「ううう……。酷いめにあいました……。わたくしをあやかしさんと勘違いされるだなんて、皇太子宮に上がって以来の大事件でした」
木蘭(ムーラン)様が傷ひとつ負っていないことだけが、不幸中の幸いです……)
 慌ただしくひっ捕らえられ、寒々しい狭小な地下牢に閉じ込められた苺苺は、敷物も敷かれていない冷たい石畳の床にぺとりと座り込んでため息をついた。
「にゃー」
「そうですわよね。あやかしにさんしては牙も爪も貧相、その通りです」
「にゃーお」
「ええ、あなたのおっしゃる通りですわ。妖術は使えませんので、ここから逃げるのは難しいかと。猫魈(ねこしょう)様はとってもお上手ですね」
 同じ牢に入れられた三尾の猫魈が、「ごろごろ」と得意げに喉を鳴らす。
 あの騒ぎの最中。苺苺の血で正気を取り戻した猫魈は、逃げ出そうと変化の妖術で小さくなったのだが、そのせいで逆に女官が持っていた鳥籠に押し込められていた。
(投獄されるおそれはあると予想はしていましたが……それにしてもまさか、人間用ではなくあやかしさん用の牢に投獄されるとは。しかも、猫魈様と一緒に)
 大きなあやかしでもあらかじめ封印を施してから投獄するためか、牢の床から天井までの高さは苺苺の背丈ほどしかない。
(太陽や月光が差し込む窓すらありません。逃走防止のためか地下牢らしさを醸し出す鉄格子もないですし……。まるで穴蔵のようです)
 苺苺が座ったら、あとは三毛猫が一匹、ぬい様を噛みながらゴロンとお腹を見せて寝転がれる程度の広さしかなかった。
 壁に視線を向けると、四方八方いたるところに、名のある道士や巫覡の書いた符が貼り付けてある。それが幾重にも重なり、天井まで覆っていた。
(紙質から見て、とても古い時代のものみたいですね) 
 同じような符が鳥籠にも貼り付けてあったし、あれも後宮に古くからあるあやかし捕り物用なのかもしれない。
 申し訳程度に灯された蝋燭にも、お経らしき文字が細かく彫られている。
 なんらかの血液を使っているのか、その文字は赤銅に色づいていた。
(きっと、高僧と呼ばれる方の作品なのでしょう。異能のせいか、揺れる炎からお経の文字が煙のように浮かんでは消えていくのが視えます。不思議です……)
 苺苺は一通り観察を終えると、刺繍を施した手巾(ハンカチ)を使って、先ほど自分で傷つけた手のひらの血を拭う。
 消毒薬はないので、せめて菌が入らないようにと、傷口に手巾を器用に巻きつけた。
 続いて簡易裁縫箱から針と糸を取り出す。
「猫魈様、少しだけぬい様を貸していただきますね。このままでは、お口を傷つけてしまいかねませんから」
 苺苺はズタボロになったぬい様をささっと繕い直して、猫魈に与える。
 ぬい様がお気に入りになったのか、猫魈は桃色の肉球をこちらへ伸ばす。そうして『はなさないぞ』とばかりに前脚で抱きしめた。
 木蘭を襲おうとしていた時は凶暴な獅子の風体をしていたけれども、今こうして苺苺の座る足元でググッと伸びをしながら綿が飛び出したズタボロのぬい様にじゃれついている様子は、普通の三毛猫にしか見えない。
 どうやらこれが、この猫魈の本来の気性らしかった。
(ふふっ。あやかしさんの持つ恐ろしさはどこに行ってしまったのでしょうか。もふもふの三毛猫のようで、かわゆいです)
 それからひとりと一匹は、何刻もの間、他愛のないお喋りをして過ごした。
 あやかしと会話したのは初体験だったが、『白蛇の娘』の異能には謎多き部分が多くある。
 そもそも悪意を視ることができる時点で不思議体質なのだ。あやかしと会話ができるくらいの能力で、今さら驚いたりはしない。
 猫魈自身もそうだ。人間と会話で思考や感情を伝達し合うのは生まれて初めてだった。
 だが、そんなことよりも。種族を超えた友人たり得る存在と、こんな場所で出会うことになった星の巡り合わせに、ふたりは互いに驚いていた。
「にゃう。にゃう、にゃあん」
「それは大変でしたね。道術で! この後宮には、そんな恐ろしい方がいらっしゃるのですね」
