「なにも見渡せぬ背丈。剣どころか筆もろくに握れぬ小さな手。そのうえこんな、こんな……」
 五歳ほどの見た目をした可愛らしい幼姫(おさなひめ)が、眉間にシワを寄せて驚愕に打ち震える。
「こんな姿になるなんて! 俺は一体どうすればいいんだ……っ」
 腰のあたりまで伸びている長い髪は、もともとの紺青がかった色みを失い真っ黒に染まっている。
 先ほどまで着ていた濃紫の深衣はぶかぶかになり、引きずるどころか毛布を被っているかのように床に落ちていた。
 いつもなら身体に馴染む執務机はものすごく高く感じてしまい、腰掛けていた椅子からは自分ひとりで降りられそうにない。
「ふぅむ。とうとう昼間まで完璧な幼女になってしまった、と。これはまた厄介なことになりましたね」
 淹れたてのお茶を持って入室してきた中性的な容姿を持つ端麗な黒髪の補佐官は、「絶世の美青年と謳われる美貌はどこへやら」と涼しい顔で他人事のように言う。
「とりあえず、一人称を〝(わらわ)〟にでも変えたらどうです?」
「適当なことを言うな。くっ……なんたる屈辱……っ! こんな怪異があってたまるか。これじゃあ、いい(まと)だ。早死に確定じゃにゃいか……!」
 天藍宮(てんらんきゅう)の執務室には、皇太子としての威厳が意図せず消え去ってしまった紫淵(シエン)の、舌足らずで可愛らしい鈴を転がすような声が響く。
「紫淵様。ひとつ、昔話をしましょうか」
「なんだ宵世(ショウセ)。今はそんな場合じゃない」
「幼姫のお茶の時間には、ちょうどいい物語ですよ」
 宵世は茶器を執務机に配膳し、主人のぶかぶかになった両肩の深衣を整える。
「昔々、今から千年以上も前のこと。闇夜に青紫の燐火(りんか)が浮かび、この国のあちらこちらにあやかしが跋扈(ばっこ)していた時代の話です」
 紫淵は心底不服そうな顔で、語りだした補佐官を見上げた。

 その昔――後宮に召し上げられた白家の姫は、原因不明の病に苦しんでいた。
 彼女は大層な美姫であったが病が進行し、ついには後宮を辞すことになる。
 清明節(せいめいせつ)を機に白州に帰郷した姫の病を治したのは、燐火を纏って現れた人ならざるもの。
 血のように赤い瞳を持つ白き大蛇だった。
『人の子よ。そなたの病の原因になっていた呪詛我が祓い清めた。先の世も安心して暮らすがいい』
『ありがとうございます、白蛇(はくじゃ)様。ですが長らく病に()せっていた私には、治していただいた代わりに差し出せるものなどありません。このご恩になんと報いたらよいのでしょう』
『では娘、そなたを(にえ)として我が娶ろう。その命が尽きるまで我とともに生き、我に尽くせ』
 大蛇は人の姿をとると、返礼に姫との婚姻を迫った。
 白き大蛇と人間の生贄花嫁による禁忌の異類婚姻の末、ふたりの間には娘が生まれる。
 白髪と紅瞳を持った娘。――『白蛇の娘』だ。
 その娘には、〝悪意をあやつる異能〟があったという。

「当時の皇帝は、それが危険な異能であると悟っていました」
 だが、しかし。古代より九星(きゅうせい)に基づき治められているこの国の慣例に従い、『白蛇の娘』は後宮妃として迎え入れられた。
 そして皇帝の憂いは現実となり、悪意をあやつる異能は、後宮に恐ろしい災いをもたらしたのだ。
「最初の『白蛇の娘』が死んだ後も、白家には数十年に一度、次の『白蛇の娘』が生まれました。それから後宮に『白蛇の娘』が入るたびに幾人もの妃嬪が死に、不可思議な事件……いわゆる怪異が頻発しました」
 犯人は白髪に紅瞳を持った、『白蛇の娘』。
「彼女たちはいつの世も、処刑される間際に不気味に微笑んでいた」
 まるで『次こそは悲願を成し得る』と、人間を嘲笑うかのように。
