもますます細やで綺麗だなと思っていたんです秘密は薬草茶だったんですね」
「ええ、そうかも。木蘭様のために少し分けていただいて、茶葉用の棚に入れてあるわ。私たちにも分けていただけないか、いつか苺苺様にまた頼んでみましょう」
 年長組の若麗と怡君の会話は穏やかに進む。
 それになんだかむかっ腹が立ったのは、春燕だ。
「若麗様も怡君様も簡単に絆されないでください! 確かに、白蛇妃が部屋でお世話してる野苺の果実は赤く実って美味しそうでしたけど……。でも、そんな猛毒茶になる野草を育ててるなんて、なにか魂胆があるに違いないわ! 『白蛇の娘』なんて、いつの時代も後宮では災いしか呼ばないんだから。絶対に追い出してやる」
「白蛇娘娘、鈴鹿は好きなのです」
「あんたはぼーっとしすぎなの! 刺繍ばっかりしてる最下級妃が、本当にあやかし避けになるわけがないわ! だいたい、あやかしなんて全然出てこないし。木蘭様を守ったのだって、まぐれだったんじゃないの? ……私にだってできる」
「こら、春燕。口が過ぎるわよ」
「はーい」
「春燕、若麗様に怒られたなのです」
「うるさいわね」
 わいわいと木蘭の侍女たちの賑やかな声が厨房に響く。
 そんな中、ひとり思いつめた様子で饅頭(マントウ)に包む(あん)を作る侍女がいた。
「……どうしたの美雀(メイチェ)? さっきから元気がないわね」
 一番元気の有り余っている春燕が、ひとつ年下の侍女に問う。
 ふたりは血の繋がった姉妹だ。地方でそこそこ大きな商家を営む両親を持つ。
 両親は姉妹を後宮に入れるため、幼い頃から一緒に手習いをさせていた。けれど美雀は甘えん坊な性格だったため、春燕が課題を引き受けることもしばしば。
『しょうがない子ね。この課題は手伝ってあげるけど、今度はもっと勉強するのよ?』
『うん、ありがとう姐姐(ジェジェ)! 姐姐だーいすきっ。私たちは自慢の仲良し姉妹ね!』
『そうね。でも妹妹(メイメイ)、後宮では暗記力だって重要なんだから。しっかりね』
 そう言いながらもながらも、春燕自身、家族から頼られることは嫌いではなかった。
『姉妹が同時期に後宮に上がっても皇帝の目には止まらん。次の秀女選抜の時、お前は十七を越える年になるが、今は美雀を先に入れる』
 三年前。美雀は街一番の容貌から、春燕よりもひと足先に皇帝宮の秀女選抜試験を受けた。
 そして次の秀女選抜試験を待つように言い含められた春燕だったが、今年の年始早々に公示された皇太子宮の女官登用試験を知り、父の言いつけを破って後宮へ上がること決断する。
 誰かの寵愛を争いたいわけじゃない。むしろ自分は裏方で誰かを支える方が向いている。
 そんな自身の性格から鑑みて、春燕は皇太子宮の女官を目指したのだ。
 仕える皇族は違うが、どちらにしても後宮。姉妹の再会は近いだろう。
 しかし後宮に入ったあとに大事な妹妹に会いに行くと、美雀は『下級女官にしかなれなかった。ここでは誰も私を必要としてくれない。姐姐と家族一緒の暮らしに戻りたい』と、泣き暮らしていた。
『ここは私がひと肌脱がなくちゃ』
 そう思った春燕は、筆頭女官の若麗に直談判した。
 美雀を紅玉宮の女官にしてもらえるよう頼み込んだのだ。
 春燕にとって美雀はなにものにも代え難い甘えん坊の妹妹で、美雀にとって春燕は幼い頃からなにがあっても助けてくれる、心強い姐姐だった。
「だって、姐姐がひどいんだもの。いつも悪口ばかり。もう聞きたくないわ」
「……そう。めんなさいね、かしましくして」
「違うの姐姐、気を悪くしないで? 私はただ姐姐が心配なの。悪口を言っていたら、姐姐が意地悪だと思われてしまうわ。……私は姐姐のためを思って言っているの」
 確かにこの三日間で、紅玉宮の雰囲気は変わってきていた。
 女官たちは皆、苺苺が普通の善良な少女であると気がつき始めている。
「でも正直な気持ちを言わなくてどうするの? 貴姫である木蘭様に進言するのも、私たち侍女の務めだわ。私に後ろ暗いことなんかない。歴史書を見て、ただ堂々と意見を述べているの。侍女としてなにか間違っているかしら?」
「なぜそんな意地悪を言うの……? う、ぐすっ……ひどいわ、姐姐……っ」
 美雀はとうとう泣き出してしまった。
 年長組が顔を見合わせ、「落ち着いて美雀」となだめる。
