それもそのはず。白家の娘といえば『白蛇の娘』だ。
 そのうえ白家ではひとつの世にひとりの娘しか生まれないこともあり、家格を上げるために後宮へ娘を嫁がせる政略結婚には向いていない。
 現に、延峯(エンホウ)帝の治世から遡って三世代……約百年の間は、皇帝陛下の後宮に白蛇の名を冠する妃は冊封されていない。
 延峯帝の今代は娘に恵まれず、また八華八姫の勅命がなかったことから養女も取らずに済んだ。
 先代は選妃姫の最中に他の妃嬪に罪を被せられ自害。
 先々代は同じく罪を被せられ、皇太子から直々に流罪を言い渡され処刑されている。
 そして、それ以前の数百年間はどこまで遡っても、『白蛇の娘』の末路は同じだった。
 だからこそ、いつの時代も白家当主は愛おしみ育んだ『白蛇の娘』を、白家の威厳や繁栄のために手放したいなどとは考えていなかった。
 それは次期当主である苺苺の兄、静嘉もだ。
 静嘉は、尊い血筋にある幼姫の深い事情を察して、あえて何も言わずに『是』と頷いたのではない。
 経緯はどうあれ、最も尊き燐家の紋章を持ち出してまでも『白蛇の娘』に依頼をしたいのだという誠意と、最上級の礼儀をはらった木蘭に対し、信頼の証として快諾したのだ。
 苺苺を溺愛している兄は、優しい顔を浮かべながらも木蘭自身とその背後を容赦なく判定していた。
 しかし兄の思い妹知らず。
(やはりお兄様も、木蘭様の深いご事情を察されたのですね! 健気でかわゆく尊い存在であらせられる木蘭様を全力でお助けしたいお気持ち、手に取るようにわかりますわ!! やはり兄妹は似るものですのねっ)
 と、思いがけない場面で血は争えないと実感した苺苺はひそか照れつつ、兄への尊敬の念を強めていた。
「白家の姫君には代々異能が受け継がれると聞いた。妾にかけられた呪詛を至急解いてほしいのだが、できるだろうか」
 膝の上に置かれていた両手にぎゅっと力を入れて、唇をきゅっと結んだ木蘭は不安そうに尋ねる。
(こんなにお小さい頃から悪意を向けられているなんて……。きっと我が家へ来る決断をするまでも、必死に悩まれたはずです)
 藁にも縋る思いであることが如実にわかる木蘭の仕草に、苺苺は痛みでいっぱいになる胸を押さえる。
(王都から遥ばる白蛇の娘を頼っていらしたのですから、わたくしが絶対に呪詛を解いて差し上げなくては!)
「苺苺。この件は白家への勅命に値するんだ。頼めるかな」
「もちろんです、お兄様」
 苺苺は食い気味に「すぐに確認させていただきます」と身を乗り出す。
 そうしてすぐさま紅珊瑚の双眸に異能を集中させて木蘭を視た。だが。
「あら? あらあら? どうしてでしょう……?」
 悪意が呪靄(じゅあい)となったものも纏っておらず、呪詛の痕跡すらもない。
「な、んだ。なにが視えている……?」
「それが、なにも視えません。特に異状は見当たらないのです」
 燐家の木簡と印章を用いてまで白蛇の娘を頼ってやって来たのだから、彼女自身は呪詛を自覚しているはずだ。
 そして少なからず皇帝陛下や皇太子殿下も、その事象、または怪異を実際に確認していることになる。
(朱家のお血筋にありながら、あえて朱家当主の持つ印章を使用しなかったのだとしたら……)
 木蘭は確かに、朱家当主にも漏らせぬ国家機密に匹敵するほどの問題を抱えながら、苺苺のもとを訪れているのだ。
(きっと木蘭様のお命に関わるはずです。一度で視えぬからと諦めては駄目ですわ)
 苺苺はその後も何度も集中して挑戦してみる。
 が、何度試しても悪意の残滓すらも掴めない。
「……そうか。やはり、妾にかけられた呪詛は視えないのだな」
「ううう。お力になれず、大変申し訳ございません」
「頭を上げてくれ。そうかもしれないと思いながら、白家を訪ねた。世話になったな」
 結局、その時は呪詛の原因は視えず、なんの手助けもできずにお帰りいただくことになってしまった。
 そうして別れ際に、「差し出がましい真似だとは存じますが、呪詛の症状の詳細をお教えいただけませんか?」と木蘭へ問うたところ……。
「白家の姫君に原因と症状がわからないのなら、教えられることはない。妾のことは忘れてくれ」
