「コーセー、さっきからビクビクしすぎ」
「少しはやっぱり警戒したほうがいいよ。ここには広瀬たちもいないようだし、他を探そうよ」
職員室に入ろうとしているところをコーセーに引き止められた。
「誰もいないから入っても大丈夫だよ。何かここで役に立つものがないか見るだけだから」
「役に立つものって何?」
「例えば、ちょっとした食べ物とかさ。いつまでここにいるかわからないから、食べられるものも確保しておかないと」
いつまで異様な学校の中で過ごせばいいのか。
戻る方法を探すのも大切だけど、長引くようなら食べるものも必要だ。
かといってここで見つけられるとしたら、せいぜいチョコや缶コーヒーくらいしかないかもしれないけど。
そういう何か食べられるものはあるはずだ。先生だって息抜きに甘いものがほしかったりすると思う。
「アメリカの学校はな、ドリンクの自動販売機だけじゃなく、お菓子の自動販売機もあるんだぞ」
おしょうが言っていた。
時々、持ち物検査が抜き打ちであるけども、それはナイフや危険物をもってないか確かめるだけで、お菓子を持っていてもおしょうは気にしない。
その時にアメリカの学校の事を教えてくれた。
アメリカの高校生はガムや飴を食べながら授業を受けていると聞いた時はびっくりした。
授業中、堂々と食べるのはダメだけども、休み時間少し口に入れて気分転換するにはお菓子だっていいとおしょうは言っていた。甘いものは神経を落ち着かせる。
しかし、他の先生や他のクラスの生徒の前ではするなよとも付け加えていた。
「こっそりとするんだぞ」
おしょうは無意味な校則を嫌い、自分の受け持ちの生徒には臨機応変に自由にさせてくれる。
だからといって全てに甘いわけでもない。理にかなった厳しい部分も持っていて、問題になったときはどうすべきなのかいつも生徒に問いかけ考えさせた。
おしょうも人間だから腹を立てることはあるけども、それを引きずらず生徒にも八つ当たりはしない。
それとは対照的に家庭科の沢渡先生は機嫌が悪いと八つ当たりでつっけんどんな態度を取ることがあり、実習でちょっと失敗すると嫌味を言ったりしていた。
他にも贔屓する先生、特にあの体育の真田先生は最低だ。
かわいい生徒には鼻の下延ばしているし、権力を盾に取っていい成績がほしければ先生を敬え、みたいなあの態度が鼻につく。
私は大嫌いだ。
でも先生が嫌いだからといって授業は放棄しない。
バレエで培ったしなやかな体を使ってとことん運動能力を発揮する。
やる事をやれば問題ないと思っていた。
だけど、どんなに早く走っても一学期の体育の成績は『3』だったから驚いた。
私の場合内申点が悪いのだろう。少しふてぶてしいとは自分でも思っていた。
でも久保田美佐が『5』を貰っていたと知ったときはけっ! て思った。
意地悪な美佐なのに真田先生の前では猫なで声でかわいこぶる。
運動神経は私よりもはるかに劣るのに、あの媚を売った態度が真田先生には好みなのだろう。
そして美佐は先生と個人的に会って、手を合わせて何度も「お願い、お願い」と言って何かを頼み込んでいたのを見た事があった。
あれは露骨に成績をよくしてくれと頼んでいたに違いない。
中学の成績の付け方ほど馬鹿なものはないと思う。
クラスで『5』や『4』を与える数が決まっていて、もらえる生徒が少ない。
内申点という先生の観察で得点が加算されたり、減点されたりで成績が決まってしまう。
テストの点数がいいだけではいい成績にならないところがあるなんて、一生懸命頑張っている人たちが可哀想だ。
でも私はそこまで一生懸命頑張ってないからどうでもいい。
ただ、おしょうのような先生がいっぱいいたらいいのにとは思う。
「おしょうのデスクってどこか知ってる?」
隣にいるコーセーに訊いたけど、首を横に振っていた。
「本当に入るの?」
コーセーは赤いお面を被った男に追いかけられたから、誰かが潜んでいないか心配になっていた。
「ふたりなら大丈夫だよ。もし危なくなったら助けてあげるよ」
普通こういう台詞は男が言うものだと思うが、コーセーは私に言われて逆に喜んでいる様子だ。
「ミーシャは頼もしいな」
プライドもなく素直なコーセー。私はそれがかわいいと思ってしまった。
一緒に職員室に足を踏み入れる。しんと静まり返っているのがやっぱり不気味だった。
それぞれの机には本や書類が山積みにされたままだった。
さっきまで先生がここで仕事をしていたみたいに、物が散乱していた。
もしかしたら動ける先生もいるんじゃないだろうか。辺りを何度も見回した。
「やっぱり誰もいないみたいだ」
それをいいことに目に付いたデスクの引き出しに手をかけてみた。
「ミーシャ、勝手に開けたらやばいよ」
「大丈夫だよ、食べ物探すだけだから。今は非常事態だし、見つかっても言い訳できるって」
私は引き出しを開ける。なんとそこには筒状のポテトチップスの箱が入っているじゃないの。
「食べ物みっけ!」
遠慮なくそれをつかみ、中身を確かめようと蓋を開けた時だった。いきなり目の前で蛇のようなものが勢いつけてびょーんと飛び出した。
「うわぁ」
「ミーシャ、大丈夫!?」
コーセーが側に寄ってきた。そして床に落ちていた黒いものを拾って私に見せる。
「これ、開けたら飛び出すびっくり箱だね」
コーセーはそれを縮めてまた箱の中に入れ込んで蓋をした。
「なんでそんなもの、先生の机の中に入っているのよ」
コーセーと顔を合わせると急におかしくなって笑いだしてしまった。
「びっくりしたミーシャってかわいかったよ」
さらりとコーセーに言われて、恥ずかしさからつい「ばーか」と彼の頭を軽く叩いた。
その時、コーセーの顔が恐怖に慄き出した。
「大げさなんだから。そんな強く叩いてないでしょ」
「違う、ミーシャ、あそこの隅に人がいるんだよ」
「また私を驚かそうとからかっているんでしょ」
「ほんとだって。きっと机の陰にしゃがんで隠れてたんだ」
コーセーの怯えた顔が嘘をついているようには見えず、私はゆっくりと振り返った。
奥の窓際で女性がすっとした姿勢で立っていて、私はどきっとして息を飲んだ。
顔があまりにも白く細い目でこちらをじっと見ている。よく見ればそれは能面だった。
正直それは不気味で怖い。
「ち、ちょっと、誰よ。何でそんなお面被っているのよ」
私が訊いても、一言も喋らず、ただじっと佇んでこちらを見ている。
コーセーは無意識に私の腕を取り怯んでいた。
「赤いお面を被っていた奴がいたというのは嘘じゃないってわかったでしょ。この世界には変な奴らがいるんだよ。どうしよう」
「ちょっとそんなにくっつくなって。もうしっかりしろ、コーセー」
「早くここから逃げようよ」
コーセーは小さく囁いた。
でも私はその女性から目が離せない。黒いパンツスタイルのスーツを着こなしスタイルがいい。
そこに微笑した能面がミスマッチ過ぎてどうしても怖いもの見たさで見てしまう。
何か惹きつけるものがそこにはあるように思えた。
能面の女はただ突っ立っているだけで、私たちを襲う気配がない。
武器も持ってる様子もなく、ひたすらこっちを見ているだけだった。
「さっきからじろじろとこっち見てるだけで気持ち悪いじゃないの」
自分の方からふっかけた。
「ふん、ガキの癖に生意気な」
能面の女が喋った。
隣でコーセーが力を入れて縮こまるのが、掴んでいる私の腕から伝わった。
「ちょっと、痛いじゃないの。コーセー」
「だって、あの女の人、なんか怖そうだよ。早く逃げようよ」
コーセーは赤い仮面の男に追いかけられたから、命を狙われると思い込んでいる様子だ。
「一体あなたは誰? 何が目的なの?」
私は背筋を伸ばす。追いかけて来るにしても、襲撃されるにしても、その理由は一体何なのか知る権利があるじゃないの。