「『白家白蛇伝』か。誰もが知る有名な物語だな。『白蛇の娘』の場合は言い逃れできないほど死に関わりすぎたが、長い歴史を見れば後宮での怪死はそう不思議なことでもない。後宮ではいつも誰かが殺し、誰かが死ぬ」
 幼姫は気だるげに、椅子の肘掛けで頬杖をつく。
「それに実際には、『白蛇の娘』が異能を行使している瞬間を見た者はいなかったそうじゃないか。ただの猟奇的な暗殺かもしれない。こんな、姿が別人に変わってしまう怪異があるのだから、異能を否定するわけではないが」
「そうですね。けれどもし本当に、『白蛇の娘』が人々の悪意を操り、呪詛をばらまき、怪異を生めるのだとしたら……その逆もできるかもしれない」
「なるほど? 悪鬼も元を正せば人間であったと仮定するならば……――妾を蝕む悪鬼の呪詛も、この意味不明な怪異も、解けるかもしれないというわけだな?」
「…………妾」
「なんで妙な顔で笑うんだ、宵世。お前が言い出したんだろう、一人称から変えろって」
「あはは、いえ。……ごほん。お似合いですよ」
 紫淵の問いかけに薄く笑った宵世は、優等生的なにこやかな笑顔を作り頷く。
「歴代の白蛇の娘の悪虐非道を思えば、紫淵様には今代の白蛇の娘にもあまり関わってほしくありませんが、仕方ありません。彼女が呪詛を解けなければ、紫淵様の怪異も終わらず、下手をすると一生そのままのお姿でしょう。……迷信はお嫌いですか?」
「いいや? 面白い。白蛇の娘に会ってみるとしよう」
 幼姫は舌足らずに宣言すると、その顔に似合わぬ妖艶な笑みを浮かべた。


 ◇◇◇


「ああ、木蘭(ムーラン)様ったら……本日も大変お可愛らしいです……っ!」
 紅珊瑚の瞳をめろめろにとろけさせ、真っ白な真珠色の長髪を振り乱す十六歳の少女――(ハク) 苺苺(メイメイ)は「はぁぁ」と今日も元気に赤く染まった頬を押さえる。
 苺苺の熱視線の先には、六歳になったばかりだという幼妃、(シュ) 木蘭(ムーラン)がいた。
 後宮に入れる妃嬪(ひひん)の年齢は、若くても十三歳頃から。
 しかし、皇帝陛下より〝八華八姫(はっけはっき)〟の勅命とともに〝皇太子宮〟の封が解かれた際は話が別になる。
 九星に従い治められているこの燐華(リンファ)国では、皇帝の住まう王都と、それをぐるりと囲むようにしてつくられた八州それぞれに神域と呼ばれる禁域が存在しており、選ばれた九つの血筋によって厳正に祀られている。
 八華八姫とは建国時から定められている習わしで、王都の瘴気を祓って神気を呼び込み、世の安定と繁栄を願うために八人の姫を招集するもの。
 皇帝より勅命が出された場合、各州の神域で祭祀を執り行う八華と呼ばれる貴族は、必ず直系の姫をひとり後宮に入れなければならない。
 そのため(まれ)に、木蘭のような幼すぎる妃が皇太子宮に入ることになるのだ。
「可憐な剣舞用の御衣裳で、鈴の音を鳴らしながら羽衣をはためかせるさまは、そう! まさに天女様の御使いですわ!」
 紫水晶の大きな瞳と鬼のツノのようなお団子に結い上げられた黒髪が印象的な木蘭は、幼な子にはまだ重たいはずの鎮護(ちんご)の短剣を小さな手に持ち、皇太子代理として四半刻(さんじゅっぷん)にもおよぶ剣舞を舞いきってみせた。
 最後の方はおぼつかない足取りではあったが、きっと皇太子宮の妃は誰も彼女の舞を(しの)げぬだろう。
 そう思えるほど、愛らしい舞だった。
「はぁぁぁ、なんとも素晴らしい時間でした……っ」
 いまだ興奮覚めやらぬ苺苺は感動で打ち震えながら、緋毛氈(ひもうせん)の敷かれた宴席に座す他の妃たちのピリついた空気も読まずに、末席から盛大な拍手を送る。
 本日、ここ燐華国の後宮内に造られた皇太子宮では、この国で最も重要な祭事のひとつである清明節(せいめいせつ)(うたげ)が開かれていた。