 そう言われてしまったのだ。

(……木蘭様のお力になって差し上げたい。どうにかできないでしょうか)
 それから悶々と悩んでいるうちに、新年を迎えた。
 ほどなくして後宮の皇太子宮の封が解かれ、朱家からはあの幼い姫君が入宮すると風の噂で聞き及んだ苺苺は、『わたくしが木蘭様を後宮の悪意から守って差し上げなくては』と勇み馳せ参じたわけである。
(後宮は幼い木蘭様にとって、きっと魑魅魍魎の巣窟です。微力ではございますが、わたくし、全力を尽くして参りますわ)
 苺苺が全力で推し活に挑む中で、異能を使ってこっそり悪意を祓っていることは、今のところ誰にもバレていない。
 異能とはあやかしの力であると信じられている燐華国で、異能持ちは忌避される。
 ましてやあの白蛇の娘が異能を振るっているとバレてしまっては、事実を歪曲した噂が立ったりして、推しに迷惑をかけてしまう恐れもある。
 苺苺は胸の前で腕を引き、グッと握りこぶしを作る。
「推し活を嗜む者として、礼儀作法に則った推しとの距離感が大事ですものね。握手を求めるは『握手会』でのみ、ですわ」
 市井では、演劇一座が定期的に開く『握手会』と呼ばれる素敵な催しがあり、役者と一対一で向き合って、握手をしながら応援の言葉を伝えられるそうだ。
 その催し以外では、たとえば市中で休暇を楽しむ推しを見かけたとしても握手を求めたりせず、推しの憩いの時間の邪魔はしないとか。
 それに習って、苺苺も後宮内で木蘭を見かけた時は、適切な距離を取っている。
 決してすれ違いざまに無闇に近づいたり、間違っても話しかけたりなんかしないのだ。
「木蘭様と同じ後宮にいられるなんて、わたくしは世界一幸せ者です! ですからこの苺苺。草葉の陰……では死者になってしまいますわねっ。ありとあらゆる物陰に身を潜めながら、ひっそりと木蘭様をお支えさせていただく所存ですわ! 木蘭様の髪の毛をいただけなくても、それを補う量と時間(・・・・)で勝負させていただきます」
 苺苺はズタボロになった白蛇ちゃんを、いつも通り、棺にしている木箱に入れる。
 そして棚から新しい白蛇ちゃんを取り出すと、懐紙に包んで綺麗に束ねて保管していた白髪を一本仕込んで、
「さてと」
と気を取り直すことにした。
「せっかくの快晴ですし、ぬい様と日光浴をしましょう。お日様の陽の気で効果も倍増です。さ、行きましょうぬい様!」
 苺苺は藤蔓で編んだ籠にぬい様を入れ、意気揚々と水星宮を出た。


 ◇◇◇


 久しぶりの快晴だからだろう。外を歩いていると、風に乗ってどこからか女性たちの賑やかな声が聞こえてくる。
 水星宮にほど近い大きな池〝鏡花泉(きょうかせん)〟には、数隻の小船が浮かんでいた。
 どこぞの妃が、女官たちと水上の花や鯉を鑑賞しているのかもしれない。
 苺苺は散策しながら静かな場所を探す。
「あっ。ここなんか良さそうですね」
 誰もいない水辺の四阿(あずまや)を見つけた。黄瑠璃瓦の六角屋根と朱塗りの柱が色鮮やかな四阿には、ちょうどよく日光が差し込んでいる。
 苺苺は中へ入り長椅子に腰掛けると、ぬい様を陽の気に当てた。
 長閑な春の日の昼下がり。後宮に渦巻く悪意や諍いなどが幻想であるかのように、穏やかな風景が広がっている。
「うーん。いいお天気ですわ」
 池の鯉がパシャリと跳ねる。
 苺苺は両腕を伸ばしてぐぐっと背伸びをする。
(ふわぁぁ。少し眠たいかもしれないです)
 そう思った時だった。
「きゃああっ!」
 遠くで、女性の甲高い悲鳴が響いた。
「あらあら? どうしたのでしょう。大きな虫さんでも出たのでしょうか?」
(清明節を過ぎてこの天気ですものね。毒蜘蛛(どくぐも)さんが枝から垂れ下がってきたり、蟷螂(かまきり)さんが大鎌を振り回していてもおかしくはありません。……そ、想像するだけでも、わたくしも怖いです)
「お逃げくださいませ!」
 人ごとのように思っているうちに、どんどん悲鳴が近づいてくる気がする。
「む、虫さんではないのでしょうか」
(だとしたら一体……?)
