それから半刻後――。
 打ち合わせの段階では、亥の刻(二十一時)以降に、〝寝物語を聞かせた設定〟の苺苺が、〝眠った設定〟の木蘭の部屋から出発し、『恐ろしい女官発見器』と化したぬい様を片手に紅玉宮の女官を監視するため暗躍する……という予定だったのだが。
 不眠症に悩まされていたはずの木蘭が、寝台に横になった途端にすやすやと眠ってしまったので、白蛇ちゃん抱き枕を抱えながらお喋りをしていた苺苺は部屋を出るに出られなくなっていた。
(せっかく久しぶりにぐっすりと眠れたのですもの。不用意に音を立てて、起こさないようにしなくては)
 木蘭様の安眠をお守りいたします! と強い使命感を抱きつつ、物音を立てないようにしながら辺りに気を配る。
 猫魈の事件では、女官に命を狙われたという衝撃もあっただろうに、そして皇太子殿下に苺苺を無罪にするよう便宜を図ってくれたり、今日もお礼にと茶会を開いてくれたりと……連日の疲労を押してまで苺苺のために仁義を尽くしてくれた幼妃に対し、敬服せずにはいられない。
 そんな木蘭に訪れた、ささやかな休息。
 ぬい様の効果がばっちり現れている証拠だが、そのぬい様が裂けた途端、疲労困憊の身体であっても木蘭は目を覚ましてしまうだろう。
 できるなら、今夜ばかりは裂けてくれるなと形代に願いたくなる。
(このまま木蘭様が起きなければ、半刻くらい経ったあとに作戦通り部屋を出ましょう)
 そう決めて、静かに新しい刺繍を始める。今夜は『白蛇の鱗針』は使わない。
(この円扇ができあがったら、木蘭様へ贈りましょう。……そうですわっ。わたくし用の円扇もお揃いの図案にしたら、誰もが夢見る推しとのお揃い円扇が叶います……! 楽しみですわね)
 どこからか月琴のやわらかな音色が聞こえてくる。
 弾き手はきっと、月琴の名手と名高い若麗だろう。
(なかなか眠りにつけない木蘭様を想って演奏しているに違いありません)
 ただの女官の腕前とは思えないほど上手だ。
(若麗様のお部屋から弾いているのでしょうか? それとも中庭で?)
 なんて考えている頭に気持ちのよいもやが掛かってくる。
「ふぁぁ……」
 ついつい小さく漏れたあくびを、針を持っていない方の手で押さえこんだ。
 しかし、緩やかに心と身体を解す優雅な調べは、昨晩から徹夜でぬい様を作っていた苺苺にもよく響く。
 そうして微睡みに誘われ始めた苺苺は、いつもの就寝時間を迎えると、こくりこくりと船を漕ぎ始めたのだった。


 ◇◇◇


「……俺はいつの間に眠って……――なぜ、苺苺がここに寝ているんだ」
 広い寝台の上で上半身を起こした美青年は、寝台に腰掛けた状態で倒れている少女を見つけて、寝ぼけていた思考が一瞬で覚醒した。
「作戦と違うじゃないか。だから泊めたくなかったんだ。いや、俺が寝室に入れたのがそもそもの間違いか……」
 ああ、頭が痛い、と美青年は骨ばった大きな手のひらで額を押さえる。
 夜中の紅玉宮を、ただの客人である白蛇妃が女官も付けずにうろうろするのは、非常に怪しい。
 だから女官に見つかった時のために、『幼い木蘭が寝物語をねだったせいで遅くまで妃の寝室にいた苺苺は、自室の場所がわからずにうろうろしていた』、という言い訳を作れるようにした。
 それなら見張りがどんなに夜中まで及ぼうとも、他の女官を気にせずに、悪意を向けられている頃合いを見計らって犯人探しに行ける。そういう計画だった。
 だが実際はどうだろう。
「……とにかく、眠ってしまった俺が悪いな。この姿で見つかれば面倒が増える」
 今は過去の過ちを後悔するよりも、彼女を起こさないように部屋を出なくては。
 そう思って立ち上がった瞬間、ぎしりと大きな音を立てて寝台が軋んだ。
「……っ!」
「んう、木蘭様? 起きられましたか? ……ごめんなさい、わたくしとしたことが、ついうっかり眠ってしまって――!?」
 上半身を起こし、寝ぼけ目を擦っていた苺苺が次第に大きく目を見開く。
「きゃ――」
「すまない。静かにしてくれ」
「むぐ、むぐうぅ」
 ここに居るはずのない、銀花亭で出会った悪鬼武官と〝同じ声〟を持つ寝衣姿の美青年を前にして驚きの悲鳴をあげそうになった苺苺の口元を、大きく無骨な手が素早く覆った。
(ななななにやつです!?)
