「なにも見渡せぬ背丈。剣どころか筆もろくに握れぬ小さな手。そのうえこんな、こんな……」
五歳ほどの見た目をした可愛らしい幼姫が、眉間にシワを寄せて驚愕に打ち震える。
「こんな姿になるなんて! 俺は一体どうすればいいんだ……っ」
腰のあたりまで伸びている長い髪は、もともとの紺青がかった色みを失い真っ黒に染まっている。
先ほどまで着ていた濃紫の深衣はぶかぶかになり、引きずるどころか毛布を被っているかのように床に落ちていた。
いつもなら身体に馴染む執務机はものすごく高く感じてしまい、腰掛けていた椅子からは自分ひとりで降りられそうにない。
「ふぅむ。とうとう昼間まで完璧な幼女になってしまった、と。これはまた厄介なことになりましたね」
淹れたてのお茶を持って入室してきた中性的な容姿を持つ端麗な黒髪の補佐官は、「絶世の美青年と謳われる美貌はどこへやら」と涼しい顔で他人事のように言う。
「とりあえず、一人称を〝妾〟にでも変えたらどうです?」
「適当なことを言うな。くっ……なんたる屈辱……っ! こんな怪異があってたまるか。これじゃあ、いい的だ。早死に確定じゃにゃいか……!」
天藍宮の執務室には、皇太子としての威厳が意図せず消え去ってしまった紫淵の、舌足らずで可愛らしい鈴を転がすような声が響く。
「紫淵様。ひとつ、昔話をしましょうか」
「なんだ宵世。今はそんな場合じゃない」
「幼姫のお茶の時間には、ちょうどいい物語ですよ」
宵世は茶器を執務机に配膳し、主人のぶかぶかになった両肩の深衣を整える。
「昔々、今から千年以上も前のこと。闇夜に青紫の燐火が浮かび、この国のあちらこちらにあやかしが跋扈していた時代の話です」
紫淵は心底不服そうな顔で、語りだした補佐官を見上げた。
その昔――後宮に召し上げられた白家の姫は、原因不明の病に苦しんでいた。
彼女は大層な美姫であったが病が進行し、ついには後宮を辞すことになる。
清明節を機に白州に帰郷した姫の病を治したのは、燐火を纏って現れた人ならざるもの。
血のように赤い瞳を持つ白き大蛇だった。
『人の子よ。そなたの病の原因になっていた呪詛我が祓い清めた。先の世も安心して暮らすがいい』
『ありがとうございます、白蛇様。ですが長らく病に臥せっていた私には、治していただいた代わりに差し出せるものなどありません。このご恩になんと報いたらよいのでしょう』
『では娘、そなたを贄として我が娶ろう。その命が尽きるまで我とともに生き、我に尽くせ』
大蛇は人の姿をとると、返礼に姫との婚姻を迫った。
白き大蛇と人間の生贄花嫁による禁忌の異類婚姻の末、ふたりの間には娘が生まれる。
白髪と紅瞳を持った娘。――『白蛇の娘』だ。
その娘には、〝悪意をあやつる異能〟があったという。
「当時の皇帝は、それが危険な異能であると悟っていました」
だが、しかし。古代より九星に基づき治められているこの国の慣例に従い、『白蛇の娘』は後宮妃として迎え入れられた。
そして皇帝の憂いは現実となり、悪意をあやつる異能は、後宮に恐ろしい災いをもたらしたのだ。
「最初の『白蛇の娘』が死んだ後も、白家には数十年に一度、次の『白蛇の娘』が生まれました。それから後宮に『白蛇の娘』が入るたびに幾人もの妃嬪が死に、不可思議な事件……いわゆる怪異が頻発しました」
犯人は白髪に紅瞳を持った、『白蛇の娘』。
「彼女たちはいつの世も、処刑される間際に不気味に微笑んでいた」
まるで『次こそは悲願を成し得る』と、人間を嘲笑うかのように。
「『白家白蛇伝』か。誰もが知る有名な物語だな。『白蛇の娘』の場合は言い逃れできないほど死に関わりすぎたが、長い歴史を見れば後宮での怪死はそう不思議なことでもない。後宮ではいつも誰かが殺し、誰かが死ぬ」
幼姫は気だるげに、椅子の肘掛けで頬杖をつく。
「それに実際には、『白蛇の娘』が異能を行使している瞬間を見た者はいなかったそうじゃないか。ただの猟奇的な暗殺かもしれない。こんな、姿が別人に変わってしまう怪異があるのだから、異能を否定するわけではないが」
「そうですね。けれどもし本当に、『白蛇の娘』が人々の悪意を操り、呪詛をばらまき、怪異を生めるのだとしたら……その逆もできるかもしれない」
「なるほど? 悪鬼も元を正せば人間であったと仮定するならば……――妾を蝕む悪鬼の呪詛も、この意味不明な怪異も、解けるかもしれないというわけだな?」
「…………妾」
「なんで妙な顔で笑うんだ、宵世。お前が言い出したんだろう、一人称から変えろって」
「あはは、いえ。……ごほん。お似合いですよ」
紫淵の問いかけに薄く笑った宵世は、優等生的なにこやかな笑顔を作り頷く。
「歴代の白蛇の娘の悪虐非道を思えば、紫淵様には今代の白蛇の娘にもあまり関わってほしくありませんが、仕方ありません。彼女が呪詛を解けなければ、紫淵様の怪異も終わらず、下手をすると一生そのままのお姿でしょう。……迷信はお嫌いですか?」
「いいや? 面白い。白蛇の娘に会ってみるとしよう」
幼姫は舌足らずに宣言すると、その顔に似合わぬ妖艶な笑みを浮かべた。
◇◇◇
「ああ、木蘭様ったら……本日も大変お可愛らしいです……っ!」
紅珊瑚の瞳をめろめろにとろけさせ、真っ白な真珠色の長髪を振り乱す十六歳の少女――白 苺苺は「はぁぁ」と今日も元気に赤く染まった頬を押さえる。
苺苺の熱視線の先には、六歳になったばかりだという幼妃、朱 木蘭がいた。
後宮に入れる妃嬪の年齢は、若くても十三歳頃から。
しかし、皇帝陛下より〝八華八姫〟の勅命とともに〝皇太子宮〟の封が解かれた際は話が別になる。
九星に従い治められているこの燐華国では、皇帝の住まう王都と、それをぐるりと囲むようにしてつくられた八州それぞれに神域と呼ばれる禁域が存在しており、選ばれた九つの血筋によって厳正に祀られている。
八華八姫とは建国時から定められている習わしで、王都の瘴気を祓って神気を呼び込み、世の安定と繁栄を願うために八人の姫を招集するもの。
皇帝より勅命が出された場合、各州の神域で祭祀を執り行う八華と呼ばれる貴族は、必ず直系の姫をひとり後宮に入れなければならない。
そのため稀に、木蘭のような幼すぎる妃が皇太子宮に入ることになるのだ。
「可憐な剣舞用の御衣裳で、鈴の音を鳴らしながら羽衣をはためかせるさまは、そう! まさに天女様の御使いですわ!」
紫水晶の大きな瞳と鬼のツノのようなお団子に結い上げられた黒髪が印象的な木蘭は、幼な子にはまだ重たいはずの鎮護の短剣を小さな手に持ち、皇太子代理として四半刻にもおよぶ剣舞を舞いきってみせた。
最後の方はおぼつかない足取りではあったが、きっと皇太子宮の妃は誰も彼女の舞を凌げぬだろう。
そう思えるほど、愛らしい舞だった。
「はぁぁぁ、なんとも素晴らしい時間でした……っ」
いまだ興奮覚めやらぬ苺苺は感動で打ち震えながら、緋毛氈の敷かれた宴席に座す他の妃たちのピリついた空気も読まずに、末席から盛大な拍手を送る。
本日、ここ燐華国の後宮内に造られた皇太子宮では、この国で最も重要な祭事のひとつである清明節の宴が開かれていた。
燐華国では、春を祝い祖先の魂を祀る清明節に、皇帝の長子が剣舞を奉納する決まりになっている。
なぜかというと、昔々あやかしが跋扈していた時代に、青紫の燐火とともに闇夜に現れる悪鬼を、初代皇帝の長子が見事な剣技で討伐した逸話に由来しているそうだ。
以来、皇帝の長子には破邪や鎮護の力が宿る一対の剣と〝祓除の剣舞〟が受け継がれている。
しかし、歴代の皇太子は二十歳の成人の儀を迎えるまで身体が弱い者が多い。
今代の皇太子、燐 紫淵も齢十八ではあるが未だ病弱で、日中はほとんど床に臥せっていると聞く。
時折、体調が優れた時のみ公務の席に現れるが、素顔は決して見せず目元を隠す悪鬼の半面を深々と被っていた。
そんな経緯から、本来ならば先ほどの剣舞も皇太子が舞うべきところであったが、最近体調が芳しくない皇太子が、自ら代理に木蘭を指名したという。
幼妃には重たすぎる皇太子代理という役目を背負いながらも、誰よりも凛と振る舞う木蘭を、苺苺は全身全霊で応援しているわけだが、他の姫君や女官たちはどうやら違うらしい。
「皇太子殿下はなぜあんな幼女に大役をお任せになったのかしら。淑姫様は剣舞の名手であらせられるのに」
「清明節の宴席は、幼児のお遊戯会ではないのにね。私は徳姫様の舞が見たかったわ。探春の宴で披露された桜花舞は、それはそれは素敵だったもの」
「賢姫様の天女のような歌声も、きっと燐火をおさめることができたでしょうに。なぜあの乳飲み子の剣舞だけなのかしら」
控える女官たちは宮廷楽団の演奏に紛れて、それぞれの〝推し〟である妃を讃える。
推しとは後宮の女官たちの間で最近ひそかに流行している言葉だ。
もともとは市井で演劇一座のお気に入りの役者を応援する言葉からきているらしい。
それが後宮ではいつの間にか〝無償の愛で妃を陰ながら御支えする〟という意味に転じ、女官の嗜みのひとつになっている。
推しがいない者はすなわち〝無償の愛で尊い妃を支える気がない〟とされ、女官の風上にも置けない信頼ならぬ者の烙印を押される。
そんなわけで、後宮では女官たちによる〝後宮風の推し活〟――いわゆる〝妃嬪応援活動合戦〟が至る所で勃発しているのであった。
とはいえ、ここはやはり後宮。
推しのさらなる繁栄を望む女官たちは、お澄まし顔で悪意をこめた嫌みを他の妃嬪へぶつける。
苺苺のような市井風と後宮風を取り入れた独自の推し活をしている者は、特異な存在なのだ。
「でも、あの〝白蛇〟が指名されるよりはまだましね。あやかしのような真っ赤な目が本当に不気味。ほら、見て。木蘭様から視線を離さないあの様子……」
「まあ、なにあれ。薄気味悪いし恐ろしいわ。白い大蛇がとぐろを巻いて睨みつけているみたい。白蛇妃って、いつも木蘭様を熱心にじっと睨みつけているわよね」
「呪詛でもかけているのかしら? 〝灰かぶり離宮〟の最下級妃のくせに、身のほど知らずでおこがましい振る舞いだわ」
女官たちは歪んだ口元を円扇で隠す。
「〝呪われ白家〟の出身ですもの、教育が行き届いていないのよ。ああ、あんな白蛇と同じ空気を吸っているのも嫌になる」
「ちょっと、あんまり大きな声で言ったら聞こえるわよ」
「聞こえたって構いやしないわ。後宮の嫌われ者の白蛇妃が、私たちを咎められるはずがないもの」
「もし皇太子殿下に進言されたとしても、お妃様の信頼が厚い私たちの方が勝つに決まっているんだから」
クスクスと蔑み笑う女官たちの話し声が、彼女たちにほど近い末席に座す苺苺に聞こえていないはずがない。
だが、しかし。
(推しである木蘭様の一挙手一投足、いいえ! 衣のはためきまでも見逃しはしません!)
と両手に力を入れ、ごうごうと燃える瞳で木蘭を見つめる燃える苺苺の耳には、女官たちの悪意のこもった話し声などまったく入っていなかった。
元宵節に皇太子宮の封が解かれ、八華八姫の慣例に従って〝選妃姫〟――皇太子妃としての位を決め、次期皇后候補を選出するために三ヶ月に一度開かれる試験に臨むことになった苺苺だが、実のところ次期皇帝にもその妃という地位にも興味がない。
彼女はただ、出会った瞬間に胸を撃ち抜かれた〝朱木蘭〟を、後宮内ならば全力で推せると聞いてやって来たのである。
苺苺は美しい刺繍、美味しいお茶菓子、そして特別可愛いらしいものに目がないのだ。
「木蘭様は、きっとおねむなのですね。まだ六歳であらせられるのに、あんなに素敵な舞をご披露されたのですもの。ご立派です……っ!」
木蘭は幼くても〝妃〟らしくぴんと背筋を伸ばしていたが、春の陽気に照らされて眠たくなってしまったようだ。空席の上座に最も近い〝貴姫〟の席に着いた途端、こくりこくりと船を漕ぎ始める。
「ふわぁぁ……癒しのすべてがここに……!」
苺苺は見事な木蓮の刺繍が入った絹の円扇を、胸元でぎゅうっと握る。
これは推し活の一貫で、苺苺が木蘭を想って自分で刺したものだ。
燐華国の三大刺繍と讃えられる白州刺繍の技法で刺された紫木蓮の図案は緻密で、花や葉が朝露に濡れているかのように瑞々しく見える。
両面刺繍と呼ばれているその技法は、白州特産の絹糸を使うことでさらに昇華されており、色鮮やかな絵画のごとく芸術的で美しかった。
本当はこの円扇を両手に一本ずつ持ち、ぶんぶん振り回したいくらいの気持ちなのだが、最下級といえど妃は妃。礼儀作法を重んじ、『応援しています』という意気込みを示すための珠玉の一本を、胸元に掲げるに留めている。
その時、ふと青黒い靄が漂い始めた。
煙のようなそれは、四方八方からもくもくとやってきて、ひたすら幼い姫君へ向かっていく。
「……あら? あらあら? 木蘭様の周囲に、よくないものが」
苺苺は目を見開き眉根を寄せる。
あれは人々の胸に宿る悪意や口から放たれた悪意が力を持った姿だ。
その名を〝呪靄〟という。
皇太子妃たちや女官たちから向けられた悪意が木蘭に集まり、靄の形をとっている。これが酷くなれば木蘭は大病にかかり、床に伏せるようになるだろう。
呪われ白家と呼ばれる白家出身の苺苺には、生まれつき悪意を視ることができる眼と、それを祓うための強力な異能の才が備わっていた。
「呪靄でしたら、まだここからでも祓えますわね!」
苺苺は長い上衣の袂から簡易裁縫道具箱にしている玉匣を取り出すと、針と糸を持ち、手元の円扇にせっせと刺繍していく。
特殊な針で異能を操り、その刺繍の中に呪靄となった悪意を封じ込めるという破魔の術だ。
紫色の光沢感のある上質な糸を絹地に刺すたびに、針から糸へ、きらきらとした白い燐光が脈打つように伝わっていく様子は、特別な眼を持つ者が視れば息を呑むほど美しい。
すでに木蓮の花が幾重にも咲き誇る円扇に、新たな木蓮の蕾を刺し終えた瞬間――絹地の上に白い光の花が咲く。
木蘭の周囲にあった青黒い靄は、ふっと霧散した。
彼女に害をなそうとしていた悪意が無事、異能の檻に囚われたのだ。
「よかった……。本日も推しの健やかな日常を守ることが叶いましたわ!」
苺苺は緊張と早業刺繍でかいた汗を「ふう」と拭う。
まさか悪意に害されそうになっていたとはつゆ知らず、幼妃はとうとう睡魔に耐えきれなくなったのか、ゆらゆらしたのち、ぱたりと上座で倒れる。
この円扇に刺繍された木蓮の花の数だけ、木蘭は強い悪意に晒され、呪われ続けている。
とても異常で危険な状態だ。
(う〜〜〜っ。それでも、わたくしはこうして影からこっそり推し活をすることでしか、木蘭様をお守りできませんッ)
簡易裁縫道具箱を袂に仕舞い、苺苺は涙をのむ。
禁忌の異類婚姻で生まれた白蛇の娘と忌避される後宮の嫌われ〝白蛇妃〟が進言したところで、犯人扱いされて終わりなのは目に見えている。投獄されたり、後宮から追放されたりしたら祓うことすらできない。
「それならこうして静かに推し活を嗜んでいた方が、ずっと推しのためになるというものです……!」
ふんすと鼻息荒く胸を張った苺苺は、今日も満足げな微笑みを浮かべる。
視線の先では、木蘭付きの上級女官が慌てて幼妃を揺り起こしていた。
数千人が働くとされる燐華国の後宮は、大きくふたつに分けられる。
皇帝の妃嬪が住まう皇帝宮、そして皇太子の正妃候補が住まう皇太子宮だ。
皇帝宮は後宮の西側に位置しており、皇后と上級妃が住まう絢爛豪華な〝西八宮〟を中心に、中級妃用の宮や下級妃が共同生活を営む長屋があり、後宮のほとんどを占めている。
対して、皇太子宮とは後宮の東側に位置する区域のことを指す。
敷地面積は皇帝宮の半分ほどで、九星術や風水学に基づいて皇太子宮内を八つに割った上で建築された〝東八宮〟のみで形成されていた。
苺苺の住まいとして与えられた〝水星宮〟は、皇太子宮内でも北側の、さらに辺鄙な場所にある。
後宮でも『特別な場所』である東西の宮のことを、人々は敬意を込めて〝東西十六宮〟と呼ぶが、水星宮だけはその枠組みから外されているのは誰の目から見ても明らかだった。
なぜなら水辺が近いため朝晩は冷えてよく霧が立ち込めるし、晴れている日でも湿気で少しじめじめとしていて、なにより『宮』と呼ぶのを憚(はばか)られるほど狭い。
だが、しかし。
ふた月前の入宮当時――最初の選妃姫を終えて、宦官から新しい住まいへ案内された苺苺は、キラキラと目を輝かせていた。
「まあ、なんて趣のある歴史的建造物でしょう! こちらが、白蛇妃が代々住んできたという水星宮……っ!」
燐華城の多くの宮殿は黄瑠璃瓦で葺かれ、朱塗りの柱や欄干が並ぶ絢爛豪華なものだが、水星宮は青銅瓦の灰色屋根に黒塗りの柱があるだけで、欄干なんてものはない。
妃の目を楽しませる飾りもなく、ただただ簡素な建造物である。
それもそのはず。他妃の宮で物置蔵や馬小屋として使われている建物こそが、水星宮に存在する唯一の本殿だった。つまりここは本来、寝殿と呼べる場所ではないのだ。
そのうえ長らく冷宮だったため、他宮と違い老朽化に伴う修繕も行われていない。
広い後宮内でも数少ない建国当時からの面影を濃く残した〝灰かぶり離宮〟。
それが、これから先――苺苺が後宮を出るまで住み続ける水星宮であった。
燐華建国時代から続く由緒正しき九華家のひとつに数えられる白家の娘が、なぜこんな簡素な宮に追いやられているかというと、その特異な容姿――正しく歳を重ねた人間の白髪とは明らかに違う、真珠のごとき純白の長髪と、真っ赤な血を彷彿とさせる紅珊瑚の双眸のせいでもあるが……。
最大の原因は、その出自のせいだろう。
古代から語り継がれるかの有名な白家白蛇伝を、この国で知らぬ者はいない。
その伝説とも史実とも取れる話が、白家が人々から『呪われ白家』と呼ばれ始めるに至る由縁である。
蛇神とも大蛇とも称される白蛇との異類婚姻によって生まれた白蛇の娘は、白家の領地である白州では『神の愛し子』と言い伝えられ、敬愛されている。
けれども、白州を一歩出ると途端に世界は変わった。
白蛇の娘はいつの世でも迫害され、虐げられ、死の淵に立たされる。
異能はすなわち、禁忌の異類婚姻で受け継がれたあやかしの妖術。
悪鬼のように封じられ、罰せられるべき、禁忌の術であると思われているせいだ。
それに加えて、白家白蛇伝を読んだ誰もが思うのだ。
『〝悪意をあやつる異能〟だなんて、白蛇が人間に復讐するために与えたに違いない』
『〝白蛇の娘〟は復讐のために生まれてくるのだ』
――と。
そんな特異すぎる出自を恐れてか、直接的に手を下されることは少ない。
だが古くから続く宮廷では特に言い伝えが強く信じられており、こうして後宮の離れには白蛇の娘を幽閉する場所が作られている。
本来なら皇太子妃の住まいは選妃姫で得た地位によって決まるはずだが、白蛇の娘にとって選妃姫とは無いに等しい制度だった。
それは現皇太子、紫淵殿下の世でも変わっていない。
後宮に八華家――朱家、碧家、姚家、琥家、圤家、榮家、錫家、白家から八姫が招集された日。
皇太子不在の中で行われた選妃姫で、審査員として出席していた皇后や四夫人たちは、苺苺を存在しないかのように無視した。
選妃姫では皇太子殿下が気に入った妃のひとりに、百花瓏玉と呼ばれる最高級の宝飾品を褒賞として下賜する。
妃たちは賜った百花瓏玉で着飾って最終試験に臨み、その数や希少性で皇太子殿下からの寵愛を競うのである。
第一回目の選妃姫では、百花瓏玉の代わりに全妃嬪たちには官名と、宝石の名を冠した宮が与えられる手はずになっている。
彼女たちを妃嬪と呼ぶのは、皇太子宮の妃たちの序列は選妃姫が終わるまで一様に〝妃〟となるからだ。皇太子が皇帝として即位すると、その序列はたちまち妃と嬪に分けられる。そのため皇太子宮の八妃に対して妃嬪という言葉が用いられるのは、至極当然で、まったくおかしいことではなかった。
そんな選妃姫がつつがなく進行される中、けれども苺苺だけは入室早々、退出を促された。
そうして明らかに不平等な試験の末、八華妃――貴姫、淑姫、徳姫、賢姫、令儀、芙容、彩媛、白蛇の中で最下級を表す〝白蛇〟の冠を与えられ、他の妃たちの住まいとは遠く離れた水星宮に押し込められたのだ。
最下級妃の名が白蛇なのだから、まあつまりは、はなから判じるつもりなどないというわけである。
だが苺苺は、皇太子宮での虐めに屈しなかった。
たとえ水星宮付きの女官が皆、初日で逃げ出そうともだ。
「ああ、わたくしだけ離れだなんてなんと好待遇なのでしょうか! ここなら誰の視線も気にせずに、全力で推し活ができますわ!