 苺苺がぬい様を抱きしめて恐々と四阿を出るのと、鬼気迫った女性の声が「木蘭様!」と叫ぶのは同時だった。
「えっ」
 突然の木蘭の名前に戸惑う。
 急いで声が聞こえた方向を探すと、ここから少し離れた場所に、大袖の襦裙で必死に走る木蘭と、それを追う牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫――否、あやかし『猫魈(ねこしょう)』がいた。
「なぜこんなところにあやかしさんが!?」
 猫魈は元は飼い猫であった猫が猫又となり、さらに年月を経て力を得た姿だ。巨体に三つの尾を持っている。
 恐怖で引きつった顔で息を切らしながら逃げる木蘭を、猫魈は今にも咬み殺しそうな様子で執拗に追いかけていた。
(木蘭様から気を逸らさなくてはッ)
 苺苺は駆け出しながら、大きく広がった袂から簡易裁縫箱を急いで取り出す。
 そうして先端が鋭くなっている糸切り鋏を手に持つと、『裁縫の名手』にとって命よりも大事な手のひらを、戸惑うことなく傷つけた。
「いっ」
 肉が裂け、焼けるような痛みの後に鮮血が滲む。
 苺苺はきゅっと眉根を寄せて痛みを我慢して、流れ出る血をぬい様の朱色の衣服に含ませた。
 木蘭の形代、異能の鮮血。
 これであやかしの眼は誤魔化せるはずだ。
「木蘭様ッ!」
「……う、っ」
 足がもつれてしまった木蘭が、べしゃりと地面に転倒する。
 その隙を猫魈は見逃さなかった。
「シャァァアア」
「危ないっ!!!!」
 猫魈が木蘭に襲いかかる。
 苺苺は腕を大きく振りかぶって、猫魈目掛けてぬい様を投げつけた。
 ぬい様が猫魈の前にぽてりと転がる。
 すると作戦通り、猫魈は木蘭から狙いを変えて、勢いよくぬい様に飛びついた。
 木蘭の身代わりになったぬい様を、大きな牙が貫く。
 苺苺は木蘭に走り寄って、「大丈夫ですか!?」と背中に手を当てた。
「ぬい様、あなたの勇姿は忘れませんっ。さあ木蘭様、ぬい様が食い止めているうちに、お逃げくださいませ」
「……あなたは、白家の」
 紫水晶の大きな瞳に、苺苺の姿が映る。
「木蘭様、宦官を連れて参りました!」
「貴姫様、あやかしが出たと……!」
 いつの間にか、先ほどの木蘭付きの女官が、槍を持った宦官たちを連れて駆けてきていた。だが。
「このっ、白蛇めかッ。どけ!」
「きゃあっ!」
 (いかめ)しい宦官は到着するやいなや、槍の柄で苺苺を背を打ちつけ、乱暴に転がした。
「なにをする、あやかしはあちらだ! 妾の――皇太子殿下の命なく、妃を罰するなど、許されぬぞ! 彼女は妾の恩人だ!」
 木蘭はふるふると震えながら、苺苺を守ろうと声を張り上げる。
「そ、そうです。わたくし、木蘭様のお力になりたくてここへ」
「この女、手から血が出ているぞ! 妖術を使った証拠だ!」
 しかし六歳の幼妃の言葉を軽んじているのか、後宮にほとんど姿を現さない皇太子殿下を見下しているのか。
 はたまた、後宮の嫌われ者である白蛇妃をいたぶる機会を逃したくないからか……。
 いや、そのすべてが理由なのであろう。
 宦官は誰も、妃たちの訴えに対して聞く耳をもとうとしない。
「選妃姫の場以外で他の妃を蹴落そうなど、卑怯な『白蛇の娘』め!」
「お待ちくださいませ、本当にわたくしは不埒な思惑など抱いておりませんっ」
 苺苺も負けじと自分の正当性を主張する。
 だがその甲斐も虚しく、宦官らに両肩を押さえつけられ跪かされてしまった。
「待てっ、彼女を一体どうするつもりだ……っ!」
「木蘭様、危のうございます。近づいてはなりません」
 苺苺に駆けよろうとする木蘭を、女官が慌てて引き止める。
「異能の妃など我らが罰してやる! この悪女め!」
「…………そんな、お待ちください、わたくしは――っ!」
 宦官らは苺苺を罵りながら、きつく縄に掛ける。
 そして今まで無視していた木蘭に恭しく礼を取ると、極悪人を引っ立てるようにして、その場から苺苺を連行したのだった。