 むぐむぐと言葉にならない声がもれる。
 美青年はぎゅっと眉根を寄せて非常に困惑した表情であったが、真摯な瞳を苺苺に向け、
「俺の名は、燐 紫淵。この国の皇太子だ」
 しっかりとした口調で、そう名乗った。
(こ、この方が、皇太子の紫淵殿下……!?)
 苺苺はむぐ、っと驚きで思わず漏れそうになった声を反射的に抑える。
「銀花亭で会っただろう。あれは俺だ」
「むぐぅぅ!?」
「その、昨晩は名乗り出ずにすまなかった」
(え、えええ……? こ、声も同じですし、確かに皇太子殿下の姿絵ではあの悪鬼武官様と同じお面をかぶっておられましたが……。うーむ、そう言われてみると瓜二つのような気もいたします)
 今はその顔を晒しているため、苺苺はまじまじと彼を見つめる。
 透き通った紫水晶の色の瞳は長い睫毛に縁取られており、桃花眼(とうかがん)の目元は艶やかで鋭い。
 誰をも惑わせる蠱惑的な色気を持っていそうな絶世の美貌は、しかし、氷のように冴え冴えとしていて近寄りがたい雰囲気があった。
 燐家の象徴とも言える紺青がかった黒髪は、腰の辺りまで伸びている。
 この髪色こそ、苺苺が皇太子殿下の姿絵を初めて目にした時に、『まるで闇夜に流れる銀河のごとき艶やかさです』と感嘆した色だった。
 昨晩よりもはっきりと色鮮やかに見えるのは、灯籠の赤みを帯びた光がないことと、彼のまとっている寝衣のせいだろう。
 苺苺はなんとなく状況を理解できたような気がして、おとなしくこくこくと頷く。
「そして、信じがたいと思うが――朱 木蘭でもある」
 苺苺はこくこくと頷きそうになり、思いっきり首を捻った。
(な、なにをおっしゃっているのです? 皇太子殿下が、木蘭様? 似ても似つかぬお姿ですわ!)
「うむぐぅ、むぐうう!」
 口元を覆われていて喋れないため、慌てふためいた苺苺は身振り手振りでなんとか伝えようとする。
「君の言いたいことはわかる。だが、誰がなんと言おうとも、木蘭は俺なんだ」
(そんなこと、あるわけが……!)
 反論する苺苺をまっすぐに見つめる紫水晶の瞳は、確かに木蘭とまったく同じ色だった。
 木蘭の瞳に忠実な色合いを再現するため、何度も木蘭を観察し、紫色の刺繍糸の色味を細かく厳正に選んできた苺苺が、見間違えるわけがない。
 それに、細かな仕草や口調も一致している。
(わたくしに異能があるのですもの。姿形が変わる怪異があっても不可思議ではありませんわ。猫魈様の妖術も見たばかりですし……。もしかしてよくあることなのやも……)
 苺苺は『理解しました』と示すように頷く。
 その様子を見て、紫淵は「手荒な真似をしてすまなかった」と申し訳なさそうな表情で苺苺の口を覆っていた手を離した。
 苺苺はぱっと立ち上がり、寝衣姿だが膝を折って最上級の礼を取る。
「燐華国の至宝の御剣(みつるぎ)にご挨拶申し上げます。……あの、ですが一体なぜ皇太子殿下が」
「苺苺。そんなに堅苦しく呼ばないでくれ。紫淵でいい」
「え、ええと、では……その、紫淵殿下と」
 紫淵は少し不満げに苺苺の礼を受け取ると、寝台に腰掛けるように促す。
 苺苺はこのまま立っているべきかと迷ったが、木蘭と作戦会議をしていた時のように隣に腰掛けた紫淵を見て自分も元いた場所にちょこんと座りなおし、そわそわと居住まいを正した。
(なんだか、その、落ち着きません)
 それもそうだろう。幼妃である木蘭ではなく、十八歳になる皇太子殿下と同じ寝台に並んで腰掛けているのだから。
 そしてそれは、紫淵も同じことだった。
 まさか自分の正体を明かす日が来るとは思ってもみなかったし、昨晩だって念入りに誤魔化していたのに。
 加えて紫淵は紅玉宮以外を訪れた経験も、誰かと寝台で過ごした経験もない。
 木蘭と添い寝などと皆話しているが、同一人物であるからして、それは巧妙な作り話であった。
 そんな自分が、事故とはいえ、先ほどまで苺苺と添い寝をしていたなんて。
(むむむ、お部屋に心臓の音しかしません……! 先ほどまでどんな風に会話していたか、忘れてしまったわけではないのですが、なぜだか、気まずいです……!)
