あやかし用の牢獄を出ると、空には満月が出ていた。
戌の刻を告げる鐘が、月夜の後宮に響く。
(昼間はあんなに暖かかったのに、夜はとても涼しくなりました。少し肌寒いくらいです)
苺苺は猫魈とぬい様が入った鳥籠を手に肩を擦りつつ、先導する宦官の後ろを歩く。
彼の名は朔宵世。
東宮の侍童として宮廷に入って八年。十八歳という若さで、皇太子殿下の身の回りの世話を一手に担う宦官の筆頭、〝東宮補佐官〟にまで異例の昇進を遂げた端麗な容姿の青年だ。
木製の細やかな透し彫りが施された提燈を手に持って現れた彼は、「この先は僕が預かる」と告げて、牢から出た苺苺の身柄を他の宦官たちから有無を言わさず引き取った。
墨をこぼしたような黒髪は、うなじの辺りの短さで整えられている。
宦官ではあるが、中性的な美貌と涼しげな杏眼という組み合わせは、目の保養になると女官人気は凄まじいらしい。
だが男性にしては細腰なその見た目と、皇帝陛下が命じたという異例の地位から、他の宦官達からは『皇帝陛下の稚児』などと邪推されてやっかまれている。
というのは、先ほど目の前で繰り広げられた宦官達の言い争いから、苺苺も知ったことだった。
そんな宵世の性格は厳格そのもの。
後宮の規律や歴史を重んじるからこそ、苺苺への当たりも非常に厳しかった。
なにしろ歴史上での白蛇妃は、妃嬪を害した犯人と記される方が多い。
(皆様とても刺繍の腕が優れた優しい方々で、まったくの濡れ衣です。『白蛇の娘』に代々伝わる書物に書き加えられている文字を見ればわかります)
後世の『白蛇の娘』へ正しい知識を残そうと、書き連ねられた言葉は思慮深く、儚い。
自分の二の舞にはならないでほしいと切々と願い、姉のように書物からそっと語りかけてくる彼女達が、下手人であるはずがなかった。
しかし、それを証明できる人間はいない。
皇帝陛下や皇太子殿下に過去の事件の再調査を依頼することすらできない。
苺苺もまた、彼女たちと同じ――『白蛇の娘』なのだ。
(けれども、わたくしが後宮に来たのは『白蛇の娘』の冤罪を晴らすためではありません。わたくしはお慕いしている木蘭様を全力で応援し、お守りするためだけに馳せ参じたのです)
だから、こんな扱いに怯んでいる場合ではない。
苺苺の瞳はごうごうと熱い炎で燃えていた。
宵世が手に持つ提燈が薄暗い夜道を照らす中、りーんりーんと春の虫の音が響く。
高い塀に囲まれた通りを行き、知らぬ名の門を潜り、知らぬ廻廊を通ったところで、苺苺は「あのう……東宮補佐官様」と宵世の後ろからおずおずと話し掛けた。
「わたくしの住まう水星宮でしたら、こちらの門ではなく、あちらの門を通ってまっすぐ進んで北側の、鏡花泉のそばにあるのですが……?」
「ええ。もちろん場所は存じております」
「でしたら、東宮補佐官様はどちらに向かわれているのでしょうか……?」
苺苺はあやかし用の地下牢の場所が後宮のどこに位置するのかサッパリだったため、彼の道案内に疑問を持っていなかった。
が、見知った通りに出たことで、ようやく彼が自分をおとなしく水星宮に帰すつもりがないと気がついた。
苺苺は冷やりとしたものを感じて、固唾を吞む。
「『白蛇妃に滋養料理を』と、皇太子殿下より命を賜りましてございます。大変遅い時刻ではありますが、御花園の四阿に特別な夕餉をご用意いたしました」
「夕餉、ですか?」
「ええ」
皇太子殿下不在の第一回目の選妃姫において、審査員である皇后陛下と四夫人のそばに控えて進行役をしていた宵世は、苺苺を終始無視していた。
苺苺の番になり詩歌を披露しようとすれば、一言目を発す間も無く、『もう結構です。次の方、お入り下さい』と宵世に部屋からの退出を告げられたのは記憶に新しい。
それがどうだろう。
今は終始丁寧な口調で対応し、優等生的な微笑みまで浮かべているではないか。
(いったい、どういった風の吹き回しなのでしょう? 今夜の夕餉は猫魈様と半分こする予定ですのに。まさか! 白蛇の刑が怪しいとバレ、て……!?)
不安でドキドキと心臓の鼓動が増す。
(どどどどうやって切り抜けたらよいでしょうかっ)
「にゃぁお?」
ご飯たくさん? と目を輝かせた猫魈が、鳥籠の中でおすわりをしながら首を傾げる。
「しーっです、猫魈様」
苺苺は慌てふためきながら鳥籠を胸に抱き込んで、小声で猫魈に注意した。
「白蛇妃様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、お気遣いありがとうございます。ですがその、夕餉ならば水星宮でいただきますので、そちらに運んでいただければ、けけけ結構です」
(とにかくお断りを入れて水星宮に帰らなくては、わたくしだけでなく猫魈様も酷い目に合わせられ――)
まるで思考を読んでいたかのように、妃の歩幅など考えずにスタスタと先を急いでいた宵世が、ぴたりと立ち止まる。
彼は静かに苺苺へ向き直ると、ニコリと作り笑いを浮かべた。
「白蛇妃様。白蛇の冠をいただく貴女様が、皇太子殿下のお慈悲を無下になさるおつもりで?」
「え!? いいえ、そんなまさかっ」
まさか最下級妃が、皇太子殿下の命令逆らうつもりか?
そう言外に聞かれているのだと察し、苺苺は慌てふためく。
宵世はニコリと作り笑いのまま頷くと、何事もなかったかのように歩き出した。
「貴姫様のお命を助けられたのです。本日ばかりは〝千年の冷宮〟で過ごされずとも、天罰は与えられぬでしょう」
丁寧な対応ではあるが、宵世の物言いはどことなく不満そうで、刺々しく感じられる。
千年の冷宮とは、最初の『白蛇の娘』が入宮した時に皇帝が読んだ詩の一節を抜き取った呼び名だ。
【在往後的千年、皇太子將再也不會有造訪白蛇娘子所居住之水星宮的時候了吧。】
『これより千年が経とうとも、白蛇の娘が住まう水星宮を皇太子が訪れることはないだろう』
というその詩の一節から転じて、『あやかしと交わった末に生まれた異能の娘として、冷宮で天罰を受けている』と揶揄する時に使われる。
宵世もそう告げたいのだろう。
彼の墨色の瞳は、明らかに苺苺を嫌悪している色を含んでいた。
そんな宵世の様子に、苺苺はぴーんとひらめいてしまった。
(東宮補佐官様はこんなにもわたくしを嫌っておられるので、白蛇の刑の嘘がバレていたらもっと嬉しそうに報告なさるはずです。これほどご不満そうだということは……皇太子殿下がわたくしに夕餉を振る舞えと命じられたことに納得が言っていないから。つまり、なにもバレていないということですわ!)
導き出した答えは、それはもう大正解に思えた。
苺苺は『それならよかったです』と、ドキドキしていた胸をこっそりなでおろす。
(けれど、水星宮で夕餉を取るのは無理そうですわね……。それならどうにかお人払いをして、猫魈様と食事をするしかありませんわ)
「にゃーん?」
「大丈夫です、お任せください」
苺苺は鳥籠の中の猫魈と視線を合わせ、静かに囁いた。
宵世に案内されたのは広大な御花園の、東八宮側にある四阿だった。
その中でも最も格式ある〝銀花亭〟に誘うかのごとく、廻廊の灯篭に煌々と炎が灯されているのを見た苺苺は、「ほわっ」と奇妙な悲鳴を上げてから声を失った。
「なんて荘厳美麗な景色なのでしょうか」
揺らめく炎の灯篭に照らされた白い花々の輪郭が淡く輝いている。
花々にあらかじめ水滴が吹き付けられているからだろうか、光の雫がつるりつるりと滑る様子は仙界にでも迷い込んだみたいだ。
「……これも、皇太子殿下がご用意を?」
「にゃあぁ」
鳥籠の中の猫魈は、ぬい様を前脚で捕まえながら小さく鳴く。
あやかしである猫魈でさえも、この幻想的な廻廊には驚いたらしい。
(木蘭様をお助けしたお礼として、短時間でここまで準備をされるとは……。これぞ、皇太子殿下が心から木蘭様を大切になさっている証拠。ああ、木蘭様こそ至高……。わたくしも同じ気持ちです……!)
二階建ての銀花亭へ続く階段の前に着くと、宵世は偽善的な笑みを浮かべて礼を取る。
「それでは白蛇妃様。案内を終えましたので、僕はこちらで失礼いたします」
「はい。ありがとうございました」
どうやらこの先はおひとりでどうぞ、ということらしい。
(東宮補佐官様がいらっしゃらないだけで幾分か気が楽になりましたが、これから配膳や見張り番の女官の方がいらっしゃるのかもしれません。ううう、どう言ってお人払いをしましょうか)
考えながら階段を登って、銀花亭に足を踏み入れる。
銀花亭の名前は、この四阿の眼下に咲く金銀花に由来する。
金銀花は立夏の頃から咲き始め、薄紅色の蕾は開花すると白くなり、受粉すると黄色の花に移り変わる。
まさに後宮に上がったばかりの妃嬪が皇帝に見初められ、国を背負う皇子の母となるさまのようで縁起が良いとして、西八宮側には〝金花亭〟、東八宮側には〝銀花亭〟と名付けられた四阿が建築された。
夜になると、金銀花のさらに甘い蜜を含んだ香りが四阿内に漂う。
それがことさらに甘美で情緒たっぷりだとかで、ここで夜の逢瀬をするのが妃嬪たちの夢らしい。
だが苺苺にとって、甘美な情緒なんてどうでも良かった。
(う〜〜〜っ。どうか、配膳の女官の他には誰もここへ来ませんように! 皆様すぐに帰ってくださいますように!)
他の妃嬪が恋い焦がれるような皇太子殿下との逢瀬など、これっぽっちも脳裏に過ぎりはしない苺苺は、黒い漆塗りの円卓を囲んでいる椅子を引いて腰掛ける。
続いて、猫魈が女官の目に晒されぬよう配慮しながら、隣の椅子に鳥籠を置いた。
「にゃあ」
「はい。白木蓮のいい香りがします」
穀雨の今、金銀花が咲くまでは玉蘭が見頃を迎えている。
銀花亭内には白い玉蘭の花の、やわらかく優美な香りが漂ってきていた。
(ここの玉蘭は、皇太子殿下が寵愛する木蘭様のために植えさせたのだというお噂。貴姫である木蘭様は、もしかしたら日常的にここでお茶を楽しまれているのかもしれません。このお席に座られたこともあるやも)
「……と、いうことはここは聖地……?」
苺苺は木蘭がかわゆくお茶をしている姿を想像して、赤く染まった頬を両手で抑える。
「ど、ど、ど、どうしましょう! 聖地を訪れるのには入念な心の準備が必要ですのにっ」
「にゃーん?」
「ええ、にゃーんでございます!!」
鳥籠の中の猫魈の問いかけに、苺苺は身を乗り出しながら興奮気味に返事をした。
そうこうしているうちに、宮廷料理の膳を持った女官たちが、ぞろぞろと四阿にやってきた。
円卓には、見たこともないほど豪華な夕餉が次々に並べられていく。
前菜には豌豆を使った色鮮やかな翡翠豆腐と、花山椒ときゅうりの酢醤油あえなどのいくつかの冷菜。
伝統的な蓋つきの器に盛られている清湯燕菜はまだ湯気が立っていた。
主菜は魚翅蓋飯、糖醋里脊、薑蔥炒龍躉。
點心は最高級の銀耳と蓮子、紅棗と枸杞子が入った銀耳蓮子紅棗湯。美容に良いと上級妃たちが好んで食べる、氷砂糖の優しい甘さが特徴の極上薬膳湯だ。身体を芯から温めてくれる。
「すごいです、點心まで……!」
苺苺は円卓を埋め尽くす至極の料理の数々に、ほっぺたを緩ませる。
お茶菓子に目が無い苺苺は、甘い湯物も大好物だった。
(女官の方は八人。むむ、多いですね。どうにかしてお人払いをしなければ……。どんな言い訳が良いのでしょうか)
そろりと猫魈と視線を合わせた苺苺は、考え事をしながら女官達をおずおずと見やる。
料理を並べ終わった彼女たちは、白蛇妃への給仕のために欄干のそばに控えて、なにやらヒソヒソ声で話し込んでいた。
「皇太子殿下に久しぶりにお会いできるかと思ったのに、白蛇の相手だなんて」
「迷惑よねぇ。私達だって忙しいのに」
「ここに立っているだけでも十分でしょう?」
「敬うべき相手ではないのだから給仕する必要もないわね」
「あら、給仕するふりをしてお皿を割ってやりましょうよ」
「ふふふ、いいわね。熱い湯で火傷でもしたらいいわ」
「これまで何百年も苦しめられてきた妃嬪たちの仇よ」
「時間はたっぷりあるものね。給仕のしがいがありそう」
その一人と、バチリと目が合う。
「……白蛇妃様、なにか御用でしょうか?」
「いえっ、ええっと」
(どうしましょう、どうしましょう、まだ言い訳を考えている途中でしたのに発言の順番が回ってきちゃいましたっ! 考えごとに没頭しすぎて会話の内容が全然聞き取れませんでしたが、皆様すごくイライラしたご様子で、こちらを睨まれていらっしゃいます……! なにか、この状況を切り抜けられる効果抜群な言葉はないでしょうか!? そう、先ほどの宦官の皆様方のように――ハッ)
苺苺は閃いた。
あの言葉しかない。なにがなんだかわからないが、あの言葉の出番だ。
「皆様聞いてください」
「なんでしょうか」
「い、今からあやかしさんに……『白蛇の刑』を執行します!」
苺苺が告げた瞬間、女官たちの耳にはピシャァァァァン!と雷鳴が轟いたかのように聞こえた。
「し、しろっ、白蛇の刑!?」
「そんな、し、しし白蛇の刑ですって……!?」
「なんて恐ろしいことを考えるの!」
女官たちは身を寄せ合い、やはりそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「こちらのお人払いをしていただかなければ……」
ドキドキと緊張感で胸がいっぱいの苺苺は、できるだけ場の雰囲気を盛り上げるような――恐怖を煽るような表情を作る。
「な、なに?」
「なんなの!?」
「――間違って、巻き込んでしまうやもしれませんんんんん!」
「ひ、ひいぃぃぃぃぃぃいっ!!」
「ごごご御前を失礼いたします〜〜〜っ!!!!」
「わっ私どもはこれにてぇぇぇぇぇぇええ!!!!」
「朝方片付けに参りますので、心ゆくまでお使いくださいぃぃぃぃぃぃ」
女官たちは一斉に顔を真っ青にして飛び上がった。そして転げ落ちるように銀花亭の階段を駆け下りていき、足をもつれさせながら逃げていく。
ここへ来た時の優雅さはかなぐり捨て、我先にと、とにかく苺苺から離れることに必死だった。
苺苺はあまりの様子にポカンと唇を開いたまま固まる。
「皆様の考える『白蛇の刑』とは、一体なんなのでしょうか……?」
「にゃー?」
「わわっ、もうあんなところに。皆様とってもお元気ですね」
苺苺は『白蛇の刑』という謎の言葉の威力を再び思い知るとともに、一難乗り越えたことにほっと胸をなでおろす。
(心臓がいまだにドキドキしています)
けれど「ひぎゃぁぁっ」という悲鳴が遠くの方に消えていくにつれて、だんだんとその鼓動も治まっていくのがわかった。
「……ふう、一件落着です。さてさて、それでは気を取り直しまして」
苺苺は額を手の甲でぬぐう。
それからパッと明るい表情に切り替えると、両手を合わせてパチンと一拍して空気を整えてから、隣の椅子に置いていた鳥籠の扉を開いた。
封印が解かれたあやかし捕り物用の鳥籠から、猫魈がぴょんっと飛び出す。
ちょっと見たところでは三毛猫にしか見えないが、その尾は猫のあやかしらしく付け根から三つに分かれている。
ふわふわの三本の尻尾がふりふりと上機嫌そうに振れるのを見て、苺苺はほっこり頬を綻ばせる。
「わたくしの考える『白蛇の刑』、その一は美味しいお食事です」
「にゃぁん?」
「ええ。まずは食事をたくさんとって、住処に元気にお戻りくださいね。ではでは、木蘭様と木蘭様推しの皇太子殿下に感謝を捧げていただきましょう!」
「にゃー!」
円卓に並んだ豪華な料理を取り分け、「いただきます」と食前の挨拶をする。
「うぅぅ、美味しいです……! もちもち濃厚な翡翠豆腐が、身体に染み渡ります……!」
「なぁぁぁん」
「猫魈様、清湯燕菜はいかがですか? 久しぶりのお食事ですから、最初は胃に優しいものからとお皿に盛らせていただいたのですが」
「にゃう、にゃう」
「そうですか、良かったです。遠慮なさらずどんどん食べてくださいっ」
「にゃんっ」
一人と一匹は大いに盛り上がりながら、美味しい宮廷料理に舌鼓を打った。
しかし、それから四半刻も経たないうちに、一足先にお腹がいっぱいになった苺苺は、「ごちそうさまでした」と食後の挨拶で締めてから、もぐもぐと小さな牙のある口を動かす猫魈を眺める。
「ふふっ、もりもり食べててかわゆいです。……そうですわ、せっかく聖地に来たのですから、この貴重な光景と木蘭様への想いを刺繍で記録しなくては!」
先に食事を終えた苺苺は自分の周囲を整え、袂からサッと簡易裁縫箱と円扇を取り出す。
「にゃむ?」
「ええ。これぞ、木蘭様の聖地に巡礼した者だけが得られる、極上の時間です」
「にゃーん」
「にゃーんですっ」
銀糸を通した刺繍針を手に持った苺苺は、銀花亭でかわゆく微笑む木蘭様を思い描きながら、絹地に刺した木蓮の花に光を纏わせていく。
銀花亭には、猫魈がむしゃむしゃと夕餉を頬張る音と、苺苺の刺繍糸が絹地を滑る音だけが響いている。
――かのように思えていたが。
「くくっ……。君はなにをしているんだ。もしかして、夕餉が口に合わなかったのか?」
いつの間にやら、仮面で顔を隠した青年が銀花亭の柱にもたれるようにして立っていた。
見えている部分は少ないが、すっと通った鼻梁や口元の骨格から彼の美貌は十分にうかがい知れる。
武官のような出で立ちのその美青年は、『面白いものに出会った』とでも言いたげな笑みを艶やかな唇に浮かべると、
「にゃーん、とは?」
と心地よい玲瓏な声を響かせた。
「ひゃっ!」
「にゃっ!」
刺繍と食事に集中していた一人と一匹は、その場で肩を震わせぴゃっと飛び上がる。
猫魈は自分の置かれている立場を理解しているのか、脱兎のごとく円卓の上から逃げ、武官に見つからないように小さくなって隠れた。
(おおお音もなくこんな近くに……! ま、まさか恐ろしい女官の方のお仲間でしょうか!?)
「な、なにやつですっ」
苺苺は刺繍針の先をビシッと青年に向ける。
鼻から上が隠れているお面のせいで顔の表情はわからないが、美青年は針の先に――異能持ちと噂の『白蛇の娘』が向ける武器に怖がる様子も驚いた様子もなく、苺苺のそばに足を進める。
(……足音がしません)
重心移動が上手い武官は総じて手練れなのだという父の言葉が、苺苺の頭をよぎった。
「なにやつとは失礼な。俺は燐紫……ごほん。ただの武官です。皇太子殿下の命を受けてここへ来ました」
「こ、皇太子殿下の武官様でしたか」
となると、禁軍の独立部隊とも称される青衛禁軍に属する――東宮侍衛を行う、由緒正しき血筋の精鋭武官だ。
緊張気味に刺繍針を下ろした苺苺は、目の前に立つその武官の青みが強い黒髪に気がつき、はっと我に返って最上級の礼を完璧にとる。
「高貴なる春宵の明星にご挨拶いたします。皇太子殿下より白蛇の冠を賜りました白家当主が娘、苺苺でございます」
明け方の黎明、あるいは黄昏の夜空のような青みがかった黒髪は、悪鬼を封じる力を持つ燐家特有のものだ。
普通は皇太子となる公子様に宿るそうだが、稀に先に生まれた公主様にも受け継がれる場合があり、臣籍降嫁の関係で貴族の家にもごくごく稀に青みを帯びた黒髪の持ち主が生まれるという。
闇夜の中では判別しにくいが、灯籠の光に透けて色鮮やかな濃紺が目に入り、苺苺は一瞬言葉に詰まった。
(彼はきっと、皇帝陛下に近しいお方)
以前、木蘭様と共に実家を訪れた朱家の佩玉を持つ般若護衛より、彼の方が燐家に近しい血筋を引いているに違いない。
その証拠に、目の前の彼は堂々と苺苺の礼を受け取ると慣れた所作でそれを制し、「どうぞ楽に」とこちらへ告げた。
どうやら推測と違わず彼は九華の出身であり、それも白家の長姫の苺苺よりずっと身分の位が高い血筋にあるらしいことが、その一連の動作で理解できた。
(お名前をお教えしてはくれそうにありませんね。相当高貴なお血筋の方なのやも)
警戒心を強めるに越したことはない。
こちらへ歩み寄ってきた武官を、苺苺は礼を解きつつそっと上目遣いで観察する。
あの時、すぐに猫魈が彼から見えない位置に隠れてくれて良かった。宦官や女官に通じた『白蛇の刑』の言葉も、この武官には効きそうにない。
(よくよく見ると被られているのは悪鬼面のようです。仮名として悪鬼武官様とお呼びいたしましょう。それにしても、皇太子殿下の直属の方は皆様悪鬼面を被られているのでしょうか? 後学のためにもお伺いしてみませんと)
なんて考えながら、じーっと観察し過ぎていたのがバレたのだろう。
悪鬼武官は首を捻ると、これまた慣れた様子で「発言を許す」と鷹揚に口にした。
苺苺は白家の姫として、正しくお辞儀で応える。
「ありがとうございます。ご質問なのですが、武官様のそちらの悪鬼面は、」
問いかけようとしたところ、『白蛇の娘』の針にも怯まず堂々と立ち振る舞っていた悪鬼武官が、ピシリと音を立てたように固まった。
けれどそれを背筋を伸ばしただけと捉えた苺苺は、そのまま言葉を続ける。
「皇太子殿下の直属武官の証でしょうか? 皆様被っておられるのですか?」
「いや。これは、その……」
歯切れの悪い返事をした悪鬼武官は、表情は見えなくとも『しまった』という雰囲気をしていた。
どうやらこの貴人の繊細な部分を突いてしまったらしい。
そう気がついた苺苺は「はっ」慌てて口元を覆う。
(やってしまいました。どうしましょう、なにやら困惑されているご様子。なんだか逆に怪しくも感じてしまいますが、なぜそんなに困惑されて――)
思考を巡らせていると、ハッと脳裏に、【女官もすなる推し活といふものを、文官もしてみむとてするなり】の冒頭から始まる有名な日記文学小説、『尊さ日記』を思い出す。
入宮前に後宮の推し活を知りたくて読んだその内容は、後宮で流行中の文化に憧れた文官がこっそり皇帝陛下の推し活をする、時々くすりと笑えてほろりと泣ける楽しいものだった。
女官は妃嬪応援活動を嗜み、その威を借りてある意味堂々と代理戦争を行っているが、官吏にその風潮はなく、今は隠さねばいけないらしい。
そのため『尊さ日記』の作者は古語を使い、女人の言葉遣いでもって皇帝陛下の推し活をする日常をしたためていた。
(――はっ。ということはつまり、この方は世間の風潮を鑑みた上で、皇太子殿下を推されているお気持ちを悪鬼面でもってこっそり表現なさっているのですね!? 市井では演劇一座の役者さんの衣装を真似て仮装をしたり、女装や男装をしたりして推し活をなさる方もいらっしゃるとか。悪鬼武官様のお立場でしたら、有事の際には身代わりにもなれます。なんと粋な推し活でしょうっ)
「素晴らしいです!」
「は?」
「わたくし絵姿でしか皇太子殿下をお見かけしたことはございませんが、重厚な素材感、色彩など、どれをとっても圧倒されます! そして年代を経てついた細かな傷への心遣い、ひとつひとつへの深い解釈の滲む再現……尊敬いたします!!」
「は、はあ……。ありがとう、ございます?」
「わたくしも推し活をする者として、より一層励まなくてはいけませんね」
(木蘭様……今頃何をなさっているでしょうか。健やかにお過ごしであればよいのですが)
苺苺は頬に手を当て、ほうっと感嘆のため息を吐く。
「なにを言っているのか少しもわからないが、とりあえず良かった」
悪鬼武官は苺苺が自己解釈で勝手に疑問の答えを導いてくれたことに、こっそりと安堵した。
彼は苺苺が頬に当てていた手へに吸い寄せられるように己の手を伸ばすと、そっと優しくすくい取る。
心ここにあらずの状態だった苺苺は「ひゃっ」と驚きの声を出し、蛇に睨まれたかのごとくかちこちに固まった。
白蛇はそちらだろうに。
そう心の中で思いつつ、悪鬼武官は艶やかな口元をふっと緩める。
だが、その唇はすぐに閉じられた。
手巾で簡易に包帯が施されたていた苺苺の左手のひらは、赤黒い血が付着していた。
今もなお出血が止まっていないのか、赤い鮮血も滲んでいる。
「……やはり怪我を」
「これはその、しょ、諸事情で、自分で切ったのです」
(あやかしさんに対抗するために異能の血が必要だったので、とは言えませんっ)
「痛くはないのですか」
「へ? そうですね、そう問われると少し痛いのですが」
「……そうですか」
悪鬼武官の声が心なしか沈んでいる。
(なぜこの方がこのように意気消沈されているのでしょう?)
苺苺ははて?と首を傾げて、「ですが」と続ける。
「大切な方をお守りできた、名誉の傷ですので」
道術を操る恐ろしい女官の毒牙から木蘭を助けることができたのは、この傷を負ったからだ。
戸惑いもなく全力で鋏の刃を立てたので、ズキズキした痛みは時間が経つに連れ増している気もするが、それよりも木蘭を助けられた幸福感で胸がいっぱいというのが今の気持ちだった。
苺苺は尊すぎる木蘭のかわゆいお顔を思い浮かべて、大輪の花がほころぶような微笑みを浮かべる。
「――――っ」
悪鬼武官はその笑みを真正面から受けて、小さく息を呑んだ。
彼は『なにか見てはいけないものを見てしまった』と言わんばかりに唇を真一文字に引き結ぶと、懐から咄嗟に取り出したものを開いて、ふわりと、苺苺の表情を隠すように頭上から被せた。
「わわっ!」
「っ、外さないでくれ」
「ええっ?」
「それからこれは、謝罪の品として受け取っておいてください。背中の打撲傷にも良く効きます」
視界不良になった中、苺苺の手のひらに冷たい感触の硬質ななにかが握らせられる。
「えええっ!?」
「なんと言えばいいのか。その、……礼を言う。――ありがとう」
「あっ、お、お待ちください――!」
苺苺はわたわたと慌てながら頭上から被せられた広い布を引っ張り、悪鬼武官に問いかけようと顔をあげる。
「背中の打身をなぜご存知で……って、いらっしゃいません」
拓けた視界には、もう誰もいなかった。
きょろきょろと辺りを見回すも、人影すら見当たらない。
静けさを取り戻した銀花亭には、木蓮の香りが先ほどより濃く香っていた。
「にゃーん?」
「猫魈様、隠れていてくださってありがとうございます。ご無事でなによりです」
「にゃおん」
「はい。どうやら披帛と……薬壺のようです」
頭から被せられていたのは、紗織りで作られた上質な薄絹の披帛だった。
白木蓮に反射する月光と灯篭の光を帯びて、まるで天女の羽衣のごとくきらめいている。
人々が忌避し喪服としてしか纏わぬ純白は、白家にとって尊ぶべき色だ。
この状況からして、死装束として与えられたのではなく、白家出身の苺苺を慮ってこの色を贈ってくれたのだろう。
(もしかして夜の肌寒さを心配してくれたのでしょうか? お礼も、皇太子殿下に代わって伝えてくださったのでしょうし、お気遣いがとっても細やかなお方です)
苺苺は手のひらに握らされていた小さな薬壺に視線を落とす。
紫水晶を思わせる硝子製の遮光壷には白木蓮が描かれていて、精緻を極めた細工が凝らされていた。
硝子製というだけでも相当な価値がある高級品だと分かるが、見るからに腕利きの匠によって製作、絵付けを施された特注の工芸品だ。
(これでどれ程の刺繍糸が購入できるでしょうか……。考えただけでも目眩がします)
蓋を開けてみると、中身は数種類の生薬を混ぜ込んだ匂いのする軟膏が入っていた。
まだ新しい。精製された色味からして宮廷医による調薬だろう。
(わあ、軟膏の傷薬をいただけるなんて。とってもありがたいです)
なにせ白蛇妃が直接宮廷医に会いに行っても、正しく診察して薬を処方してくれるのかは疑問である。
『お持ちだという異能で治されては?』
と放置されてもおかしくないし、最悪の場合、薬と偽って毒を盛られる可能性も否定できない。
――【後宮には人の顔をした魑魅魍魎が跋扈している】
とは、数代前の『白蛇の娘』の書き残した言葉だ。
〝悪意〟は異能を使って封じられるが、正真正銘の〝毒〟となると避けるのは難しいのである。
(悪鬼武官様は皇太子殿下直属ですし、事件のあらましを聞いて『もしも怪我があれば』とご用意してくださったのかもしれませんね。それにしてもこの意匠は)
苺苺は悪鬼武官から受け取った薬壷を観察する。
「――間違いありません」
キラリと苺苺の紅珊瑚の双眸が光る。
「この紫水晶のようなお色は、絶対に木蘭様の瞳を想像して製作されたもの。そしてこの美しい木蓮の意匠。薬壷にも木蓮をあしらうだなんて、悪鬼武官様も実は木蘭様推しだったのですね……!」
(それでお礼のお言葉やお品と、安全な傷薬をわざわざわたくしに……!)
