「にゃーん?」
「猫魈様、隠れていてくださってありがとうございます。ご無事でなによりです」
「にゃおん」
「はい。どうやら披帛と……薬壺のようです」
 頭から被せられていたのは、紗織りで作られた上質な薄絹の披帛(ストール)だった。
 白木蓮に反射する月光と灯篭の光を帯びて、まるで天女の羽衣のごとくきらめいている。
 人々が忌避し喪服としてしか纏わぬ純白は、白家にとって尊ぶべき色だ。
 この状況からして、死装束として与えられたのではなく、白家出身の苺苺を(おもんぱか)ってこの色を贈ってくれたのだろう。
(もしかして夜の肌寒さを心配してくれたのでしょうか? お礼も、皇太子殿下に代わって伝えてくださったのでしょうし、お気遣いがとっても細やかなお方です)
 苺苺は手のひらに握らされていた小さな薬壺に視線を落とす。
 紫水晶を思わせる硝子(ガラス)製の遮光壷(しゃこうつぼ)には白木蓮が描かれていて、精緻を極めた細工が凝らされていた。
 硝子製というだけでも相当な価値がある高級品だと分かるが、見るからに腕利きの匠によって製作、絵付けを施された特注の工芸品だ。
(これでどれ程の刺繍糸が購入できるでしょうか……。考えただけでも目眩がします)
 蓋を開けてみると、中身は数種類の生薬を混ぜ込んだ匂いのする軟膏(なんこう)が入っていた。
 まだ新しい。精製された色味からして宮廷医による調薬だろう。
(わあ、軟膏の傷薬をいただけるなんて。とってもありがたいです)
 なにせ白蛇妃が直接宮廷医に会いに行っても、正しく診察して薬を処方してくれるのかは疑問である。
『お持ちだという異能で治されては?』
と放置されてもおかしくないし、最悪の場合、薬と偽って毒を盛られる可能性も否定できない。
 ――【後宮には人の顔をした魑魅魍魎が跋扈している】
 とは、数代前の『白蛇の娘』の書き残した言葉だ。
〝悪意〟は異能を使って封じられるが、正真正銘の〝毒〟となると避けるのは難しいのである。
(悪鬼武官様は皇太子殿下直属ですし、事件のあらましを聞いて『もしも怪我があれば』とご用意してくださったのかもしれませんね。それにしてもこの意匠は)
 苺苺は悪鬼武官から受け取った薬壷を観察する。
「――間違いありません」
 キラリと苺苺の紅珊瑚の双眸が光る。
「この紫水晶のようなお色は、絶対に木蘭(ムーラン)様の瞳を想像して製作されたもの。そしてこの美しい木蓮の意匠。薬壷にも木蓮をあしらうだなんて、悪鬼武官様も実は木蘭様推しだったのですね……!」
(それでお礼のお言葉やお品と、安全な傷薬をわざわざわたくしに……!)
「にゃ?」
「木蘭様推しの方とはつゆ知らず、楽しいお喋りの機会を逃してしまいましたっ! せっかくの機会でしたのにっ」
 もったいなかったです、と苺苺は手にしていた純白の披帛を見つめる。
「お礼もお伝えできずに終わってしまいましたし……。次こそはお茶にお誘いして、ぜひともお友達になれたらよいのですが」
「にゃおん」
「ええ。恐ろしい女官の方の脅威から木蘭様をお守りするためにも、木蘭様をお慕いする者同士の情報交換が必要だと思うのです。次こそ、頑張りましょう!」
「にゃーん!」
「にゃーんなのです!」
 木蘭様推しの友人候補を見つけて、今日一日の疲労をすっかり忘れてしまった苺苺は、木蘭を思わせる素敵な薬壷をぎゅうぎゅうと胸に抱きしめ、
「白苺苺、湧き上がる嬉しさを『喜びの舞』で表現いたしますっ」
と誰もいない舞台上で宣言するやいなや、くるくると踊りながら猫魈と大いに戯れたのだった。


 ◇◇◇


 そんな白蛇妃の様子を、銀花亭がよく見える位置にある楼閣から見守る者たちがふたり。
「どうやら上手くいったみたいですね、紫淵(シエン)様。すごく喜んでおられるようです。紫淵様が銀花亭に仮初めの妃を招くと聞いた時には心底驚きましたが、急いで準備させた甲斐がありましたね」
「ああ、そうだな……」