食事に携わる尚食の女官は来てくださるので、生命維持には問題ないです! 水星宮のお掃除とお風呂の管理、それからお洗濯や身支度なんかは、自分ですれば良いですし」
入宮して一週間は勝手がわからずあたふたしたものの、あらかじめ白家の邸で侍女の後ろをひっついて予習と練習をしてきていたので、いざ水星宮にぽつねんとひとりきりというの状況に直面しても、なんとかこなすことができた。
(今では床の雑巾がけも良い運動です)
そう。すべてひとりで熟すことを考えたら、寝台、衣裳部屋、応接間兼食事の間、それから厨房や湯殿がぎゅぎゅっとひとつに詰め込まれた水星宮は、苺苺にとって理想の間取りと言っても過言ではなかったのだ。
「はーっ。ここならついうっかり他のお妃様と鉢合わせして、めくるめく後宮の愛憎劇に巻き込まれる心配もありません。極楽ごくらく」
というわけで苺々はむしろ、これ幸いと後宮での自由を謳歌していた。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
今日も今日とて悠々自適にのんびりと過ごしながら、少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
苺苺は手元の布に通していた特殊な縫い針を引っ張り、糸をきゅっと玉止めすると、丁寧に糸を鋏で切った。
「じゃじゃーん、できましたわ! 苺苺特製、木蘭様ぬいぐるみ!」
苺苺はぴかぴかの笑顔で、できあがったばかりの布偶を両手で頭上に掲げた。
「お茶会のお呼ばれもありませんし、最近は雨ばかりでしたので木蘭様をお見かけする機会がなかなかありませんでしたが、意外にも推し活は捗りました。ぬいぐるみ製作、憧れだったのです……」
後宮へ向かう途中に、王都の露天で売られていた演劇一座の応援商品を初めて見た時は、馬車から身を乗り出す勢いで衝撃を受けた。
『わぁ! こんな意匠のぬいぐるみがあるだなんて! わたくしも製作してみたいです……!』
全体的に丸みを帯びた形は幼な子向けにも見えるのに、買っていくのは神に陶酔したような顔をしている、情熱的な若い娘や大人ばかり。
その異様で幸福そうな光景に、これが王都の推し活かと目を輝かせたものだ。
あれからふた月。
合間を縫って製作し、とうとう完成したというわけである。
「納得がいくまで布地を選び尽くし、何度も型紙を修正したので随分と時間が掛かってしまいました。けれども、ふふふっ、渾身の出来栄えですっ……!」
意匠には最近流行している布偶のものを取り入れ三頭身に簡略化し、さらに苺苺なりの創意工夫を加えて、お茶菓子のような色彩と可愛らしさを意識。
お顔の表情は、二週間前にあった清明節の宴席で目撃した『おねむな木蘭様』にした。
衣裳にも抜かりはない。襞飾りをふんだんに使った中紅色の大袖の上衣に、きっちり胸元まで覆う桃色の裳も三頭身に合わせて再現している。
仕上げに、朱家の象徴である真朱を使った羽衣のような披帛を掛けたら完璧だ。
「柔らかな布地を使ったので触り心地も抜群です。今日からよろしくお願いいたしますね、ぬいぐるみの木蘭様! ……そうだ、ぬいぐるみの木蘭様ですから〝ぬい様〟とお呼びしますね。ふふっ、今にも寝息が聞こえてきそうです」
木蘭様の特徴をよく捉えたぬい様は、どこか抜けている様子があって、見ているだけでも癒される。
苺苺の故郷である白州は絹織物と養蚕業で発展した。
燐華国三大刺繍の中でも、最も格式高いとされる『白州刺繍』が生まれた場所でもある。
そんな白州白家の姫ゆえに、裁縫の名手と呼んでいいほどの腕前を持つ苺苺の手で作られたぬい様は、王都で布偶製作を生業としている職人以上の出来栄えだった。
「木蘭様の髪の毛を一本いただけたら、ぬい様も全力を出せるのでしょうが……。髪の毛は流石に『ください』と言ってもらえるものではないので、しょうがないですわね」
苺苺は「このままの状態でどれほどの効力を発揮してくれるのかわからないところが心配ですけれど」と、毛氈生地で作った小さな頭を撫でた。
ぬい様は、ただのぬいぐるみではない。
苺苺の異能である悪意を祓う力を込めた、形代だ。
形代は紙でも作ることができるが、精巧に作られた人形になると紙以上に身代わりとして優秀になる。
さらに人形の中に守護対象者の毛髪を入れると、悪意が形を持った状態である呪靄だけでなく、その呪靄が変化し意思を持った〝呪妖〟も吸収してくれて――。
「あっ! 〝白蛇ちゃん〟が……っ! 今日も見事にズタボロです!!」
異様な気配を感じハッと視線を上げた先で、寝台に置いていた白蛇のぬいぐるみがブッチィィィッと音を立てて引き裂かれる。
困り顔にしていた首はもげ、お腹からはふわふわの綿が飛び出した。
まるで蛇殺しの現場だ。
「うぅぅ。白蛇ちゃん、どうか安らかに……」
苺苺はぬい様を円卓に置いて、ズタボロにされた白蛇ちゃんに頬ずりする。
きっと、今日も後宮内の誰かが、すさまじい悪意を苺苺に向けていたのだろう。形代に集められ封じられた悪意の総量が許容範囲を超えると、先ほどのようにズタボロに壊れてしまうのである。
向けられた悪意が自分を害するほどの呪詛へと変化する前に、苺苺はこうして自動的に悪意が祓われるようにしている。
そうでもしなければ、後宮の嫌われ白蛇妃なんて、命がいくつあっても足りない。
明確な殺意を持って狙われていなくても、悪意の塵が積もって山となったら命など儚く散ってしまうのだ。
――とまあ、このように髪の毛入りのぬいぐるみは身代わりとして、それはすさまじい効果を発揮してくれるのだが、最下級妃の自分が最上級妃の木蘭に『髪の毛を一本ください』なんて言い出せるわけがない。
誰の目から見ても立派な呪詛案件だ。
「それに……妾のことは忘れてくれ、と言われていますしね」
苺苺はがっくりと肩を落とす。
◇◇◇
白州にある実家に、ひとりの従者と共に美幼女がやってきたのは、昨年の暮れ。
九華家のみしか使えぬ特別な装飾が施された木簡と印章を使って【お忍びで】との前触れがあったため、白家側は「異能絡みだろう」と考え、裏口から彼女たちを邸へ通すことにした。
異能がらみの場合、当主である父ではなく次期当主の兄が出る。
邸の応接間ではなく兄の私室に呼ばれた客人たちは、時に不服そうな顔をするものだが、木蘭たちは違った。
「この度は廓然大公な出迎えに感謝する。妾は朱 木蘭。朱蓮芬皇后陛下の縁者である。白家の次期当主・白静嘉殿におかりぇましては、御息災でお過ごしのこととお慶び申し上げる」
鬼の角を思わせる濡羽色の結い髪に、大きな菫色の瞳。
まろい頬を緊張で強張らせて、背筋をぴんと伸ばし、幼い少女は舌ったらずな口調で堅苦しい挨拶を諳んじてみせる。
まだ五歳という、両親に手を引かれる年頃の木蘭が白家次期当主である兄への挨拶を完璧に終えて小さな頭を下げた時、苺苺は感動のあまり拍手せずにはいられなかった。
(な、な、な、なんてお可愛らしいお姫様なのでしょう!)
ら行で噛んだ瞬間に見せた不覚そうな、ハッと慌てた木蘭の様子にめろめろに緩んでしまって治らない頬を、苺苺は両手で押さえる。
「お上手ですわ、木蘭様っ」
「せ、世辞はいい」
木蘭は顔を真っ赤に染めて照れながら、挨拶などできて当然、というようなお澄まし顔をする。
恥ずかしがりながらも精一杯頑張っている、一生懸命過ぎる仕草。
その堪らない愛らしさに、思わず庇護欲を掻き立てられずにはいられない。
(はあぁぁっ。かわゆいです、かわゆいですっ。なぜでしょう……なんだか動悸がして、胸が熱いですっ! ああ、この胸の高鳴り……これが、きっと『尊い』という気持ちですわね!!)
苺苺はずきゅんと胸を矢で射抜かれた気持ちがした。
珠のように可愛らしい見目と、幼な子には不釣り合いな言葉遣い。教養深い挨拶。
極秘の旅路だからか金糸の装飾や刺繍もない落ち着いた衣装を纏っているが、絹生地を見慣れた苺苺の目には絹の極上さが手に取るようにわかる。
こんなものを砂埃舞う旅路で纏えるのは、この国の公主くらいだ。
しかも、その予想を裏付けるかのごとく、彼女が白家当主へ送った密書には燐家の木簡と印章が用いられていた。
(燐家は代々皇族のお血筋。その家紋が施された印章をお持ちなのは、この国でふたりきり。皇帝陛下と皇太子殿下のみです)
燐家の印章を借りるためには、どちらかに直接話を通さなくてはいけない。
(もしかしたら……出自に深い理由を持つ、朱皇后陛下の公主様なのかもしれませんわ)
苺苺はそっと、木蘭と――彼女の奥に立つ護衛の青年をうかがう。
質素な旅装束を纏っているが、腰に佩いた剣は立派だ。名のある名刀の類だろう。
(彼の纏う気配からも、それが見掛け倒しではないのがわかります。随分鍛え上げていらっしゃるのやも)
年齢は十代後半くらいだろうか。
青みを帯びた長い黒髪をひとつの三つ編みに束ねた精悍な顔つきの青年は、一見すると垂れ目が柔和で優しそうな印象を受ける。
だがよくよく見ていると、彼の亜麻色の鋭い双眸は温度もなく冷淡に苺苺を射貫いていた。
(ぴゃっ)
まるで今にも『主を気安く見るなこの無礼者が』とでも噛み付いてきそうな視線に、苺苺は疾風のごとく顔を逸らした。
(なんて怖いお顔なのでしょうかっ。まるで般若ですっ)
よく幼い木蘭が泣きださないものだ。
(こ、腰に付けていた玉佩の文様は朱家のものでした。ということは、朱家当主に近いお血筋の方なのでしょう)
幼姫の護衛役は彼ひとりしか任命されていない様子から、相当腕が立つのかもしれない。
苺苺はぷるぷると震えながら、青年から向けられている突き刺すような視線から逃れる。
背後の般若に気づいていない木蘭は、ひとり百面相を繰り広げる苺苺に不思議そうに首を傾げ、それから苺苺の兄を真剣な視線で見上げた。
「その、静嘉殿。折り入って頼みがある。聞いてもらえるだろうか」
「是。白家の次期当主として、木蘭姫の頼みを聞かぬわけには参りません。なんなりとお申し付けください」
兄の静嘉は、いかにも育ちがよさげな美貌を持つ青年である。
瞳の色は青色で、襟足の長い灰色の髪を首の左右に細く垂らしている。白家には時々、この兄のような容姿の人間も生まれるらしい。
しかし青色の目は異国では珍しくないこと、そして『白家白蛇伝』の大蛇のように白髪紅瞳ではないことから、王都や宮廷に出向いてもあまり警戒されていないようだった。
『灰色の髪のせいで爺爺と思われているのかな? まったく、失礼しちゃうよ。妹妹にも僕が爺爺に見える?』
『お兄様はお兄様ですよ、お変わりないです。今年も貴族のご令嬢方から縁談がたくさん来そうなお顔です』
『げえっ、縁談かぁ……。それは勘弁してほしい』
げんなりする兄はとうに成人しているが、浮いた話がない。縁談も嫌いだ。
しかし爺爺には見られたくないという我儘な矛盾を抱える、二十四歳である。
そんな掴みどころのない性格をしている兄だが、来客の前ではただ人当たりの良さそうな顔をして、まだ内容も聞かぬうちから快く頷く。
二十四歳と五歳の対話。年齢差を見れば異例にも思えるが、家格を思えば妥当だ。
白家は九華に名を連ねる貴族ではあるが、歴代に多く皇后陛下を輩出した朱家と比べれば、その地位は足元にも及ばない。
それもそのはず。白家の娘といえば『白蛇の娘』だ。
そのうえ白家ではひとつの世にひとりの娘しか生まれないこともあり、家格を上げるために後宮へ娘を嫁がせる政略結婚には向いていない。
現に、延峯帝の治世から遡って三世代……約百年の間は、皇帝陛下の後宮に白蛇の名を冠する妃は冊封されていない。
延峯帝の今代は娘に恵まれず、また八華八姫の勅命がなかったことから養女も取らずに済んだ。
先代は選妃姫の最中に他の妃嬪に罪を被せられ自害。
先々代は同じく罪を被せられ、皇太子から直々に流罪を言い渡され処刑されている。
そして、それ以前の数百年間はどこまで遡っても、『白蛇の娘』の末路は同じだった。
だからこそ、いつの時代も白家当主は愛おしみ育んだ『白蛇の娘』を、白家の威厳や繁栄のために手放したいなどとは考えていなかった。
それは次期当主である苺苺の兄、静嘉もだ。
静嘉は、尊い血筋にある幼姫の深い事情を察して、あえて何も言わずに『是』と頷いたのではない。
経緯はどうあれ、最も尊き燐家の紋章を持ち出してまでも『白蛇の娘』に依頼をしたいのだという誠意と、最上級の礼儀をはらった木蘭に対し、信頼の証として快諾したのだ。
苺苺を溺愛している兄は、優しい顔を浮かべながらも木蘭自身とその背後を容赦なく判定していた。
しかし兄の思い妹知らず。
(やはりお兄様も、木蘭様の深いご事情を察されたのですね! 健気でかわゆく尊い存在であらせられる木蘭様を全力でお助けしたいお気持ち、手に取るようにわかりますわ!! やはり兄妹は似るものですのねっ)
と、思いがけない場面で血は争えないと実感した苺苺はひそか照れつつ、兄への尊敬の念を強めていた。
「白家の姫君には代々異能が受け継がれると聞いた。妾にかけられた呪詛を至急解いてほしいのだが、できるだろうか」
膝の上に置かれていた両手にぎゅっと力を入れて、唇をきゅっと結んだ木蘭は不安そうに尋ねる。
(こんなにお小さい頃から悪意を向けられているなんて……。きっと我が家へ来る決断をするまでも、必死に悩まれたはずです)
藁にも縋る思いであることが如実にわかる木蘭の仕草に、苺苺は痛みでいっぱいになる胸を押さえる。
(王都から遥ばる白蛇の娘を頼っていらしたのですから、わたくしが絶対に呪詛を解いて差し上げなくては!)
「苺苺。この件は白家への勅命に値するんだ。頼めるかな」
「もちろんです、お兄様」
苺苺は食い気味に「すぐに確認させていただきます」と身を乗り出す。
そうしてすぐさま紅珊瑚の双眸に異能を集中させて木蘭を視た。だが。
「あら? あらあら? どうしてでしょう……?」
悪意が呪靄となったものも纏っておらず、呪詛の痕跡すらもない。
「な、んだ。なにが視えている……?」
「それが、なにも視えません。特に異状は見当たらないのです」
燐家の木簡と印章を用いてまで白蛇の娘を頼ってやって来たのだから、彼女自身は呪詛を自覚しているはずだ。
そして少なからず皇帝陛下や皇太子殿下も、その事象、または怪異を実際に確認していることになる。
(朱家のお血筋にありながら、あえて朱家当主の持つ印章を使用しなかったのだとしたら……)
木蘭は確かに、朱家当主にも漏らせぬ国家機密に匹敵するほどの問題を抱えながら、苺苺のもとを訪れているのだ。
(きっと木蘭様のお命に関わるはずです。一度で視えぬからと諦めては駄目ですわ)
苺苺はその後も何度も集中して挑戦してみる。
が、何度試しても悪意の残滓すらも掴めない。
「……そうか。やはり、妾にかけられた呪詛は視えないのだな」
「ううう。お力になれず、大変申し訳ございません」
「頭を上げてくれ。そうかもしれないと思いながら、白家を訪ねた。世話になったな」
結局、その時は呪詛の原因は視えず、なんの手助けもできずにお帰りいただくことになってしまった。
そうして別れ際に、「差し出がましい真似だとは存じますが、呪詛の症状の詳細をお教えいただけませんか?」と木蘭へ問うたところ……。
「白家の姫君に原因と症状がわからないのなら、教えられることはない。妾のことは忘れてくれ」
そう言われてしまったのだ。
(……木蘭様のお力になって差し上げたい。どうにかできないでしょうか)
それから悶々と悩んでいるうちに、新年を迎えた。
ほどなくして後宮の皇太子宮の封が解かれ、朱家からはあの幼い姫君が入宮すると風の噂で聞き及んだ苺苺は、『わたくしが木蘭様を後宮の悪意から守って差し上げなくては』と勇み馳せ参じたわけである。
(後宮は幼い木蘭様にとって、きっと魑魅魍魎の巣窟です。微力ではございますが、わたくし、全力を尽くして参りますわ)
苺苺が全力で推し活に挑む中で、異能を使ってこっそり悪意を祓っていることは、今のところ誰にもバレていない。
異能とはあやかしの力であると信じられている燐華国で、異能持ちは忌避される。
ましてやあの白蛇の娘が異能を振るっているとバレてしまっては、事実を歪曲した噂が立ったりして、推しに迷惑をかけてしまう恐れもある。
苺苺は胸の前で腕を引き、グッと握りこぶしを作る。
「推し活を嗜む者として、礼儀作法に則った推しとの距離感が大事ですものね。握手を求めるは『握手会』でのみ、ですわ」
市井では、演劇一座が定期的に開く『握手会』と呼ばれる素敵な催しがあり、役者と一対一で向き合って、握手をしながら応援の言葉を伝えられるそうだ。
その催し以外では、たとえば市中で休暇を楽しむ推しを見かけたとしても握手を求めたりせず、推しの憩いの時間の邪魔はしないとか。
それに習って、苺苺も後宮内で木蘭を見かけた時は、適切な距離を取っている。
決してすれ違いざまに無闇に近づいたり、間違っても話しかけたりなんかしないのだ。
「木蘭様と同じ後宮にいられるなんて、わたくしは世界一幸せ者です! ですからこの苺苺。草葉の陰……では死者になってしまいますわねっ。ありとあらゆる物陰に身を潜めながら、ひっそりと木蘭様をお支えさせていただく所存ですわ! 木蘭様の髪の毛をいただけなくても、それを補う量と時間で勝負させていただきます」
苺苺はズタボロになった白蛇ちゃんを、いつも通り、棺にしている木箱に入れる。
そして棚から新しい白蛇ちゃんを取り出すと、懐紙に包んで綺麗に束ねて保管していた白髪を一本仕込んで、
「さてと」
と気を取り直すことにした。
「せっかくの快晴ですし、ぬい様と日光浴をしましょう。お日様の陽の気で効果も倍増です。さ、行きましょうぬい様!」
苺苺は藤蔓で編んだ籠にぬい様を入れ、意気揚々と水星宮を出た。
◇◇◇
久しぶりの快晴だからだろう。外を歩いていると、風に乗ってどこからか女性たちの賑やかな声が聞こえてくる。
水星宮にほど近い大きな池〝鏡花泉〟には、数隻の小船が浮かんでいた。
どこぞの妃が、女官たちと水上の花や鯉を鑑賞しているのかもしれない。
苺苺は散策しながら静かな場所を探す。
「あっ。ここなんか良さそうですね」
誰もいない水辺の四阿を見つけた。黄瑠璃瓦の六角屋根と朱塗りの柱が色鮮やかな四阿には、ちょうどよく日光が差し込んでいる。
苺苺は中へ入り長椅子に腰掛けると、ぬい様を陽の気に当てた。
長閑な春の日の昼下がり。後宮に渦巻く悪意や諍いなどが幻想であるかのように、穏やかな風景が広がっている。
「うーん。いいお天気ですわ」
池の鯉がパシャリと跳ねる。
苺苺は両腕を伸ばしてぐぐっと背伸びをする。
(ふわぁぁ。少し眠たいかもしれないです)
そう思った時だった。
「きゃああっ!」
遠くで、女性の甲高い悲鳴が響いた。
「あらあら? どうしたのでしょう。大きな虫さんでも出たのでしょうか?」
(清明節を過ぎてこの天気ですものね。毒蜘蛛さんが枝から垂れ下がってきたり、蟷螂さんが大鎌を振り回していてもおかしくはありません。……そ、想像するだけでも、わたくしも怖いです)
「お逃げくださいませ!」
人ごとのように思っているうちに、どんどん悲鳴が近づいてくる気がする。
「む、虫さんではないのでしょうか」
(だとしたら一体……?)
苺苺がぬい様を抱きしめて恐々と四阿を出るのと、鬼気迫った女性の声が「木蘭様!」と叫ぶのは同時だった。
「えっ」
突然の木蘭の名前に戸惑う。
急いで声が聞こえた方向を探すと、ここから少し離れた場所に、大袖の襦裙で必死に走る木蘭と、それを追う牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫――否、あやかし『猫魈』がいた。
「なぜこんなところにあやかしさんが!?」
猫魈は元は飼い猫であった猫が猫又となり、さらに年月を経て力を得た姿だ。巨体に三つの尾を持っている。
恐怖で引きつった顔で息を切らしながら逃げる木蘭を、猫魈は今にも咬み殺しそうな様子で執拗に追いかけていた。
(木蘭様から気を逸らさなくてはッ)
苺苺は駆け出しながら、大きく広がった袂から簡易裁縫箱を急いで取り出す。
そうして先端が鋭くなっている糸切り鋏を手に持つと、『裁縫の名手』にとって命よりも大事な手のひらを、戸惑うことなく傷つけた。
「いっ」
肉が裂け、焼けるような痛みの後に鮮血が滲む。
苺苺はきゅっと眉根を寄せて痛みを我慢して、流れ出る血をぬい様の朱色の衣服に含ませた。
木蘭の形代、異能の鮮血。
これであやかしの眼は誤魔化せるはずだ。
「木蘭様ッ!」
「……う、っ」
足がもつれてしまった木蘭が、べしゃりと地面に転倒する。
その隙を猫魈は見逃さなかった。
「シャァァアア」
「危ないっ!!!!」
猫魈が木蘭に襲いかかる。
苺苺は腕を大きく振りかぶって、猫魈目掛けてぬい様を投げつけた。
ぬい様が猫魈の前にぽてりと転がる。
すると作戦通り、猫魈は木蘭から狙いを変えて、勢いよくぬい様に飛びついた。
木蘭の身代わりになったぬい様を、大きな牙が貫く。
苺苺は木蘭に走り寄って、「大丈夫ですか!?」と背中に手を当てた。
「ぬい様、あなたの勇姿は忘れませんっ。さあ木蘭様、ぬい様が食い止めているうちに、お逃げくださいませ」
「……あなたは、白家の」
紫水晶の大きな瞳に、苺苺の姿が映る。
「木蘭様、宦官を連れて参りました!」
「貴姫様、あやかしが出たと……!」
いつの間にか、先ほどの木蘭付きの女官が、槍を持った宦官たちを連れて駆けてきていた。だが。
「このっ、白蛇めかッ。どけ!」
「きゃあっ!」
厳しい宦官は到着するやいなや、槍の柄で苺苺を背を打ちつけ、乱暴に転がした。
「なにをする、あやかしはあちらだ! 妾の――皇太子殿下の命なく、妃を罰するなど、許されぬぞ! 彼女は妾の恩人だ!」
木蘭はふるふると震えながら、苺苺を守ろうと声を張り上げる。
「そ、そうです。わたくし、木蘭様のお力になりたくてここへ」
「この女、手から血が出ているぞ! 妖術を使った証拠だ!」
しかし六歳の幼妃の言葉を軽んじているのか、後宮にほとんど姿を現さない皇太子殿下を見下しているのか。
はたまた、後宮の嫌われ者である白蛇妃をいたぶる機会を逃したくないからか……。
いや、そのすべてが理由なのであろう。
宦官は誰も、妃たちの訴えに対して聞く耳をもとうとしない。
「選妃姫の場以外で他の妃を蹴落そうなど、卑怯な『白蛇の娘』め!」
「お待ちくださいませ、本当にわたくしは不埒な思惑など抱いておりませんっ」
苺苺も負けじと自分の正当性を主張する。
だがその甲斐も虚しく、宦官らに両肩を押さえつけられ跪かされてしまった。
「待てっ、彼女を一体どうするつもりだ……っ!」
「木蘭様、危のうございます。近づいてはなりません」
苺苺に駆けよろうとする木蘭を、女官が慌てて引き止める。
「異能の妃など我らが罰してやる! この悪女め!」
「…………そんな、お待ちください、わたくしは――っ!」
宦官らは苺苺を罵りながら、きつく縄に掛ける。
そして今まで無視していた木蘭に恭しく礼を取ると、極悪人を引っ立てるようにして、その場から苺苺を連行したのだった。
「ううう……。酷いめにあいました……。わたくしをあやかしさんと勘違いされるだなんて、皇太子宮に上がって以来の大事件でした」
(木蘭様が傷ひとつ負っていないことだけが、不幸中の幸いです……)
慌ただしくひっ捕らえられ、寒々しい狭小な地下牢に閉じ込められた苺苺は、敷物も敷かれていない冷たい石畳の床にぺとりと座り込んでため息をついた。
「にゃー」
「そうですわよね。あやかしにさんしては牙も爪も貧相、その通りです」
「にゃーお」
「ええ、あなたのおっしゃる通りですわ。妖術は使えませんので、ここから逃げるのは難しいかと。猫魈様はとってもお上手ですね」
同じ牢に入れられた三尾の猫魈が、「ごろごろ」と得意げに喉を鳴らす。
あの騒ぎの最中。苺苺の血で正気を取り戻した猫魈は、逃げ出そうと変化の妖術で小さくなったのだが、そのせいで逆に女官が持っていた鳥籠に押し込められていた。
(投獄されるおそれはあると予想はしていましたが……それにしてもまさか、人間用ではなくあやかしさん用の牢に投獄されるとは。しかも、猫魈様と一緒に)
大きなあやかしでもあらかじめ封印を施してから投獄するためか、牢の床から天井までの高さは苺苺の背丈ほどしかない。
(太陽や月光が差し込む窓すらありません。逃走防止のためか地下牢らしさを醸し出す鉄格子もないですし……。まるで穴蔵のようです)
苺苺が座ったら、あとは三毛猫が一匹、ぬい様を噛みながらゴロンとお腹を見せて寝転がれる程度の広さしかなかった。
壁に視線を向けると、四方八方いたるところに、名のある道士や巫覡の書いた符が貼り付けてある。それが幾重にも重なり、天井まで覆っていた。
(紙質から見て、とても古い時代のものみたいですね)
同じような符が鳥籠にも貼り付けてあったし、あれも後宮に古くからあるあやかし捕り物用なのかもしれない。
申し訳程度に灯された蝋燭にも、お経らしき文字が細かく彫られている。
なんらかの血液を使っているのか、その文字は赤銅に色づいていた。
(きっと、高僧と呼ばれる方の作品なのでしょう。異能のせいか、揺れる炎からお経の文字が煙のように浮かんでは消えていくのが視えます。不思議です……)
苺苺は一通り観察を終えると、刺繍を施した手巾を使って、先ほど自分で傷つけた手のひらの血を拭う。
消毒薬はないので、せめて菌が入らないようにと、傷口に手巾を器用に巻きつけた。
続いて簡易裁縫箱から針と糸を取り出す。
「猫魈様、少しだけぬい様を貸していただきますね。このままでは、お口を傷つけてしまいかねませんから」
苺苺はズタボロになったぬい様をささっと繕い直して、猫魈に与える。
ぬい様がお気に入りになったのか、猫魈は桃色の肉球をこちらへ伸ばす。そうして『はなさないぞ』とばかりに前脚で抱きしめた。
木蘭を襲おうとしていた時は凶暴な獅子の風体をしていたけれども、今こうして苺苺の座る足元でググッと伸びをしながら綿が飛び出したズタボロのぬい様にじゃれついている様子は、普通の三毛猫にしか見えない。
どうやらこれが、この猫魈の本来の気性らしかった。
(ふふっ。あやかしさんの持つ恐ろしさはどこに行ってしまったのでしょうか。もふもふの三毛猫のようで、かわゆいです)
それからひとりと一匹は、何刻もの間、他愛のないお喋りをして過ごした。
あやかしと会話したのは初体験だったが、『白蛇の娘』の異能には謎多き部分が多くある。
そもそも悪意を視ることができる時点で不思議体質なのだ。あやかしと会話ができるくらいの能力で、今さら驚いたりはしない。
猫魈自身もそうだ。人間と会話で思考や感情を伝達し合うのは生まれて初めてだった。
だが、そんなことよりも。種族を超えた友人たり得る存在と、こんな場所で出会うことになった星の巡り合わせに、ふたりは互いに驚いていた。
「にゃう。にゃう、にゃあん」
「それは大変でしたね。道術で! この後宮には、そんな恐ろしい方がいらっしゃるのですね」
話はどんどん盛り上がる。
今の話題は互いの出身地の話から、どうしてここへ来たかに移っていた。
ひとりと一匹が意気投合するのに、時間はかからなかったというわけである。
猫魈の話によると、気がついたら住処にしていた山奥ではなく燐華城内にいたのだという。
神ではなく、怪異に近いあやかしは食事を必要とするものも多い。
猫魈も、ただの猫だった時と同じく食事が必要で、鼠や兎などの肉や、川魚を食べて生活していたらしい。
ひとつ昔と違う点があるとすれば、あやかしになってからは人間用の食事も食べられるようになったことだろうか。
しかし、後宮の中で見知らぬ女官により自由を奪われた猫魈は、極限まで食事を抜かれ、そのうえ『木蘭を狙え』と道術をかけられて、ついには正気を失ってしまったそうだ。
(城壁や城門には、古の時代よりあやかし避けが施されているはず。百歩譲って丑の刻ならまだしも、いくら道術を掛けられていたからとはいえ、真昼間からあやかしさんが一匹で侵入するなんて考えられません。その女官の方がなんらかの手引きしたのは確実でしょうね)
「にゃーお。にゃお、にゃおん」
あの時、この人形は木蘭にしか見えなかった。木蘭を咬まなくて良かった、と猫魈は三又の尾を揺らした。
どうやらぬい様は形代として、身代わりの役割をきっちり果たせたみたいだ。
(白蛇の娘に代々伝わる書物にあった、異能の血を用いる対処法をとっさに応用してみましたが、結果が出てよかったです)
猫魈が「ごろごろ」と喉を鳴らす。
そしてふと苺苺を見上げると、訴えかけるようにつぶらな瞳を潤ませた。
「にゃー……」
「今日は水すらも口にしていないだなんて、それは大変です!」
猫だった時とは違い飢餓で死ぬことはないが、本来の自我を失いながら少しずつ怪異に堕ちていくのは確実である。
今は異能の血を含んだぬい様のおかげで道術も解けて、正気も取り戻しているが、まずは食事をもりもり食べなくては始まらない。
「わたくしが保存の効くお茶菓子などを、袂に忍ばせていたら良かったのですが……。ううっ、すみません。後宮ではわたくしもお茶菓子を口にしたことがないのです」
(本来ならお茶の時刻になると茶菓子や点心、季節の水果なども届くと聞いていましたが、皇太子宮ではお取り扱いがないのかもしれません)
皇帝陛下の後宮である『西八宮』を含んだ広大な敷地内で、過去に宮女をしていた経験がある実家の侍女から聞いていた〝点心の時間〟を、密かに心待ちにしていた苺苺だったが、朝餉と夕餉以外はお茶の一杯ですら運ばれてきた試しがない。
苺苺の食事は決められた時刻に、下級妃用に決められた材料で作られた料理が、後宮の厨房を預かる尚食局から運ばれてくるだけだ。
(せめて夕餉の端にでも水果があれば、お庭で天日干しして保存食を作っていたのですが……)
後宮での生活も二ヶ月を過ぎた今はもう諦めている。
(うむむ。いざという時のために野苺の苗をいただいていましたが、気候的な問題には抗えませんでした。お腹を空かせた友人に水果乾のお菓子ひとつも振る舞えぬとは。白苺苺、一生の不覚です)
苺苺は両手を頬に手を当てて、きゅっと目を瞑りながら悔しがる。
実のところ苺苺のおやつは毎日、宦官たちの腹の中に収まっている。時には朝餉や夕餉もつまみ食いされていて、他の下級妃より一品少ない。
だが、そんな理不尽極まりない状況にあることを、王都から遠く離れた白州で純粋培養された彼女は、想像すらしていなかった。
なので苺苺は、水星宮の庭でやっと実り始めた小ぶりの果実を想う。
それは後宮に上がってすぐの、よく晴れた日だった。
その日の苺苺は、選妃姫以来なかなか見かけることができずにいた木蘭を探して、皇帝陛下や妃嬪たちを楽しませるために後宮内に造られた壮大な庭園――〝御花園〟を訪れていた。
ここでは庭師たちによって開花時期を計算され尽くされた百花が、季節ごとに咲き乱れている。
(まあ、あんなところに輝くばかりの蝋梅が。あちらには玉梅、山茶花、水仙も。雪中四友の光景とはまさにこのこと。さすがは後宮! 花の精のような木蘭様が雪中四友を愛でているお姿、ぜひ拝見したいですっ)
妃嬪は通常女官を伴って散策するものだが、苺苺はひとりきり。
そのためコソコソと陰口を叩いてはクスクス笑ったり、必要以上に恐ろしがる女官たちも多い。
けれども『花の精の木蘭様』を探すのに忙しい苺苺は、紫木蓮が刺繍された円扇を手に持ってぴんと背筋を伸ばし、堂々とした面持ちで花々を愛でながら練り歩いていた。
だからその日も、木蘭しか目に入らない苺苺の表情を曇らせる出来事などないかと思われた。
が、しかし。
とある宮女たちの仕打ちを目撃した途端、苺苺は顔を驚愕に染める。
『なんてご無体な仕打ちを……!』
なんと、苺苺が一等大好きな水果である野苺が、目の前で無残にも〝雑草〟として処理されていたのだ。
国一番の庭師たちによって厳しく管理され、日々手入れを施されているこの御花園において、花木の根元に生い茂る野苺は駆除すべき草扱いらしい。
雑草抜きを命じられた宮女達が野苺を素手で引き抜いては、堆肥用の桶に投げ捨てていく光景に、苺苺は大きな衝撃を受けずにはいられなかった。
『あ、ああっ、自然の恵みである野苺を! そのまま食べても、干しても、煮込んでも美味しい魅惑の宝石を! 頑固にはびこる悪者扱いなさるのはあんまりです……っ』
(野苺は『白雪月餅』にするのが一等美味ですが、水果凍にしたり、お茶にしても美味しくいただけますのに……!)