「にゃ?」
「木蘭様推しの方とはつゆ知らず、楽しいお喋りの機会を逃してしまいましたっ! せっかくの機会でしたのにっ」
もったいなかったです、と苺苺は手にしていた純白の披帛を見つめる。
「お礼もお伝えできずに終わってしまいましたし……。次こそはお茶にお誘いして、ぜひともお友達になれたらよいのですが」
「にゃおん」
「ええ。恐ろしい女官の方の脅威から木蘭様をお守りするためにも、木蘭様をお慕いする者同士の情報交換が必要だと思うのです。次こそ、頑張りましょう!」
「にゃーん!」
「にゃーんなのです!」
木蘭様推しの友人候補を見つけて、今日一日の疲労をすっかり忘れてしまった苺苺は、木蘭を思わせる素敵な薬壷をぎゅうぎゅうと胸に抱きしめ、
「白苺苺、湧き上がる嬉しさを『喜びの舞』で表現いたしますっ」
と誰もいない舞台上で宣言するやいなや、くるくると踊りながら猫魈と大いに戯れたのだった。
◇◇◇
そんな白蛇妃の様子を、銀花亭がよく見える位置にある楼閣から見守る者たちがふたり。
「どうやら上手くいったみたいですね、紫淵様。すごく喜んでおられるようです。紫淵様が銀花亭に仮初めの妃を招くと聞いた時には心底驚きましたが、急いで準備させた甲斐がありましたね」
「ああ、そうだな……」
「『白蛇の娘』も、やはり年頃の女人ということでしょうか。贈り物であんな風に喜ぶとは、想像もしていませんでした。彼女が少しでも贈り物を雑に扱えば、僕が回収してこようと思っていたのに残念です」
「ああ、そうだな……」
「おや。僕が回収しても良かったのですか?」
「………………………」
仙界と見まごうほど幻想的な銀花亭で、楽しげに舞い踊っている白蛇妃の、真珠色の真っ白な長髪が灯籠の明かりを受けてきらめいている。
月花の光をまとう披帛がひらひらと空を駆け、白く輝く世界を彩りはためく。
やわらかな襦裙の裾は、彼女がくるくると舞うたびに大輪の花のごとく開いた。
まるで清廉な月宮殿の仙女が人間に隠れて戯れているかのようだ。
三尾の猫のあやかしがぴょんと円卓から跳び上がり、上機嫌で彼女の肩に乗って、風に舞う羽衣を追いかけながら彼女の腕を移動する。
それがより一層、非現実的な風景を作り上げていて、紫淵はただただ見事だと思った。
(あの猫のあやかしが持つ本来の気性を知れたのは、白家の姫君の判断力の賜物だろう)
そのお陰で、紫淵もこれが単なるあやかし侵入事件の末の事故ではなく、木蘭を暗殺しようとしている何者かが背後で糸を引いている可能性に気がつけた。
……それにしても。
(あんなに純粋無垢な笑みを、かつて向けられたことがあっただろうか)
紫淵の瞼には、こちらを見上げる彼女の笑みが焼き付いていた。
やわらかく細められた、白妙のけぶるような長い睫毛に包まれた大きな紅珊瑚の瞳が、心底愛おしげに己を映す……その笑みが。
胸の奥底に甘い痺れが走り、ぎゅっと切なく締めつけられる。
紫淵が思考の海に浸りつつ眼下を眺めていると、ふと、朧げな記憶が蘇る。
そうして、酷い呪詛に蝕まれていた幼い自分の命を救ってくれた、七歳の少女と重なった。
(……そうか。かつても、彼女は)
丑三つ刻、悪夢のような嵐の中――悪鬼の呪詛に蝕まれて鬼と化し、死を待つしかなかった九歳の紫淵のもとに、次期白家当主の兄・白静嘉とともにやって来た『白蛇の娘』。
あの頃、紫淵の皮膚には激痛をともなう悪鬼の呪詛が這いずり回り、頭部には鬼の角が生え揃い、確かに醜い姿に変わり果てていた。
だが彼女は、そんな姿の自分に怯まなかった。
彼女は幼い少女とは思えぬ所作でてきぱきと動き、清らかな水を汲んできては手ぬぐいを絞ると、紫淵の額に浮かぶ玉の汗を一生懸命に拭ってくれた。
(そうして彼女の命を削ってまでも、俺の命を……)
『未来の紫淵殿下は凛々しくて、お強くて、とってもかわゆい方なのです。……だから、ご安心ください。死んだりなんか絶対にしませんから』
彼女は何度も、まるで未来でも見てきたかのように力強く口にする。
あの激励が、幼い自分にどれほど響いただろう。
(彼女の手を握って礼を告げたいがために、〝どんな手を使ってでもこの後宮で生きながらえてやる〟と誓ったのに……。なぜ、今まで忘れていたんだ)
こんな強烈な記憶をすべて忘れていたなんて不自然だ。
(呪詛を無理やり封じた影響だろうか。この怪異に侵され始めたのが十歳を越えたあたりだったのを考えると、辻褄は合う。……それにしても。なんだか大切な感情を忘れている気がして、胸の奥がもやもやする)
彼女も、あの様子ではすべて忘れているのだろう。
同じように忘れているのならまだいい。
ただ、異能を持つと噂の『白蛇の娘』を頼った依頼人のひとりとして、有象無象と一緒くたに記憶の奥底に沈んでいるのなら寂しいと思った。
「…………どちらにしろ、もっと手際良く渡す予定だったのに」
と紫淵は思わず顔を覆って、深く長い溜息をつく。
彼女の笑みをみた瞬間、胸が鷲掴みされたみたいに苦しくなり、つい咄嗟に披帛で彼女の顔を隠してしまった。あんな粗野な渡し方は自分らしくない。
(ただでさえ大きな問題を抱えているんだ。できれば妃嬪とは一切関わり会いたくない。だからわざわざ名乗り出るつもりもなかったし、実際そうした)
そうした、のだが。
なぜだか、あの『白蛇の娘』のことになると胸になにかがつっかえたような妙な気持ちになる。
「はあ……。紫淵様、どうなさいましたか? ぼーっとしておいでのようですが」
「わからない。ただ目が離せないというか、もっと見ていたいというか、見ていて飽きないなとは思っている」
「なんですかそれは」
皇太子の住まう〝天藍宮〟――いわゆる東宮御所直属の筆頭宦官、宵世は胡乱げな様子で自らの主人を見上げる。
紫淵の幼馴染にあたる彼は、厳しく辛辣な部分もあるが頼り甲斐のある補佐官だ。
紫淵が病気で宮に篭っている間も、執務室で上手く立ち回ってくれている。
だがその補佐官でさえ、後宮の歴史に倣って白苺苺が紫淵の脅威になると考えているらしい。
(果たして脅威になるだろうか? 観客もいない無人の四阿で心のままに舞い踊る、あの白蛇妃が)
紫淵は『白蛇の娘』と初めて相見えた時の――いや、本来ならば二度目であった邂逅を思い出す。
(正義感の強い、実直な娘だと思う。多少、自己犠牲的なところはあるが)
その印象は自身が九歳であった頃と寸分違わない。
(対価も要求せず、褒美もねだらず、心遣いを真摯に受け止めて喜ぶ。そのような女性が本当にこの世に存在しているとは、今でも信じがたい。後宮で生まれ育った俺にとって、女性とは……常に自分だけが愛されるためだけに競い合い、嘘をつき、妬み、自身の手を汚さずに殺しあう生き物だ)
血の繋がった皇后からでさえ、本当の意味での愛など与えられた記憶がない。
妃嬪とは、皇帝から向けられる寵愛を争う生き物なのだ。
だからこそ、最下級妃の白苺苺が皇太子殿下の寵姫と噂の木蘭を、凶暴化していたあやかしから助けるという捨て身の行動には、驚嘆するしかなかった。
(あの時、君は死んでいてもおかしくはなかった。他ならぬ――俺自身が、そう感じたのだから)
幼い身体は不測の事態にとっさに反応できず、その一瞬の遅れのせいで、懐剣を抜くことすらできなかった。
だから懐剣を抜く一瞬を作るために、短い足に全力を集中させて、駆け出すほかなかったのだ。
まあ、それでも鍛錬の成果を無に返す幼くて短い手足のせいで、思いっきり転んでしまったのだが。
(対峙すれば、喰われる。あの大型の猫のあやかしと目が合った瞬間、本能でわかった)
そんな状況下で、純粋な正義感から多少無謀な行動を取る様子は、他者を貶めていた歴代の『白蛇の娘』とは一線を画している。
宵世は『狂言じゃないか』と進言したが、そうは思えない。
大体あの状況ではどうあがいても彼女に利益などないし、もし狂言をするような妃嬪ならば大切な身体を杖で打たせるような真似も、あやかし用の地下牢に投獄される真似もしないだろう。
(そもそも、あんな表情で木蘭を心配できる人間が犯人なわけがない。脅威は他にある)
確固たる確信があるからこそ、紫淵は自らの手で宦官たちを粛清したのだ。
(紅玉宮の外からもたらされる脅威のみを警戒していたが、抜かったな。だが、それにしても……。彼女が『白蛇の娘』というだけであれほどまでに虐げられていたなんて)
妃嬪を避けての生活を徹底していた己のことだ。此度の事件がなければ、皇太子宮を出るまで知る由もなかっただろう。
体調の問題もあり、皇太子としての政務以外に手が回っていないのは己の落ち度。
しかし、これほどまでに聞き及んでいる報告とは異なる皇太子宮の様子に、なにか改善策を打ち立てねばと思う。
(父上ならば『後宮の管理は皇后に任せている。皇太子宮もそれに倣え。妃嬪の争いに朕やお主が出る幕はない』とおっしゃられるだろうが、そうともいかない。なにせ皇太子宮の最上級妃は)
木蘭だ。
「宵世、今夜中に白蛇妃の置かれている状況を調べてくれ」
「……どういう風の吹きまわしです?」
「妙な顔で見るな。べつに他意はない」
「だと良いのですが。ここに集められているのは〝仮初めの妃嬪〟だと、本日は何度ご説明したらよろしいので? 紫淵様が妃嬪に目を掛ける必要はありません」
銀花亭から完全に身体を背けた宵世は、眉を吊り上げて紫淵を咎める。
宵世が〝仮初めの妃嬪〟だと呼ぶ理由は、もしも燐家最大の秘密を知ってしまう妃嬪が出たら、皇帝陛下の命により粛清対象となるからだ。
病死か、毒による暗殺か……後ろ暗い親兄弟の罪を詮索され、なんらかの汚名を着せられることになるかもしれない。
(無駄な死をもたらさないためにも、できれば皇太子として誰とも深く関わることなく、怪異が解けるまでの時間を稼げたらいい。それこそが、ひいては皇太子宮に住む多くの人間のためになる)
「木蘭様のお命を第一に考えると、妃嬪は総入れ替えなんて事態もありえます。皇帝陛下の命令に従い、口封じをせねばいけない場合もあるでしょう。すべての処断を紫淵様がなさるんです。――白蛇妃様も含めて」
「……わかっている」
わかっているからこそ、他の妃嬪には一瞥すらくれたことはない。境遇に興味を抱いたこともない。
ましてや、贈り物など――。
「誰かを見初めようだなんて思っていないから安心してくれ」
そう口にしつつ、紫淵は少し残念だと思うような、胸の内側を引っかかれるような……もやもやとした感情が燻っているのに無理やり蓋をして……――深追いするのを止めた。
「とりあえず事は全て済みました。不眠症と胸の痛みに関しては宮廷医のところにでも行って、それから朝まで政務ですよ。紫淵様の時間は貴重なんですから、白蛇妃なんかに構っている暇はありません。行きましょう」
「……わかった」
紫淵は遠い銀花亭で贈り物を抱きしめる苺苺をひっそりと目に焼き付けてから、をひらりと踵を返す。
灯の消された提燈を持った宵世は、周囲に人の気配がないことを探ると、主人の背中を守るよう暗い闇に溶けた。
◇◇◇
その後――。一人と一匹が喜びの舞で大いに戯れ、再びお腹が空いた猫魈が残りの料理をたらふく食べて、円卓に乗る皿が全て空っぽになった頃。
猫魈のお気に入りになっていたぬい様が、鳥籠の中でザクッ! と刃物に切りつけられたかのような音を立てて裂けた。
「ふみゃっ!?」
「あわわわ、猫魈様、大丈夫ですか!?」
大きな音に驚いた猫魈が円卓から滑り落ちる。
苺苺は毛を逆立てた猫魈を抱き上げると、安心させるように背中をよしよしと撫でた。
「すみません、猫魈様。まさかこんなに早く壊れてしまうとは思わず、怖がらせてしまいましたね」
普段ならぬいぐるみに呪靄が封じられて裂けるまで、毛髪を一本入れた完璧な状態でも十二刻はあるはずである。
(それが不完全な状態にありながら、たった半日ほどで裂けてしまうなんて)
木蘭を象ったぬいぐるみに封じられるのは、木蘭へ向けられた悪意だけ。
けれど呪靄程度ではこんなに早く裂けたりしない。
(ということは、猫魈様を操って木蘭様を襲わせようとしていた方の、計画失敗時点から抱いていた強い悪意が呪妖に変化し続けていて……先ほどまでひっきりなしに封じられていたということに。この形代は完璧とは言えませんので、封じられていない祓いもれもあるはずですわ)
抱いていた猫魈をそっと円卓に乗せてから、苺苺は鳥籠の中で裂けたぬい様に手を伸ばす。
「危ないですから、こちらは回収させていただきますね」
「ふみゅうぅ」
猫魈の耳と尻尾がへたりと垂れ下がる。
自分がせっかくもらったお気に入りのぬいぐるみが、苺苺の手に戻るのが悲しいのだろう。
あまりにも悲しそうな表情をする三毛猫に、苺苺はぬい様を袂に仕舞いながら「申し訳ありませんっ」と罪悪感でいっぱいになった。
(つい繕い直して与えたくなってしまいますが、ここはグッと我慢です)
「――そうですわ。代わりにこちらを」
苺苺は肩にかけていた純白の披帛をするすると取って、その薄絹の中央の一部に、銀糸を通した刺繍針を刺した。
スイスイと異能を使って針を刺し進め、魔除けの花葉紋を描いていく。
それから刺繍を施した部分一帯を丸くして綿を入れながら縫い止め、最後にふわりと舞っていた猫魈の毛を入れて、鈴を模した布偶を作り上げた。
これは猫魈を象徴した形代だ。
(猫さんと言えば、やっぱり鈴ですよね。猫魈様は三毛猫さんにそっくりですし)
銀糸で施した花葉紋の刺繍のおかげで、光沢のあるおしゃれな鈴がついた披帛に見える。
これから先、猫魈に向けられる悪意はこの形代に自動的に封じられるだろう。
山奥に住んでいるというから、人間から悪意を向けられるほどの接触はないかもしれないが、もしまた悪意を持つ道士に捕まりそうになったら、形代が身代わりとなって道術を封じられるかもしれない。魔除けの刺繍もきっと役に立ってくれるだろう。
(……それがどれほど持つかは、わかりませんが)
悪意が封じられる限界を超えると、先ほどぬい様のように切り裂かれて壊れてしまうわけだが、集まった悪意が精製されて純度の高い呪いへと姿を変えると、瘴気を放つ燐火が生じる。
形代が壊れて燐火に呑まれるまでには少しだけ時間の猶予がある。
いつもはその間に形代を安全に処理するのだが、猫魈にそれができない。
(けれど燐火が生じたとしても、猫魈様はあやかしさんです。強い瘴気を放つ燐火も安全に取り込んで、逆に自身の霊力の蓄えとできるはずですわ)
霊力が増えればあやかしとしての位もあがる。
並の道士に使役されることもなくなるし、一石二鳥だ。
「猫魈様、こちらが『白蛇の刑』その二でございます」
「にゃっ?」
「ふふっ、贈り物です」
苺苺は音の鳴らない鈴付きの披帛を猫魈の首に巻き、後ろで可愛らしく蝶結びにした。
「本日、悪鬼武官様からいただいたお品は、木蘭様をお助けした感謝の印にくださったもの。ということは、わたくしと猫魈様、ふたりのものです」
苺苺はそっと猫魈のつぶらな瞳と視線を合わせる。
「わたくしは傷薬をいただきましたから、こちらは猫魈様に。わたくしたちの友情の証です」
「ふにゃ……っ」
ぱぁあっと猫魈の表情が明るくなる。
そして妖術を使って、長かったふわふわの蝶結びを現在の体躯にぴったりの短さにしてみせた。
「わあ、お似合いですっ。かわゆいですよ」
「にゃおんっ」
猫魈はありがとうと感謝のひと鳴きをする。
「悪意を封じる刺繍を施していますから、猫魈様を必ずやお守りするでしょう」
苺苺はふわふわの蝶結びを整え直し、夜空の月を見上げる。
(猫魈様と出会ってからの一日は、長かったようで短い、不思議な一日でした)
――そろそろお別れの時間だ。
猫魈にあやかし捕物用の鳥籠にもう一度だけ入ってもらい、二階建ての四阿の階段を降りると、闇夜に紛れてコソコソと御花園の奥を目指す。
御花園の奥地には後宮の城壁と、宮廷の城壁の屋根が重なり合う部分がある。
(そこさえ越えれば、城の外です)
りーん、りーんと春虫の音だけが辺りに響いている。
虫が苦手な苺苺であるが、今夜ばかりは城壁警備の宦官に見つかりやしないかと、そっちの方にドキドキしていた。
(でも……城壁警備の宦官の方、あまりお見かけしませんね)
夜に出歩いたことはないが、ここは後宮。想像ではもっと多いと思っていた。
それとも今夜はなにか問題が発生して、どこか別の場所に集まっているのだろうか。木蘭の件があった後だ。その可能性も十分にあった。
しばらく進むと、目的地であった城壁の前にはまったくひと気がなかった。
しかも、ちょうどよく植え込みには置き忘れられたらしい長梯子があるではないか。
雑然とした放置の仕方からして、御花園の庭師ではなく城壁警備の宦官が急用かなにかで慌てて隠し置いた雰囲気だ。
(ふむ、急な腹痛のお手洗いでしょうか? それは大変です。すぐにお返ししますのでお借りいたしますね)
と心の中で声をかけ、苺苺は物音を立てないように慎重に長梯子を城壁へ掛けた。
「私の手が城壁の上を越えたら、結界に傷つくこともありませんからね」
よいしょ、よいしょ……と城壁に登った苺苺は、鳥籠から猫魈を出す。
そして自らの手で、その外へと送り出した。
「にゃぁん?」
「そうです、これが『白蛇の刑』のその三、帰郷のお手伝いです。……危ないですから、もうお城に入ってはいけませんよ」
三毛猫の猫魈は名残惜しそうに苺苺を見つめると、城壁の向こう側へひらりと跳躍する。
純白の友情の証が風に靡いた。
「にゃーお、にゃおん」
「はいっ。猫魈様も、どうかお元気で。道中お気をつけて!」
三つの尾が揺れるふもふの背中に、苺苺は小さく手を振る。
こうして苺苺は、後宮で初めてできた友人と、笑顔でお別れしたのだった。
ひとりきりになると、なんだか疲労がどっと押し寄せてくるものである。
(思い返してみると、忙しい一日だったかもしれません)
物寂しい気持ちになりながらコソコソと御花園を出て、心身ともにクタクタになった苺苺が水星宮に帰ると――室内は、酷い有様だった。
「し、白蛇ちゃんだけでなく、白蛇ちゃん抱き枕までもが……!」
円卓に置いていた一尺のぬいぐるみだけでなく、寝台に横たわっていた三尺のぬいぐるみまでもが、無惨に引きちぎられズタボロになっていた。
「ひ、ひぇえ……っ。白蛇ちゃん抱き枕までやられるなんて……。こんなことは初めてです」
大きい抱き枕ぬいぐるみは、通常の白蛇ちゃんの十倍以上の効力を発揮する。
しかし、大抵は抱き枕ぬいぐるみに悪意が及ぶ以前に、通常の白蛇ちゃんが身代わりとなってくれるので、ズタボロにされたのは初めてだった。
「よ、よほどわたくしに恨みつらみが……。どなたでしょうか……。やっぱり、猫魈様を木蘭様へけしかけた恐ろしい女官の方でしょうか……」
「おおお恐ろしや!」と苺苺は誰もいない水星宮で飛び上がった。
無駄にビクビクと周囲を警戒しながら、新しい身代わりを用意する。
それから袂に入れていたぬい様を取り出すと、ズタボロになった白蛇ちゃんたちと一緒に棺にしている木箱におさめ、「よいしょ」と抱えて、水星宮の奥へと向かった。
湯殿の外には、やっつけ仕事で造られたような小さな竈がある。そこで湯を沸かして盥で湯船に運ぶのだ。
「深夜ですがひと仕事です」
苺苺は白蛇ちゃんたちを薪と一緒にくべると、火打ち石を持ち、手慣れた様子で火をつけた。
ズタボロの白蛇ちゃんたちが赤い火に呑まれる。
煙が天に登った。
「本日もお守りくださあり、ありがとうございました」
苺苺は感謝の気持ちでそれを見送る。
「は〜〜〜。春の夜は冷えますね。ささ、早く温かいお風呂に入っちゃいましょう。湯浴みを終えたら、新しい木蘭様ぬいぐるみを作らなくては」
水星宮の湯殿の湯船といえば人ひとりが入れるくらいの木桶が置かれているだけで、他の妃たちの宮の湯殿より何倍も小さく、それはそれは簡素らしい。女官たちの噂で聞いた。
が、この木桶がまた湯を満たすのに時間がかからなくて便利がいい。
排水も掃除も楽なので、苺苺にとっては優れもののお気に入りである。
(なんたって、余った時間で刺繍がうーんとできます)
「恐ろしい女官の方の脅威はまだ去っていないはずです。木蘭様をお守りするためにも、徹夜でたっくさん作っちゃいましょう! えいえいおうですわ! ふんふんふ〜ん」
苺苺は鼻歌を歌いながら、白蛇ちゃんをくべた火で湯浴み用の湯を沸かすのだった。
「失礼いたします。白蛇妃様はいらっしゃいますでしょうか」
水星宮の扉を叩く音が聞こえる。寝台の上で数多の木蘭ぬいぐるみに埋もれて眠っていた苺苺は、「ハッ」と飛び起きた。
(徹夜でぬい様を製作しているうちに、いつの間にか意識を失っていました……。ああでも、たくさんのぬい様に囲まれて眠ったおかげか、睡眠時間は短いはずなのに超回復している気がします)
「ふっふっふ、まるで禁断の仙薬をキメた気持ちです!」
苺苺は寝ぼけた頭でおかしなことを口走る。
「もし。水星宮の女官の皆様? いらっしゃいませんか?」
「は、はい、います! 少々お待ちくださいませ!」
窓の外を見るに、尚食局の女官が来る時間にはまだ早い。
(後宮の朝餉はほとんど昼餉という感じですものね)
そう思っているのは実は苺苺だけなのだが、彼女はそれを知らない。
苺苺の朝餉が遅いのは、尚食局の女官たちが互いに仕事を押し付け合っているためである。それで朝餉の時間が終わるギリギリの頃に、冷め切った御膳を持って、嫌々ながらしぶしぶやってくるのだ。
(どなたでしょうか? この声、どこかで聞いたことのあるような、ないような……? と、その前に着替えなくては)
苺苺は慌てて寝台を降り、簡素な衣装に手早く着替えて、扉を開ける。
そこには昨日見た顔があった。朱色を基調とした衣をまとった、木蘭付きの上級女官だ。
「白蛇妃様……?」
上級女官は出てきたのが妃本人だったことに驚いた様子で一瞬ぽかんとすると、すっと礼のかたちを取った。
「前触れも出さずに突然のご訪問、申し訳ございません。私は朱貴姫の女官を務めております、侍女頭の朱 若麗と申します」
(皇帝陛下の後宮では〝貴妃〟に相当する貴姫の冠をいただく最上級妃、木蘭様の上級女官……。それも、木蘭様と同じ血筋の)
瞠目した苺苺は、無礼に当たらぬよう即座に礼を取る。
「朱家の姫君、若麗様にご挨拶いたします。白苺苺でございます」
家格を差し引いても、妃と女官という立場から身分は同等か。
いや、現皇后陛下の縁者なのだからやはり彼女の方が上になる。
(それに朱家の若麗様と言えば『月琴の名手』と名高い、朱州を治める朱家当主の三の姫に違いありません。確かお祖母様は朱家に臣籍降嫁された公主様で、若麗様自身も現皇后陛下の姪御様に当たる高貴な血筋の姫君です)
もしも木蘭が後宮に上がらなければ、現在十八歳の若麗が後宮に上がり貴姫となっていただろう。齢六歳の木蘭と比べて、皇太子殿下との年齢も近く遥かに釣り合いが取れている。
だがそうならなかったのは、幼い木蘭の方が彼女よりもさらに朱皇后陛下に近しい存在だったからなのかもしれない。
「まあ、苺苺様。今の私めは一介の女官、本当に気にしないでください。どうか若麗とお呼びくださいね」
若麗は苺苺に気を使わせぬようにか、優しく微笑みながらそう言った。
苺苺を忌避している様子はまったくない。
物腰も柔らかく、話していると〝姉〟のような親しみやすささえ感じられる。
(先ほどまでのように『白蛇妃』ではなく、あえて『苺苺』とわたくしの名前を呼ばれたのは、妹妹と音を同じくされたのやも。偏見がなく、洒落っ気に溢れた親切な方なのでしょう)
苺苺の中の若麗の存在は、一瞬にして『木蘭様付きの信頼のおける女官』にまで爆上がりした。
人との会話、それも木蘭関連の話に飢えていた苺苺は、うずうずが抑えきれなくなる。
「わたくしったら、お客様にお茶もお出しせずに申し訳ありません。ささ、お上がりくださいませ」
(若麗様は、尚食局の女官の方と伝令の宦官の方以外で水星宮を訪ねてくださった、初めてのお客様です。張り切っておもてなしをしなくてはっ)
こうして苺苺は期待できらきらと目を輝かせながら、紅玉宮で暮らす木蘭の可愛いこぼれ話など聞きたさに若麗を部屋の中に招き入れたのだった。
円卓の前にあるひとつしかない椅子を若麗に勧め、それからいそいそと湯を沸かす。
お茶菓子はないので申し訳ないが割愛し、苺苺は水星宮の女官さながらにお茶を出した。
「こちら、野苺の葉で淹れました薬草茶です」
「の……野苺の葉の、お茶でございますか?」
「はいっ」
実家ならば『お嬢様がお茶を、それもお手製の野草茶を出すなど言語道断』と彼女付きの侍女に咎められそうな光景だが、ここに苺苺の侍女はいない。
若麗に至っては女官という立場から妃にお茶を、それも得体の知れない野草茶を振舞われたことに目を丸めて驚きつつも、水星宮の主のもてなしを断ろうなどとはしなかった。
どちらもお人好しなのである。
「水星宮の庭園にて、わたくしが手塩に掛けて育てている最中なのです」
苺苺はやや照れた表情をしながら胸を張る。
茶葉は定期的に各妃嬪に下賜されると聞いていたが、まだ一度も届いていない。
実家へ茶葉を送ってくれるように手紙を書こうかとも思ったが、王都から遠い白州との距離を考えると、野草や薬草で自作した方が早かった。
「水色はかの十三大銘茶のひとつ、君山銀針を思わせる色合い。味わいはスッキリと爽やか……。舌先にほのかに残る甘みは絶妙で、一度飲んだら忘れられないこと間違いなしです!」
「た……確かに、一度飲んだら忘れられないかもしれません」
若麗はお茶の水面を見つめてから、わずかに緊張気味な愛想笑いを浮かべる。
「いただきます。………………あっ、美味しい」
恐る恐るという様子で茶碗に口をつけた若麗だったが、ひとくち飲んでから口元を隠し、感嘆の声を上げた。
「ふふっ、お気に召していただけてよかったです。薬草茶ですから、健康に良い効能もあるのですよ」
「そうなんですか? 例えば、どのような効果があるのでしょう?」
「ええっと、そうですねぇ。主に美容効果と消化器系の不調改善効果でしょうか。お肌を若々しく保つために必要な成分が含まれていたり、むくみをとったりできるそうです。健康面では健胃薬としての作用や、腎臓や肝臓の調子を整える効果もあります」
利尿作用や浄化作用が強く、腎臓機能不全にも効果があるらしい。
消炎鎮痛作用もあることから、どこに毒が仕込まれているかわからない後宮で飲用するにはもってこいかもしれない。
「まあ、そんな効果が」
苺苺が丸暗記していた効能をすらっすらと説明すると、若麗は驚きに目を丸めながら茶碗を見つめた。
「けれど薬草とは時に毒にもなります。ですので、細心の注意を払って丁寧に天日干しをした葉だけをお茶として使用しています。じっくりと焦らずお日様の光を吸収させるのが、野苺の葉茶の良いところを引き出す秘訣なのです」
「なるほど。この爽やかな甘みはお日様が育てた味ですのね」
「はい」
白州では伝統菓子『白雪月餅』のために庭先で野苺を栽培している家庭も多い。
そのため幼少時より親から口を酸っぱくして伝えられるのが、『銀狐の童歌』だ。
【戀慕公主的銀狐、化身為藥師後偷取了野苺的葉子。
不知道桃仁的銀狐、將其熬煮嗚咽有聲。
還不夠成熟的藥師銀狐、使公主將其喝下嗚咽有聲。嗚咽有聲、嗚咽有聲】
(野苺の葉は腐敗する過程で酶を生み、葉に含まれていた成分と結びつくことで毒になります)
葉に含まれる成分は、生薬として使用する桃仁、杏仁、枇杷仁がしっかり乾燥していない時に生じる毒と同じだ。
しっかり乾燥させていない桃仁、杏仁、枇杷仁を体内に取り込んだ際に急性中毒が発生し、場合によっては死ぬこともある。
童歌は桃仁と同じ毒が、しっかり乾燥できていない状態の野苺の葉にはあると示している。
銀狐はそれを知らなかったので、病床にあった姫に薬湯として丁寧に献献と飲ませたが、多量の毒で昏睡状態になった。婚姻を結ぶ予定だったが姫はとうとう待ち合わせの場所には来ず、銀狐はひとり悲しみに泣いたという……薬草を取り扱う際の教訓を伝える歌だ。
(わたくしもより一層、常日頃取り扱いに気をつけなくては。幼い頃は自分でこっそり煎じて失敗してしまい、それはもう大変でした……)
野苺好きがこうじて初めて作った、野苺の薬草茶。
たっぷりの果実を入れて飲んだ時のあの味は、いまだに忘れられない。
『美味しい』とごくごく飲み干したものだが、後から思えばあれこそが〝有毒茶〟だった。
(あの強烈な手作り茶事件以来、乾燥が上手くいかなかった薬草茶は見た目と匂いだけでわかるようになってしまいました。特技といえば聞こえがいいですが、もうこりごりです……)
苺苺は蓋つきの茶器の中の澄んだ水色を見つめる。
本日の茶葉は惚れ惚れするほど香りが良く、黄茶のごとく健康的な色合いだ。美味しいだけでなく、薬草茶の名に恥じぬ効果が期待できるだろう。
若麗はしばし考えるような仕草を見せると、「苺苺様」と円卓に茶器を置いて居住まいを正した。
「こちらの薬草茶を少し分けていただくことは可能でしょうか? 先ほどの効能を聞いて、木蘭様に体調がお悪い時にお出ししたいと思いまして……」
「む、木蘭様にですか?」
「はい。できましたらで構いません。手作りともなるとお大変でしょうし――」
「いいえ! まあ、まあ、ぜひっ!」
若麗の頼みに、苺苺は食い気味に身を乗り出す。
「木蘭様にわたくしの作ったお茶を飲んでいただけるだなんて、感無量です……!」
そしていそいそと木蓮を刺繍した巾着を取り出し、その中に手作り茶葉を分けて入れた。
「こちらの葉茶は冷え込んだ日などにお出しするのは控えられてくださいませ。胃腸が冷えすぎてしまいますので」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ、木蘭様のためなら朝飯前でございますわ」
ふたりはその後もお気に入りの茶葉の産地や、摘み取り時期による味わいの違いなどを語らいながら親睦を深めると、しばし和んだ。
木蘭様のお茶の好みなどを聞いて、舞い上がっていた苺苺はしばらくして「ハッ」と現実に帰る。
「そういえば、どうして若麗様がこちらに?」
「そうでした。こちら、苺苺様宛に木蘭様がしたためた文にございます」
「まあ! 木蘭様からの文!? さっそく額縁に入れて家宝にいたしますわ!」
苺苺は若麗から受け取った文を、胸にぎゅうっと抱きしめる。
「苺苺様!? まずはどうかご一読御くださいませ」
「はっ。わたくしとしたことが、つい高ぶってしまいました……」
木蘭が白州の実家に訪問する際に届いた文は、その痕跡を消すために、父がすべて燃やしてしまった。なので、『推し直筆の文は燃やされる前に全部保存しておきたい欲』が、人前にも関わらず暴れてしまったのである。
「な、なんと書いてあるのでしょうか……?」
「文の内容は確認しておりませんので、私にはちょっと」
「そうなのですね。ああ、なんだかドキドキして手に汗握ってしまいますわ。……すーぅぅ、はーぁぁぁ。……よ、読みます」
深呼吸をして、浅く早かった呼吸を整えてから、上質な手触りの紙を広げる。
苺苺はそこに記された内容を見て、「えええぇぇ!?」と素っ頓狂な声を上げたのだった。
若麗を見送った後。
苺苺は本日も遅めにやってきた朝餉を食べ、急いで身支度を整えた。
「大変です、大変です、これは大変なことになりました……!」
苺苺は衣装箪笥から一張羅の白衣の大袖を取り出す。
これは皇太子宮に上がった初日に着た〝白蛇の白衣〟だ。白州の上質な絹を特殊な針と異能を使って自ら縫い上げ、金糸を使って蛇の鱗のような刺繍を施した破魔の装束である。
「ままままさか、木蘭様の宮にお呼ばれされるとは。夢のようです……!!」
推しである木蘭様が――最上級妃が開くお茶会に呼ばたのだから、散策時のような気軽な襦裙で伺うことはできない。
鏡の前で薄く化粧をしてから着付けを終えると、最近は手慣れてきた髪結いに取り掛かる。
長い白髪の半分を結い上げたら、三つ編みした髪の束を輪っかになるように左右に下げ、残りの髪は後ろに垂らす。結った部分にいくつかの簪をさしたら完成だ。
大きく長い袂にはいつもの簡易裁縫道具を忍ばせる。
さらに、徹夜で作ったくさんのぬい様を藤蔓で編んだ籠の中にせっせと全部詰めて、早足で水星宮を出た。
そして昼下がりの今――苺苺は木蘭の住まう紅玉宮に来ていた。
苺苺は紅玉宮の侍女頭である若麗に案内され、瀟洒な調度品で揃えられた客間に通される。
水星宮の十倍は広いその部屋には、雛鳥のように可憐な真赭色の衣装を着た木蘭が待っていた。
彼女はいつものように、濡羽色の黒髪を鬼の角のようなお団子に結い上げ、残りの長髪を背に垂らしている。上質な薄絹で織られた髪飾りがお団子の下でふわふわと揺れている様子は、春の妖精のようですこぶる可愛らしかった。
「白家の姫君。妾の宮にわざわざ来てもらってすまない」
「皇太子殿下の寵する可憐なる玉蘭、貴姫様にご挨拶申し上げます。こちらこそ、本日はお招きいただきありありがとうございます」
「ああ。格式張った場ではないので、どうか楽に過ごしてほしい」
(ふぁぁあっ! 本日も大変お可愛らしいです、木蘭様……! それに、なんだか良い匂いがします! これは紫木蓮の花の香り……っ。きっとお庭で手ずから育てられた紫木蓮を、毎日頑張って花瓶に活けられているのですね。おもてなしのお気持ちのこもった、素敵なお部屋です!!)
幼い彼女の完璧な気遣いから『木蘭様の一日』の妄想が捗り、苺苺はぱぁぁっと、とろけるような笑顔を浮かべながら答える。
対して、昨日よりもいくらか顔色の良い木蘭は、しゅんとした様子で頭を下げた。
「あやかしから守ってくれたこと、誠に感謝している。あの時は妾の力が及ばず、不敬な宦官たちの手による投獄を止めることができなくて申し訳なかった」
「そんな、頭をお上げください。もう本当に、あの、胸がいっぱいです……っ」
苺苺は大好きな木蘭の前で頑張って取り繕っていた。が、初めて推しの宮に招待された緊張と興奮で頭がどんどん混乱してきて、段々とわけがわからなくなってきていた。
胸が熱くて、目がぐるぐると回る。
「白家の姫君」
「ど、どうか苺苺とお呼びくださいまし!!」
「では、苺苺と」
(はうぅぅ! 木蘭様に名前を呼んでいただけるなんて、わたくしもう天に召されようとも構いません……っ)
勢いで『後宮へ上がる以前より、ずっとお慕いいたしております!!』と口走り言いそうになるのをぐっと堪えて、真っ赤に染めた頬を隠すように円扇で顔を隠す。
「……っ! その、木蘭様にお怪我なくて何よりでした。昨日はあれから大丈夫でしたか?」
「ああ。妾の心配よりも、苺苺の方だ。宦官に打たれ、縄をかけられて投獄されたというのに……。怪我の具合はどうなんだ? 流血もしていただろう」
「怪我は……す、少し、青あざになった程度でしたので、ええ、その、すぐに治ると思いますわ! 切り傷もいただき物の傷薬を塗ったので、それほどっ」
苺苺は紫木蓮の両面刺繍が鮮やかな絹の円扇で顔を隠しながら、幼い姫君を心配させまいと嘘をついた。
本当のところは、昨晩ひとりになった途端に緊張の糸が切れたせいか背中がズキズキと痛んで、湯浴み中もかなり沁みたところだ。お風呂あがりに鏡で見たところ、青あざもひどかった。
糸切り鋏で切った手のひらの肉はぱっくりと開いてはいたが、塞がり始めた部分もある。
まだ少し血が滲んでいたので、ここへ来る前に包帯を取り替えてきた。
(わたくしが自分で飛び込んだのですから、幼い木蘭様には余計な心配や責任を感じてほしくありません。怪我が目に触れぬよう、念入りに気をつけねば)
苺苺は大袖から指先以外が出ないように所作に注意する。
悪鬼武官からもらった軟膏を塗ってからは格段に良くなってきている気がするので、もうしばらくの辛抱すればこれらの痛みも和らぐだろう。
「だったらいいが……。昨日からずっと苺苺の体調が心配で仕方がなかった。痛ければすぐに言うように。妾が皇太子殿下に託けておく」
「お気遣いくださりありがとうございます」
会話がひと段落ついたところで、紅玉宮付きの女官たちが部屋へ入室し、お茶や茶菓子を円卓の上に並べていく。
木蘭はそれを見届けると、「皆、退がるように」と筆頭女官の若麗とともに全員を退出させた。
六歳の幼妃であるが、見事な主人っぷりだ。
「――それで、本題なのだが」
「はい。内密のご相談があるのでしたよね」
そうなのだ。文には紅玉宮付きの女官にも内緒で、『白蛇の娘』の異能を頼りたいとあった。そのために『白蛇の娘』の正装と、形代となるぬいぐるみたちを持参したわけである。
「以前、白州に伺った時のことは」
「……申し訳ありませんッ!! 昨日のことのようにしっかりと覚えております! 一言一句忘れられませんでした!」
木蘭様は『忘れてくれ』とおっしゃいましたのに、と苺苺は白状する。
しかし木蘭は怒ることなく、
「そうか。内密にしてくれたのだな。恩に着る」
と新春に花が綻ぶような、やわらかな微笑みを浮かべた。
「あっ、あっ、あっ。尊みが深いですっ」
(そんな、当然のことですわ)
苺苺は淑やかな笑みを浮かべる。推しの摂取過多で、本音と建て前が反対になっているのには気づいていないらしい。
木蘭は内心、『尊みが深い? とは?』と首を傾げる。
「朱家の両親から届いた茶菓子だ。食べながら話そう」
「はい。いただきます」
勧められた皿には、桃花の塩漬けを練りこんである鮮やかな桃色をした桃花月餅と、鮮やかな鶯色をした緑豆糕が盛りつけられていた。
どちらも春らしい色合いをしていて、宝石のごとき佇まいにうっとりしてしまう。
(ああ、ふたりきりでお茶会だなんて、心臓がいくつあっても足りないです……っ)
苺苺は舞い上がるような気持ちで、勧められた茶菓子を手に持った。
そして照れ隠しにひとくち食んで、
(……あら?)
と目を丸くする。
さすが紅玉宮のお茶菓子だ。桃花を型どられた月餅は、選りすぐりの材料で作られているのだとわかる上品な甘さとほどよい塩加減がして美味しい。そう、確かに美味しいのだが……。
なぜだか飲み込むたびに、ずくりと胸が痛くなる気がする。
(毒味の女官の方はいらっしゃるはずですし、毒ではないでしょう。となると……これは、まさか)
代々『白蛇の娘』に受け継がれている書物の内容を思い出す。
(――だとしたら、木蘭様の身体が心配です)
早急に対応しなくては。
「今回相談したいのは、その時に話した呪詛の件とは別になると思うのだが……最近、まったく眠れないんだ。不眠症というのだろうか」
「眠れない……。他にはなにかありますか? たとえば、身体のどこかが痛む、というような」
「ああ。清明節の二週間ほど前からだろうか、内側から胸が痛む。食事を摂ると胃が引きつるような感じもして……」
「……やっぱり」
苺苺の予想は確信に変わってしまった。
(幼い木蘭様になんという仕打ちを)
「その症状が時々、消えることがあるのだ。大抵、妾が外に出た日なのだが……昨日は特に顕著だった。この症状は病ではなく呪詛で、苺苺が異能を使って祓っているのだろう?」
木蘭は確信に満ちた様子で問う。
苺苺はビクッと肩を震わせると、罪人のようにしゅんと俯いた。
「はい。木蘭様の言うと通り、わたくしの異能です……。まことに勝手ながら、木蘭様をお守りするために異能を行使しておりました。許可なく勝手をしていた罰は受けますわ」
木蘭様をもう全力で推せないかもしれない未来に震えながら、「どうぞ、煮るなり焼くなりいたしてください」と深く頭を下げる。
「なぜそうなる。妾は苺苺に感謝しているのだ」
「え?」
「苺苺のおかげで、妾はこうして今も生きている。……礼を言う」
「あっ、あっ」
苺苺は感動のあまり、だばーっと涙を流した。
バレたら大変だと思っていた推し活が、まさか、まさか感謝されるだなんて。
「ううっ、ぐすっ……。これからもわたくし、木蘭様を悪意からお守りするために全力を尽くして参ります……! 配慮は最大限に、ですが、もう遠慮はいたしませんわっ!!」
苺苺は袂から簡易裁縫道具を取り出して円卓の上に置く。
そして、持ってきていた藤蔓の籠から布を外し、その中身の物も遠慮なく円卓の上に並べた。
玉匣に入った裁縫道具、海獣葡萄鏡に似た八花形の白銅鏡、朱塗りの銘々皿、絹の円扇にぬいぐるみと、木蘭からして見れば繋がりのわからないものばかりだ。
いや、絹の円扇とぬいぐるみだけはわかるか。
見事な紫木蓮の刺繍と木蘭によく似た人形……とくれば、これが自分に関連付けられるものだということくらい理解できた。
「これは『白蛇の娘』に代々伝わる〝白蛇の神器〟というものです。こちらから『白蛇の鱗針』、『白澤の八花鏡』、『龍血の銘々皿』と言います。わたくしはこの白蛇の神器を使って、自らの血に流れる異能を操り、この世の悪意を祓うことができるのです」
苺苺は涙腺の緩んでいた顔をキリリと引き締め、指先を揃えた手で円卓の上に置いたものたちを差した。
「この世の悪意とは五つの姿があるとされています。〝呪靄〟〝呪妖〟〝呪毒〟〝呪詛〟そして〝怪異〟――」
『白蛇の娘』が書き記した書物には、【この世の病や死は五つの悪意からもたらされる】とされている。
【人間の肉体、精神、魂の三つのうち、肉体か精神が欠けると病にかかり、魂が欠けると死に至る】らしい。
「木蘭様に向けられているのは、呪靄と呪妖、そしておそらく――呪毒です」
思わず静止の言葉が木蘭の口をついたが、鎮火活動を行う苺苺には聞こえていないみたいだ。
そうこうしているうちに、青紫の炎が苺苺の手のひらの上に移る。
底知れぬ不気味な美しさを持つ炎は、しかし踊るように揺らぎ、「ふっ……」という苺苺のひと息でたちまちに消えた。
まるで、命の灯火が消えるみたいに。
「……それは、なんだったんだ?」
「先ほどの青紫の炎は、いわゆる燐火ですわ。元気に燃え盛っておりましたが、ああ見えて見た目だけなので触れても熱くはありません」
「……あれが、燐火」
「その、木蘭様が手にされた時に、円扇に封じられる悪意の限界がきたようです。普段はその時期を見極めて焼却するので、このようなことは初めてで……!」
(もしかしたらご本人が触れたからでしょうか。今後は気をつけなくては……!)
骨組みだけになった円扇の残骸を手に、苺苺はおろおろとする。
「悪意が純度を増したものである燐火には、人間にとって有毒な瘴気が含まれております。他者から向けられた悪意自体は封じられて祓われたあとですが、あのように燐火になると、異能を行使して鎮火しなくてはいけません」
(書物には【出来る限りしてはいけない】と、先代のどなたかの走り書きがありましたが)
それでも今までの人生で二度、燐火を発生させてしまって鎮火した経験があった。今回で三度目だ。
一度目は修行中の身で、異能を操りきれずに。
二度目は七歳の時らしいが、派手に昏倒したせいか、その年は丸々記憶がない。
しかし今回は今のところ体調に大した影響が出ていないので、肉体が成長するとともに異能の力も成長しているのかもしれない。思わぬところで自分の成長を実感する苺苺である。
「なるほど。すごいものを見た。それが、苺苺の異能の一部なんだな」
「はい。こちらは一応、わたくしが回収させていただきますね。七つまでは何が起きてもおかしくはありませんから、木蘭様は触れられないようになさってください」
苺苺は円扇の残骸を大袖の中へしまう。
それに異能の術を使った証拠が残っていては、木蘭以外にバレた時に面倒になる。
「すまない、せっかくの大作を」
「いいえっ。これでまた、木蘭様を想って新しい図案を考える楽しみができましたわ!」
(はぁぁぁっ、想像力が掻き立てられます……っ)
「次の作品では木蘭様の初夏の装いにぴったりの図案を考えますから、ぜひ贈り物にさせてくださいませっ。あああ、そうですわ! 先日、わたくしの実家から朱色の絹が送られてきましたの。良かったら破魔の衣裳も作らせてくださいまし……!」
王都の市井で行われている推し活では、推している演劇一座や演者本人に宛てて熱心に贈り物を送ったり、姿絵を購入して間接的に貢いだりすると聞く。
全力で推し活をしてきた苺苺だが、〝白蛇〟の冠をいただく最下級妃という立場上、最上級妃への贈り物だけは許されなかった。木蘭に媚びたい他の妃たちに牽制されていたためだ。
(こんなに全力で推しに貢げる絶好の機会……逃しません!)
「衣裳は……燃えるのか?」
「破魔の衣裳は、悪意を寄せ付けないために特別な技法を用いて縫う衣ですので、燃えませんわ。ご安心ください」
「そうか。では、いつか貰えたら嬉しい」
眉を優しく下げて、可愛らしい幼妃が目を細める。
(あっ、あっ。この限りない喜びを、木蘭様推しのみなさまと分かち合えたら、どんなにか……っ。そうですわ、あとから若麗様とお話できないでしょうか!? 若麗様は木蘭様の筆頭女官ですし、絶対に木蘭様推しですわよね!?)