 苺苺からちらりとうかがうような視線を向けられて、紫淵はうっと胸を押さえる。
 一睡するまでは確かに一緒に会話し楽しく過ごしていたのに、今はなぜだか、寝衣姿の苺苺にどぎまぎしている自分がいる。
 もしもここにいるのが他の妃嬪であったら、いつもの冷笑を浮かべて、『誰の許可を取って俺の寝所にいる? 今すぐ出て行け』と理由も告げずに凍えるような声で一喝できただろう。
 皇太子宮を解禁した時に皇帝陛下が定めた規律に触れたのだから、口封じも行うかもしれない。
 だが、苺苺に対しては、そんなことをしようとも思わなかった。
 紫淵は『駄目だ、落ち着け』と、脳内で黒い狼と化した宵世を数え始める。
「宵世が一匹、宵世が二匹、宵世が――」
「あ、あのう、なぜ東宮補佐官様をお数えに?」
「……っ、それはだな、ええっと」
 言えるわけがない。君に触れたくなるから、だなんて。
 紫淵は「それはそうと、俺になにか聞きかけていただろう」と咄嗟に話をそらした。
「そうでした。お伺いしてもよいのかわからないのですが、その……いったいなぜ紫淵(シエン)殿下が木蘭(ムーラン)様のお姿に?」
「……そうだな、君には話しておこう」
 紫淵はそう前置きしてから頭を切り替える。
「悪鬼の呪詛だ。皇太子になるべく生を受けた皇子は、成人になるまでの間になんらかの怪異に巻き込まれる」
「もしや、……燐火の悪鬼の?」
 苺苺はそっと息をのんだ。
「ああ。千年は続く呪詛ということになるな。俺の場合は十歳を過ぎた頃から、突然夜だけ幼い少女――木蘭の姿になるというものだったのだが……。昨年の暮れより、日常的にその姿になるようになってしまった」
「なんと!」
 飛び上がるほど驚いた苺苺は、思っていたよりも大きな声が出てしまって両指先でハッと唇を押さえる。
 幼女の姿の紫淵を〝木蘭〟と名付けたのは、当時その姿を初めて見た皇帝陛下だったらしい。
 老齢の父に代わり男装した少女が男ばかりの軍に入りって武勲をあげる伝説から、
『朱 木蘭。皇子が女ばかりの後宮に入って栄華を極めるのに、これほど縁起の良い名があるか?』
と皇帝陛下は笑いながら言ったそうだ。
(そういえば、入宮前に王都を通った時に見かけた演劇一座で上演中の演目が、ちょうど『(ファ)木蘭』でしたね。馬車で通り過ぎるしかありませんでしたが、やはり早めに王都入りして観劇しておくべきでした……!)
 推しの概念はすべて網羅しておきたい欲にかられ、思わぬつながりに内心ワナワナする苺苺である。
「怪異はいつ、どのように起きるかわからない。そのため皇太子の象徴とも言える紺青の黒髪を持つ皇子は、発現する怪異の実態が掴めるまで、生まれて数日後には皇帝陛下の名のもとに幽閉されて育つ」
「そんな……。幽閉とは、お大変でしたね。王都からお離れに?」
「いや、後宮の奥深くだ」
 苺苺は息をのむ。
(後宮から離れられない、立太子するのが決定づけられている皇子。きっと様々な悪意に晒されたに違いありませんわ)
 きゅっと眉根を寄せて、あたたかな憐憫を長い睫毛のけぶる大きな双眸に浮かべた苺苺の頭に、紫淵はぽんっと手のひらを乗せた。
 慰めてほしくて言ったわけじゃない。
 だが、幼かった頃の自分に、そっと苺苺が寄り添ってくれた心地がして、嫌な気分ではなかった。
「滅多な行事以外では姿を現さない俺に対して、周囲は次第に『やはり歴代と同じく病弱か』と囁くようになった。まあそれが一番身を隠すのに都合がいいから、今も好んで使う言い訳だが」
「そうなんですね」
「実際の俺は病弱とは程遠くて、幼い頃から武術も嗜んでいるから剣術もひと通りできる」
(ではやはり悪鬼武官様のお姿の時に足音がしなかったのは、本当に手練れである可能性が!? よ、よほどの剣の才をお持ちなのやも……!)