 話はどんどん盛り上がる。
 今の話題は互いの出身地の話から、どうしてここへ来たかに移っていた。
 ひとりと一匹が意気投合するのに、時間はかからなかったというわけである。
 猫魈の話によると、気がついたら住処にしていた山奥ではなく燐華城内にいたのだという。
 神ではなく、怪異に近いあやかしは食事を必要とするものも多い。
 猫魈も、ただの猫だった時と同じく食事が必要で、鼠や兎などの肉や、川魚を食べて生活していたらしい。
 ひとつ昔と違う点があるとすれば、あやかしになってからは人間用の食事も食べられるようになったことだろうか。
 しかし、後宮の中で見知らぬ女官により自由を奪われた猫魈は、極限まで食事を抜かれ、そのうえ『木蘭を狙え』と道術をかけられて、ついには正気を失ってしまったそうだ。
(城壁や城門には、古の時代よりあやかし避けが施されているはず。百歩譲って丑の刻ならまだしも、いくら道術を掛けられていたからとはいえ、真昼間からあやかしさんが一匹で侵入するなんて考えられません。その女官の方がなんらかの手引きしたのは確実でしょうね)
「にゃーお。にゃお、にゃおん」
 あの時、この人形は木蘭にしか見えなかった。木蘭を咬まなくて良かった、と猫魈は三又の尾を揺らした。
 どうやらぬい様は形代として、身代わりの役割をきっちり果たせたみたいだ。
(白蛇の娘に代々伝わる書物にあった、異能の血を用いる対処法をとっさに応用してみましたが、結果が出てよかったです)
 猫魈が「ごろごろ」と喉を鳴らす。
 そしてふと苺苺を見上げると、訴えかけるようにつぶらな瞳を潤ませた。
「にゃー……」
「今日は水すらも口にしていないだなんて、それは大変です!」
 猫だった時とは違い飢餓で死ぬことはないが、本来の自我を失いながら少しずつ怪異に堕ちていくのは確実である。
 今は異能の血を含んだぬい様のおかげで道術も解けて、正気も取り戻しているが、まずは食事をもりもり食べなくては始まらない。
「わたくしが保存の効くお茶菓子などを、袂に忍ばせていたら良かったのですが……。ううっ、すみません。後宮ではわたくしもお茶菓子を口にしたことがないのです」
(本来ならお茶の時刻になると茶菓子や点心、季節の水果(くだもの)なども届くと聞いていましたが、皇太子宮ではお取り扱いがないのかもしれません)
 皇帝陛下の後宮である『西八宮』を含んだ広大な敷地内で、過去に宮女をしていた経験がある実家の侍女から聞いていた〝点心(おやつ)の時間〟を、密かに心待ちにしていた苺苺だったが、朝餉と夕餉以外はお茶の一杯ですら運ばれてきた試しがない。
 苺苺の食事は決められた時刻に、下級妃用に決められた材料で作られた料理が、後宮の厨房を預かる尚食局から運ばれてくるだけだ。
(せめて夕餉の端にでも水果があれば、お庭で天日干しして保存食を作っていたのですが……)
 後宮での生活も二ヶ月を過ぎた今はもう諦めている。
(うむむ。いざという時のために野苺の苗をいただいていましたが、気候的な問題には抗えませんでした。お腹を空かせた友人に水果乾(ドライフルーツ)のお菓子ひとつも振る舞えぬとは。白苺苺、一生の不覚です)
 苺苺は両手を頬に手を当てて、きゅっと目を瞑りながら悔しがる。
 実のところ苺苺のおやつは毎日、宦官たちの腹の中に収まっている。時には朝餉や夕餉もつまみ食いされていて、他の下級妃より一品少ない。
 だが、そんな理不尽極まりない状況にあることを、王都から遠く離れた白州で純粋培養された彼女は、想像すらしていなかった。
 なので苺苺は、水星宮の庭でやっと実り始めた小ぶりの果実を想う。

 それは後宮に上がってすぐの、よく晴れた日だった。
 その日の苺苺は、選妃姫以来なかなか見かけることができずにいた木蘭を探して、皇帝陛下や妃嬪たちを楽しませるために後宮内に造られた壮大な庭園――〝御花園〟を訪れていた。