後宮妃で推し活をしているのは奇特な苺苺くらいだが、女官には嗜みとして浸透している。
女官たちの推し活は妃を慕って尽くしたり、他の妃を推す女官と応援合戦や代理戦争をするもので、市井の推し活文化も取り入れた木蘭様過激派の苺苺とは若干推し活の方向性が違うのだが――それを知らぬ苺苺は、若麗との楽しいやりとりを想像しながら、『若麗様とお話するのが楽しみですわ』と微笑んだ。
「はっ! わたくしとしたことが、話が逸れてしまいました。……こほん。木蘭様が眠れなくなっている原因は、呪靄によるものでしょう。呪靄はわたくしが刺繍の手を止めてしまうと祓えませんので……おそらく、木蘭様は夜中にも悪意を向けられているということになります」
「夜中にも、悪意が……?」
「ええ。まさか木蘭様が不眠に悩まされているとも知らずに、わたくし、亥の刻から日の出まで、ぐっすりと就寝しておりました……。一生の不覚です……っ」
苺苺はきゅっと両目を瞑って、心の底から悔しがる。
悪意を勝手に収集し封じ込めて祓う形代――ぬい様は、昨日の昼に完成したばかりだ。
(それまでは破魔の術である刺繍しか、木蘭様に向かう悪意を祓うすべがありませんでした。だというのに白蛇ちゃん抱き枕を抱いて、すぴーっと穏やかに就寝していただなんて……っ!!!!)
呪毒を生じさせるほどの呪妖の宿主が発する呪靄なのだから、眼で直接視たらよほど禍々しいものに違いない。木蘭への影響も相当だったはずだ。
苺苺の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。
「その前に。まさか苺苺は一日中、妾を守護するために刺繍を?」
「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」
「は……? 待ってくれ、一日中?」
「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」
推しが毎日幸せであることが、苺苺の幸せだ。
それを叶えるためなら、刺繍の半刻や一刻、いや五刻や十刻だってお茶の子さいさいである。
木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。
ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺苺に、木蘭は無表情で閉口する。
一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服局に配属されている針子女官でもしないだろう。
給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。
その心の向け方は、常人には真似できない。
ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。
「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖の宿主である女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」
「猫魈……そうだったのか」
「猫魈様はその方によって無情にも飢餓状態にさせられ、そのうえで木蘭様を『襲え』と命じられたそうですわ。猫魈様自身にその意志はなく、今回の事態をとても後悔しておいででした」
「となると、女官には妾への明確な殺意があったというわけだな」
「おそらくは。ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が配膳などで触れた対象者の食事に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」
つまりは先ほど苺苺が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。
呪毒は発生源が悪意を向けた相手の肉体を体内から蝕む。
その性質上、特定の人物が口にした時にのみ呪毒が反応が反応し、それ以外の人物が口にすれば霧散する。
苺苺が木蘭に向けられた呪毒を口にして感知できるのは、『白蛇の娘』であるからにほかならない。
(朱家ですでに呪毒に侵されていた可能性も考えられますが、清明節以前から日常的に症状が出ているのですから、紅玉宮での食事が呪毒で蝕まれていると考えるべきです)
今日の茶会は急遽開かれたもの。
朱家から届いて、厨房に保管するまでの間に誰が触れていてもおかしくない。
それでも主人の口に入れるものだから、取り扱いを行うのは上級女官のみに限定されるだろう。
「食事に宿った呪毒は、こちらの銘々皿を使った時にのみ形にでき、祓うことができます」
苺苺はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく『龍血の銘々皿』を手に取る。その名の通り龍の鮮血を塗って作られたものだ。
(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)
食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど自覚のある殺意だ。
苺苺がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから『殺したい』と明確な殺意を抱かれるほど憎まれるような経験はまだ無い。
「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」
「いや。やろう」
「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」
苺苺の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。
それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。
燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。
木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。
(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました〜〜〜!)
「大丈夫ですか!? お怪我は、止血を……っ!」
「なんてことない」
「いいえ重傷です!」
(木蘭様に重傷を負わせたわたくしは完全に有罪ですわ……!)
「わたくし、自主的に牢獄暮らしをいたしますッ」
顔を真っ青にした苺苺の脳内で、会ったこともない皇太子殿下が『そなたの名を牢獄妃に改名する!』と高らかに叫ぶ。
「牢獄妃の異名、謹んで拝命いたしますっ」
罪悪感と絶望感でアワアワと目を回す苺苺の様子に、なんとなくどんな想像をしているのか察した木蘭は、
「投獄は絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」
これくらいで大袈裟だな、と呆れた表情を浮かべる。
「それに。第一、お……じゃなくて皇太子殿下はそこまで鬼じゃない」
木蘭はちょっと不服そうなむくれた様子で、ゆるく首を振った。
「そ、そうでしょうか……ッ!?」
「むしろ皇太子殿下は、『苺苺の手のひらの傷に比べたら、これくらい我慢して当然のことだ』と表情ひとつ変えずに妾に言うだろう」
そうこうしている間に、龍血の辰砂に、ぷっくりとした柘榴石のような――木蘭の血の赤が溶けていく。
契約が正常に行われた証拠を見届けてから、苺苺は「薬箱はどこですか!?」と弾かれたように立ち上がると、急いで木蘭の指の手当をするための綺麗な布と消毒薬を用意した。
悪鬼武官からもらった薬壷を取り出し、軟膏を入念に塗り込む。
真剣に手当てを施す苺苺に気づかれぬよう、木蘭は遠い憧憬を滲ませた切ない双眸で眺める。
「……これでよしっと。湯浴みをされる際は気をつけられてくださいね。とっても沁みますから」
「わかった」
「ふう……、ドキドキいたしましたが、契約は以上で完了です。あとは木蘭様が呪毒の宿った食事に触れるだけで、この銘々皿に呪毒が形を伴って抽出されますので、それをわたくしが封じることで祓えますわ」
「試しにそちらの月餅に触れてもらっても?」と、苺苺は茶菓子を示す。
木蘭が従って自分の月餅を手に取ると――真っ赤な銘々皿の上に、ことり、とどこからともなくまったく見た目の同じ月餅が現れた。
「……は? まさか、その月餅が呪毒なのか?」
「はい。そのようです」
書物によると、どんな飲食物に宿った呪毒も、すべて茶菓子の形をとって現れると書いてあった。
しかし、何もなかった空間から突如現れた月餅は、同じ見た目といえど少し不気味である。
(でも、これが銘々皿の上に現れたということは……木蘭様の食事に長い間、呪毒が宿っていたという動かぬ証拠になります)
苺苺は険しい表情で、目の前の月餅もどきを睨んだ。
さて。呪毒は刺繍でも形代でもなく、白蛇の娘が自らに封じて祓わなくてはいけない。
書物によると、【呪毒の茶菓子は捨てたり腐らせたりすると呪詛になる】とあった。
「どのような味がするのでしょうか。ちょっとドキドキいたします」
「こんな怪しいもの、食べなくてもいい」
「いえ。わたくしが食べなくては、大変なことになりますから。――いきます」
苺苺は意を決して、はむっと食らいつく。
「ん……んんんん!?」
「ど、どうした?」
「お、美味ひいです……! なんということでしょう……。人生で食したお茶菓子の中で、一番美味しいです……っ!」
(なんと繊細な歯触り、洗練された甘みなのでしょうか! 見た目はもちろんのこと、食感も素晴らしいですわ。まるで超高級お茶菓子!!!!)
苺苺は月餅を片手に持ったまま、「餡が舌の上でとろけます……極上の月餅ですわ……」と頬をを抑える。
先ほどいただいた本物とは大違いだ。
(呪毒を抽出して作り出したお茶菓子だからこそ、この美味の頂点に君臨してしまったのでしょうか……っ!?)
「これぞ堂々たる王者の風格……。ううむ、菓子職人泣かせの神器ですっ!」
「そ、そうか。……苺苺の身体に害はないんだな?」
「ええ。わたくしはそう思います」
苺苺はペロリと呪毒の茶菓子を平らげた。
(――さあ、これで証拠は出揃いました)
木蘭の就寝時間や散策へ出かける頃合いを把握していて、なおかつ、昨日までは予定になかった唐突な来客の茶菓子に触れられる、女官。
「残念ですが、恐ろしい女官の方は……この紅玉宮にいる木蘭様付きの侍女のどなたかということになりますわ。けれど猫魈様を操れるほどの道士であっても、『白蛇の娘』が書き記した『五つの悪意の理』は、ご存知ないのかもしれませんね。わたくしも道術は齧っておりませんし、あやかしを強制的に操るすべも持っておりませんから」
そう結論づけた苺苺に、幼い妃は鷹揚に頷く。
「なるほど。確かに、あやかしや道術を操り用意周到に妾を害そうとする者が、異能持ちだと噂される『白蛇の娘』の前にわざわざ証拠を残すはずもない。だが、どうやって炙り出すかだな……」
「ええ。ですがこの勝負、有利なのはわたくしたちの方です」
「いったいどうするつもりだ?」
「それなのですが……――本日、わたくしを紅玉宮に置いてはくださいませんか?」
真剣な表情で問うた苺苺に、木蘭は紫水晶の瞳を大きく見開いた。
「――は?」
「大変ご無礼を申しているのは承知しております。ですが、木蘭様の危機とあっては、この苺苺、命を懸けないわけには参りません!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。紅玉宮に置くというのは、妾の部屋に泊まるという意味か?」
「いいえ、言葉通り紅玉宮のどこかに置いていただくだけで大丈夫ですわ! 室内がダメでしたら、廻廊でも、お庭でも、どこでも構いません。木蘭様か、紅玉宮の女官のみなさまのどちらかをつぶさに観察できる場所に置いていただきたいのです」
お茶や茶菓子を運んできた女官たちの中に、黒い胡蝶をまとっている者はいなかった。しかし木蘭の行動を完璧に把握しているのだから、犯人は絶対に紅玉宮の女官だ。
(木蘭様はもう一ヶ月近くよく眠れずに、胸が痛む日々を過ごしていらっしゃいます。大人にとってもひどい状況ですが、幼い彼女にとってはもっと過酷でお辛い状況のはず。一刻も早く、解決してさしあげねば)
苺苺が熱い決意で燃えているのとは裏腹に、木蘭は「それ以外の方法は――」と必死な形相を隠すようにして言い募る。
しかし、木蘭様に害をなそうとしている恐ろしい女官を懲らしめる気満々の苺苺は、「ないです!」と一刀両断した。
(そして一刻も早く、その恐ろしい女官の方に木蘭様の素晴らしき愛らしさを布教しなくては。天女様の御使いである木蘭様の尊さがご理解できれば、きっと悪さをしようなどとは考えられなくなりますわ! 推し活の真髄を、叩き込んで差し上げます!!)
木蘭は、苺苺の背後にごうごうと燃える炎の幻覚を見た。
どうやら、苺苺を紅玉宮に一泊させる以外の方法はないらしい。
「……わ、わかった。では、空いている部屋を用意するよう、女官に伝えよう」
木蘭は口角を上げて微笑みを作ろうとして失敗したような、幼い見た目に似合わぬ引きつった表情でそう言った。
お茶会は一旦お開きとなり、木蘭の命にて紅玉宮の一室には苺苺用の部屋が整えられた。
水星宮に帰り白蛇ちゃん抱き枕を抱えて戻って来た苺苺は、若麗と歓談しながら、用意された部屋に手荷物を置く。
「まさか木蘭様が、苺苺様と『お泊まり会をしたい』と言い出すなんて、本当に夢のようです」
若麗は心底安心した様子で、姉のような、ぬくもりにあふれた優しい微笑みを浮かべる。
「まだ六歳だというのに、木蘭様は大人びていますでしょう? 私たちが幼い頃に夢中になった遊びなどには、興味もなくて。一日中、大人さながらに書物を読まれたりなさるものですから」
「そうなのですね。木蘭様は天女様の御使いですから、天界で遊び尽くしていらっしゃったのかも。もしかしたら本当は、六歳ではないのかもしれませんわ」
「六百歳とか!」と苺苺がくすくすと笑いながら言うと、若麗もくすくすと笑って、「そうかもしれません」と応じた。
「もうすぐ夕餉の用意が整いますので、しばしお待ちくださいね」
「はい」
その後も若麗に木蘭の可愛い日常話を聞きながら、苺苺は幸福に浸る。
木蘭は読書家で、自由な時間があれば、いつも時間を忘れたように皇太子殿下からいただいた書物を読んでいるそうだ。
毎日決まった時間に妃としての勉強にも勤しんでおり、皇太子殿下に馴染みのある老齢の老師が付いているが、妃としての作法においては若麗が指導役となることもあるとか。
夜は時折、幼くして後宮に入ることになってしまった木蘭を案じた皇太子殿下が、絵巻物の読み聞かせや添い寝をしに来るらしい。
その甲斐甲斐しさはまるで本当の兄のようでもあり、遠い将来の夫でもあるようだと若麗はやわらかく眉を下げた。
(お噂通り、木蘭様は皇太子殿下と仲がよろしいのですね。きっと皇太子殿下も木蘭様の魅力にめろめろなのですわ! ふっふっふっ、わかっていらっしゃいますわね!! どんな方かはあまり存じ上げませんが、同じ木蘭様推しとして親近感を覚えずにはいられませんっ)
若麗の語る、木蘭と皇太子殿下のほっこり小話に、苺苺は癒されすぎてにやにやが止まらない。
心がほんわか温かくて、幸せでほっぺたが落ちそうだ。
一方その頃。苺苺と若麗に噂をされていた木蘭は、ひとりきりになった自室で「くちゅんっ」と可愛らしいくしゃみをしていた。
「……誰かが妾の噂を? はぁぁ。それにしたって、苺苺を泊めることになるなんて。正体がバレでもしたら大変なことになる」
暗殺されそうになったのは事実。
だが、燐家最大の秘密を抱えた身で、犯人探しのためとはいえ夜中まで苺苺を紅玉宮内に置いておくのは憂鬱だ。
「今夜だけは、絶対に戻ってくれるなと願いたくなるな……」
木蘭は額に片手を当てて頭を抱えながら、幼女らしからぬため息をつく。
それでも緩慢な所作で筆置きに置いていた筆を手に取り硯の墨を含ませると、上質な紙にさらさらと〝木蘭の筆跡〟で字を書き連ねていく。
机の上には、厨房へ今夜の夕餉の希望を伝えるお品書きがある。
女官に任せれば簡単だが、それをしたくないのは相手が苺苺だからだろう。
その理由がなぜだかは、わからないが。
ただ、せっかくだから喜ぶ顔を見せてほしいとは思った。
◇◇◇
あれから半刻が経った頃。苺苺と若麗は、相変わらず〝木蘭様の健やかなかわゆい日常話〟で盛り上がっていた。
女官であり姉の顔をした若麗が披露する小話に、苺苺はくすくすと微笑みながら、幸せいっぱいに相槌を打つ。
「それで殿下が清明節の剣舞の舞い手に木蘭様を指名なさった際も、殿下が短剣を賜られたんですよ」
「素敵なお話ばかりですわね。それにしたって、とっても羨ましいです」
「ええ、本当に。木蘭様が羨ましいですわ」
「そこは皇太子殿下が、ではないのですか?」
苺苺がくすくすと笑いながら若麗の言葉に突っ込みを入れた、その時。
寝台に並べていたぬい様が一体、ザクッ! と音を立て、刃物に切りつけられたかのように裂けた。
「……な、なんの音でしょうか?」
部屋に突然響いた不気味な物音に、若麗が怖々と苺苺に尋ねる。
「す、すみません、わたくしのぬいぐるみですわ。ぬいぐるみが無いと眠れない性分なものでして、その、たっ、たっくさん持って来たのです」
「まあ、それでこんなにたくさん……」
「はい。たぶん、きっと、移動の時に引っ掛けてしまった部分が、さささ裂けてしまったのだと思いますッ」
苺苺はぎゅっと目をつぶって嘘を言い切る。
先ほどのお茶会の時に木蘭に頼み、編み込んでいない背中の髪を鼈甲櫛で梳らせてもらい、数本の髪を懐紙に包んでもらってきていた。
そのうちの一本をぬい様に仕込んでいたため、現在のぬい様は形代として全力が出せている状態だ。
呪靄と呪妖を少しも漏らさずに自動的に封じて祓っているので、効果覿面すぎて限界が早く来たのかもしれない。
(裏を返せば、それだけの量の悪意を常に向けられている証拠です)
呪毒を生じさせるほどの殺意を胸に秘めている女官の悪意がその筆頭なのだろうが、幼くして貴姫の冠をいただいた木蘭の進む道は、薄氷を履むが如く危ういのだと肌に感じる。
(悠長にしている時間はありません。できるだけ早く、恐ろしい女官の方の尻尾を掴まなくては。でも、ぬいぐるみが突然裂けるなんて、若麗様を気味悪がらせてしまいましたよね……)
苺苺は心配しつつ、そっと若麗の顔色をうかがう。
けれども、彼女の顔を見てみると、どうやら無用な心配だったらしいことがわかった。
(若麗様は……きっと大人びた木蘭様のことが、ずっとご心配だったのですね)
若麗は寝台にこれでもかと並べられているたくさんのぬい様を眺めながら、「苺苺様は本当に木蘭様がお好きですのね」と、今にも泣き出しそうなほどの優しい微笑みを浮かべていた。
他の女官が「夕餉の準備が整いました」と呼びに来たことで、苺苺は木蘭の待つ食事をするための一室へ向かった。
(木蘭様と食卓を囲めるだなんて、夢のようですっ)
上座に座る木蘭の合図で、紅玉宮の女官たちがほかほかの料理が乗る皿を運んでくる。
準備が整い、壁際に恭しく女官たちが整列すると、木蘭は苺苺が自分にとって大切な客人だと周囲に印象付けるよう、再び丁寧に食前の挨拶を述べた。
「苺苺、今夜は妾と過ごしてくれること、とても嬉しく思う」
「こちらこそ、お泊めくださりありがとうございます。木蘭様と一緒に夜通しお話できるかと思うと、わくわくが抑えきれません」
「ふふ、そうか。今夜は紅玉宮の女官たちに妾の好物を用意させた。どれも苺苺に勧めたい一品ばかりだ」
(木蘭様の大好物!? はわわわっ)
「どうか存分に楽しんでくれ」
乾杯、と木蘭が搾りたての橘子果汁の入った玻璃杯を持ち上げる。
苺苺もそれに倣って乾杯した後、玻璃杯に口をつけた。
(橘子果汁も木蘭様のお気に入りなのでしょうか? かわゆいが爆発しています……!)
果汁の甘さと、幼妃にぴったりの桜花の意匠が施された玻璃杯を持つ木蘭の組み合わせのあまりの尊さに、思わず静かに感謝の合掌をしてしまう。
「どうした苺苺、もうお腹がいっぱいなのか?」
「いいえ、木蘭様への感謝の気持ちを全身全霊で表しています」
「そ、そうか。ならいい。よく食べてくれ」
「はい!」
(ですが、お食事をする前から幸せでお腹がいっぱいです……。あっ、美味しいです。なんと、これも美味しいです)
苺苺のとろけるような笑顔に、木蘭は頬を染めつつ得意満面に「ふふん」と胸を張る。
その後も、苺苺は夢心地のまま、木蘭に紹介されるままに豪華な夕餉に舌鼓を打った。
(それにしても、ふふふっ。昨晩の皇太子殿下が用意してくれた夕餉と少し料理の好みの系統が似ているところも、なんだか幼妃らしくてかわゆいですっ。木蘭様の新たな一面、尊すぎます……!)
苺苺は食事を頬張る木蘭の姿を眺めつつ、そう密かに思ったのだった。
そうして食後のお茶を楽しんだあとは、大きな湯殿に案内された。
侍女頭補佐と共に湯浴みの付き添いを申し出てくれた若麗に、「滅相もございません」と遠慮して断りを入れた苺苺は、ひとり残った広い脱衣所を見回して感嘆のため息をつく。
「湯殿に姿見を置くだなんて、紅玉宮の女官の皆様はすごいです」
湿気と蒸気のこもる湯殿で鏡は錆びやすい。
それなのに持ち運びもできない重量のある立派な姿見を据え置きにできるのは、女官たちがよほど徹底的に湯殿を管理し、鏡を常にピカピカに磨き上げているからだ。
その証拠に、錆びはおろか水滴の跡ひとつない。
苺苺はさすが最上級妃の女官たちだとその仕事ぶりに感動しつつ、コソコソと衣裳の帯に手をかける。
他の妃の湯殿を借りるのは、さすがの苺苺でも恥ずかしいのである。
(湯浴みのあとは姿見をお借りして、背中に傷薬を塗りましょう)
「湯殿に薬壷を持ってきていてよかったです」
と大袖を肩から下ろした時。
「あら? あらあら?」
朝までは肩にあったはずの赤黒い打撲傷が、綺麗さっぱり無くなっていた。
「傷薬の効果でしょうか……?」
すごい傷薬をくれたものだ。そう思いつつ、背中を姿見に写すと。
「……えっ」
蚯蚓腫れになっていた傷も、内出血していた傷も、すべて跡形もなく消えている。
白磁の肌はみずみずしく輝き、むしろ以前よりも張りがあるほどだ。
苺苺はもしかして、と左手に巻いていた手巾を急いで外す。
――鋏で斬りつけた傷は、ものの見事に塞がっていた。
「こんなことって、初めてです。良いことなのでしょうが」
苺苺は神妙な顔をしながら薄い湯着に着替えて、湯浴みをする。
普段であれば、見慣れた木桶ではなく異国の檜を惜しげも無く用いて造られた紅玉宮の湯船に感動するところであるが、今の苺苺の頭は不可思議な現象への疑念でいっぱいだった。
丁寧に身体を流し、檜が香るたっぷりと湯が張られた贅沢な湯船に浸かる。
湯気の上がるとろりとした湯から左手を出すと、ちゃぷんと音がした。
水滴が垂れる。
――水星宮での水仕事などなかったかのような、白く透き通った白磁のような手だ。
(いただいた傷薬も効果はありましたが、昨晩と今朝ではこれほどの効果は出ませんでした。となると、それ以降の行動がこれほどまでの影響を及ぼしたことに)
考えずとも、脳裏に浮かぶ。
左手で撫でて鎮火させた燐火、そして『龍血の銘々皿』に現れた茶菓子しかない。
「なるほど……。『白蛇の娘』にとって悪意とは恐れるものではなく、真正面から飛び込み、立ち向かうものなのですね」
それは、悪意に侵された白家の姫君を娶った白蛇が与えた――愛し子への祝福か。
(心なしか異能の力も今までで一番漲り、澄み渡っている感覚を覚えます)
あやかしのように、燐火が霊力に変わったのかもしれない。
苺苺の異能の力は、今もまだまだ成長を続けているということだ。
それに〝治癒の力〟も発現するだなんて。
(代々白蛇の娘に受け継がれてきた書物にも記されていませんでした)
苺苺は傷のなくなった手をきゅっと握る。
「怪我が、治せる。それがどれほどの範囲まで適用されるかはわかりませんが」
しかし、そうとわかれはこれまで以上に心強い。百人力になった気さえする。
「ふっふっふ、禁断の仙薬をキメたのは錯覚ではなかったようです。この白苺苺、木蘭様のためならば降りかかる悪意もすべておいしくいただいてみせます!」
苺苺はぐっと拳を握りしめて立ち上がる。
ザバァァァン! とお湯が波立ち、豪快な音がした。
湯浴みを終えた苺苺は一度与えられた部屋へ戻って荷物を置くと、「ね、寝物語を語りに……」と女官に伝えて、木蘭の寝室へと来ていた。
道術を操る恐ろしい女官の目を欺くために、今の苺苺は寝衣に羽織をまとっている。
これは『年齢の壁を越えて仲良くなった妃たちのお泊まり会である』と、印象付けるためだ。
花器に生けてある木蓮の花が、ひそかに香る。
木蘭も苺苺と同じように寝衣をまとい、羽織を両肩に引っ掛けるようにしていた。
けれどどうしてだか、木蘭の寝衣は丈も袖もぶかぶかだった。
どう見ても大人用の、もしかすると苺苺が着ても大きいと感じるだろう寝衣を身にまとっている。
(床に裾が引きずって……。こ、これは、もしや……)
後宮妃であれば、間違いなく、
『もしや皇太子殿下の寝衣かしら?』
『皇太子殿下はこの宮に寝衣を備えておくほどお通いに?』
『国を守護する行事で大事な剣舞を舞わせるだけでなく、これほどの寵愛を!?』
と怒りと嫉妬に駆れるところだが、しかし。
(寝衣のあやかしちゃんでしょうかっ! あああ愛らしい! 愛らしすぎますっ!)
苺苺は案の定、胸をずきゅんと撃ち抜かれていた。
興奮で真っ赤に染まった熱い頬を、ぱちんっと両手で押さえる。
(あまりのかわゆさに言葉が見つかりません。ああ、このお姿の寝台に横たわる木蘭様ぬいぐるみを作りたい……!! おねむな様子で今にも寝落ちしそうな姿の木蘭様、略して〝ねむねむ様〟。欲しいですっ)
後宮妃としてどこかおかしい苺苺は、『推しの応援作品を製作したい意欲と収集したい物欲で息ができませんんん』と、溢れんばかりのときめきと尊みに駆られて涙腺が緩んだ。
胸がはちきれそうに痛い。
そんな内心荒ぶりまくっている苺苺の本心には少しも気づかず、木蘭は『やはり自分とふたりきりはまずかっただろうか』と考える。
少し変わったところのある苺苺といえど、いざ他人の寝室に入るのは顔を赤くするほど恥ずかしいはずだ。
しかも卓も椅子もない寝台のみの部屋など。
風邪をひいたと聞きつけて見舞いに来たふりをしながら、皇太子を待ち寝室に居座ろうとする妃嬪や女官を防止するために、寝室には最低限の物しか置いていない。
今朝も前触れもなくやって来た徳姫を追い払ったばかりだ。
木蘭は申し訳なさそうに眉を下げると、「やはり椅子を用意していればよかったな」と寝台の端へ腰掛けるように勧めた。
「すまない、あまり女官の印象に残る不自然な動きはしたくなくて」
(あわわ、木蘭様をなにやら悲しませてしまいましたっ)
豪華な天蓋付きの寝台は、苺苺がかつて見たことないほど大きい。
大人が三人は悠々と寝転がれそうである。
(あまりのかわゆさにめろめろでしたが、幼い木蘭様がおひとりでここに寝るのは……きっとお寂しいでしょうね。皇太子殿下がいらっしゃる時は良いでしょうが、病気がちというお噂ですし)
他の妃嬪に御渡りがあった、というような風の噂は聞かないので、皇太子殿下は今のところ紅玉宮にだけ来訪しているのだろうが、それでもひと月の間にそう何日も訪れてはくれないだろう。
(皇太子殿下がいらっしゃらない夜は、ご両親を思い出したり、ご兄弟やご姉妹を思い出して涙されているやも……!)
そのうえ不眠症気味とあっては、木蘭様の心が蝕まれていくのも時間の問題に思える。だからこそ。
「木蘭様、大正解だと思います! こちらの方がお泊まり会らしくて断然楽しいです! 皇太子殿下の代わりにはなりませんが、この苺苺、今夜はしばし木蘭様のおそばにおりますからね」
その言葉に、木蘭は虚を突かれた様子できょとんとする。
「ええと、その……苺苺は以外と度胸があるんだな。安心した」
「……? せっかくの機会ですから!」
(お泊まり会のふりではありますが、少しでも、幼い頃の楽しい思い出を作っていただきたいです)
そう願わずにはいられなかった苺苺は、最上級妃と最下級妃という間柄は都合よく忘れることにして、遠慮せずに寝台の端に腰掛けることにした。
「あえて人払いはしていないぞ。この時刻は女官たちもそれぞれの残りの仕事で忙しく、持ち場につきっきりで妾の部屋の前にはいないからな。だが、声を落としておくに越したことはないだろう」
そう言って同じく寝台に腰掛けた木蘭は、幼女らしからぬ難しい表情しながら、
「……確定だな」
とため息まじりにいった。
「夕餉に呪毒は宿っていませんでしたね」
「ああ。ということは、妾が茶会に携わらせた女官の中に、犯人がいる」
「はい」
苺苺は気を引き締めて、背筋を伸ばし、真面目な表情で返事をする。
お茶会での打ち合わせで、木蘭は夕餉に携わる女官を総入れ替えすると言い出した。
『せっかく苺苺が炙り出してくれるんだ。できることは全部やろう』
とは、六歳には思えぬほどの名言であった。
(幼くてもやはり貴姫となったお方。さすが、聡明であらせられますわ)
苺苺がますます〝天女様の御使い木蘭様〟に陶酔したのは無理もない。
「お茶会に携わった女官は五人でしたね。お名前とお顔は一致しておりますから、今夜こっそりと見張りをいたします」
五人の女官の中には、筆頭女官の若麗もいる。
なので、実質的には四人の女官を見張ればいいだろう。
数体のぬい様と白蛇ちゃんの抱き枕を持ってきていた苺苺は、「では作戦の確認です」と、もともと小声で話していた声の音量をさらに小さくした。
「現在、このぬい様ひとつだけに、木蘭様の髪を一本入れてあります。夜中に向けられる悪意は全てこの子に集まるので、不眠症を引き起こすほどの悪意であればすぐに限界を迎えて裂けてしまうでしょう。その反応を、犯人を探す目安にいたします」
日中は木蘭のことを考える妃嬪や女官も多い。
夜も遅くの人々が寝静まった頃となると、よほどの恨み辛みがなければ思考し続けていたりしない。
しかも夜警当番の女官以外は、紅玉宮の敷地内にある宿舎で就寝している。
「悪意が向けられるのは発生源の方の意識がある時ですから、その時に起きている女官の方、もしくは明かりの点いている部屋が怪しいと言えるでしょう。人目を忍び、わたくしが確認してまいります」
「ああ、わかった。頼んだぞ」
「はい」
苺苺は『いざ出陣!』とばかりに、ぬい様を両手で持ち上げて突き出す。
木蘭様の髪は懐紙に包んで袂にしまっているので、あまりに悪意が強大で封じなくてはいけない場合でも、すぐに新しい形代を用意できる。早業刺繍だって準備万端だ。
(ふっふっふ。恐ろしい女官の方を見つけ出したら、木蘭様の素晴らしさを夜通し布教させていただきましょう。そして、底なしの木蘭様沼に引き摺り込んで、足の先から頭のてっぺんまで綺麗に沈めてさしあげますわ!)
作戦は完璧と言えた。
それから半刻後――。
打ち合わせの段階では、亥の刻以降に、〝寝物語を聞かせた設定〟の苺苺が、〝眠った設定〟の木蘭の部屋から出発し、『恐ろしい女官発見器』と化したぬい様を片手に紅玉宮の女官を監視するため暗躍する……という予定だったのだが。
不眠症に悩まされていたはずの木蘭が、寝台に横になった途端にすやすやと眠ってしまったので、白蛇ちゃん抱き枕を抱えながらお喋りをしていた苺苺は部屋を出るに出られなくなっていた。
(せっかく久しぶりにぐっすりと眠れたのですもの。不用意に音を立てて、起こさないようにしなくては)
木蘭様の安眠をお守りいたします! と強い使命感を抱きつつ、物音を立てないようにしながら辺りに気を配る。
猫魈の事件では、女官に命を狙われたという衝撃もあっただろうに、そして皇太子殿下に苺苺を無罪にするよう便宜を図ってくれたり、今日もお礼にと茶会を開いてくれたりと……連日の疲労を押してまで苺苺のために仁義を尽くしてくれた幼妃に対し、敬服せずにはいられない。
そんな木蘭に訪れた、ささやかな休息。
ぬい様の効果がばっちり現れている証拠だが、そのぬい様が裂けた途端、疲労困憊の身体であっても木蘭は目を覚ましてしまうだろう。
できるなら、今夜ばかりは裂けてくれるなと形代に願いたくなる。
(このまま木蘭様が起きなければ、半刻くらい経ったあとに作戦通り部屋を出ましょう)
そう決めて、静かに新しい刺繍を始める。今夜は『白蛇の鱗針』は使わない。
(この円扇ができあがったら、木蘭様へ贈りましょう。……そうですわっ。わたくし用の円扇もお揃いの図案にしたら、誰もが夢見る推しとのお揃い円扇が叶います……! 楽しみですわね)
どこからか月琴のやわらかな音色が聞こえてくる。
弾き手はきっと、月琴の名手と名高い若麗だろう。
(なかなか眠りにつけない木蘭様を想って演奏しているに違いありません)
ただの女官の腕前とは思えないほど上手だ。
(若麗様のお部屋から弾いているのでしょうか? それとも中庭で?)
なんて考えている頭に気持ちのよいもやが掛かってくる。
「ふぁぁ……」
ついつい小さく漏れたあくびを、針を持っていない方の手で押さえこんだ。
しかし、緩やかに心と身体を解す優雅な調べは、昨晩から徹夜でぬい様を作っていた苺苺にもよく響く。
そうして微睡みに誘われ始めた苺苺は、いつもの就寝時間を迎えると、こくりこくりと船を漕ぎ始めたのだった。
◇◇◇
「……俺はいつの間に眠って……――なぜ、苺苺がここに寝ているんだ」
広い寝台の上で上半身を起こした美青年は、寝台に腰掛けた状態で倒れている少女を見つけて、寝ぼけていた思考が一瞬で覚醒した。
「作戦と違うじゃないか。だから泊めたくなかったんだ。いや、俺が寝室に入れたのがそもそもの間違いか……」
ああ、頭が痛い、と美青年は骨ばった大きな手のひらで額を押さえる。
夜中の紅玉宮を、ただの客人である白蛇妃が女官も付けずにうろうろするのは、非常に怪しい。
だから女官に見つかった時のために、『幼い木蘭が寝物語をねだったせいで遅くまで妃の寝室にいた苺苺は、自室の場所がわからずにうろうろしていた』、という言い訳を作れるようにした。
それなら見張りがどんなに夜中まで及ぼうとも、他の女官を気にせずに、悪意を向けられている頃合いを見計らって犯人探しに行ける。そういう計画だった。
だが実際はどうだろう。
「……とにかく、眠ってしまった俺が悪いな。この姿で見つかれば面倒が増える」
今は過去の過ちを後悔するよりも、彼女を起こさないように部屋を出なくては。
そう思って立ち上がった瞬間、ぎしりと大きな音を立てて寝台が軋んだ。
「……っ!」
「んう、木蘭様? 起きられましたか? ……ごめんなさい、わたくしとしたことが、ついうっかり眠ってしまって――!?」
上半身を起こし、寝ぼけ目を擦っていた苺苺が次第に大きく目を見開く。
「きゃ――」
「すまない。静かにしてくれ」
「むぐ、むぐうぅ」
ここに居るはずのない、銀花亭で出会った悪鬼武官と〝同じ声〟を持つ寝衣姿の美青年を前にして驚きの悲鳴をあげそうになった苺苺の口元を、大きく無骨な手が素早く覆った。
(ななななにやつです!?)
むぐむぐと言葉にならない声がもれる。
美青年はぎゅっと眉根を寄せて非常に困惑した表情であったが、真摯な瞳を苺苺に向け、
「俺の名は、燐 紫淵。この国の皇太子だ」
しっかりとした口調で、そう名乗った。
(こ、この方が、皇太子の紫淵殿下……!?)
苺苺はむぐ、っと驚きで思わず漏れそうになった声を反射的に抑える。
「銀花亭で会っただろう。あれは俺だ」
「むぐぅぅ!?」
「その、昨晩は名乗り出ずにすまなかった」
(え、えええ……? こ、声も同じですし、確かに皇太子殿下の姿絵ではあの悪鬼武官様と同じお面をかぶっておられましたが……。うーむ、そう言われてみると瓜二つのような気もいたします)
今はその顔を晒しているため、苺苺はまじまじと彼を見つめる。
透き通った紫水晶の色の瞳は長い睫毛に縁取られており、桃花眼の目元は艶やかで鋭い。
誰をも惑わせる蠱惑的な色気を持っていそうな絶世の美貌は、しかし、氷のように冴え冴えとしていて近寄りがたい雰囲気があった。
燐家の象徴とも言える紺青がかった黒髪は、腰の辺りまで伸びている。
この髪色こそ、苺苺が皇太子殿下の姿絵を初めて目にした時に、『まるで闇夜に流れる銀河のごとき艶やかさです』と感嘆した色だった。
昨晩よりもはっきりと色鮮やかに見えるのは、灯籠の赤みを帯びた光がないことと、彼のまとっている寝衣のせいだろう。
苺苺はなんとなく状況を理解できたような気がして、おとなしくこくこくと頷く。
「そして、信じがたいと思うが――朱 木蘭でもある」
苺苺はこくこくと頷きそうになり、思いっきり首を捻った。
(な、なにをおっしゃっているのです? 皇太子殿下が、木蘭様? 似ても似つかぬお姿ですわ!)
「うむぐぅ、むぐうう!」
口元を覆われていて喋れないため、慌てふためいた苺苺は身振り手振りでなんとか伝えようとする。
「君の言いたいことはわかる。だが、誰がなんと言おうとも、木蘭は俺なんだ」
(そんなこと、あるわけが……!)
反論する苺苺をまっすぐに見つめる紫水晶の瞳は、確かに木蘭とまったく同じ色だった。
木蘭の瞳に忠実な色合いを再現するため、何度も木蘭を観察し、紫色の刺繍糸の色味を細かく厳正に選んできた苺苺が、見間違えるわけがない。
それに、細かな仕草や口調も一致している。
(わたくしに異能があるのですもの。姿形が変わる怪異があっても不可思議ではありませんわ。猫魈様の妖術も見たばかりですし……。もしかしてよくあることなのやも……)
苺苺は『理解しました』と示すように頷く。
その様子を見て、紫淵は「手荒な真似をしてすまなかった」と申し訳なさそうな表情で苺苺の口を覆っていた手を離した。
苺苺はぱっと立ち上がり、寝衣姿だが膝を折って最上級の礼を取る。
「燐華国の至宝の御剣にご挨拶申し上げます。……あの、ですが一体なぜ皇太子殿下が」
「苺苺。そんなに堅苦しく呼ばないでくれ。紫淵でいい」
「え、ええと、では……その、紫淵殿下と」
紫淵は少し不満げに苺苺の礼を受け取ると、寝台に腰掛けるように促す。
苺苺はこのまま立っているべきかと迷ったが、木蘭と作戦会議をしていた時のように隣に腰掛けた紫淵を見て自分も元いた場所にちょこんと座りなおし、そわそわと居住まいを正した。
(なんだか、その、落ち着きません)
それもそうだろう。幼妃である木蘭ではなく、十八歳になる皇太子殿下と同じ寝台に並んで腰掛けているのだから。
そしてそれは、紫淵も同じことだった。
まさか自分の正体を明かす日が来るとは思ってもみなかったし、昨晩だって念入りに誤魔化していたのに。
加えて紫淵は紅玉宮以外を訪れた経験も、誰かと寝台で過ごした経験もない。
木蘭と添い寝などと皆話しているが、同一人物であるからして、それは巧妙な作り話であった。
そんな自分が、事故とはいえ、先ほどまで苺苺と添い寝をしていたなんて。
(むむむ、お部屋に心臓の音しかしません……! 先ほどまでどんな風に会話していたか、忘れてしまったわけではないのですが、なぜだか、気まずいです……!)