「『白蛇の娘』も、やはり年頃の女人ということでしょうか。贈り物であんな風に喜ぶとは、想像もしていませんでした。彼女が少しでも贈り物を雑に扱えば、僕が回収してこようと思っていたのに残念です」
「ああ、そうだな……」
「おや。僕が回収しても良かったのですか?」
「………………………」
 仙界と見まごうほど幻想的な銀花亭で、楽しげに舞い踊っている白蛇妃の、真珠色の真っ白な長髪が灯籠の明かりを受けてきらめいている。
 月花の光をまとう披帛がひらひらと空を駆け、白く輝く世界を彩りはためく。
 やわらかな襦裙(スカート)の裾は、彼女がくるくると舞うたびに大輪の花のごとく開いた。
 まるで清廉な月宮殿の仙女が人間に隠れて戯れているかのようだ。
 三尾の猫のあやかしがぴょんと円卓から跳び上がり、上機嫌で彼女の肩に乗って、風に舞う羽衣を追いかけながら彼女の腕を移動する。
 それがより一層、非現実的な風景を作り上げていて、紫淵はただただ見事だと思った。
(あの猫のあやかしが持つ本来の気性を知れたのは、白家の姫君の判断力の賜物だろう)
 そのお陰で、紫淵もこれが単なるあやかし侵入事件の末の事故ではなく、木蘭を暗殺しようとしている何者かが背後で糸を引いている可能性に気がつけた。
 ……それにしても。
(あんなに純粋無垢な笑みを、かつて向けられたことがあっただろうか)
 紫淵(シエン)の瞼には、こちらを見上げる彼女の笑みが焼き付いていた。
 やわらかく細められた、白妙のけぶるような長い睫毛に包まれた大きな紅珊瑚の瞳が、心底愛おしげに己を映す……その笑みが。
 胸の奥底に甘い痺れが走り、ぎゅっと切なく締めつけられる。
 紫淵が思考の海に浸りつつ眼下を眺めていると、ふと、朧げな記憶が蘇る。
 そうして、酷い呪詛に蝕まれていた幼い自分の命を救ってくれた、七歳の少女と重なった。
(……そうか。かつても、彼女は)
 丑三つ刻、悪夢のような嵐の中――悪鬼の呪詛に蝕まれて鬼と化し、死を待つしかなかった九歳の紫淵のもとに、次期白家当主の兄・白静嘉とともにやって来た『白蛇の娘』。
 あの頃、紫淵の皮膚には激痛をともなう悪鬼の呪詛が()いずり回り、頭部には鬼の角が生え揃い、確かに醜い姿に変わり果てていた。
 だが彼女は、そんな姿の自分に怯まなかった。
 彼女は幼い少女とは思えぬ所作でてきぱきと動き、清らかな水を汲んできては手ぬぐいを絞ると、紫淵の額に浮かぶ玉の汗を一生懸命に拭ってくれた。
(そうして彼女の命を削ってまでも、俺の命を……)
『未来の紫淵殿下は凛々しくて、お強くて、とってもかわゆい方なのです。……だから、ご安心ください。死んだりなんか絶対にしませんから』
 彼女は何度も、まるで未来でも見てきたかのように力強く口にする。
 あの激励が、幼い自分にどれほど響いただろう。
(彼女の手を握って礼を告げたいがために、〝どんな手を使ってでもこの後宮で生きながらえてやる〟と誓ったのに……。なぜ、今まで忘れていたんだ)
 こんな強烈な記憶をすべて忘れていたなんて不自然だ。
(呪詛を無理やり封じた影響だろうか。この怪異に侵され始めたのが十歳を越えたあたりだったのを考えると、辻褄は合う。……それにしても。なんだか大切な感情を忘れている気がして、胸の奥がもやもやする)
 彼女も、あの様子ではすべて忘れているのだろう。
 同じように忘れているのならまだいい。
 ただ、異能を持つと噂の『白蛇の娘』を頼った依頼人のひとりとして、有象無象と一緒くたに記憶の奥底に沈んでいるのなら寂しいと思った。
「…………どちらにしろ、もっと手際良く渡す予定だったのに」
 と紫淵は思わず顔を覆って、深く長い溜息をつく。
 彼女の笑みをみた瞬間、胸が鷲掴みされたみたいに苦しくなり、つい咄嗟に披帛(ひはく)で彼女の顔を隠してしまった。あんな粗野な渡し方は自分らしくない。