 春燕は唇をきゅっと噛み締めた。それを見て、鈴鹿が一歩前に出る。
「お、落ち着くのです美雀。白蛇娘娘は春燕の強気な性格、嫌いじゃなさそうなのです」
「そんなことない。うっ、ぐすっ、きっと迷惑してるはずよ。……姐姐。このままじゃ、姐姐の評判も下がってしまうわ。他の女官の皆も姐姐は意地悪ねって、そう言ってたもの」
 少女は庇護欲をくすぐる表情で涙をこぼし、心配げに眉をひそめる。
 厨房に満ちていた賑やかな空気は、いつのまにか凍っていた。
「――さあ、おしゃべりはここまで」
 ぱんぱん、と侍女たちを取りまとめる若麗がその空気を霧散させるように手を叩く。
「そろそろ饅頭を蒸しにかからないと、お八つ刻に間に合わなくなってしまうわ! (あん)はできあがった?」
「若麗様、奶皇包(カスタード餡まん)芝麻包(ごま餡まん)の餡はできました」
芋泥包(たろ芋餡まん)用もできたのです」
 若麗の問いに、怡君と鈴鹿が答える。
「それにしても……木蘭娘娘は最近なぜ鈴鹿たちの手作りを所望されるのです?」
「馬鹿ね、鈴鹿。木蘭様がお気に入りの美味しいものを、お気に入りの妃に食べさせたいからよ」
 生地に餡を包み込みながら、春燕が胸を張る。
「幼くして皇后(こうごう)様にも通づる矜持(きょうじ)を、貴姫様として自覚されているの。それから、私たち侍女の丁寧な仕事ぶりをご紹介されたいんだわ。はあ……とても名誉なことよ。木蘭様のためなら一日百個だって包子(パオズ)を作るのに」
 春燕は唇を尖らせると、「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」と若麗に再びごねた。


 ◇◇◇


 真夜中、丑の刻(午前1時)を過ぎた頃。
 紫淵は自身の本当の住居である天藍宮で、執務机について溜まった仕事をさばいていた。
 そばには宵世が控え、次々と書状を渡してくる。
(姚州の治水工事の件か。地質の観点から、山が崩壊し河川が氾濫するおそれがあると何度指摘しても、曖昧で消極的な返答ばかり返すな。国庫から出ている予算を一体なにに使っているんだ)
 紫淵は姚州(ヨウしゅう)官吏(かんり)から送られた報告に苛立ちながら、筆を持ち、(すずり)の中の墨につける。
 病弱な皇太子という設定の紫淵の執務は、こうしてほとんど書状でのやり取りで行われている。
 書状だと面倒な面会や挨拶はないし、執務時間もある程度自由がきく。
(後宮に入るまでは木蘭の姿になってもここで執務をしていたが、幼い身体での執務はすぐに疲れがたまるし、筋力のせいか手が小さいからか筆を走らせる速度も遅くなるしで、思うようにはいかなかった)
 そして後宮に入ってからは、それはもう酷い有様だった。
 なにせ女官がうろうろしている時間帯に紅玉宮へ執務を持ち込むわけにはいかない。
 元の姿に戻れない日々が連日続く時は宵世に頼んで隠し通路を開いてもらい、真夜中にこっそり紅玉宮の寝室で執務を行う夜もあった。
 不眠症も重なって、睡眠不足でふらふらになる日もざらにある。というか、そんな日ばかりだ。
(だが今はどうだろう)
 苺苺が形代を作ってくれてからは、すこぶる体調がいい。
 あの日から夜になると紫淵本来の姿に戻れるようになったし、維持できる時間も長くて助かっている。
「そういえば宵世はいつ眠っているんだ? 昼間もここの管理をして、空き時間には調査に出かけて、夜だってこうして俺の手伝いをしているだろう」
「僕たちに睡眠はあまり必要じゃないので。まあ紫淵様が来られる前に少し仮眠を取りましたが。ですが変な疲れが取れませんね。正直、道士には関わり合いたくないですよ」
 はあ……っと宵世は特大のため息をつく。
 そのまま紫淵が書き終えた書状を受け取り、墨を乾かすために他の机に移す。
「一応、道士の血筋や近しい関係者がいないか、紅玉宮の女官たちの経歴を洗ってみました。ですが、それらしい人物はいなかったです。若麗様なんて朱家の出身ですし、この血筋に関しては紫淵様の方がご存知の通りです」
「よければ今ご覧になります?」と、執務にひと段落ついた紫淵へ、宵世は調査資料を渡した。
 紫淵はそれを受け取って、くまなく目を通した。
(もともと紅玉宮に集められた女官は、なにも名も知らぬ下女や宮女ではない。出生から生い立ちに至るまですべて宵世が厳正な精査を行った、紅玉宮の女官たる素質のある者たちだ)