この馬鹿げた世界が悪夢というのなら、なぜ自分はここに閉じ込められたのか知りたい。
私はコーセーの手を払い、自分から能面の女に近づく。
「ミーシャ!」
後ろでコーセーが呼んでいた。あれは鼻水垂らしていそうだ。
能面の女も受けて立とうとゆっくりと私の方に向かってきた。
お互いのパーソナルスペースを確保した距離で私たちは立ち止まり対峙した。
「その負けず嫌いで尖った性格は自分を強く見せようとしてるだけだろ。本当は怖いくせに」
能面の女が言い放つ。多少はその言葉に反応してびくっとしてしまった。
向こう見ずな自分の性格。自由きままで怖いもの知らずと人の目には映っている。
いつもみんなからは思った事をずけずけというきつい奴と思われ、私を避ける者が多い。
それがいつしか自分を大きく見せていると思うこともあった。
誰にも従わず、はっきりと自分の意見を言う。それが私なりの正義感でもあった。
だけど、ふと別の部分の気持ちが顔を出す。
自分は無理にそういうのを演じてないだろうか。
本当は弱い自分を隠すためにわざと悪ぶってバリアを張っているだけじゃないだろうか。
そういう思いをどこか心の隅に抱きながら、口からはいつも威勢が飛び出していた。
実際今も何をされるのかと思うと怖くなる。それを悟られないように私は強がっているだけだ。
「あなたも私を低く見てるから、貶そうと必死なんでしょ」
「そういう自分はそうじゃないとでも?」
「どういう意味よ」
「人の事を考えないでずけずけと思った事をいうことよ。そう言う事ができるって上から目線だからでしょ」
「な、何よ」
「ほら、自分に返って来たら言葉を失くすじゃない」
急にカァッと体が熱くなってきた。
目の前の能面には感情が現れてない。
でも能面の内側で私をあざ笑っているような気がしてならなかった。
言葉にならない喉から反射した音が「うっ」と自然に出てしまう。
「でも仕方ないわよね。まだ子供なんだから。そういう年頃はそういうものよ」
ふーっと能面から息が漏れた感じがした。今度は冷めた目つきで見られているように思えた。
「ふん、大人だからって好き勝手言わないでよね。あなたに私の何がわかるというのよ」
何だか悔しい。こんなにも自分がちっぽけだと思った事がないくらい、とても惨めに思えてしまう。
能面の女はまた黙り込んでじっと見つめていた。
その時、後ろからコーセーが私を呼ぶ声が聞こえた。
呼んでいるというより、悲鳴に聞こえた。
「ミーシャアアアア!」
オレは咄嗟に彼女の名前を呼んでいた。
そのほんのちょっと前、ミーシャが能面の女と対決している間、オレはそれをハラハラとして見守っていた。
何かあったらどうしよう。どうやって彼女を助けたらいいのだろう。果たしてオレが彼女を助けられるのだろうか。
そう考えた時、オレは無意識に机の上を見て武器を探していた。
机の上にあったペン立て。その中にハサミがあることに気がついた。
ステンレス製の工作用のはさみだ。あれなら武器になるかもしれない。
ゆっくりと分からないように少しずつ近づき、手を伸ばしたときに背後からオレは腕を握られた。
びっくりして後ろを振り向けば、あの赤いお面の男だった。
いつの間に後ろにいたのだろう。
悲鳴の変わりにオレはミーシャの名前を叫んでしまった。
ミーシャは振り返る。その顔はオレと同じように目を見開いて驚いていた。
「ミーシャ、嘘じゃなかっただろ。赤いお面の男が本当にいたんだよ」
半泣きになりながら情けない声を出す。
オレの腕はその時きつく掴まれてぐいっと後ろにひきつけられた。
「いてっ」
「何が『いてっ』だ。卑怯にもハサミを武器に使おうとして」
赤いお面の男が喋った。
怖いながらも振り返れば、怯んでいるオレを見下ろしていた。
急にひゅんと何かが縮んだようになった。
「お前は何かに頼らないとひとりでは何もできないのかよ。弱虫」
ぶっきらぼうな口調で吐き捨てる。
「そ、そういうお前だって、う、後ろからこっそり現れて、ひ、ひ、卑怯じゃないか」
必死に抵抗しようとしたが、声が上擦って自分でも情けない。
「ちょっと乱暴はやめてよ。コーセーを離してよ」
ミーシャが言った。
こんな状況でもオレのために怒ってくれるのがちょっと嬉しかったりする。
「ああ、情けないな、女に庇ってもらって。しかもヘラヘラしてさ。もっとシャキッとしろよ」
オレは足を蹴られてしまった。
「いてっ、いきなり蹴るなんてこれも卑怯じゃないか」
「卑怯? だったら、お前は卑怯じゃないのかよ」
「オレが一体何をしたというんだよ」
ちょっとハサミを手にしようとしただけだ。こういう場合は誰だって武器を探すに違いない。ミーシャを助けたかったからなりふり構わなかった。
だけど赤いお面の男の答えは思っていたのと違った。
「何もしなかったからだよ」
「えっ?」
赤いお面の男がオレの手を離した。
オレはすぐにミーシャの元へ駆け寄った。
赤いお面の男はじっとオレを見たままでその場から動こうとしなかった。
能面の女と赤いお面の男に前後を挟まれて、オレもミーシャも戸惑う。そして怖い。
「お前って常に脇役だな。しかも調子のいいヘコヘコしてばかりの」
「それが、どうしたって言うんだ。それもまた生きる術なんだよ」
自分の気にしている事を他人に言われると腹が立ってつい開き直ってしまった。
「そのニヤついた顔、見ていて苛々する」
「だったら見なければいいだろ。一体お前は誰だよ」
「このお面をよく見てみろよ」
赤いお面を指差して顔を前に突き出した。
それは赤いから赤いお面と言っていたが、詳しく言えばどこか戦隊モノのお面にも見えた。
でもオレの全く知らないものだ。オレは初代から続くシリーズをずっと知っている。
その時代に生まれてなくても、DVDやネットで配信されるストリーミングで全部観た。
でも目の前のお面はどのシリーズにも当てはまらない。
偽物か町興しのために作られたどこかの知らない地方のパロディものにしか見えなかった。
だけどその赤のお面が何を意味しているのか考えたら、それが誰であろうともオレには侮辱に思えてならない。
小学生の時になりたかった赤色の戦隊の役。なれなかった僕をあざ笑うためにわざと見せつけているようにしか思えなかった。
そしてオレはそれを怖がって逃げている。仮にも赤の戦隊はオレにはヒーローなのに。
『何もしなかったからだよ』
先ほどの赤のお面が言った言葉がひっかかる。
何もしなかったとはどういうことだろう。
だが考えるまでもなかった。その通りにオレは何もしてこなかった。
おかしいと思っても反対意見を言うことも、命令されて嫌だと思っても抗うことも、そして広瀬の事件の真実を知っていても正義を貫く事をしなかった。
だからオレはずっと赤色の戦隊のリーダーにはなれなかった。オレは脇役でも悪党のどうでもいい数合わせのためのエキストラだ。
目の前の赤のお面の男はパチモンであっても堂々と戦隊の赤のリーダーになっている。
体も適度に筋肉が付いて引き締まっていた。それが悪役のポジションだとしてもお構いなしに自信溢れた姿に見えた。
ミーシャの前に現れた能面の女性。オレの前に現れたパチモンの赤の戦隊。ここが広瀬のいう悪夢の中だとしたら、これは僕たちが勝手に作り出した心の中の恐れなのかもしれない。
何も広瀬だけが作った世界じゃない。オレたちが巻き込まれたということはオレもこの世界を作り出してしまったに違いない。そしてミーシャも多分そうなのだろう。
オレたちの心の中の恐れやコンプレックスが今目の前に現れている。
「ミーシャ、ここから逃げよう」
先ほどのように怯んだオレじゃない。本気でミーシャを守ってここから逃げるべきだと思った。
まともに戦っても素手では絶対に勝てる相手じゃないから、ここは一旦引いて作戦を練るべきだ。