(ただでさえ大きな問題を抱えているんだ。できれば妃嬪とは一切関わり会いたくない。だからわざわざ名乗り出るつもりもなかったし、実際そうした)
 そうした、のだが。
 なぜだか、あの『白蛇の娘』のことになると胸になにかがつっかえたような妙な気持ちになる。
「はあ……。紫淵様、どうなさいましたか? ぼーっとしておいでのようですが」
「わからない。ただ目が離せないというか、もっと見ていたいというか、見ていて飽きないなとは思っている」
「なんですかそれは」
 皇太子の住まう〝天藍宮(てんらんきゅう)〟――いわゆる東宮御所直属の筆頭宦官、宵世(ショウセ)は胡乱げな様子で自らの主人を見上げる。
 紫淵の幼馴染にあたる彼は、厳しく辛辣な部分もあるが頼り甲斐のある補佐官だ。
 紫淵が病気で宮に篭っている(・・・・・・・・・・)間も、執務室で上手く立ち回ってくれている。
 だがその補佐官でさえ、後宮の歴史に倣って白苺苺が紫淵の脅威になると考えているらしい。
(果たして脅威になるだろうか? 観客もいない無人の四阿で心のままに舞い踊る、あの白蛇妃が)
 紫淵は『白蛇の娘』と初めて相見えた時の――いや、本来ならば二度目であった邂逅を思い出す。
(正義感の強い、実直な娘だと思う。多少、自己犠牲的なところはあるが)
 その印象は自身が九歳であった頃と寸分違わない。
(対価も要求せず、褒美もねだらず、心遣いを真摯に受け止めて喜ぶ。そのような女性が本当にこの世に存在しているとは、今でも信じがたい。後宮で生まれ育った俺にとって、女性とは……常に自分だけが愛されるためだけに競い合い、嘘をつき、妬み、自身の手を汚さずに殺しあう生き物だ)
 血の繋がった皇后からでさえ、本当の意味での愛など与えられた記憶がない。
 妃嬪とは、皇帝から向けられる寵愛を争う生き物なのだ。
 だからこそ、最下級妃の白苺苺が皇太子殿下の寵姫と噂の木蘭を、凶暴化していたあやかしから助けるという捨て身の行動には、驚嘆するしかなかった。
(あの時、君は死んでいてもおかしくはなかった。他ならぬ――俺自身が、そう感じたのだから)
 幼い身体は不測の事態にとっさに反応できず、その一瞬の遅れのせいで、懐剣を抜くことすらできなかった。
 だから懐剣を抜く一瞬を作るために、短い足に全力を集中させて、駆け出すほかなかったのだ。
 まあ、それでも鍛錬の成果を無に返す幼くて短い手足のせいで、思いっきり転んでしまったのだが。
(対峙すれば、喰われる。あの大型の猫のあやかしと目が合った瞬間、本能でわかった)
 そんな状況下で、純粋な正義感から多少無謀な行動を取る様子は、他者を貶めていた歴代の『白蛇の娘』とは一線を画している。
 宵世は『狂言じゃないか』と進言したが、そうは思えない。
 大体あの状況ではどうあがいても彼女に利益などないし、もし狂言をするような妃嬪ならば大切な身体を杖で打たせるような真似も、あやかし用の地下牢に投獄される真似もしないだろう。
(そもそも、あんな表情で木蘭を心配できる人間が犯人なわけがない。脅威は他にある)
 確固たる確信があるからこそ、紫淵は自らの手で宦官たちを粛清したのだ。
(紅玉宮の外からもたらされる脅威のみを警戒していたが、抜かったな。だが、それにしても……。彼女が『白蛇の娘』というだけであれほどまでに虐げられていたなんて)
 妃嬪を避けての生活を徹底していた己のことだ。此度の事件がなければ、皇太子宮を出るまで知る由もなかっただろう。
 体調の問題もあり、皇太子としての政務以外に手が回っていないのは己の落ち度。
 しかし、これほどまでに聞き及んでいる報告とは異なる皇太子宮の様子に、なにか改善策を打ち立てねばと思う。
(父上ならば『後宮の管理は皇后に任せている。皇太子宮もそれに倣え。妃嬪の争いに(ちん)やお主が出る幕はない』とおっしゃられるだろうが、そうともいかない。なにせ皇太子宮の最上級妃は)
 木蘭(おれ)だ。