 ここでは庭師たちによって開花時期を計算され尽くされた百花が、季節ごとに咲き乱れている。
(まあ、あんなところに輝くばかりの蝋梅(ろうばい)が。あちらには玉梅(たまうめ)山茶花(さざんか)水仙(すいせん)も。雪中四友(せっちゅうしゆう)の光景とはまさにこのこと。さすがは後宮! 花の精のような木蘭様が雪中四友を愛でているお姿、ぜひ拝見したいですっ)
 妃嬪は通常女官を伴って散策するものだが、苺苺はひとりきり。
 そのためコソコソと陰口を叩いてはクスクス笑ったり、必要以上に恐ろしがる女官たちも多い。
 けれども『花の精の木蘭様』を探すのに忙しい苺苺は、紫木蓮が刺繍された円扇を手に持ってぴんと背筋を伸ばし、堂々とした面持ちで花々を愛でながら練り歩いていた。
 だからその日も、木蘭しか目に入らない苺苺の表情を曇らせる出来事などないかと思われた。
 が、しかし。
 とある宮女たちの仕打ちを目撃した途端、苺苺は顔を驚愕に染める。
『なんてご無体な仕打ちを……!』
 なんと、苺苺が一等大好きな水果である野苺が、目の前で無残にも〝雑草〟として処理されていたのだ。
 国一番の庭師たちによって厳しく管理され、日々手入れを施されているこの御花園において、花木の根元に生い茂る野苺は駆除すべき草扱いらしい。
 雑草抜きを命じられた宮女達が野苺を素手で引き抜いては、堆肥(たいひ)用の桶に投げ捨てていく光景に、苺苺は大きな衝撃を受けずにはいられなかった。
『あ、ああっ、自然の恵みである野苺を! そのまま食べても、干しても、煮込んでも美味しい魅惑の宝石を! 頑固にはびこる悪者扱いなさるのはあんまりです……っ』
(野苺は『白雪月餅(しらゆきげっぺい)』にするのが一等美味ですが、水果凍(フルーツゼリー)にしたり、お茶にしても美味しくいただけますのに……!)
 『白雪月餅』とは白州の伝統茶菓子だ。牛奶(ぎゅうにゅう)や砂糖を加えた餅の中に、野苺餡でくるんだ野苺の果実を入れて作る、白雪のような月餅である。
(もちもちとした弾力、ひんやりと心地よい冷たさ、そして優しい甘さの餡に、甘酸っぱいみずみずしい果実……っ。まさに今、口に含んだかのように鮮明に思い出せます)
 苺苺は両頬に手をあて、じゅわりと口内に広がる母特製の『白雪月餅』に思考を飛ばす。
 脳内では雪のごとく繊細な生地がもちもちと伸びて、のびて、のび〜て……ぱちんっ。
『はっ!』
 苺苺は弾かれたかのごとく戻ってきた思考に、頬の緩みを戻す。
(異国から白州にやってきた菓子職人によって根付いたお茶菓子ですので、王都の人々がその存在を知らないのも無理はありません。けれど皆様、野苺は染め物にも最適なのをご存知でしょうか!?)
 千切っては投げ、千切っては投げ、と大好物がぞんざいに扱われるさまを青ざめながら眺める。
(よく潰して、丁寧に濾して、色止めの酢を加えたら、布や糸が綺麗な真赭色や桃色に染まります。赤錆のついた鉄を加えた染料で染めますと、あら不思議。紫色に! 女官服や纏花(チャンファ)を作ったり、刺繍を刺したり……。組紐や房飾りを作るのもよさそうです。甘酸っぱい良い香りもほんのりと残りますし、この機会に皆様でぜひ染め物体験でも……っ)
『伝わってくださいまし、この熱き思い!』
 と、熱心に念じながら見つめていた苺苺を、宮女たちはヒソヒソと噂話をしながら顔を顰めて煙たがる。
 そんな中、苺苺の頭にはぴこんと名案が閃いた。
『そうですわ! わたくしも木蘭様ぬいぐるみのお衣裳に、野苺で染めた布や糸を使ってみたいです! 木蘭様の瞳の色も鮮やかに表現できそうですし、はぁぁ、きっとかわゆい仕上がりになりますわっ』
 頬に手を当てた苺苺の紅珊瑚の瞳がきらりと光る。
 推しへの愛がこもった布や糸を使ったら、木蘭に向けられた悪意を祓うのだって、今まで以上に力強くなりそうだ。
(なにより、自らの手で愛情をかけて育てた果実を使って、こだわりの染色を施した布や糸で木蘭様ぬいぐるみを製作できるだなんて、なんという贅沢の極み!)