こいつらを倒せばきっとオレたちは元の世界に戻れるはず。
オレはミーシャの手をがっしりと掴んだ。
「うぉー!」
そして腹の底から声を出して赤のお面に突進する。ふいうちを狙って突き飛ばそうとしていた。
「おっと」
だが赤いお面の男は闘牛士のようにオレをするりと避けた。
「えっ」と一瞬思ったけども、そのままミーシャを引っ張ってオレは職員室から脱出した。
ミーシャも必死にオレについてきていた。
勢いつけて廊下を我武者羅に走ったその時、階段から降りてくる誰かと角で鉢合わせになってぶつかってしまった。
「うわぁ」
「うぉぉ」
どちらも大声でわめいてしまった。
「ああ、広瀬!」
「えっ、コーセー!?」
オレたちはぶつかったところを抑えながら叫びあう。
「あっ、理夢!」
オレの手をするりと抜けてミーシャが理夢に抱きついた。理夢は体を強張らしている。それを見知らぬ男子生徒が後ろで見ていた。
誰だろうと思ったけど、広瀬は後ろを気にして落ち着かないでいた。
「とにかく逃げないと」
広瀬が言うと、オレも同じように「そうだ、逃げないと」と言った。
お互い顔を合わせてなんだかわからなかったけど、みんな何かに遭遇して逃げているとすぐに理解した。
「あっちに行こう」
職員室は危ないし、階段の上も危ないのならどっちでもない方向しかない。そのまま走り出し隠れる場所を探す。
「保健室に隠れよう。あそこなら出入り口は一箇所だ。内側から鍵をかければ入って来れない」
オレがいうとみんな首を縦に振り同意してくれた。
オレは先頭を走りみんなを誘導する。こんなの初めてだ。いつもは自分がついていくばかりだったのに意見を言って実行する。
オレだってやればできるんだ。
保健室のドアの前にきた時、オレは息を落ち着けそしてガラッと引き戸を引いた。
中に誰もいない事を確かめた上で、ひとりひとりを誘導する。そして廊下の様子を見てからオレも中に入った。その直後、鍵を閉めたところで、息を吐いた。
「ふげー」
意味もない言葉がでると強張っていた緊張が一度に解けて、やっと落ち着けた。
保健室は病院の相部屋の雰囲気がする。
端にベッドが二床、カーテンで区切りがされ、そのカーテンを引っ張ればベッドの周りを囲んで個室みたいになる。
部屋の壁際には保健の先生が使うデスクがあって、そこは診療所のように見えた。
そして部屋の真ん中に四角いテーブルが置かれ、ここで自主学習するようにも出来ている。辛い時や問題を抱えている生徒がここに身を置く事ができる。
そんなことをしたら仮病をつかってサボるやつがでるんじゃないかと思ったけど、保健の先生はプロだ。きっちり見極めて上手く機能しているらしい。
中には否定的な先生もいるらしいけど、オレたちが入学するずっと前からおしょうが必要だと言い切って出来たシステムらしい。
『時には逃げたっていいじゃないか。自分を弱虫だなんて思うな。逃げることだって勇気がいるんだぞ』
誰に言った言葉なのか、一般的な話の例えだったのかもしれない。だけどその言葉を発した時、おしょうと目が合ったから、僕はドキッとしたのを覚えている。
「だけど、無事でよかった。急に消えたからさ、教室に残ってたものは大混乱だったんだよ。それでコーセーと探しにきたんだ。頼りない奴だと思ってたけど、コーセーはやるときはやるやつだったよ」
ミーシャがオレをちらりと見た。
「そ、そうだよ。やっとわかってくれたのか。ハハハハ」
つい調子に乗ってしまった。ミーシャの呆れた目が突き刺さる。
「へへへ、なーんてね」
やっぱり最後はヘラヘラとおどけてしまった。
ミーシャはオレの側に来て「ばーか」とこつんと頭を叩く。でもその顔が笑っていたので、オレは構ってもらえた事が嬉しかった。
「ところで、その人は誰なの?」
落ち着いたところで、オレはそいつを指差す。全然知らない奴。でも顔が整ったイケメンだ。
「彼は、三年生のショーアさんというんだけど……」
広瀬が頼りなく紹介する。
一年上の先輩か。でもショーアという名前が変わっている。きっとニックネームなのだろう。オレだってコーセーだし、ミーシャもカタカナ名だし、オレは普通に受けいれた。この場をしきろうとオレは気取ってしまう。
「どうも初めまして、オレはコーセーです」
「私はミーシャ」
オレたちもニックネームで自己紹介した。一応ショーアは挨拶として簡単に首を縦に振っていた。
「そっちも逃げていた様子だけど、誰に追いかけられていたの?」
広瀬が訊いた。
「追いかけられたというより、対立してた」
オレは教室から飛び出して赤いお面に遭遇したことから、ミーシャが後を追ってきてふたりで広瀬たちを探して職員室に入った時のことを話した。
「それで、ミーシャは能面の女、オレは赤いお面の男と言い合いしたんだ。だけど向こうは大人で敵うような相手じゃないから、それで必死で逃げて来たんだ。そっちは誰に追いかけられたんだ?」
「僕たちは美術室でショーアさんと出会ったんだけど、そこで色々と話しているうちに掃除用具入れが勝手に開いてそこからスクリームのお面を被った黒尽くめの奴がナイフをかざして出てきたんだ。それで逃げて来た」
広瀬たち話の方が怖い。映画さながら完全に襲われようとしているじゃないか。
「それってホラーじゃないか」
「そうだよ、本当に怖かった。一体あれは何なんだろう」
広瀬はまた思い出したのか身震いしていた。
その話を聞いてミーシャは理夢に寄り添った。
「理夢、怪我はない?」
「うん、大丈夫。近寄ってくる前に逃げたから」
理夢はミーシャに心配されたことで安心感を得たようだ。人は優しくされるとほっとする。怖い思いをしたらしいけど、ミーシャのお陰で少し口元が綻んでいた。
その隣でショーアはまだ呆然としている様子だ。
「えっと、ショーアさんのクラスでは他に動ける人はいないんですか? いたら探しにいかないと、こういうときはみんなで固まっていた方が安全だから」
一年上だけど、先輩後輩なんか関係ない。みんなで力を合わせないといけない気がした。
「ボクは、ここにはひとりで来たんだ。その、ボクは、じさ……」
「ああー、えっとその時差があったみたいな」
広瀬が横から被せるように話し出した。
「時差?」
オレが聞き返すと広瀬は「そうそう」と頷く。
「僕たちよりも一足早くここに来て、ずっとひとりだったみたい。それで校舎をぶらついているところ、勝手に僕と佐野がいちゃいちゃしてるって勘違いして逃げるんだもん。あーまいったな」
「そういえば、広瀬は佐野の手を握って教室を飛び出したもんな」
「だろ。僕もなんて大胆な。ハハハハ」
なんか広瀬らしくないけど、オレみたいにヘラヘラしてるのはちょっと親近感が湧く。
「オレもそういえば、ミーシャと手を繋いでさ」
つい対抗したくなっていってしまったが、ミーシャはそんなこと全然気にしている様子がなく理夢と喋っていた。
「とにかく、ショーアさん。何も気にせず僕たちと一緒にいよう」
「広瀬君……」
ふたりは意味ありげに見詰め合っている様子だ。広瀬も相手が先輩だから気を遣っているのだろう。
「この世界はオレたちが恐れてるものや悩んでいるものが実体化して脅かしてくるんじゃないかって思うんだ」
オレは自分の感じた事を言った。赤いお面はオレの恐れ、能面の女はミーシャの恐れという事を位置づけた。
「それじゃあのスクリームの殺人鬼は僕の恐れなのか?」
広瀬が呟く。
本人はあまりピンときてなさそうだが、殺人鬼という言葉を聞いたときオレはハッとする。
「広瀬は田原に脅されて窓から突き落とされた。その時の恐怖なんじゃないかな」
オレが言った言葉に広瀬の顔が強張った。その広瀬と向き合い覚悟を決めた。