「と、いうことは、わたくし……まさか剣の錆に!?」
「なぜそうなる。……いや、君の選択によってはその可能性もあるかもしれない。今夜起きた出来事が皇帝陛下の耳に入るようなことがあればだが」
「ひいっ」
 苺苺は恐ろしい自分の最期を想像してしまい、「優しくしてくださひ」と青ざめてガタガタ震える。
「……そんなに怯えるな、冗談だ」
「冗談のお顔には見えません〜〜〜っ」
「それは申し訳ない。この顔しかできないからな」
 紫淵は苺苺を落ち着かせようと、意識して、冷たい美貌に極上の微笑みを浮かべる。
「ひええ、あ、ああ、あくどい顔です……っ!」
 けれども逆効果だったらしい。苺苺のガタガタは酷くなった。
 苺苺の怯えようがあまりに可哀想で、庇護欲を掻き立てられてしょうがなかった紫淵は、真摯な謝罪を伝えるにはどうしたらいいのかと悩んだ末――苺苺の真珠色の長い髪をひと房指先で掬ってから、捨てられた子犬のような顔をして、
「許してくれ、本当に冗談だ」
 と、今度は作り物ではない低く優しい声音で告げ、本心から、苺苺を安心させるように目を細めた。
 まるで機嫌を直してほしいと言いたげな、紫淵の甘くとろけるような、やわらかな表情。
 それを真正面から直視してしまった苺苺の唇から、「あっ」と無意識に音が零れる。
 するとなぜだか途端に頬に熱が集まって、胸がきゅーっと甘く締めつけられていくではないか。
(ひぇ!? いいえっ、紫淵殿下は推しじゃありませんっ。わたくしは木蘭様ひと筋です!)
 苺苺はぶんぶんと横に首を振って、火照った頬の熱と一緒に勢いよく邪気を払う。
 苺苺は意図していなかったが、心からの謝罪を勢いよく拒絶された形になった紫淵は、
「……本当にすまない」
と落ち込むしかなかった。
 けれども、紫淵はそれを上手く取り繕って、「あー、その、続きだが」と話し出す。
「立太子してからは天藍宮での政務も増えた。けれども木蘭の姿では政務にも差し障りがあるだけでなく、万が一誰かに知られることとなれば命も狙われやすくなる。白州を訪れた理由は、その場で燐家最大の秘密を晒すことになろうとも、この呪詛を解いてほしかったからだ」
 悪鬼の呪詛から解放されれば、逃げも隠れもしなくてよくなる。
 だが悪鬼の呪詛は、人間の悪意ではないので苺苺の眼には視えず、未解決に終わった。
「悪鬼の呪詛はその後もひどくなり、年明けにはとうとう夜だけしか元の姿に戻れなくなってしまった。そのため俺の身を案じた皇帝陛下によって、成年を迎えてから封を解く予定だった皇太子宮が解禁されたんだ」
「木を隠すなら森の中というわけですね。その、朱家の姫として後宮に入られたのは……?」
「素性を徹底的に偽るために、仕方なく母上――皇后陛下を頼った」
 この怪異が他者に知れ渡ると大変なことになる。
 だから千年の間、皇帝、そして皇太子の腹心の臣下を除いて秘匿され続けてきた。
 それは今代の皇后陛下も変わらないはずだった。が、幼い姿の木蘭が、最も安全な立場である皇太子宮の最上級妃として君臨するためには、もはや手段は選べなかったのだ。
「皇帝陛下の口添えもあったからな。次期皇帝の座が約束された皇子を今さら陥れようなどとは、さすがの皇后陛下も思わなかったらしい。どこぞの高貴な血を引く自分の養い子として、皇后陛下が自ら内密に朱家の当主に掛け合った」
「なるほど。燐華国の国母となった娘の願いを、朱家の当主が無下にできるわけがありません」
「そうだ。木蘭の姿が娘に似ていることからも、なんらかの理由のある娘の実子ではないかと事情を察した当主は、木蘭を快く自分の養女として迎え入れた」
 皇后陛下が気に掛ける幼姫だ。
 もしも上級妃として取り立てられでもしたら、……いや、必ずそうなるのだから、莫大な利益と恩恵を受けるのは当然――木蘭を養女とした朱家。