「宵世、今夜中に白蛇妃の置かれている状況を調べてくれ」
「……どういう風の吹きまわしです?」
「妙な顔で見るな。べつに他意はない」
「だと良いのですが。ここに集められているのは〝仮初めの妃嬪〟だと、本日は何度ご説明したらよろしいので? 紫淵様が妃嬪に目を掛ける必要はありません」
 銀花亭から完全に身体を背けた宵世は、眉を吊り上げて紫淵を咎める。
 宵世が〝仮初めの妃嬪〟だと呼ぶ理由は、もしも燐家最大の秘密を知ってしまう妃嬪が出たら、皇帝陛下の命により粛清対象となるからだ。
 病死か、毒による暗殺か……後ろ暗い親兄弟の罪を詮索され、なんらかの汚名を着せられることになるかもしれない。
(無駄な死をもたらさないためにも、できれば皇太子として誰とも深く関わることなく、怪異が解けるまでの時間を稼げたらいい。それこそが、ひいては皇太子宮に住む多くの人間のためになる)
「木蘭様のお命を第一に考えると、妃嬪は総入れ替えなんて事態もありえます。皇帝陛下の命令に従い、口封じをせねばいけない場合もあるでしょう。すべての処断を紫淵様がなさるんです。――白蛇妃様も含めて」
「……わかっている」
 わかっているからこそ、他の妃嬪には一瞥すらくれたことはない。境遇に興味を抱いたこともない。
 ましてや、贈り物など――。
「誰かを見初めようだなんて思っていないから安心してくれ」
 そう口にしつつ、紫淵は少し残念だと思うような、胸の内側を引っかかれるような……もやもやとした感情が燻っているのに無理やり蓋をして……――深追いするのを止めた。
「とりあえず事は全て済みました。不眠症と胸の痛みに関しては宮廷医のところにでも行って、それから朝まで政務ですよ。紫淵様の時間は貴重(・・・・・・・・・)なんですから、白蛇妃なんかに構っている暇はありません。行きましょう」
「……わかった」
 紫淵は遠い銀花亭で贈り物を抱きしめる苺苺をひっそりと目に焼き付けてから、をひらりと踵を返す。
 灯の消された提燈を持った宵世は、周囲に人の気配がないことを探ると、主人の背中を守るよう暗い闇に溶けた。


 ◇◇◇


 その後――。一人と一匹が喜びの舞で大いに戯れ、再びお腹が空いた猫魈が残りの料理をたらふく食べて、円卓に乗る皿が全て空っぽになった頃。
 猫魈のお気に入りになっていたぬい様が、鳥籠の中でザクッ! と刃物に切りつけられたかのような音を立てて裂けた。
「ふみゃっ!?」
「あわわわ、猫魈様、大丈夫ですか!?」
 大きな音に驚いた猫魈が円卓から滑り落ちる。
 苺苺は毛を逆立てた猫魈を抱き上げると、安心させるように背中をよしよしと撫でた。
「すみません、猫魈様。まさかこんなに早く壊れてしまうとは思わず、怖がらせてしまいましたね」
 普段ならぬいぐるみに呪靄(じゅあい)が封じられて裂けるまで、毛髪を一本入れた完璧な状態でも十二刻(二十四時間)はあるはずである。
(それが不完全な状態にありながら、たった半日ほどで裂けてしまうなんて)
 木蘭を象ったぬいぐるみに封じられるのは、木蘭へ向けられた悪意だけ。
 けれど呪靄程度ではこんなに早く裂けたりしない。
(ということは、猫魈様を操って木蘭様を襲わせようとしていた方の、計画失敗時点から抱いていた強い悪意が呪妖に変化し続けていて……先ほどまでひっきりなしに封じられていたということに。この形代は完璧とは言えませんので、封じられていない祓いもれもあるはずですわ)
 抱いていた猫魈をそっと円卓に乗せてから、苺苺は鳥籠の中で裂けたぬい様に手を伸ばす。
「危ないですから、こちらは回収させていただきますね」
「ふみゅうぅ」
 猫魈の耳と尻尾がへたりと垂れ下がる。
 自分がせっかくもらったお気に入りのぬいぐるみが、苺苺の手に戻るのが悲しいのだろう。
 あまりにも悲しそうな表情をする三毛猫に、苺苺はぬい様を袂に仕舞いながら「申し訳ありませんっ」と罪悪感でいっぱいになった。