『白雪月餅』とは白州の伝統茶菓子だ。牛奶や砂糖を加えた餅の中に、野苺餡でくるんだ野苺の果実を入れて作る、白雪のような月餅である。
(もちもちとした弾力、ひんやりと心地よい冷たさ、そして優しい甘さの餡に、甘酸っぱいみずみずしい果実……っ。まさに今、口に含んだかのように鮮明に思い出せます)
苺苺は両頬に手をあて、じゅわりと口内に広がる母特製の『白雪月餅』に思考を飛ばす。
脳内では雪のごとく繊細な生地がもちもちと伸びて、のびて、のび〜て……ぱちんっ。
『はっ!』
苺苺は弾かれたかのごとく戻ってきた思考に、頬の緩みを戻す。
(異国から白州にやってきた菓子職人によって根付いたお茶菓子ですので、王都の人々がその存在を知らないのも無理はありません。けれど皆様、野苺は染め物にも最適なのをご存知でしょうか!?)
千切っては投げ、千切っては投げ、と大好物がぞんざいに扱われるさまを青ざめながら眺める。
(よく潰して、丁寧に濾して、色止めの酢を加えたら、布や糸が綺麗な真赭色や桃色に染まります。赤錆のついた鉄を加えた染料で染めますと、あら不思議。紫色に! 女官服や纏花を作ったり、刺繍を刺したり……。組紐や房飾りを作るのもよさそうです。甘酸っぱい良い香りもほんのりと残りますし、この機会に皆様でぜひ染め物体験でも……っ)
『伝わってくださいまし、この熱き思い!』
と、熱心に念じながら見つめていた苺苺を、宮女たちはヒソヒソと噂話をしながら顔を顰めて煙たがる。
そんな中、苺苺の頭にはぴこんと名案が閃いた。
『そうですわ! わたくしも木蘭様ぬいぐるみのお衣裳に、野苺で染めた布や糸を使ってみたいです! 木蘭様の瞳の色も鮮やかに表現できそうですし、はぁぁ、きっとかわゆい仕上がりになりますわっ』
頬に手を当てた苺苺の紅珊瑚の瞳がきらりと光る。
推しへの愛がこもった布や糸を使ったら、木蘭に向けられた悪意を祓うのだって、今まで以上に力強くなりそうだ。
(なにより、自らの手で愛情をかけて育てた果実を使って、こだわりの染色を施した布や糸で木蘭様ぬいぐるみを製作できるだなんて、なんという贅沢の極み!)
その工程を想像するだけで、木蘭様への熱き想いが溢れて胸がいっぱいになる。
『このまま雑草として堆肥になるのでしたら、わたくしがすべて根っこから引き抜いたところで、咎められたりはしないはずです。なによりもったいないですしね!』
苺苺はさらなる推し活のため、野苺の苗を貰い受けに行くことを決意する。
そうして、そのままの勢いで雑草抜きの宮女たちのもとへ突撃したのだった。
『すみません。お捨てになるのでしたら、そちらの野苺の苗をいくつかいただけませんか?』
白蛇妃の突然の来訪に、宮女たちは嫌悪を隠さぬ忌避した様子で顔を見合わせた。
そうして、礼も取らずにクスクスと笑い声を響かせる。
『申し訳ございません。下女の私どもに白蛇妃のお手伝いなど勤まりません』
『必要な雑草がございましたら、どうぞお好きに引き抜かれては?』
『雑草が欲しいだなんて、白蛇妃様は変わっておられますね』
彼女たちは今しがた手で握りつぶしている野苺の苗並みに、苺苺をぞんざいに扱った。
草抜きに命じられるのは、様々な雑事や洗濯を司る浣衣局の下女だ。
妃嬪たちからは『懲罰房』とも呼ばれ、窃盗や悪事を働いた女官が堕とされることもある。
そんな宮女たちが皇太子殿下の妃に対して随分な対応である。これが苺苺でなく他の妃であれば、彼女たちは揃って打ち首になっていてもおかしくない。
けれども変わり者の苺苺は宮女を咎めることもなく、『まあ、そんな。好きに引き抜いていいのですか?』とホクホクの笑顔で道端にしゃがみ込む。
『〝どれがお好きな株かわからないので、好きに選り分けてください〟と言ってくださったのですよね? もとより自分で引っこ抜く予定でしたが、妃であるわたくしが道端にしゃがみやすいようにお言葉を選んでくださるだなんて、皆様がお優しくてよかったです』
『は? いえ、私たちはそんな……』
『ご親切にありがとうございます!』
『いえ、親切ではなく……』
『ではでは、さっそくお言葉に甘えまして。じゃんじゃん行きますよー! はい、じゃーんっじゃんっ』
苺苺は宮女たちの引きまくった視線を物ともせず、散歩用の大袖の襦裙を土まみれにしながら、青々と葉が茂る『これぞ!』という野苺を選んで好きに引っこ抜きまくったのだった。
結局その日は木蘭とは会えなかったのだが、代わりに水星宮の庭には小さな野苺畑ができた。
と言っても、今残っているのは洗濯桶を代用して作った五株ほどの寄せ植えだけだが。
農作物を自らの手で育てた経験がなかった苺苺は、実家の庭師の仕事を思い出しながら、せっせと野苺の株を庭土に植えてみたものの、土が痩せていたのと日当たりのせいで大半がやられてしまったのだ。
最後まで残ったのは、室内観賞用にと、野苺の株を詰めて運んできた洗濯桶の中に御花園の土と一緒にそのまま植えていたものだった。
(やはり庭師が定期的に肥料が施されている栄養豊富な土は違いますね)
そんな野苺桶は現在、収穫にはあと三日ほどかかりそう、というところである。
(水星宮が陽当たりがもう少し良ければ、今日この時、野苺の果乾菓子を猫魈様に楽しんでいただけましたのに)
「にゃー、にゃぁう」
「いいえ! お山に帰られる前に、やはりしっかりと食べなくては。……そうですわ! ここを出られたら、わたくしの住む水星宮にいらしてください。食事が届くはずですから、たらふく腹ごしらえをしてから出発なさっても遅くはないはずです」
「なう、なぁぁん」
「ふふ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。半分こいたしましょうね」
苺苺は膝先にすり寄ってきた三毛猫にしか見えない猫魈に指先を優しく伸ばし、もふもふの顎を撫でる。
「それにしたって、こんなにかわゆい猫魈様を飢餓で苦しめたうえ、最上級妃である木蘭様を襲えと命じられるなんて……血も涙もない方ですわ。一体、どこのどなたなのでしょうか? お名前や特徴など、覚えておられることはありますか?」
苺苺は猫魈の嫌な記憶を刺激しないよう、そっと尋ねる。
「にゃぁぁぁ」
「なるほど、道術での契約ですか……。猫魈様のお命に関わるため、お名前も特徴も言えないのですね」
「にゃー」
「大丈夫ですよ。恐ろしい女官の方が後宮に実在しているのだと、わたくしはちゃんと信じています。どうか猫魈様のお命を大事にしてください」
猫魈は目を細めて安心した様子を見せる。
そしてお気に入りのぬい様を噛み噛みしながら、苺苺の膝で丸くなった。
(もし……この投獄がその女官の方の手引きであれば、わたくしたちは証拠隠滅のために消されてしまうかもしれません)
話がひと段落して静かになった獄中で、苺苺は猫魈と自分の今後の処遇について考え始める。
(木蘭様のお命も危険に晒されていますのに。こんなところで、わたくしがいなくなるわけには参りません。もちろん、恐ろしい女官の方に利用された猫魈様も)
けれど、あやかし用の穴蔵のように暗い牢の中では、『弁明する余地もなく、もしやこのまま……?』と悪い方向に思いを巡らせてしまう。
歴史上では『白蛇の娘』の出自を畏怖して、直接手を下す人間はいなかった。
しかし猫魈を非道に操り、幼い木蘭をその牙に掛けようとした女官ならば、他の方法で手出ししてくる可能性も考えられなくはない。
「にゃ〜う」
「ううっ。慰めてくださってありがとうございます」
「にゃー」
「はぁぁ。猫魈様のもふもふで、疲れも吹っ飛びます……」
ぐすっと涙を我慢しながら、苺苺は毛並みにそって猫魈の背を優しく撫でる。
そうやって静かにひとりと一匹が心を交わしあっていると。
石畳を蹴るように、カツンと靴の音がした。
外が見えない牢の扉の向こう側で、なにやら数人の男性の喋り声が聞こえる。
きっと宦官が沙汰を言い渡しに来たに違いない。
苺苺と猫魈は揃って目を見合わせてから、不安げな表情で扉を見つめる。
少ししてから、無遠慮に扉が開かれる。扉の前には、苺苺を捕らえた宦官とは別の宦官がいた。
「皇太子殿下の命により、白蛇妃を無罪とし釈放する。外へ出ろ」
「……ありがとうございます。あの、猫魈様は……?」
「あやかしは城外の道士に引き渡す予定である」
宦官たちの悪い顔を見るに、酷い刑罰を与えるつもりだ。
(彼らのこの様子では、『猫魈様は本当は女官に操られていたのです』と伝えても、誰も取り合ってはくれないでしょう)
こんなにも本質は優しく穏やかな猫魈を、友人を、苺苺は見捨てられるわけがなかった。
苺苺は巻きつけた手巾に血が滲む手のひらを、決意とともにきゅっと握りしめる。
「そ、それでしたら猫魈様を、わたくしにいただけませんでしょうか」
「なんだと?」
「どうするつもりだ」
「わた、わたくしが……ばばばば罰を与えますわっ!! いいい怒りが、おさまりませんので!!」
嘘をつけない性格である苺苺は、嘘がバレないように目を瞑る。
そして慌てふためきながら、なんとか言葉を言い切った。
「罰だと? いったいどんな罰を下すというのだ」
「『白蛇の刑』です!!」
「し、白蛇の刑!?」
「そんな、白蛇の刑……だと……!?」
「なななんと恐ろしいことを考えるのだ!」
苺苺の適当に思いついた出まかせに、宦官たちはそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「わ、わ、わかった。あやかしを『白蛇の刑』に処すことを許そう。籠をこちらへ……!」
一番年上の宦官が、後ろに控えていた若い宦官に命じる。
「ありがとうございます」
苺苺は符の付いた鳥籠を受け取ると、できるだけ邪悪に見えるように微笑みを浮かべる。
その顔は、宦官たちをさらに震え上がらせた。
◇◇◇
――時は遡り、一刻前。
「木蘭は眠ったようだ。明朝に木蘭が呼ぶまで、お前は自室へ退がるように」
「かしこまりました」
貴姫・朱 木蘭の住む紅玉宮にて。
龍を思わせる漆黒の角が生えた悪鬼の半面を被った美青年が、跪く上級女官の横を通り過ぎた。
紺青の黒髪を高い位置でひとつに結い上げ、紫を基調とした武官の衣裳を纏った長身の青年からは、微かに木蓮の花の匂いが香る。
その腰に下げた長剣には、ひと目で皇帝の血筋であるとわかる意匠が施されていた。
口元がさらけ出された仮面の下で、美貌の青年の唇が蠱惑的に微笑む。
悪鬼の恨みで害されぬよう代々受け継がれている『悪鬼面』を被った彼こそ、この皇太子宮の主――病弱だという噂の皇帝の長子、燐 紫淵であった。
紫淵が訪れた際に上級女官の彼女以外はすでに下げられていたため、紅玉宮は静まりかえっている。
なので紫淵は堂々と紅玉宮の敷地を出て、目的地に向かうために東八宮の中央に伸びる回廊へと向かった。
(……それにしてもおかしい。今日は久方ぶりに体調がいいな。あんなことがあった後だというのに)
だるさや眠気はなく、いつもより身体が軽い。胸の痛みはあるが、歩けないほどではなかった。
(もしかして白蛇の娘の異能か?)
不思議に思いながら東八宮の門の前まで行くと、守衛の宦官が紫淵の姿に驚き慄いた様子で跪いた。
紫淵は眉ひとつ動かさず足早に門をくぐり、目的地である皇太子宮内の警備を担う宦官の詰所へと向かう。
これ以上、彼女の身になにか起きる前に、事を済ませなくてはいけない。
「夜分にすまない。本日、白蛇妃を捕らえた宦官はいるか」
詰所にいた宦官たちは、突然現れた皇太子殿下の姿に驚いた。
彼がここへ来たのは初めてのことだ。
噂によると皇太子殿下は昨年の暮れより体調を崩しがちになり、皇太子宮の封が解かれてからは、ほとんど床に伏していると聞く。
今年の清明節では幼女に剣舞を舞わせたほどだ。
政務の場に現れなくなったという噂は本当だろう。
線が細く儚げな体つきは確かに脆弱そうで、日に当たっていない肌はどの宦官よりも白い。
――だが。
長い脚を捌く彼の足取りは、手練れの武官のように……恐ろしいほど足音がしなかった。
武官の衣裳を身につけているせいか、悪鬼面のせいか、冷厳な雰囲気に呑まれて背筋が凍る。
「聞いているのか。皇太子宮に現れたあやかしの件で、幾人かの宦官が白蛇妃を牢に入れたはずだ」
頭を垂れて跪く宦官たちを前に、紫淵はやわらかな、慈悲深さすら感じられる声を出した。
「お、恐れながら、殿下。私どもにございます」
「午の刻、鏡花泉の北の四阿にて、殿下の寵妃様を害そうとしたあやかし二匹を捕らえました」
「私が槍の柄で処罰いたしました」
「私は縄を掛けました」
「牢に封じたのは私でございます」
よく肥えた五人の男たちが顔を上げ、我先にと自分の手柄を報告する。
「ほう?」
紫淵は男たちの顔をひとりずつ、ゆっくりと見た。
薄笑いを浮かべた男たちは玉のような汗をかき、甘露を待ち望むように締まりなく口を開いて、さらに言葉を募ろうとする。
褒美だ。褒美がもらえる。
他の宦官たちは五人の男たちを羨ましいとさえ感じていた。しかし。
「では、今名乗りを上げた者たちを捕らえよ。厳正なる判断をせず冤罪を押し付け、宦官ごときが私の妃に手を上げた罪は……極刑に値する」
悪鬼の面の美丈夫は、すらりと長剣を抜いた。
「まさか、褒美がもらえるとでも思っていたか? ――侮るなよ」
平伏したくなるような美声が、低く、冷酷無慈悲に告げる。
――悪鬼だ、と誰かが言った。
あやかし用の牢獄を出ると、空には満月が出ていた。
戌の刻を告げる鐘が、月夜の後宮に響く。
(昼間はあんなに暖かかったのに、夜はとても涼しくなりました。少し肌寒いくらいです)
苺苺は猫魈とぬい様が入った鳥籠を手に肩を擦りつつ、先導する宦官の後ろを歩く。
彼の名は朔宵世。
東宮の侍童として宮廷に入って八年。十八歳という若さで、皇太子殿下の身の回りの世話を一手に担う宦官の筆頭、〝東宮補佐官〟にまで異例の昇進を遂げた端麗な容姿の青年だ。
木製の細やかな透し彫りが施された提燈を手に持って現れた彼は、「この先は僕が預かる」と告げて、牢から出た苺苺の身柄を他の宦官たちから有無を言わさず引き取った。
墨をこぼしたような黒髪は、うなじの辺りの短さで整えられている。
宦官ではあるが、中性的な美貌と涼しげな杏眼という組み合わせは、目の保養になると女官人気は凄まじいらしい。
だが男性にしては細腰なその見た目と、皇帝陛下が命じたという異例の地位から、他の宦官達からは『皇帝陛下の稚児』などと邪推されてやっかまれている。
というのは、先ほど目の前で繰り広げられた宦官達の言い争いから、苺苺も知ったことだった。
そんな宵世の性格は厳格そのもの。
後宮の規律や歴史を重んじるからこそ、苺苺への当たりも非常に厳しかった。
なにしろ歴史上での白蛇妃は、妃嬪を害した犯人と記される方が多い。
(皆様とても刺繍の腕が優れた優しい方々で、まったくの濡れ衣です。『白蛇の娘』に代々伝わる書物に書き加えられている文字を見ればわかります)
後世の『白蛇の娘』へ正しい知識を残そうと、書き連ねられた言葉は思慮深く、儚い。
自分の二の舞にはならないでほしいと切々と願い、姉のように書物からそっと語りかけてくる彼女達が、下手人であるはずがなかった。
しかし、それを証明できる人間はいない。
皇帝陛下や皇太子殿下に過去の事件の再調査を依頼することすらできない。
苺苺もまた、彼女たちと同じ――『白蛇の娘』なのだ。
(けれども、わたくしが後宮に来たのは『白蛇の娘』の冤罪を晴らすためではありません。わたくしはお慕いしている木蘭様を全力で応援し、お守りするためだけに馳せ参じたのです)
だから、こんな扱いに怯んでいる場合ではない。
苺苺の瞳はごうごうと熱い炎で燃えていた。
宵世が手に持つ提燈が薄暗い夜道を照らす中、りーんりーんと春の虫の音が響く。
高い塀に囲まれた通りを行き、知らぬ名の門を潜り、知らぬ廻廊を通ったところで、苺苺は「あのう……東宮補佐官様」と宵世の後ろからおずおずと話し掛けた。
「わたくしの住まう水星宮でしたら、こちらの門ではなく、あちらの門を通ってまっすぐ進んで北側の、鏡花泉のそばにあるのですが……?」
「ええ。もちろん場所は存じております」
「でしたら、東宮補佐官様はどちらに向かわれているのでしょうか……?」
苺苺はあやかし用の地下牢の場所が後宮のどこに位置するのかサッパリだったため、彼の道案内に疑問を持っていなかった。
が、見知った通りに出たことで、ようやく彼が自分をおとなしく水星宮に帰すつもりがないと気がついた。
苺苺は冷やりとしたものを感じて、固唾を吞む。
「『白蛇妃に滋養料理を』と、皇太子殿下より命を賜りましてございます。大変遅い時刻ではありますが、御花園の四阿に特別な夕餉をご用意いたしました」
「夕餉、ですか?」
「ええ」
皇太子殿下不在の第一回目の選妃姫において、審査員である皇后陛下と四夫人のそばに控えて進行役をしていた宵世は、苺苺を終始無視していた。
苺苺の番になり詩歌を披露しようとすれば、一言目を発す間も無く、『もう結構です。次の方、お入り下さい』と宵世に部屋からの退出を告げられたのは記憶に新しい。
それがどうだろう。
今は終始丁寧な口調で対応し、優等生的な微笑みまで浮かべているではないか。
(いったい、どういった風の吹き回しなのでしょう? 今夜の夕餉は猫魈様と半分こする予定ですのに。まさか! 白蛇の刑が怪しいとバレ、て……!?)
不安でドキドキと心臓の鼓動が増す。
(どどどどうやって切り抜けたらよいでしょうかっ)
「にゃぁお?」
ご飯たくさん? と目を輝かせた猫魈が、鳥籠の中でおすわりをしながら首を傾げる。
「しーっです、猫魈様」
苺苺は慌てふためきながら鳥籠を胸に抱き込んで、小声で猫魈に注意した。
「白蛇妃様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、お気遣いありがとうございます。ですがその、夕餉ならば水星宮でいただきますので、そちらに運んでいただければ、けけけ結構です」
(とにかくお断りを入れて水星宮に帰らなくては、わたくしだけでなく猫魈様も酷い目に合わせられ――)
まるで思考を読んでいたかのように、妃の歩幅など考えずにスタスタと先を急いでいた宵世が、ぴたりと立ち止まる。
彼は静かに苺苺へ向き直ると、ニコリと作り笑いを浮かべた。
「白蛇妃様。白蛇の冠をいただく貴女様が、皇太子殿下のお慈悲を無下になさるおつもりで?」
「え!? いいえ、そんなまさかっ」
まさか最下級妃が、皇太子殿下の命令逆らうつもりか?