「広瀬ごめん。あの時、オレは全てを見ていたのに何もしなかった」
ミーシャが見ている。こんな話を聞いたらオレは軽蔑されるだろう。だけど、今オレは広瀬に謝らないといけない。
「条野は広瀬がいないところで好き勝手に広瀬の事を言っていた。広瀬が描いた漫画も面白がって他の奴らに見せていた。条野は従順な奴に近づいては自分を信用させてコントロールする奴なんだ。個人的に内緒だからとか、お前だから言うんだとか、いかにも特別な関係にみせかけて信用を得ようとするんだ」
広瀬は拳を握りながら顔を歪ませていた。でもオレは正直に話す。
「オレは条野がどういうやつか知っていて何もいわなかった。条野は嘘をついて周りを引き込むのが上手く、人望が厚いと思わせてみんなを騙す。実際女の子にももてていただろう。ああいう奴を相手すれば自分が不利になることが分かっていたんだ。だけどボクもまた利用される側だった。広瀬がいたことで注意がそれただけさ。許される訳はないけど、本当にごめん」
「スケープゴートってやつだよね。あーあ、やっぱりコーセーらしいな。ヘラヘラして柔軟だけど、ふりをしてたってことだ。お調子者はずるい奴か」
やっぱりミーシャは容赦ない。心を通わしたと思ったけど、聞きたくない事をはっきり言われてしまった。
「でもさ、それってやっぱり自分を守ってたってことだろ。コーセーもそういう自分が嫌だと思いながら、仕方なくそうなってしまったんだろ」
オレはミーシャを反射的に見つめた。彼女は哀れむように微笑んでいた。
「私もきついこと平気でいうけどさ、それって結局自分を守るためなんだよね。人を寄せ付けないようにとか、強く見せようとするとかそういう感じ。私とコーセーは正反対の態度だけど、自分を保とうとする点では同じだと思う。私もいいわけさせてもらうなら、継父の暴力が反発力になってしまったところがあったんだ」
誰も知らなかったミーシャの家庭環境にハッとした。
「コーセーを庇うつもりはないけど、どうしようもない立場におかれたとき、人は本能で自分を守りたくなるんだと思う。それが間違っていても、目の前のものが絶対的な強さを見せ付けたら、コーセーのように屈服するか、私のように反抗するかのどちらかになると思う」
ミーシャの言葉はオレの胸に染み入る。
「でも、それでもコーセー君やミーシャさんは本当に強いと思うよ。どちらにもなれなかったものもいるから」
ショーアが発言した。
どちらにもなれなかったもの? それはなんだろうと思っていたとき、広瀬がまた被せるように口を挟んだ。
「そうだよ、あの時はみんな田原が怖かったんだよ。あいつは頭がおかしいくらいの不良だから、先生すら恐れた。僕だって被害に遭っておきながら正直に言えなかった」
「あいつも家庭環境複雑そうだからな。かなりぐれてる。おしょうですら梃子摺っていたもん」
ミーシャが困った顔つきを見せていた。
「おしょう?」
ショーアは不思議がった。
「僕たちの担任の先生なんだ。馬場先生っていう名前なんだけど知らない? 下の名前はナオカズだったっけ? ちょっと見かけが住職っぽいんだ」
広瀬が教えると、ショーアは「いや、知らないけど」と困惑した表情を見せた。
「学年が違うと知らない先生がいるもんね。私も同じ学年を担当している先生でも授業とか受けてない先生はあんまりピンとこない」
ミーシャはその後、体育の真田先生はこうだとか、家庭科の沢渡先生はこうだとか悪口が入った。
「その点、オレたちのクラス、おしょうが担任になってよかったよな。ちょっと若作りしようと見かけは痛いけど、オレたちの事よく考えてくれている。今になっておしょうが言った色んな言葉が思い出されてさ、身に沁みるんだ」
「私もおしょうには助けてもらった。照れくさくてさ、あんまり面と向かってお礼は言ってないんだけど、へへへ」
ミーシャがオレのように誤魔化して笑ってるのは意外だった。
「君たちに好かれていていい先生みたいだね。ボクもそういう先生が側に居てくれていたら……」
ショーアは微笑むも寂しげに下を向いた。
コーセーとミーシャが僕たちを探しに来てくれ、偶然にもお互い何者かに追いかけられていたところかち合った。
コーセーとミーシャという組み合わせは意外な感じがしたけども、保健室に逃げ込んでからふたりの息が妙に合っているように見え、少なくともコーセーはミーシャに好意をもっているように思えた。
このふたりにショーアの事を聞かれ、僕はどのように説明しようか戸惑った。
追いかけられる直前にショーアが言った言葉は衝撃的でとても信じられたものじゃない。
『それは、ボクがすでに死んでるからなんだ。僕は自殺したんだ』
もっと深くそのことについて聞きたかったけど、そこにさらなる衝撃の邪魔が入ったからそれどころじゃなくなった。
ショーアはあれを『死神』と言ったのは、自分が連れて行かれると思ってのことだ。
『時が止まり、元の世界に戻れないのなら、死んでいるのと同じこと。ここは天国への迎えが来るのを待つ場所でもあり、元の場所へ戻るためのプラットホームでもある。どっちかに転ぶ空間にボクたちはいるのかも』
この世界をそんな風に位置づけていた。
最初は天国への迎えと言っていたけど、ショーアは殺人鬼を見て自分が地獄へ落ちてしまうと恐れたんだと思う。そして僕たちと一緒に逃げた。
この時になって本当の死を恐れたに違いない。
そんな彼のことを幽霊だとはっきりといっていいものか僕は迷っていた。
「ボクは、ここにはひとりで来たんだ。その、ボクは、じさ……」
ショーアが言いかけたとき、僕は咄嗟に誤魔化した。
なぜ僕はそれほどまでしてショーアを庇ったのかわからない。
ショーアが自殺するほどの理由を考えたとき、それは僕が味わった絶望よりももっと深く辛いものだったにちがいない。
そういう感情が僕に流れ込むと、僕はせめてその気持ちを取り除いてやりたいと思った。
あの殺人鬼が本当に死神だったとして、死んでまで恐怖に慄くショーアがとても気の毒すぎてたまらなかった。
「とにかく、ショーアさん。何も気にせず僕たちと一緒にいよう」
「広瀬君……」
僕たちはすでに友達だ。
理由はなんであれ、僕たちが出会った事を大切にしたい。
そこに何か意味があるのでは、いやあってほしいと願いながら僕はショーアを見ていた。
コーセーは訝しげな顔をして僕たちを見ていたけど、問い詰めるほど気にしなかった。
それよりも目の前に現れた大人たちの事を分析し、それらが心の恐れが実体化したと言い出す。
「それじゃあのスクリームの殺人鬼は僕の恐れなのか?」
思わず口からでたけど、あれが自分の恐れだとは思わなかったからいまいち実感が湧かなかった。
そしたらコーセーは急に真顔になって僕と向き合う。
僕が窓から落ちたとき、黙っていたことを謝られた。
そこで再び条野の名前が出たとき、僕は体に力が入る。
コーセーが真実を言わなかったことよりも、条野のずるさや、田原の暴力に怒りがぶり返す。
条野や田原はサイコパスなんだと思う。話も通じないそんな異常者に狙われたらどうしようもない。僕がコーセーの立場なら、怖がって同じ事をしていたかもしれない。
ミーシャの強がりも家庭内の事情から来ていると知って、僕は腑に落ちた。
ミーシャのことをバカにしてたけど、その裏にある原因を知ったときわだかまりがすっと消えていく。ミーシャも辛かったんだ。
やりたい放題の強さの前では確かに、どうしようもないと屈服するか、負けを認めたくなくて反抗するかに分かれる。
大概は前者になってしまうだろう。そういう僕も屈服していじけてしまった。
「でも、それでもコーセー君やミーシャさんは本当に強いと思うよ。どちらにもなれなかったものもいるから」
ショーアが口を挟んだ言葉は僕にはすっと頭に入る。どちらにもなれなかったものは自ら命を絶った自分の事を言ってるのだ。