苺苺からちらりとうかがうような視線を向けられて、紫淵はうっと胸を押さえる。
一睡するまでは確かに一緒に会話し楽しく過ごしていたのに、今はなぜだか、寝衣姿の苺苺にどぎまぎしている自分がいる。
もしもここにいるのが他の妃嬪であったら、いつもの冷笑を浮かべて、『誰の許可を取って俺の寝所にいる? 今すぐ出て行け』と理由も告げずに凍えるような声で一喝できただろう。
皇太子宮を解禁した時に皇帝陛下が定めた規律に触れたのだから、口封じも行うかもしれない。
だが、苺苺に対しては、そんなことをしようとも思わなかった。
紫淵は『駄目だ、落ち着け』と、脳内で黒い狼と化した宵世を数え始める。
「宵世が一匹、宵世が二匹、宵世が――」
「あ、あのう、なぜ東宮補佐官様をお数えに?」
「……っ、それはだな、ええっと」
言えるわけがない。君に触れたくなるから、だなんて。
紫淵は「それはそうと、俺になにか聞きかけていただろう」と咄嗟に話をそらした。
「そうでした。お伺いしてもよいのかわからないのですが、その……いったいなぜ紫淵殿下が木蘭様のお姿に?」
「……そうだな、君には話しておこう」
紫淵はそう前置きしてから頭を切り替える。
「悪鬼の呪詛だ。皇太子になるべく生を受けた皇子は、成人になるまでの間になんらかの怪異に巻き込まれる」
「もしや、……燐火の悪鬼の?」
苺苺はそっと息をのんだ。
「ああ。千年は続く呪詛ということになるな。俺の場合は十歳を過ぎた頃から、突然夜だけ幼い少女――木蘭の姿になるというものだったのだが……。昨年の暮れより、日常的にその姿になるようになってしまった」
「なんと!」
飛び上がるほど驚いた苺苺は、思っていたよりも大きな声が出てしまって両指先でハッと唇を押さえる。
幼女の姿の紫淵を〝木蘭〟と名付けたのは、当時その姿を初めて見た皇帝陛下だったらしい。
老齢の父に代わり男装した少女が男ばかりの軍に入りって武勲をあげる伝説から、
『朱 木蘭。皇子が女ばかりの後宮に入って栄華を極めるのに、これほど縁起の良い名があるか?』
と皇帝陛下は笑いながら言ったそうだ。
(そういえば、入宮前に王都を通った時に見かけた演劇一座で上演中の演目が、ちょうど『花木蘭』でしたね。馬車で通り過ぎるしかありませんでしたが、やはり早めに王都入りして観劇しておくべきでした……!)
推しの概念はすべて網羅しておきたい欲にかられ、思わぬつながりに内心ワナワナする苺苺である。
「怪異はいつ、どのように起きるかわからない。そのため皇太子の象徴とも言える紺青の黒髪を持つ皇子は、発現する怪異の実態が掴めるまで、生まれて数日後には皇帝陛下の名のもとに幽閉されて育つ」
「そんな……。幽閉とは、お大変でしたね。王都からお離れに?」
「いや、後宮の奥深くだ」
苺苺は息をのむ。
(後宮から離れられない、立太子するのが決定づけられている皇子。きっと様々な悪意に晒されたに違いありませんわ)
きゅっと眉根を寄せて、あたたかな憐憫を長い睫毛のけぶる大きな双眸に浮かべた苺苺の頭に、紫淵はぽんっと手のひらを乗せた。
慰めてほしくて言ったわけじゃない。
だが、幼かった頃の自分に、そっと苺苺が寄り添ってくれた心地がして、嫌な気分ではなかった。
「滅多な行事以外では姿を現さない俺に対して、周囲は次第に『やはり歴代と同じく病弱か』と囁くようになった。まあそれが一番身を隠すのに都合がいいから、今も好んで使う言い訳だが」
「そうなんですね」
「実際の俺は病弱とは程遠くて、幼い頃から武術も嗜んでいるから剣術もひと通りできる」
(ではやはり悪鬼武官様のお姿の時に足音がしなかったのは、本当に手練れである可能性が!? よ、よほどの剣の才をお持ちなのやも……!)
「と、いうことは、わたくし……まさか剣の錆に!?」
「なぜそうなる。……いや、君の選択によってはその可能性もあるかもしれない。今夜起きた出来事が皇帝陛下の耳に入るようなことがあればだが」
「ひいっ」
苺苺は恐ろしい自分の最期を想像してしまい、「優しくしてくださひ」と青ざめてガタガタ震える。
「……そんなに怯えるな、冗談だ」
「冗談のお顔には見えません〜〜〜っ」
「それは申し訳ない。この顔しかできないからな」
紫淵は苺苺を落ち着かせようと、意識して、冷たい美貌に極上の微笑みを浮かべる。
「ひええ、あ、ああ、あくどい顔です……っ!」
けれども逆効果だったらしい。苺苺のガタガタは酷くなった。
苺苺の怯えようがあまりに可哀想で、庇護欲を掻き立てられてしょうがなかった紫淵は、真摯な謝罪を伝えるにはどうしたらいいのかと悩んだ末――苺苺の真珠色の長い髪をひと房指先で掬ってから、捨てられた子犬のような顔をして、
「許してくれ、本当に冗談だ」
と、今度は作り物ではない低く優しい声音で告げ、本心から、苺苺を安心させるように目を細めた。
まるで機嫌を直してほしいと言いたげな、紫淵の甘くとろけるような、やわらかな表情。
それを真正面から直視してしまった苺苺の唇から、「あっ」と無意識に音が零れる。
するとなぜだか途端に頬に熱が集まって、胸がきゅーっと甘く締めつけられていくではないか。
(ひぇ!? いいえっ、紫淵殿下は推しじゃありませんっ。わたくしは木蘭様ひと筋です!)
苺苺はぶんぶんと横に首を振って、火照った頬の熱と一緒に勢いよく邪気を払う。
苺苺は意図していなかったが、心からの謝罪を勢いよく拒絶された形になった紫淵は、
「……本当にすまない」
と落ち込むしかなかった。
けれども、紫淵はそれを上手く取り繕って、「あー、その、続きだが」と話し出す。
「立太子してからは天藍宮での政務も増えた。けれども木蘭の姿では政務にも差し障りがあるだけでなく、万が一誰かに知られることとなれば命も狙われやすくなる。白州を訪れた理由は、その場で燐家最大の秘密を晒すことになろうとも、この呪詛を解いてほしかったからだ」
悪鬼の呪詛から解放されれば、逃げも隠れもしなくてよくなる。
だが悪鬼の呪詛は、人間の悪意ではないので苺苺の眼には視えず、未解決に終わった。
「悪鬼の呪詛はその後もひどくなり、年明けにはとうとう夜だけしか元の姿に戻れなくなってしまった。そのため俺の身を案じた皇帝陛下によって、成年を迎えてから封を解く予定だった皇太子宮が解禁されたんだ」
「木を隠すなら森の中というわけですね。その、朱家の姫として後宮に入られたのは……?」
「素性を徹底的に偽るために、仕方なく母上――皇后陛下を頼った」
この怪異が他者に知れ渡ると大変なことになる。
だから千年の間、皇帝、そして皇太子の腹心の臣下を除いて秘匿され続けてきた。
それは今代の皇后陛下も変わらないはずだった。が、幼い姿の木蘭が、最も安全な立場である皇太子宮の最上級妃として君臨するためには、もはや手段は選べなかったのだ。
「皇帝陛下の口添えもあったからな。次期皇帝の座が約束された皇子を今さら陥れようなどとは、さすがの皇后陛下も思わなかったらしい。どこぞの高貴な血を引く自分の養い子として、皇后陛下が自ら内密に朱家の当主に掛け合った」
「なるほど。燐華国の国母となった娘の願いを、朱家の当主が無下にできるわけがありません」
「そうだ。木蘭の姿が娘に似ていることからも、なんらかの理由のある娘の実子ではないかと事情を察した当主は、木蘭を快く自分の養女として迎え入れた」
皇后陛下が気に掛ける幼姫だ。
もしも上級妃として取り立てられでもしたら、……いや、必ずそうなるのだから、莫大な利益と恩恵を受けるのは当然――木蘭を養女とした朱家。
「木蘭は便宜上、朱家の遠縁の娘になっている。国母となった娘の不義理の子かもしれない木蘭の秘密を、朱家の当主は絶対に墓場まで持っていくはずだ」
その証拠に今年、次期当主が三の姫の若麗を後宮の〝秀女選抜試験〟――西八宮で三年ごとに行われる皇帝陛下の妃嬪と宮女を選抜する試験に送り込んでいる。
十中八九、突然現れた養女が『八華八姫』の慣例に従って妃嬪に難なく納まるのに、次期当主が納得できなかったからであろう。
しかし木蘭の女官を募る際、もともと妃教育を受けていて、なおかつ現皇后に仕えていた若麗を侍女にしろと、朱家当主が言い出した。
やはりいざ選妃姫が近くと、妃養育を受けてまもない幼姫に朱家を任せるのが怖くなったのだ。
当主の命令は絶対である。次期当主であろうと、孫娘であろうと逆らえない。
若麗は命じられるがまま志願し、紅玉宮の侍女頭になった。
これが紅玉宮に朱家の姫が二人も存在する理由だ。
苺苺は朱家の当主や次期当主の命令に翻弄される若麗の心を案じ、そして知られざる木蘭の秘密に瞠目する。
「木蘭様にはそのような秘密がおありだったのですね」
「ああ。だが……今や夜中であっても、ほとんどこの姿には戻れなくなった。それが、昨日に続き今日までも戻れるとは……運が良いのか、悪いのか。今夜は念のために俺の寝衣を着ていて正解だったな」
紫淵は額に手を当てながら肩を下げてため息をつき、自嘲気味に言った。
それから長い髪をかき上げる。
怜悧な雰囲気をまとった絶世の美貌が、すっと苺苺を見据えた。
「俺の怪異の秘密は皇帝と皇后、それから幼い頃から共にいる信頼のおけるふたりの従者、そして――目の前にいる君しか知らない」
「ひえっ。それは、あの、申し訳ありません」
「……いや。もともと君を頼った時点で、一度は君にバレる覚悟をしていた。それが早かったか、遅かったかの違いでしかない。他言無用で頼む」
もし誰かに告げるような真似をしたら命はない――とは伝えられなくても、苺苺は十分に理解していた。
そしてもうひとつ。
皇太子の命を守るためだけに解禁された後宮に集められた七人の妃が、〝森〟になるためだけの役割しか持たぬ〝仮初めの妃嬪〟であることも。
(わたくしは木蘭様を『白蛇の娘』の全力をかけて応援するために後宮に入ったので、もともと仮初め妃ではありましたが……。その理由でしたら、紫淵殿下を御支えするのも木蘭様を御支えすることと同義です。わたくしの立場は変わりません)
苺苺は腰掛けていた寝台から降りると、床に両膝をつき、すっと完璧な礼を取る。
「この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします」
寝衣のため多少格好はつかないが、それが紫淵と木蘭への誓いだった。
「白 苺苺。君の言葉に偽りはないな」
「是」
「……ありがとう。恩に着る」
紫淵は眉を下げてふっとやわらかく微笑む。
「俺は木蘭を〝寵妃〟として扱うことで、女官たちの目を欺いている。それには今後も口裏を合わせてほしい」
「それはもちろんです! ですが、そんなに簡単に欺けるのでしょうか……? 確かに本日まで、誰も疑っていませんでしたが……」
(わたくしも皇太子殿下は木蘭様推しだという認識でしかありませんでしたし)
苺苺はそろりと、目の前の美青年を観察する。
こんな高身長の、しかもなにやら常人とは違う雰囲気を醸しだす絶世の美丈夫が紅玉宮を徘徊していたら、すぐに女官の目に付きそうなものである。
「大抵は深夜にしか元の姿に戻れないからな。木蘭の時でも、寝室には日中の決められた掃除の時間以外は女官を入れないようにしている。元の姿に戻れた夜は、衣服を整えてからこの部屋の隠し通路を通って紅玉宮の外に出るんだ。簡単にはバレない」
なんとこの寝室には厳重な鍵付きの箪笥があって、紫淵用の寝衣や衣裳、髪飾りがしまってあるそうだ。
紅玉宮の女官は日常的に紫淵の名で木蘭に多数の贈り物が届くのを目にしているし、鍵付きの箪笥があるのも気にかけていないらしい。
紫淵は寝台から立つと、室内を音もなく歩いて、彼の身長以上ある箪笥に手を触れる。
「この下に隠し扉があって、地下通路に続いている」
「隠し通路とは、なにやらわくわくする響きです」
苺苺は目をきらきらと輝かせる。
頭の中では、木蘭が小さな身体で一生懸命あの箪笥を押しのけて、幼妃に似合わぬ険しい表情で『右よし、左よし』と指差し確認したあとに、こっそりと隠し扉をくぐって紅玉宮から脱走する。
……想像してみると、その姿はなんとも庇護欲をそそった。
「やっぱりわくわくは撤回しますっ。なんとお大変な状況なのでしょうっ。この大きな紅玉宮でひとり、大きな秘密を抱える小さな木蘭様……! きっとたくさんの苦労があるはずですわ。健気なお姿を見つめるだけしかできず、胸が痛いです……」
想像し終えた苺苺は胸を抑えて涙ぐみ、うるうるとした視線で紫淵を見上げる。
「木蘭様にたくさんのご加護がございますように……っ!」
「えっ。いや、隠し通路は俺が通るんであって、木蘭は通らないぞ」
箪笥に熱い視線を送っていたかと思えば、今度は涙目で自分を見上げてきた苺苺の様子に紫淵はたじたじになる。
「女官や宦官でも押せないくらいあの箪笥は重厚に作ってある。武官でも押し入ってこなければ、隠し通路の存在は見つからないだろう。なにせ通路の繋がる先は地下、しかも出口は皇太子の寝殿の中だ」
「なるほど。天藍宮は位置的には紅玉宮の真後ろ。後宮とを仕切る城壁や門も、地下ならば関係ありませんね」
「そうなる。皇太子にしか誂えられない意匠が施された鍵付きの箪笥を、いちいち改めて事を荒立てる命知らずの女官は早々いないからな。隠し事はたやすい。まあそれも、こうして寝室で鉢合わせしなかった場合のみだが」
紫淵は深くため息混じりにそう言うと、苺苺の手を取り再び寝台へ着席させる。
頭上に疑問符を浮かべる苺苺の隣に遠慮のない仕草で腰掛けた紫淵は、まるで大切な宝物にでも触れるかのごとく妖艶に、もったいぶった動作でゆっくりと、苺苺の頬に男らしい手を添えた。
「――さて。秘密を知られた以上、ここから君を出すことはできなくなった」
「へ!? あの、わたくし、先ほど『この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします』とお約束をっ」
「そうだな。だからこそ、俺が君の命を預かる」
「ひえっ!?」
「白苺苺。君には、俺の〝異能の巫女〟として、しばらくの間この宮に住んでもらう。少しでも秘密を漏らそうとすれば命はないと思え」
「えええええっ!?」
「もうじき日が昇る。秘密厳守、それから効率の観点からも、犯人探しは紅玉宮でしかできないからな」
紫淵はにやりと美しく微笑む。
美青年の姿はみるみる幼くなり、……――目の前には寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭がいた。
苺苺の頬に添えられていた手のひらは、大きさと温もりを変えて、そこにある。
「苺苺。乗りかかった舟だ。最後まで妾に付き合ってもらうぞ」
愛らしい幼妃の策士な笑みに、焦りと緊張から苺苺の鼓動はどきどきと高鳴る。
(えっ? えっ? どういうことですの? もしかしてわたくし、推し活をしていたはずが、なにやら紫淵殿下の重大機密に巻き込まれてしまったのでは……!?)
「皆の者、聞いてほしい。今日より無期限で、苺苺を妾の宮に招待することにした」
朝餉を終えたあと。
木蘭は紅玉宮の女官を一堂に集めてそう告げたかと思えば、隣に立つ苺苺の腰辺りに、遠慮なくぎゅうっと抱きついた。
(ひえっ! 木蘭様が、木蘭様がっ)
朝の支度を整えるために若麗が寝室を訪れるまでの間、木蘭から『お泊まり会によって歳の離れた妃たちが親密になった様子を演出する』とは聞いていたが、抱きしめるとは聞いてない。
木蘭と紫淵は完全なる別の生き物と捉えている苺苺は、ただひたすら朝から強制過剰摂取させられる可愛さに頬を染めて悶える。
(目がぐるぐる回って、頭がくらくらします〜〜〜!)
「ふ、ふつつか者ではございますが、皆様どうぞよろしくお願いいたしますッ」
やっとの思いで挨拶を言い切り、苺苺は遠慮がちに木蘭をきゅっと抱きしめ返す。
「ふふっ。苺苺お姉様と一つ屋根の下で過ごせるなんて、妾は幸せものです」
(あああっ、木蘭様とこんなに仲良くなれるだなんて、紫淵殿下に怒られないでしょうかっ)
その紫淵が木蘭であることなど、もうすっかり忘れてしまった苺苺である。
「お待ちください、木蘭様! 白蛇妃を無期限で招待って……それはいったい、どういうことですか!?」
筆頭女官の隣に立っていた苺苺と同じ年頃の勝気な相貌の女官が、キッと眉を吊り上げる。
「お泊まり会を延長ということでしょうか?」
「まあ、それは良いわね。紅玉宮がもっと明るくなるわ」
若麗と、先ほどの勝気な女官とは反対側に立っていた背の高い年嵩の女官は、顔を見合わせて柔和に微笑む。
「ちょっと若麗様、怡君様、なに和んでるんですか!『白蛇の娘』を紅玉宮預かりにするなんて縁起が悪いです。それも無期限なんて! 木蘭様と紅玉宮に障りがあったらどうするつもりですか!?」
「春燕様の言う通りだわ」
「そうね、木蘭様がいくら姐姐と懐いていても……『白蛇の娘』だわ」
「一泊二日だけだったらまだしも、ずっとなんて」
勝気な女官、春燕の言葉を皮切りにして他の女官たちもざわざわと話出し、口々に不信感をあらわにする。
年上の妃に甘える幼妃の演技に徹していた木蘭は、総勢十五人の女官を見渡す。
なあなあな理由で煙に巻けたら御の字と考えていたが、やはり一筋縄ではいかなかったか。
そう考えながら木蘭はむっとした顔をすると、抱きついていた苺苺から離れた。
いつものお澄まし顔をして、ぱんぱんっと手を叩く。
「静粛に」
幼い、けれどどこか凛とした木蘭の声で、紅玉宮は一斉に静まり返った。
しんと静まり返った中、苺苺もつられるようにして、慌てて背筋を伸ばす。
「皆が知っての通り、妾は先日あやかしに襲われた。そのあやかしを退け、命を懸けて助け出してくれたのが白蛇妃、白苺苺だ。……若麗、そうだな?」
「はい。私もしかとこの目で拝見しました」
筆頭女官の若麗が木蘭の付き添いとして事件現場にいたことは周知の事実。その若麗の証言を聞いて、反対していた女官たちは押し黙る。
「どうして苺苺が妾を助けられたのか。それは『白蛇の娘』である彼女に、あやかしを退ける異能があるからだ」
「あやかしを……?」
「そんな異能が……?」
「『白蛇の娘』の異能の噂は本当だったのね……」
ざわめき出す女官たちに、木蘭は再び「静粛に」と言い放つ。
「過去後宮で起きた事件に、『白蛇の娘』がなんらかの関わりがあった可能性が指摘されているのは妾も知っている。だが、皆の者が恐れているのは、伝説や歴史書に描かれた物語の中の『白蛇の娘』に他ならない」
木蘭はキリリと目を細め、貴姫としての風格を見せつける。
「つまり! ここにいる白苺苺の異能は、妾たちが恐れるものではない!」
その言葉に、女官たちは困惑げにそれぞれ顔を見合わせて、「そうかも」と頷きあう。
「今後また、先日のあやかしが紅玉宮を狙わぬとも限らない。そのために苺苺には、妾をあやかしから守護する『異能の巫女』として、護衛や夜警をしてもらう。紅玉宮の皆のためにもなるだろう。……苺苺、皆に異能の説明を」
「はい。ええっと、わたくしの異能は、わたくしの血を使ってあやかしを退けるというもの……です。宦官の方々は妖術だと騒がれておりましたが、ただの退魔の術だとお考えください。ど、どうぞよしなに」
(それだけがわたくしの異能ではありませんが、すべて開示することはできませんので、どうかご容赦くださいませ……!)
頭を下げた苺苺は、ぎゅっと目を瞑ってやり過ごす。
「そういうことだ。あやかしが再び現れない確証を得るまで、苺苺には妾のそばにいてもらう。紅玉宮は白蛇妃を歓迎し、貴賓としてもてなすように。いいな?」
「――御意」
それぞれの胸中に思う気持ちはあるが、事の次第を理解した女官たちは木蘭の命令に一斉に応じると、一糸乱れずに恭しく頭を垂れた。
◇◇◇
――時は少し遡り、朝日が昇りきった木蘭の寝室にて。
最上級妃・貴姫と最下級妃・白蛇による今後の話し合いは行われていた。
『木蘭様も朝の身支度があるでしょうから、わたくしは一度失礼させていただきますね』
そう言って一度退出しようとした苺苺だったが、そんな苺苺をムッとした顔で通せんぼしたのが木蘭である。
『どうせなら、同じ寝台で眠って〝お泊まり会を満喫しまくったふたり〟を演出するために、あえて女官たちが来るのを待とう。苺苺、女官が来るまでは話し合いを続けるぞ』
木蘭はそんな提案して、再び寝台に腰掛けるよう苺苺の手を引いた。
そうして提案されたのが、紅玉宮への無期限滞在だったわけだが――。
「これ以上、木蘭様にご迷惑をおかけするのはわたくしとしても心が痛みますッ。秘密は死守しますので、夕餉を終えてからお泊まり会にだけご訪問させていただくというのは……!?」
「却下だ。夜だけ紅玉宮に来るだなんて、事情を知らない女官や宦官の間で変な噂が立つだろう。ただでさえ木蘭暗殺未遂の容疑で投獄されていたのに」
「うぐっ。確かに『白蛇妃が木蘭様を毎日呪いに通っている』なんて噂されそうです。ですがわたくしにも、立派な水星宮がございます。白蛇妃として管理をせねば!」
現在、苺苺は大反対の真っ最中である。
なぜなら推しに迷惑をかけないのが、推し活を嗜む者の流儀だからである。
「水星宮の実態は調査させている。あんなところに住まわせて悪かった。これからは心置きなく、妾の紅玉宮で過ごしてくれ」
「いえ、あんなところだなんて! わたくしだけ離れだなんてむしろ好待遇、極楽お気楽自由気ままな刺繍道楽〜な毎日を過ごさせていただいておりましたわ! 鼻歌も歌い放題ですし」
「湯船は三尺の木桶。厨房は茶の湯が沸かせる程度。煎餅かと見間違う褥が敷かれた下女用の寝台。窓枠はどこもがたがきているし、日が暮れたら隙間風で冷えたはずだ。なにより、部屋が一室しかない。なんだあれは、馬小屋か? 誰が造った? 馬鹿なのか?」
「木蘭様、水星宮は歴史的建造物なのですっ。なにより一室にぎゅぎゅっと全てが整えられた画期的設計! むしろ時代の最先端やもしれません! 単身者向け一室住居(風呂、御手洗完備、厨房無し)ですっ」
頭を抱える木蘭に、苺苺はふんすと鼻息荒く力説して詰め寄る。
木蘭は「はあ?」と幼妃に似合わぬ呆れた声を出して、「とにかく」と苺苺の額を指先で小突いて押し返した。
「妾が自分の怪異に掛かりきりだった弊害だ」
青年から幼女になるという怪異のせいで、青年の時間には天藍宮に籠もって溜まりきった多くの執務をこなさなければならず、幼女の時には妃らしくあるために授業がある。
しかも後宮に入ってからは悪意による体調不良にも見舞われていた。
そのせいで身動きが取れなかったというのもあるが、最も東八宮を調査しなかった理由は――。
罪悪感と後悔が鬩ぎ合う。
「栄養たっぷりの朝晩の食事に八つ刻の茶菓子、燐華国十三大銘茶も苺苺のためだけに取り寄せる。美肌に効くという薔薇もすでに用意させた、湯浴みも妾の湯殿で好きなだけしてくれ。寝台も苺苺にふさわしいくあるよう、昨日のうちに十分に整えさせてある。犯人探しの時間以外は、ぐっすり昼寝をしてて構わない」
「な、なんと。豪華薔薇風呂と三食昼寝つき……!?」
「どうだ。好条件だろう?」
ふふん、と木蘭は胸を張る。
その仕草のあまりの可愛さに思わず胸がそわそわした苺苺だったが、
「はっ、自分を見失うところでした」
とぶんぶんと首を振る。
(それに、栄養満点の朝晩の食事とお茶の時間は魅力的ではありますが、わたくしは日がな一日刺繍をしているので、昼寝の時間はあまり意味はありません。薔薇風呂は、その、ほんの少し興味はありますが……やはり湯浴み時間を長く使っては刺繍ができませんし、本末転倒です。わたくしは木蘭様を全力でお守りするためだけに、後宮へ参ったのですから)
苺苺は寝台に三つ指をついて深く頭を下げる。
「あ、ありがたいお申し出ですが、辞退させていただきます」
得意顔をしていた木蘭は、すっと表情をなくして閉口した。
「〝異能の巫女〟として紅玉宮でのお勤めは果たさせていただきます。ですが、やはり日中にはお暇を……」
「なぜだ」
「木蘭様にご迷惑をおかけしたくないからです」
「それは最初に聞いた。迷惑じゃないと言っているだろう。……ここにいてくれ、苺苺」
「で、ですが……」
真剣な表情でこちらを見上げてくる木蘭が、そっと小さな両手を苺苺の頬に添えた。
あたたかい。紫水晶の大きな瞳に吸い込まれそうだ。
何も答えぬ苺苺に焦れたのか、木蘭の瞳は徐々に捨てられた子犬のような眼差しになる。
苺苺はぐるぐると目が回り動悸が激しくなるのを感じた。
(ううっ。かわゆすぎます、木蘭様の命じられるままに、ここは)
と芯がぶれぶれになったところで、
(それでは推し活を嗜む妃として示しがつきません!)
と脳内の荒ぶる苺苺がお怒りの様子できゃんきゃんと叫び出したせいで、なんとかぎりぎりで踏みとどまる。
(そうです。それに水星宮には大事な、養うべき家族もいます!)
「わたくし、水星宮の庭で野苺を育てているのです。今朝には果実も赤く色づいているやもしれません。お世話をしに帰らなくては――」
「は?」
紫淵は自分が今、木蘭の姿だということを忘れて、地獄の底から出たような低い声を出した。
――俺より野草が大事、だと?
◇◇◇
「宵世、盆器はこちらに」
「かしこまりました」
普通の宦官よりも上質な官服をまとった青年、宵世が大きな古盆器を両手に室内へ入ってくる。
侍女たちに朝の支度を手伝ってもらった木蘭は、堂々と皇太子付きの筆頭宦官に指図を出した。
貴姫という立場上、東宮補佐官を呼び捨てても許されるようだ。
宵世も当然といった表情だが、彼こそが紫淵が幼い頃から信頼している腹心の臣下のひとりだというから納得である。
「え、ああっ」
同じく朝の支度のために紅玉宮で与えられた部屋に一度戻り、女官の手を借りずに身支度を自分で行った苺苺は、目まぐるしい展開に今だについていけていない。
寝室での話し合いから宵世がやって来るまで、木蘭が本当になんでも決めてしまったからだ。
苺苺はどうして良いのかわからずに、木蘭の一歩うしろでおろおろと動き回る。
そして宵世が手に持っている古盆器に植えられていた緑の正体を知り、目を見開いた。
「あ、あ、わたくしの野苺ちゃんが……!」
御花園で雑草抜きをしていた宮女たちが、ぽいっと投げてきた洗濯桶。それをありがたくもらってきて、寄せ植えにしていた野苺を栽培していた。
洗濯桶栽培の野苺も見慣れると味があって乙なものであったが、……今はなぜだが、燐華国の千年の歴史を感じさせる上等な古盆器に植え替えられているではないか。
「まったく。僕に野草の植え替えを命じるなんて、どこのどいつですかね」
窓際の日差しが丁度良い飾り机の上にそれを置きながら、小言を呟いた宵世がぎろりと苺苺を睨む。
(ひえええ。東宮補佐官様、申し訳ございません! ですがこの事態はわたくしも不本意でして……!)