そう言外に聞かれているのだと察し、苺苺は慌てふためく。
宵世はニコリと作り笑いのまま頷くと、何事もなかったかのように歩き出した。
「貴姫様のお命を助けられたのです。本日ばかりは〝千年の冷宮〟で過ごされずとも、天罰は与えられぬでしょう」
丁寧な対応ではあるが、宵世の物言いはどことなく不満そうで、刺々しく感じられる。
千年の冷宮とは、最初の『白蛇の娘』が入宮した時に皇帝が読んだ詩の一節を抜き取った呼び名だ。
【在往後的千年、皇太子將再也不會有造訪白蛇娘子所居住之水星宮的時候了吧。】
『これより千年が経とうとも、白蛇の娘が住まう水星宮を皇太子が訪れることはないだろう』
というその詩の一節から転じて、『あやかしと交わった末に生まれた異能の娘として、冷宮で天罰を受けている』と揶揄する時に使われる。
宵世もそう告げたいのだろう。
彼の墨色の瞳は、明らかに苺苺を嫌悪している色を含んでいた。
そんな宵世の様子に、苺苺はぴーんとひらめいてしまった。
(東宮補佐官様はこんなにもわたくしを嫌っておられるので、白蛇の刑の嘘がバレていたらもっと嬉しそうに報告なさるはずです。これほどご不満そうだということは……皇太子殿下がわたくしに夕餉を振る舞えと命じられたことに納得が言っていないから。つまり、なにもバレていないということですわ!)
導き出した答えは、それはもう大正解に思えた。
苺苺は『それならよかったです』と、ドキドキしていた胸をこっそりなでおろす。
(けれど、水星宮で夕餉を取るのは無理そうですわね……。それならどうにかお人払いをして、猫魈様と食事をするしかありませんわ)
「にゃーん?」
「大丈夫です、お任せください」
苺苺は鳥籠の中の猫魈と視線を合わせ、静かに囁いた。
宵世に案内されたのは広大な御花園の、東八宮側にある四阿だった。
その中でも最も格式ある〝銀花亭〟に誘うかのごとく、廻廊の灯篭に煌々と炎が灯されているのを見た苺苺は、「ほわっ」と奇妙な悲鳴を上げてから声を失った。
「なんて荘厳美麗な景色なのでしょうか」
揺らめく炎の灯篭に照らされた白い花々の輪郭が淡く輝いている。
花々にあらかじめ水滴が吹き付けられているからだろうか、光の雫がつるりつるりと滑る様子は仙界にでも迷い込んだみたいだ。
「……これも、皇太子殿下がご用意を?」
「にゃあぁ」
鳥籠の中の猫魈は、ぬい様を前脚で捕まえながら小さく鳴く。
あやかしである猫魈でさえも、この幻想的な廻廊には驚いたらしい。
(木蘭様をお助けしたお礼として、短時間でここまで準備をされるとは……。これぞ、皇太子殿下が心から木蘭様を大切になさっている証拠。ああ、木蘭様こそ至高……。わたくしも同じ気持ちです……!)
二階建ての銀花亭へ続く階段の前に着くと、宵世は偽善的な笑みを浮かべて礼を取る。
「それでは白蛇妃様。案内を終えましたので、僕はこちらで失礼いたします」
「はい。ありがとうございました」
どうやらこの先はおひとりでどうぞ、ということらしい。
(東宮補佐官様がいらっしゃらないだけで幾分か気が楽になりましたが、これから配膳や見張り番の女官の方がいらっしゃるのかもしれません。ううう、どう言ってお人払いをしましょうか)
考えながら階段を登って、銀花亭に足を踏み入れる。
銀花亭の名前は、この四阿の眼下に咲く金銀花に由来する。
金銀花は立夏の頃から咲き始め、薄紅色の蕾は開花すると白くなり、受粉すると黄色の花に移り変わる。
まさに後宮に上がったばかりの妃嬪が皇帝に見初められ、国を背負う皇子の母となるさまのようで縁起が良いとして、西八宮側には〝金花亭〟、東八宮側には〝銀花亭〟と名付けられた四阿が建築された。
夜になると、金銀花のさらに甘い蜜を含んだ香りが四阿内に漂う。
それがことさらに甘美で情緒たっぷりだとかで、ここで夜の逢瀬をするのが妃嬪たちの夢らしい。
だが苺苺にとって、甘美な情緒なんてどうでも良かった。
(う〜〜〜っ。どうか、配膳の女官の他には誰もここへ来ませんように! 皆様すぐに帰ってくださいますように!)
他の妃嬪が恋い焦がれるような皇太子殿下との逢瀬など、これっぽっちも脳裏に過ぎりはしない苺苺は、黒い漆塗りの円卓を囲んでいる椅子を引いて腰掛ける。
続いて、猫魈が女官の目に晒されぬよう配慮しながら、隣の椅子に鳥籠を置いた。
「にゃあ」
「はい。白木蓮のいい香りがします」
穀雨の今、金銀花が咲くまでは玉蘭が見頃を迎えている。
銀花亭内には白い玉蘭の花の、やわらかく優美な香りが漂ってきていた。
(ここの玉蘭は、皇太子殿下が寵愛する木蘭様のために植えさせたのだというお噂。貴姫である木蘭様は、もしかしたら日常的にここでお茶を楽しまれているのかもしれません。このお席に座られたこともあるやも)
「……と、いうことはここは聖地……?」
苺苺は木蘭がかわゆくお茶をしている姿を想像して、赤く染まった頬を両手で抑える。
「ど、ど、ど、どうしましょう! 聖地を訪れるのには入念な心の準備が必要ですのにっ」
「にゃーん?」
「ええ、にゃーんでございます!!」
鳥籠の中の猫魈の問いかけに、苺苺は身を乗り出しながら興奮気味に返事をした。
そうこうしているうちに、宮廷料理の膳を持った女官たちが、ぞろぞろと四阿にやってきた。
円卓には、見たこともないほど豪華な夕餉が次々に並べられていく。
前菜には豌豆を使った色鮮やかな翡翠豆腐と、花山椒ときゅうりの酢醤油あえなどのいくつかの冷菜。
伝統的な蓋つきの器に盛られている清湯燕菜はまだ湯気が立っていた。
主菜は魚翅蓋飯、糖醋里脊、薑蔥炒龍躉。
點心は最高級の銀耳と蓮子、紅棗と枸杞子が入った銀耳蓮子紅棗湯。美容に良いと上級妃たちが好んで食べる、氷砂糖の優しい甘さが特徴の極上薬膳湯だ。身体を芯から温めてくれる。
「すごいです、點心まで……!」
苺苺は円卓を埋め尽くす至極の料理の数々に、ほっぺたを緩ませる。
お茶菓子に目が無い苺苺は、甘い湯物も大好物だった。
(女官の方は八人。むむ、多いですね。どうにかしてお人払いをしなければ……。どんな言い訳が良いのでしょうか)
そろりと猫魈と視線を合わせた苺苺は、考え事をしながら女官達をおずおずと見やる。
料理を並べ終わった彼女たちは、白蛇妃への給仕のために欄干のそばに控えて、なにやらヒソヒソ声で話し込んでいた。
「皇太子殿下に久しぶりにお会いできるかと思ったのに、白蛇の相手だなんて」
「迷惑よねぇ。私達だって忙しいのに」
「ここに立っているだけでも十分でしょう?」
「敬うべき相手ではないのだから給仕する必要もないわね」
「あら、給仕するふりをしてお皿を割ってやりましょうよ」
「ふふふ、いいわね。熱い湯で火傷でもしたらいいわ」
「これまで何百年も苦しめられてきた妃嬪たちの仇よ」
「時間はたっぷりあるものね。給仕のしがいがありそう」
その一人と、バチリと目が合う。
「……白蛇妃様、なにか御用でしょうか?」
「いえっ、ええっと」
(どうしましょう、どうしましょう、まだ言い訳を考えている途中でしたのに発言の順番が回ってきちゃいましたっ! 考えごとに没頭しすぎて会話の内容が全然聞き取れませんでしたが、皆様すごくイライラしたご様子で、こちらを睨まれていらっしゃいます……! なにか、この状況を切り抜けられる効果抜群な言葉はないでしょうか!? そう、先ほどの宦官の皆様方のように――ハッ)
苺苺は閃いた。
あの言葉しかない。なにがなんだかわからないが、あの言葉の出番だ。
「皆様聞いてください」
「なんでしょうか」
「い、今からあやかしさんに……『白蛇の刑』を執行します!」
苺苺が告げた瞬間、女官たちの耳にはピシャァァァァン!と雷鳴が轟いたかのように聞こえた。
「し、しろっ、白蛇の刑!?」
「そんな、し、しし白蛇の刑ですって……!?」
「なんて恐ろしいことを考えるの!」
女官たちは身を寄せ合い、やはりそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「こちらのお人払いをしていただかなければ……」
ドキドキと緊張感で胸がいっぱいの苺苺は、できるだけ場の雰囲気を盛り上げるような――恐怖を煽るような表情を作る。
「な、なに?」
「なんなの!?」
「――間違って、巻き込んでしまうやもしれませんんんんん!」
「ひ、ひいぃぃぃぃぃぃいっ!!」
「ごごご御前を失礼いたします〜〜〜っ!!!!」
「わっ私どもはこれにてぇぇぇぇぇぇええ!!!!」
「朝方片付けに参りますので、心ゆくまでお使いくださいぃぃぃぃぃぃ」
女官たちは一斉に顔を真っ青にして飛び上がった。そして転げ落ちるように銀花亭の階段を駆け下りていき、足をもつれさせながら逃げていく。
ここへ来た時の優雅さはかなぐり捨て、我先にと、とにかく苺苺から離れることに必死だった。
苺苺はあまりの様子にポカンと唇を開いたまま固まる。
「皆様の考える『白蛇の刑』とは、一体なんなのでしょうか……?」
「にゃー?」
「わわっ、もうあんなところに。皆様とってもお元気ですね」
苺苺は『白蛇の刑』という謎の言葉の威力を再び思い知るとともに、一難乗り越えたことにほっと胸をなでおろす。
(心臓がいまだにドキドキしています)
けれど「ひぎゃぁぁっ」という悲鳴が遠くの方に消えていくにつれて、だんだんとその鼓動も治まっていくのがわかった。
「……ふう、一件落着です。さてさて、それでは気を取り直しまして」
苺苺は額を手の甲でぬぐう。
それからパッと明るい表情に切り替えると、両手を合わせてパチンと一拍して空気を整えてから、隣の椅子に置いていた鳥籠の扉を開いた。
封印が解かれたあやかし捕り物用の鳥籠から、猫魈がぴょんっと飛び出す。
ちょっと見たところでは三毛猫にしか見えないが、その尾は猫のあやかしらしく付け根から三つに分かれている。
ふわふわの三本の尻尾がふりふりと上機嫌そうに振れるのを見て、苺苺はほっこり頬を綻ばせる。
「わたくしの考える『白蛇の刑』、その一は美味しいお食事です」
「にゃぁん?」
「ええ。まずは食事をたくさんとって、住処に元気にお戻りくださいね。ではでは、木蘭様と木蘭様推しの皇太子殿下に感謝を捧げていただきましょう!」
「にゃー!」
円卓に並んだ豪華な料理を取り分け、「いただきます」と食前の挨拶をする。
「うぅぅ、美味しいです……! もちもち濃厚な翡翠豆腐が、身体に染み渡ります……!」
「なぁぁぁん」
「猫魈様、清湯燕菜はいかがですか? 久しぶりのお食事ですから、最初は胃に優しいものからとお皿に盛らせていただいたのですが」
「にゃう、にゃう」
「そうですか、良かったです。遠慮なさらずどんどん食べてくださいっ」
「にゃんっ」
一人と一匹は大いに盛り上がりながら、美味しい宮廷料理に舌鼓を打った。
しかし、それから四半刻も経たないうちに、一足先にお腹がいっぱいになった苺苺は、「ごちそうさまでした」と食後の挨拶で締めてから、もぐもぐと小さな牙のある口を動かす猫魈を眺める。
「ふふっ、もりもり食べててかわゆいです。……そうですわ、せっかく聖地に来たのですから、この貴重な光景と木蘭様への想いを刺繍で記録しなくては!」
先に食事を終えた苺苺は自分の周囲を整え、袂からサッと簡易裁縫箱と円扇を取り出す。
「にゃむ?」
「ええ。これぞ、木蘭様の聖地に巡礼した者だけが得られる、極上の時間です」
「にゃーん」
「にゃーんですっ」
銀糸を通した刺繍針を手に持った苺苺は、銀花亭でかわゆく微笑む木蘭様を思い描きながら、絹地に刺した木蓮の花に光を纏わせていく。
銀花亭には、猫魈がむしゃむしゃと夕餉を頬張る音と、苺苺の刺繍糸が絹地を滑る音だけが響いている。
――かのように思えていたが。
「くくっ……。君はなにをしているんだ。もしかして、夕餉が口に合わなかったのか?」
いつの間にやら、仮面で顔を隠した青年が銀花亭の柱にもたれるようにして立っていた。
見えている部分は少ないが、すっと通った鼻梁や口元の骨格から彼の美貌は十分にうかがい知れる。
武官のような出で立ちのその美青年は、『面白いものに出会った』とでも言いたげな笑みを艶やかな唇に浮かべると、
「にゃーん、とは?」
と心地よい玲瓏な声を響かせた。
「ひゃっ!」
「にゃっ!」
刺繍と食事に集中していた一人と一匹は、その場で肩を震わせぴゃっと飛び上がる。
猫魈は自分の置かれている立場を理解しているのか、脱兎のごとく円卓の上から逃げ、武官に見つからないように小さくなって隠れた。
(おおお音もなくこんな近くに……! ま、まさか恐ろしい女官の方のお仲間でしょうか!?)
「な、なにやつですっ」
苺苺は刺繍針の先をビシッと青年に向ける。
鼻から上が隠れているお面のせいで顔の表情はわからないが、美青年は針の先に――異能持ちと噂の『白蛇の娘』が向ける武器に怖がる様子も驚いた様子もなく、苺苺のそばに足を進める。
(……足音がしません)
重心移動が上手い武官は総じて手練れなのだという父の言葉が、苺苺の頭をよぎった。
「なにやつとは失礼な。俺は燐紫……ごほん。ただの武官です。皇太子殿下の命を受けてここへ来ました」
「こ、皇太子殿下の武官様でしたか」
となると、禁軍の独立部隊とも称される青衛禁軍に属する――東宮侍衛を行う、由緒正しき血筋の精鋭武官だ。
緊張気味に刺繍針を下ろした苺苺は、目の前に立つその武官の青みが強い黒髪に気がつき、はっと我に返って最上級の礼を完璧にとる。
「高貴なる春宵の明星にご挨拶いたします。皇太子殿下より白蛇の冠を賜りました白家当主が娘、苺苺でございます」
明け方の黎明、あるいは黄昏の夜空のような青みがかった黒髪は、悪鬼を封じる力を持つ燐家特有のものだ。
普通は皇太子となる公子様に宿るそうだが、稀に先に生まれた公主様にも受け継がれる場合があり、臣籍降嫁の関係で貴族の家にもごくごく稀に青みを帯びた黒髪の持ち主が生まれるという。
闇夜の中では判別しにくいが、灯籠の光に透けて色鮮やかな濃紺が目に入り、苺苺は一瞬言葉に詰まった。
(彼はきっと、皇帝陛下に近しいお方)
以前、木蘭様と共に実家を訪れた朱家の佩玉を持つ般若護衛より、彼の方が燐家に近しい血筋を引いているに違いない。
その証拠に、目の前の彼は堂々と苺苺の礼を受け取ると慣れた所作でそれを制し、「どうぞ楽に」とこちらへ告げた。
どうやら推測と違わず彼は九華の出身であり、それも白家の長姫の苺苺よりずっと身分の位が高い血筋にあるらしいことが、その一連の動作で理解できた。
(お名前をお教えしてはくれそうにありませんね。相当高貴なお血筋の方なのやも)
警戒心を強めるに越したことはない。
こちらへ歩み寄ってきた武官を、苺苺は礼を解きつつそっと上目遣いで観察する。
あの時、すぐに猫魈が彼から見えない位置に隠れてくれて良かった。宦官や女官に通じた『白蛇の刑』の言葉も、この武官には効きそうにない。
(よくよく見ると被られているのは悪鬼面のようです。仮名として悪鬼武官様とお呼びいたしましょう。それにしても、皇太子殿下の直属の方は皆様悪鬼面を被られているのでしょうか? 後学のためにもお伺いしてみませんと)
なんて考えながら、じーっと観察し過ぎていたのがバレたのだろう。
悪鬼武官は首を捻ると、これまた慣れた様子で「発言を許す」と鷹揚に口にした。
苺苺は白家の姫として、正しくお辞儀で応える。
「ありがとうございます。ご質問なのですが、武官様のそちらの悪鬼面は、」
問いかけようとしたところ、『白蛇の娘』の針にも怯まず堂々と立ち振る舞っていた悪鬼武官が、ピシリと音を立てたように固まった。
けれどそれを背筋を伸ばしただけと捉えた苺苺は、そのまま言葉を続ける。
「皇太子殿下の直属武官の証でしょうか? 皆様被っておられるのですか?」
「いや。これは、その……」
歯切れの悪い返事をした悪鬼武官は、表情は見えなくとも『しまった』という雰囲気をしていた。
どうやらこの貴人の繊細な部分を突いてしまったらしい。
そう気がついた苺苺は「はっ」慌てて口元を覆う。
(やってしまいました。どうしましょう、なにやら困惑されているご様子。なんだか逆に怪しくも感じてしまいますが、なぜそんなに困惑されて――)
思考を巡らせていると、ハッと脳裏に、【女官もすなる推し活といふものを、文官もしてみむとてするなり】の冒頭から始まる有名な日記文学小説、『尊さ日記』を思い出す。
入宮前に後宮の推し活を知りたくて読んだその内容は、後宮で流行中の文化に憧れた文官がこっそり皇帝陛下の推し活をする、時々くすりと笑えてほろりと泣ける楽しいものだった。
女官は妃嬪応援活動を嗜み、その威を借りてある意味堂々と代理戦争を行っているが、官吏にその風潮はなく、今は隠さねばいけないらしい。
そのため『尊さ日記』の作者は古語を使い、女人の言葉遣いでもって皇帝陛下の推し活をする日常をしたためていた。
(――はっ。ということはつまり、この方は世間の風潮を鑑みた上で、皇太子殿下を推されているお気持ちを悪鬼面でもってこっそり表現なさっているのですね!? 市井では演劇一座の役者さんの衣装を真似て仮装をしたり、女装や男装をしたりして推し活をなさる方もいらっしゃるとか。悪鬼武官様のお立場でしたら、有事の際には身代わりにもなれます。なんと粋な推し活でしょうっ)
「素晴らしいです!」
「は?」
「わたくし絵姿でしか皇太子殿下をお見かけしたことはございませんが、重厚な素材感、色彩など、どれをとっても圧倒されます! そして年代を経てついた細かな傷への心遣い、ひとつひとつへの深い解釈の滲む再現……尊敬いたします!!」
「は、はあ……。ありがとう、ございます?」
「わたくしも推し活をする者として、より一層励まなくてはいけませんね」
(木蘭様……今頃何をなさっているでしょうか。健やかにお過ごしであればよいのですが)
苺苺は頬に手を当て、ほうっと感嘆のため息を吐く。
「なにを言っているのか少しもわからないが、とりあえず良かった」
悪鬼武官は苺苺が自己解釈で勝手に疑問の答えを導いてくれたことに、こっそりと安堵した。
彼は苺苺が頬に当てていた手へに吸い寄せられるように己の手を伸ばすと、そっと優しくすくい取る。
心ここにあらずの状態だった苺苺は「ひゃっ」と驚きの声を出し、蛇に睨まれたかのごとくかちこちに固まった。
白蛇はそちらだろうに。
そう心の中で思いつつ、悪鬼武官は艶やかな口元をふっと緩める。
だが、その唇はすぐに閉じられた。
手巾で簡易に包帯が施されたていた苺苺の左手のひらは、赤黒い血が付着していた。
今もなお出血が止まっていないのか、赤い鮮血も滲んでいる。
「……やはり怪我を」
「これはその、しょ、諸事情で、自分で切ったのです」
(あやかしさんに対抗するために異能の血が必要だったので、とは言えませんっ)
「痛くはないのですか」
「へ? そうですね、そう問われると少し痛いのですが」
「……そうですか」
悪鬼武官の声が心なしか沈んでいる。
(なぜこの方がこのように意気消沈されているのでしょう?)
苺苺ははて?と首を傾げて、「ですが」と続ける。
「大切な方をお守りできた、名誉の傷ですので」
道術を操る恐ろしい女官の毒牙から木蘭を助けることができたのは、この傷を負ったからだ。
戸惑いもなく全力で鋏の刃を立てたので、ズキズキした痛みは時間が経つに連れ増している気もするが、それよりも木蘭を助けられた幸福感で胸がいっぱいというのが今の気持ちだった。
苺苺は尊すぎる木蘭のかわゆいお顔を思い浮かべて、大輪の花がほころぶような微笑みを浮かべる。
「――――っ」
悪鬼武官はその笑みを真正面から受けて、小さく息を呑んだ。
彼は『なにか見てはいけないものを見てしまった』と言わんばかりに唇を真一文字に引き結ぶと、懐から咄嗟に取り出したものを開いて、ふわりと、苺苺の表情を隠すように頭上から被せた。
「わわっ!」
「っ、外さないでくれ」
「ええっ?」
「それからこれは、謝罪の品として受け取っておいてください。背中の打撲傷にも良く効きます」
視界不良になった中、苺苺の手のひらに冷たい感触の硬質ななにかが握らせられる。
「えええっ!?」
「なんと言えばいいのか。その、……礼を言う。――ありがとう」
「あっ、お、お待ちください――!」
苺苺はわたわたと慌てながら頭上から被せられた広い布を引っ張り、悪鬼武官に問いかけようと顔をあげる。
「背中の打身をなぜご存知で……って、いらっしゃいません」
拓けた視界には、もう誰もいなかった。
きょろきょろと辺りを見回すも、人影すら見当たらない。
静けさを取り戻した銀花亭には、木蓮の香りが先ほどより濃く香っていた。
「にゃーん?」
「猫魈様、隠れていてくださってありがとうございます。ご無事でなによりです」
「にゃおん」
「はい。どうやら披帛と……薬壺のようです」
頭から被せられていたのは、紗織りで作られた上質な薄絹の披帛だった。
白木蓮に反射する月光と灯篭の光を帯びて、まるで天女の羽衣のごとくきらめいている。
人々が忌避し喪服としてしか纏わぬ純白は、白家にとって尊ぶべき色だ。
この状況からして、死装束として与えられたのではなく、白家出身の苺苺を慮ってこの色を贈ってくれたのだろう。
(もしかして夜の肌寒さを心配してくれたのでしょうか? お礼も、皇太子殿下に代わって伝えてくださったのでしょうし、お気遣いがとっても細やかなお方です)
苺苺は手のひらに握らされていた小さな薬壺に視線を落とす。
紫水晶を思わせる硝子製の遮光壷には白木蓮が描かれていて、精緻を極めた細工が凝らされていた。
硝子製というだけでも相当な価値がある高級品だと分かるが、見るからに腕利きの匠によって製作、絵付けを施された特注の工芸品だ。
(これでどれ程の刺繍糸が購入できるでしょうか……。考えただけでも目眩がします)
蓋を開けてみると、中身は数種類の生薬を混ぜ込んだ匂いのする軟膏が入っていた。
まだ新しい。精製された色味からして宮廷医による調薬だろう。
(わあ、軟膏の傷薬をいただけるなんて。とってもありがたいです)
なにせ白蛇妃が直接宮廷医に会いに行っても、正しく診察して薬を処方してくれるのかは疑問である。
『お持ちだという異能で治されては?』
と放置されてもおかしくないし、最悪の場合、薬と偽って毒を盛られる可能性も否定できない。
――【後宮には人の顔をした魑魅魍魎が跋扈している】
とは、数代前の『白蛇の娘』の書き残した言葉だ。
〝悪意〟は異能を使って封じられるが、正真正銘の〝毒〟となると避けるのは難しいのである。
(悪鬼武官様は皇太子殿下直属ですし、事件のあらましを聞いて『もしも怪我があれば』とご用意してくださったのかもしれませんね。それにしてもこの意匠は)
苺苺は悪鬼武官から受け取った薬壷を観察する。
「――間違いありません」
キラリと苺苺の紅珊瑚の双眸が光る。
「この紫水晶のようなお色は、絶対に木蘭様の瞳を想像して製作されたもの。そしてこの美しい木蓮の意匠。薬壷にも木蓮をあしらうだなんて、悪鬼武官様も実は木蘭様推しだったのですね……!」
(それでお礼のお言葉やお品と、安全な傷薬をわざわざわたくしに……!)