「そうだよ、あの時はみんな田原が怖かったんだよ。あいつは頭がおかしいくらいの不良だから、先生すら恐れた。僕だって被害に遭っておきながら正直に言えなかった」
僕が慌てて言うと、ショーアは僕を見ていた。
そこからおしょうの話になった。ショーアに言っても学年が違うと知らないみたいだった。
僕のあの事件で、全然関係ないよそのクラスの担任が僕の肩を持ってくれた。それがおしょうだ。
最初から田原が悪いと決めつけ、原因となった僕が描いた漫画を見せろとクラスの担任につめよったと聞いた。
それは始末したと担任は言い張ったため、直接入院している僕に内容を聞きに来た。
「正直に話してほしい。これは一歩間違っていたら広瀬は死んでいたんだ。そんな事故、いや事件をうやむやにするのはよくない」
おしょうは事件と言い切った。僕のために学校の組織と戦おうとしてくれた。
それなのに僕は何も言わなかった。あんなにも僕を信用して僕を助けようとしてくれたのに、僕はおしょうを頼れなかった。
それよりも放っておいてほしいと突き放した。おしょうには悪い事をしたと今になって思う。
「君たちに好かれていていい先生みたいだね。ボクもそういう先生が側に居てくれていたら……」
ショーアもおしょうが側にいたら自殺なんてしなかったかもしれない、といいたかったのだろう。
僕もおしょうが全面的に僕の味方になってくれた事は、絶望の中でも一筋の光をみた気になった。
おしょうが担任になって家庭訪問に来たとき、おしょうは頭を下げたと母が言っていた。
「学校は一方的に息子さんの身勝手な事故だと決め付けてしまいました。要因は確かにあったかもしれません。しかし息子さんだけが悪いとは言えないと私は思っています。私がもっと早くに気がついて現場に訪れていれば……本当に申し訳ございません」
当事担任でもなかったおしょうが防げることではなかったのは母も承知だ。だけどおしょうになら僕を安心して任せられるといっていた。
それまでは母もあの事件から不安になり、心を閉ざした僕が自棄にならないかと心配していた。
「この世界から抜け出したら、おしょうを紹介するよ。おしょうならショーアさんが抱えている問題を解決してくれるよ」
この世界にいるものは何か問題を抱えているからとコーセーは思っている。
それはその通りだと思うが、ショーアの場合はちょっと違うから、いくら事情を知らないとはいえ、あまり調子よく言ってほしくなかった。
「そうだね。是非会ってみたい……」
ショーアはコーセーに合わせて無理に笑顔を作って笑っていた。
その隣で佐野が見守るようにショーアを見ていた。さっきから一言も話さないけど、ショーアの自殺にショックを受けていたのだろう。
記憶がなくなった佐野にとったら、混乱と不安しかないはずだ。佐野もまた体と魂が離れ離れになって死の恐怖を実感しているかもしれない。
ふと僕は思った。
赤いお面の男はコーセーの恐れ、能面の女はミーシャの恐れ、そうしたらあの殺人鬼はショーアの恐れの実体化ではないだろうか。
そしたら僕の恐れの実体化はなんだろう。
僕が作り出したのは佐野だ。僕だけがはっきりと佐野をイメージしてしまった。
だとしたら、僕は佐野の何を恐れて実体化させたんだ。
でも僕が佐野を恐れているなんて考えられない。僕が恐れていることは佐野に嫌われる事だ。
本当は、僕は佐野と仲良くなりたかったんだ。だから、側に居てほしいと願ってしまって、中途半端に佐野を巻き込んでしまった。
「だけどさ、これからどうする? あいつらをやっつけるにしたって、何をどうすればいいのかわからないよ」
コーセーは腕を組んで一生懸命考えようとしている。いつも人任せでヘラヘラしているのに、この時のコーセーはいつもと違った。
僕たちが考え込んで静かになっているとき、ドアがガタガタと音を立てた。
僕たちが振り返れば、すりガラスの部分にぼやけた人影が映っていた。その瞬間戦慄が走り、みんなが息を飲んだ。
「和泉、ちょっと見てて」
比呂美が自分の席に戻って椅子を引く。
「何するつもり?」
「多分、私はもう元の世界に戻れるんだと思う。座った時私が動かなかったら、戻ってることになる」
そんな唐突に比呂美から言われても私は困惑するだけだ。でも本当にそうなったらどうしよう。私はひとりここに取り残されてしまう。それも怖い。
「ちょっと待って、比呂美」
もう少し待ってほしいと私は比呂美に近づいた。
「もし座った後、私が動かなかったら、それはさっき言った仮説が正しいことだから」
そんな事を言われても、まだ私はよくわかってない。もう少し比呂美と一緒に話合いたいのに、比呂美は私の不安な気持ちをものともせず、本当に座ってしまった。
「比呂美!」
元の世界に帰る法方があるなら知りたい。比呂美の言う事が本当ならそれは喜んでいいことだけど、私は椅子に座る比呂美を見て「ああ」と嘆いてしまった。
比呂美の言う通り、椅子に座るや否や比呂美は石にでもなったように固まってしまったからだ。
もしかしたら演技なのかもと疑ったけど、何度触れても比呂美は動く気配がなかった。
「ん、もう。なんでそう勝手に進めるのよ。思い込んだらすぐにのめりこんで突っ走るんだから。あなたは帰れていいかもしれないけど、残った私たちはどうするのよ」
すでに動かなくなってしまった比呂美に言ったところでどうしようもなかった。
比呂美は仮説を立てたけど、本当は席に戻るだけで元に戻れるのではないだろうか。私も自分の席に行き、椅子を引く。そして座ろうかどうか迷った。
だけど今私が座って万が一比呂美と同じように動かなくなったら教室から出て行ったみんなはどうなってしまうのだろう。放っておけないし、でも一度試してみたいし、足がブルブル震えた。
暫く葛藤してたけど、やっぱり私は座らなかった。これからみんなを探しに行かないと。この部屋に戻ってこないことにはみんなは椅子にも座れない。
『この悪夢の世界で自分が変わるような事を体験すればいいってことじゃないかな』
比呂美は自分の考え方が変わるようなきっかけがあればこの教室に戻ってこられると言っていたけど、本当にそうなんだろうか。
比呂美はすぐにスピチュアルな考え方をするし、霊感が強いから特別なものを感じやすいとか普段から言ってるくらいだ。それも思い込みじゃないだろうか。
もう少し話し合ってもよかったのに、自分だけ先を急いだことに少し腹が立ったけど、比呂美は比呂美なりに証明して私たちを助けたかったのかもしれない。それが彼女らしいやり方だった。
「わかったわよ、比呂美。あなたの仮説が正しいと信じるわ」
私は後ろのドアの前に立つ。先ほど消えた大志をまずは探さないと。泣きべそかきながらその場に留まって私が来るのを待っているかもしれない。
「えーい、行くしかない」
勢いつけてドアから飛び出した。そしてすぐ後ろを振り返る。
「みんな消えてる。やっぱり一度出たら元の教室には戻れない」
私は辺りを見回す。特に校舎は変化なく見慣れた廊下だ。窓の外の景色もよく知ってる中庭が見える。でも木々の葉っぱがそろそろ秋の気配を見せてもいいころなのに、まだ青々としているように思えた。知っているのに違う何かを感じる。
あっ、そうだ、大志はどこだろう。教室を出たその場で待っていると思ったのに、しーんと静まり返った廊下は人の気配がなさそうだ。
「大志! どこにいるの?」
空っぽの中で自分の声が跳ね返っている。でも返事はない。もっと大きな声で叫ぼうと息を吸い込んだときだった。
ピアノの音が聞こえてきた。指先ひとつで演奏しているようなたどたどしい音。キラキラ星のメロディだ。この先の突き当たりは音楽室がある。誰かがピアノを弾いている。もしかして大志?