 向上心があり、年齢にこだわらずに主である妃を尊ぶ。
 言い換えれば、己の価値を知り、立場をわきまえている者たち。
 年上の女官の中には皇后の侍女として仕えていた女官もいる。皇后直属の女官とはすなわち、皇太子宮のどの宮の上級女官だろうが頭を垂れる相手だ。
(ここまでして女官を募ったというのに、紅玉宮内で〝木蘭〟の命を狙う人間が出てくるとは思わなかった)
「……そうだな。相変わらず、怪しい者はいなさそうだ。後宮から出る外出許可もまだ誰も申請していない……となると、後宮内部でなにか取引があったのか?」
「かもしれません。若麗様と怡君様、それから元下級女官の美雀は、もともと皇帝宮の出身です。あちらの後宮に道術をかじった女官がいて、金品を対価にそれを広めていてもおかしくはない」
「つまり犯人の女官本人は、道士ではなく〝使役の術〟だけを行使できるだけの可能性が高いということか」
「ええ」
 宵世は強く頷く。
 あちらの後宮は魑魅魍魎の巣窟と揶揄されるほど、女の陰謀が渦巻いている。
 そこには妃に忠実な女官として暗躍する道士、薬師、調香師、鍼灸師、按摩師、そしてあやかしがいるはずだ。
 彼女たちは密かに身につけた技術を武器にして、必ず後宮でのし上がるってくる。
 時には愛憎と復讐の末に主である妃を貶め、妃嬪の座を手にするのだ。
(そんな西八宮には、いくら宦官の姿をしている宵世でも入り込みにくい。……それに宵世の顔はの補佐官として認知されすぎている)
 皇帝との不和を避けるためにも、西八宮には近づかないのが一番だ。
「女官に術を授けた道士本人を見つけるのは諦めてください。それにしても、あやかしを封じて従属させ、餓死寸前まで追い込んで使役するとは……おぞまし過ぎます。絶対に関わり合いたくない」
「なにせお前はあやかし〝饕餮(とうてつ)〟だしな。しかも妖術も使えず、あやかしの気配がわからない、鈍感な」
 筆を止めて、完全なる人間の肉体を持つ宵世を見上げた紫淵は、東宮補佐官として有能な宦官――いや、知己の悪友に向けてにやりと微笑む。
「うるさいですよ。僕はこの人間らしい成長する肉体を得るために、最高位の霊力を全振りしたんです。それにあやかしの気配はわからなくても、人間の気配はいくらでもわかります。狼よりも耳が良いですし、狼よりも鼻が利きます」
「それから?」
「暗器も習得しました。僕以外に紫淵様の補佐官を務めるに相応しい人材はいません」
「ははっ、違いないな」
 いつもの応酬を繰り広げた悪友たちはくすりと微笑み合う。
(もしここに苺苺がいたら、宵世の正体に飛び上がるほど驚いただろうな。彼女は宵世のことを有能すぎる宦官としか考えていないだろうから)
 紅玉宮に苺苺を住ませることになってからの三日間は、わざと豪華な茶会を催して侍女五人を忙しくさせ、朝餉や夕餉から徹底的に隔離した。
 呪毒が宿らない安全な食事の時間を作り、苺苺に安心して料理を楽しんでもらうためだ。
(水星宮に対する尚食局の女官と宦官たちの嫌がらせは、すでに調査をした宵世から聞き及んでいる)
 報告を聞いた時の紫淵は無表情だったが、「ふぅん?」と彼が相槌を打った瞬間には、怒りで筆が折れていたほどだ。もちろん全員処罰は下した。
(紅玉宮に来てからは苺苺も食事を楽しんでくれている様子なので、なによりだと思う)
 そして、ふたりの妃のために給仕に励む女官たちも、自己肯定感や責任感が強くなっているようで、紅玉宮の女官としてさらに誇り高くあろうとしているのがわかる。
 これにより、向けられる小さな悪意はかなり減少傾向にあるらしい。
(紅玉宮の女官が抱く悪意を一掃できる日も近いだろう。……問題は八つ刻だ)
 たくさんの茶菓子や点心、各州から取り寄せたお茶で、卓子の上は毎日華やかな食器や茶器でいっぱいになる。
 そのおかげで苺苺の持参した『龍血の銘々皿』を上手く隠してくれたので、呪毒が宿った食べ物は紫淵でも認知できた。
(呪毒は変わらず宿っているのに、呪靄(じゅあい)や呪妖は見つからないというのは、よほどの精神力であると苺苺も唸っていたな)
 紫淵も木蘭の姿で五人の侍女をそれとなく見張り、謀の痕跡や暗殺の証拠を得られないかと観察しているが――……彼女たちは、いっそ恐ろしいくらいに静かだった。