「木蘭は便宜上、朱家の遠縁の娘になっている。国母となった娘の不義理の子かもしれない木蘭の秘密を、朱家の当主は絶対に墓場まで持っていくはずだ」
 その証拠に今年、次期当主が三の姫の若麗を後宮の〝秀女選抜試験〟――西八宮で三年ごとに行われる皇帝陛下の妃嬪と宮女を選抜する試験に送り込んでいる。
 十中八九、突然現れた養女が『八華八姫』の慣例に従って妃嬪に難なく納まるのに、次期当主が納得できなかったからであろう。
 しかし木蘭の女官を募る際、もともと妃教育を受けていて、なおかつ現皇后に仕えていた若麗を侍女にしろと、朱家当主が言い出した。
 やはりいざ選妃姫が近くと、妃養育を受けてまもない幼姫に朱家を任せるのが怖くなったのだ。
 当主の命令は絶対である。次期当主であろうと、孫娘であろうと逆らえない。
 若麗は命じられるがまま志願し、紅玉宮の侍女頭になった。
 これが紅玉宮に朱家の姫が二人も存在する理由だ。
 苺苺は朱家の当主や次期当主の命令に翻弄(ほんろう)される若麗の心を案じ、そして知られざる木蘭の秘密に瞠目する。
「木蘭様にはそのような秘密がおありだったのですね」
「ああ。だが……今や夜中であっても、ほとんどこの姿には戻れなくなった。それが、昨日に続き今日までも戻れるとは……運が良いのか、悪いのか。今夜は念のために俺の寝衣を着ていて正解だったな」
 紫淵は額に手を当てながら肩を下げてため息をつき、自嘲気味に言った。
 それから長い髪をかき上げる。
 怜悧な雰囲気をまとった絶世の美貌が、すっと苺苺を見据えた。
「俺の怪異の秘密は皇帝と皇后、それから幼い頃から共にいる信頼のおけるふたりの従者、そして――目の前にいる君しか知らない」
「ひえっ。それは、あの、申し訳ありません」
「……いや。もともと君を頼った時点で、一度は君にバレる覚悟をしていた。それが早かったか、遅かったかの違いでしかない。他言無用で頼む」
 もし誰かに告げるような真似をしたら命はない――とは伝えられなくても、苺苺は十分に理解していた。
 そしてもうひとつ。
 皇太子の命を守るためだけに解禁された後宮に集められた七人の妃が、〝森〟になるためだけの役割しか持たぬ〝仮初めの妃嬪〟であることも。
(わたくしは木蘭様を『白蛇の娘』の全力をかけて応援するために後宮に入ったので、もともと仮初め妃ではありましたが……。その理由でしたら、紫淵殿下を御支えするのも木蘭様を御支えすることと同義です。わたくしの立場は変わりません)
 苺苺は腰掛けていた寝台から降りると、床に両膝をつき、すっと完璧な礼を取る。
「この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします」
 寝衣のため多少格好はつかないが、それが紫淵と木蘭への誓いだった。
「白 苺苺。君の言葉に偽りはないな」
(はい)
「……ありがとう。恩に着る」
 紫淵は眉を下げてふっとやわらかく微笑む。
「俺は木蘭を〝寵妃〟として扱うことで、女官たちの目を欺いている。それには今後も口裏を合わせてほしい」
「それはもちろんです! ですが、そんなに簡単に欺けるのでしょうか……? 確かに本日まで、誰も疑っていませんでしたが……」
(わたくしも皇太子殿下は木蘭様推しだという認識でしかありませんでしたし)
 苺苺はそろりと、目の前の美青年を観察する。
 こんな高身長の、しかもなにやら常人とは違う雰囲気を醸しだす絶世の美丈夫が紅玉宮(こうぎょくきゅう)を徘徊していたら、すぐに女官の目に付きそうなものである。
「大抵は深夜にしか元の姿に戻れないからな。木蘭の時でも、寝室には日中の決められた掃除の時間以外は女官を入れないようにしている。元の姿に戻れた夜は、衣服を整えてからこの部屋の隠し通路を通って紅玉宮の外に出るんだ。簡単にはバレない」