 その工程を想像するだけで、木蘭様への熱き想いが溢れて胸がいっぱいになる。
『このまま雑草として堆肥になるのでしたら、わたくしがすべて根っこから引き抜いたところで、咎められたりはしないはずです。なによりもったいないですしね!』
 苺苺はさらなる推し活のため、野苺の苗を貰い受けに行くことを決意する。
 そうして、そのままの勢いで雑草抜きの宮女たちのもとへ突撃したのだった。
『すみません。お捨てになるのでしたら、そちらの野苺の苗をいくつかいただけませんか?』
 白蛇妃の突然の来訪に、宮女たちは嫌悪を隠さぬ忌避した様子で顔を見合わせた。
 そうして、礼も取らずにクスクスと笑い声を響かせる。
『申し訳ございません。下女の私どもに白蛇妃のお手伝いなど勤まりません』
『必要な雑草がございましたら、どうぞお好きに引き抜かれては?』
『雑草が欲しいだなんて、白蛇妃様は変わっておられますね』
 彼女たちは今しがた手で握りつぶしている野苺の苗並みに、苺苺をぞんざいに扱った。
 草抜きに命じられるのは、様々な雑事や洗濯を司る浣衣局(かんいきょく)の下女だ。
 妃嬪たちからは『懲罰房』とも呼ばれ、窃盗や悪事を働いた女官が堕とされることもある。
 そんな宮女たちが皇太子殿下の妃に対して随分な対応である。これが苺苺でなく他の妃であれば、彼女たちは揃って打ち首になっていてもおかしくない。
 けれども変わり者の苺苺は宮女を咎めることもなく、『まあ、そんな。好きに引き抜いていいのですか?』とホクホクの笑顔で道端にしゃがみ込む。
『〝どれがお好きな株かわからないので、好きに選り分けてください〟と言ってくださったのですよね? もとより自分で引っこ抜く予定でしたが、妃であるわたくしが道端にしゃがみやすいようにお言葉を選んでくださるだなんて、皆様がお優しくてよかったです』 
『は? いえ、私たちはそんな……』
『ご親切にありがとうございます!』
『いえ、親切ではなく……』
『ではでは、さっそくお言葉に甘えまして。じゃんじゃん行きますよー! はい、じゃーんっじゃんっ』
 苺苺は宮女たちの引きまくった視線を物ともせず、散歩用の大袖の襦裙(じゅくん)を土まみれにしながら、青々と葉が茂る『これぞ!』という野苺を選んで好きに引っこ抜きまくったのだった。

 結局その日は木蘭とは会えなかったのだが、代わりに水星宮の庭には小さな野苺畑ができた。
 と言っても、今残っているのは洗濯桶を代用して作った五株ほどの寄せ植えだけだが。
 農作物を自らの手で育てた経験がなかった苺苺は、実家の庭師の仕事を思い出しながら、せっせと野苺の株を庭土に植えてみたものの、土が痩せていたのと日当たりのせいで大半がやられてしまったのだ。
 最後まで残ったのは、室内観賞用にと、野苺の株を詰めて運んできた洗濯桶の中に御花園の土と一緒にそのまま植えていたものだった。
(やはり庭師が定期的に肥料が施されている栄養豊富な土は違いますね)
 そんな野苺桶は現在、収穫にはあと三日ほどかかりそう、というところである。
(水星宮が陽当たりがもう少し良ければ、今日この時、野苺の果乾(ドライフルーツ)菓子(のおかし)を猫魈様に楽しんでいただけましたのに)
「にゃー、にゃぁう」
「いいえ! お山に帰られる前に、やはりしっかりと食べなくては。……そうですわ! ここを出られたら、わたくしの住む水星宮にいらしてください。食事が届くはずですから、たらふく腹ごしらえをしてから出発なさっても遅くはないはずです」
「なう、なぁぁん」
「ふふ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。半分こいたしましょうね」
 苺苺は膝先にすり寄ってきた三毛猫にしか見えない猫魈に指先を優しく伸ばし、もふもふの顎を撫でる。