獰猛な黒狼に睨まれた生まれたての白蛇のごとく、苺苺は「すすすすみません」と小刻みに震える。
「ふむ、完璧だ。苺苺、これで妾より大切なものなどないな?」
木蘭が満足げな表情で腰に手を当てながら、策士の笑みを浮かべる。
「もちろんでございます……っ」
えぐえぐと悲喜こもごもの涙を流した苺苺は、「ありがたき幸せ」と完璧な礼をとる。
こうして苺苺は紫淵の〝異能の巫女〟として、紅玉宮での無期限住み込みが正式決定した。
苺苺が滞在する部屋は、昨日のお泊まり会決定の際、若麗たち女官が苺苺のために用意してくれた場所をそのまま使用することになった。
木蘭の住まう本殿の隣にある、二番目に豪華な建物だ。
この場所を女官たちが用意したのは、苺苺の妃の位や、一応ではあるが木蘭の安全を考えてのことだろう。
建物同士は廻廊で繋がっているので、犯人探しの計画上にはなにも問題はない。
その後は筆頭女官に呼ばれるがままに木蘭と一緒に優雅な朝餉を取り――あの、木蘭が『苺苺お姉様』と呼んだ、女官たちへの説明に至るのである。
女官への説明を終えたあと。紅玉宮預かりとなった白蛇妃、苺苺の部屋にはふたりの上級女官が来ていた。
勝気な十六歳の少女、紅玉宮の侍女の中で第参席を務める春燕。
そして、おとなしく控えめな十四歳の少女、鈴鹿。
どちらも皇太子宮解禁の際に女官登用試験を勝ち抜き、若くして貴姫・木蘭妃付きの上級女官になった、見目麗しく器量も好しの後宮の花だ。
「なんで私たちが『白蛇の娘』の世話なんか……」
「白蛇妃様なのです、春燕」
「だあって! ……私たちは木蘭様の侍女なのに。仮とはいえ最下級妃の侍女なんて、左遷もいいとこよ」
「白蛇娘娘、お許しください。本心ではないのです」
「勝手に謝らないで鈴鹿! 本心よ!」
春めくような容貌と陽の気をまとう春燕と、冬の静けさを思わせる容貌の陰の気をまとう鈴鹿は対照的ではあるが、ふたりの掛け合いからは仲がすこぶる良好らしいことがうかがえる。
「大丈夫ですよ。謂れもなく嫌われるのには慣れていますので」
「うっ」
苺苺がにこにこと笑顔で対応すると、元気の良かった春燕が怯んだ。
苺苺はぴかぴかの笑顔でにこにこし続けながら、ふたりを観察する。
「ちょっと、なんなのあいつ! ……ごほっ、ごほっ」
「白蛇妃様なのです。ほら、興奮しすぎは身体に毒なのです。大丈夫なのです?」
「興奮なんかしてない。ちょっと咳き込んだだけ。いつものやつよ」
ふん、と春燕がそっぽを向く。
(……不覚にも眠ってしまった昨晩でしたが、『恐ろしい女官発見器』と化したぬい様に変化はありませんでした)
犯人である女官が木蘭への悪意を抱くのをやめた、と判断するのは時期尚早だろう。
隠密に犯人探しをしたかったが、どうやら苺苺の存在事態がなんらかの抑止力になっていて、『恐ろしい女官発見器』に引っかからなくなってしまったようだ。
苺苺は女官ふたりのやりとりを眺めつつ、頭の中では今朝方の木蘭と宵世との作戦会議を思い出す――。
朝方、水星宮にある野苺の寄せ植えを古盆器に植え替えて紅玉宮へ運んでくるという任務を終えた宵世は、堂々と室内に居座り、「どういう風の吹きまわしです?」と心底不服そう木蘭に問いかけた。
「警戒はできています。僕の得意分野ですから」
――事情を洗いざらい話せ。でなければここから出ていかない。
そう言外に含んだ問いかけに、頑固だなと言いたげな顔をした木蘭が、昨晩からの事情を語り出す。
宵世は少しだけバツの悪そうな顔をしながら苺苺に向かって、「木蘭様をお守りする仲間なので、東宮補佐官じゃなくて〝宵世〟でいいです」と言い捨てると、今度こそ堂々と居座ることにしたらしい。
こうして、「頭痛が痛い、みたいなひどい状況だ」なんて頭を抱えた宵世が、恐ろしい女官探しの仲間に加わった。
「ということは、『白蛇の娘』の異能を警戒して鳴りを潜めることに徹底していたか……。わたくしの存在のために、木蘭様に対して悪意を抱く必要がなかったと考えられます」
昨晩は【お泊まり会をする】という内容の文を皇太子殿下宛に出すように、木蘭がわざわざ女官たちに命じている。
狙いは〝皇太子殿下が駆けつけたりしない密室を作り出すことで、好機と捉えた犯人が悪意を持った計画を練るのをうながす〟ためであったが、逆に皇太子殿下の訪問はないと知って、寵妃へ抱く悪意の溜飲が下がった……なんて可能性も考えられる。
「その、呪毒でしたっけ? それを生じさせるまでに精製された殺意を持っていて、なおかつ、あやかしを虐げてけしかけるほどの残忍な女官なのでしょう? 今さら計画を変更するわけがない。相手は今も木蘭様を殺す気です」
言葉も選ばずに宵世が厳しく言い放つ。
「妾もそう思う。呪毒が食事に混じり始めたのは清明節以前なのだから、今さら計画の変更はないだろう。あやかしをけしかけるくらいだ、足がつきやすい毒殺や刺客を放っての暗殺はしない主義に違いない」
「呪毒を生じさせるほどの悪意を抑え込めるだなんて、自己感情の制御も得意な方です。長期戦を覚悟しなくてはいけませんね。この調子では安易には尻尾を掴ませてはくれないやも……」
「裏で糸を引くのが得意な陰湿な性格の女でしょうね。まさに紫淵様が嫌いな典型的な後宮の女だ」
「宵世、余計なことを言うな。……こほん、とにかく。ここに来て苺苺に警戒しているというのなら、あえて苺苺の手札を晒して誘き寄せるしかないな」
「わたくしの手札、ですか?」
「ああ。嘘も方便というやつだ」
そんな作戦会議があり、木蘭の策略で『苺苺はあやかしをその血によって退けられる〝異能の巫女〟である』と、女官たちに情報開示されることになったわけである。
(確かに一部の手札を晒したことで、紅玉宮内を動きやすくなりました)
苺苺を歓迎していない女官は春燕を代表して多くいるみたいだが、今後は朝だろうが真夜中だろうが、『あやかしがいないか警戒している』とひとこと言うだけで反対派の女官たちをも黙らせることができる。
(わたくしにあやかしを退ける力しかないと知ったら、相手の気も多少は緩むはずです)
そうでなくては困る。
木蘭は再度確認をするため、朝餉の準備を整える女官も昨晩とは違う顔ぶれにした。十五人の女官を、明言はせずに三つの班に分けたのだ。
お茶会の準備を行った筆頭女官が率いる侍女五人、そして夕餉を準備した古参の女官五人、今朝の朝餉を担当した年若い女官五人。
暗殺を謀った犯人をさらに絞るため、今後はその三組の体制で徹底的に給仕にあたらせるそうだ。
(女官の皆様は順当という反応でしたね)
当初は苺苺にお礼をするためのお茶会を予定していただけだったので、それを最も木蘭に近しい上級女官の侍女たちが準備するのは当然である。
(急遽決まったお泊まり会の準備を侍女の方々、そして夕餉を古参の女官の方々がするのも納得の配置です)
最下級妃の白蛇の位といえど、苺苺は妃。
貴賓を迎える準備に女官歴の長い上級女官たちが腕を振るうのは、木蘭からの信頼の証である。彼女たちにとっては名誉だったはずだ。
(そして中級女官の皆様。朝餉の準備は夕餉に比べると簡単ですし、普段はしないはずの仕事を任せていただけたのは、『紅玉宮は素晴らしい女官ばかりなのだと木蘭様が自慢したいからだわ』と、満更でもないご様子でした)
上級女官見習いという立場の、普段は紅玉宮の掃除を専門に行う中級女官たちだ。
慣れない給仕をしながら、嬉しそうにクスクス笑い合いながら喋っていたのは聞こえていた。
(けれどもこの給仕で、本当に確定してしまいましたわ。木蘭様の五人の侍女のどなたかが、呪毒をもたらす悪意を秘めていると)
結果、監視や行動把握がしやすいよう、木蘭は五人の侍女をふた組みに分けた。
木蘭付きには侍女頭・若麗、侍女頭補佐・怡君、第伍席の侍女・美雀。
そして、苺苺付きとなったのが第参席の侍女・春燕と第肆席の侍女・鈴鹿である。
(春燕さんは正真正銘の木蘭様推しみたいですし、とっても仲良くなれそうな気がするのですが……。残念ながら、目の前にいるどちらかが、呪毒を秘める恐ろしい女官の可能性もあるのですね)
今もまだ、怒りがおさまらないのか、春燕は鈴鹿に噛みついている。
「異能があるからなんだっていうの?」
「あやかしから木蘭娘娘を守ってくれるのです」
「あやかしなんて見たこともないし、もう出ないに決まってる。――『白蛇の娘』なんて、絶対に追い出してやるんだから」
「春燕」
「左遷なんてまっぴらごめんよ! 左遷先がなくなったら、戻れるんだから!」
部屋の隅でフンッとそっぽを向いている春燕と、しずしずと控える鈴鹿を観察していても、怪しい様子は見当たらない。
――追い出したいくらい、『白蛇の娘』を厄介に思っているところを除いては。
◇◇◇
「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」
「……春燕? その言葉、この三日で聞き飽きてしまったわ」
「若麗様ぁ。そんなこと言うなら交代してください!」
「木蘭様の命令よ、代わったりできないわ。わかっているでしょう」
紅玉宮の厨房で材料を広げ、本日の飲茶の点心となる生地を手でこねながら、若麗は苦笑する。
「それに苺苺様って、とっても素朴で良い方よ? 妃であるのに威張っていないし、白州出身だから針仕事もお上手で……。しっかりした姫君だけれど、ふふっ、ぬいぐるみがないと夜は眠れないんですって」
「ふふふっ、そういうところが木蘭様の姐姐たるゆえんでしょうか? 『白蛇の娘』なんて恐れられていたけれど、近くで過ごせばお優しい方だとすぐにわかりました」
くすくすと、若麗と怡君は穏やかな声で微笑む。
「そうそう。水星宮を訪れた時には、女官の私を部屋に招いて手作りの薬草茶をご馳走してくれたのよ? 野苺の葉の薬草茶」
「野苺の葉が薬草茶になるのですか? それは知らなかったです」
「ええ、私もよ。なんでも、胃腸や美肌にとっても良いんですって」
「まあ。春先の御花園ではよく見かけますよね。まさか胃腸や美肌に良いだなんて」
怡君は生地をこねていた手をつい頬に当ててしまい、舞った小麦粉に驚く。
そんな様子を見て、厨房には侍女たちのクスクスという賑やかな笑い声が響いた。
「あらあら」
「怡君様のお顔、真っ白なのです」
「ごめんなさい、つい驚いてしまって」
若麗と鈴鹿の言葉に、怡君は恥ずかしそうに頬を染めながら、「やっぱり美肌には興味がありますから」と、口元にはにかんだ微笑みを浮かべる。
「作り方は、野苺の葉をそのまま乾燥させて薬草茶になさるのですか?」
「いいえ、葉を摘み取ってからよく乾燥させて作るそうよ。野苺の葉は生乾きのままだと腐敗の過程で酶を生んで、飲むと体内で急性中毒が発生してしまって、場合によっては死ぬこともある猛毒になるらしいの。だけどしっかり乾燥させて作ると、生薬と同じ効果が得られるそうよ」
「まあ。そのお話を聞くと少し怖いですが……美肌に良いとあっては飲んでみたくなりますね」
「ふふふ、そうね」
毒にも薬にもなるという薬草は、生薬にも多い。そしてそういう生薬は希少で、病に非常に効くことも、有名な話だ。
よほど美肌効果があるのだろう、と怡君は再び頬を押さえる。
今朝も皇太子殿下の命で、東宮補佐官様が紅玉宮に来訪された。女官の憧れの的の宵世を前にして、やはり自分の身なりは気になるものである。
「ここだけの話、実は私も、お茶をいただいた日からお肌の調子がいいの」
「若麗様のお肌、最近きめもますます細やで綺麗だなと思っていたんです秘密は薬草茶だったんですね」
「ええ、そうかも。木蘭様のために少し分けていただいて、茶葉用の棚に入れてあるわ。私たちにも分けていただけないか、いつか苺苺様にまた頼んでみましょう」
年長組の若麗と怡君の会話は穏やかに進む。
それになんだかむかっ腹が立ったのは、春燕だ。
「若麗様も怡君様も簡単に絆されないでください! 確かに、白蛇妃が部屋でお世話してる野苺の果実は赤く実って美味しそうでしたけど……。でも、そんな猛毒茶になる野草を育ててるなんて、なにか魂胆があるに違いないわ! 『白蛇の娘』なんて、いつの時代も後宮では災いしか呼ばないんだから。絶対に追い出してやる」
「白蛇娘娘、鈴鹿は好きなのです」
「あんたはぼーっとしすぎなの! 刺繍ばっかりしてる最下級妃が、本当にあやかし避けになるわけがないわ! だいたい、あやかしなんて全然出てこないし。木蘭様を守ったのだって、まぐれだったんじゃないの? ……私にだってできる」
「こら、春燕。口が過ぎるわよ」
「はーい」
「春燕、若麗様に怒られたなのです」
「うるさいわね」
わいわいと木蘭の侍女たちの賑やかな声が厨房に響く。
そんな中、ひとり思いつめた様子で饅頭に包む餡を作る侍女がいた。
「……どうしたの美雀? さっきから元気がないわね」
一番元気の有り余っている春燕が、ひとつ年下の侍女に問う。
ふたりは血の繋がった姉妹だ。地方でそこそこ大きな商家を営む両親を持つ。
両親は姉妹を後宮に入れるため、幼い頃から一緒に手習いをさせていた。けれど美雀は甘えん坊な性格だったため、春燕が課題を引き受けることもしばしば。
『しょうがない子ね。この課題は手伝ってあげるけど、今度はもっと勉強するのよ?』
『うん、ありがとう姐姐! 姐姐だーいすきっ。私たちは自慢の仲良し姉妹ね!』
『そうね。でも妹妹、後宮では暗記力だって重要なんだから。しっかりね』
そう言いながらもながらも、春燕自身、家族から頼られることは嫌いではなかった。
『姉妹が同時期に後宮に上がっても皇帝の目には止まらん。次の秀女選抜の時、お前は十七を越える年になるが、今は美雀を先に入れる』
三年前。美雀は街一番の容貌から、春燕よりもひと足先に皇帝宮の秀女選抜試験を受けた。
そして次の秀女選抜試験を待つように言い含められた春燕だったが、今年の年始早々に公示された皇太子宮の女官登用試験を知り、父の言いつけを破って後宮へ上がること決断する。
誰かの寵愛を争いたいわけじゃない。むしろ自分は裏方で誰かを支える方が向いている。
そんな自身の性格から鑑みて、春燕は皇太子宮の女官を目指したのだ。
仕える皇族は違うが、どちらにしても後宮。姉妹の再会は近いだろう。
しかし後宮に入ったあとに大事な妹妹に会いに行くと、美雀は『下級女官にしかなれなかった。ここでは誰も私を必要としてくれない。姐姐と家族一緒の暮らしに戻りたい』と、泣き暮らしていた。
『ここは私がひと肌脱がなくちゃ』
そう思った春燕は、筆頭女官の若麗に直談判した。
美雀を紅玉宮の女官にしてもらえるよう頼み込んだのだ。
春燕にとって美雀はなにものにも代え難い甘えん坊の妹妹で、美雀にとって春燕は幼い頃からなにがあっても助けてくれる、心強い姐姐だった。
「だって、姐姐がひどいんだもの。いつも悪口ばかり。もう聞きたくないわ」
「……そう。めんなさいね、かしましくして」
「違うの姐姐、気を悪くしないで? 私はただ姐姐が心配なの。悪口を言っていたら、姐姐が意地悪だと思われてしまうわ。……私は姐姐のためを思って言っているの」
確かにこの三日間で、紅玉宮の雰囲気は変わってきていた。
女官たちは皆、苺苺が普通の善良な少女であると気がつき始めている。
「でも正直な気持ちを言わなくてどうするの? 貴姫である木蘭様に進言するのも、私たち侍女の務めだわ。私に後ろ暗いことなんかない。歴史書を見て、ただ堂々と意見を述べているの。侍女としてなにか間違っているかしら?」
「なぜそんな意地悪を言うの……? う、ぐすっ……ひどいわ、姐姐……っ」
美雀はとうとう泣き出してしまった。
年長組が顔を見合わせ、「落ち着いて美雀」となだめる。
春燕は唇をきゅっと噛み締めた。それを見て、鈴鹿が一歩前に出る。
「お、落ち着くのです美雀。白蛇娘娘は春燕の強気な性格、嫌いじゃなさそうなのです」
「そんなことない。うっ、ぐすっ、きっと迷惑してるはずよ。……姐姐。このままじゃ、姐姐の評判も下がってしまうわ。他の女官の皆も姐姐は意地悪ねって、そう言ってたもの」
少女は庇護欲をくすぐる表情で涙をこぼし、心配げに眉をひそめる。
厨房に満ちていた賑やかな空気は、いつのまにか凍っていた。
「――さあ、おしゃべりはここまで」
ぱんぱん、と侍女たちを取りまとめる若麗がその空気を霧散させるように手を叩く。
「そろそろ饅頭を蒸しにかからないと、お八つ刻に間に合わなくなってしまうわ! 餡はできあがった?」
「若麗様、奶皇包と芝麻包の餡はできました」
「芋泥包用もできたのです」
若麗の問いに、怡君と鈴鹿が答える。
「それにしても……木蘭娘娘は最近なぜ鈴鹿たちの手作りを所望されるのです?」
「馬鹿ね、鈴鹿。木蘭様がお気に入りの美味しいものを、お気に入りの妃に食べさせたいからよ」
生地に餡を包み込みながら、春燕が胸を張る。
「幼くして皇后様にも通づる矜持を、貴姫様として自覚されているの。それから、私たち侍女の丁寧な仕事ぶりをご紹介されたいんだわ。はあ……とても名誉なことよ。木蘭様のためなら一日百個だって包子を作るのに」
春燕は唇を尖らせると、「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」と若麗に再びごねた。
◇◇◇
真夜中、丑の刻を過ぎた頃。
紫淵は自身の本当の住居である天藍宮で、執務机について溜まった仕事をさばいていた。
そばには宵世が控え、次々と書状を渡してくる。
(姚州の治水工事の件か。地質の観点から、山が崩壊し河川が氾濫するおそれがあると何度指摘しても、曖昧で消極的な返答ばかり返すな。国庫から出ている予算を一体なにに使っているんだ)
紫淵は姚州の官吏から送られた報告に苛立ちながら、筆を持ち、硯の中の墨につける。
病弱な皇太子という設定の紫淵の執務は、こうしてほとんど書状でのやり取りで行われている。
書状だと面倒な面会や挨拶はないし、執務時間もある程度自由がきく。
(後宮に入るまでは木蘭の姿になってもここで執務をしていたが、幼い身体での執務はすぐに疲れがたまるし、筋力のせいか手が小さいからか筆を走らせる速度も遅くなるしで、思うようにはいかなかった)
そして後宮に入ってからは、それはもう酷い有様だった。
なにせ女官がうろうろしている時間帯に紅玉宮へ執務を持ち込むわけにはいかない。
元の姿に戻れない日々が連日続く時は宵世に頼んで隠し通路を開いてもらい、真夜中にこっそり紅玉宮の寝室で執務を行う夜もあった。
不眠症も重なって、睡眠不足でふらふらになる日もざらにある。というか、そんな日ばかりだ。
(だが今はどうだろう)
苺苺が形代を作ってくれてからは、すこぶる体調がいい。
あの日から夜になると紫淵本来の姿に戻れるようになったし、維持できる時間も長くて助かっている。
「そういえば宵世はいつ眠っているんだ? 昼間もここの管理をして、空き時間には調査に出かけて、夜だってこうして俺の手伝いをしているだろう」
「僕たちに睡眠はあまり必要じゃないので。まあ紫淵様が来られる前に少し仮眠を取りましたが。ですが変な疲れが取れませんね。正直、道士には関わり合いたくないですよ」
はあ……っと宵世は特大のため息をつく。
そのまま紫淵が書き終えた書状を受け取り、墨を乾かすために他の机に移す。
「一応、道士の血筋や近しい関係者がいないか、紅玉宮の女官たちの経歴を洗ってみました。ですが、それらしい人物はいなかったです。若麗様なんて朱家の出身ですし、この血筋に関しては紫淵様の方がご存知の通りです」
「よければ今ご覧になります?」と、執務にひと段落ついた紫淵へ、宵世は調査資料を渡した。
紫淵はそれを受け取って、くまなく目を通した。
(もともと紅玉宮に集められた女官は、なにも名も知らぬ下女や宮女ではない。出生から生い立ちに至るまですべて宵世が厳正な精査を行った、紅玉宮の女官たる素質のある者たちだ)
向上心があり、年齢にこだわらずに主である妃を尊ぶ。
言い換えれば、己の価値を知り、立場をわきまえている者たち。
年上の女官の中には皇后の侍女として仕えていた女官もいる。皇后直属の女官とはすなわち、皇太子宮のどの宮の上級女官だろうが頭を垂れる相手だ。
(ここまでして女官を募ったというのに、紅玉宮内で〝木蘭〟の命を狙う人間が出てくるとは思わなかった)
「……そうだな。相変わらず、怪しい者はいなさそうだ。後宮から出る外出許可もまだ誰も申請していない……となると、後宮内部でなにか取引があったのか?」
「かもしれません。若麗様と怡君様、それから元下級女官の美雀は、もともと皇帝宮の出身です。あちらの後宮に道術をかじった女官がいて、金品を対価にそれを広めていてもおかしくはない」
「つまり犯人の女官本人は、道士ではなく〝使役の術〟だけを行使できるだけの可能性が高いということか」
「ええ」
宵世は強く頷く。
あちらの後宮は魑魅魍魎の巣窟と揶揄されるほど、女の陰謀が渦巻いている。
そこには妃に忠実な女官として暗躍する道士、薬師、調香師、鍼灸師、按摩師、そしてあやかしがいるはずだ。
彼女たちは密かに身につけた技術を武器にして、必ず後宮でのし上がるってくる。
時には愛憎と復讐の末に主である妃を貶め、妃嬪の座を手にするのだ。
(そんな西八宮には、いくら宦官の姿をしている宵世でも入り込みにくい。……それに宵世の顔はの補佐官として認知されすぎている)
皇帝との不和を避けるためにも、西八宮には近づかないのが一番だ。
「女官に術を授けた道士本人を見つけるのは諦めてください。それにしても、あやかしを封じて従属させ、餓死寸前まで追い込んで使役するとは……おぞまし過ぎます。絶対に関わり合いたくない」
「なにせお前はあやかし〝饕餮〟だしな。しかも妖術も使えず、あやかしの気配がわからない、鈍感な」
筆を止めて、完全なる人間の肉体を持つ宵世を見上げた紫淵は、東宮補佐官として有能な宦官――いや、知己の悪友に向けてにやりと微笑む。
「うるさいですよ。僕はこの人間らしい成長する肉体を得るために、最高位の霊力を全振りしたんです。それにあやかしの気配はわからなくても、人間の気配はいくらでもわかります。狼よりも耳が良いですし、狼よりも鼻が利きます」
「それから?」
「暗器も習得しました。僕以外に紫淵様の補佐官を務めるに相応しい人材はいません」
「ははっ、違いないな」
いつもの応酬を繰り広げた悪友たちはくすりと微笑み合う。
(もしここに苺苺がいたら、宵世の正体に飛び上がるほど驚いただろうな。彼女は宵世のことを有能すぎる宦官としか考えていないだろうから)
紅玉宮に苺苺を住ませることになってからの三日間は、わざと豪華な茶会を催して侍女五人を忙しくさせ、朝餉や夕餉から徹底的に隔離した。
呪毒が宿らない安全な食事の時間を作り、苺苺に安心して料理を楽しんでもらうためだ。
(水星宮に対する尚食局の女官と宦官たちの嫌がらせは、すでに調査をした宵世から聞き及んでいる)
報告を聞いた時の紫淵は無表情だったが、「ふぅん?」と彼が相槌を打った瞬間には、怒りで筆が折れていたほどだ。もちろん全員処罰は下した。
(紅玉宮に来てからは苺苺も食事を楽しんでくれている様子なので、なによりだと思う)
そして、ふたりの妃のために給仕に励む女官たちも、自己肯定感や責任感が強くなっているようで、紅玉宮の女官としてさらに誇り高くあろうとしているのがわかる。
これにより、向けられる小さな悪意はかなり減少傾向にあるらしい。
(紅玉宮の女官が抱く悪意を一掃できる日も近いだろう。……問題は八つ刻だ)
たくさんの茶菓子や点心、各州から取り寄せたお茶で、卓子の上は毎日華やかな食器や茶器でいっぱいになる。
そのおかげで苺苺の持参した『龍血の銘々皿』を上手く隠してくれたので、呪毒が宿った食べ物は紫淵でも認知できた。
(呪毒は変わらず宿っているのに、呪靄や呪妖は見つからないというのは、よほどの精神力であると苺苺も唸っていたな)
紫淵も木蘭の姿で五人の侍女をそれとなく見張り、謀の痕跡や暗殺の証拠を得られないかと観察しているが――……彼女たちは、いっそ恐ろしいくらいに静かだった。
(茶会の内容を簡略化し、ひとりずつに準備を任せたら一発で犯人が特定できるだろうが……)
紫淵があえてそうしないのは、どうせ厨房かどこかで手の空いている誰かが手伝うに決まっているので意味がないからである。
(二人一組にしようが、三人一組にしようが結果は同じだろうしな)
それからもうひとつ、厄介な理由がある。
元々一緒に仕事をしていた女官達の序列を、安易に崩さないためだ。
(後宮ではなにが女官同士の諍いにつながるかわからない)
本人たちが争わずとも、その下についている女官たちが勝手に対立を始めたりもする。
(任せる仕事内容によっても、『主人に贔屓にされている』だの『お前のせいで遠ざけられた』だのと問題になる場合もあるしな……。不満を募らせた末に、木蘭暗殺を企てる女官に肩入して派閥化されても困る)
はあぁ、と知らず知らずのうちに疲れが溜まったため息がでる。
結局、五人が朝餉と夕餉に手出ししないよう、日替わりで面倒な茶菓子を作らせて足止めするしかない。
そのせいで苺苺には呪毒の宿る怪しげな茶菓子を毎日食べてもらうしかなく、夜にはぬい様と名付けられた形代を手に、真っ暗闇の紅玉宮を歩き回ってもらうほかなかった。
女官ではなく〝妃〟である彼女に頼りきりになり、紫淵は申し訳なく思う。
(犯人探しが終わったら、ふたりでのんびり過ごせるだろうか。そろそろ御花園の油桐花が散る頃だ。提燈を持って、深夜に立夏雪を見に行ってもいいかもしれない)
春の終わりに降る、小さな花の雪。この国ではそれを立夏雪と呼ぶ。
(油桐花の白い花がくるくると舞い降りてくる中、あの銀花亭で密かに踊っていた舞いを見せてくれと頼んだら、近くで見せてくれるだろうか)
道を埋め尽くす立夏雪が彼女の美しい仕草ひとつで舞い上がるさまを想像するだけで、なぜだか胸が締めつけられた。
(……苺苺は今頃なにをして過ごしているだろう。何事もなく過ごしていたらいいが)
最近、気がつくとこうして彼女のことで頭の中がいっぱいになっていて、居ても立っても居られなくなる現象が続いている。
(最初は、自分のために彼女が〝異能の巫女〟として昼夜問わず悪意を封じて祓ってくれていることに、人知れず独占できる悦びのような高揚感のような……言語化しにくい感情を覚えていたのに。変だ)
それが時間が経つにつれ、彼女の身の安全が心配になってたまらなくなるのだ。
どうしようもなく、そわそわする。
(今夜は暗器を携えた宵世もここにいて、苺苺のそばには誰もいない。あやかしを退ける力や、悪意を封じて祓う術はこの目で見ていたから知っている。でももし、それ以外の彼女が対処できない事柄が彼女の身に降りかかったら)
そう考えるだけで、紫淵の胸中は不安でざわめき、心臓が鷲掴みされたみたいに苦しくなる。
それでも、紫淵は皇太子として、紅玉宮から離れなくてはならない。
(宵世と零理以外に、怪異に侵されている俺の補佐ができる人間はいない。……そう思ってこの十八年間生きてきた)
だが今は――もうひとり、そばにいてほしい人間ができた。
彼女と過ごす日々は明るく面白く、どれもこれもが新鮮で、なぜか視界が澄んできらめいているような錯覚に陥る。
暗殺の危機に瀕しているというのに……まやかしの穏やかな日常が、ずっと続けばいいのにとさえ思い始めている。
すべてが解決したらいつか叶うだろうか。
皇太子妃として苺苺が自分の隣に立ち、手を取ってくれたなら、どれほど――。
(……は? 俺は今、一体なにを考えていた……?)
紫淵は額を押さえて低く唸る。
(怪異が消えたらいつか解体するこの後宮に、未来はない)
そう、思うのに。
「宵世、ちょっと紅玉宮に行ってきてくれ」
「どうしてです? と、聞かなくてももうわかりますけどね。白蛇妃でしょう。いいですよ、僕は紫淵様の暗器ですからね」
「不審な気配がないかの確認だけでいい」
「わかりました。まったく、あやかし使いが荒いのは我が主も一緒ですね」
「すまん」
「そう思うのなら、僕の机にある書類をすべて片付けておいてください」
「わかった。……って、は? これ、全部か?」
宵世のいなくなった部屋で、紫淵は山積みになった書類の柱を見つけて「嘘だろう……」と呟いた。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
紅玉宮の白蛇妃に与えられた部屋にて。
苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさみながら、窓際に置かれた古盆器の寄せ植えから野苺の果実を手でちぎって収穫すると、きゅきゅっと優しく手布でぬぐう。
(う〜む。今夜も収穫なしでしょうか……)
苺苺が三日三晩見張った結果、やはり『恐ろしい女官発見器』であるぬい様が裂けることはなかった。
それからさらに四日が経ったが、お茶会には相変わらず呪毒が出ている。
木蘭暗殺の意志は変わっていないようだ。
しかし、いくらこちらを警戒して鳴りを潜めている犯人でも、作戦が遂行できないために相当な心的疲労を感じているはずだ。
――そろそろ、苺苺の存在を邪魔に感じている頃合いだろう。
(無期限なんて正気の沙汰ではない、必ず『白蛇の娘』を追い出さねば。決して自分の手は汚さずに。……そうお考えのはずですわ)
白家の次期当主となる兄、静嘉が、
『頭の良い女官は決して自分の手は汚さない。後宮での事件はそうやって起こものだと、僕の読んだ小説に書いてあったよ』
と物知り顔で得意げに話していた。
(いくら妹妹のためだからと言って、後宮小説にはまりすぎでは? と思っていましたが、お兄様のご助言が事件解明に役立ちました)
「……あらあら? 今朝まで元気でしたのに、一株分、しおれています……! なんということでしょう、うううっ、悲しいです。まさかご病気に!?」
苺苺はしなびてしおれている株に手を添えて震える。
そこには寄せ植えを毎日見ている苺苺だからこそ気がつける、不自然な切り口があった。
(……――こうなったら、形代をやめてみるべきでしょうね)
真っ赤に色づいた果実を見つめ、あーん、と唇を開いた時。部屋の扉が無遠慮に開かれる。
「ちょっとあんた。そのまま食べる気?」
「春燕さん」
「白蛇娘娘、水盆を持ってきたなのです」
「鈴鹿さん」
苺苺はきょとんと目を丸くする。
夕餉と湯浴みを終えた苺苺が、あやかしを警戒するために部屋を出るまでの間、静かに刺繍をしながら自ら育てた果実を摘むのを知った侍女二人は、頃合いを見計らって、果実を洗うための水差しと盆を持ってきていた。
「それ、洗ったら」
「ありがとうございます。わざわざすみません」
「別に。これくらいどうってことないわよ」
「白蛇娘娘、鈴鹿たちがお手伝いするのです」
円卓に水盆を置いた鈴鹿が、「どうぞお座りくださいなのです」と窓際の苺苺を呼ぶ。
春燕が引いてくれた椅子に苺苺がおずおずと腰掛けると、春燕は「ほら野苺」とぶっきらぼうに言った。
苺苺が収穫したばかりの野苺の果実を差し出す。
春燕はそれを受け取ると、意外にも丁寧な所作で水差しから清浄な水をかけた。
丁寧に埃を洗い流し、鈴鹿が手渡した清潔な手巾で拭ってから透明な玻璃皿に盛り付けて、苺苺の前に差し出す。
春燕は不機嫌そうな顔をしていたが、鈴鹿は少しだけ嬉しそうだ。
苺苺は「いただきます」と食前の挨拶をしてから、玻璃の上できらきらと輝く果実を摘んで食べる。
「むむ。少し冷えていて、なんだか甘さが増した気がします。お二人のおかげか、いつもより美味しいですっ」
「馬鹿ね。いつもとおんなじよ。……あんたさえ良かったら、明日も出すけど。厨房でやってきてもいいわ」
「鈴鹿たちに野苺の管理を命じてもらえたら嬉しいなのです」
「お言葉に甘えて、と言いたいところですが。ふふっ、この子は水星宮で唯一のわたくしの家族でしたので。わたくしがお世話したいと思っています」
お水を持って来ていただけるのは嬉しいです、と苺苺は微笑むが、春燕はぷいっとそっぽを向く。
「ふんっ。じゃあ知らない」
「春燕は『明日も持って来ます』と言っているのです」
「言ってないわよ!」
ぎゃあぎゃあと春燕が鈴鹿に噛みつく。
「春燕、あまり騒ぐとまた肺にゴホゴホ響くのです」
「もうずっと患ってる慢性のものだから、今さら急に悪くなったりはしないわ。……でも変ね? ここ数日は咳き込んだ記憶がないかも……?」
「もしや治ったのです?」
「……そうかも?」
(ふふふっ、春燕さんと鈴鹿さんは息がぴったりで羨ましいです。わたくしも木蘭様と息がぴったりの仲になれたら……)
苺苺そっちのけで言い合う賑やかな女官たちを眺めつつ、夜食の果実を摘み終えた苺苺は、
(はっ! いえいえ、わたくしは紫淵殿下の〝異能の巫女〟です! 美味しいご飯にお茶菓子にお風呂、それからこんなにふかふかな寝台を用意してもらっているのですから、お給料分きっちり働かなくてはッ)
水差しの水を使って水盆の上で手を清めてから、ぱっと立ち上がって夜警の準備を始めた。
衣装箪笥から取り出した一張羅、金糸で蛇の鱗模様を刺繍した破魔の装束を広げて、寝台の上に並べていた白蛇ちゃんたちを覆うようにして掛ける。
「あんた、ちょっと目を離した隙になにやってるの? そんな上等な衣裳を寝台に敷くなんて」
「ふっふっふっ。今夜は白蛇ちゃんたちに上等な褥でのびのびと眠ってほしくて。わたくしの一張羅をお貸ししているのです」
「若麗様が言ってたぬいぐるみ好きは本当だったのね」
「白蛇娘娘のぬいぐるみ、鈴鹿たちは好きなのです」
「私は好きなんてひと言も言ってないわよ!」
「木蘭様のぬいぐるみ、春燕もかわいいって言ってたなのです」
「言ってない!」
「白蛇ちゃんも木蘭様と一緒だと和むって言ってたなのです」
「言ってないったら!」
再び言い合いを始めた春燕と鈴鹿。
苺苺は心の中で『喧嘩するほど仲が良いとはまさにこのこと』と思いながら、「わたくしは夜警に出かけますので、どうぞゆっくりお過ごしくださいね」とにっこり微笑んで、部屋の扉に手をかける。
「ま、待ちなさいよ。主人のいない部屋にいつまでもいるわけないじゃない」
弾かれたようにこちらを向いた春燕が、ばたばたと持って来ていた水盆を片付け、鈴鹿はぱたぱたと歩いて円卓を整える。
急いで部屋を出てきた二人に「おやすみなさい」と声をかけた苺苺は、木蘭から預かっていた鍵で、しっかりと部屋を施錠した。
ぬい様を手にした苺苺は、いつもと同じ時間にいつもと同じ道順を通って紅玉宮を巡回する。
苺苺の異能は、人々の心に宿る悪意や口から出た悪意を眼で視ることができる。
つまり意図的に隙を作って恐ろしい女官に謀を行う時間を与えることで、その尻尾が掴みやすくなるのだ。
犯人を捕まえるために犯人に計画を練る時間を与えるとは皮肉だが、悪意で形代が裂けないということはすなわち、計画が思うように進んでいない証拠でもある。
(そろそろ勝負をつけなくてはいけません。わたくしたちが有利なのは相変わらずです。恐ろしい女官の方が動き出す前に、必ずや捕らえてみせます)
いくら精神力のある女官といえど、邪魔者への苛立ちは募るだろう。今夜は『白蛇の娘』への悪意が、最大限に膨れているはずだ。
女官たちの仕事が終わる頃を見計らって、苺苺は紅玉宮本殿の外側に造られた階段から二階へ上がった。
本殿は紅玉宮の他の建物より高く造られており、四阿造りの楼榭からは四方を観望できる。
春の夜風が吹き抜ける星空の下、苺苺は欄干のそば近くに寄る。
ひとり、またひとりと女官たちが紅玉宮内の宿舎に入っていく。
上級女官は一人部屋を持っているが、他の女官たちは二人ひと組の相部屋だ。
元西八宮出身の下級女官で、紅玉宮の現体制が発足してからあとに入った美雀とは、推薦人であり血の繋がった姉妹である春燕が同部屋となり過ごしている。
(真夜中ともなると、ほとんどの部屋の明かりが消えていますね)
宿舎から出ているのは本殿近くの控え部屋で、あくびをしながらお茶をしている中級女官の二人くらいだろう。
ほう、ほう、とどこからか梟の鳴き声が聞こえてくる。静かな夜だ。
この時間帯になると決まって若麗の奏でる月琴の音が聞こえるが、その優雅な音色と相まって別世界に来たかのような錯覚に陥る。
灰かぶりの水星宮とは違う、煌びやかな後宮の姿がここにはあった。
今晩の音色は、雅やかに膨らむ音の中に憂いのような緩慢さが含まれていて、なおのこと幻想的である。
(もしかして、心配事でもおありなのでしょうか? そういえば今朝、若麗様から『紅玉宮で皇太子殿下をお見かけしませんでしたか? 最近皇太子殿下が木蘭様に会いに来られないので、御心が離れられたのかと心配です。苺苺様、なにかご存じではありませんか?』と聞かれましたね……)
その時の若麗の瞳が、不安そうに揺れていたのを覚えている。
あれはなにかを〝信じたくない〟と、〝そうであってほしくない〟と訴える目だった。
(紫淵殿下から木蘭様に向けられていた寵愛が失われたかもしれないと、筆頭女官としてご心配されているのやも)
その心情が憂いとなって、月琴の音色にも表れているのかもしれない。
そんなことを考えていると、どこからか風に乗ってふわふわと青黒い靄が流れてきて、ゆうらりと苺苺の周囲を取り巻来始める。
(呪靄です。それほど強いものではないですね。わたくしのことを思考している程度でしょうか)
後宮に上がって形代を作ってからは、とんと視ていなかった自分へ向けられた悪意に触れる。
そうして幾ばくか経ち、子の刻から丑の刻から差し掛かった頃。
かたり、と机に物を置くような小さな音がした。
「な、なにやつです……っ!」
「なにやつとは、随分な言い方だな」
苺苺ががばりと振り返ると、四阿の下には武官の姿に身を包み、見事な長剣を佩いた紫淵がいた。
階段があったにも関わらず足音がしなかったのは、さすが武官の格好をしているだけのことはある。
「紫淵殿下でしたか。白苺苺、皇太子殿下に拝謁いたします」
「君からの礼はいらない。俺たちの仲だろう。それほど畏まってくれなくていい」
「はて? どんな仲でしょうか?」
「つれない人だな。こんなにも互いの秘密を共有し合う仲だというのに」
「確かにそうですね……?」
紫淵は不機嫌そうに眉を寄せて、頬を膨らませる。
今夜の紫淵は、紺青の長髪を結い上げてはいなかった。もしかしなくても、ここ以外の場所へ行く予定がないのかもしれない。
明け方の黎明、あるいは黄昏の夜空、そして闇夜に流れる銀河のごとき艶やかな黒髪が、さらさらと風に揺れているのを眺めながら、苺苺は少々むっとする。
「時々こうして様子を見にいらっしゃいますが、来なくても大丈夫ですのに。悪鬼面もなさらずに軽率ですよ」
「裏から来たから問題ない」
この楼榭は屋根が広いので、蝋燭が一本立っただけの燭台の光では影になる。宿舎側の欄干に近づきさえしなければ、人影すら見えないだろう。
「というか、君は俺が木蘭の姿ではなくなった途端に態度が変わるな」
「わたくしは木蘭様推しですので!」
えっへんと苺苺は腰に両手を当てて胸を張る。
その『推し』っていったいなんだ、と思いながら紫淵は少し不服そうな様子で苺苺の隣に立つ。
「だが中身は変わっていない」
「それは……そうかもしれませんが……。紫淵殿下と木蘭様では違いすぎます」
成人間近の美青年と六歳の美幼女が隣同士に並ぶ様子を想像した苺苺は、その違いを頭の中で並べ立てて『不合格』の烙印を紫淵に押した。
「紫淵殿下は推しじゃないです。不合格です」
(木蘭様推しの同志ではありますが)
苺苺は可愛いものが好きなのだ。
そんな苺苺の言葉に、紫淵はなんだか……告白もしていないのに勝手に振られたかのような、妙な気分になる。
「たとえ俺が不合格だろうと、君は――」
胸の内側をぎゅっと掴まれるみたいな切なさを感じ、思わず、『すでに俺の妃だ』と言いかけて、彼は閉口した。
厳密には、まだ仮初めの妃にすぎない。
そう思うと、さらに胸の中のもやもやが増した。胸の奥底で、そろりと独占欲の炎が燻る。
「……まあいい。それより、今日の収穫はありそうか?」
「呪妖は相変わらず確認できていません。けれど、わたくし宛の小さな呪靄でしたらいくらかは」
白蛇ちゃんの形代はすべて一張羅の中だ。
本来なら形代に集められるため、視界に入らずにいる呪靄や呪妖といった悪意がこちらへ向かってくる。苺苺は手慰みに持って来ていた絹扇に、異能を使わずに白の大蛇と木蓮を刺繍しつつ、それを観察していた。
紫淵はその絵画のごとく繊細で見事な両面刺繍に視線を落とし、「また見事な作品だな。白蛇と木蓮、それから玄鳥神鹿図とは縁起がいい」と口元を緩める。
「ここ最近は玄鳥神鹿図が多いな。新しい図案か?」
「はい。少々、思うところがありまして」
「ほう? それについては後で話を聞かせてもらうとして。温かい花茶を持って来た。少し休もう」
「ありがとうございます」
紫淵は少し迷った末にそっと苺苺の手を取り、四阿の卓子に誘う。
自分の大きな手に遠慮がちに添えられた小さい手は、強く握ると折れそうなほど儚い。指先は夜の寒さに冷えており、氷のように冷たかった。
紫淵は眉をしかめる。苺苺を体調不良にしては本末転倒だ。
「君にあげた肩掛けはどうした? 身体を冷やさないようにと思って、薄くても上等な品を選んだんだが」
「あっ」
「西方の国使が皇太子への献上品に持って来た織物だ」
純白の織物は燐華国において死を連想させるが、西方や東方では花嫁が身にまとう祝福と幸福に満ちた衣なのだという。
「白家は白蛇の加護を意味する白色をことさらに尊ぶとか。その……、君への贈り物に相応しいと思ったんだが、気に入ってもらえただろう――か」
長椅子に腰掛けた苺苺は、明らかに動揺してサササッと紫淵から目をそらす。
そんな彼女の隣に座った紫淵は、卓子の上に頬杖をついて、胡乱げに彼女を見下ろした。
「その顔、まさか……無くしたのか?」
「無くしたと言いますか、その……」
「なんだ、歯切れが悪いな」
苺苺は両手の人差し指を合わせたり離したりしつつ、「ええっと、その……」と口ごもりながら、紅珊瑚の大きな瞳を紫淵に向ける。
「友情の証として、猫魈様と半分こにしちゃいました」
「……は?」
「え、えへへ」
「はあぁぁぁ。皇太子の下賜した品をあやかしに躊躇なく下げ渡す妃なんて前代未聞だ」
紫淵は深いため息をついて顔を覆った。
「だんだんわかってきたぞ。君はそういう人だ。昔から……」
「昔ですか?」
「いや、いい。こちらの話だ。……ほら、そろそろ頃合いだ」
玻璃の茶壺の中で工芸茶の蕾がふんわりと花弁を開き、大輪の黄花を咲かせた。
「菊花茶ですね」
「ああ」
「よい香りがします」
菊花は漢方にも使用され、眼精疲労の回復や、解毒と消炎、鎮静作用があるとされる。
紫淵がこれを選んだのは苺苺の体調を心配した結果だ。
連日の長時間の刺繍や見張りで目を酷使しているだろうし、宦官に打たれた怪我やあやかしから守ってくれた時の傷もある。
朝晩の薬湯も飲ませたいところであったが、必要ないと断られたので、せめて。
まあ茶壺を用意し淹れたのは宵世であるが。
紫淵は隣に座る苺苺へ顔を向け、立ち上がろうとした彼女の手首を掴む。
「座っていてくれ。今晩は俺が給仕する」
「いいえ、紫淵殿下にお茶を淹れていただくわけには」
「こう見えて、皇太子妃の作法を学んでいるんだ。まずくはしない」
ふわりと優しく口元を綻ばせた紫淵に、苺苺も思わずくすりと笑ってしまう。
この白皙の美貌の青年が皇太子妃の作法の手習いとは、なんだか似合わなくて面白い。
「ふふっ。ではお言葉に甘えさせていただきます」
「ああ」
紫淵は美しい所作で茶壺を持ち、ゆっくりと茶器に菊花茶を注ぐ。とろとろと静かに注がれた茶から清涼な香りが漂い、夜半の空気に湯気が白く見えた。
それからゆっくりとふたりで菊花茶を楽しむ。
(ほう……っ。あたたかいです)
一息ついた苺苺を満足げに見やった紫淵は、「そういえば怪我の具合はどうなんだ」と問いかけた。
女性に何度も聞くのはどうかと思って直接聞くのを避けていたが、白蛇妃投獄事件からもう一週間以上が経つ。宮廷医に見せるべきだと告げたが、これもまた拒否されていた。
左手に手巾を巻いたままだが、そろそろ少しくらいは治ってきているのだろうか。
「よく効く傷薬もいただき、おかげさまですべての傷が治りました」
「そうなのか? 塞がってきたのなら良かった。そろそろ追加の軟膏が必要だろう? 宮廷医に託けて用意させる」
「いえ、新しいお薬は必要ありません。こちらは……」
苺苺がするすると手巾をほどく。
「綺麗さっぱり跡形もなくなっているので」
「な……っ」
苺苺は水仕事知らずの白磁のような手のひらを紫淵に見せた。予想通り、相手は絶句している。
(それはそうですよね。鋏での切り傷で、あんなに血が滲むほど肉が裂けていましたから)
「これも『白蛇の娘』の異能なのか……?」
「わかりません。ただ、呪毒を宿したお茶菓子や燐火を封じて祓うことで、治癒の力を得たようです。治りが早いのは良いことですよね。元気はもりもりが一番です」
「そう、だな」
頷いたものの、紫淵は畏怖を感じていた。
これが『白蛇の娘』の力。これが――『白家白蛇伝』に描かれた白き蛇神の血を継ぐ、神の愛し子なのか、と。
「でも怪我の具合を知っている方をこうして驚かせてしまいますし、治癒の力があると恐ろしい女官の方にばれても得することはないと思いましたので。もう少し隠しておきます」
「言えてるな。賢明な判断だ」
苺苺は再び左手に手巾を巻き直す。その時、視界の端にちらりと青黒い靄が映った。
その色の濃さ、密度が、瞬きをした瞬間にどす黒くなる。
「この呪靄は」
立ち上がり、欄干に駆け寄った。紫淵もそれを追う。――刹那。
苺苺の頭上にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
「――っ、苺苺!」
紫淵は視界に映ったありえない光景に目を見開き、苺苺をその逞しい腕の中に素早く閉じ込める。
「ひえっっ」
(ひえええっ、紫淵殿下がご乱心ですっ! どどどどうしましょう!?)