 なんとこの寝室には厳重な鍵付きの箪笥があって、紫淵用の寝衣や衣裳、髪飾りがしまってあるそうだ。
 紅玉宮の女官は日常的に紫淵の名で木蘭に多数の贈り物が届くのを目にしているし、鍵付きの箪笥があるのも気にかけていないらしい。
 紫淵は寝台から立つと、室内を音もなく歩いて、彼の身長以上ある箪笥に手を触れる。
「この下に隠し扉があって、地下通路に続いている」
「隠し通路とは、なにやらわくわくする響きです」
 苺苺は目をきらきらと輝かせる。
 頭の中では、木蘭が小さな身体で一生懸命あの箪笥を押しのけて、幼妃に似合わぬ険しい表情で『右よし、左よし』と指差し確認したあとに、こっそりと隠し扉をくぐって紅玉宮から脱走する。
 ……想像してみると、その姿はなんとも庇護欲をそそった。
「やっぱりわくわくは撤回しますっ。なんとお大変な状況なのでしょうっ。この大きな紅玉宮でひとり、大きな秘密を抱える小さな木蘭様……! きっとたくさんの苦労があるはずですわ。健気なお姿を見つめるだけしかできず、胸が痛いです……」
 想像し終えた苺苺は胸を抑えて涙ぐみ、うるうるとした視線で紫淵を見上げる。
「木蘭様にたくさんのご加護がございますように……っ!」
「えっ。いや、隠し通路は俺が通るんであって、木蘭は通らないぞ」
 箪笥に熱い視線を送っていたかと思えば、今度は涙目で自分を見上げてきた苺苺の様子に紫淵はたじたじになる。
「女官や宦官でも押せないくらいあの箪笥は重厚に作ってある。武官でも押し入ってこなければ、隠し通路の存在は見つからないだろう。なにせ通路の繋がる先は地下、しかも出口は皇太子の寝殿の中だ」
「なるほど。天藍宮は位置的には紅玉宮の真後ろ。後宮とを仕切る城壁や門も、地下ならば関係ありませんね」
「そうなる。皇太子にしか誂えられない意匠が施された鍵付きの箪笥を、いちいち改めて事を荒立てる命知らずの女官は早々いないからな。隠し事はたやすい。まあそれも、こうして寝室で鉢合わせしなかった場合のみだが」
 紫淵は深くため息混じりにそう言うと、苺苺の手を取り再び寝台へ着席させる。
 頭上に疑問符を浮かべる苺苺の隣に遠慮のない仕草で腰掛けた紫淵は、まるで大切な宝物にでも触れるかのごとく妖艶に、もったいぶった動作でゆっくりと、苺苺の頬に男らしい手を添えた。
「――さて。秘密を知られた以上、ここから君を出すことはできなくなった」
「へ!? あの、わたくし、先ほど『この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします』とお約束をっ」
「そうだな。だからこそ、俺が君の命を預かる」
「ひえっ!?」
「白苺苺。君には、俺の(・・)〝異能の巫女〟として、しばらくの間この宮に住んでもらう。少しでも秘密を漏らそうとすれば命はないと思え」
「えええええっ!?」
「もうじき日が昇る。秘密厳守、それから効率の観点からも、犯人探しは紅玉宮でしかできないからな」
 紫淵はにやりと美しく微笑む。
 美青年の姿はみるみる幼くなり、……――目の前には寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭がいた。
 苺苺の頬に添えられていた手のひらは、大きさと温もりを変えて、そこにある。
「苺苺。乗りかかった舟だ。最後まで妾に付き合ってもらうぞ」
 愛らしい幼妃の策士な笑みに、焦りと緊張から苺苺の鼓動はどきどきと高鳴る。
(えっ? えっ? どういうことですの? もしかしてわたくし、推し活をしていたはずが、なにやら紫淵殿下の重大機密に巻き込まれてしまったのでは……!?)