「それにしたって、こんなにかわゆい猫魈様を飢餓で苦しめたうえ、最上級妃である木蘭様を襲えと命じられるなんて……血も涙もない方ですわ。一体、どこのどなたなのでしょうか? お名前や特徴など、覚えておられることはありますか?」
 苺苺は猫魈の嫌な記憶を刺激しないよう、そっと尋ねる。
「にゃぁぁぁ」
「なるほど、道術での契約ですか……。猫魈様のお命に関わるため、お名前も特徴も言えないのですね」
「にゃー」
「大丈夫ですよ。恐ろしい女官の方が後宮に実在しているのだと、わたくしはちゃんと信じています。どうか猫魈様のお命を大事にしてください」
 猫魈は目を細めて安心した様子を見せる。
 そしてお気に入りのぬい様を噛み噛みしながら、苺苺の膝で丸くなった。
(もし……この投獄がその女官の方の手引きであれば、わたくしたちは証拠隠滅のために消されてしまうかもしれません)
 話がひと段落して静かになった獄中で、苺苺は猫魈と自分の今後の処遇について考え始める。
(木蘭様のお命も危険に晒されていますのに。こんなところで、わたくしがいなくなるわけには参りません。もちろん、恐ろしい女官の方に利用された猫魈様も)
 けれど、あやかし用の穴蔵のように暗い牢の中では、『弁明する余地もなく、もしやこのまま……?』と悪い方向に思いを巡らせてしまう。
 歴史上では『白蛇の娘』の出自を畏怖して、直接手を下す人間はいなかった。
 しかし猫魈を非道に操り、幼い木蘭をその牙に掛けようとした女官ならば、他の方法で手出ししてくる可能性も考えられなくはない。
「にゃ〜う」
「ううっ。慰めてくださってありがとうございます」
「にゃー」
「はぁぁ。猫魈様のもふもふで、疲れも吹っ飛びます……」
 ぐすっと涙を我慢しながら、苺苺は毛並みにそって猫魈の背を優しく撫でる。
 そうやって静かにひとりと一匹が心を交わしあっていると。
 石畳を蹴るように、カツンと靴の音がした。
 外が見えない牢の扉の向こう側で、なにやら数人の男性の喋り声が聞こえる。
 きっと宦官が沙汰を言い渡しに来たに違いない。
 苺苺と猫魈は揃って目を見合わせてから、不安げな表情で扉を見つめる。
 少ししてから、無遠慮に扉が開かれる。扉の前には、苺苺を捕らえた宦官とは別の宦官がいた。
「皇太子殿下の命により、白蛇妃を無罪とし釈放する。外へ出ろ」
「……ありがとうございます。あの、猫魈様は……?」
「あやかしは城外の道士に引き渡す予定である」
 宦官たちの悪い顔を見るに、酷い刑罰を与えるつもりだ。
(彼らのこの様子では、『猫魈様は本当は女官に操られていたのです』と伝えても、誰も取り合ってはくれないでしょう)
 こんなにも本質は優しく穏やかな猫魈を、友人を、苺苺は見捨てられるわけがなかった。
 苺苺は巻きつけた手巾に血が滲む手のひらを、決意とともにきゅっと握りしめる。
「そ、それでしたら猫魈様を、わたくしにいただけませんでしょうか」
「なんだと?」
「どうするつもりだ」
「わた、わたくしが……ばばばば罰を与えますわっ!! いいい怒りが、おさまりませんので!!」
 嘘をつけない性格である苺苺は、嘘がバレないように目を瞑る。
 そして慌てふためきながら、なんとか言葉を言い切った。
「罰だと? いったいどんな罰を下すというのだ」
「『白蛇(しろへび)の刑』です!!」
「し、白蛇の刑!?」
「そんな、白蛇の刑……だと……!?」
「なななんと恐ろしいことを考えるのだ!」
 苺苺の適当に思いついた出まかせに、宦官たちはそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「わ、わ、わかった。あやかしを『白蛇の刑』に処すことを許そう。籠をこちらへ……!」
 一番年上の宦官が、後ろに控えていた若い宦官に命じる。
「ありがとうございます」
 苺苺は符の付いた鳥籠を受け取ると、できるだけ邪悪に見えるように微笑みを浮かべる。