 燐華国では、春を祝い祖先の魂を祀る清明節に、皇帝の長子が剣舞を奉納する決まりになっている。
 なぜかというと、昔々あやかしが跋扈していた時代に、青紫の燐火とともに闇夜に現れる悪鬼を、初代皇帝の長子が見事な剣技で討伐した逸話に由来しているそうだ。
 以来、皇帝の長子には破邪や鎮護の力が宿る一対の剣と〝祓除(ばつじょ)の剣舞〟が受け継がれている。
 しかし、歴代の皇太子は二十歳の成人の儀を迎えるまで身体が弱い者が多い。
 今代の皇太子、(リン) 紫淵(シエン)も齢十八ではあるが未だ病弱で、日中はほとんど床に臥せっていると聞く。
 時折、体調が優れた時のみ公務の席に現れるが、素顔は決して見せず目元を隠す悪鬼の半面を深々と被っていた。
 そんな経緯から、本来ならば先ほどの剣舞も皇太子が舞うべきところであったが、最近体調が(かんば)しくない皇太子が、自ら代理に木蘭を指名したという。
 幼妃には重たすぎる皇太子代理という役目を背負いながらも、誰よりも凛と振る舞う木蘭を、苺苺は全身全霊で応援しているわけだが、他の姫君や女官たちはどうやら違うらしい。
「皇太子殿下はなぜあんな幼女に大役をお任せになったのかしら。淑姫(しゅくき)様は剣舞の名手であらせられるのに」
「清明節の宴席は、幼児のお遊戯会ではないのにね。私は徳姫(とくき)様の舞が見たかったわ。探春(たんしゅん)(うたげ)で披露された桜花舞は、それはそれは素敵だったもの」
賢姫(けんき)様の天女のような歌声も、きっと燐火をおさめることができたでしょうに。なぜあの乳飲み子の剣舞だけなのかしら」
 控える女官たちは宮廷楽団の演奏に紛れて、それぞれの〝推し〟である妃を讃える。
 推しとは後宮の女官たちの間で最近ひそかに流行している言葉だ。
 もともとは市井で演劇一座のお気に入りの役者を応援する言葉からきているらしい。
 それが後宮ではいつの間にか〝無償の愛で妃を陰ながら御支えする〟という意味に転じ、女官の(たしな)みのひとつになっている。
 推しがいない者はすなわち〝無償の愛で尊い妃を支える気がない〟とされ、女官の風上にも置けない信頼ならぬ者の烙印を押される。
 そんなわけで、後宮では女官たちによる〝後宮風の推し活〟――いわゆる〝妃嬪応援活動合戦〟が至る所で勃発しているのであった。
 とはいえ、ここはやはり後宮。
 推しのさらなる繁栄を望む女官たちは、お()まし顔で悪意をこめた嫌みを他の妃嬪へぶつける。
 苺苺のような市井風と後宮風を取り入れた独自の推し活をしている者は、特異な存在なのだ。
「でも、あの〝白蛇(はくじゃ)〟が指名されるよりはまだましね。あやかしのような真っ赤な目が本当に不気味。ほら、見て。木蘭様から視線を離さないあの様子……」
「まあ、なにあれ。薄気味悪いし恐ろしいわ。白い大蛇がとぐろを巻いて睨みつけているみたい。白蛇妃って、いつも木蘭様を熱心にじっと睨みつけているわよね」
「呪詛でもかけているのかしら? 〝灰かぶり離宮〟の最下級妃のくせに、身のほど知らずでおこがましい振る舞いだわ」
 女官たちは(ゆが)んだ口元を円扇で隠す。
「〝呪われ白家〟の出身ですもの、教育が行き届いていないのよ。ああ、あんな白蛇と同じ空気を吸っているのも嫌になる」
「ちょっと、あんまり大きな声で言ったら聞こえるわよ」
「聞こえたって構いやしないわ。後宮の嫌われ者の白蛇妃が、私たちを(とが)められるはずがないもの」
「もし皇太子殿下に進言されたとしても、お妃様の信頼が厚い私たちの方が勝つに決まっているんだから」
 クスクスと(さげす)み笑う女官たちの話し声が、彼女たちにほど近い末席に座す苺苺に聞こえていないはずがない。
 だが、しかし。
(推しである木蘭様の一挙手一投足、いいえ! 衣のはためきまでも見逃しはしません!)