「な、んだ、この蝶は」
「紫淵殿下にも視えているとは驚きですっ。これは、その、呪妖と言って〜〜〜っ」
数十匹はいるだろうか。
黒い胡蝶は怪しげな青黒い燐光を振りまきながらひらひらと舞う。その姿は背筋がぞっとするほど美しく、聞こえぬ不協和音の羽ばたきが空気を震わせているようだった。
歪なそれは、目が見えているのか見えていないのかも不明であるが、確かに苺苺を狙っていた。
紫淵は片腕の中に苺苺をぎゅっと抱きしめ、腰に佩いていた長剣を抜きざまに一刃する。
じゅわりと灼け爛れる音がして、途端に腐敗物が焦げた匂いが鼻を突く。
この長剣は燐家の宝刀である〝破邪の剣〟だ。鎮護の懐剣と対とされ、千年以上昔から存在している。実際に悪鬼を封じた際に使われたもので、本来の姿が饕餮である宵世も本能的に嫌っている、古代の名匠によって鍛えられた業物である。
呪妖はこの世のものではない胡蝶だったが、あやかしでもなかった。しかし、どうやら通用したらしい。
灼け爛れた胡蝶は灰となって、やがて風に攫われてさらさらと消えた。
「……苺苺、大丈夫か?」
(あわわわ! ぎゅっとしないでくださいっ! なんだか心臓がどきどきして、目が回りますぅぅ)
紫淵に抱きしめられたままの苺苺は、頬がかぁぁっと熱くなるのを感じた。
(紫淵殿下は推しではないのに、抱きしめられてドキドキするなんて変で――……あっ、これが動悸ですね。きっと連日の夜更かしでいよいよ体調不良になってきたのやも。今夜は呪靄も呪妖もわんさかやってきていますし)
すんっと無表情になった苺苺は、「あ、大丈夫です」と自分を捕らえている紫淵の腕を、ぽむぽむと叩いた。
「……大丈夫なのか?」
「はい。お気遣いくださりありがとうございます」
本物の虫の大群であったなら虫が苦手な苺苺には阿鼻叫喚ものであるが、あれは呪妖だ。悪意の塊で、意識はあるが、この世のものではない。
(それに、悪意には慣れています)
「ですからもう離してくださって結構です」
「え、ああ、わかった」
先ほどまでは恥ずかしそうにしていたのに、落差が激しすぎないか?
とは言えず、紫淵は苺苺を解放する。
苺苺は乱れた身なりをぱぱっと整えると、一歩踏み出し、欄干を両手で掴んで星が瞬く夜空を見上げた。
呪妖は紫淵に斬り裂かれたことに驚き、こちから距離をとってひらひらと飛んでいる。
「呪靄から一瞬にして呪妖が生じたのには驚きました。呪妖は普通、宿主の周辺を舞っているものなのです。それがわたくしの方へやってくるとは……」
「珍しいのか?」
「初めてです。あの一瞬にして強烈な殺意を抱くほどのなにかが、あったのでしょうか?」
(木蘭様をお守りしている最中でも眼にしたことはないです。ということは、呪詛に変化する寸前まで精製された悪意ということに……。もしや、どなたかからわたくしと紫淵殿下の様子が見えて……?)
苺苺は眼下にある宿舎をじっと睨みつける。
(呪靄も呪妖もわずかに光っているので、暗闇はむしろ好都合です。室内灯をつけていなくても、ぼんやり視えるはずですわ。――――ああ)
見つけてしまった。
ひっそりと蝋燭の灯りの中に揺れる、呪妖の光を。
(やはり、そうでしたか)
悲しいような、落胆のような、切ない気持ちが苺苺の胸を締めつける。
苺苺はしゅんと落ち込んだ様子で、胸元から両手のひらほどの大きさの白銅鏡を取り出す。
白蛇の神器のひとつ、〝白澤の八花鏡〟だ。
「……大変申し訳ありませんが、宿主さんのもとへお還りください」
苺苺は静かに告げながら紫淵の隣から一歩出ると、両手で下から支えて上向きに持った八花鏡に異能の力を鏡へ込めた。
しゃらん、とどこからか鈴の音が聞こえる。
すると宙に舞っていた黒い胡蝶たちはぴたりと動きを止め、ボウッと青紫色の炎に包まれた。
燐火になったのだ。
八花鏡に誘われ、宿舎の中からもひらひらと黒い胡蝶が出てきて、次々と燐火に呑まれていく。
そうして青紫色の炎がうねり、ひとつに合わさって――……二本の角を持った獅子に似た瑞獣、白澤の姿を形作った。
燐火の白澤は空を駆け、苺苺のもとへ飛び込むようにやってくると、すうっと音もなく八花鏡に吸い込まれて消えた。
それはただただ幻想的な光景だった。
紫淵はいつのまにか魅入ってしまい、気がついた時には長剣を鞘におさめていた。
「あれが、人間の悪意なんだな」
「はい。紫淵殿下にも呪妖が視えるようになったのは〝龍血の銘々皿〟の影響でしょう。血の契約をしたので、紫淵殿下とわたくしとの間になにかしら……縁ができてしまったのかもしれません」
「……なるほどな。先ほどの術は?」
「宿主の方には申し訳ありませんが、呪妖を宿主の元へ送り返す術を使わせていただきました。封じたわけではなく、本当にただ目の前から祓う効果しかないので、わたくしとしてはあまり使いたくないのですが……」
苺苺は欄干のそばに寄って、女官の宿舎へ視線を走らせる。
(書物には基本中の基本とありましたが、送り返された方の気持ちを思うと、とてもじゃないですが使えません。だって、あの黒い胡蝶が一瞬だけ実体化して、し、し、し、死骸にぃぃぃ)
静寂を爪で引っ掻くかのごとく、ビィィィンと月琴の弦が切れた音がする。
「きゃあああああああ――――っ!」
それから一拍遅れて宿舎から甲高い悲鳴が上がり、とある部屋の灯籠に灯りがついた。
苺苺はその様子を見て仰け反る。
「お、おいたわしや……!」
灯りがともされた部屋は、春燕と美雀の寝所だった。
紫淵との話し合いの末、翌日はこれまで通りに過ごす手筈になった。
五人の侍女たちは今日も変わらず茶菓子作りに腕を奮ってくれている。
毎度のことだが、茶会で残った茶菓子は紅玉宮の十五人の女官たちに下げられ、彼女たちのおやつや夜食になる。
呪毒とは、もとを辿ると呪妖であり呪靄だ。
悪意を成就させるための精製された毒である。
そのため木蘭に出された茶菓子に呪毒が宿っていても、他者の唇に触れた時点で霧散して発生源へと還っていく。女官たちにはなんの健康被害も出ないのだ。
しかし『白蛇の娘』である苺苺ばかりは例外だった。『龍血の銘々皿』を通さずに食べた呪毒に、肉体は正しく反応する。
(けれども新たに目覚めた治癒の力で、呪毒で傷つけられた内臓もすぐに治ります。ふっふっふ、霊力が尽きぬ限りすこぶる元気なわたくしです)
そんなわけで、紅玉宮ではおやつが豪華な日が続いている。
年頃の女官たちは皆嬉しそうにはしゃいでいて、休憩時間も楽しそうだ。
紅玉宮に集められて約三ヶ月、それぞれのことを知り始めた女官たちの仲も平和に深まるというものである。
(――紅玉宮に集まる以前から深かった仲を除いて、ですが)
苺苺は昨晩刺していた紫木蓮が咲き誇る『白蛇玄鳥神鹿図』の円扇でそっと口元を隠し、給仕の支度を始めた春燕を視線だけでひっそりとうかがう。
大皿に上品に盛り付けられた茶菓子を若麗が円卓に並べて、怡君が小さな取り皿をふたりの妃の前にしずしずと置いた。五色の陶製皿だ。五行にちなんだ色合いを使って邪を祓うという縁起物である。
「木蘭様。数刻前に宵世様がいらっしゃいまして、次の選妃姫に関する通達がありました。それから先ほど徳姫様の女官が来られて、徳姫様主催のお茶会を明日開催すると」
筆頭女官の若麗が言う。
「徳姫は自分主催の茶会を誰よりも早く通達したかったんだな」
「そのようですね。お茶会の方は、招待状には紅玉宮からは貴姫様だけで、水星宮の白蛇妃様のお名はありませんでした」
それで、と若麗が申し訳なさそうに言い淀む。
けれど苺苺は「お茶会のお呼ばれがないのはいつものことですので、お気にならさずに。刺繍を刺しつつ、楽しくお留守番いたいますわ」と答えた。
「……宵世はなんと?」
「はい。七日後に行われる選妃姫の試験内容は、『端午節の香袋』だそうです」
端午節は燐華国五大節句のひとつだ。
国中のいたるところで無病息災を祈る龍舟嘉年華が行われ、おこわを笹の葉で巻いた粽子や艾饃饃などを食べて、子孫繁栄や疫病退散を願う。
端午節に作る香袋は『香包』と呼ばれていて、五行に基づいた五色糸を使って刺繍し、中には清涼感のある香りがする蓬や生薬を詰めて作る。
こちらも無病息災や疫病退散、そしてその末にある子孫繁栄を願って作られ、香包は主に首から下げて使われる。昔は母が子のために手作りするものだったが、今ではその風習も変化していて、親しい間柄で贈り合うことも多い。
「七日間で製作し、選妃姫当日に皇太子殿下へ披露するようにとの仰せでした」
「やはりそうか。過去の選妃姫では一度目が詩歌、二度目が端午節の香袋の腕前を競うことが多かったというから、驚きはないが」
選妃姫の題目に一喜一憂する妃嬪が多い中、顔色ひとつ変えずに言う幼い木蘭に、侍女たちは賑やかになる。
「まあ、さすがは木蘭様」
「貴姫様として必要な教養をしっかりお勉強なされていて感心致します」
「木蘭娘娘、偉い偉いなのです」
「ふふん、妾にとっては当然の知識だ」
木蘭は背筋を伸ばして胸を張り、紅玉宮の幼い主人らしく応じる。
苺苺はそんな様子を見て、紅珊瑚の瞳に感動の涙を浮かべる。
(あああ、得意満面な様子の木蘭様……! 金銀財宝では買えない尊さ、ここにあり……ッ)
頬を染め上げて眦を下げる苺苺を見て、『本当は、試験内容を決めているのは自分なんだが……』と木蘭はいたたまれず目をそらした。
「あー……。妾は詩歌には自信があったが、刺繍は苦手だ。その点、苺苺は刺繍の名手。ぬかりはないな」
「ふふふっ、はい。『端午節の香袋』とは腕が鳴ります」
苺苺は早速頭の中に図案を広げる。
「領地をあげて香包製作をしている州もあると聞きます。他にも、粽子型や瓢箪型などの福寿にちなんだ意匠だけでなく、毒を持った蟲さんたちを刺繍する五毒図案が人気を呼んでいる地域もあるとか」
毒を以て毒を制するという意味を持つ五毒図案は、苺苺にとっては手に取るのも難しい図案だが、これまた巷で大人気なのだという。
(妃たちがどのような立場で、どのような意味合いを持たせた香包を製作するのか……。香包の完成度や刺繍の腕前だけでなく、持たせる意味合いも含めて試験されるのでしょう)
「わたくしも、あっと驚くような香包を考えなくてはなりませんねっ。紅玉宮に置いていただいている以上、木蘭様に恥じぬよう立派な働きぶりをお見せいたしませんと!」
「本当よ。あんたのせいで紅玉宮が落ちぶれたらタダじゃおかないんだから! ……頑張ってよね!」
「もちろんです、春燕さん」
「白蛇娘娘なら『百花瓏玉』を賜われるなのです」
「ちょっと! そこまでは望んでないわよ! それは木蘭様のものなんだからっ」
百花瓏玉とは、選妃姫で皇太子殿下から妃に下賜される褒美だ。
その名の通り百花の美しさを持つ最高級の宝飾品で、指輪、腕輪、首飾り、額飾り、笄、簪があって、それぞれに金、銀、白金、そして至極の宝石をあしらっていると聞く。
選妃姫の最終選抜ではこれらで着飾り、その美を競うとか。
つまり、それまでに賜った『百花瓏玉』の希少性で妃嬪たちの力関係はすでに決すると言ってもいい。
一回目の選妃姫では、妃嬪たちには階級を表す官名と宝石の名を冠した宮が与えられた。
二回目の今回は、八人の妃の誰かひとりに百花瓏玉のひとつが褒賞として下賜されるはずだそうだ。
「木蘭娘娘なら『鴿血紅寶石の蓮花簪』、白蛇娘娘なら『白翡翠の花雫額飾』が似合いそうだと言っていたのです」
「言ってないったら!」
春燕と鈴鹿のふたりのやりとりに、クスクスと鈴を転がす笑い声がいたるところから漏れる。
いつも自室で繰り広げられるやりとりがここでも見られるとは思わず、苺苺も「ふふっ」と思わず頬を綻ばせた。
「お二人とも、とっても詳しいのですねぇ〜」
苺苺の周囲にぽけぽけと花が飛んでいる幻覚を見た春燕は、「ふんっ、こんなの常識よ」と顔をそむける。
「むしろこれくらい知ってなきゃ、皇太子宮の上級女官になんてなれないんだから」
「『百花瓏玉』の位と階級を事細かに示す、『百花瓏玉目録』があるのです」
鈴鹿の言葉に、木蘭が鷹揚に頷く。
「皇帝宮の宮女を選ぶ秀女選抜試験でも、皇太子宮の宮女を選ぶ女官登用試験でも、『百花瓏玉目録』に関する試験がある。目録の写しが配布され、正式名称と宝石の種類、それから過去にどのような妃嬪たちが賜ったかという歴史を学ぶ筆記試験が実施されるんだ」
「へええ、そうなのですね」
「上級女官は妃嬪に最も近い存在だ。『百花瓏玉』を知らなくては、自らの主人をそれに相応しく着飾ることも、たしなめることもできないからな」
「なるほど、なるほど。勉強になります」
木蘭の説明に苺苺が大きく頷くと、木蘭は幼妃に似合わぬ呆れた表情で頭を抱える。
「……苺苺、水星宮にもあっただろう? 『百花瓏玉目録』の写しが」
「いいえ? あったのは『王都妖怪大事典』でしたね?」
「は? 『王都妖怪大事典』?」
木蘭が「意味がわからない」と突っ込んだのと同時に、茶会の準備を進めている侍女たちもポカンとする。
「なにが書いてあったか聞くのは負けた気がするが、なにが書いてあったか聞いてもいいか」
「ええ。なんでも、昔々に王都に現れたあやかしさんたちを事細かにまとめた大辞典だとか」
「ほう、それで?」
「黒墨で描かれた写実的な画風が猛々しく、夜はちょっぴり眠れなくなりましたが……。あやかしさん達について、とても勉強になりましたわ! ところどころ虫さんも載っていたので、冗談みたいな読み物なのかもしれませんけれど」
そう語った苺苺は探偵のようにキリリと表情を引き締めて、指先をぴんと一本立てる。
「なんと王都には、悪鬼と並んで最恐と呼ばれる最高位のあやかし〝饕餮〟も出たそうです……! 『王都妖怪大辞典』の解説によると、今もまだ王都にいるかもしれないとか。真相は謎のままです……!」
「そ、そうか」
それって宵世だな? とは言えない木蘭であった。
(ということは、水星宮に『百花瓏玉目録』を配布される係の方が、間違えて『王都妖怪大辞典』を置いていかれたのでしょうね。おかげさまで猫魈様のお姿やお名前も勉強できましたので、ありがたかったです)
と、苺苺と木蘭の話がひと段落したところで。
筆頭女官の若麗が侍女たちに目配せをする。茶会開始の合図だ。
上級女官五人はそれぞれの位置について、今日も時間を惜しまずに手作りした茶菓子をしずしずとつぎ分け始める。
「木蘭様、苺苺様。本日はお茶菓子は三種の餡の煎堆、それから艾饃饃をご用意いたしました」
白胡麻がまぶしてある丸い煎堆の中は、落花生餡、紅小豆餡、黒胡麻餡だ。
発酵させた米粉と小麦粉から皮を作り、餡も全て手作りしたそうだ。
端午の節句の訪れを一足早く知らせる艾饃饃は、昨日のうちに夕露時の御花園で摘んだ春蓬を使ったらしい。朝でなく夕方に収穫するのは、日中に陽気をたっぷり浴びて糖分を増やした葉は甘くなるからだ。
みずみずしい翡翠色に蒸しあがっている小ぶりの姿は、それこそ『百花瓏玉』と例えたくなる。
「こちらの艾饃饃は珍しい形をしていますね? ひとつは木蓮の意匠ですが、もうひとつはまさか、苺の花でしょうか……?」
「はい。こちら私が型から作らせていただきました」
女官の中で一番背の高い、いかにも先輩という雰囲気の怡君が腰を曲げ、少しはにかみながら言う。
「怡君さんが?」
「はい。実は私、木彫りが趣味なのです。普段は観音菩薩様などを彫っているのですが、木蘭様と苺苺様のお泊まり会延長が決まった時から、なにかおふたりの記念になるようなものを作れないかと考えていて……」
茶菓子の型にしようと思い至り、休憩時間に図案を考えて彫刻刀で木を彫って作ったらしい。
「すごいです、怡君さん! ありがとうございます」
「うむ。妾も気に入ったぞ」
「ありがたきお言葉でございます」
怡君が下がると、美雀がふたりの妃の前にそれぞれ空の銀杯を置く。
「本日のお茶は、春燕と一緒に考案した食譜で作った水果茶です」
「蘆薈檸檬と野苺の薬草茶を合わせて、目の前でお作りいたします」
(野苺の薬草茶! あの時、水星宮で若麗様にお渡ししたものですね)
玻璃の水壺には蘆薈と檸檬の果肉が入った果汁蜜が入っている。まずはそれを、春燕がふたりの銀杯にそれぞれ注いだ。
とろとろと注がれた果汁蜜から、清涼感のある香りがふわりと漂い始める。
薬草茶が入った茶壺を持った美雀が、木蘭の銀杯にそれを注ぐ。
「そちらの匙でよく混ぜてお飲みください」
次に苺苺の隣にやってきた。
茶壺から銀杯にとぽとぽと――。
その彼女の周囲を、ひらひらと黒い胡蝶が飛んでいる。誰にも見えないはずの呪妖の姿を、苺苺と、木蘭だけは捉えていた。
「いただこうか」
木蘭が銀杯を手にする。それから不自然にならぬよう、互いの視線を合わせた。
色鮮やかな食器や茶菓子でいっぱいになった朱塗りの円卓の隅に、苺苺がそっと置いた朱塗りの小皿の上はまだ空だ。それを二人で確認する。……だが。
「飲んではいけません、木蘭様。そちらには――〝毒〟が含まれております」
苺苺は毅然とした態度で言い放った。
真珠色のけぶるような睫毛の下、紅珊瑚の瞳がすっと温度をなくす。
「ど、毒なんて」
「そんなまさか……っ」
先ほどまでの紅玉宮に似つかわしくない言葉に、女官たちはハッと息をのんで動きを止めた。
木蘭は銀杯をくるりと回して、内容物を確かめる。
「……苺苺、銀杯にそれらしき痕跡はない。毒とはいったいどういうことだ?」
「銀杯には反応しない毒が使用されております。野苺の葉の毒です。よく乾燥させずに茶葉を作ると、腐敗の過程で有毒になるのです」
「なんだと?」
「薬草茶の水色をご覧ください」
銀杯の中身は比重の関係で二層になっている。下は薄黄色、上は黒茶のような色だ。
「こちら黒茶のように濃くしっかりと出ておりますが、通常の野苺の葉茶は黄茶。君山銀針を思わせる色合いをしているはずです。そして香りも青く、清涼ではありません。それをごまかすために蘆薈檸檬の果汁蜜を入れたのでしょうが、」
苺苺は「ふふふっ」と絹扇で口元を隠し、この場でただひとり呪妖の中に立つ犯人に笑う。
「わたくしはごまかせません。……ねえ、美雀さん?」
(幼い頃に飲んだあの、あの猛毒茶の匂いと味は忘れていません! 嘔吐が止まらず、お腹を下して寒気の中で震え、死の淵を見たあの日……! お兄様が助けてくれていなかったら今頃どうなっていたか。ああああ、思い出すだけで感情がごっそり抜け落ちます……っ! けれど今は木蘭様に猛毒茶を飲ませようとした犯人の前。ここは無理やりにでも笑顔を作り余裕を保ちませんと! 笑顔です、笑顔っ!)
苺苺の赤い唇が弧を描いた瞬間。
その場にいるすべての人間は息をのみ、胸の奥底から湧き上がる畏怖から微動だにできなくなった。
白き大蛇と生贄花嫁の異類婚姻によって生まれた――『白蛇の娘』。
その、この世のものとは思えぬぞっとするほどの禁忌の美貌が、美雀を見据える。
先ほどまで少女らしい可憐な笑みを浮かべていた美雀は、その禁忌の美貌に直視され、恐怖のあまり青ざめてガタガタと震え出した。
「白蛇妃様? わ、私には、白蛇妃様がなにをおっしゃっているのか、わかりません……」
彼女の周囲をひらひらと舞っていた呪妖が、途端にぶわりと数を増す。
「茶葉は厨房にある、刺繍袋に入っていたものを使いました。白蛇妃様のお作りになった茶葉です。見知らぬ茶葉だったので、量はたくさん使ってしまったかもしれませんが……。けれどそれだけで、私は無実ですわ……!!」
「おかしいですねぇ。わたくしは確かに野苺の葉茶をお贈り致しましたが、しっかりと乾燥させ、薬草茶として人体に良い影響を与える状態にしたものだけを吟味しておりますわ。それに黒茶になるほどの量も差し上げておりませんでした」
今もひらひらと飛ぶ黒い胡蝶をまとっているのは、感情が乱れるほどの悪意を抱いているからだ。
昨夜の呪妖の光は、美雀と春燕の部屋からも確認されている。
白澤の八花鏡を使い異能を行使した時、呪妖は美雀のそばに還り、だからこそあの悲鳴をあげたはずだ。
その件に関しては、すでに紫淵に報告済みである。――もちろん、白蛇の娘が視たもののすべてを。
「……美雀さん。わたくしの野苺ちゃんを鋏で切ったのは、あなたですね?」
苺苺が静かにそう告げると、美雀が大粒の涙を浮かべる。
彼女の手から滑り落ちた茶壺が床で跳ね、パリンッ! と部屋の空気をさらに凍らせる音を立てて割れる。茶壺の中から茶葉が飛び散った。
それはゆうに十人分以上の量に相当するほどの茶葉だった。
「……やはり。よく乾燥させずにわざと有毒の状態にした茶葉ですね。こんなにたくさんの葉で抽出したお茶ですから、きっとひとくちでお手洗いに駆け込むことになりますわ! 一杯飲んだら死の淵です!!!!」
苺苺は毅然と美雀を睨みつける。
美雀は悲痛そうに顔をくしゃくしゃにすると、「――春燕ですッ!」と泣き叫びながら崩れ落ちた。
「毒茶を淹れた犯人は春燕です! この食譜は、春燕が考えたものなんです!」
「な、なにを言ってるの美雀……!? あなたが最初に『白蛇妃様に喜んでもらうお茶にしよう』って提案してたから、だから、私は――!」
春燕が驚愕し顔を青ざめる。
「春燕はいつも白蛇妃様の悪口を言っていました……っ。出て行ってほしいっ、不吉だって。白蛇妃様の野苺だって、白蛇妃様付きの春燕だから盗めましたっ! 昨日、蓬を摘む時にもいっぱい摘んできていて……っ」
美雀は頬を真っ赤にしながら、一生懸命に叫び、大粒の涙をこぼす。
「私は……ぐすっ、……何度も止めたんです! だけど、春燕は紅玉宮から白蛇妃様を追い出すために……ッ!!」
「は、はあ!? ちょっと、でたらめ言わないで!」
「木蘭様! 春燕は白蛇妃付きにした木蘭様を逆恨みしていました、それで木蘭様の銀杯にまで……! ううっ、ぐすっ、私が春燕を止めていたのは、紅玉宮の女官全員が証人です!」
涙で目を腫らした美雀が泣き崩れた姿のまま、冷静に事の成り行きを観察していた木蘭を見上げる。美雀はそのまま膝立ちで駆け寄り、幼妃の小さな膝に縋った。
「姐姐が、『寝台の下に腐敗した茶葉を隠してるのを黙っててほしい』って言ってたけれど、私……っ。私もう、姐姐の大きすぎる罪を隠し通せないわ……っ!」
ポロポロと大粒の涙をこぼしながら春燕を仰ぎ、美雀はそう堂々と叫んだ。
……まるで悲劇の少女だな。
木蘭は幼い顔に似つかわしいほど冷めきった表情で、まるで蛆虫でも見るかのような視線を美雀に向けた。
心底軽蔑しきった表情をして主人に気づかぬ美雀は、まだ膝に泣きすがっている。
春燕はふつふつと湧き上がる怒りのせいでぶるぶると震えながら、一歩踏み出した。
「隠してなんかない! いい加減にでたらめ言うのはやめて!」
「うっ、ぐすっ……私が白蛇妃様に疑われるように、わざと茶壺を持たせたんでしょう? 姐姐はいつも、木蘭様付きになった私を妬んでいたものね……っ。それで犯人に仕立て上げて、白蛇妃様と一緒に追い出すつもりだったんだわ! そうやって、幼い頃からいつも、姐姐は私に意地悪をして虐げる……っ」
埒が明かないな。
「……若麗」
「はい」
木蘭は呪妖が次々に湧き出す美雀から視線を外すと、硬直している怡君と鈴鹿の隣に並んで、神妙な顔をして事態を見守っていた筆頭女官に命じる。
「今すぐここへ東宮補佐官を呼べ」
「御意」
完璧な礼をとった筆頭女官が颯爽と応接間を退出し、皇太子付きの筆頭宦官を呼ぶために紅玉宮を出て行く。
それからすぐに宵世と皇太子宮の警備請け負う宦官が到着し、宿舎にある春燕と美雀の部屋が改められた。
宦官たちが、湿り気のある水盆に入った大量の腐った野苺の葉を持って、この部屋に入ってくる。それから土のついた鋏、蓋つきの籠の中で衰弱死した野兎。
「ひいっ!」
「なんとむごいことを……っ!!」
女官たちが顔を青ざめ小さく悲鳴をあげ、苺苺は悲痛に満ちた表情で口元を覆う。
声をあげなかったのは木蘭くらいだ。
木蘭は指を顎先に当て考え込みながら、それらの品を改める。
鋏に付着しているのは栄養のないその辺の土ではなく、御花園の腐葉土だ。水盆の湿り方から見ても、毒素を含ませるため意図的に野苺の葉を大量腐敗させたのは間違いないだろう。
皇太子宮に上がっていた盗難報告書に野兎があったな。
蓋つきの箱も目撃情報と一致している。
極めつけに、彼女を慕うように飛び回る黒い胡蝶。……決まりだな。
木蘭は侮蔑を含んだ笑みを浮かべそうになるのを抑え、大袖に埋もれた両の指先でちょこんと口元を隠す。
「証拠品は以上です。すべて春燕の寝台の下から出てきました」
墨をこぼしたような杏眼を、宵世が春燕に向ける。
動かぬ証拠を前に、集まってきた紅玉宮の女官や宦官たちは誰もが黙したまま思っていた。『春燕が犯人だろう』と。
「そんな……ッ。東宮補佐官様、私じゃありません! 信じてください!」
「そうですよ、宵世様! 春燕さんではありません!」
四面楚歌の春燕をかばうために、苺苺も負けじと声を張る。
春燕はハッと目を見開き、信じられないものでも見る顔で、自分を庇った苺苺を見た。
「春燕さんの言葉は警戒心から生まれるもので、わたくしへの悪意がありません。春燕さんはなんだかんだ言って、わたくしを慕ってくれています……!」
(どんなことを口にしていてもどなたの周りにも呪靄が生じず、今だってこんなに混乱している状況ですのに呪妖を宿してもいませんッ。そして、なにより――木蘭様を推している方に、悪人はいないのですわ!! 木蘭様推しのひとりとして、わたくしが春燕さんを守らなくてはっ)
「わたくしには春燕さんの心の清らかさがわかるのです!」
力説した苺苺を心底気だるげに一瞥した宵世は、抑揚のない声で「引っ捕らえよ」と冷たく宦官たちに命じた。
万事休すか、と春燕が唇をぎゅっと噛み締めた時。
「……な、なぜ、私を……!?」
杖を持つ宦官たちに捕らえられたのは、床に崩れ落ちたままの姿で冤罪を訴えるように泣いていた美雀だった。
「美雀。お前のことは昨晩苺苺から報告を受けて、すでに宵世が調べている」
紅玉宮の幼い主人、木蘭は威風堂々とした足取りで捕らえられた美雀の前に歩み出ると、紫水晶の双眸を冷たく細めながら彼女を見下ろした。
「昨日、尚食局に搬入されていた野兎が一匹盗まれた。その際、『不自然な蓋つきの籠を抱えていた皇太子宮の女官を見た』と多数の目撃証言があったんだが、西八宮の下女がお前の顔を覚えていてな」
三年も一緒に働いたのだからわかる。彼女は美雀だった、と。
「…………っ!」
「妾も今朝報告を聞き、紅玉宮ではどう罰するべきか考えあぐねていた最中だった。だが、盗みだけでなく……――皇太子妃を未遂とはいえ二人も害そうとした罪、そして虚言を重ね、皇太子宮最上級妃付きの上級女官である春燕に濡れ衣を着せた罪は重い」
投獄され杖刑ののちに、上級女官から下女へ落とされるだけでは済まされない。
彼女には厳罰が下るだろう。
「毒茶の威力を試すなら、せめてどぶ鼠でも捕まえたら足がつかなかっただろうに。育ちの良さが仇になったな」
木蘭の言葉を聞き、美雀はギリっと奥歯を噛みしめる。
「美雀、妹妹……なんで……」
「姐姐が全部悪いのよ!! 昔からそう。利用してやってただけなのに勝手に姐姐づらして! そのせいで紅玉宮で私は姐姐の下に見られるようになったッ。私が街一番の美人で、誰からも可愛がられて幸せだったから嫉妬して、こうやって私に意地悪をするんでしょう!?」
「私が美雀を妬む? そんなわけないでしょう。私たち、いくら姉妹でも別人なのよ……? それに意地悪なんてしてないわっ」
「してるわ! 木蘭様にも白蛇妃様にも取り入って……私の出世の邪魔してるっ! 私が先に後宮に入ったのに……私が先に妃になるはずだったのに!! こんなのおかしいわ、姐姐はずっと私のご機嫌を伺って、なんでも請け負って、下女みたいに傅いててよ!!」
「宵世、連れて行け」
「御意」
「私の人生がめちゃくちゃになったのは姐姐のせいよ! 今すぐ紅玉宮から出て行って……ッ」
泣きわめく美雀は宦官たちにきつく取り押さえられながら、紅玉宮を後にした。
◇◇◇
「そ、壮絶な修羅場でした……。あれが後宮……恐ろしいところです……」
「あれくらいなら後宮では序の口程度のやり合いだ。死人が出なくてよかったな」
執務用の椅子に腰掛け、長い足を組んだ紫淵は憂いを含んだ顔で淡々と言う。
ここは皇太子の居城である天藍宮。
本来ならば夕刻となり後宮の門が閉ざされたあと、後宮妃は滅多なことでは門の外へは外出できない。
そんな後宮内皇太子宮は紅玉宮預かりの〝白蛇妃〟苺苺は、初めて訪れた天藍宮で紫淵の執務室に通されていた。
後宮から出てしまったという罪悪感でなんとなく居心地が悪い。
それに万が一、許可なく後宮を抜け出しているところを誰かに見つかったらと思うと、不安に駆られてしまう。
だって、あやかし用の地下牢に投獄された経験のある白蛇妃だ。問答無用で即刻打ち首になる気がするのも無理はない。
(わたくしは全力で木蘭を推すために後宮へ来ただけであって、後宮で死ぬ気はさらさらないのですが……! けれどもあのご様子では、)
「わたくしと木蘭様も、だっだだだ脱走罪で……!」
「寝室の内側から扉に閂をかけているから、女官に侵入される心配はない。外から声をかけて反応がなくても寝ているだけだと思うだろう。そのためにわざわざ俺が演技をして寝室に君を引き入れたんだ、問題はない」
苺苺がビクビクしていると、呆れ顔の紫淵が「心配する必要すらない話題だな」と首を振る。
まあ連れ出したのは皇太子宮を治める皇太子殿下本人なので、誰かにバレたところでどうとでもなる。
それにもし、二人の姿が目撃されたとしても、【皇太子殿下が白蛇妃と月下の逢瀬!? 天藍宮で禁断のご寵愛】と煽るような見出しと尾ひれと背びれと胸びれがついて、後宮全土に激震が走るだけなのだが。
苺苺はそんな状況下にあることにまったく気がついていない様子だ。
(はぁぁ……。ここに来るまでの間でどっと疲れてしまいました……。それに加えて、呪妖を視るためとは言え白蛇ちゃんを長く封印しすぎた弊害の疲労も……)
紫淵の執務机の向かい側に置かれた応接用の長椅子を勧められた苺苺は、そこに座ったまま〝白蛇の鱗針〟を片手にグッタリしている。
いくら異能の才が強まり、歴代の白蛇の娘にはなかった癒しの力を得たと言っても、常に悪意に蝕まれていると癒しの力も追いつかないものだ。
目の前には、夜光貝の総螺鈿細工が施された漆塗りの卓子がある。
普段の苺苺であれば、その緻密な吉祥図案と猫足の曲線美に心底感服するところなのだが、今は「きらきらしていてきれいですね、まるでおほしさまのようです」と現実逃避をする感想しか浮かばなかった。
「ふふふ、ふふふ」
「……苺苺、君はよほど疲れたんだな。言動が支離滅裂だ」
(それにしても……。昨晩のあの様子から事件が起きそうな気配は察知していましたけれど……まさか『木蘭様暗殺未遂事件その二』と『白蛇妃暗殺未遂事件』、それから『上級女官追放未遂事件』が立て続けに起きるだなんて……)
「って、いえいえ、死人なら出ましたよっ」
「……誰か死んだか?」
「無実の野兎ちゃんが暗殺されてしまいました……!!!!」
「皇帝陛下の滋養強壮料理用に食肉業者から仕入れていたやつだろう」
「なっ、なんと冷たい! 紫淵殿下は鬼ですっ、この悪鬼武官!! ではなくて悪鬼皇子めっ!」
「なんとでも言ってくれていい。事実だしな」
野兎は苺苺によって手厚くお別れ会が行われた。あの世で寂しくないように、ぬい様と白蛇ちゃんも一緒に詰めてある。どうか野山を元気に駆け回ってほしいと思う。
執務の手を止めた紫淵は机の上で頬杖をつくと、「それよりも」と言葉を切る。
「君の身になにも起こらなくてよかった。美雀が刃物でも持っていたら、あの姿の俺では君を守れないかもしれないからな」
静かな夜にふんわりと溶けるような微笑みを浮かべる。
(うっ)
絶世の美青年の甘い眼差しを直視してしまった苺苺は、手慰みに刺していた刺繍の手を止めて、その絹扇で目元以外の顔を覆う。
「い……今の会話の流れで、よくそのようなお顔をできますね……?」
「今夜の図案はまた凄いな。『白蛇玄鳥神鹿図』に観音菩薩と紫木蓮とは……天界か? 君は一体どこへ向かっているんだ」
「木蘭様は天女様の御使いですので、推しの概念を表現しました。ではなくて、」
「華やかでいいな。色選びもいいからごちゃついていないし、統一感があっていつまでも眺めていたくなる。なによりも、なんだか嬉しい」
「わたくしの突っ込みは聞いてませんね?」
(……今夜の紫淵殿下はおかしいです)
時刻はすでに亥三つを回っている。
しかし苺苺が寝衣ではなく、普段は散歩用に使用している簡単な衣裳をまとっているのは、ちょうど夜警に出てすぐだったからだ。
猫魈を使った『木蘭暗殺未遂事件』の犯人である〝恐ろしい女官〟が誰だかわかった今、彼女から木蘭を守らなくてはならない。
(現行犯で取り押さえた暁には、ぜひとも心を入れ替えていただかなくては。ふっふっふ、この白苺苺、必ずや木蘭様の素晴らしさを布教し、恐ろしい女官の方を木蘭様沼に突き落としてさしあげますわ! そのためにも今夜からは本殿に籠城ですっ)
そう強く意気込んだ苺苺がぬい様と〝白蛇の神器〟を携え、紅玉宮本殿の見回りを始めようとしていたところ、寝室からぬっと出てきた寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭様に抱きつかれて、
『お姉様ぁ。妾ひとりで寝るのは怖いです。今夜は妾と一緒の部屋で寝てくださぁい』
と言われたからさあ大変。
(かわゆいが大爆発をしていて、ついつい寝室に……。そうして気がついたら紫淵殿下に捕まって、こんなところまで……)
寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭から『目をつぶってしばらく待つこと』と言われて、衝立の裏でおとなしく待って過ごしていたら、いつの間にか寝衣から着替えた紫淵から『もういいぞ』なんて声をかけられるとは聞いていない。
あまりの出来事に苺苺は『こんなの詐欺です!』と叫んでしまった。
そうして箪笥の下に隠されていた扉から階段を降り、地下通路を通って出た先は、灯籠がらんらんと輝く天藍宮の瀟洒な寝室。
『苺苺、今夜はここで寝てくれないか』
『え?』
『俺は向こうの部屋で執務をしているから、問題があったら呼んでくれ』
『ええっ!?』
『おやすみ』
まるでそれが自然であるかのように紫淵は優しい手つきで苺苺の頬を撫で、そう言い残して寝室を出て行く。
はて? と思い室内を見回すと、木蘭の部屋にあるものよりも大きくて豪華な寝台の上には、紫色の堅物感のある枕が。
そしてその隣には、新品とおぼしきふわっふわの羽根枕が鎮座しているではないか。
『ええええええっ』
苺苺は思わず羞恥心にさいなまれ、ぶわりと頬を染め上げる。
『ま、待ってください! わたくしも行きます!』
弾かれるようにして慌てて寝室から飛び出した苺苺は、濃紫の深衣姿の紫淵の背中を追いかけた。
早足が捌く長い裾がふわりと広がるのに合わせて、後頭部を一部結って載せらた皇太子を表す冠の簪飾りと、背中に流された紺青の黒髪がさらさらと揺れている。
銀糸の刺繍が施された幅広の帯がきっちりと締め上げる腰はより細く見え、いつもの冷酷な雰囲気が漂う佩剣した武官姿とはまた異なる雰囲気だ。
地下通路では判らなかったが、この姿は紫淵をこの宮の主人たらしめていて、よりいっそう高貴さが漂っている気がする。
随分と見慣れてきた紫淵の姿との違いに、苺苺が少しどぎまぎしてしまうのも仕方ないだろう。
しかもそんな皇太子の寝室に枕がふたつ、なんてただごとではない。
(い、いいえ。気おくれしていても仕方ありませんっ。ビシッと行きましょう! ビシッと!)