「またかっこつけようとして」
私は音楽室へ走った。ドアの前に来るとピアノの音がはっきりと聞こえ、勢いつけてガラッと開けた。
「大志、何してるのよ」
ピアノの音が止まったと同時に、演奏していた桃色頭巾を被った人が私を見た。まるで忍者のくノ一だ。だけどその下は黒いスーツだった。
その隣で白衣を着た博士に扮する人が立っていた。両サイドには白いふわふわな髪、頭のてっぺんだけはげているカツラを被っている。瓶底眼鏡もかけていて、ふざけているとしか思えない格好だ。
だけどそれが女性だったから私は唖然としてしまった。あんなの恥ずかしくて嫌だ。
「ようこそ」
博士が喋ったあと、鍵盤を隙間なく滑らした音が流れた。BGMのつもりなのか。
しかしこの人たちは一体誰なのだろう。学校の先生だろうか。どちらも頭巾や眼鏡で顔がはっきりとわからなかった。
「いつまでもそこに突っ立ってないで中に入ってもっと私たちに近づいたら?」
「あの、一体ここで何をされてるんですか?」
「あなたを待っていたわ、貴子さん」
自分の名前を呼ばれて私はドキッとした。
「なぜ私の名前を知っているのですか?」
その名前では呼ばれたくないから少し不機嫌になってしまった。
「私は物知りなの。ほら、見かけも賢そうな博士みたいでしょ。フフフフ」
またここでピアノの音が鳴った。今度はポロンポロンとはじけるような音だ。
「あの、男子生徒をこの辺りでみかけませんでしたか」
とりあえず質問してさっさとここを去ろう。いくら女性でもなんだか不気味だ。
「他の誰かが捕まえて、彼は連れて行かれたわよ」
「えっ、どこにですか?」
「それが知りたかったら、私と勝負しましょう」
ジャーンと力強くまたピアノの音が鳴る。
「あの、ふざけないで下さい」
「ふざけてなんてないわ、貴子さん」
「あの、見知らぬ人に馴れ馴れしくその名前で呼ばれたくないんですけど。どうして私のこと知っているんですか」
「あら、そんな口叩いていいの? もし私があなたを受け持つ先生だったらどうする? そんな態度だと内申点に響くわよ」
内申点。その単語を聞くだけでびくっとしてしまった。
「そんな、これと授業は関係ないと思います」
「でもね、心証が悪いといいイメージにつながらないから不利よ。先生も人間なのよ、生徒の好き嫌いってあるの」
「そんなことで成績に響くんですか。そんなの先生失格のやることだわ」
「でもあなたもそんな先生がいるってことは知ってるんじゃないの?」
特に答えなかったけど、そういう先生の心当たりはあった。
「やっぱりかしこいわね。そういう先生のことも悪く言わない。ひたすら自分のためにいい子でいる。あなたはクラスでは完璧にこなしてるものね。控えめでいてやることはしっかりとやる。計算高いわよね。でもそんなにまでしていい子ちゃんぶって疲れない?」
「あの、一体何がいいたいのでしょう。私は私なりに頑張っているだけです」
「そうね、頑張ってるわよね。でもそれって何のためかしら」
何のためって聞かれて、自分のためだと言いたかったけど、それが口からすんなりと出なかった。
本当は何のために頑張っているのか。そこには超えられない姉を超えたいという理由と、名前を勝手に祖母につけられたせいで私を愛せなくなった母を見返したい気持ちがあるからだ。
すぐれた私を姉や母に認めてもらいたい。だから頑張るしかなかった。だけどそれが惨めで、そんな気持ちでいる事を誰にも言えない。
私が答えないでいると、博士は次へ進む。
「それじゃここで問題。上が魚、下が動物の花はなーんだ」
突然なぞなぞ? でもその答えは知っている。
「あじさい」
「当たり!」
ここでピアノの明るいメロディが軽やかになった。
こんなの小学生の言葉遊びだ。でも私が小学生の時、姉からこの問題を出されて私は答えられなくて悔しい思いをしたことがあった。
梅雨の季節、庭に咲く紫陽花が目の前にあったのに気がつかなかった。あれはその年の梅雨が始まる前に母が植えたものだった。母は園芸が趣味だった。
「貴子、カタツムリ探そう」
姉が突然言い出した。
台所では母がやかんでお茶を沸かしている時だった。お湯は沸いているのにいつまでもお茶を煮ていた。
「お母さん、なんか食べるものないの?」
「今忙しいから、あっちにいってなさい」
私は仕方ないから、姉と一緒に玄関先に植えてあった紫陽花を見に行った。傘を差しながらカタツムリがいないか私は真面目に探していた。
でも姉はじっと紫陽花を見つめて悲しそうな顔をしていた。
「ねぇ、貴子。アジサイってどうして青や紫、ピンクの色があると思う?」
「そういう種類があるからでしょ」
「違うよ。アジサイの色が変わるのは土のせいだよ。土が酸性だと青、中性だと紫、アルカリ性だとピンクになるんだよ。日本は雨が多いために土の中のアルミニウムが溶けて酸性になりやすいから青い色が多いんだって」
家に植えてある紫陽花は青色だった。
「お姉ちゃん、この間お母さんの草花の本を読んでたよね。それで知ったんでしょ」
私より先にちょっと知ったからいい気になってると思った。
「そうね、あの本にはアジサイのことも書いてあったわ。その他にも色々と」
姉は何を見ているのかわからない虚しい目をしながら葉っぱを一枚取り、それを口に銜えた。その時、目が潤んでいたような気がした。
そしてその後、姉の具合が急に悪くなり家の中は慌しくなった。酷い吐き気に見舞われて、姉は苦しそうにしていた。家にいた母も祖母も取り乱し、心配と苛立ちで何を与えたのかと責任のなすり合いをした。
元々仲が悪いふたりだから仕方がない。私は怖くて部屋の隅で泣きながら立っていた。
苦しそうに床でくの字になってる姉が私を見て口元に人差し指を立てた。一体どういう意味だったのかその時はわからなかったけど、私はそのジェスチャー通りに一言も話さず静かにしていた。
姉は病院に連れて行かれ、幸い軽症ですぐによくなったから家族はほっとした。
その後随分経ってから、アジサイには毒があると知った。姉はあの時、変なものを食べたかと訊かれても、『わからない。お茶を飲んだだけ』と言っていた。
アジサイの葉っぱを口にしたことを言わなかった。それを私にも言うなとあの時口止めをしたつもりだったのだろうか。
だけどあれはどういうことだったのだろう。疑問に思った時はすでに時間が経ち過ぎて私はその理由を姉に訊けなくなっていた。
「次の問題。アジサイの葉っぱでお茶が作れる。イエスかノーか」
博士が次の問題を言った。
「ノー」
私は答えた。
「ブー」
それと一緒にピアノの低い音が一回鳴った。
「でもアジサイには毒があるわ」
「アジサイの変種でなら甘茶が作れるの」
「アジサイの変種? そんなのひっかけじゃない。普通のアジサイでは作れないわ」
「そうね、普通のアジサイではね。でも甘茶ってね、紫陽花の変種から作るの。砂糖も入ってないのに甘く感じて、飲めばカロリーもないから、糖質制限している人には重宝しているのよ。特に糖尿病の人にはいいかもね。私も飲んだことあるけど、本当に甘かった。お釈迦様の誕生日の花祭りで、甘茶をお釈迦様にかけて祝う行事もあるわね」
甘茶は私も飲んだ事がある。祖母がまさに糖尿病持ちだから、母が祖母のためにと買ってきた事があった。
「それじゃ次の問題。甘茶には毒がある。イエスかノーか」
「毒があるんだったらお茶にできないじゃないの。ノー」
またピアノの音とともに「ブー」と博士が否定した。
「濃くしすぎると食中毒を起こすの。だから毒はある」
「そんなの、普通に飲むお茶には毒は入ってないじゃない」
「果たしてそうかしら」
意味ありげに言ったその言葉が違和感をもたらした。
姉がアジサイの葉を口に銜えたあの日、母はやかんでお茶を沸かしていた。それを見てから姉と一緒にカタツムリを探しに行ったので覚えている。あの時作っていたお茶は甘茶だったような気がする。
姉が苦しんでいる時、母は確か折角作ったお茶を慌てて流しに捨てていた。なぜそんな事をしたのだろう。
まさかあのお茶は――。
もしかして姉はお茶に毒が入っていると知っていた? 自分がアジサイの葉を食べることでわざと食中毒になって、『お茶を飲んだだけ』と嘘をついてそのお茶を母に捨てさせた。そしたら母もそのお茶には毒があるって認めたことになる……。
母はあのお茶を祖母に与えようとして作っていた。まさか祖母に毒を盛ろうとしてたんじゃないだろうか。姉はそれを知ったからあんな行動をしてそれを阻止した。
もし体力の弱った祖母がそのお茶を飲んでいたら、最悪のことだって考えられる。その原因がお茶だとわかっても偶然に濃くなっていたと白を切ればバレない。