(つい繕い直して与えたくなってしまいますが、ここはグッと我慢です)
「――そうですわ。代わりにこちらを」
 苺苺は肩にかけていた純白の披帛(ストール)をするすると取って、その薄絹の中央の一部に、銀糸を通した刺繍針を刺した。
 スイスイと異能を使って針を刺し進め、魔除けの花葉紋(かようもん)を描いていく。
 それから刺繍を施した部分一帯を丸くして綿を入れながら縫い止め、最後にふわりと舞っていた猫魈の毛を入れて、鈴を模した布偶(ぬいぐるみ)を作り上げた。
 これは猫魈を象徴した形代だ。
(猫さんと言えば、やっぱり鈴ですよね。猫魈様は三毛猫さんにそっくりですし)
 銀糸で施した花葉紋の刺繍のおかげで、光沢のあるおしゃれな鈴がついた披帛に見える。
 これから先、猫魈に向けられる悪意はこの形代に自動的に封じられるだろう。
 山奥に住んでいるというから、人間から悪意を向けられるほどの接触はないかもしれないが、もしまた悪意を持つ道士に捕まりそうになったら、形代が身代わりとなって道術を封じられるかもしれない。魔除けの刺繍もきっと役に立ってくれるだろう。
(……それがどれほど持つかは、わかりませんが)
 悪意が封じられる限界を超えると、先ほどぬい様のように切り裂かれて壊れてしまうわけだが、集まった悪意が精製されて純度の高い呪いへと姿を変えると、瘴気(しょうき)を放つ燐火(りんか)が生じる。
 形代が壊れて燐火に呑まれるまでには少しだけ時間の猶予がある。
 いつもはその間に形代を安全に処理するのだが、猫魈にそれができない。
(けれど燐火が生じたとしても、猫魈様はあやかしさんです。強い瘴気を放つ燐火も安全に取り込んで、逆に自身の霊力の蓄えとできるはずですわ)
 霊力が増えればあやかしとしての位もあがる。
 並の道士に使役されることもなくなるし、一石二鳥だ。
「猫魈様、こちらが『白蛇の刑』その二でございます」
「にゃっ?」
「ふふっ、贈り物です」
 苺苺は音の鳴らない鈴付きの披帛を猫魈の首に巻き、後ろで可愛らしく蝶結びにした。
「本日、悪鬼武官様からいただいたお品は、木蘭様をお助けした感謝の印にくださったもの。ということは、わたくしと猫魈様、ふたりのものです」
 苺苺はそっと猫魈のつぶらな瞳と視線を合わせる。
「わたくしは傷薬をいただきましたから、こちらは猫魈様に。わたくしたちの友情の証です」
「ふにゃ……っ」
 ぱぁあっと猫魈の表情が明るくなる。
 そして妖術を使って、長かったふわふわの蝶結びを現在の体躯にぴったりの短さにしてみせた。
「わあ、お似合いですっ。かわゆいですよ」
「にゃおんっ」
 猫魈はありがとうと感謝のひと鳴きをする。
「悪意を封じる刺繍を施していますから、猫魈様を必ずやお守りするでしょう」
 苺苺はふわふわの蝶結びを整え直し、夜空の月を見上げる。
(猫魈様と出会ってからの一日は、長かったようで短い、不思議な一日でした)
 ――そろそろお別れの時間だ。
 猫魈(ねこしょう)にあやかし捕物用の鳥籠にもう一度だけ入ってもらい、二階建ての四阿(あずまや)の階段を降りると、闇夜に紛れてコソコソと御花園の奥を目指す。
 御花園の奥地には後宮の城壁と、宮廷の城壁の屋根が重なり合う部分がある。
(そこさえ越えれば、城の外です)
 りーん、りーんと春虫の音だけが辺りに響いている。
 虫が苦手な苺苺であるが、今夜ばかりは城壁警備の宦官に見つかりやしないかと、そっちの方にドキドキしていた。
(でも……城壁警備の宦官の方、あまりお見かけしませんね)
 夜に出歩いたことはないが、ここは後宮。想像ではもっと多いと思っていた。
 それとも今夜はなにか問題が発生して、どこか別の場所に集まっているのだろうか。木蘭の件があった後だ。その可能性も十分にあった。
 しばらく進むと、目的地であった城壁の前にはまったくひと気がなかった。