そうして紅玉宮の本殿より長い廊下を通って辿り着いた先がここ、現在地である紫淵の執務室である。
(いったいなんだったのでしょうか……? もしかしてあれも豪華薔薇風呂と三食昼寝付きの〝異能の巫女〟の給金に含まれて……?? だとしたら不要な優待特典です)
苺苺は絹扇の裏からじーっと胡乱げな視線で紫淵をうかがう。
「なんだその目は」
「いえ。あの枕はなぜあんなところに? と考えていまして」
「ああ、あれのことか。今夜は君の安全を考慮してここにいてもらおうと思って用意した。枕がないと寝にくいだろう?」
「それは……ありがたいですが、その、なぜに安全を? 紅玉宮でわたくしが置いていただいてる部屋も、十分安全な気がするのですが……?」
「今日、後宮警備を担う宦官の詰所から、あやかし捕獲用の封籠が盗まれた」
紫淵の告げた言葉に、苺苺は驚きで目を見開く。
「美雀の起こした事件の混乱に乗じて、手薄になった詰所に何者かが侵入したらしい。目撃者はいないが、この手口は以前のあやかし……猫魈の時と同じだ」
「なんと!」
「実は『木蘭暗殺未遂事件』が起きた後、東宮侍衛たちに命じて皇太子宮内を徹底的に調べさせていた」
東宮侍衛とは皇太子である紫淵を護衛する武官だ。武官の中でも皇太子の直臣たる青衛禁軍所属になるため、より信頼できる精鋭部隊と言える。
内待省に属し皇太子宮を管轄する宦官に、皇太子宮内に関する報告は常々あげさせていたが、各妃たちの俸禄や食事、茶葉や反物などの下賜品も規定通りに行われていることになっていた。
紅玉宮の主人として目を光らせてはいた範囲では、皇太子宮に上がってくる報告通り。
だが実態はどうだろう。宦官や女官たちは私腹を肥やすために、白蛇妃が正当に受け取るべきものを着服していた。
閉鎖的な後宮内では、宦官による不正や横領もあり信用がおけない。私利私欲のために動く者も、他の皇子や貴族、妃嬪などと癒着して偽の報告をあげる者もいる。
そうなってくると、本来は後宮の門外を護衛する東宮侍衛を介入させることになる。
厄介な体質の紫淵は宵世に指揮権を預け、東宮侍衛長率いる武官たちに事件解明の証拠を集めてもらっていたのだ。
「とはいえ、主要部署は皇帝宮内。皇太子宮側に面する御花園までの捜索がせいぜいだったが、犯人も皇帝宮に罪をかぶせる度胸はなかったみたいだな。その捜査時、盗まれたものとみられる封籠が、鏡花泉付近にある竹林の中で見つかった」
(鏡花泉は水星宮の裏側に広がっています。竹林となると……)
「水星宮とは対角線上に位置する、御花園にほど近い場所でしょうか? 恐ろしい女官の方はそこに道術をかけた猫魈様を隠し、事件当日にあらかじめ籠の封を解いていたと」
「宵世が言うには、相当霊力のある道士になるとあやかしを式符に封じて従妖に下し、無言で命じるだけで自由自在に顕現ができるらしい。だが犯人はわざわざ封籠を用いている。しかも目くらましの呪文が書かれた呪符付きの、だ。これらの証拠から犯人が道術を使う際には呪文や儀式が必要となり、あらかじめ犯行現場を定めておく必要があると考えられる」
「ふむふむ。それで紫淵殿下は、恐ろしい女官の方が今回も同じ手を使われるはずだと……?」
「俺はそう考えている」
紫淵が険しい表情で頷く。
苺苺は寝台にあった枕のことなど忘れて、「それは一大事です」と眉根を寄せた。
昨晩、紫淵と一緒に呪妖を目撃した際、苺苺は女官宿舎のふたつの部屋で、蝋燭の灯りの中に揺れる呪妖の光を見た。
ひとつめは、春燕と美雀の部屋だ。
しかし、呪妖は宿主の周囲にとどまっている様子だった。ということは、あのどす黒い、強烈な殺意を抱いた末に生まれたような呪詛に近い呪妖とはどう見ても違う。
だが、もうひとつの部屋の光は、爛々としていて――。
事件を起こした美雀が捕まった今、疑いは確信に変わっている。
「美雀さんの起こした事件との関連性から鑑みても、そろそろ彼女が手を打つはずです」
「〝選妃姫に臨んだ妃が百日経たずに命を落とした場合、血族を代わりに妃とせよ。百日を皇太子宮で過ごした妃が命を落とした際はすべからく空位とする〟――選妃姫の『八華八姫』に関する規律だ。彼女の計画を遂行するためには、木蘭暗殺は百日以前に行われなくてはならない」
「つまり……明日、ですね?」
「ああ。だから君には今夜、ここで過ごしてもらう。美雀を操って、君の追放も暗殺も失敗した彼女が、君を紅玉宮から消し去るために今夜なにをしでかすかわからないからな」
「わかりました。では明日は何があってもすぐに対応できるよう、しっかり身体を休ませていただきます」
苺苺はその場を辞すために簡略の礼を取ってから、「ですが」と微笑みを浮かべる。
「わたくしは、枕があるのでしたら寝台ではなく長椅子でも大丈夫ですので」
「……は? 長椅子?」
「はい、今夜はこちらでぐっすり眠らせていただきます。長椅子が使用不可であれば、廊下でも、二階の楼榭も結構です!」
「ちょっと待ってくれ。俺の話を聞いていたか?」
「ええ、もちろんです。紫淵殿下は執務が終わり次第、ごゆるりと寝台でおやすみください。明日の木蘭様のためにもっ」
(わたくしが木蘭様と一緒ではないことを好機と捉えられてもいけませんし、今夜は夜警をおやすみして、ぐっすり就寝させていただきましょう。そして明日は全力で木蘭様をお守りするため、ぴったりくっついて過ごさせていただきますっ)
ふんすと気合を入れた苺苺は、紅珊瑚の瞳をごうごうと燃え上がらせる。
(とりあえず、先ほどの枕をいただいてこなくては)
その時。こんこんこん、と執務室の扉が入室の許可を求めて叩かれる。
「入れ」
紫淵が短く答えると、白磁の茶壺と蓋と茶托付きの湯呑である蓋碗を乗せたお盆を手に持った宵世が「失礼致します。お茶をお持ちしました」と慣れた足取りで入ってきた。
「僕のことは気にせず、お話の続きをどうぞ」
「ああ。もとより気にするつもりもないが。……珍しいな、宵世が白毫烏龍を淹れるなんて」
いつもは『時間がもったいないから起きておいてください』とか言って、眠気覚ましにすごく濃い茶を淹れるのに。
紫淵は手元に届いた茶器の蓋をふちを少しずらして、琥珀色をした白毫烏龍の果実と蜂蜜を思わせる香りを楽しみながら、怪訝な顔で宵世を見やる。
「まあ、そうですね。今夜はどうしても早く寝落ちしてほしいお方がいらっしゃるので」
(むむ? 紫淵殿下のことでしょうか? 確かに宵世様のおっしゃる通りです! 紫淵殿下も連日頑張りすぎですし、今夜は執務をお休みして明日に備えられた方がよろしいかと)
宵世は苺苺を『わかっていなさそうですが、そこのあなたですよ』という顔で一瞥すると、
「さあ、どうぞ」
と長椅子の前に置かれている低い卓子に蓋碗を置いた。
「白蛇妃様。明日は犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいね。東宮補佐官と白蛇妃が並んでいるのは至極不自然ですから」
「合点承知でございます。わあ、わたくし白毫烏龍は初めていただきますわ。ありがとうございます」
(最高峰の茶葉を寝る前のお茶として使われるだなんて、さすが天藍宮ですっ)
うきうきと好奇心で頬を緩ませた苺苺は、わくわくで逸る気持ちを抑えつつ、丁寧な所作で蓋碗を茶托の下から左手のひらに乗せる。
右手の親指と人差し指で蓋を摘んでずらし、すんすんと芳しい香りを楽しむと「ほう……」っと感嘆のため息をついた。
「とっても豊潤な香りがします。甘い蜂蜜や果実酒のような……?」
「発酵度が高いので。最高峰と呼ばれる由縁は、生産方法が非常に難しく、年に一度少量しか収穫できないこともありますが……。なんと言っても、美しい琥珀の艶めきを持つ水色と独特の深い甘みが、西方の上流階級に好まれる『香檳酒』を思わせるという――」
「ふ、あ………っ」
宵世は直立不動でつらつらと香檳烏龍とも呼称される茶葉の説明を行なっている横で、茶器に唇をつけてこくりこくりとお茶を嚥下していた苺苺が、唐突に呂律の回らぬ様子で呟いた。
その甘くとろけ落ちる蜂蜜のような声音に、紫淵はびくりと肩を揺らす。
慌てて苺苺の様子をうかがうと、苺苺の頬や目元は赤く蒸気し、けぶるような真珠の長い睫毛がの下では紅珊瑚の大きな瞳がとろとろと潤みを帯びていた。
その双眸がうっとり艶やかに、紫淵を捉える。
「しえん、でんかぁ……。なにか……ん、ん……っ、へん、れす……」
思わず食みたくなるほど濡れた赤い果実の唇が、たどたどしく名前を呼ぶ。
木蘭と刺繍と茶菓子にしか興味がなかった少女の、直視できないほどの色っぽい姿に、紫淵は頬が熱くなるのがわかった。
鼓動が否応無しにドキドキと激しくなる。
喉にきゅうっと甘い感情がせり上がり、反対に胸の内側が独占欲でずくりと切なく痛んだ。
「……宵世! お前いったいなにを茶に混ぜた……!?」
「香檳酒ですけど」
焦ってガタリと椅子を揺らしながら立ち上がった紫淵に対し、宵世は悪びれもなくケロリと言う。
「は、はあ? 香檳酒だと!?」
「ええ。以前、紫淵様が白蛇妃に下賜されていた西方の品つながりで。あの時に国使の方からいただいた最高級品です。これぞ本当の香檳烏龍ですね。おや、一気に飲むとはなかなか」
宵世は苺苺の手の中にある蓋碗を確認し、爽やかな笑みを浮かべる。
「白蛇妃のことですから、どうせ長椅子で寝るとか、廊下で寝るとか、二階の楼榭にある寝台で寝るとか言いだしそうだと思いまして」
「ぐっ。全部当たっているから言い返せない」
「紫淵様は長剣抱えて紅玉宮の寝室で寝る気でいるんでしょう? それならそうと最初から話せばいいんですよ。心配かけまいとしても逆効果です」
執務が終わったあと、確かに紫淵は木蘭の寝室でおとりになるつもりでいた。
なにもなければそれでいい。しかしなにかあった時は、青年の姿であれば遠慮なく長剣も振るえるので、あやかしにも遅れはとらない。
「白蛇妃がいない紅玉宮で今夜中に片がつけば良いですが、終わらなかったらどうするんです?」
「それはわかっているさ。だから、そのだな……あとで寝台に運べばいいかと」
「甘いですね。どうせ途中で起きて、『紅玉宮へおともします!』とか言いだしますよ」
宵世はげんなりした様子で、空中をぽやぽやと眺めている苺苺を見下ろす。
明日の紅玉宮ではなにが起きるかわからない。
極限まで気を研ぎ澄まして、白蛇妃は〝異能の巫女〟として木蘭と自分自身の命を守らなくてはいけないのだ。
廊下や外で寝られて風邪でも引かれたら困るし、長椅子で横になって疲れがとれなくても困る。
今日だって美雀が起こした事件を解決したばかり。連日の疲れが溜まっているのは我が主だけでなく、この憎たらしくもついつい世話を焼きたくなる存在も同じで――。
宵世は肩を下げながら大きなため息をつく。
「とにかく、天藍宮の寝室以外で寝られたら面倒ですからね……って、もう眠ってますね」
いつのまにか長椅子にくたりと横になっていた苺苺の顔を、宵世が覗き込む。
先ほどまでの、とろけるような艶やかな表情は夢だったのかと思えるほど消えさっている。
紫淵の胸を切なく掴んでいることなど知りもしない苺苺は、「むーらんしゃまぁ」となんの夢を見ているのかわかりやすい寝言を唱えながら、すぴーすぴーっと安らかな寝息をたてていた。
「こんなに酔うなんて、きっと酒も少量しか口にしたことなかったはずだぞ」
「そうでしょうね、思ったよりも効きすぎました。ですが大丈夫です。僕は耳が良いので、何かあったらすぐに駆けつけられますよ」
そう言って、宵世は夢の中に旅立っている苺苺を、紫淵の寝台に運ぶため担ぎ上げようとして、
「……宵世。俺がやる」
音もなく隣へやってきた紫淵に腕を掴まれた。
普段はただただ冷たい紫水晶の双眸の奥に、仄暗い熱が揺らめいている。
それは白蛇妃に対する、激情とも呼べる苛烈な独占欲や嫉妬心。
「……殺気だだ漏れじゃないですか。やめてくださいよ。僕はあなたの忠実なる従僕で、暗器で、あやかしです」
「……そうだな。お前は俺の悪友で、右腕で、あやかしだ。疑ってなんかいない」
紫淵がそう告げた時には、宵世が感じていた突き刺さるような威圧感はおさまっていた。
紫淵は苺苺の両膝の裏に腕を回し、背中を支えて抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこだ。
羞恥心で頬を染めた紫淵は、ちょっと拗ねたような表情をしているものの、どこか満足げに幸せそうな顔で苺苺を見つめている。
望めばこの国のすべてを手に入れることができ、ゆえに本当に欲しいものは手に入らない次期皇帝が、唯一気にかけ、心を寄せる……――仮初めの皇太子宮の妃。
けれども、きっといつか近い将来、主人は白蛇妃を手に入れるのだろう。
宵世は幼い頃の紫淵を思い出す――。
あの頃の紫淵は、後宮妃たちから向けられる壮絶な悪意と悪鬼が歴代の皇太子に向けていた怨念のすべてを被ってしまい、瘴気に呑まれてほとんど鬼化しかけていた。
その呪詛を命がけで押さえ込んでくれたのが、白家で九尾の銀狐に過保護に庇護され、さらには溺愛されて育った幼い苺苺だった。
今も昔も、彼女は兄が数百年を生きる神獣だとは知らない様子であるが、あの日、力尽きて昏倒してしまった苺苺の記憶を封じたのは、宵世と同じく特異な存在である彼女の兄だ。
宵世は幼い紫淵が苺苺と過ごした日々の記憶を対価に、東八宮の地下に封じられた悪鬼の封印を再び強固なものにした。その際にほとんどの霊力を失うことになったのだが、後悔はしていない。
そして、静嘉に言われた通りに宵世は密約を交わしたのだ。
『ふたりに起きたことはすべて内密に』
『わかりました。ふたりは出会ってなど、いなかった』
……あれから九年。ひとつの九星が巡り、幼かった皇子も大人になった。けれど。
武芸に秀で、誰よりも冷酷な処断を指先ひとつで行えるようになった紫淵様が、また再び白蛇の娘に惹かれることになろうとは……。
宵世はかすかに眉を下げて、自らの主人を見つめる。
現在、紫淵の身に起きている怪異――性別が変わり、年齢も後退して幼女に変化するという怪異は、苺苺に封じてもらった悪鬼の怨念とは別ものだ。
建国時代から歴代の皇太子を蝕んできた呪詛で、皇太子が成人の儀を迎えるまでに命を落とすよう仕向けるためのもの。そのため起きる事象は大小さまざまで多岐に渡る。そして呪詛の発現は兆候にすぎず、年数を経て怪異に変わる。これが非常に厄介であった。
……だが、この世でもしも主人を怪異から救えるとしたら、それはきっと白蛇の娘だけ。
そう考えて、危ない橋を渡る決意をした。
紫淵と苺苺が再び出会うことで、悪鬼の封印が綻びるのではないかと懸念し、不安に思わないはずがなかった。
そして美しく可憐な少女に成長した苺苺が、歴代の白蛇の娘のように後宮だけでなく紫淵自身にも災いをもたらすのではと警戒していたわけだが――どうやら、どちらも杞憂だったようだ。
苺苺の人となりには、長い時間を生きた宵世にもどこか惹かれるものがある。
そんな彼女へ向ける主人の視線が過去見たこともないほど柔らかくて甘いものだから、宵世はなんとなくイライラしてきて、『はいはい、末永く爆発しろ』と作り笑顔を浮かべながら紫淵を見送ったのだった。
◇◇◇
翌朝。苺苺が目を覚ますと、紅玉宮の木蘭の寝室にいた。
窓紗が掛かった格子窓からは薄く陽が差し込んできている。
上半身を起こして見回すと、大きな寝台の真ん中ほどで眠っていたらしい自分とは遠いところに、小さく蹲るように眠っている木蘭の姿があった。
(あんなところに木蘭様がっ! 寝台から落ちなくてよかったです……!)
苺苺は抜き足差し足で寝台から降りて、寝ぼけたままあくびをする。
(それにしても、ふわわわ……。昨晩は天藍宮に行ったような気がしたのですが、夢だったのでしょうか? なんだか紫淵殿下と言い合いをして、宵世様から美味しいお茶を勧められたような……?)
「ん、苺苺。起きたのか……?」
んんん、と小さく唸りながら木蘭は寝ぼけ目をこすった。
「おはようございます、木蘭様。お支度をお呼びいたしますね」
「ああ」
苺苺が扉の閂を外して、部屋の外にいる女官に声をかける。
その姿を木蘭は寝台に座ったまま眺めながら、小さな指先で、眉間にできた幼い顔に似合わぬシワを揉む。
「くそっ。不眠症が解消されたと思ったらすぐ眠く……っ」
――結局、一晩中ここで佩剣し犯人を待ち構えていた紫淵だったが、犯人は現れなかった。
あやかしを使役するのなら夜が一番霊力が強まる。
だが、それを押してでも、木蘭を〝異能の巫女〟から切り離したところを狙いたいのだろう。
自分の手を汚さぬために、ギリギリまで粘って仕組んだ美雀を使った策略が潰えというのに、決して勇み足になったりはしない。
時間が押し迫った分、彼女は木蘭を確実に仕留めたいのだ。
『……頃合いか』
紫淵は周囲の気配を探り、長い前髪を搔き上げる。
そろそろ女官たちが起き出す時間だ。今から数刻は安全だろう。
そうして朝陽が昇る前に天藍宮に戻り、紫淵の寝台でぐっすりと眠っていた苺苺を抱き上げて、この部屋へ連れて帰ってきていた。
しかし、朝陽が昇り木蘭の姿になった途端、壮絶な眠気が襲ってきて、ついつい一瞬で意識が飛んでしまっていた。
やはりこの身体は不便だと、こんな非常時にはことさらに実感する。
そんなことを木蘭が思考していると、部屋の扉の外から入室の許可を求める声がしたのちに、彼女がしずしずといつもと変わらぬ様子で綺麗な礼を取る。
「おはようございます、木蘭様。朝のお支度をお手伝いいたします」
「おはよう。頼む」
決して仮面を剥がすことなく貞淑に振る舞い、慎重に一歩一歩確実に詰めていく姿勢は実に見事。
――やはり紅玉宮の筆頭女官に相応しく、肝が座っていてぶれないな。
木蘭は朱家の娘らしい完璧な所作の礼を取る若麗を前にして、すっと冷たく目を細めた。
身支度を整えたあとは、紅玉宮の広間でいつもの朝餉だ。
しかし今回は給仕を行う女官の顔ぶれが違った。苺苺はぱちくりと瞬きをする。
「若麗様が朝餉の席にいらっしゃるのは珍しいですね」
大きな深皿から、海老や貝柱の出汁で作られた豆漿粥をお玉で掬った紅玉宮の筆頭女官に、配膳されるのを待っている苺苺はお行儀よく話しかける。
「昨日の事件の混乱であちらこちらの仕事が滞っておりますので、私がお手伝いに加わったんです」
「そうなのですか。お忙しい中、ご準備していただきありがとうございます」
「いいえ、滅相もございません。私どもは紅玉宮の女官ですから、木蘭様と苺苺様が健やかにお過ごしいただけるように尽くすのが使命ですので、どうかお気になさらずに」
若麗は頼りになるお姉さんらしい優しげな笑顔を作る。
そんな会話の最中も他の女官たちが次々に料理をよそい給仕をしてくれているが、どこか皆元気がない。
木蘭はそんな様子を見るに見かねて、「配膳を終えた料理から下げるように」と言う。
「今日の朝餉は苺苺と妾のふたりでとることにする。皆、早めに朝餉を食べて休み時間をとるように」
そう告げて、広間から早々に女官たちを退出させることにした。
侍女見習いの立場にある年若い中級女官たちは、料理の乗った皿を持って木蘭と苺苺に礼をすると急いで踵を返し、
「わあ、豪華な朝餉だわ」
「木蘭様が私たちの心を気遣ってくださったのですね」
「見て、紅棗と枸杞子がこんなにたくさんっ」
「豆漿粥の色合いってなんだか白蛇妃様みたいでお洒落よね? 美容に良さそう」
「私、この海老の小籠包が食べたいわ! それからこっちの〜」
などと口々に喋りながら嬉しそうに広間を出て、女官たちの私室がある棟に向かって行った。
「若麗も皆と一緒に朝餉を食べに行ってくれ」
「ですが」
「幾つだと思っているんだ。妾とて、朝餉くらい食べられる」
木蘭は栗鼠のごとく頬を膨らませる。
(はわわわっ! 朝からなんて貴重な! 栗鼠ちゃん姿の木蘭様、かわゆいです!!!! 次のぬい様は栗鼠ちゃん姿にしましょう……っ! ぬい様と栗鼠ちゃん様、それから寝衣のあやかしちゃん姿のねむねむ様、きっと並べたら壮観に違いありません……!)
苺苺は両頬を押さえて、めろめろになる。
そんな紅玉宮の妃二人の様子に、若麗は「ふふっ」と吹き出すように微笑んでから、「わかりました」と折れた様子で頷く。
「では先に、本日のご連絡をお伝えいたしますね」
「うむ」
「徳姫様が主催のお茶会は、未の刻までにお集まりをとのことでした。場所は金緑宮ではなく、鏡花泉の東の四阿だそうです。お手土産はどうなさいますか?」
「どうせ次の選妃姫の腹の探り合いをする茶会だ、徳姫が喜びそうな茶菓子でいいだろう。朱州の桃花月餅はどうだ?」
桃花月餅とは朱州の銘菓で、桃花の塩漬けを練りこんで作る、鮮やかな桃色をした月餅だ。
「良いご判断だと思います。それでは準備が整い次第、お支度のお手伝いに参ります」
若麗はそう言って礼を取ると、しずしずと広間を辞した。
「さすが木蘭様ですっ! 姚家の姫君であらせられる徳姫様は『探春の宴』で桜花舞を披露されていましたから、『月日が移ろった今でも徳姫様の優美さを忘れることは誰もできません』と、桃花月餅でお伝えなさるのですね! きっと徳姫様や徳姫様推しの女官の皆様も、お喜びになると思います」
「そうだな」
つんと澄ました顔で木蘭はそう言って、豆漿粥の器を手に取る。
茶会に呼ばれた妃たちは、茶会の主催者、そして時には参加した妃たちに手土産を配る。
それには血筋による家格を示したり、妃としての階級と威厳を知らしめたり、時に皇太子の寵愛を匂わせて他妃を牽制し、はたまた配下として庇護を仰ぎたいと擦り寄ったりと、ひとつの品に様々な思惑が複雑に絡ませてある。
その思惑を正しく読み取るのもまた後宮妃の生きるすべ。
足元をすくわれぬよう、本当の心を隠し、自分の意のままに操れる者こそが強者として君臨できる。
木蘭が今回の土産に選んだのは玉でも反物でもなく、ただの茶菓子だ。
貴姫として、決して徳姫にへりくだる品じゃない。
だが、茶会の主催者は必ず気を良くする。他の妃たちも、最上級妃が贈った土産に滲ませた年上の妃への羨望に警戒心をおさめる。
表面上は穏やか笑顔を絶やさず、『次の選妃姫では自分こそが一番に選ばれるはずだ』と、腹の中では強い自信に酔うだろう。
それこそが木蘭の狙いであった。
茶会に集った誰もが、自分自身を過信し、――最下級妃の白蛇妃の存在を忘れてしまえばいい。
「ふふふっ。噂をすれば桃花月餅です」
苺苺が円卓の上にそっと並べていた〝龍血の銘々皿〟に現れた、呪毒の宿る茶菓子もどきへ手を伸ばす。
「朝餉の時間にお茶菓子が出るのは初めてですね」
「……朝餉の時間まで悪いな」
「いいえ! わたくし、木蘭様のためなら悪意も美味しくいただきますっ」
そう言って、苺苺は「いただきます。はむっ、んんん……! おいひいです〜〜〜!!」といつものように極上の茶菓子を味わう様子で頬を緩ませながら、呪毒を食べた。
皇太子宮の宦官や女官たちが、なんの後ろ盾もないのに白蛇妃に嫌がらせをしたり、与えられる褒賞や下賜品を横領したりできるはずがない。
彼らの後ろには妃の存在がある。
白蛇妃に罪をなすりつけて、自分たちを正当化したあと、上手に庇いだてしてくれる妃がいるのだ。
だからこそ、紫淵は思う。今に見ているがいい、と。
俺がただひとり、どこまでも甘やかし尽くして幸せにしてやりたいと願うのは、この能天気な『白蛇の娘』。
――白苺苺だけだ、と。
頬を高揚させて美味しそうに呪毒を頬張る苺苺を眺めながら、愛らしい幼妃は策士な笑みを浮かべた。
◇◇◇
朝餉を終えてしばし歓談した後は、木蘭の寝室の隣にある私室へ場所を移した。
ここは本殿に造られたいわゆる書斎にあたり、立派な格子窓からは壺庭が望める。
(銀花亭の白木蓮はそろそろ終盤に入る頃ですが、紅玉宮の紫木蓮の花はあとひと月は見頃でしょう。窓を開けているので芳しい香りがしますね。木蘭様の香り、というかどちらかというと紫淵殿下の香りを思い出すような気も?)
厳粛な気高さを思わせる優雅な花の香りと、その深層で香る蜜の甘い匂いは、天藍宮で焚かれていた香炉から漂っていた匂いにも似ている。
(そういえば、こちらの書斎の調度品の配置も、紫淵殿下の執務室に似ていますね)
ぼんやりと昨夜のことを思い出していた苺苺はふとそんなことを考えながら、壺庭の紫木蓮の手入れをする木蘭を愛でながら刺繍を楽しむ。
本日は茶会の予定もあるので、木蘭の手習いはすべて休みだ。
なので苺苺はこうして、できるだけ木蘭のそばにつきっきりで過ごす。
苺苺の腰掛ける椅子の前にある茶机には、たくさんのぬい様が入った藤蔓籠が置かれており、その向かい側の長椅子には、めいっぱい陣取った白蛇ちゃんたちが朗らかな顔で鎮座している。
いざという時のための準備も万端だった。
「……木蘭様、苺苺様。怡君でございます」
扉の外から入室の許可を得る声が掛かる。
「どうぞお入りください」
壺庭にいた木蘭の代わりに苺苺が答えると、女官用の普段着ではなく正装した怡君が、「失礼いたします」と部屋に入ってきた。
木蘭もそれに気がつき、室内に入る。
「木蘭様、そろそろお召し替えのお時間でございます。どうぞお支度部屋へ」
「わかった。支度は怡君が手伝ってくれるのか?」
「私と春燕と鈴鹿がお手伝い致しますよ。若麗様は最終確認を終え次第、こちらに」
「そうか。それじゃあ苺苺、ここで好きに過ごしていてくれ」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ、木蘭様」
「ああ、行ってくる」
書斎から出て行く木蘭と怡君を、苺苺は穏やかに見送る。
木蘭の衣裳がずらりと並ぶ支度部屋は本殿内にあり、この書斎とも近いので、もしあやかしが出てもすぐに助けに行けるだろう。
(本日もお茶会のお呼ばれはありませんので、わたくしは個人的に、あくまで私用で鏡花泉の東の四阿へお散歩に行かせていただきましょう!)
決定的な瞬間を押さえるためには、付かず離れずの距離感も必要なのだ。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
手元の絹布に通していた〝白蛇の鱗針〟を引っ張り、図案の裏側で針目に糸を何度もくぐらせて絡めると、きゅっと針を引っ張ってから糸を丁寧に鋏で切った。
それからほどなくして、書斎の扉の向こうから再び入室許可を求める声が響いた。
苺苺が「どうぞ」と促すと、「失礼いたします」と怡君と同じく女官の正装に身を包んだ若麗が入ってくる。
今日の若麗はとびきり綺麗であった。
(朱家の三の姫であることを忘れさせない凛とした立ち振る舞い、そして紅玉宮の筆頭女官として貴姫である木蘭様を引き立てるお衣裳と髪飾り選び……。お見事です)
もし彼女の前に木蘭が立っておらず、後ろに怡君と春燕、鈴鹿が並んでいたら、清楚な朱家の妃に見えるかもしれない。
けれど幼くとも覇気のある木蘭という存在が、彼女たちを最上級妃の上級女官として正しくまとめ上げていた。
(もしもここが皇帝陛下の納められている後宮であったならば、若麗様は今宵、女官から一夜にして寵妃になられるでしょう)
そう思わせるほどの嫋やかさが、今日の若麗からは見え隠れしていた。
「出発の挨拶に参りました。私どもは木蘭様とご一緒いたしますので、なにかご不便がおありでしたら、他の女官たちにお申し付けくださいね」
「わかりましたわ。わたくし〝異能の巫女〟とは名ばかりで、あやかし退治もできていない居候ですのに、細やかなお気遣いをいただきましてありがとうございます」
「いいえ、そんなにご謙遜なさらないでください。苺苺様がいらしてから、木蘭様の笑顔が増えて、紅玉宮が明るくなりました。今までの木蘭様はしかめっ面で、なんでもひとりでおやりになることが多かったですが、今は苺苺様に甘えられたりと……ふふっ、年齢相応で。ご成長が楽しみです」
「かわゆい木蘭様は無敵ですっ。本日のお茶会でも、木蘭様が元気で健やかにお過ごしになれるよう願いながら刺繍をしつつ、こちらでお留守番をしていますね」
「お願いいたします。それでは」
若麗が腰を折って挨拶をし、踵を返して……肩越しに振り向く。
「あの、木蘭様のお部屋に、昨夜は紫淵様がいらしたのですか?」
「はい?」
苺苺は突然の質問にきょとんとした。
若麗は身体を苺苺に向けなおし、頬を染める。
「紅玉宮の閂は閉まっていたはずですが、まさかお忍びで? 美雀の起こした事件の調査でいらしたのでしょうか? 紅玉宮の筆頭女官として、紫淵様をお出迎えできず申し訳なかったです」
熱くなった頬に片手を添えて隠した若麗は、恋慕の情を抱える姫のような表情で黒い瞳を潤ませた。
(し、紫淵殿下ッ!! なぜかわかりませんが若麗様にはほとんどバレてますっ!!)
ギクリと顔を強張らせた苺苺は『とにかく上手に言い訳をしないと!』と、胸の前で両手をぶんぶんを横に振る。
「いっいいえ! 来られては、いませんでしたね?」
「ですが苺苺様から紫淵様の焚かれる香の匂いがかすかに……。御髪でしょうか?」
「ええっ!? そんな匂いが!?」
すんすんと自分自身を匂ってみるが、わからない。
「あっ! 木蘭様の寝台で、一緒に寝させていただいたからでしょうか!? それとも、こちらのお部屋も木蓮の香りでいっぱいですし、その香りでしょうかっ!?」
(紫淵殿下のお部屋の香りと似ていますし、この言い訳で押し通すしかありませんっ)
「あの、若麗様? どうかしまし――」
苺苺があたふたと言い訳をしていると、若麗の真っ黒な双眸がすっと温度をなくす。
そして紅を引いた口元に、不気味な弧を描いた。
その瞬間。
――ザクッ! ザクザクザクザクザクッ!
長椅子の上にあった白蛇ちゃんたちが、刃物で斬りつけられたかのように、次々と腹を裂かれていく。
一瞬にしてすべての白蛇ちゃんが無残な姿に成り果たその刹那、若麗の周囲にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
若麗は今しがた起こった怪奇現象に目もくれず、余裕のある笑みを浮かべる。
「私、ずっと苺苺様が羨ましかったんです。最下級妃でも妃は妃ですから。……けれど、それもきっと今夜まで」
ひらひら、ひらひら。
若麗の周りを不気味に彩るように、燐光を撒き散らすどす黒い呪妖が踊る。
あの時の……呪詛に近い黒い胡蝶が、今にも苺苺に襲いかかろうとせんとさざめいた。
「そろそろお茶会の時間ですね。私はこれで失礼いたします」
「はい。木蘭様をよろしくお願いいたします」
呆気にとられた苺苺は、小刻みに震える手を悟られぬよう気丈に振る舞い、挑戦的な笑顔を浮かべながらそう返答するので精一杯だった。
若麗が退出した部屋で、無意識に詰めていた息をふうっと短く吐く。
(美雀さんの呪妖と比較すると、まさに育ちきったという表現がふさわしい姿でした。美雀さんの呪妖が蛹から孵ったばかりの蝶なら、若麗様のは……豊富な呪毒を含んだ霊気という〝蜜〟を吸い尽くして育った胡蝶の女王)
「――呪詛になる前に、決着をつけなくてはいけませんね」
苺苺は静かに決意を固める。
椅子から立ち上がると、長椅子に横たわるズタボロになった白蛇ちゃん抱き枕をそっと手に取った。
「うううっ、今夜はお別れ会です……っ。のちほど宵世様からありったけの爆竹をお借りましょう。ばばばーんと白蛇ちゃんたちの無念を晴らさなければ……」
苺苺はえぐえぐと涙を流しながら、「悲しいです」と腹綿の出た白蛇ちゃんに頬ずりした。
部屋の中に散り散りになった白蛇ちゃんたちを一箇所に集め、飛び散った腹綿の回収を終えた苺苺は、「これでよしっ」と額を拭う。
(そろそろ鏡花泉へ向かいましょう。木蘭様は、そろそろ金緑宮を過ぎたあたりでしょうか?)
苺苺はたくさんのぬい様を入れた藤蔓の籠を手に持つ。
上級妃は御輿に乗り、それを宦官に担がせ、周囲に女官を侍らせてて移動することも多いが、小さな空間内ではいざという時に逃げ場を失う。そのため木蘭は、『今回は徒歩で向かう』と話していた。
紅玉宮は後宮の入り口のそばである、もっとも天藍宮に近い場所にある。鏡花泉はその真反対で、皇太子宮の最奥。水星宮の近くだ。
まっすぐ一本道の大通りを通っても、木蘭の幼い足ではかなりの時間がかかる。
(鏡花泉に到着なさる前に追いつけたらよいのですが。近くまでは走って、こそっと身を隠しましょう)
考えつつ、苺苺は書斎を出て、本殿の扉を開こうとする。だが、しかし。
「えっ、ええっ? ……――扉が開きませんッ!」
ガタガタと揺らしてみても、扉はびくともしない。
扉の内側の閂はかけられていない。となると。
「外から鍵を!? あわわわわ、まさか閉じ込められてしまうとは……!!」
苺苺は顔を蒼白にして打ちひしがれる。
「なぜ気がつかなかったのでしょうか……。きっと若麗様が出発を告げにきた後に、本殿からお人払いをなさったのですわ……!」
(木蘭様やわたくしに悟られぬよう、内密に女官の皆さんたちへ指示を出されていたのですね)
この時間ならば本殿で掃除をしている中級女官たちも、いつのまにかいなくなっている。
朝餉のこともある。彼女たちは若麗から『今日は掃除を早めに切り上げて休憩をとってほしいと、木蘭様からの伝言よ』と聞いて、掃除を中断して外から鍵をかけたのかもしれない。
白蛇妃はすでに外出したとか、別棟の自室で休んでいるとか、言い訳はどうにでもなる。
「……こ、こうなったら窓から出ましょう!」
苺苺はパタパタと走って自分が出られそうな大きな窓を探そうとする。
が、どの部屋の扉も錠前がかけてあり、鍵が閉まっていた。
「な、な、な。全部だめだなんて〜〜〜っ! さすがは紅玉宮の防犯意識です……!」
仕方ないので廊下の小窓の鍵を開けて、「どなたかいらっしゃいませんかーっ!」と力いっぱい叫んでみるも、外には人っ子ひとりいる様子がない。
「もしかして……皆さん、お出かけに……?」
(ありえます。昨日の今日ですし、若麗様が突然『お休み』を言い渡されて……お茶菓子を詰めて、後宮内のどこかに遊びに行かれたのやも……! どうしましょう、この調子では紅玉宮の門も外側から錠前がかかっているはずですっ)
残すは書斎しかない。
苺苺は急いで襦裙の裾をひるがえし、本殿の奥へと引きかえす。
「きっと壺庭からなら……!」
壺庭に面する床から天井までの大きな格子窓は、引き戸になっていて庭に出ることができる。
(高い塀に囲まれてはいるものの、その壺庭をぐるりと回れば、本殿の二階に続く階段があります。楼榭から屋根に降り立って、それで、そこから……どうにかなるでしょうかぁぁぁ!?)
屋根の上なんか歩いた経験もない。
「ううっ、いまさらですが、練習しておくべきでしたッ」
苺苺は急いで壺庭を出て、真っ白な髪をなびかせながら中庭を走る。真珠色のそれは陽の光を浴びてきらきらときらめいて美しいが、反対に表情は『あわわわわ』と聞こえてきそうな必死な形相をしていた、
大袖を翻しながら階段を登って、楼榭の上を走り、苺苺は二階の欄干に勢いよく両手で捕まる。
「ど、どなたか、いらっしゃいませんか〜〜〜っ」
最後の足掻きに叫んで、ぐっと唇を噛み締める。
(これはもう、屋根に降りて、どうにかして紅玉宮の塀に飛び移るしかありません)
「木蘭様の命をお助けするために、わたくしはここに来たのです。屋根くらい……塀くらい越えられなくてどうしますかっ! 女は度胸ですっ! いきますよっ」
苺苺は欄干の前から一度大きく下がってから、呼吸を整え、助走をつける。
「いっ、せー、のー、せいっ!」
そして勢いよく欄干を飛び越え、そのまま屋根の黄瑠璃瓦の上を全速力で駆けた。
まるで鳥になったような気分だ。今ならなんだってできる気がする。
(本殿の屋根から一番近い塀瓦の上に飛び移れたら、こちらのものです! あとは紅玉宮の外に降り立って、全速力で――)
「あっ!!」
つるっと、瓦の上で足が滑った。
今ならなんだってできる、だなんて強めの錯覚に過ぎなかったらしい。
ひやりと五臓六腑が浮かぶ感覚がする。
「おっ、落ち――っ! …………ない?」
「はぁぁぁ。あなたって本当に世話が焼けますね」
苺苺は、いつのまにか宵世の腕の中にいた。どうやら屋根の上から落ちそうになっていたところを、抱きとめられたらしい。
状況を理解して、苺苺は頭上に疑問符を浮かべる。
「へ? 宵世様? どうしてこちらに?」
「あなたが鏡花泉に現れないからですよ。仕方がないから様子を見に来たんです。そしたら屋根から滑り落ちそうなあなたを見つけたので」
宵世は苺苺を横抱きにして、軽々と跳躍し、紅玉宮の塀を越える。
そしてそのまま、人気のない屋根瓦の上を物凄い速さで走り出した。
「ひ、ひえぇ。早すぎです、宵世様っ」
「口、開けてたら舌を噛みます。閉じてください」
「は、はいっ」
「犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいとは言いましたが、ここまで離れた別行動は望んでません。茶会はもう始まっている頃です。まったく、紅玉宮に閉じ込められるなんて。どれだけ鈍臭いんだか」
「すみません……」
「あなたは木蘭様のあやかし避けなんですから、現場にいてもらわないと困るんです。しっかり〝異能の巫女〟してくださいよ」
「すみません……」
「…………まあ、閉じ込められたくらいでよかったですよ。怪我はないですか」
宵世はばつが悪そうにそう言って、ちらりと苺苺を見下ろす。
その目元はうっすらと紅色に染まっている。
けれどビュンビュンと吹き抜ける風圧で目が開けられなかった苺苺は、毒舌宦官の言葉に打ちひしがれたまま、「ないですッ! お助けくださりありがとうございます!」と力の限り叫んだ。
(それにしても、さすが東宮補佐官様です。とっても身軽で運動神経も良いのですね。紫淵殿下も足音がしませんし、皇太子殿下とその右腕は、これほどの妙技を持っていなくては危険なのやも……!)