(茶会の内容を簡略化し、ひとりずつに準備を任せたら一発で犯人が特定できるだろうが……)
 紫淵があえてそうしないのは、どうせ厨房かどこかで手の空いている誰かが手伝うに決まっているので意味がないからである。
(二人一組にしようが、三人一組にしようが結果は同じだろうしな)
 それからもうひとつ、厄介な理由がある。
 元々一緒に仕事をしていた女官達の序列を、安易に崩さないためだ。
(後宮ではなにが女官同士の(いさか)いにつながるかわからない)
 本人たちが争わずとも、その下についている女官たちが勝手に対立を始めたりもする。
(任せる仕事内容によっても、『主人に贔屓にされている』だの『お前のせいで遠ざけられた』だのと問題になる場合もあるしな……。不満を募らせた末に、木蘭暗殺を企てる女官に肩入して派閥化されても困る)
 はあぁ、と知らず知らずのうちに疲れが溜まったため息がでる。
 結局、五人が朝餉と夕餉に手出ししないよう、日替わりで面倒な茶菓子を作らせて足止めするしかない。
 そのせいで苺苺には呪毒の宿る怪しげな茶菓子を毎日食べてもらうしかなく、夜にはぬい様と名付けられた形代を手に、真っ暗闇の紅玉宮を歩き回ってもらうほかなかった。
 女官ではなく〝妃〟である彼女に頼りきりになり、紫淵は申し訳なく思う。
(犯人探しが終わったら、ふたりでのんびり過ごせるだろうか。そろそろ御花園の油桐花(ヨートンファ)が散る頃だ。提燈(あかり)を持って、深夜に立夏雪(りっかのゆき)を見に行ってもいいかもしれない)
 春の終わりに降る、小さな花の雪。この国ではそれを立夏雪と呼ぶ。
(油桐花の白い花がくるくると舞い降りてくる中、あの銀花亭で密かに踊っていた舞いを見せてくれと頼んだら、近くで見せてくれるだろうか)
 道を埋め尽くす立夏雪が彼女の美しい仕草ひとつで舞い上がるさまを想像するだけで、なぜだか胸が締めつけられた。
(……苺苺は今頃なにをして過ごしているだろう。何事もなく過ごしていたらいいが)
 最近、気がつくとこうして彼女のことで頭の中がいっぱいになっていて、居ても立っても居られなくなる現象が続いている。
(最初は、自分のために彼女が〝異能の巫女〟として昼夜問わず悪意を封じて祓ってくれていることに、人知れず独占できる悦びのような高揚感のような……言語化しにくい感情を覚えていたのに。変だ)
 それが時間が経つにつれ、彼女の身の安全が心配になってたまらなくなるのだ。
 どうしようもなく、そわそわする。
(今夜は暗器を携えた宵世もここにいて、苺苺のそばには誰もいない。あやかしを退ける力や、悪意を封じて祓う術はこの目で見ていたから知っている。でももし、それ以外の彼女が対処できない事柄が彼女の身に降りかかったら)
 そう考えるだけで、紫淵の胸中は不安でざわめき、心臓が鷲掴みされたみたいに苦しくなる。
 それでも、紫淵は皇太子として、紅玉宮から離れなくてはならない。
(宵世と零理(レイリ)以外に、怪異に侵されている俺の補佐ができる人間はいない。……そう思ってこの十八年間生きてきた)
 だが今は――もうひとり、そばにいてほしい人間ができた。
 彼女と過ごす日々は明るく面白く、どれもこれもが新鮮で、なぜか視界が澄んできらめいているような錯覚に陥る。
 暗殺の危機に瀕しているというのに……まやかしの穏やかな日常が、ずっと続けばいいのにとさえ思い始めている。
 すべてが解決したらいつか叶うだろうか。
 皇太子妃として苺苺が自分の隣に立ち、手を取ってくれたなら、どれほど――。
(……は? 俺は今、一体なにを考えていた……?) 
 紫淵は額を押さえて低く唸る。
(怪異が消えたらいつか解体するこの後宮に、未来はない)
 そう、思うのに。
「宵世、ちょっと紅玉宮に行ってきてくれ」
「どうしてです? と、聞かなくてももうわかりますけどね。白蛇妃でしょう。いいですよ、僕は紫淵様の暗器ですからね」
「不審な気配がないかの確認だけでいい」
「わかりました。まったく、あやかし使いが荒いのは()(あるじ)も一緒ですね」
「すまん」
「そう思うのなら、僕の机にある書類をすべて片付けておいてください」
「わかった。……って、は? これ、全部か?」
 宵世のいなくなった部屋で、紫淵は山積みになった書類の柱を見つけて「嘘だろう……」と呟いた。