市販されているお茶に毒が入っているなんて普通思わない。知らなかったで母は通そうとしたに違いない。
「次の問題。紫陽花は英語でなんていいますか?」
過去のことに捉われて、私はすぐに答えられなかった。
「えっと、あっ、ハイドレンジア」
「正解!」
軽やかなリズムが流れた。
「やっぱりよく勉強してるわね。それじゃこれで最後の問題。アメリカ原産の白い紫陽花の名前は?」
白い紫陽花。姉の好きな花でもある。土壌の酸性度に関係なくいつも白く咲く紫陽花。
『白い紫陽花はね、アナベルっていうの。お母さんとお祖母ちゃんに贈ってあげたくなる』
姉が以前言っていた。だから私は知っている。
「アナベル」
「正解! よく知ってたわね」
派手にピアノの音がむちゃくちゃに鳴った。
「五問中三問正解。合格としましょう。ちなみに、白い紫陽花の花言葉は『寛容』。紫陽花は色によって花言葉が色々とあるからね。青や紫は『冷淡』『無情』、ピンクは『元気な女性』などなど」
博士は豆知識のように人差し指を立てて教えてくれた。
白い紫陽花は寛容と聞いて、これって姉は母や祖母にそう願っていたんだろうかとふと思う。姉は母が馬鹿な真似をしないように体を張って煮すぎた甘茶を祖母に飲ませないように阻止した。姉だって紫陽花の葉で死ぬかもって思ったはずだ。それでもやらなければならなかった。
姉はいつも母が過剰に褒めていた。本当に出来がよかったからそれに値していたけど、私は見ていて面白くなかった。
その代わり私は祖母に褒められたけど、そこにはお互い名づけのプライドがあったのかもしれない。そのために母は私を素直に褒められなかった。物分りのいい賢い姉はそれを知っていた。
姉と喧嘩をすることもあったけど、それは私の嫉妬心のせいでつい姉に意地悪していた。物を隠したり、壊したり。温厚な姉も度々重なる私の意地悪には切れてしまった。
「貴子ちゃんの方が名前も立派なんだから絶対お姉ちゃんよりもよくできるのよ」
祖母も姉には負けるなとけしかけるように応援していたように思う。
全ては私の名前が勝手につけられたことで、姑問題が勃発してしまい、私と姉の関係まで分断された。家庭内の不和だ。
これも紫陽花の色が変わるように環境次第で状況が変化してしまった。土壌が正しいものであったならこんなに歪にならなかっただろう。
私は自分の名前を嫌い、母が姉を褒める度にコンプレックスを感じて負けたくないと歪んだ気持ちが現れた。
あの時、もし姉が甘茶の毒に気づかずに祖母が飲んでいたらどうなっていたのだろう。万が一の事があったら母は殺人を犯したことになってしまう。
そこまで追い詰められていた母。その母の目を覚ますには姉が死の淵に立ったところをみせるしかなかった。姉がどれほど賢くて勇気があったのかが窺える。そんな姉に自分が勝てるわけがない。
そう思ったとき、肩の力がすーっと抜けた。
「それじゃ、約束通り教えてあげるね。あなたの探している男の子は体育館にいるわ。複数の人たちに取り囲まれている。あなたひとりでは助けられないと思うから、他の友達を探して協力してもらうのね」
「その他の友達なんですけど、どこにいるかわかりませんか?」
「さあ、どうかな。みんなが集まりそうなところを考えたらわかるんじゃない?」
そこまでは教えてくれそうになかった。きっちりとしたようでいて結構意地悪そうな感じがした。
「あの、どうして私に紫陽花のクイズを出したんですか?」
「たまたまよ。それがどうかして?」
偶然の産物が私に過去を蘇らせた。でもそれでよかったように思う。気がつくときって何かと偶然が現れるものかもしれない。
「いえ、その、面白かったです」
「そう、よかった」
「でも一体あなた方は誰なんですか?」
「その答えは自分で見つけて。それよりも早くお友達を探した方がいいわよ」
これ以上は何も教えてくれなさそうだ。
私は一応頭を下げた。そして踵を返して音楽室を出た。後ろからまたピアノの音が聞こえる。たどたどしくてとても下手くそだ。
だけどそのメロディは聞き覚えがあった。『遠き山に日は落ちて』だ。夕方に流れるメロディでもある。どこか物悲しくて、早く家に帰らないとという気持ちにさせられる。これも暗示のような気がする。この世界から脱出して早く元に戻らないと。
私は階段を下りていく。やがてピアノの音は聞こえなくなった。
音楽室で出会ったあのふたり。見かけもくノ一と変な博士だった。理由は分からないけど、私を待ち構えていたように思う。
意味もない出題されたクイズ。いや、偶然にもそこには私の過去にまつわるものがあった。忘れていた事を思い出し、あの時の事を姉に詳しく訊いてみたくなった。
不思議と気持ちが整理された出来事だったように思う。これが、比呂美が言っていた自分が変わるような体験なんだろうか。
だけどこの世界に紛れ込んだだけでもう全てが変わっているような気がする。
ミーシャとコーセーは理夢と広瀬をちゃんと見つけただろうか。みんなどこにいるんだろう。
大志は体育館にいる。助けるにはみんなの力が必要だ。早くみんなを見つけないと。
本当にこの世界はゲームのようだ。ヒントを得て次に進む。クリアしたとき、果たして何が待っているのだろう。
階段を降りて次はどこへ行こうと思ったとき、その先の保健室が目に入った。比呂美がそこで保健の先生に会ったと聞いたこともあって、私はそのひらめきに賭けてそこへ向かった。ドアの前に来たとき人がいる気配を感じ、気持ちが高揚した。やっぱり何かに導かれている。
そしてドアに手をかけて開けようとした。鍵がかかっていてドアはガタガタとするだけで動かなかった。
「ちょっと、みんなそこにいるの? 私よ、和泉よ。開けて」
ドアを激しく叩きながらその向こうで叫び声が聞こえる。
「和泉、本当に和泉なの?」
ミーシャが素早くドアのところへ走り鍵に手を触れた。
「ミーシャ、気をつけろ。何かの罠かもしれない」
同じく駆け寄ったコーセーは慎重に対応する。
「もう、私よ、私。和泉だってば。和泉貴子よ」
「和泉は自分の下の名前が嫌いなはず。そんな滅多にフルネームを言わないわ」
ミーシャが違和感を抱いた。
「もう、本当に和泉よ。どうすれば信じてくれるのよ」
僕もドアの前に近づいた。
「本当の和泉なら僕の質問に答えられるはず。小学六年生の時に僕に頼みごとをしたけど、それはなんだった?」
「その声は広瀬ね。ええ、覚えてるわよ。私をモデルにして漫画を描いてよって頼んだわ」
周りのみんなは僕を見ていた。僕は「うん」と頷くとやっと信用した。
ミーシャが鍵を開け、引き戸を引く。そこには腕を組んでちょっと立腹している和泉が立っていた。
「ん、もう。なんですぐに信用してくれないのよ」
膨れた顔で中に入った。コーセーは廊下をキョロキョロと確認しながらドアを閉めてすぐに鍵をかけた。
「ごめん、ごめん、ちょっとみんな怖い目に遭ってるから、用心深くなっちゃってさ」
ミーシャが答える。
「怖い目に遭った? 一体何が起こったの?」
僕たちはまた一から時系列に報告する。まずは僕が佐野と教室を飛び出した後のことを話し、その時に出会ったショーアを紹介する。もちろん自殺したことは伏せておいた。
「ショーアさんね。私は和泉です」
きっちりしている和泉はショーアに向かって挨拶をしていた。
「イズミさんですね、どうも初めまして」
ショーアも丁寧に受け答えしていた。
そこから美術室で殺人鬼に襲われた事を話し、和泉は驚き、佐野に近寄って「大丈夫だった?」と心配していた。
次にミーシャが職員室で起こった事を話す。時々コーセーも補足していた。能面の女と赤いお面の男に攻撃されて逃げ出し、その時に鉢合って合流して保健室に隠れている事を話した。
「それで和泉は大丈夫だったの?」
ミーシャが訊いた。
「私は大丈夫だったけども、ちょっと奇妙な事があったわ。音楽室でくノ一がピアノを弾いていて、ハゲのカツラを被った女性の博士に質問された」
和泉は起こった事を正直に話しているのかもしれないけど、聞いている僕たちは混乱した。
「ちょっと待って、何の話?」
ミーシャが露骨に顔を歪ませていた。
「だから――」
和泉自身も訳がわからなかったのだろう。目の前に現れたくノ一とハゲの女性博士のキャラクターが濃すぎて、説明したところでそれを直接見ないことには理解しがたい。
「とにかく、私が出会ったものは、みんなが出会った怖い人たちと同じようなものでしょ。たまたま攻撃してこなかっただけで」
「お笑い系ってことか」
コーセーが言った。
「じゃあ、そのお笑い系は和泉にとって何の恐れがあったのだろう?」
僕が訊いた。
「恐れ? どういう意味?」
和泉は首を傾げる。
僕は普段恐れていることがここでは実体化することを説明する。