「にゃ?」
「木蘭様推しの方とはつゆ知らず、楽しいお喋りの機会を逃してしまいましたっ! せっかくの機会でしたのにっ」
もったいなかったです、と苺苺は手にしていた純白の披帛を見つめる。
「お礼もお伝えできずに終わってしまいましたし……。次こそはお茶にお誘いして、ぜひともお友達になれたらよいのですが」
「にゃおん」
「ええ。恐ろしい女官の方の脅威から木蘭様をお守りするためにも、木蘭様をお慕いする者同士の情報交換が必要だと思うのです。次こそ、頑張りましょう!」
「にゃーん!」
「にゃーんなのです!」
木蘭様推しの友人候補を見つけて、今日一日の疲労をすっかり忘れてしまった苺苺は、木蘭を思わせる素敵な薬壷をぎゅうぎゅうと胸に抱きしめ、
「白苺苺、湧き上がる嬉しさを『喜びの舞』で表現いたしますっ」
と誰もいない舞台上で宣言するやいなや、くるくると踊りながら猫魈と大いに戯れたのだった。
◇◇◇
そんな白蛇妃の様子を、銀花亭がよく見える位置にある楼閣から見守る者たちがふたり。
「どうやら上手くいったみたいですね、紫淵様。すごく喜んでおられるようです。紫淵様が銀花亭に仮初めの妃を招くと聞いた時には心底驚きましたが、急いで準備させた甲斐がありましたね」
「ああ、そうだな……」
「『白蛇の娘』も、やはり年頃の女人ということでしょうか。贈り物であんな風に喜ぶとは、想像もしていませんでした。彼女が少しでも贈り物を雑に扱えば、僕が回収してこようと思っていたのに残念です」
「ああ、そうだな……」
「おや。僕が回収しても良かったのですか?」
「………………………」
仙界と見まごうほど幻想的な銀花亭で、楽しげに舞い踊っている白蛇妃の、真珠色の真っ白な長髪が灯籠の明かりを受けてきらめいている。
月花の光をまとう披帛がひらひらと空を駆け、白く輝く世界を彩りはためく。
やわらかな襦裙の裾は、彼女がくるくると舞うたびに大輪の花のごとく開いた。
まるで清廉な月宮殿の仙女が人間に隠れて戯れているかのようだ。
三尾の猫のあやかしがぴょんと円卓から跳び上がり、上機嫌で彼女の肩に乗って、風に舞う羽衣を追いかけながら彼女の腕を移動する。
それがより一層、非現実的な風景を作り上げていて、紫淵はただただ見事だと思った。
(あの猫のあやかしが持つ本来の気性を知れたのは、白家の姫君の判断力の賜物だろう)
そのお陰で、紫淵もこれが単なるあやかし侵入事件の末の事故ではなく、木蘭を暗殺しようとしている何者かが背後で糸を引いている可能性に気がつけた。
……それにしても。
(あんなに純粋無垢な笑みを、かつて向けられたことがあっただろうか)
紫淵の瞼には、こちらを見上げる彼女の笑みが焼き付いていた。
やわらかく細められた、白妙のけぶるような長い睫毛に包まれた大きな紅珊瑚の瞳が、心底愛おしげに己を映す……その笑みが。
胸の奥底に甘い痺れが走り、ぎゅっと切なく締めつけられる。
紫淵が思考の海に浸りつつ眼下を眺めていると、ふと、朧げな記憶が蘇る。
そうして、酷い呪詛に蝕まれていた幼い自分の命を救ってくれた、七歳の少女と重なった。
(……そうか。かつても、彼女は)
丑三つ刻、悪夢のような嵐の中――悪鬼の呪詛に蝕まれて鬼と化し、死を待つしかなかった九歳の紫淵のもとに、次期白家当主の兄・白静嘉とともにやって来た『白蛇の娘』。
あの頃、紫淵の皮膚には激痛をともなう悪鬼の呪詛が這いずり回り、頭部には鬼の角が生え揃い、確かに醜い姿に変わり果てていた。
だが彼女は、そんな姿の自分に怯まなかった。
彼女は幼い少女とは思えぬ所作でてきぱきと動き、清らかな水を汲んできては手ぬぐいを絞ると、紫淵の額に浮かぶ玉の汗を一生懸命に拭ってくれた。
(そうして彼女の命を削ってまでも、俺の命を……)
『未来の紫淵殿下は凛々しくて、お強くて、とってもかわゆい方なのです。……だから、ご安心ください。死んだりなんか絶対にしませんから』
彼女は何度も、まるで未来でも見てきたかのように力強く口にする。
あの激励が、幼い自分にどれほど響いただろう。
(彼女の手を握って礼を告げたいがために、〝どんな手を使ってでもこの後宮で生きながらえてやる〟と誓ったのに……。なぜ、今まで忘れていたんだ)
こんな強烈な記憶をすべて忘れていたなんて不自然だ。
(呪詛を無理やり封じた影響だろうか。この怪異に侵され始めたのが十歳を越えたあたりだったのを考えると、辻褄は合う。……それにしても。なんだか大切な感情を忘れている気がして、胸の奥がもやもやする)
彼女も、あの様子ではすべて忘れているのだろう。
同じように忘れているのならまだいい。
ただ、異能を持つと噂の『白蛇の娘』を頼った依頼人のひとりとして、有象無象と一緒くたに記憶の奥底に沈んでいるのなら寂しいと思った。
「…………どちらにしろ、もっと手際良く渡す予定だったのに」
と紫淵は思わず顔を覆って、深く長い溜息をつく。
彼女の笑みをみた瞬間、胸が鷲掴みされたみたいに苦しくなり、つい咄嗟に披帛で彼女の顔を隠してしまった。あんな粗野な渡し方は自分らしくない。
(ただでさえ大きな問題を抱えているんだ。できれば妃嬪とは一切関わり会いたくない。だからわざわざ名乗り出るつもりもなかったし、実際そうした)
そうした、のだが。
なぜだか、あの『白蛇の娘』のことになると胸になにかがつっかえたような妙な気持ちになる。
「はあ……。紫淵様、どうなさいましたか? ぼーっとしておいでのようですが」
「わからない。ただ目が離せないというか、もっと見ていたいというか、見ていて飽きないなとは思っている」
「なんですかそれは」
皇太子の住まう〝天藍宮〟――いわゆる東宮御所直属の筆頭宦官、宵世は胡乱げな様子で自らの主人を見上げる。
紫淵の幼馴染にあたる彼は、厳しく辛辣な部分もあるが頼り甲斐のある補佐官だ。
紫淵が病気で宮に篭っている間も、執務室で上手く立ち回ってくれている。
だがその補佐官でさえ、後宮の歴史に倣って白苺苺が紫淵の脅威になると考えているらしい。
(果たして脅威になるだろうか? 観客もいない無人の四阿で心のままに舞い踊る、あの白蛇妃が)
紫淵は『白蛇の娘』と初めて相見えた時の――いや、本来ならば二度目であった邂逅を思い出す。
(正義感の強い、実直な娘だと思う。多少、自己犠牲的なところはあるが)
その印象は自身が九歳であった頃と寸分違わない。
(対価も要求せず、褒美もねだらず、心遣いを真摯に受け止めて喜ぶ。そのような女性が本当にこの世に存在しているとは、今でも信じがたい。後宮で生まれ育った俺にとって、女性とは……常に自分だけが愛されるためだけに競い合い、嘘をつき、妬み、自身の手を汚さずに殺しあう生き物だ)
血の繋がった皇后からでさえ、本当の意味での愛など与えられた記憶がない。
妃嬪とは、皇帝から向けられる寵愛を争う生き物なのだ。
だからこそ、最下級妃の白苺苺が皇太子殿下の寵姫と噂の木蘭を、凶暴化していたあやかしから助けるという捨て身の行動には、驚嘆するしかなかった。
(あの時、君は死んでいてもおかしくはなかった。他ならぬ――俺自身が、そう感じたのだから)
幼い身体は不測の事態にとっさに反応できず、その一瞬の遅れのせいで、懐剣を抜くことすらできなかった。
だから懐剣を抜く一瞬を作るために、短い足に全力を集中させて、駆け出すほかなかったのだ。
まあ、それでも鍛錬の成果を無に返す幼くて短い手足のせいで、思いっきり転んでしまったのだが。
(対峙すれば、喰われる。あの大型の猫のあやかしと目が合った瞬間、本能でわかった)
そんな状況下で、純粋な正義感から多少無謀な行動を取る様子は、他者を貶めていた歴代の『白蛇の娘』とは一線を画している。
宵世は『狂言じゃないか』と進言したが、そうは思えない。
大体あの状況ではどうあがいても彼女に利益などないし、もし狂言をするような妃嬪ならば大切な身体を杖で打たせるような真似も、あやかし用の地下牢に投獄される真似もしないだろう。
(そもそも、あんな表情で木蘭を心配できる人間が犯人なわけがない。脅威は他にある)
確固たる確信があるからこそ、紫淵は自らの手で宦官たちを粛清したのだ。
(紅玉宮の外からもたらされる脅威のみを警戒していたが、抜かったな。だが、それにしても……。彼女が『白蛇の娘』というだけであれほどまでに虐げられていたなんて)
妃嬪を避けての生活を徹底していた己のことだ。此度の事件がなければ、皇太子宮を出るまで知る由もなかっただろう。
体調の問題もあり、皇太子としての政務以外に手が回っていないのは己の落ち度。
しかし、これほどまでに聞き及んでいる報告とは異なる皇太子宮の様子に、なにか改善策を打ち立てねばと思う。
(父上ならば『後宮の管理は皇后に任せている。皇太子宮もそれに倣え。妃嬪の争いに朕やお主が出る幕はない』とおっしゃられるだろうが、そうともいかない。なにせ皇太子宮の最上級妃は)
木蘭だ。
「宵世、今夜中に白蛇妃の置かれている状況を調べてくれ」
「……どういう風の吹きまわしです?」
「妙な顔で見るな。べつに他意はない」
「だと良いのですが。ここに集められているのは〝仮初めの妃嬪〟だと、本日は何度ご説明したらよろしいので? 紫淵様が妃嬪に目を掛ける必要はありません」
銀花亭から完全に身体を背けた宵世は、眉を吊り上げて紫淵を咎める。
宵世が〝仮初めの妃嬪〟だと呼ぶ理由は、もしも燐家最大の秘密を知ってしまう妃嬪が出たら、皇帝陛下の命により粛清対象となるからだ。
病死か、毒による暗殺か……後ろ暗い親兄弟の罪を詮索され、なんらかの汚名を着せられることになるかもしれない。
(無駄な死をもたらさないためにも、できれば皇太子として誰とも深く関わることなく、怪異が解けるまでの時間を稼げたらいい。それこそが、ひいては皇太子宮に住む多くの人間のためになる)
「木蘭様のお命を第一に考えると、妃嬪は総入れ替えなんて事態もありえます。皇帝陛下の命令に従い、口封じをせねばいけない場合もあるでしょう。すべての処断を紫淵様がなさるんです。――白蛇妃様も含めて」
「……わかっている」
わかっているからこそ、他の妃嬪には一瞥すらくれたことはない。境遇に興味を抱いたこともない。
ましてや、贈り物など――。
「誰かを見初めようだなんて思っていないから安心してくれ」
そう口にしつつ、紫淵は少し残念だと思うような、胸の内側を引っかかれるような……もやもやとした感情が燻っているのに無理やり蓋をして……――深追いするのを止めた。
「とりあえず事は全て済みました。不眠症と胸の痛みに関しては宮廷医のところにでも行って、それから朝まで政務ですよ。紫淵様の時間は貴重なんですから、白蛇妃なんかに構っている暇はありません。行きましょう」
「……わかった」
紫淵は遠い銀花亭で贈り物を抱きしめる苺苺をひっそりと目に焼き付けてから、をひらりと踵を返す。
灯の消された提燈を持った宵世は、周囲に人の気配がないことを探ると、主人の背中を守るよう暗い闇に溶けた。
◇◇◇
その後――。一人と一匹が喜びの舞で大いに戯れ、再びお腹が空いた猫魈が残りの料理をたらふく食べて、円卓に乗る皿が全て空っぽになった頃。
猫魈のお気に入りになっていたぬい様が、鳥籠の中でザクッ! と刃物に切りつけられたかのような音を立てて裂けた。
「ふみゃっ!?」
「あわわわ、猫魈様、大丈夫ですか!?」
大きな音に驚いた猫魈が円卓から滑り落ちる。
苺苺は毛を逆立てた猫魈を抱き上げると、安心させるように背中をよしよしと撫でた。
「すみません、猫魈様。まさかこんなに早く壊れてしまうとは思わず、怖がらせてしまいましたね」
普段ならぬいぐるみに呪靄が封じられて裂けるまで、毛髪を一本入れた完璧な状態でも十二刻はあるはずである。
(それが不完全な状態にありながら、たった半日ほどで裂けてしまうなんて)
木蘭を象ったぬいぐるみに封じられるのは、木蘭へ向けられた悪意だけ。
けれど呪靄程度ではこんなに早く裂けたりしない。
(ということは、猫魈様を操って木蘭様を襲わせようとしていた方の、計画失敗時点から抱いていた強い悪意が呪妖に変化し続けていて……先ほどまでひっきりなしに封じられていたということに。この形代は完璧とは言えませんので、封じられていない祓いもれもあるはずですわ)
抱いていた猫魈をそっと円卓に乗せてから、苺苺は鳥籠の中で裂けたぬい様に手を伸ばす。
「危ないですから、こちらは回収させていただきますね」
「ふみゅうぅ」
猫魈の耳と尻尾がへたりと垂れ下がる。
自分がせっかくもらったお気に入りのぬいぐるみが、苺苺の手に戻るのが悲しいのだろう。
あまりにも悲しそうな表情をする三毛猫に、苺苺はぬい様を袂に仕舞いながら「申し訳ありませんっ」と罪悪感でいっぱいになった。
(つい繕い直して与えたくなってしまいますが、ここはグッと我慢です)
「――そうですわ。代わりにこちらを」
苺苺は肩にかけていた純白の披帛をするすると取って、その薄絹の中央の一部に、銀糸を通した刺繍針を刺した。
スイスイと異能を使って針を刺し進め、魔除けの花葉紋を描いていく。
それから刺繍を施した部分一帯を丸くして綿を入れながら縫い止め、最後にふわりと舞っていた猫魈の毛を入れて、鈴を模した布偶を作り上げた。
これは猫魈を象徴した形代だ。
(猫さんと言えば、やっぱり鈴ですよね。猫魈様は三毛猫さんにそっくりですし)
銀糸で施した花葉紋の刺繍のおかげで、光沢のあるおしゃれな鈴がついた披帛に見える。
これから先、猫魈に向けられる悪意はこの形代に自動的に封じられるだろう。
山奥に住んでいるというから、人間から悪意を向けられるほどの接触はないかもしれないが、もしまた悪意を持つ道士に捕まりそうになったら、形代が身代わりとなって道術を封じられるかもしれない。魔除けの刺繍もきっと役に立ってくれるだろう。
(……それがどれほど持つかは、わかりませんが)
悪意が封じられる限界を超えると、先ほどぬい様のように切り裂かれて壊れてしまうわけだが、集まった悪意が精製されて純度の高い呪いへと姿を変えると、瘴気を放つ燐火が生じる。
形代が壊れて燐火に呑まれるまでには少しだけ時間の猶予がある。
いつもはその間に形代を安全に処理するのだが、猫魈にそれができない。
(けれど燐火が生じたとしても、猫魈様はあやかしさんです。強い瘴気を放つ燐火も安全に取り込んで、逆に自身の霊力の蓄えとできるはずですわ)
霊力が増えればあやかしとしての位もあがる。
並の道士に使役されることもなくなるし、一石二鳥だ。
「猫魈様、こちらが『白蛇の刑』その二でございます」
「にゃっ?」
「ふふっ、贈り物です」
苺苺は音の鳴らない鈴付きの披帛を猫魈の首に巻き、後ろで可愛らしく蝶結びにした。
「本日、悪鬼武官様からいただいたお品は、木蘭様をお助けした感謝の印にくださったもの。ということは、わたくしと猫魈様、ふたりのものです」
苺苺はそっと猫魈のつぶらな瞳と視線を合わせる。
「わたくしは傷薬をいただきましたから、こちらは猫魈様に。わたくしたちの友情の証です」
「ふにゃ……っ」
ぱぁあっと猫魈の表情が明るくなる。
そして妖術を使って、長かったふわふわの蝶結びを現在の体躯にぴったりの短さにしてみせた。
「わあ、お似合いですっ。かわゆいですよ」
「にゃおんっ」
猫魈はありがとうと感謝のひと鳴きをする。
「悪意を封じる刺繍を施していますから、猫魈様を必ずやお守りするでしょう」
苺苺はふわふわの蝶結びを整え直し、夜空の月を見上げる。
(猫魈様と出会ってからの一日は、長かったようで短い、不思議な一日でした)
――そろそろお別れの時間だ。
猫魈にあやかし捕物用の鳥籠にもう一度だけ入ってもらい、二階建ての四阿の階段を降りると、闇夜に紛れてコソコソと御花園の奥を目指す。
御花園の奥地には後宮の城壁と、宮廷の城壁の屋根が重なり合う部分がある。
(そこさえ越えれば、城の外です)
りーん、りーんと春虫の音だけが辺りに響いている。
虫が苦手な苺苺であるが、今夜ばかりは城壁警備の宦官に見つかりやしないかと、そっちの方にドキドキしていた。
(でも……城壁警備の宦官の方、あまりお見かけしませんね)
夜に出歩いたことはないが、ここは後宮。想像ではもっと多いと思っていた。
それとも今夜はなにか問題が発生して、どこか別の場所に集まっているのだろうか。木蘭の件があった後だ。その可能性も十分にあった。
しばらく進むと、目的地であった城壁の前にはまったくひと気がなかった。
しかも、ちょうどよく植え込みには置き忘れられたらしい長梯子があるではないか。
雑然とした放置の仕方からして、御花園の庭師ではなく城壁警備の宦官が急用かなにかで慌てて隠し置いた雰囲気だ。
(ふむ、急な腹痛のお手洗いでしょうか? それは大変です。すぐにお返ししますのでお借りいたしますね)
と心の中で声をかけ、苺苺は物音を立てないように慎重に長梯子を城壁へ掛けた。
「私の手が城壁の上を越えたら、結界に傷つくこともありませんからね」
よいしょ、よいしょ……と城壁に登った苺苺は、鳥籠から猫魈を出す。
そして自らの手で、その外へと送り出した。
「にゃぁん?」
「そうです、これが『白蛇の刑』のその三、帰郷のお手伝いです。……危ないですから、もうお城に入ってはいけませんよ」
三毛猫の猫魈は名残惜しそうに苺苺を見つめると、城壁の向こう側へひらりと跳躍する。
純白の友情の証が風に靡いた。
「にゃーお、にゃおん」
「はいっ。猫魈様も、どうかお元気で。道中お気をつけて!」
三つの尾が揺れるふもふの背中に、苺苺は小さく手を振る。
こうして苺苺は、後宮で初めてできた友人と、笑顔でお別れしたのだった。
ひとりきりになると、なんだか疲労がどっと押し寄せてくるものである。
(思い返してみると、忙しい一日だったかもしれません)
物寂しい気持ちになりながらコソコソと御花園を出て、心身ともにクタクタになった苺苺が水星宮に帰ると――室内は、酷い有様だった。
「し、白蛇ちゃんだけでなく、白蛇ちゃん抱き枕までもが……!」
円卓に置いていた一尺のぬいぐるみだけでなく、寝台に横たわっていた三尺のぬいぐるみまでもが、無惨に引きちぎられズタボロになっていた。
「ひ、ひぇえ……っ。白蛇ちゃん抱き枕までやられるなんて……。こんなことは初めてです」
大きい抱き枕ぬいぐるみは、通常の白蛇ちゃんの十倍以上の効力を発揮する。
しかし、大抵は抱き枕ぬいぐるみに悪意が及ぶ以前に、通常の白蛇ちゃんが身代わりとなってくれるので、ズタボロにされたのは初めてだった。
「よ、よほどわたくしに恨みつらみが……。どなたでしょうか……。やっぱり、猫魈様を木蘭様へけしかけた恐ろしい女官の方でしょうか……」
「おおお恐ろしや!」と苺苺は誰もいない水星宮で飛び上がった。
無駄にビクビクと周囲を警戒しながら、新しい身代わりを用意する。
それから袂に入れていたぬい様を取り出すと、ズタボロになった白蛇ちゃんたちと一緒に棺にしている木箱におさめ、「よいしょ」と抱えて、水星宮の奥へと向かった。
湯殿の外には、やっつけ仕事で造られたような小さな竈がある。そこで湯を沸かして盥で湯船に運ぶのだ。
「深夜ですがひと仕事です」
苺苺は白蛇ちゃんたちを薪と一緒にくべると、火打ち石を持ち、手慣れた様子で火をつけた。
ズタボロの白蛇ちゃんたちが赤い火に呑まれる。
煙が天に登った。
「本日もお守りくださあり、ありがとうございました」
苺苺は感謝の気持ちでそれを見送る。
「は〜〜〜。春の夜は冷えますね。ささ、早く温かいお風呂に入っちゃいましょう。湯浴みを終えたら、新しい木蘭様ぬいぐるみを作らなくては」
水星宮の湯殿の湯船といえば人ひとりが入れるくらいの木桶が置かれているだけで、他の妃たちの宮の湯殿より何倍も小さく、それはそれは簡素らしい。女官たちの噂で聞いた。
が、この木桶がまた湯を満たすのに時間がかからなくて便利がいい。
排水も掃除も楽なので、苺苺にとっては優れもののお気に入りである。
(なんたって、余った時間で刺繍がうーんとできます)
「恐ろしい女官の方の脅威はまだ去っていないはずです。木蘭様をお守りするためにも、徹夜でたっくさん作っちゃいましょう! えいえいおうですわ! ふんふんふ〜ん」
苺苺は鼻歌を歌いながら、白蛇ちゃんをくべた火で湯浴み用の湯を沸かすのだった。
「失礼いたします。白蛇妃様はいらっしゃいますでしょうか」
水星宮の扉を叩く音が聞こえる。寝台の上で数多の木蘭ぬいぐるみに埋もれて眠っていた苺苺は、「ハッ」と飛び起きた。
(徹夜でぬい様を製作しているうちに、いつの間にか意識を失っていました……。ああでも、たくさんのぬい様に囲まれて眠ったおかげか、睡眠時間は短いはずなのに超回復している気がします)
「ふっふっふ、まるで禁断の仙薬をキメた気持ちです!」
苺苺は寝ぼけた頭でおかしなことを口走る。
「もし。水星宮の女官の皆様? いらっしゃいませんか?」
「は、はい、います! 少々お待ちくださいませ!」
窓の外を見るに、尚食局の女官が来る時間にはまだ早い。
(後宮の朝餉はほとんど昼餉という感じですものね)
そう思っているのは実は苺苺だけなのだが、彼女はそれを知らない。
苺苺の朝餉が遅いのは、尚食局の女官たちが互いに仕事を押し付け合っているためである。それで朝餉の時間が終わるギリギリの頃に、冷め切った御膳を持って、嫌々ながらしぶしぶやってくるのだ。
(どなたでしょうか? この声、どこかで聞いたことのあるような、ないような……? と、その前に着替えなくては)
苺苺は慌てて寝台を降り、簡素な衣装に手早く着替えて、扉を開ける。
そこには昨日見た顔があった。朱色を基調とした衣をまとった、木蘭付きの上級女官だ。
「白蛇妃様……?」
上級女官は出てきたのが妃本人だったことに驚いた様子で一瞬ぽかんとすると、すっと礼のかたちを取った。
「前触れも出さずに突然のご訪問、申し訳ございません。私は朱貴姫の女官を務めております、侍女頭の朱 若麗と申します」
(皇帝陛下の後宮では〝貴妃〟に相当する貴姫の冠をいただく最上級妃、木蘭様の上級女官……。それも、木蘭様と同じ血筋の)
瞠目した苺苺は、無礼に当たらぬよう即座に礼を取る。
「朱家の姫君、若麗様にご挨拶いたします。白苺苺でございます」
家格を差し引いても、妃と女官という立場から身分は同等か。
いや、現皇后陛下の縁者なのだからやはり彼女の方が上になる。
(それに朱家の若麗様と言えば『月琴の名手』と名高い、朱州を治める朱家当主の三の姫に違いありません。確かお祖母様は朱家に臣籍降嫁された公主様で、若麗様自身も現皇后陛下の姪御様に当たる高貴な血筋の姫君です)
もしも木蘭が後宮に上がらなければ、現在十八歳の若麗が後宮に上がり貴姫となっていただろう。齢六歳の木蘭と比べて、皇太子殿下との年齢も近く遥かに釣り合いが取れている。
だがそうならなかったのは、幼い木蘭の方が彼女よりもさらに朱皇后陛下に近しい存在だったからなのかもしれない。
「まあ、苺苺様。今の私めは一介の女官、本当に気にしないでください。どうか若麗とお呼びくださいね」
若麗は苺苺に気を使わせぬようにか、優しく微笑みながらそう言った。
苺苺を忌避している様子はまったくない。
物腰も柔らかく、話していると〝姉〟のような親しみやすささえ感じられる。
(先ほどまでのように『白蛇妃』ではなく、あえて『苺苺』とわたくしの名前を呼ばれたのは、妹妹と音を同じくされたのやも。偏見がなく、洒落っ気に溢れた親切な方なのでしょう)
苺苺の中の若麗の存在は、一瞬にして『木蘭様付きの信頼のおける女官』にまで爆上がりした。
人との会話、それも木蘭関連の話に飢えていた苺苺は、うずうずが抑えきれなくなる。
「わたくしったら、お客様にお茶もお出しせずに申し訳ありません。ささ、お上がりくださいませ」
(若麗様は、尚食局の女官の方と伝令の宦官の方以外で水星宮を訪ねてくださった、初めてのお客様です。張り切っておもてなしをしなくてはっ)
こうして苺苺は期待できらきらと目を輝かせながら、紅玉宮で暮らす木蘭の可愛いこぼれ話など聞きたさに若麗を部屋の中に招き入れたのだった。
円卓の前にあるひとつしかない椅子を若麗に勧め、それからいそいそと湯を沸かす。
お茶菓子はないので申し訳ないが割愛し、苺苺は水星宮の女官さながらにお茶を出した。
「こちら、野苺の葉で淹れました薬草茶です」
「の……野苺の葉の、お茶でございますか?」
「はいっ」
実家ならば『お嬢様がお茶を、それもお手製の野草茶を出すなど言語道断』と彼女付きの侍女に咎められそうな光景だが、ここに苺苺の侍女はいない。
若麗に至っては女官という立場から妃にお茶を、それも得体の知れない野草茶を振舞われたことに目を丸めて驚きつつも、水星宮の主のもてなしを断ろうなどとはしなかった。
どちらもお人好しなのである。
「水星宮の庭園にて、わたくしが手塩に掛けて育てている最中なのです」
苺苺はやや照れた表情をしながら胸を張る。
茶葉は定期的に各妃嬪に下賜されると聞いていたが、まだ一度も届いていない。
実家へ茶葉を送ってくれるように手紙を書こうかとも思ったが、王都から遠い白州との距離を考えると、野草や薬草で自作した方が早かった。
「水色はかの十三大銘茶のひとつ、君山銀針を思わせる色合い。味わいはスッキリと爽やか……。舌先にほのかに残る甘みは絶妙で、一度飲んだら忘れられないこと間違いなしです!」
「た……確かに、一度飲んだら忘れられないかもしれません」
若麗はお茶の水面を見つめてから、わずかに緊張気味な愛想笑いを浮かべる。
「いただきます。………………あっ、美味しい」
恐る恐るという様子で茶碗に口をつけた若麗だったが、ひとくち飲んでから口元を隠し、感嘆の声を上げた。