 と両手に力を入れ、ごうごうと燃える瞳で木蘭を見つめる燃える苺苺の耳には、女官たちの悪意のこもった話し声などまったく入っていなかった。
 元宵節(げんしょうせつ)に皇太子宮の封が解かれ、八華八姫(はっけはっき)の慣例に従って〝選妃姫(シェンフェイジェン)〟――皇太子妃としての位を決め、次期皇后候補を選出するために三ヶ月に一度開かれる試験に臨むことになった苺苺だが、実のところ次期皇帝にもその妃という地位にも興味がない。
 彼女はただ、出会った瞬間に胸を撃ち抜かれた〝朱木蘭〟を、後宮内ならば()()()()()()と聞いてやって来たのである。
 苺苺は美しい刺繍、美味しいお茶菓子、そして特別可愛いらしいものに目がないのだ。
「木蘭様は、きっとおねむなのですね。まだ六歳であらせられるのに、あんなに素敵な舞をご披露されたのですもの。ご立派です……っ!」
 木蘭は幼くても〝妃〟らしくぴんと背筋を伸ばしていたが、春の陽気に照らされて眠たくなってしまったようだ。空席の上座に最も近い〝貴姫(きき)〟の席に着いた途端、こくりこくりと船を漕ぎ始める。
「ふわぁぁ……癒しのすべてがここに……!」
 苺苺は見事な木蓮の刺繍が入った絹の円扇を、胸元でぎゅうっと握る。
 これは推し活の一貫で、苺苺が木蘭を想って自分で刺したものだ。
 燐華国の三大刺繍と讃えられる白州刺繍の技法で刺された紫木蓮の図案は緻密で、花や葉が朝露に濡れているかのように瑞々しく見える。
 両面刺繍と呼ばれているその技法は、白州特産の絹糸を使うことでさらに昇華されており、色鮮やかな絵画のごとく芸術的で美しかった。
 本当はこの円扇を両手に一本ずつ持ち、ぶんぶん振り回したいくらいの気持ちなのだが、最下級といえど妃は妃。礼儀作法を重んじ、『応援しています』という意気込みを示すための珠玉の一本を、胸元に掲げるに留めている。
 その時、ふと青黒い(もや)が漂い始めた。
 煙のようなそれは、四方八方からもくもくとやってきて、ひたすら幼い姫君へ向かっていく。
「……あら? あらあら? 木蘭様の周囲に、よくないものが」
 苺苺は目を見開き眉根を寄せる。
 あれは人々の胸に宿る悪意や口から放たれた悪意が力を持った姿だ。
 その名を〝呪靄(じゅあい)〟という。
 皇太子妃たちや女官たちから向けられた悪意が木蘭に集まり、靄の形をとっている。これが酷くなれば木蘭は大病にかかり、床に伏せるようになるだろう。
 呪われ白家と呼ばれる白家出身の苺苺には、生まれつき悪意を視ることができる眼と、それを祓うための強力な異能の才が備わっていた。
「呪靄でしたら、まだここからでも祓えますわね!」
 苺苺は長い上衣の(たもと)から簡易裁縫道具箱にしている玉匣(ぎょっこう)を取り出すと、針と糸を持ち、手元の円扇にせっせと刺繍していく。
 特殊な針で異能を操り、その刺繍の中に呪靄となった悪意を封じ込めるという破魔の術だ。
 紫色の光沢感のある上質な糸を絹地に刺すたびに、針から糸へ、きらきらとした白い燐光が脈打つように伝わっていく様子は、特別な眼を持つ者が視れば息を呑むほど美しい。
 すでに木蓮の花が幾重にも咲き誇る円扇に、新たな木蓮の蕾を刺し終えた瞬間――絹地の上に白い光の花が咲く。
 木蘭の周囲にあった青黒い靄は、ふっと霧散した。
 彼女に害をなそうとしていた悪意が無事、異能の檻に囚われたのだ。
「よかった……。本日も推しの健やかな日常を守ることが叶いましたわ!」
 苺苺は緊張と早業刺繍でかいた汗を「ふう」と拭う。
 まさか悪意に害されそうになっていたとはつゆ知らず、幼妃はとうとう睡魔に耐えきれなくなったのか、ゆらゆらしたのち、ぱたりと上座で倒れる。
 この円扇に刺繍された木蓮の花の数だけ、木蘭は強い悪意に晒され、呪われ続けている。
 とても異常で危険な状態だ。
(う〜〜〜っ。それでも、わたくしはこうして影からこっそり推し活をすることでしか、木蘭様をお守りできませんッ)
 簡易裁縫道具箱を袂に仕舞い、苺苺は涙をのむ。
 禁忌の異類婚姻で生まれた白蛇の娘と忌避される後宮の嫌われ〝白蛇妃〟が進言したところで、犯人扱いされて終わりなのは目に見えている。投獄されたり、後宮から追放されたりしたら祓うことすらできない。
「それならこうして静かに推し活を嗜んでいた方が、ずっと推しのためになるというものです……!」
 ふんすと鼻息荒く胸を張った苺苺は、今日も満足げな微笑みを浮かべる。
 視線の先では、木蘭付きの上級女官が慌てて幼妃を揺り起こしていた。