 その顔は、宦官たちをさらに震え上がらせた。


 ◇◇◇


 ――時は遡り、一刻前。
木蘭(ムーラン)()()()()()()()。明朝に木蘭が呼ぶまで、お前は自室へ退がるように」
「かしこまりました」
 貴姫(きき)・朱 木蘭の住む紅玉宮(こうぎょくきゅう)にて。
 龍を思わせる漆黒の角が生えた悪鬼の半面を被った美青年が、(ひざまず)く上級女官の横を通り過ぎた。
 紺青の黒髪を高い位置でひとつに結い上げ、紫を基調とした武官の衣裳を纏った長身の青年からは、微かに木蓮(もくれん)の花の匂いが香る。
 その腰に下げた長剣には、ひと目で皇帝の血筋であるとわかる意匠が施されていた。
 口元がさらけ出された仮面の下で、美貌の青年の唇が蠱惑的に微笑む。
 悪鬼の恨みで害されぬよう代々受け継がれている『悪鬼面』を被った彼こそ、この皇太子宮の主――病弱だという噂の皇帝の長子、(リン) 紫淵(シエン)であった。
 紫淵が訪れた際に上級女官の彼女以外はすでに下げられていたため、紅玉宮は静まりかえっている。
 なので紫淵は堂々と紅玉宮の敷地を出て、目的地に向かうために東八宮の中央に伸びる回廊へと向かった。
(……それにしてもおかしい。今日は久方ぶりに体調がいいな。あんなことがあった後だというのに)
 だるさや眠気はなく、いつもより身体が軽い。胸の痛みはあるが、歩けないほどではなかった。
(もしかして白蛇の娘の異能か?)
 不思議に思いながら東八宮の門の前まで行くと、守衛の宦官が紫淵の姿に驚き慄いた様子で跪いた。
 紫淵は眉ひとつ動かさず足早に門をくぐり、目的地である皇太子宮内の警備を担う宦官の詰所へと向かう。
 これ以上、彼女の身になにか起きる前に、事を済ませなくてはいけない。
「夜分にすまない。本日、白蛇妃を捕らえた宦官はいるか」
 詰所にいた宦官たちは、突然現れた皇太子殿下の姿に驚いた。
 彼がここへ来たのは初めてのことだ。
 噂によると皇太子殿下は昨年の暮れより体調を崩しがちになり、皇太子宮の封が解かれてからは、ほとんど床に伏していると聞く。
 今年の清明節では幼女に剣舞を舞わせたほどだ。
 政務の場に現れなくなったという噂は本当だろう。
 線が細く儚げな体つきは確かに脆弱そうで、日に当たっていない肌はどの宦官よりも白い。
 ――だが。
 長い脚を捌く彼の足取りは、手練れの武官のように……恐ろしいほど足音がしなかった。
 武官の衣裳を身につけているせいか、悪鬼面のせいか、冷厳な雰囲気に呑まれて背筋が凍る。
「聞いているのか。皇太子宮に現れたあやかしの件で、幾人かの宦官が白蛇妃を牢に入れたはずだ」
 (こうべ)を垂れて跪く宦官たちを前に、紫淵はやわらかな、慈悲深さすら感じられる声を出した。
「お、恐れながら、殿下。私どもにございます」
午の刻(正午頃)、鏡花泉の北の四阿にて、殿下の寵妃様を害そうとしたあやかし二匹を捕らえました」
「私が槍の柄で処罰いたしました」
「私は縄を掛けました」
「牢に封じたのは私でございます」
 よく肥えた五人の男たちが顔を上げ、我先にと自分の手柄を報告する。
「ほう?」
 紫淵は男たちの顔をひとりずつ、ゆっくりと見た。
 薄笑いを浮かべた男たちは玉のような汗をかき、甘露を待ち望むように締まりなく口を開いて、さらに言葉を募ろうとする。
 褒美だ。褒美がもらえる。
 他の宦官たちは五人の男たちを羨ましいとさえ感じていた。しかし。
「では、今名乗りを上げた者たちを捕らえよ。厳正なる判断をせず冤罪を押し付け、宦官ごときが私の妃に手を上げた罪は……極刑に値する」
 悪鬼の面の美丈夫は、すらりと長剣を抜いた。
「まさか、褒美がもらえるとでも思っていたか? ――侮るなよ」
 平伏したくなるような美声が、低く、冷酷無慈悲に告げる。
 ――悪鬼だ、と誰かが言った。