「ふふっ、お気に召していただけてよかったです。薬草茶ですから、健康に良い効能もあるのですよ」
「そうなんですか? 例えば、どのような効果があるのでしょう?」
「ええっと、そうですねぇ。主に美容効果と消化器系の不調改善効果でしょうか。お肌を若々しく保つために必要な成分が含まれていたり、むくみをとったりできるそうです。健康面では健胃薬としての作用や、腎臓や肝臓の調子を整える効果もあります」
利尿作用や浄化作用が強く、腎臓機能不全にも効果があるらしい。
消炎鎮痛作用もあることから、どこに毒が仕込まれているかわからない後宮で飲用するにはもってこいかもしれない。
「まあ、そんな効果が」
苺苺が丸暗記していた効能をすらっすらと説明すると、若麗は驚きに目を丸めながら茶碗を見つめた。
「けれど薬草とは時に毒にもなります。ですので、細心の注意を払って丁寧に天日干しをした葉だけをお茶として使用しています。じっくりと焦らずお日様の光を吸収させるのが、野苺の葉茶の良いところを引き出す秘訣なのです」
「なるほど。この爽やかな甘みはお日様が育てた味ですのね」
「はい」
白州では伝統菓子『白雪月餅』のために庭先で野苺を栽培している家庭も多い。
そのため幼少時より親から口を酸っぱくして伝えられるのが、『銀狐の童歌』だ。
【戀慕公主的銀狐、化身為藥師後偷取了野苺的葉子。
不知道桃仁的銀狐、將其熬煮嗚咽有聲。
還不夠成熟的藥師銀狐、使公主將其喝下嗚咽有聲。嗚咽有聲、嗚咽有聲】
(野苺の葉は腐敗する過程で酶を生み、葉に含まれていた成分と結びつくことで毒になります)
葉に含まれる成分は、生薬として使用する桃仁、杏仁、枇杷仁がしっかり乾燥していない時に生じる毒と同じだ。
しっかり乾燥させていない桃仁、杏仁、枇杷仁を体内に取り込んだ際に急性中毒が発生し、場合によっては死ぬこともある。
童歌は桃仁と同じ毒が、しっかり乾燥できていない状態の野苺の葉にはあると示している。
銀狐はそれを知らなかったので、病床にあった姫に薬湯として丁寧に献献と飲ませたが、多量の毒で昏睡状態になった。婚姻を結ぶ予定だったが姫はとうとう待ち合わせの場所には来ず、銀狐はひとり悲しみに泣いたという……薬草を取り扱う際の教訓を伝える歌だ。
(わたくしもより一層、常日頃取り扱いに気をつけなくては。幼い頃は自分でこっそり煎じて失敗してしまい、それはもう大変でした……)
野苺好きがこうじて初めて作った、野苺の薬草茶。
たっぷりの果実を入れて飲んだ時のあの味は、いまだに忘れられない。
『美味しい』とごくごく飲み干したものだが、後から思えばあれこそが〝有毒茶〟だった。
(あの強烈な手作り茶事件以来、乾燥が上手くいかなかった薬草茶は見た目と匂いだけでわかるようになってしまいました。特技といえば聞こえがいいですが、もうこりごりです……)
苺苺は蓋つきの茶器の中の澄んだ水色を見つめる。
本日の茶葉は惚れ惚れするほど香りが良く、黄茶のごとく健康的な色合いだ。美味しいだけでなく、薬草茶の名に恥じぬ効果が期待できるだろう。
若麗はしばし考えるような仕草を見せると、「苺苺様」と円卓に茶器を置いて居住まいを正した。
「こちらの薬草茶を少し分けていただくことは可能でしょうか? 先ほどの効能を聞いて、木蘭様に体調がお悪い時にお出ししたいと思いまして……」
「む、木蘭様にですか?」
「はい。できましたらで構いません。手作りともなるとお大変でしょうし――」
「いいえ! まあ、まあ、ぜひっ!」
若麗の頼みに、苺苺は食い気味に身を乗り出す。
「木蘭様にわたくしの作ったお茶を飲んでいただけるだなんて、感無量です……!」
そしていそいそと木蓮を刺繍した巾着を取り出し、その中に手作り茶葉を分けて入れた。
「こちらの葉茶は冷え込んだ日などにお出しするのは控えられてくださいませ。胃腸が冷えすぎてしまいますので」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ、木蘭様のためなら朝飯前でございますわ」
ふたりはその後もお気に入りの茶葉の産地や、摘み取り時期による味わいの違いなどを語らいながら親睦を深めると、しばし和んだ。
木蘭様のお茶の好みなどを聞いて、舞い上がっていた苺苺はしばらくして「ハッ」と現実に帰る。
「そういえば、どうして若麗様がこちらに?」
「そうでした。こちら、苺苺様宛に木蘭様がしたためた文にございます」
「まあ! 木蘭様からの文!? さっそく額縁に入れて家宝にいたしますわ!」
苺苺は若麗から受け取った文を、胸にぎゅうっと抱きしめる。
「苺苺様!? まずはどうかご一読御くださいませ」
「はっ。わたくしとしたことが、つい高ぶってしまいました……」
木蘭が白州の実家に訪問する際に届いた文は、その痕跡を消すために、父がすべて燃やしてしまった。なので、『推し直筆の文は燃やされる前に全部保存しておきたい欲』が、人前にも関わらず暴れてしまったのである。
「な、なんと書いてあるのでしょうか……?」
「文の内容は確認しておりませんので、私にはちょっと」
「そうなのですね。ああ、なんだかドキドキして手に汗握ってしまいますわ。……すーぅぅ、はーぁぁぁ。……よ、読みます」
深呼吸をして、浅く早かった呼吸を整えてから、上質な手触りの紙を広げる。
苺苺はそこに記された内容を見て、「えええぇぇ!?」と素っ頓狂な声を上げたのだった。
若麗を見送った後。
苺苺は本日も遅めにやってきた朝餉を食べ、急いで身支度を整えた。
「大変です、大変です、これは大変なことになりました……!」
苺苺は衣装箪笥から一張羅の白衣の大袖を取り出す。
これは皇太子宮に上がった初日に着た〝白蛇の白衣〟だ。白州の上質な絹を特殊な針と異能を使って自ら縫い上げ、金糸を使って蛇の鱗のような刺繍を施した破魔の装束である。
「ままままさか、木蘭様の宮にお呼ばれされるとは。夢のようです……!!」
推しである木蘭様が――最上級妃が開くお茶会に呼ばたのだから、散策時のような気軽な襦裙で伺うことはできない。
鏡の前で薄く化粧をしてから着付けを終えると、最近は手慣れてきた髪結いに取り掛かる。
長い白髪の半分を結い上げたら、三つ編みした髪の束を輪っかになるように左右に下げ、残りの髪は後ろに垂らす。結った部分にいくつかの簪をさしたら完成だ。
大きく長い袂にはいつもの簡易裁縫道具を忍ばせる。
さらに、徹夜で作ったくさんのぬい様を藤蔓で編んだ籠の中にせっせと全部詰めて、早足で水星宮を出た。
そして昼下がりの今――苺苺は木蘭の住まう紅玉宮に来ていた。
苺苺は紅玉宮の侍女頭である若麗に案内され、瀟洒な調度品で揃えられた客間に通される。
水星宮の十倍は広いその部屋には、雛鳥のように可憐な真赭色の衣装を着た木蘭が待っていた。
彼女はいつものように、濡羽色の黒髪を鬼の角のようなお団子に結い上げ、残りの長髪を背に垂らしている。上質な薄絹で織られた髪飾りがお団子の下でふわふわと揺れている様子は、春の妖精のようですこぶる可愛らしかった。
「白家の姫君。妾の宮にわざわざ来てもらってすまない」
「皇太子殿下の寵する可憐なる玉蘭、貴姫様にご挨拶申し上げます。こちらこそ、本日はお招きいただきありありがとうございます」
「ああ。格式張った場ではないので、どうか楽に過ごしてほしい」
(ふぁぁあっ! 本日も大変お可愛らしいです、木蘭様……! それに、なんだか良い匂いがします! これは紫木蓮の花の香り……っ。きっとお庭で手ずから育てられた紫木蓮を、毎日頑張って花瓶に活けられているのですね。おもてなしのお気持ちのこもった、素敵なお部屋です!!)
幼い彼女の完璧な気遣いから『木蘭様の一日』の妄想が捗り、苺苺はぱぁぁっと、とろけるような笑顔を浮かべながら答える。
対して、昨日よりもいくらか顔色の良い木蘭は、しゅんとした様子で頭を下げた。
「あやかしから守ってくれたこと、誠に感謝している。あの時は妾の力が及ばず、不敬な宦官たちの手による投獄を止めることができなくて申し訳なかった」
「そんな、頭をお上げください。もう本当に、あの、胸がいっぱいです……っ」
苺苺は大好きな木蘭の前で頑張って取り繕っていた。が、初めて推しの宮に招待された緊張と興奮で頭がどんどん混乱してきて、段々とわけがわからなくなってきていた。
胸が熱くて、目がぐるぐると回る。
「白家の姫君」
「ど、どうか苺苺とお呼びくださいまし!!」
「では、苺苺と」
(はうぅぅ! 木蘭様に名前を呼んでいただけるなんて、わたくしもう天に召されようとも構いません……っ)
勢いで『後宮へ上がる以前より、ずっとお慕いいたしております!!』と口走り言いそうになるのをぐっと堪えて、真っ赤に染めた頬を隠すように円扇で顔を隠す。
「……っ! その、木蘭様にお怪我なくて何よりでした。昨日はあれから大丈夫でしたか?」
「ああ。妾の心配よりも、苺苺の方だ。宦官に打たれ、縄をかけられて投獄されたというのに……。怪我の具合はどうなんだ? 流血もしていただろう」
「怪我は……す、少し、青あざになった程度でしたので、ええ、その、すぐに治ると思いますわ! 切り傷もいただき物の傷薬を塗ったので、それほどっ」
苺苺は紫木蓮の両面刺繍が鮮やかな絹の円扇で顔を隠しながら、幼い姫君を心配させまいと嘘をついた。
本当のところは、昨晩ひとりになった途端に緊張の糸が切れたせいか背中がズキズキと痛んで、湯浴み中もかなり沁みたところだ。お風呂あがりに鏡で見たところ、青あざもひどかった。
糸切り鋏で切った手のひらの肉はぱっくりと開いてはいたが、塞がり始めた部分もある。
まだ少し血が滲んでいたので、ここへ来る前に包帯を取り替えてきた。
(わたくしが自分で飛び込んだのですから、幼い木蘭様には余計な心配や責任を感じてほしくありません。怪我が目に触れぬよう、念入りに気をつけねば)
苺苺は大袖から指先以外が出ないように所作に注意する。
悪鬼武官からもらった軟膏を塗ってからは格段に良くなってきている気がするので、もうしばらくの辛抱すればこれらの痛みも和らぐだろう。
「だったらいいが……。昨日からずっと苺苺の体調が心配で仕方がなかった。痛ければすぐに言うように。妾が皇太子殿下に託けておく」
「お気遣いくださりありがとうございます」
会話がひと段落ついたところで、紅玉宮付きの女官たちが部屋へ入室し、お茶や茶菓子を円卓の上に並べていく。
木蘭はそれを見届けると、「皆、退がるように」と筆頭女官の若麗とともに全員を退出させた。
六歳の幼妃であるが、見事な主人っぷりだ。
「――それで、本題なのだが」
「はい。内密のご相談があるのでしたよね」
そうなのだ。文には紅玉宮付きの女官にも内緒で、『白蛇の娘』の異能を頼りたいとあった。そのために『白蛇の娘』の正装と、形代となるぬいぐるみたちを持参したわけである。
「以前、白州に伺った時のことは」
「……申し訳ありませんッ!! 昨日のことのようにしっかりと覚えております! 一言一句忘れられませんでした!」
木蘭様は『忘れてくれ』とおっしゃいましたのに、と苺苺は白状する。
しかし木蘭は怒ることなく、
「そうか。内密にしてくれたのだな。恩に着る」
と新春に花が綻ぶような、やわらかな微笑みを浮かべた。
「あっ、あっ、あっ。尊みが深いですっ」
(そんな、当然のことですわ)
苺苺は淑やかな笑みを浮かべる。推しの摂取過多で、本音と建て前が反対になっているのには気づいていないらしい。
木蘭は内心、『尊みが深い? とは?』と首を傾げる。
「朱家の両親から届いた茶菓子だ。食べながら話そう」
「はい。いただきます」
勧められた皿には、桃花の塩漬けを練りこんである鮮やかな桃色をした桃花月餅と、鮮やかな鶯色をした緑豆糕が盛りつけられていた。
どちらも春らしい色合いをしていて、宝石のごとき佇まいにうっとりしてしまう。
(ああ、ふたりきりでお茶会だなんて、心臓がいくつあっても足りないです……っ)
苺苺は舞い上がるような気持ちで、勧められた茶菓子を手に持った。
そして照れ隠しにひとくち食んで、
(……あら?)
と目を丸くする。
さすが紅玉宮のお茶菓子だ。桃花を型どられた月餅は、選りすぐりの材料で作られているのだとわかる上品な甘さとほどよい塩加減がして美味しい。そう、確かに美味しいのだが……。
なぜだか飲み込むたびに、ずくりと胸が痛くなる気がする。
(毒味の女官の方はいらっしゃるはずですし、毒ではないでしょう。となると……これは、まさか)
代々『白蛇の娘』に受け継がれている書物の内容を思い出す。
(――だとしたら、木蘭様の身体が心配です)
早急に対応しなくては。
「今回相談したいのは、その時に話した呪詛の件とは別になると思うのだが……最近、まったく眠れないんだ。不眠症というのだろうか」
「眠れない……。他にはなにかありますか? たとえば、身体のどこかが痛む、というような」
「ああ。清明節の二週間ほど前からだろうか、内側から胸が痛む。食事を摂ると胃が引きつるような感じもして……」
「……やっぱり」
苺苺の予想は確信に変わってしまった。
(幼い木蘭様になんという仕打ちを)
「その症状が時々、消えることがあるのだ。大抵、妾が外に出た日なのだが……昨日は特に顕著だった。この症状は病ではなく呪詛で、苺苺が異能を使って祓っているのだろう?」
木蘭は確信に満ちた様子で問う。
苺苺はビクッと肩を震わせると、罪人のようにしゅんと俯いた。
「はい。木蘭様の言うと通り、わたくしの異能です……。まことに勝手ながら、木蘭様をお守りするために異能を行使しておりました。許可なく勝手をしていた罰は受けますわ」
木蘭様をもう全力で推せないかもしれない未来に震えながら、「どうぞ、煮るなり焼くなりいたしてください」と深く頭を下げる。
「なぜそうなる。妾は苺苺に感謝しているのだ」
「え?」
「苺苺のおかげで、妾はこうして今も生きている。……礼を言う」
「あっ、あっ」
苺苺は感動のあまり、だばーっと涙を流した。
バレたら大変だと思っていた推し活が、まさか、まさか感謝されるだなんて。
「ううっ、ぐすっ……。これからもわたくし、木蘭様を悪意からお守りするために全力を尽くして参ります……! 配慮は最大限に、ですが、もう遠慮はいたしませんわっ!!」
苺苺は袂から簡易裁縫道具を取り出して円卓の上に置く。
そして、持ってきていた藤蔓の籠から布を外し、その中身の物も遠慮なく円卓の上に並べた。
玉匣に入った裁縫道具、海獣葡萄鏡に似た八花形の白銅鏡、朱塗りの銘々皿、絹の円扇にぬいぐるみと、木蘭からして見れば繋がりのわからないものばかりだ。
いや、絹の円扇とぬいぐるみだけはわかるか。
見事な紫木蓮の刺繍と木蘭によく似た人形……とくれば、これが自分に関連付けられるものだということくらい理解できた。
「これは『白蛇の娘』に代々伝わる〝白蛇の神器〟というものです。こちらから『白蛇の鱗針』、『白澤の八花鏡』、『龍血の銘々皿』と言います。わたくしはこの白蛇の神器を使って、自らの血に流れる異能を操り、この世の悪意を祓うことができるのです」
苺苺は涙腺の緩んでいた顔をキリリと引き締め、指先を揃えた手で円卓の上に置いたものたちを差した。
「この世の悪意とは五つの姿があるとされています。〝呪靄〟〝呪妖〟〝呪毒〟〝呪詛〟そして〝怪異〟――」
『白蛇の娘』が書き記した書物には、【この世の病や死は五つの悪意からもたらされる】とされている。
【人間の肉体、精神、魂の三つのうち、肉体か精神が欠けると病にかかり、魂が欠けると死に至る】らしい。
「木蘭様に向けられているのは、呪靄と呪妖、そしておそらく――呪毒です」
思わず静止の言葉が木蘭の口をついたが、鎮火活動を行う苺苺には聞こえていないみたいだ。
そうこうしているうちに、青紫の炎が苺苺の手のひらの上に移る。
底知れぬ不気味な美しさを持つ炎は、しかし踊るように揺らぎ、「ふっ……」という苺苺のひと息でたちまちに消えた。
まるで、命の灯火が消えるみたいに。
「……それは、なんだったんだ?」
「先ほどの青紫の炎は、いわゆる燐火ですわ。元気に燃え盛っておりましたが、ああ見えて見た目だけなので触れても熱くはありません」
「……あれが、燐火」
「その、木蘭様が手にされた時に、円扇に封じられる悪意の限界がきたようです。普段はその時期を見極めて焼却するので、このようなことは初めてで……!」
(もしかしたらご本人が触れたからでしょうか。今後は気をつけなくては……!)
骨組みだけになった円扇の残骸を手に、苺苺はおろおろとする。
「悪意が純度を増したものである燐火には、人間にとって有毒な瘴気が含まれております。他者から向けられた悪意自体は封じられて祓われたあとですが、あのように燐火になると、異能を行使して鎮火しなくてはいけません」
(書物には【出来る限りしてはいけない】と、先代のどなたかの走り書きがありましたが)
それでも今までの人生で二度、燐火を発生させてしまって鎮火した経験があった。今回で三度目だ。
一度目は修行中の身で、異能を操りきれずに。
二度目は七歳の時らしいが、派手に昏倒したせいか、その年は丸々記憶がない。
しかし今回は今のところ体調に大した影響が出ていないので、肉体が成長するとともに異能の力も成長しているのかもしれない。思わぬところで自分の成長を実感する苺苺である。
「なるほど。すごいものを見た。それが、苺苺の異能の一部なんだな」
「はい。こちらは一応、わたくしが回収させていただきますね。七つまでは何が起きてもおかしくはありませんから、木蘭様は触れられないようになさってください」
苺苺は円扇の残骸を大袖の中へしまう。
それに異能の術を使った証拠が残っていては、木蘭以外にバレた時に面倒になる。
「すまない、せっかくの大作を」
「いいえっ。これでまた、木蘭様を想って新しい図案を考える楽しみができましたわ!」
(はぁぁぁっ、想像力が掻き立てられます……っ)
「次の作品では木蘭様の初夏の装いにぴったりの図案を考えますから、ぜひ贈り物にさせてくださいませっ。あああ、そうですわ! 先日、わたくしの実家から朱色の絹が送られてきましたの。良かったら破魔の衣裳も作らせてくださいまし……!」
王都の市井で行われている推し活では、推している演劇一座や演者本人に宛てて熱心に贈り物を送ったり、姿絵を購入して間接的に貢いだりすると聞く。
全力で推し活をしてきた苺苺だが、〝白蛇〟の冠をいただく最下級妃という立場上、最上級妃への贈り物だけは許されなかった。木蘭に媚びたい他の妃たちに牽制されていたためだ。
(こんなに全力で推しに貢げる絶好の機会……逃しません!)
「衣裳は……燃えるのか?」
「破魔の衣裳は、悪意を寄せ付けないために特別な技法を用いて縫う衣ですので、燃えませんわ。ご安心ください」
「そうか。では、いつか貰えたら嬉しい」
眉を優しく下げて、可愛らしい幼妃が目を細める。
(あっ、あっ。この限りない喜びを、木蘭様推しのみなさまと分かち合えたら、どんなにか……っ。そうですわ、あとから若麗様とお話できないでしょうか!? 若麗様は木蘭様の筆頭女官ですし、絶対に木蘭様推しですわよね!?)
後宮妃で推し活をしているのは奇特な苺苺くらいだが、女官には嗜みとして浸透している。
女官たちの推し活は妃を慕って尽くしたり、他の妃を推す女官と応援合戦や代理戦争をするもので、市井の推し活文化も取り入れた木蘭様過激派の苺苺とは若干推し活の方向性が違うのだが――それを知らぬ苺苺は、若麗との楽しいやりとりを想像しながら、『若麗様とお話するのが楽しみですわ』と微笑んだ。
「はっ! わたくしとしたことが、話が逸れてしまいました。……こほん。木蘭様が眠れなくなっている原因は、呪靄によるものでしょう。呪靄はわたくしが刺繍の手を止めてしまうと祓えませんので……おそらく、木蘭様は夜中にも悪意を向けられているということになります」
「夜中にも、悪意が……?」
「ええ。まさか木蘭様が不眠に悩まされているとも知らずに、わたくし、亥の刻から日の出まで、ぐっすりと就寝しておりました……。一生の不覚です……っ」
苺苺はきゅっと両目を瞑って、心の底から悔しがる。
悪意を勝手に収集し封じ込めて祓う形代――ぬい様は、昨日の昼に完成したばかりだ。
(それまでは破魔の術である刺繍しか、木蘭様に向かう悪意を祓うすべがありませんでした。だというのに白蛇ちゃん抱き枕を抱いて、すぴーっと穏やかに就寝していただなんて……っ!!!!)
呪毒を生じさせるほどの呪妖の宿主が発する呪靄なのだから、眼で直接視たらよほど禍々しいものに違いない。木蘭への影響も相当だったはずだ。
苺苺の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。
「その前に。まさか苺苺は一日中、妾を守護するために刺繍を?」
「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」
「は……? 待ってくれ、一日中?」
「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」
推しが毎日幸せであることが、苺苺の幸せだ。
それを叶えるためなら、刺繍の半刻や一刻、いや五刻や十刻だってお茶の子さいさいである。
木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。
ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺苺に、木蘭は無表情で閉口する。
一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服局に配属されている針子女官でもしないだろう。
給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。
その心の向け方は、常人には真似できない。
ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。
「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖の宿主である女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」
「猫魈……そうだったのか」
「猫魈様はその方によって無情にも飢餓状態にさせられ、そのうえで木蘭様を『襲え』と命じられたそうですわ。猫魈様自身にその意志はなく、今回の事態をとても後悔しておいででした」
「となると、女官には妾への明確な殺意があったというわけだな」
「おそらくは。ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が配膳などで触れた対象者の食事に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」
つまりは先ほど苺苺が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。
呪毒は発生源が悪意を向けた相手の肉体を体内から蝕む。
その性質上、特定の人物が口にした時にのみ呪毒が反応が反応し、それ以外の人物が口にすれば霧散する。
苺苺が木蘭に向けられた呪毒を口にして感知できるのは、『白蛇の娘』であるからにほかならない。
(朱家ですでに呪毒に侵されていた可能性も考えられますが、清明節以前から日常的に症状が出ているのですから、紅玉宮での食事が呪毒で蝕まれていると考えるべきです)
今日の茶会は急遽開かれたもの。
朱家から届いて、厨房に保管するまでの間に誰が触れていてもおかしくない。
それでも主人の口に入れるものだから、取り扱いを行うのは上級女官のみに限定されるだろう。
「食事に宿った呪毒は、こちらの銘々皿を使った時にのみ形にでき、祓うことができます」
苺苺はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく『龍血の銘々皿』を手に取る。その名の通り龍の鮮血を塗って作られたものだ。
(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)
食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど自覚のある殺意だ。
苺苺がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから『殺したい』と明確な殺意を抱かれるほど憎まれるような経験はまだ無い。
「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」
「いや。やろう」
「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」
苺苺の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。
それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。
燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。
木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。
(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました〜〜〜!)