 しかも、ちょうどよく植え込みには置き忘れられたらしい長梯子があるではないか。
 雑然とした放置の仕方からして、御花園の庭師ではなく城壁警備の宦官が急用かなにかで慌てて隠し置いた雰囲気だ。
(ふむ、急な腹痛のお手洗いでしょうか? それは大変です。すぐにお返ししますのでお借りいたしますね)
 と心の中で声をかけ、苺苺は物音を立てないように慎重に長梯子を城壁へ掛けた。
「私の手が城壁の上を越えたら、結界に傷つくこともありませんからね」
 よいしょ、よいしょ……と城壁に登った苺苺は、鳥籠から猫魈を出す。
 そして自らの手で、その外へと送り出した。
「にゃぁん?」
「そうです、これが『白蛇の刑』のその三、帰郷のお手伝いです。……危ないですから、もうお城に入ってはいけませんよ」
 三毛猫の猫魈は名残惜しそうに苺苺を見つめると、城壁の向こう側へひらりと跳躍する。
 純白の友情の証が風に靡いた。
「にゃーお、にゃおん」
「はいっ。猫魈様も、どうかお元気で。道中お気をつけて!」
 三つの尾が揺れるふもふの背中に、苺苺は小さく手を振る。
 こうして苺苺は、後宮で初めてできた友人と、笑顔でお別れしたのだった。

 ひとりきりになると、なんだか疲労がどっと押し寄せてくるものである。
(思い返してみると、忙しい一日だったかもしれません)
 物寂しい気持ちになりながらコソコソと御花園を出て、心身ともにクタクタになった苺苺が水星宮に帰ると――室内は、酷い有様だった。
「し、白蛇ちゃんだけでなく、白蛇ちゃん抱き枕までもが……!」
 円卓に置いていた一尺(約三十センチ)のぬいぐるみだけでなく、寝台に横たわっていた三尺(約九十センチ)のぬいぐるみまでもが、無惨に引きちぎられズタボロになっていた。
「ひ、ひぇえ……っ。白蛇ちゃん抱き枕までやられるなんて……。こんなことは初めてです」
 大きい抱き枕ぬいぐるみは、通常の白蛇ちゃんの十倍以上の効力を発揮する。
 しかし、大抵は抱き枕ぬいぐるみに悪意が及ぶ以前に、通常の白蛇ちゃんが身代わりとなってくれるので、ズタボロにされたのは初めてだった。
「よ、よほどわたくしに恨みつらみが……。どなたでしょうか……。やっぱり、猫魈様を木蘭様へけしかけた恐ろしい女官の方でしょうか……」
「おおお恐ろしや!」と苺苺は誰もいない水星宮で飛び上がった。
 無駄にビクビクと周囲を警戒しながら、新しい身代わりを用意する。
 それから袂に入れていたぬい様を取り出すと、ズタボロになった白蛇ちゃんたちと一緒に棺にしている木箱におさめ、「よいしょ」と抱えて、水星宮の奥へと向かった。
 湯殿の外には、やっつけ仕事で造られたような小さな(かまど)がある。そこで湯を沸かして(たらい)湯船(ゆぶね)に運ぶのだ。
「深夜ですがひと仕事です」
 苺苺は白蛇ちゃんたちを薪と一緒にくべると、火打ち石を持ち、手慣れた様子で火をつけた。
 ズタボロの白蛇ちゃんたちが赤い火に呑まれる。
 煙が天に登った。
「本日もお守りくださあり、ありがとうございました」
 苺苺は感謝の気持ちでそれを見送る。
「は〜〜〜。春の夜は冷えますね。ささ、早く温かいお風呂に入っちゃいましょう。湯浴みを終えたら、新しい木蘭様ぬいぐるみを作らなくては」
 水星宮の湯殿の湯船といえば人ひとりが入れるくらいの木桶が置かれているだけで、他の妃たちの宮の湯殿より何倍も小さく、それはそれは簡素らしい。女官たちの噂で聞いた。
 が、この木桶がまた湯を満たすのに時間がかからなくて便利がいい。
 排水も掃除も楽なので、苺苺にとっては優れもののお気に入りである。
(なんたって、余った時間で刺繍がうーんとできます)
「恐ろしい女官の方の脅威はまだ去っていないはずです。木蘭様をお守りするためにも、徹夜でたっくさん作っちゃいましょう! えいえいおうですわ! ふんふんふ〜ん」
 苺苺は鼻歌を歌いながら、白蛇ちゃんをくべた火で湯浴み用の湯を沸かすのだった。