それなのに、彼は。
「いいじゃん、弱々しくなっても」
私とは対照的な明るさの声が落ちたあと、
「てかむしろそれいいことだから。美月の針がなくなったってことは俺に警戒心がなくなったってこと。つまり俺に少しだけ心開いてくれたって意味になるし」
まくし立てられるように告げられる。
……私が千聖くんに心を開いてる?
ううん、そんなはずない。たしかに一度、緩みかけたことはあったけれど、そのとき気づいてまた厳重に鍵をかけた。千聖くんとこうやって過ごすことはあっても一定の距離だけは心掛けている。内側を覗かれたくないからだ。
「私にほんとに針がついてるみたいな言い方しないでよ」
「例えばだよ、例えば。それに弱々しくって言っても、美月と俺の距離が前進してるってことでいい意味なんだからさ」
ニイと歯を見せて笑う千聖くんの表情に一瞬ひるみそうになったけれど、ある言葉で踏みとどまった。
〝美月と俺の距離が前進してる〟?
距離ってなに。心の距離とでも言いたいの? しかも前進してる? どこが?
「なにそれ、勝手に決めないで。全然距離なんて縮まってないもん」
むしろ一定の距離を保ったまま。
「いいや、確実に縮まってる。その証拠に美月、次々と俺に言い返すじゃん。初めの頃はそんなことしなくて、黙り込むことが多かったし」
「そっ、それは」
「それに美月、俺のこと〝千聖〟って呼んでくれるじゃん。それのどこが距離が全然縮まってないって言うの」
言い返す暇さえ与えられなくて、おまけに先手を詰まれて言葉が何も出てこなくなって「ぐっ…」唇を固く結んだ。
それに付け入るように、
「〝伏見くん〟だったのに〝千聖くん〟に変わってるっていうのにまだ距離が縮まってないって言うの」
どんどん私を追い詰める。
「そ、それは、千聖くんが呼べって言ったから……」
ようやくのどの奥から出てきた言葉は、あまりにも弱々しすぎて今にも風で飛んでいきそうなほど勢いがなかった。
「べつに呼ばないことだってできたはずだよ」
──そして、とうとう王手を打たれる。
たしかに、その通りだ。呼んでと頼まれたけれど、呼ばないことはできたし、これまで通り伏見くんと呼ぶことだってできた。それよりもとい関わりを持たなければこうして面倒事にも巻き込まれずに済んだはずなのに。
放課後に会えることを承諾したのは自分で、名前を呼んだのも自分。
つまりもう、言い逃れはできそうになかった。