「大丈夫ですか!? お怪我は、止血を……っ!」
「なんてことない」
「いいえ重傷です!」
(木蘭様に重傷を負わせたわたくしは完全に有罪ですわ……!)
「わたくし、自主的に牢獄暮らしをいたしますッ」
顔を真っ青にした苺苺の脳内で、会ったこともない皇太子殿下が『そなたの名を牢獄妃に改名する!』と高らかに叫ぶ。
「牢獄妃の異名、謹んで拝命いたしますっ」
罪悪感と絶望感でアワアワと目を回す苺苺の様子に、なんとなくどんな想像をしているのか察した木蘭は、
「投獄は絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」
これくらいで大袈裟だな、と呆れた表情を浮かべる。
「それに。第一、お……じゃなくて皇太子殿下はそこまで鬼じゃない」
木蘭はちょっと不服そうなむくれた様子で、ゆるく首を振った。
「そ、そうでしょうか……ッ!?」
「むしろ皇太子殿下は、『苺苺の手のひらの傷に比べたら、これくらい我慢して当然のことだ』と表情ひとつ変えずに妾に言うだろう」
そうこうしている間に、龍血の辰砂に、ぷっくりとした柘榴石のような――木蘭の血の赤が溶けていく。
契約が正常に行われた証拠を見届けてから、苺苺は「薬箱はどこですか!?」と弾かれたように立ち上がると、急いで木蘭の指の手当をするための綺麗な布と消毒薬を用意した。
悪鬼武官からもらった薬壷を取り出し、軟膏を入念に塗り込む。
真剣に手当てを施す苺苺に気づかれぬよう、木蘭は遠い憧憬を滲ませた切ない双眸で眺める。
「……これでよしっと。湯浴みをされる際は気をつけられてくださいね。とっても沁みますから」
「わかった」
「ふう……、ドキドキいたしましたが、契約は以上で完了です。あとは木蘭様が呪毒の宿った食事に触れるだけで、この銘々皿に呪毒が形を伴って抽出されますので、それをわたくしが封じることで祓えますわ」
「試しにそちらの月餅に触れてもらっても?」と、苺苺は茶菓子を示す。
木蘭が従って自分の月餅を手に取ると――真っ赤な銘々皿の上に、ことり、とどこからともなくまったく見た目の同じ月餅が現れた。
「……は? まさか、その月餅が呪毒なのか?」
「はい。そのようです」
書物によると、どんな飲食物に宿った呪毒も、すべて茶菓子の形をとって現れると書いてあった。
しかし、何もなかった空間から突如現れた月餅は、同じ見た目といえど少し不気味である。
(でも、これが銘々皿の上に現れたということは……木蘭様の食事に長い間、呪毒が宿っていたという動かぬ証拠になります)
苺苺は険しい表情で、目の前の月餅もどきを睨んだ。
さて。呪毒は刺繍でも形代でもなく、白蛇の娘が自らに封じて祓わなくてはいけない。
書物によると、【呪毒の茶菓子は捨てたり腐らせたりすると呪詛になる】とあった。
「どのような味がするのでしょうか。ちょっとドキドキいたします」
「こんな怪しいもの、食べなくてもいい」
「いえ。わたくしが食べなくては、大変なことになりますから。――いきます」
苺苺は意を決して、はむっと食らいつく。
「ん……んんんん!?」
「ど、どうした?」
「お、美味ひいです……! なんということでしょう……。人生で食したお茶菓子の中で、一番美味しいです……っ!」
(なんと繊細な歯触り、洗練された甘みなのでしょうか! 見た目はもちろんのこと、食感も素晴らしいですわ。まるで超高級お茶菓子!!!!)
苺苺は月餅を片手に持ったまま、「餡が舌の上でとろけます……極上の月餅ですわ……」と頬をを抑える。
先ほどいただいた本物とは大違いだ。
(呪毒を抽出して作り出したお茶菓子だからこそ、この美味の頂点に君臨してしまったのでしょうか……っ!?)
「これぞ堂々たる王者の風格……。ううむ、菓子職人泣かせの神器ですっ!」
「そ、そうか。……苺苺の身体に害はないんだな?」
「ええ。わたくしはそう思います」
苺苺はペロリと呪毒の茶菓子を平らげた。
(――さあ、これで証拠は出揃いました)
木蘭の就寝時間や散策へ出かける頃合いを把握していて、なおかつ、昨日までは予定になかった唐突な来客の茶菓子に触れられる、女官。
「残念ですが、恐ろしい女官の方は……この紅玉宮にいる木蘭様付きの侍女のどなたかということになりますわ。けれど猫魈様を操れるほどの道士であっても、『白蛇の娘』が書き記した『五つの悪意の理』は、ご存知ないのかもしれませんね。わたくしも道術は齧っておりませんし、あやかしを強制的に操るすべも持っておりませんから」
そう結論づけた苺苺に、幼い妃は鷹揚に頷く。
「なるほど。確かに、あやかしや道術を操り用意周到に妾を害そうとする者が、異能持ちだと噂される『白蛇の娘』の前にわざわざ証拠を残すはずもない。だが、どうやって炙り出すかだな……」
「ええ。ですがこの勝負、有利なのはわたくしたちの方です」
「いったいどうするつもりだ?」
「それなのですが……――本日、わたくしを紅玉宮に置いてはくださいませんか?」
真剣な表情で問うた苺苺に、木蘭は紫水晶の瞳を大きく見開いた。
「――は?」
「大変ご無礼を申しているのは承知しております。ですが、木蘭様の危機とあっては、この苺苺、命を懸けないわけには参りません!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。紅玉宮に置くというのは、妾の部屋に泊まるという意味か?」
「いいえ、言葉通り紅玉宮のどこかに置いていただくだけで大丈夫ですわ! 室内がダメでしたら、廻廊でも、お庭でも、どこでも構いません。木蘭様か、紅玉宮の女官のみなさまのどちらかをつぶさに観察できる場所に置いていただきたいのです」
お茶や茶菓子を運んできた女官たちの中に、黒い胡蝶をまとっている者はいなかった。しかし木蘭の行動を完璧に把握しているのだから、犯人は絶対に紅玉宮の女官だ。
(木蘭様はもう一ヶ月近くよく眠れずに、胸が痛む日々を過ごしていらっしゃいます。大人にとってもひどい状況ですが、幼い彼女にとってはもっと過酷でお辛い状況のはず。一刻も早く、解決してさしあげねば)
苺苺が熱い決意で燃えているのとは裏腹に、木蘭は「それ以外の方法は――」と必死な形相を隠すようにして言い募る。
しかし、木蘭様に害をなそうとしている恐ろしい女官を懲らしめる気満々の苺苺は、「ないです!」と一刀両断した。
(そして一刻も早く、その恐ろしい女官の方に木蘭様の素晴らしき愛らしさを布教しなくては。天女様の御使いである木蘭様の尊さがご理解できれば、きっと悪さをしようなどとは考えられなくなりますわ! 推し活の真髄を、叩き込んで差し上げます!!)
木蘭は、苺苺の背後にごうごうと燃える炎の幻覚を見た。
どうやら、苺苺を紅玉宮に一泊させる以外の方法はないらしい。
「……わ、わかった。では、空いている部屋を用意するよう、女官に伝えよう」
木蘭は口角を上げて微笑みを作ろうとして失敗したような、幼い見た目に似合わぬ引きつった表情でそう言った。
お茶会は一旦お開きとなり、木蘭の命にて紅玉宮の一室には苺苺用の部屋が整えられた。
水星宮に帰り白蛇ちゃん抱き枕を抱えて戻って来た苺苺は、若麗と歓談しながら、用意された部屋に手荷物を置く。
「まさか木蘭様が、苺苺様と『お泊まり会をしたい』と言い出すなんて、本当に夢のようです」
若麗は心底安心した様子で、姉のような、ぬくもりにあふれた優しい微笑みを浮かべる。
「まだ六歳だというのに、木蘭様は大人びていますでしょう? 私たちが幼い頃に夢中になった遊びなどには、興味もなくて。一日中、大人さながらに書物を読まれたりなさるものですから」
「そうなのですね。木蘭様は天女様の御使いですから、天界で遊び尽くしていらっしゃったのかも。もしかしたら本当は、六歳ではないのかもしれませんわ」
「六百歳とか!」と苺苺がくすくすと笑いながら言うと、若麗もくすくすと笑って、「そうかもしれません」と応じた。
「もうすぐ夕餉の用意が整いますので、しばしお待ちくださいね」
「はい」
その後も若麗に木蘭の可愛い日常話を聞きながら、苺苺は幸福に浸る。
木蘭は読書家で、自由な時間があれば、いつも時間を忘れたように皇太子殿下からいただいた書物を読んでいるそうだ。
毎日決まった時間に妃としての勉強にも勤しんでおり、皇太子殿下に馴染みのある老齢の老師が付いているが、妃としての作法においては若麗が指導役となることもあるとか。
夜は時折、幼くして後宮に入ることになってしまった木蘭を案じた皇太子殿下が、絵巻物の読み聞かせや添い寝をしに来るらしい。
その甲斐甲斐しさはまるで本当の兄のようでもあり、遠い将来の夫でもあるようだと若麗はやわらかく眉を下げた。
(お噂通り、木蘭様は皇太子殿下と仲がよろしいのですね。きっと皇太子殿下も木蘭様の魅力にめろめろなのですわ! ふっふっふっ、わかっていらっしゃいますわね!! どんな方かはあまり存じ上げませんが、同じ木蘭様推しとして親近感を覚えずにはいられませんっ)
若麗の語る、木蘭と皇太子殿下のほっこり小話に、苺苺は癒されすぎてにやにやが止まらない。
心がほんわか温かくて、幸せでほっぺたが落ちそうだ。
一方その頃。苺苺と若麗に噂をされていた木蘭は、ひとりきりになった自室で「くちゅんっ」と可愛らしいくしゃみをしていた。
「……誰かが妾の噂を? はぁぁ。それにしたって、苺苺を泊めることになるなんて。正体がバレでもしたら大変なことになる」
暗殺されそうになったのは事実。
だが、燐家最大の秘密を抱えた身で、犯人探しのためとはいえ夜中まで苺苺を紅玉宮内に置いておくのは憂鬱だ。
「今夜だけは、絶対に戻ってくれるなと願いたくなるな……」
木蘭は額に片手を当てて頭を抱えながら、幼女らしからぬため息をつく。
それでも緩慢な所作で筆置きに置いていた筆を手に取り硯の墨を含ませると、上質な紙にさらさらと〝木蘭の筆跡〟で字を書き連ねていく。
机の上には、厨房へ今夜の夕餉の希望を伝えるお品書きがある。
女官に任せれば簡単だが、それをしたくないのは相手が苺苺だからだろう。
その理由がなぜだかは、わからないが。
ただ、せっかくだから喜ぶ顔を見せてほしいとは思った。
◇◇◇
あれから半刻が経った頃。苺苺と若麗は、相変わらず〝木蘭様の健やかなかわゆい日常話〟で盛り上がっていた。
女官であり姉の顔をした若麗が披露する小話に、苺苺はくすくすと微笑みながら、幸せいっぱいに相槌を打つ。
「それで殿下が清明節の剣舞の舞い手に木蘭様を指名なさった際も、殿下が短剣を賜られたんですよ」
「素敵なお話ばかりですわね。それにしたって、とっても羨ましいです」
「ええ、本当に。木蘭様が羨ましいですわ」
「そこは皇太子殿下が、ではないのですか?」
苺苺がくすくすと笑いながら若麗の言葉に突っ込みを入れた、その時。
寝台に並べていたぬい様が一体、ザクッ! と音を立て、刃物に切りつけられたかのように裂けた。
「……な、なんの音でしょうか?」
部屋に突然響いた不気味な物音に、若麗が怖々と苺苺に尋ねる。
「す、すみません、わたくしのぬいぐるみですわ。ぬいぐるみが無いと眠れない性分なものでして、その、たっ、たっくさん持って来たのです」
「まあ、それでこんなにたくさん……」
「はい。たぶん、きっと、移動の時に引っ掛けてしまった部分が、さささ裂けてしまったのだと思いますッ」
苺苺はぎゅっと目をつぶって嘘を言い切る。
先ほどのお茶会の時に木蘭に頼み、編み込んでいない背中の髪を鼈甲櫛で梳らせてもらい、数本の髪を懐紙に包んでもらってきていた。
そのうちの一本をぬい様に仕込んでいたため、現在のぬい様は形代として全力が出せている状態だ。
呪靄と呪妖を少しも漏らさずに自動的に封じて祓っているので、効果覿面すぎて限界が早く来たのかもしれない。
(裏を返せば、それだけの量の悪意を常に向けられている証拠です)
呪毒を生じさせるほどの殺意を胸に秘めている女官の悪意がその筆頭なのだろうが、幼くして貴姫の冠をいただいた木蘭の進む道は、薄氷を履むが如く危ういのだと肌に感じる。
(悠長にしている時間はありません。できるだけ早く、恐ろしい女官の方の尻尾を掴まなくては。でも、ぬいぐるみが突然裂けるなんて、若麗様を気味悪がらせてしまいましたよね……)
苺苺は心配しつつ、そっと若麗の顔色をうかがう。
けれども、彼女の顔を見てみると、どうやら無用な心配だったらしいことがわかった。
(若麗様は……きっと大人びた木蘭様のことが、ずっとご心配だったのですね)
若麗は寝台にこれでもかと並べられているたくさんのぬい様を眺めながら、「苺苺様は本当に木蘭様がお好きですのね」と、今にも泣き出しそうなほどの優しい微笑みを浮かべていた。
他の女官が「夕餉の準備が整いました」と呼びに来たことで、苺苺は木蘭の待つ食事をするための一室へ向かった。
(木蘭様と食卓を囲めるだなんて、夢のようですっ)
上座に座る木蘭の合図で、紅玉宮の女官たちがほかほかの料理が乗る皿を運んでくる。
準備が整い、壁際に恭しく女官たちが整列すると、木蘭は苺苺が自分にとって大切な客人だと周囲に印象付けるよう、再び丁寧に食前の挨拶を述べた。
「苺苺、今夜は妾と過ごしてくれること、とても嬉しく思う」
「こちらこそ、お泊めくださりありがとうございます。木蘭様と一緒に夜通しお話できるかと思うと、わくわくが抑えきれません」
「ふふ、そうか。今夜は紅玉宮の女官たちに妾の好物を用意させた。どれも苺苺に勧めたい一品ばかりだ」
(木蘭様の大好物!? はわわわっ)
「どうか存分に楽しんでくれ」
乾杯、と木蘭が搾りたての橘子果汁の入った玻璃杯を持ち上げる。
苺苺もそれに倣って乾杯した後、玻璃杯に口をつけた。
(橘子果汁も木蘭様のお気に入りなのでしょうか? かわゆいが爆発しています……!)
果汁の甘さと、幼妃にぴったりの桜花の意匠が施された玻璃杯を持つ木蘭の組み合わせのあまりの尊さに、思わず静かに感謝の合掌をしてしまう。
「どうした苺苺、もうお腹がいっぱいなのか?」
「いいえ、木蘭様への感謝の気持ちを全身全霊で表しています」
「そ、そうか。ならいい。よく食べてくれ」
「はい!」
(ですが、お食事をする前から幸せでお腹がいっぱいです……。あっ、美味しいです。なんと、これも美味しいです)
苺苺のとろけるような笑顔に、木蘭は頬を染めつつ得意満面に「ふふん」と胸を張る。
その後も、苺苺は夢心地のまま、木蘭に紹介されるままに豪華な夕餉に舌鼓を打った。
(それにしても、ふふふっ。昨晩の皇太子殿下が用意してくれた夕餉と少し料理の好みの系統が似ているところも、なんだか幼妃らしくてかわゆいですっ。木蘭様の新たな一面、尊すぎます……!)
苺苺は食事を頬張る木蘭の姿を眺めつつ、そう密かに思ったのだった。
そうして食後のお茶を楽しんだあとは、大きな湯殿に案内された。
侍女頭補佐と共に湯浴みの付き添いを申し出てくれた若麗に、「滅相もございません」と遠慮して断りを入れた苺苺は、ひとり残った広い脱衣所を見回して感嘆のため息をつく。
「湯殿に姿見を置くだなんて、紅玉宮の女官の皆様はすごいです」
湿気と蒸気のこもる湯殿で鏡は錆びやすい。
それなのに持ち運びもできない重量のある立派な姿見を据え置きにできるのは、女官たちがよほど徹底的に湯殿を管理し、鏡を常にピカピカに磨き上げているからだ。
その証拠に、錆びはおろか水滴の跡ひとつない。
苺苺はさすが最上級妃の女官たちだとその仕事ぶりに感動しつつ、コソコソと衣裳の帯に手をかける。
他の妃の湯殿を借りるのは、さすがの苺苺でも恥ずかしいのである。
(湯浴みのあとは姿見をお借りして、背中に傷薬を塗りましょう)
「湯殿に薬壷を持ってきていてよかったです」
と大袖を肩から下ろした時。
「あら? あらあら?」
朝までは肩にあったはずの赤黒い打撲傷が、綺麗さっぱり無くなっていた。
「傷薬の効果でしょうか……?」
すごい傷薬をくれたものだ。そう思いつつ、背中を姿見に写すと。
「……えっ」
蚯蚓腫れになっていた傷も、内出血していた傷も、すべて跡形もなく消えている。
白磁の肌はみずみずしく輝き、むしろ以前よりも張りがあるほどだ。
苺苺はもしかして、と左手に巻いていた手巾を急いで外す。
――鋏で斬りつけた傷は、ものの見事に塞がっていた。
「こんなことって、初めてです。良いことなのでしょうが」
苺苺は神妙な顔をしながら薄い湯着に着替えて、湯浴みをする。
普段であれば、見慣れた木桶ではなく異国の檜を惜しげも無く用いて造られた紅玉宮の湯船に感動するところであるが、今の苺苺の頭は不可思議な現象への疑念でいっぱいだった。
丁寧に身体を流し、檜が香るたっぷりと湯が張られた贅沢な湯船に浸かる。
湯気の上がるとろりとした湯から左手を出すと、ちゃぷんと音がした。
水滴が垂れる。
――水星宮での水仕事などなかったかのような、白く透き通った白磁のような手だ。
(いただいた傷薬も効果はありましたが、昨晩と今朝ではこれほどの効果は出ませんでした。となると、それ以降の行動がこれほどまでの影響を及ぼしたことに)
考えずとも、脳裏に浮かぶ。
左手で撫でて鎮火させた燐火、そして『龍血の銘々皿』に現れた茶菓子しかない。
「なるほど……。『白蛇の娘』にとって悪意とは恐れるものではなく、真正面から飛び込み、立ち向かうものなのですね」
それは、悪意に侵された白家の姫君を娶った白蛇が与えた――愛し子への祝福か。
(心なしか異能の力も今までで一番漲り、澄み渡っている感覚を覚えます)
あやかしのように、燐火が霊力に変わったのかもしれない。
苺苺の異能の力は、今もまだまだ成長を続けているということだ。
それに〝治癒の力〟も発現するだなんて。
(代々白蛇の娘に受け継がれてきた書物にも記されていませんでした)
苺苺は傷のなくなった手をきゅっと握る。
「怪我が、治せる。それがどれほどの範囲まで適用されるかはわかりませんが」
しかし、そうとわかれはこれまで以上に心強い。百人力になった気さえする。
「ふっふっふ、禁断の仙薬をキメたのは錯覚ではなかったようです。この白苺苺、木蘭様のためならば降りかかる悪意もすべておいしくいただいてみせます!」
苺苺はぐっと拳を握りしめて立ち上がる。
ザバァァァン! とお湯が波立ち、豪快な音がした。
湯浴みを終えた苺苺は一度与えられた部屋へ戻って荷物を置くと、「ね、寝物語を語りに……」と女官に伝えて、木蘭の寝室へと来ていた。
道術を操る恐ろしい女官の目を欺くために、今の苺苺は寝衣に羽織をまとっている。
これは『年齢の壁を越えて仲良くなった妃たちのお泊まり会である』と、印象付けるためだ。
花器に生けてある木蓮の花が、ひそかに香る。
木蘭も苺苺と同じように寝衣をまとい、羽織を両肩に引っ掛けるようにしていた。
けれどどうしてだか、木蘭の寝衣は丈も袖もぶかぶかだった。
どう見ても大人用の、もしかすると苺苺が着ても大きいと感じるだろう寝衣を身にまとっている。
(床に裾が引きずって……。こ、これは、もしや……)
後宮妃であれば、間違いなく、
『もしや皇太子殿下の寝衣かしら?』
『皇太子殿下はこの宮に寝衣を備えておくほどお通いに?』
『国を守護する行事で大事な剣舞を舞わせるだけでなく、これほどの寵愛を!?』
と怒りと嫉妬に駆れるところだが、しかし。
(寝衣のあやかしちゃんでしょうかっ! あああ愛らしい! 愛らしすぎますっ!)
苺苺は案の定、胸をずきゅんと撃ち抜かれていた。
興奮で真っ赤に染まった熱い頬を、ぱちんっと両手で押さえる。
(あまりのかわゆさに言葉が見つかりません。ああ、このお姿の寝台に横たわる木蘭様ぬいぐるみを作りたい……!! おねむな様子で今にも寝落ちしそうな姿の木蘭様、略して〝ねむねむ様〟。欲しいですっ)
後宮妃としてどこかおかしい苺苺は、『推しの応援作品を製作したい意欲と収集したい物欲で息ができませんんん』と、溢れんばかりのときめきと尊みに駆られて涙腺が緩んだ。
胸がはちきれそうに痛い。
そんな内心荒ぶりまくっている苺苺の本心には少しも気づかず、木蘭は『やはり自分とふたりきりはまずかっただろうか』と考える。
少し変わったところのある苺苺といえど、いざ他人の寝室に入るのは顔を赤くするほど恥ずかしいはずだ。
しかも卓も椅子もない寝台のみの部屋など。
風邪をひいたと聞きつけて見舞いに来たふりをしながら、皇太子を待ち寝室に居座ろうとする妃嬪や女官を防止するために、寝室には最低限の物しか置いていない。
今朝も前触れもなくやって来た徳姫を追い払ったばかりだ。
木蘭は申し訳なさそうに眉を下げると、「やはり椅子を用意していればよかったな」と寝台の端へ腰掛けるように勧めた。
「すまない、あまり女官の印象に残る不自然な動きはしたくなくて」
(あわわ、木蘭様をなにやら悲しませてしまいましたっ)
豪華な天蓋付きの寝台は、苺苺がかつて見たことないほど大きい。
大人が三人は悠々と寝転がれそうである。
(あまりのかわゆさにめろめろでしたが、幼い木蘭様がおひとりでここに寝るのは……きっとお寂しいでしょうね。皇太子殿下がいらっしゃる時は良いでしょうが、病気がちというお噂ですし)
他の妃嬪に御渡りがあった、というような風の噂は聞かないので、皇太子殿下は今のところ紅玉宮にだけ来訪しているのだろうが、それでもひと月の間にそう何日も訪れてはくれないだろう。
(皇太子殿下がいらっしゃらない夜は、ご両親を思い出したり、ご兄弟やご姉妹を思い出して涙されているやも……!)
そのうえ不眠症気味とあっては、木蘭様の心が蝕まれていくのも時間の問題に思える。だからこそ。
「木蘭様、大正解だと思います! こちらの方がお泊まり会らしくて断然楽しいです! 皇太子殿下の代わりにはなりませんが、この苺苺、今夜はしばし木蘭様のおそばにおりますからね」
その言葉に、木蘭は虚を突かれた様子できょとんとする。
「ええと、その……苺苺は以外と度胸があるんだな。安心した」
「……? せっかくの機会ですから!」
(お泊まり会のふりではありますが、少しでも、幼い頃の楽しい思い出を作っていただきたいです)
そう願わずにはいられなかった苺苺は、最上級妃と最下級妃という間柄は都合よく忘れることにして、遠慮せずに寝台の端に腰掛けることにした。
「あえて人払いはしていないぞ。この時刻は女官たちもそれぞれの残りの仕事で忙しく、持ち場につきっきりで妾の部屋の前にはいないからな。だが、声を落としておくに越したことはないだろう」
そう言って同じく寝台に腰掛けた木蘭は、幼女らしからぬ難しい表情しながら、
「……確定だな」
とため息まじりにいった。
「夕餉に呪毒は宿っていませんでしたね」
「ああ。ということは、妾が茶会に携わらせた女官の中に、犯人がいる」
「はい」
苺苺は気を引き締めて、背筋を伸ばし、真面目な表情で返事をする。
お茶会での打ち合わせで、木蘭は夕餉に携わる女官を総入れ替えすると言い出した。
『せっかく苺苺が炙り出してくれるんだ。できることは全部やろう』
とは、六歳には思えぬほどの名言であった。
(幼くてもやはり貴姫となったお方。さすが、聡明であらせられますわ)
苺苺がますます〝天女様の御使い木蘭様〟に陶酔したのは無理もない。
「お茶会に携わった女官は五人でしたね。お名前とお顔は一致しておりますから、今夜こっそりと見張りをいたします」
五人の女官の中には、筆頭女官の若麗もいる。
なので、実質的には四人の女官を見張ればいいだろう。
数体のぬい様と白蛇ちゃんの抱き枕を持ってきていた苺苺は、「では作戦の確認です」と、もともと小声で話していた声の音量をさらに小さくした。
「現在、このぬい様ひとつだけに、木蘭様の髪を一本入れてあります。夜中に向けられる悪意は全てこの子に集まるので、不眠症を引き起こすほどの悪意であればすぐに限界を迎えて裂けてしまうでしょう。その反応を、犯人を探す目安にいたします」
日中は木蘭のことを考える妃嬪や女官も多い。
夜も遅くの人々が寝静まった頃となると、よほどの恨み辛みがなければ思考し続けていたりしない。
しかも夜警当番の女官以外は、紅玉宮の敷地内にある宿舎で就寝している。
「悪意が向けられるのは発生源の方の意識がある時ですから、その時に起きている女官の方、もしくは明かりの点いている部屋が怪しいと言えるでしょう。人目を忍び、わたくしが確認してまいります」
「ああ、わかった。頼んだぞ」
「はい」
苺苺は『いざ出陣!』とばかりに、ぬい様を両手で持ち上げて突き出す。
木蘭様の髪は懐紙に包んで袂にしまっているので、あまりに悪意が強大で封じなくてはいけない場合でも、すぐに新しい形代を用意できる。早業刺繍だって準備万端だ。
(ふっふっふ。恐ろしい女官の方を見つけ出したら、木蘭様の素晴らしさを夜通し布教させていただきましょう。そして、底なしの木蘭様沼に引き摺り込んで、足の先から頭のてっぺんまで綺麗に沈めてさしあげますわ!)