明らかに人間業とは思えない宵世の移動方法に対し、苺苺はただただ羨望の眼差しを向ける。
「……なんですか、その目は。そろそろ鏡花泉の東に着きますよ。自分の足で走る準備しててください」
「はい」
苺苺がひとつ頷くと、宵世は水星宮の塀の屋根から降り立ち林の中を駆け抜ける。
宵世が大きな木の太い枝を飛び移って移動していくうちに、苺苺の目にも拓けた場所にある四阿が見えた。
四阿では華やかに着飾った七人の妃が、様々な表情でお茶や点心を楽しんでいる。
選妃姫の課題である『香包』について、各々の解釈や進行状況、完成品の程度の予測を言葉巧みに聞き出しているのだろう。
その周囲には正装した女官が総勢四十人ほどいるだろうか。
朗らかに見える七妃たちのおしゃべりの裏で、女官たちは互いを牽制しあっている様子だ。
その時。
宵世と苺苺は視界の端に、牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫が四肢を躍動させ、猛突進している姿を捉えた。
その首に靡くのは音の鳴らない鈴付きの、純白の披帛。
「あれは!」
「猫魈様です!」
あやかしの急襲に気がついた女官たちが、「きゃあああ!」「あやかしよ!」「逃げて!」と甲高い悲鳴をあげ、逃げ惑い、その場は阿鼻叫喚となった。
猫魈は「シャァァァアアア!」と咆哮し一直線に木蘭を目指す。
木蘭の後ろで控えていた怡君と春燕、鈴鹿が可哀想なくらいガタガタと震えて顔面を蒼白にしながら、木蘭を守るようにして腕を広げて、前に出た。
騒然としたその場に降り立った宵世の腕から、苺苺は弾かれるように飛び出す。
そのまま木蘭の前に躍り出て、そして、
「猫魈様!」
と苺苺は腹の底から大きく叫んだ。
ぴくりと耳を動かした猫魈の双眸と、苺苺の瞳がかちあう。
牙を剥いた猫魈の開いていた瞳孔が針のように細くなった。
迷いなく後脚に力を込めた猫魈は、大きく躍動し、苺苺へと飛びかかる。
「シャァァァァッ!」
「苺苺――!」
木蘭の切羽詰まった叫び声が猫魈の咆哮と重なる。
獅子ほどの巨体が苺苺に突進するかと思われた、その時――。
「にゃーんっ」
「あうっ」
猫魈が苺苺の肩に両前脚をかけ、勢いよく押し倒した。
苺苺はごちんと地面で頭を打って、思わず舌を噛む。
大きな姿の猫魈はとたんに子猫ほどの大きさになると、ぺろぺろと苺苺の頬を舐めた。どうやら妖術を使ったらしい。
「にゃぁぁぁん」
「ああ、猫魈様……。そうだったのですね。またお大変なめに……!」
苺苺は地べたにペタリと座り込むと、子猫になった猫魈を手の中でよしよしと撫でる。
猫魈の話から推察するに、猫魈はまた名が刻まれた式符で道術を使われ、後宮内に顕現されてしまったようだ。
しかし苺苺がくれた友情の証のおかげで、道士に意識までは操られずに済んだらしい。
『木蘭を喰い殺せ』と再び命じられたが、寸前まで使役の術にかかったふりをして、木蘭を安全なところへ連れ去ったうえで苺苺が来るのを待つ気でいたとか。
「あやかしに喰い殺せと命じるなんて、非道な女官だ」
「へ? すみません、宵世様。今なんと?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
猫魈を抱き上げる苺苺の隣に、眉根を寄せながら立った宵世が首を横に振る。
その宵世がどこぞへ合図を送ると、隠れていたらしい青衛禁軍に属する東宮侍衛の武官たちが、四方八方を取り囲んだ。
「四半刻ほど前、『あやかしが後宮内に侵入した』との報告を受け――、あやかしを退ける力を持つ〝異能の巫女〟として紅玉宮預かりになっていた白蛇妃を伴い、巡回していた最中でした。あやかしを引き入れた首謀者を炙り出すため、ご報告が遅れましたこと誠に申し訳ございません」
宵世はまったく申し訳なさそうではない顔で淡々と口にすると、
「貴姫様、淑姫様、徳姫様、賢姫様、令儀様、芙容様、彩媛様、お怪我はございませんでしたか」
とこれまた淡々と言う。
墨をこぼしたような黒髪美青年を前に、妃たちは頬を赤らめてふるふると小さく首を振る。
あやかしに阿鼻叫喚だった女官たちも、見目麗しいと女官や宦官たちに人気の高い宵世の登場で、悲鳴を黄色い声に変えていた。
今まで張り詰めていた緊張の糸が緩む。
だがしかし、誰もが白蛇妃への感謝など抱かずにいるようだった。
宵世の脇に歩み立った木蘭が、周囲を見渡してから、最上級妃らしく背筋をぴんと伸ばして叫ぶ。
「皇太子宮に侵入したあやかしは、『白蛇の娘』が弱体化した。皆の命を救わんと、命懸けでこの場に駆けつけた白蛇妃に、すべからく叩頭せよ!」
そんな木蘭の言葉を聞き最初に反応を示したのは、一番背の高い中性的な容貌の美姫、碧家出身の淑姫だった。
「感謝いたします、白蛇妃」
彼女は美しく丁寧な所作でもって叩頭する。
その凜とした声に、我に返った五妃たちはどこか不満そうに戸惑った表情を浮かべながらも、「感謝いたします」と淑姫に続くようにして叩頭した。
女官たちもそれに習い、続々と皆が叩頭していく。
苺苺はその光景にびくりと肩を揺らして、猫魈を抱きしめる。
「ど、どうぞ皆様、頭をお上げください」
後宮に来てからというもの、見知らぬ妃や女官たちに嫌われることは幾度もあったが、感謝されることなどあっただろうか。
(木蘭様暗殺阻止のために駆けつけたのですが、まさかこんな風に皆様にお礼を言われるだなんて)
「事件が起きる前に駆けつけることができて、よかったです」
照れくさい気持ちではにかみながら、苺苺は微笑みを浮かべた。
「……東宮補佐官殿、この場の指揮を頼めるか」
「御意」
木蘭に代わって、怖い表情をした宵世が前に出る。
「朱若麗を捕縛せよ」
「……っ!」
黒い胡蝶が舞う中、若麗は東宮侍衛長によって捕縛された。
◇◇◇
茶会は中止になり、集った妃たちはその場で解散となった。
宵世の采配で青衛禁軍の東宮侍衛がそれぞれ彼女たちの護衛に付き、各々の宮へと帰路につく。
捕縛された『木蘭暗殺未遂事件』を起こした犯人、朱若麗は、朱家次期当主の三の姫という立場から、紅玉宮で取り調べが行われることと決まった。
場所を移した一行は、紅玉宮にある木蘭の私室に向かう。
入室可能な関係者は限定され、木蘭、宵世、東宮侍衛長、そして若麗となった。
「木蘭を三度も暗殺しようなんて。馬鹿な真似をしたなぁ、若麗? 木蘭は俺たち朱家の宝だったんじゃねーの?」
この垂れ目の東宮侍衛長こそが、紫淵のもうひとりの腹心。
木蘭が白州を訪れた際に、木蘭の後ろに控えていたあの般若護衛。齢十九になる朱家当主が次男、零理であった。
朱皇后陛下の随分歳の離れた弟君にあたり、紫淵とはそれこそ赤子の時からの幼馴染になる。
そして零理にとって、若麗は血の繋がった姪に当たった。だが彼は、両膝で跪かせた若麗の首に、長剣の刃先を戸惑いもなく向ける。
しかし、若麗は「誤解です」と静かに首を振った。
「木蘭様、私はあやかしとなにも関係ありません。一体なぜ、私があやかしを使役するのですか? それに木蘭様を暗殺しようだなんて、理由がありません……!」
「野苺の葉茶の有毒性について、自然な会話を装って美雀に吹き込んだのはお前だな?」
木蘭の言葉に、若麗ははっと息をのむ。
「美雀が春燕に抱く劣等感を感じ取り、うまく煽って操作したんだろう? 春燕はちょうど苺苺を紅玉宮預かりにしたことに反発し、事あるごとに意見していた」
そんな春燕を紅玉宮の中で孤立させようと、美雀が他の女官たちに、
『春燕は悪口が多くて意地悪なところがあるの。昔から私も、姐姐には虐められてきたわ』
と喋って裏から根回ししていたというのは、美雀が捕まった後に女官たちから聞いた話だ。
美雀はその劣等感を、いつしか木蘭や苺苺にまで向けるようになっていた。
「春燕を評価する妃が邪魔だと、憎しみを抱くようになっていた美雀に毒のことを話せば、春燕を紅玉宮から追放するために行動に移すと理解していたのだろう?」
「そんな、ことは……」
「一度、猫魈を使った妾の暗殺に失敗していた若麗のことだ。自分の手を汚さずに妾を暗殺できる方法を考えて、美雀が事を起こしてくれるのを待った。違うか?」
美雀は春燕が事件を起こしたことにし、紅玉宮を追放されたらいいと考えた。
木蘭と苺苺を暗殺できるかどうかはどうでも良かった。
ただ春燕が被る罪の大きさが、大きければ大きいほどいいと考えていたのだ。
計画が失敗したら、野苺の葉茶を作った張本人である苺苺に罪を被せられるし、逃げ場は十分にある。
「お前の計画では、あの時ついでに苺苺も糾弾して追放するはずが……とんだ失敗だったな」
木蘭が鼻であざ笑うと、若麗は顔色を変えてギリっと奥歯を噛み締めた。
「美雀の計画が上手くいけば、『犯人である春燕は白蛇妃に毒された』だの、『やはり白蛇の娘が紅玉宮に不幸をもたらす』だのと言って追い出す予定だったんだろう? あやかしを紅玉宮に引き入れるには、〝異能の巫女〟が邪魔だからな」
「選妃姫が始まって今日で九十九日目です。それで悲願を成就するために、邪魔で邪魔で仕方がなかった白蛇妃を、今日はまんまと紅玉宮に閉じ込めた。なぜあなたは、木蘭様を暗殺してまで――紅玉宮の妃になりたかったんですか?」
木蘭の言葉を引き継ぎ、木蘭を守るようにして立つ宵世が言う。
「……紅玉宮の、妃、ですか? うふふっ。まあ、皆様。どうしてそんな突拍子もないお話になるんです?」
「筆頭女官なら、妾を暗殺する手段も機会も、いくらでもあったはずだ。だがそれをせず、あやかしを使役し……美雀を使うという回りくどく足のつかない方法を選んでいた。それは自分の手を汚さず綺麗なままでいることによって、皇太子の前で後ろ暗いことのない妃になりたかったから。間違っているか?」
本日の若麗がまとっているのはそのための衣裳、そのための化粧だ。
「猫魈が妾を襲おうとした時……若麗、お前だけが妾を守ろうとはしなかった。どうせ逃げおおせて、妾があやかしに殺された不幸の理由を歴史上の『白蛇の娘』に重ね、苺苺を罪人に仕立て上げる予定だったんだろう?」
「うふふっ。木蘭様は幼くていらっしゃるのに、想像力が豊かですのね」
「あいにく、見た目通りの年齢ではないからな」
木蘭はやれやれと肩をすくめると、紫水晶の大きな瞳で若麗をすっと冷たく見据える。
「百日以内に妃のいなくなった紅玉宮に君臨するのは、朱木蘭の血筋に連なる――朱若麗。お前だ。……さて。ここまで来て、言い逃れは無駄だぞ。もう逃げ場はない」
木蘭は上座にあたる椅子に座り、肘掛の上で頬杖をついた。
「鏡花泉の東の四阿付近の竹林で、宦官の詰所から昨晩盗まれた封籠が見つかった。……若麗、猫魈を従妖にした際の式符を持っているな? 出せ」
「………っ」
ぎりいっと奥歯を噛み締めた若麗は、本当にもう言い逃れができないのだと悟った。
悪態を吐き、言葉の限り暴言をわめき散らしたいのをぐっと我慢しながら、胸元から式符を取り出す。
道術を力を込めて作られた白い式符には【招来猫魈】と書いてある。
それを宵世が受け取った。
「これはどこで手に入れた?」
木蘭が問いかける。
「……西八宮である女官から……目くらましの霊符と合わせて、金品と交換をしました。彼女は以前、西八宮に来ていた異国の宮市で買ったそうです。道術も彼女から基礎を教わりました。ですが、彼女は……不治の病に侵されていたため先日亡くなっています」
「そうか」
神妙な顔で木蘭は頷く。
「若麗。お前の処罰は後宮からの追放、そして朱家での生涯に渡る禁足だ。またいかなる理由があろうとも、燐華城に立ち入ることは禁じる。燐華城内に足を踏み入れた瞬間、死罪を覚悟しろ」
「……そんな――ッ!」
「すべて未遂に終わったからこそ、情けをかけてやった。苺苺もお前の死罪は望まないだろう」
「……情け? うふふっ、幼児からの情けなんて、そんなのいらないわ! あなたが現れなければ、私が選妃姫に臨めたの。それなのに、選妃姫に臨めない私をお父様は自分の地位を固めるためだけに、皇帝陛下に嫁選びに参加させた。……ねえ、知っていて? ふふっ、皇帝陛下に見染められたら、私は紫淵様の義理の母になるんですって。そんなの、そんなの耐えられない……!!!!」
ねえ、義理の母なのよ? と若麗は目を見開き、何が面白いのか狂ったように笑う。
「そんなの、そんなの耐えられないわ……。だから西八宮で、ずっと復讐の方法を考えていたの。……うふふっ、だからあなたの女官になれると聞いた時、救われたのだと思った」
若麗はうっそりと嗤う。
若麗は幼い頃から、宮廷行事の際にひっそりと姿を現す紫淵に恋心を抱いていた。
悪鬼面をかぶり決して顔を見せない彼に惹かれたのは、その洗練された所作と、美しい紺青の黒髪、そして凛々しい立ち姿、なによりも氷のような冷たさを帯びる甘い声だったかもしれない。
祖父や父が招かれた宮廷行事がある際には、二人に何度も頼み込んで、次期当主の三の姫という立場で顔を出した。
いつか彼と一言でも話せますように。
そしてお顔を拝見できますように。
そう願いながら。
十三歳のある日、招かれた宮廷行事の際に道に迷った。しかも、絶対に入ってはいけないと言われていた皇帝陛下の後宮に迷い込むなんて。絶対に処罰される。帰宅は絶望的だと思った。
そんな時、幼い若麗に救いの手が差し伸べられる。見知った影を見つけたのだ。
『零理お兄様!』
若麗は走って、彼らを追いかけた。
そして禁足地で見つけたのだ。叔父の零理と、――紺青の黒髪が煌めく絶世の美少年を。
彼が紫淵様だ。
若麗にはすぐにわかった。
絶世の美少年は若麗を認めると、ふいっと顔をそらす。そして零理に何事かを耳打ちして、零理と一緒に後宮から外に出してくれた。
会話はなかった。だが視線は交わった。
その日の若麗の心臓は、人生で一番ドキドキしていたかもしれない。
その日の夜、事のあらましを聞いた父が言った。
『皇太子宮の封が解かれたら、お前は慣例に従い皇太子妃になる。朱家の血筋の家格が合う娘はお前しかいないからな』
あの美しい紫淵様の妃に、私が……?
若麗はその日から、一生懸命に妃教育に励んだ。
紫淵の隣で見つめ合い、手を繋ぎ、愛し合うのを夢見ながら。
しかし、現実はどうだろう。
伯母の縁者にあっさり朱家の姫の座を奪われ、皇帝の後宮に放りこまれた。
皇后陛下の女官として後宮で日々を生きる中、じくじくと木蘭への憎しみが疼き、胸を侵食して止まらなかった。
幼妃が捨て置かれていれば、まだ憎しみの溜飲が下がったかもしれない。
だが紫淵の寵愛を一身に受けていたのは、この後宮で一番憎悪を向ける相手――木蘭だった。
「筆頭女官としてあなたに尽くしていたら、あなたがいなくなったあとに紫淵様から寵愛を受けられると思っていたのに……絶対に許さないわ、朱木蘭! 私の紫淵様を返して……ッ」
若麗が素早く頭に刺していた簪を抜き、その鋭い切っ先を木蘭へ向けて立ち上がる。
だがその四肢を、宵世の隠し持っていた暗器――赤い紐のついた双剣の縄鏢が一瞬にして縛り上げた。次の瞬間には、零理の長剣の刃が彼女の薄い腹に当てられる。
「……――ッ!」
「これだから後宮の女は嫌になる」
腹心の臣下への信頼からか命の危機にも動じず、若麗に冷めきった目を向けていた木蘭は、「そろそろ頃合いだな」と言うと、座っていた椅子から立ち上がった。
若麗がこの部屋に入る前に、手伝いも呼ばずに召し替えたのだろう。先ほどまで身に纏っていた茶会向けの衣裳から、いつのまにか濃紫の深衣を身にまとっていた木蘭は、長すぎる裾を引きずりながら歩く。
ほら、ひとりで着替えもできない幼な子のくせに。
そう思っていた矢先、奇怪なことが起きた。
目の前にいた美幼女が、不敵な笑みを浮かべたまま大人になり、そして――。
「勝手に恋心を抱かれて、殺されかけては迷惑だ。恥を知れ」
「あ、ああ……そんな……。そんな、木蘭様が……紫淵様だなんて……!」
若麗は絶望感に苛まれながら、静かに一筋の涙を流した。
子猫になった猫魈を抱いた苺苺はそわそわと、紅玉宮の本殿の廊下を行ったり来たりしていた。
若麗の沙汰が言い渡されるまでの間に、もし若麗の悪意が呪詛に変わったらどうしようかと思っていたのだ。
「破魔の術を込めて作った紫淵殿下用の深衣は、効果があったでしょうか」
「にゃぁん」
最初は大好きな木蘭のために作りたいと思ってい破魔の衣裳たが、『大は小を兼ねる』と紫淵に言われてしぶしぶ大きい衣を縫った。
木蘭の形代のぬい様もばっちり用意しているので大丈夫だとは思うが、『若麗様の悪意による白蛇ちゃん惨殺事件』には流石に鳥肌がたったものだ。
けれど夜の帳が下りてしばらく経った頃、木蘭の部屋から宵世と零理に脇を固められた若麗が出てきた。
(ど、どういうことでしょうか? 木蘭様はご無事で……!?)
苺苺は三人に駆け寄って、「木蘭様は?」と切羽詰まった表情で尋ねる。
しかし零理は『気やすく喋りかんけんな』と般若の顔をしただけで、宵世は「諸事情で籠城するそうです」と淡々と言った。
「お元気でしたら良かったです。それでは、若麗様をお見送りに来られないのですか?」
「ええ。紅玉宮での夕餉はいらないそうですので、白蛇妃様が女官たちに伝えておいてください。今夜の紅玉宮の指揮は全て白蛇妃様にお任せされるそうです」
「わかりましたわ。……あっ。でしたら宵世様、今晩は爆竹の許可をいただきたいのですが」
「あなた阿呆ですか? 許可するわけないでしょうが。よそでやってください。いや、よそでも駄目です」
宵世に怒られた苺苺はしゅんとしながら頷き、ちらりと憔悴しきった若麗を見やる。
筆頭女官の若麗は、すでに彼女の瞳の中にはいなかった。
「あの……若麗様。わたくし、若麗様から木蘭様のこれまでの日常をお聞きするのが、とっても楽しくて至福の時でした。そのお返しと言いますか、ぜひとも木蘭様の良いところをたくさん知っていただきたくて。こちらをご用意させていただきました」
苺苺は頬を染めつつ、大袖からそっと真新しい紐閉じの書物を取り出す。
「……こちらは?」
「はいっ! 木蘭様と若麗様の素敵な日常や、かわゆいやりとりなどを日記形式でまとめさせていただいきました! これを読んだらきっと若麗様も、木蘭様の至高の尊さがわかると思うのですっ」
木蘭様の尊さをいっぱい綴った『木蘭様日記』です! と苺苺はぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む。
「……そうね。今となっては、お慕いしていた方との大切な日々だったわ」
若麗は涙ぐみながら、苺苺から渡された日記をぱらぱらとめくる。
そこにはなんてことのない日常の風景があった。しっかりと覚えているやりとりもあるし、木蘭の笑顔や、風景や、匂いまで鮮明に思い出せる一幕もあった。
あんなに憎しみを抱いていたのに、今はどこか懐かしい。
なによりも心の奥底から湧き上がる熱が、木蘭の周囲を輝かしくきらめかせて……――尊くて、切なくて、愛おしく感じられた。
「……きっとこんなあなただから、木蘭様も心を開かれたのね」
「へ?」
「猫魈も、ごめんなさい。許されないことをしたわ」
「しゃぁぁあ」
「わわっ、猫魈様!」
苺苺は腕の中で暴れ出した三毛猫をわたわたと抱きなおす。
子猫姿の猫魈は小さな牙を剥くと、若麗の指先を噛んだ。
若麗は驚いて、今にも泣きだしそうな笑みをこぼしながら、猫魈を撫でようとしていた手を引っ込める。
「……やっぱり私、あなたが羨ましいわ。苺苺。――選妃姫、絶対に負けないでちょうだいね」
若麗は物腰柔らかく、姉のような親しみやすささえ感じられる、優しい微笑みを浮かべた。
「……はい! 選妃姫でもしっかり木蘭様をお守りできるよう、全身全霊をかけて挑ませていただきますわ!」
こうして無事、苺々よって木蘭沼に沈められた若麗は、紫淵の命により後宮を去ることになったのだった。
◇◇◇
そうして――選妃姫の当日がやってきた。
恐ろしい女官の脅威も去り、夜警から解放された苺苺は、毎日ぐっすりスヤスヤと水星宮に運び込まれたふかふかの布団に包まれて眠っていた。
木蘭の命を狙う存在がいなくなった今、紅玉宮を辞して水星宮に帰って来ていたのだ。
「にゃーん?」
「おはようございます、猫魈様。んん、良い朝ですね〜〜〜」
若麗から従妖の契約を解かれた猫魈の主人は、苺苺へと書き換わった。ふたりは種族を越えた友人として、今は一緒に水星宮に住んでいる。
(まさかお部屋の調度品を一新していただけるとは思ってもみませんでした。紫淵殿下、太っ腹です)
そんな紫淵はといえば、苺苺が紅玉宮を辞すのを最後まで嫌がった。
そして最後には『こうなったら水星宮を建てなおす!』と言い張ったが、時々互いに通って茶会や夕餉を共にするという話で折り合いがついた。
さらに水星宮の簡素だった調度品は、紫淵の希望ですべて天藍宮並みの豪華な品々に取り替えられることに。
おかげで水星宮は以前より瀟洒な意匠の調度品に溢れ、小さくとも素敵な隠れ家風になっていた。
「まさかこんなに、自慢するところしかないお部屋になるだなんて……。ぎゅぎゅっと全てが整えられた単身者向け一室住居(風呂、御手洗完備、厨房無し)の水星宮、おそるべしですっ」
「にゃうん」
(早く木蘭様をご招待したいですわね。どんな反応をなさるでしょうか? 想像するだけで、ふふっ、幸せな気持ちになります)
そんなことを考えながら、「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」と調子の外れた鼻歌交じりに寝台を整える。
小さな子猫姿の猫魈も、三尾のしっぽをフリフリしながら前脚で念入りにもふもふの顔をを洗った。
ふたりで朝餉を食べ、香包の最終準備を行い、そうして――夕方に差し掛かった頃。
なにやら扉の外が騒がしくなる。
「白蛇娘娘、春燕と鈴鹿なのです」
「ちゃんと生きてる? 失礼するわよ」
「はいっ。どうぞ、お入りください」
苺苺が返答すると、がらりと扉が開く。
「お久しぶりでございますなのです。お支度をお手伝いするのです」
紅玉宮は木蘭付きの女官、侍女頭補佐となった春燕と第参席となった鈴鹿が、上級女官に相応しい正装をした姿で、不釣り合いなほど大きな葛籠の箱を抱えて入ってきた。
きょとんとした苺苺は、紅珊瑚の瞳をぱちぱちと瞬かせて丸くする。
なにせ、苺苺にとってびっくりするようなことが起きた。
紅玉宮に〝異能の巫女〟として住まわせてもううようになってから、朝の身支度や髪結いはすべてひとりで行ってきた。それは水星宮で当たり前にやっていたので、このふたりの女官の手を煩わせるまでもないと思って遠慮していたからだ。
そして水星宮に戻った今、身支度を自分で整えるのは至極当たり前のことだった。それが、二人の女官が手伝ってくれると言い出したのだ。
「おふたりとも、本日は木蘭様のお支度でお忙しいですよね? そんな、わたくしまでお気になさらずに結構ですよ。本日も自分で――」
「いいから、ここに座って。香油の好き嫌いはある? お化粧の色味の好き嫌いは?」
葛籠の箱をいろいろと広げながら、春燕が言う。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして。好き嫌いはないですよ」
「好き嫌いがないなんてことはないでしょ? 木蘭様の次に目立たなきゃいけないんだからしっかりしてよ」
「ふふっ。春燕さんと鈴鹿さんに初めて整えてもらうのですから、どんなものでも嬉しいです」
「……馬鹿ね」
春燕は顔を真っ赤にしてふいっとそっぽを向く。
「春燕、照れてるのです」
「照れてな、く、は、ないわよ」
いつものやりとりが、尻すぼみになっていく。
苺苺は賑やかなふたりのやりとりに、幸せな気持ちになって「ふふふっ」と桃色に頬を染めた。
そして葛籠の中に入っていた大袖を手に取り、目を丸くする。
「わあ……! こちらのお衣裳、上質な絹の白地に紫銀糸の刺繍だなんて」
「そちらは白蛇娘娘へ、皇太子殿下からの贈り物なのです」
「木蘭様のところに届いたのよ。きっとこの間の、暗殺未遂事件から木蘭様を助けた褒賞だわ」
「そうなのですか。はわわ、着るのがもったいないくらい素敵ですね」
「もったいなくなんかないわ! ばしっと着こなしちゃって、木蘭様の隣で二番目に目立ってよねっ!」
そう言って春燕は「打倒六妃!」と拳を突きあげた。
今回の選妃姫は、珍しく夜間に行われることとなっていた。
御花園に作られた天幕の張られた会場は、三方向からならどこからでも観覧できる。
普段は後宮内の秘匿された会場で行われるため、このような形で開催される選妃姫は非常に珍しく、周囲には皇太子殿下やその妃たちを一目見ようと、後宮中の女官や宦官たちが集まっていた。
「選妃姫が夜に行われるのは油桐花が降るからかしら? ああ、こんな素敵な夜に、淑姫様の凛とした姿が見れるだなんて」
「満点の星空と立夏雪が一番似合うのは徳姫様よ。見て、あの可憐な様子」
「賢姫様の天女のような声が夜の帳を揺らす瞬間は、きっと誰もが感嘆のため息をつかずにはいられないわ。皇太子殿下から『百花瓏玉』を下賜されるのは賢姫様ね」
「まあ、間違ってもあの幼な子や白蛇妃ではないわ」
「この間はちょっと、その、助けられたけれど。それとこれとは話が違うんだから!」
それぞれの推しを称えてクスクスと笑う女官たちの話し声が、彼女たちにほど近い末席に座す苺苺に聞こえていないはずがない。
だが、しかし。
(立夏雪の中の木蘭様の一挙手一投足、いいえ! 衣のはためきまでも見逃しはしません!)
と、燃える苺苺の耳には、女官たちの悪意のこもった話し声などまったく入っていなかった。
(それにしても木蘭様はいらっしゃいませんね……。お支度が遅れていらっしゃるのでしょうか? 春燕さんと鈴鹿さんの手をわたくしが借りてしまったからですわっ。心配です……!)
特別なおめかしをした苺苺の後ろには、なんと春燕と鈴鹿が控えている。
審査員席には皇后陛下、四夫人、そして司会進行役の東宮補佐官である宵世がいる。
会場の向こうには、特別な場合にしか後宮内に入ることのできない青衛禁軍に属する零理が率いる東宮侍衛たちが警護に当たっていた。
「――ただいまより、選妃姫を開始いたします」
宵世の声でわっと会場が華やぐ。
そして天幕の裏から、この国の次期皇帝である皇太子、紫淵が姿を現した。
まさか本当に皇太子が現れるとは思っていなかった会場の人々は、さらに悪鬼面をつけていないその美貌にどよめき、のちに静まり返る。
審査員席に座す人間以外は皆、紫淵にひれ伏した。
「面を上げよ」
夜の静けさに低く冷たい声音が響く。
(木蘭様……っ! ああ、立夏雪とかわゆい木蘭様の共演がぁぁぁ)
苺苺は木蘭の欠席を悟り、がくりとうなだれた。
そうこうしているうちに、『八華八姫』の姫君たちによる『端午節の香包』のお披露目が始まった。
一番手は最上級妃の木蘭だったが、病欠のため、筆頭女官となった怡君が代理人として作品を上座に座す紫淵へと披露する。それはちょっと糸がよれている、木蓮風の花があしらわれた香包だった。
それに続いて淑姫、徳姫、賢姫、と作品のお披露目と謂われの説明を行う。
紫淵は誰に声を掛けることもなく、そして誰の香包も受け取らなかった。
そうして……ようやく最後に、最下級妃の白蛇を冠する苺苺の番が巡ってくる。
苺苺は末席から立ち上がると、白蛇妃付きの侍女として控える春燕と鈴鹿とともに前へ出た。
「皇太子殿下に拝謁いたします。白蛇妃、苺苺でございます」
「ああ。君を待っていた」
紫淵は初めて、進行のためではない応えを返す。
苺苺は紅珊瑚の瞳をぱちくりとして、紫淵を見上げた。
「恐悦至極に存じます。わたくしが『端午節の香包』として、紫淵殿下にお贈りしたいとご用意いたしましたのは、こちらでございます」
「それは…………ぬいぐるみ?」
「はいっ! 紫淵殿下を模して製作したぬい様でございます!」
苺苺が元気よく伝える。
香包にしては大きく、そして奇をてらいすぎた形を見て、会場中がざわざわとどよめいた。
「衣裳には五色の糸を使用し、破魔の紋様と健康を願う意匠の刺繍を施させていただきました。中にはお忙しい毎日でもぐっすり眠れるよう、安眠用の生薬を詰めてあります。抱き枕としてお使いください」
「……ふっ。くくく、さすが苺苺。面白いものを作ってきたな」
そっと甘さを含んだ優しい声音でそう言うと、紫淵はふわりと微笑んだ。
彼は鷹揚に上座から立ち上がると、苺苺の目の前までやってくる。そして。
「君には、これからも俺のそばにいてほしい」
紫淵は懐から一本の簪を取り出すと、苺苺の綺麗に結い上げられた真珠色の髪に刺した。
「あ、ああ、あれって……希少な琅玕翡翠で作られてるっていう、『紫翡翠の牡丹瓏花』!?」
「さ、さ、最高位の『百花瓏玉』なのです――!」
白蛇妃付きとして後ろに控えていた春燕と鈴鹿が「わああ」っと喜び、ぎゅっと手を取り合う。
苺苺は驚きに見開いた目を丸めて、たった今下賜された最高位の『百花瓏玉』にそっと手を触れた。
「――白蛇妃、白苺苺の香包をもって選妃姫を終了とする!」
紫淵の冷たく玲瓏な声が、後宮に高らかに響いた。
◇◇◇
それからのことは、『白家白蛇伝』に書き加えられた、新たな物語より知ることができる。
白蛇の娘の異能によって、皇太子は少しずつ、本来の姿に戻る時間が増えていくようになった。
その間も後宮では様々な事件が起きたが、そのたびに白蛇の娘は持ち前の明るさと元気で切り抜け、そして人々は次々に白蛇の娘の真実の姿を知ることとなる。
そうして、二年の月日が経ち――皇太子が成人の儀を迎え、悪鬼の呪詛による怪異が完全に解けた頃。
八華八姫の慣例に従い官名を賜っていた姫たちは、皇太子によってそれぞれ名のある臣下に下賜され、皇太子宮はひとつの宮を残して封じられた。
後の世に紫淵皇帝陛下が溺愛し庇護する〝唯一の寵妃〟となったのは、紅玉宮を与えられた白蛇の娘。
紫淵皇帝陛下を献身的に支えた〝聡明な皇后〟と多くの女官や宦官に推され、慕われた白蛇妃――白苺苺である。
〈完〉
苺苺が紫淵から最高位の百花瓏玉を賜った、七日後――。
燐華城の後宮内には〝宮市〟が来ており、各州随一の商店たちが数多の露店を広げて賑わいを見せていた。
紅玉宮の筆頭女官である怡君、そして春燕と鈴鹿を従えた木蘭は、宮市の大通りを胸を張って練り歩く。
そんな木蘭の隣で、苺苺は紅珊瑚の双眸で露店をくまなく見回しながら、「これが宮市……!」ときらきらと瞳を輝かせていた。
どこを見渡しても上等な天幕が掛かった露天が広がり、一級品の織物や宝石が並んでいる。
(はわわわ、なんとご立派な品々でしょうか……! 国宝を手がける職人の皆様もいらっしゃっているとか。まさに燐華国を表す宝物殿のようですわ! ひと目見ただけでも、最下級妃のわたくしにはまったく手が届かない商品だとわかりますっ)
そんな国宝級の品々が並ぶ商店の商品棚には、ところどころ空白がある。
ということは、誰かがこの最高級品を購入したのだろう。
(もしや紅玉宮の女官の皆様が噂されていた、かの貴妃様の……?)
女官や宦官が噂を広めているのか、すでに皇帝が治める後宮の西八宮に住まう貴妃が、
『夜光貝の螺鈿と純金の截金で仕上げた最高級の付け爪を、職人の言い値で購入したらしい』
と話題になっていた。
(その価値は、どうやら王都に邸をひとつ構えられるほどだというのだから驚きですっ)
宮市に訪れる順位は西八宮からとなる。
というわけで、苺苺と木蘭が宮市に訪れたのは、西八宮の妃嬪たちが宮市を訪れ、東八宮までその噂が回ってくるほどの日数を経た後であった。
「それにしても、初めてのまるで王都の街並みが突然現れたかのような錯覚に陥ります。ここが後宮の正門の前だなんて」
「奇術のように見えるか?」
木蘭は「ふふん」と得意げな様子で、隣に立つ苺苺を見上げる。
この宮市の開催に際して、木蘭も皇太子の最上級妃として意見した立場らしい。
「はい。おっかなびっくりと言いますか、幻術を見ている気分です。どこもかしこも活気もありますし、商店の品揃えも豊富で……」
「今回の宮市は皇帝が呼んだものだ。西八宮の妃嬪が中心で呼ぶこともあるが、やはり比べるとその差は歴然だな」
後宮では時に皇帝や妃嬪、時に皇子や公主が主催者となり宮市を呼ぶ。
その意図は、例えば慈善事業や勤労感謝のためであったり、権力や財力を知らしめるためであったり。時には自分より地位の高い妃への贈り物として、彼女の思い出深い街並みを再現することもある。
だが逆に、他州出身の妃嬪を貶めるような意図を含んだ宮市が行われることもあったりと……開催理由は実に多岐に渡った。
此度の宮市は、皇帝陛下が八華八姫の慣習に則り入宮した皇太子妃たちを祝すという名目で、八華への労いを込めて開かれたもの。
なので、各州から分け隔てなく衣裳や織物、宝飾品、陶磁器、仏具、茶葉や菓子など多岐にわたる分野で随一の有名専門店が集っていた。
皇后や四夫人にしか手の届かないような品から、中級妃、下級妃、そして後宮を支える女官たちにも手が届くような品を置いている露店もある。
だからと言って粗悪品というわけではなく、値段に応じた上等な品ばかりなのだから、その賑わいはまるで宴の様相を呈していた。
「王都を含んだ九つの州の最高峰が、ここに集ったんだ。きっと燐華国のどこを探しても、ここより素晴らしい街並みはないだろう」
「はぁぁ。確かに、わたくしの人生の中で見た一番賑やかな街並みやもしれません。初めての宮市、恐るべしです」
「妾もいつか、苺苺のためだけに宮市を呼ぼう」
「ええっ!? 木蘭様がわたくしのためにですか!?」
「ああ。期待していてくれ。皇太子宮に、世界中から苺苺のために腕利きの職人を呼んで、様々な技法の刺繍が施された品々を買い付けよう。それから燐華国では見たこともない茶菓子も取り寄せさせる」
木蘭は襦裙の大袖で口元をちょこんと隠しながら、上目遣いで可憐な微笑みを見せる。
(あああ、木蘭様がかわゆすぎます……っ!!)
苺苺の高鳴る胸は、その微笑みにずきゅんと撃ち抜かれる。
「木蘭様が好きすぎて語彙が溶けます……っ。この溢れる想いを、わたくしはどうしたらいいのでしょうか……っ」
まさか心の中で叫んだ言葉が声に出ているだなんて気づきもしない苺苺は、頬を真っ赤に染めて、とろけるような笑みを浮かべながら円扇で目元の下までを隠す。
それを直視した皇太子である紫淵は――堪えるようにして、きゅっと唇を噛み締める。
「ありがとうございます、木蘭様。ですがそんな壮大なことをなさらなくても、わたくしは木蘭様とずっと一緒です」
「……ああ」
それが木蘭に言われた言葉だとはわかっていながら、胸の奥底がぎゅっと締め付けられる思いがした。