作戦は完璧と言えた。
それから半刻後――。
打ち合わせの段階では、亥の刻以降に、〝寝物語を聞かせた設定〟の苺苺が、〝眠った設定〟の木蘭の部屋から出発し、『恐ろしい女官発見器』と化したぬい様を片手に紅玉宮の女官を監視するため暗躍する……という予定だったのだが。
不眠症に悩まされていたはずの木蘭が、寝台に横になった途端にすやすやと眠ってしまったので、白蛇ちゃん抱き枕を抱えながらお喋りをしていた苺苺は部屋を出るに出られなくなっていた。
(せっかく久しぶりにぐっすりと眠れたのですもの。不用意に音を立てて、起こさないようにしなくては)
木蘭様の安眠をお守りいたします! と強い使命感を抱きつつ、物音を立てないようにしながら辺りに気を配る。
猫魈の事件では、女官に命を狙われたという衝撃もあっただろうに、そして皇太子殿下に苺苺を無罪にするよう便宜を図ってくれたり、今日もお礼にと茶会を開いてくれたりと……連日の疲労を押してまで苺苺のために仁義を尽くしてくれた幼妃に対し、敬服せずにはいられない。
そんな木蘭に訪れた、ささやかな休息。
ぬい様の効果がばっちり現れている証拠だが、そのぬい様が裂けた途端、疲労困憊の身体であっても木蘭は目を覚ましてしまうだろう。
できるなら、今夜ばかりは裂けてくれるなと形代に願いたくなる。
(このまま木蘭様が起きなければ、半刻くらい経ったあとに作戦通り部屋を出ましょう)
そう決めて、静かに新しい刺繍を始める。今夜は『白蛇の鱗針』は使わない。
(この円扇ができあがったら、木蘭様へ贈りましょう。……そうですわっ。わたくし用の円扇もお揃いの図案にしたら、誰もが夢見る推しとのお揃い円扇が叶います……! 楽しみですわね)
どこからか月琴のやわらかな音色が聞こえてくる。
弾き手はきっと、月琴の名手と名高い若麗だろう。
(なかなか眠りにつけない木蘭様を想って演奏しているに違いありません)
ただの女官の腕前とは思えないほど上手だ。
(若麗様のお部屋から弾いているのでしょうか? それとも中庭で?)
なんて考えている頭に気持ちのよいもやが掛かってくる。
「ふぁぁ……」
ついつい小さく漏れたあくびを、針を持っていない方の手で押さえこんだ。
しかし、緩やかに心と身体を解す優雅な調べは、昨晩から徹夜でぬい様を作っていた苺苺にもよく響く。
そうして微睡みに誘われ始めた苺苺は、いつもの就寝時間を迎えると、こくりこくりと船を漕ぎ始めたのだった。
◇◇◇
「……俺はいつの間に眠って……――なぜ、苺苺がここに寝ているんだ」
広い寝台の上で上半身を起こした美青年は、寝台に腰掛けた状態で倒れている少女を見つけて、寝ぼけていた思考が一瞬で覚醒した。
「作戦と違うじゃないか。だから泊めたくなかったんだ。いや、俺が寝室に入れたのがそもそもの間違いか……」
ああ、頭が痛い、と美青年は骨ばった大きな手のひらで額を押さえる。
夜中の紅玉宮を、ただの客人である白蛇妃が女官も付けずにうろうろするのは、非常に怪しい。
だから女官に見つかった時のために、『幼い木蘭が寝物語をねだったせいで遅くまで妃の寝室にいた苺苺は、自室の場所がわからずにうろうろしていた』、という言い訳を作れるようにした。
それなら見張りがどんなに夜中まで及ぼうとも、他の女官を気にせずに、悪意を向けられている頃合いを見計らって犯人探しに行ける。そういう計画だった。
だが実際はどうだろう。
「……とにかく、眠ってしまった俺が悪いな。この姿で見つかれば面倒が増える」
今は過去の過ちを後悔するよりも、彼女を起こさないように部屋を出なくては。
そう思って立ち上がった瞬間、ぎしりと大きな音を立てて寝台が軋んだ。
「……っ!」
「んう、木蘭様? 起きられましたか? ……ごめんなさい、わたくしとしたことが、ついうっかり眠ってしまって――!?」
上半身を起こし、寝ぼけ目を擦っていた苺苺が次第に大きく目を見開く。
「きゃ――」
「すまない。静かにしてくれ」
「むぐ、むぐうぅ」
ここに居るはずのない、銀花亭で出会った悪鬼武官と〝同じ声〟を持つ寝衣姿の美青年を前にして驚きの悲鳴をあげそうになった苺苺の口元を、大きく無骨な手が素早く覆った。
(ななななにやつです!?)
むぐむぐと言葉にならない声がもれる。
美青年はぎゅっと眉根を寄せて非常に困惑した表情であったが、真摯な瞳を苺苺に向け、
「俺の名は、燐 紫淵。この国の皇太子だ」
しっかりとした口調で、そう名乗った。
(こ、この方が、皇太子の紫淵殿下……!?)
苺苺はむぐ、っと驚きで思わず漏れそうになった声を反射的に抑える。
「銀花亭で会っただろう。あれは俺だ」
「むぐぅぅ!?」
「その、昨晩は名乗り出ずにすまなかった」
(え、えええ……? こ、声も同じですし、確かに皇太子殿下の姿絵ではあの悪鬼武官様と同じお面をかぶっておられましたが……。うーむ、そう言われてみると瓜二つのような気もいたします)
今はその顔を晒しているため、苺苺はまじまじと彼を見つめる。
透き通った紫水晶の色の瞳は長い睫毛に縁取られており、桃花眼の目元は艶やかで鋭い。
誰をも惑わせる蠱惑的な色気を持っていそうな絶世の美貌は、しかし、氷のように冴え冴えとしていて近寄りがたい雰囲気があった。
燐家の象徴とも言える紺青がかった黒髪は、腰の辺りまで伸びている。
この髪色こそ、苺苺が皇太子殿下の姿絵を初めて目にした時に、『まるで闇夜に流れる銀河のごとき艶やかさです』と感嘆した色だった。
昨晩よりもはっきりと色鮮やかに見えるのは、灯籠の赤みを帯びた光がないことと、彼のまとっている寝衣のせいだろう。
苺苺はなんとなく状況を理解できたような気がして、おとなしくこくこくと頷く。
「そして、信じがたいと思うが――朱 木蘭でもある」
苺苺はこくこくと頷きそうになり、思いっきり首を捻った。
(な、なにをおっしゃっているのです? 皇太子殿下が、木蘭様? 似ても似つかぬお姿ですわ!)
「うむぐぅ、むぐうう!」
口元を覆われていて喋れないため、慌てふためいた苺苺は身振り手振りでなんとか伝えようとする。
「君の言いたいことはわかる。だが、誰がなんと言おうとも、木蘭は俺なんだ」
(そんなこと、あるわけが……!)
反論する苺苺をまっすぐに見つめる紫水晶の瞳は、確かに木蘭とまったく同じ色だった。
木蘭の瞳に忠実な色合いを再現するため、何度も木蘭を観察し、紫色の刺繍糸の色味を細かく厳正に選んできた苺苺が、見間違えるわけがない。
それに、細かな仕草や口調も一致している。
(わたくしに異能があるのですもの。姿形が変わる怪異があっても不可思議ではありませんわ。猫魈様の妖術も見たばかりですし……。もしかしてよくあることなのやも……)
苺苺は『理解しました』と示すように頷く。
その様子を見て、紫淵は「手荒な真似をしてすまなかった」と申し訳なさそうな表情で苺苺の口を覆っていた手を離した。
苺苺はぱっと立ち上がり、寝衣姿だが膝を折って最上級の礼を取る。
「燐華国の至宝の御剣にご挨拶申し上げます。……あの、ですが一体なぜ皇太子殿下が」
「苺苺。そんなに堅苦しく呼ばないでくれ。紫淵でいい」
「え、ええと、では……その、紫淵殿下と」
紫淵は少し不満げに苺苺の礼を受け取ると、寝台に腰掛けるように促す。
苺苺はこのまま立っているべきかと迷ったが、木蘭と作戦会議をしていた時のように隣に腰掛けた紫淵を見て自分も元いた場所にちょこんと座りなおし、そわそわと居住まいを正した。
(なんだか、その、落ち着きません)
それもそうだろう。幼妃である木蘭ではなく、十八歳になる皇太子殿下と同じ寝台に並んで腰掛けているのだから。
そしてそれは、紫淵も同じことだった。
まさか自分の正体を明かす日が来るとは思ってもみなかったし、昨晩だって念入りに誤魔化していたのに。
加えて紫淵は紅玉宮以外を訪れた経験も、誰かと寝台で過ごした経験もない。
木蘭と添い寝などと皆話しているが、同一人物であるからして、それは巧妙な作り話であった。
そんな自分が、事故とはいえ、先ほどまで苺苺と添い寝をしていたなんて。
(むむむ、お部屋に心臓の音しかしません……! 先ほどまでどんな風に会話していたか、忘れてしまったわけではないのですが、なぜだか、気まずいです……!)
苺苺からちらりとうかがうような視線を向けられて、紫淵はうっと胸を押さえる。
一睡するまでは確かに一緒に会話し楽しく過ごしていたのに、今はなぜだか、寝衣姿の苺苺にどぎまぎしている自分がいる。
もしもここにいるのが他の妃嬪であったら、いつもの冷笑を浮かべて、『誰の許可を取って俺の寝所にいる? 今すぐ出て行け』と理由も告げずに凍えるような声で一喝できただろう。
皇太子宮を解禁した時に皇帝陛下が定めた規律に触れたのだから、口封じも行うかもしれない。
だが、苺苺に対しては、そんなことをしようとも思わなかった。
紫淵は『駄目だ、落ち着け』と、脳内で黒い狼と化した宵世を数え始める。
「宵世が一匹、宵世が二匹、宵世が――」
「あ、あのう、なぜ東宮補佐官様をお数えに?」
「……っ、それはだな、ええっと」
言えるわけがない。君に触れたくなるから、だなんて。
紫淵は「それはそうと、俺になにか聞きかけていただろう」と咄嗟に話をそらした。
「そうでした。お伺いしてもよいのかわからないのですが、その……いったいなぜ紫淵殿下が木蘭様のお姿に?」
「……そうだな、君には話しておこう」
紫淵はそう前置きしてから頭を切り替える。
「悪鬼の呪詛だ。皇太子になるべく生を受けた皇子は、成人になるまでの間になんらかの怪異に巻き込まれる」
「もしや、……燐火の悪鬼の?」
苺苺はそっと息をのんだ。
「ああ。千年は続く呪詛ということになるな。俺の場合は十歳を過ぎた頃から、突然夜だけ幼い少女――木蘭の姿になるというものだったのだが……。昨年の暮れより、日常的にその姿になるようになってしまった」
「なんと!」
飛び上がるほど驚いた苺苺は、思っていたよりも大きな声が出てしまって両指先でハッと唇を押さえる。
幼女の姿の紫淵を〝木蘭〟と名付けたのは、当時その姿を初めて見た皇帝陛下だったらしい。
老齢の父に代わり男装した少女が男ばかりの軍に入りって武勲をあげる伝説から、
『朱 木蘭。皇子が女ばかりの後宮に入って栄華を極めるのに、これほど縁起の良い名があるか?』
と皇帝陛下は笑いながら言ったそうだ。
(そういえば、入宮前に王都を通った時に見かけた演劇一座で上演中の演目が、ちょうど『花木蘭』でしたね。馬車で通り過ぎるしかありませんでしたが、やはり早めに王都入りして観劇しておくべきでした……!)
推しの概念はすべて網羅しておきたい欲にかられ、思わぬつながりに内心ワナワナする苺苺である。
「怪異はいつ、どのように起きるかわからない。そのため皇太子の象徴とも言える紺青の黒髪を持つ皇子は、発現する怪異の実態が掴めるまで、生まれて数日後には皇帝陛下の名のもとに幽閉されて育つ」
「そんな……。幽閉とは、お大変でしたね。王都からお離れに?」
「いや、後宮の奥深くだ」
苺苺は息をのむ。
(後宮から離れられない、立太子するのが決定づけられている皇子。きっと様々な悪意に晒されたに違いありませんわ)
きゅっと眉根を寄せて、あたたかな憐憫を長い睫毛のけぶる大きな双眸に浮かべた苺苺の頭に、紫淵はぽんっと手のひらを乗せた。
慰めてほしくて言ったわけじゃない。
だが、幼かった頃の自分に、そっと苺苺が寄り添ってくれた心地がして、嫌な気分ではなかった。
「滅多な行事以外では姿を現さない俺に対して、周囲は次第に『やはり歴代と同じく病弱か』と囁くようになった。まあそれが一番身を隠すのに都合がいいから、今も好んで使う言い訳だが」
「そうなんですね」
「実際の俺は病弱とは程遠くて、幼い頃から武術も嗜んでいるから剣術もひと通りできる」
(ではやはり悪鬼武官様のお姿の時に足音がしなかったのは、本当に手練れである可能性が!? よ、よほどの剣の才をお持ちなのやも……!)
「と、いうことは、わたくし……まさか剣の錆に!?」
「なぜそうなる。……いや、君の選択によってはその可能性もあるかもしれない。今夜起きた出来事が皇帝陛下の耳に入るようなことがあればだが」
「ひいっ」
苺苺は恐ろしい自分の最期を想像してしまい、「優しくしてくださひ」と青ざめてガタガタ震える。
「……そんなに怯えるな、冗談だ」
「冗談のお顔には見えません〜〜〜っ」
「それは申し訳ない。この顔しかできないからな」
紫淵は苺苺を落ち着かせようと、意識して、冷たい美貌に極上の微笑みを浮かべる。
「ひええ、あ、ああ、あくどい顔です……っ!」
けれども逆効果だったらしい。苺苺のガタガタは酷くなった。
苺苺の怯えようがあまりに可哀想で、庇護欲を掻き立てられてしょうがなかった紫淵は、真摯な謝罪を伝えるにはどうしたらいいのかと悩んだ末――苺苺の真珠色の長い髪をひと房指先で掬ってから、捨てられた子犬のような顔をして、
「許してくれ、本当に冗談だ」
と、今度は作り物ではない低く優しい声音で告げ、本心から、苺苺を安心させるように目を細めた。
まるで機嫌を直してほしいと言いたげな、紫淵の甘くとろけるような、やわらかな表情。
それを真正面から直視してしまった苺苺の唇から、「あっ」と無意識に音が零れる。
するとなぜだか途端に頬に熱が集まって、胸がきゅーっと甘く締めつけられていくではないか。
(ひぇ!? いいえっ、紫淵殿下は推しじゃありませんっ。わたくしは木蘭様ひと筋です!)
苺苺はぶんぶんと横に首を振って、火照った頬の熱と一緒に勢いよく邪気を払う。
苺苺は意図していなかったが、心からの謝罪を勢いよく拒絶された形になった紫淵は、
「……本当にすまない」
と落ち込むしかなかった。
けれども、紫淵はそれを上手く取り繕って、「あー、その、続きだが」と話し出す。
「立太子してからは天藍宮での政務も増えた。けれども木蘭の姿では政務にも差し障りがあるだけでなく、万が一誰かに知られることとなれば命も狙われやすくなる。白州を訪れた理由は、その場で燐家最大の秘密を晒すことになろうとも、この呪詛を解いてほしかったからだ」
悪鬼の呪詛から解放されれば、逃げも隠れもしなくてよくなる。
だが悪鬼の呪詛は、人間の悪意ではないので苺苺の眼には視えず、未解決に終わった。
「悪鬼の呪詛はその後もひどくなり、年明けにはとうとう夜だけしか元の姿に戻れなくなってしまった。そのため俺の身を案じた皇帝陛下によって、成年を迎えてから封を解く予定だった皇太子宮が解禁されたんだ」
「木を隠すなら森の中というわけですね。その、朱家の姫として後宮に入られたのは……?」
「素性を徹底的に偽るために、仕方なく母上――皇后陛下を頼った」
この怪異が他者に知れ渡ると大変なことになる。
だから千年の間、皇帝、そして皇太子の腹心の臣下を除いて秘匿され続けてきた。
それは今代の皇后陛下も変わらないはずだった。が、幼い姿の木蘭が、最も安全な立場である皇太子宮の最上級妃として君臨するためには、もはや手段は選べなかったのだ。
「皇帝陛下の口添えもあったからな。次期皇帝の座が約束された皇子を今さら陥れようなどとは、さすがの皇后陛下も思わなかったらしい。どこぞの高貴な血を引く自分の養い子として、皇后陛下が自ら内密に朱家の当主に掛け合った」
「なるほど。燐華国の国母となった娘の願いを、朱家の当主が無下にできるわけがありません」
「そうだ。木蘭の姿が娘に似ていることからも、なんらかの理由のある娘の実子ではないかと事情を察した当主は、木蘭を快く自分の養女として迎え入れた」
皇后陛下が気に掛ける幼姫だ。
もしも上級妃として取り立てられでもしたら、……いや、必ずそうなるのだから、莫大な利益と恩恵を受けるのは当然――木蘭を養女とした朱家。
「木蘭は便宜上、朱家の遠縁の娘になっている。国母となった娘の不義理の子かもしれない木蘭の秘密を、朱家の当主は絶対に墓場まで持っていくはずだ」
その証拠に今年、次期当主が三の姫の若麗を後宮の〝秀女選抜試験〟――西八宮で三年ごとに行われる皇帝陛下の妃嬪と宮女を選抜する試験に送り込んでいる。
十中八九、突然現れた養女が『八華八姫』の慣例に従って妃嬪に難なく納まるのに、次期当主が納得できなかったからであろう。
しかし木蘭の女官を募る際、もともと妃教育を受けていて、なおかつ現皇后に仕えていた若麗を侍女にしろと、朱家当主が言い出した。
やはりいざ選妃姫が近くと、妃養育を受けてまもない幼姫に朱家を任せるのが怖くなったのだ。
当主の命令は絶対である。次期当主であろうと、孫娘であろうと逆らえない。
若麗は命じられるがまま志願し、紅玉宮の侍女頭になった。
これが紅玉宮に朱家の姫が二人も存在する理由だ。
苺苺は朱家の当主や次期当主の命令に翻弄される若麗の心を案じ、そして知られざる木蘭の秘密に瞠目する。
「木蘭様にはそのような秘密がおありだったのですね」
「ああ。だが……今や夜中であっても、ほとんどこの姿には戻れなくなった。それが、昨日に続き今日までも戻れるとは……運が良いのか、悪いのか。今夜は念のために俺の寝衣を着ていて正解だったな」
紫淵は額に手を当てながら肩を下げてため息をつき、自嘲気味に言った。
それから長い髪をかき上げる。
怜悧な雰囲気をまとった絶世の美貌が、すっと苺苺を見据えた。
「俺の怪異の秘密は皇帝と皇后、それから幼い頃から共にいる信頼のおけるふたりの従者、そして――目の前にいる君しか知らない」
「ひえっ。それは、あの、申し訳ありません」
「……いや。もともと君を頼った時点で、一度は君にバレる覚悟をしていた。それが早かったか、遅かったかの違いでしかない。他言無用で頼む」
もし誰かに告げるような真似をしたら命はない――とは伝えられなくても、苺苺は十分に理解していた。
そしてもうひとつ。
皇太子の命を守るためだけに解禁された後宮に集められた七人の妃が、〝森〟になるためだけの役割しか持たぬ〝仮初めの妃嬪〟であることも。
(わたくしは木蘭様を『白蛇の娘』の全力をかけて応援するために後宮に入ったので、もともと仮初め妃ではありましたが……。その理由でしたら、紫淵殿下を御支えするのも木蘭様を御支えすることと同義です。わたくしの立場は変わりません)
苺苺は腰掛けていた寝台から降りると、床に両膝をつき、すっと完璧な礼を取る。
「この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします」
寝衣のため多少格好はつかないが、それが紫淵と木蘭への誓いだった。
「白 苺苺。君の言葉に偽りはないな」
「是」
「……ありがとう。恩に着る」
紫淵は眉を下げてふっとやわらかく微笑む。
「俺は木蘭を〝寵妃〟として扱うことで、女官たちの目を欺いている。それには今後も口裏を合わせてほしい」
「それはもちろんです! ですが、そんなに簡単に欺けるのでしょうか……? 確かに本日まで、誰も疑っていませんでしたが……」
(わたくしも皇太子殿下は木蘭様推しだという認識でしかありませんでしたし)
苺苺はそろりと、目の前の美青年を観察する。
こんな高身長の、しかもなにやら常人とは違う雰囲気を醸しだす絶世の美丈夫が紅玉宮を徘徊していたら、すぐに女官の目に付きそうなものである。
「大抵は深夜にしか元の姿に戻れないからな。木蘭の時でも、寝室には日中の決められた掃除の時間以外は女官を入れないようにしている。元の姿に戻れた夜は、衣服を整えてからこの部屋の隠し通路を通って紅玉宮の外に出るんだ。簡単にはバレない」
なんとこの寝室には厳重な鍵付きの箪笥があって、紫淵用の寝衣や衣裳、髪飾りがしまってあるそうだ。
紅玉宮の女官は日常的に紫淵の名で木蘭に多数の贈り物が届くのを目にしているし、鍵付きの箪笥があるのも気にかけていないらしい。
紫淵は寝台から立つと、室内を音もなく歩いて、彼の身長以上ある箪笥に手を触れる。
「この下に隠し扉があって、地下通路に続いている」
「隠し通路とは、なにやらわくわくする響きです」
苺苺は目をきらきらと輝かせる。
頭の中では、木蘭が小さな身体で一生懸命あの箪笥を押しのけて、幼妃に似合わぬ険しい表情で『右よし、左よし』と指差し確認したあとに、こっそりと隠し扉をくぐって紅玉宮から脱走する。
……想像してみると、その姿はなんとも庇護欲をそそった。
「やっぱりわくわくは撤回しますっ。なんとお大変な状況なのでしょうっ。この大きな紅玉宮でひとり、大きな秘密を抱える小さな木蘭様……! きっとたくさんの苦労があるはずですわ。健気なお姿を見つめるだけしかできず、胸が痛いです……」
想像し終えた苺苺は胸を抑えて涙ぐみ、うるうるとした視線で紫淵を見上げる。
「木蘭様にたくさんのご加護がございますように……っ!」
「えっ。いや、隠し通路は俺が通るんであって、木蘭は通らないぞ」
箪笥に熱い視線を送っていたかと思えば、今度は涙目で自分を見上げてきた苺苺の様子に紫淵はたじたじになる。
「女官や宦官でも押せないくらいあの箪笥は重厚に作ってある。武官でも押し入ってこなければ、隠し通路の存在は見つからないだろう。なにせ通路の繋がる先は地下、しかも出口は皇太子の寝殿の中だ」
「なるほど。天藍宮は位置的には紅玉宮の真後ろ。後宮とを仕切る城壁や門も、地下ならば関係ありませんね」
「そうなる。皇太子にしか誂えられない意匠が施された鍵付きの箪笥を、いちいち改めて事を荒立てる命知らずの女官は早々いないからな。隠し事はたやすい。まあそれも、こうして寝室で鉢合わせしなかった場合のみだが」
紫淵は深くため息混じりにそう言うと、苺苺の手を取り再び寝台へ着席させる。
頭上に疑問符を浮かべる苺苺の隣に遠慮のない仕草で腰掛けた紫淵は、まるで大切な宝物にでも触れるかのごとく妖艶に、もったいぶった動作でゆっくりと、苺苺の頬に男らしい手を添えた。
「――さて。秘密を知られた以上、ここから君を出すことはできなくなった」
「へ!? あの、わたくし、先ほど『この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします』とお約束をっ」
「そうだな。だからこそ、俺が君の命を預かる」
「ひえっ!?」
「白苺苺。君には、俺の〝異能の巫女〟として、しばらくの間この宮に住んでもらう。少しでも秘密を漏らそうとすれば命はないと思え」
「えええええっ!?」
「もうじき日が昇る。秘密厳守、それから効率の観点からも、犯人探しは紅玉宮でしかできないからな」
紫淵はにやりと美しく微笑む。
美青年の姿はみるみる幼くなり、……――目の前には寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭がいた。
苺苺の頬に添えられていた手のひらは、大きさと温もりを変えて、そこにある。
「苺苺。乗りかかった舟だ。最後まで妾に付き合ってもらうぞ」
愛らしい幼妃の策士な笑みに、焦りと緊張から苺苺の鼓動はどきどきと高鳴る。
(えっ? えっ? どういうことですの? もしかしてわたくし、推し活をしていたはずが、なにやら紫淵殿下の重大機密に巻き込まれてしまったのでは……!?)