「心に抱いているコンプレックスが自分の目の前に現れるってこと?」
和泉はそう言って考え込んでいる。何か心当たりがあるようだ。納得した時口を開いた。
「確かにそれはあったかもしれない。博士に質問されることで気がついた事があったから」
詳しいことまでは教えてくれなかったが、博士にされた質問で自分を見つめ直すきっかけになったと言った。
その時、和泉ははっとして目を見開いた。
「そうだ、大事な事を言わないと。あのね、元の世界に戻る方法が分かったの」
「えっ! ちょっとなんでそれを最初にいわないのよ」
ミーシャが責め立てた。
「だって、色んな事がありすぎて、私も気が動転してたの。それと、大志が捕まって今、体育館にいるの。それも助けに行かないと」
「えっ、大志が捕まった? それってやっぱりオレたちが出会ったような奴らによって?」
コーセーがびっくりして身を乗り出した。
「みんなとにかく落ち着いて。最初からきっちり話すから、ちょっと黙って聞いてくれる? 質問は私が話し終わるまで禁止」
和泉も相当混乱していて、苛立っている様子だった。
「コーセーとミーシャが教室から出て行って消えた後に、授業をサボって保健室で寝ていた比呂美が教室の後ろのドアから入ってきたの」
「比呂美が……」
ミーシャが言った後、和泉はじろりと睨んだ。ミーシャは慌てて口を手で押さえていた。それからは誰も何も話さず、和泉の話を食い入るように聞いていた。
僕も最初は落ち着いて聞いていたけど、途中からドキッとして思わずショーアと目が合ってしまった。
佐野が竹本にこの学校で自殺した生徒がいないか訊いていた下りのところだ。幽霊がいるかいないか、そういうものを佐野は探していたみたいな話だ。
記憶を失っている佐野もまた衝撃を受けて動揺していた。自分でもなぜそんな事を訊いていたのか思い出せないから余計にこんがらがっているのだろう。
大志は油断して教室から出ると消え、だけど竹本は何度も普通に教室を出入りできた。竹本の行動がかなり鍵となり、そこから仮説が生まれる。
「ここが大事なんだけど、この世界で自分が変わるような事を体験して考え方を改めれば、それが戻る鍵になるってことなの。そして再び教室に戻って自分の席につけば元の世界に戻ることができる……」
竹本は和泉の目の前でそれを実行し本当に動かなくなったといっている。
その後僕たちを探しに和泉は教室を飛び出した。そこからはさっき話した音楽室の出来事だった。
上手い具合に僕たちはここで和泉と合流できたわけだが、一通り話を聞いた後、やっぱり僕は混乱する。
なぜ佐野は自殺した生徒がいないか訊いていたのだろう。学校で幽霊を見ていたのだろうか。まさかそれがショーアのことなのだろうか。僕は佐野をちらりとみたけど、佐野はじっと下を向いて何かを考えている様子だった。
「以上、これがここに来るまでの経緯。では質問があるならどうぞ」
意外にも最初に手を挙げたのは佐野だった。少し遠慮がちにおどおどとしている。
「理夢、何か思い出したの?」
和泉が期待した。
「私は何か学校の問題に気がついていたの? 例えば、虐めがあったとか、学校に来なくなった生徒がいたとか、そういうことを探していた?」
みんな一瞬考え込んだ。ずっと何も話さなかった佐野が発言したことは、彼女自身記憶が刺激されたのではと思えてならない。
「よくわからないけど、私にはドリームキャッチャーの事を訊いた事があった。理夢は学校でそれを探していたけど、理由を訊いても教えてくれなかった」
和泉は佐野の様子を注意深く見ながら答えていた。その時の佐野は何かを感じ取ったように一点をじっと見つめて真剣になっていた。
「そういえば、教室でドリームキャッチャーを見た事があると言っていたけど、それはどこで見たんだい?」
あの時、もっとそれについて詳しく訊けたのに、僕はこの世界を作ってしまったと責められると思って佐野の手を引いて教室を飛び出してしまった。
「あれは、家に手紙が送られてきたの。そこにドリームキャッチャーの絵が描かれていた……」
そこまで言った時、佐野ははっとしていた。
「記憶が戻ったの、理夢?」
和泉は顔を明るくし、ミーシャも同じように期待を込めた目を向けていた。
「和泉、ミーシャ、私はあなたたちの友達だよね」
佐野は目を潤わせてふたりに訊く。
「もちろんよ」
「当たり前じゃない」
聞きたかったふたりの答えに佐野はほっと一息ついた。
「ありがとう」
佐野の目から涙が溢れ出す。
「どうしたの、理夢?」
「なんで泣くんだよ」
和泉とミーシャが理夢に近寄り肩を抱いたり、頭を撫でたりしていた。
「嬉しいの。それを聞けて」
一体佐野は何を思い出したのだろう。佐野が落ち着くまで和泉とミーシャは温かく見守り、暫く好きにさせていた。
しんみりとしていたその時、校内放送のチャイムが響いた。軽やかな音なのに、僕たちは一瞬にして体が強張り身構える。
「この放送を聞いている諸君へ、胡内大志からの伝言です。『早く助けに来てくれ』だそうです。以上」
最後チャイムが締めくくった。
「あっ、大志! あいつ捕まってたんだっけ」
コーセーが言った。
「だけど、どうやって助ければいいの? 相手は自分たちの恐れが実体化したものといっても、みんな大人だよ。素手で戦って勝てる相手じゃないよ」
ボクシングの構えのようにファイティングポーズを取るミーシャ。コーセーにパンチを入れるフリをしていた。
「このまま放っておいて、オレたちだけ元の世界に戻るとか……」
コーセーは軽いノリで言っただけだろうが、冷たい視線が集まってしゅんとする。でも僕も同じ事を思っていた。
人一倍プライドの高い大志。一時僕の存在が許せないときがあった。表面上何もないフリをしていてたけど、僕の絵が賞を獲った時、大志は面白くなさそうに僕を見る目が冷めていた。他の人が誘えば僕の側にやってきたけども、大志ひとりでは絶対僕の側には寄らなかった。
僕の漫画は見る事があっても、先入観が先にあって絶対にいい評価をいれるものかと、最初から認めない態度を示していた。
嫉妬があると人は上から目線で物事を批評する。例えそれが優れていたとしても、絶対認めず、最後まで作品を読まないで簡単に悪い評価にしてしまう。わざと星ひとつをつけるような感じだ。まるで自分の方が上だと知らしめたいかのような態度を取るのだ。
こいつには負けたくないと思えば思うほど、相手がちやほやされると益々許せなくなってしまう。直接大志に嫌がらせを受けたわけではないけども、大志が僕を嫌っているのは分かっていた。
そんな奴を助けに行く? それこそなんで僕が? という感じだった。
「コーセーも、もしかして、大志のこと嫌いなのか?」
僕はつい聞いてしまった。
「おいおい、なんてことをオレに訊くんだよ。あれは冗談だよ、冗談」
ごまかそうとして笑うコーセー。そういう態度が中途半端でずるい。
「嫌いだから助けないとかそういう問題じゃないだろ。この世界にみんなで入ってしまった以上、ここを出るときはみんなで一緒に出ないと。元の世界に戻ってから思う存分嫌えばいいだけだよ。置いていったら後味悪いよ」
ミーシャらしい。僕はクスって笑ってしまった。
「そうだよな。嫌いだからって放っておくわけにはいかない。お陰で大志を助けなくっちゃって気持ちになったよ」
「おいおい、広瀬こそ大志が嫌いなのか?」
コーセーは僕の発言に驚いていた。
「それは元に戻ってから言うよ」
僕の言葉にコーセーも笑っていた。僕たちはお互いの本音を感じ取っていたのがおかしかった。
「ちょっと、もうあんたたち、大志がいないからって好き勝手言って。確かにイラッとする奴だから、ちょっと察するけどもさ」
「和泉、それフォローになってない。余計に大志がダメな奴に聞こえる」
ミーシャが突っ込んだ。
「あの、大志……君って、結局どういう人なんですか?」
やり取りを聞いていたショーアが大志に興味を持ち出した。
「明るいんだけど、目立ちたがりやで見栄を張ってる奴かな。だけど、それが悪いばかりでもない。コミュニケーションを取るのは上手いと思う」
ミーシャが言うとその後和泉が続けた。
「確かに目立とうとはするけども、クラスの盛り上げ役でもあるかもね。おしょうは大志のそういうとこ好きそうだし」
「おしょうは大志を上手くコントロールしてると思う。自尊心を持ち上げて満足させて、あまり無茶しないように抑えているように見える。」
コーセーが言った。
「そうそう、ああいうタイプは認めてもらえるまでしつこいところあるもんね」
ミーシャは同意していた。
「みんな、大志君のことよく見てるんだね。それだけじゃなく、ボクの目から見たら君たちとても息のあった仲のいい友達に見える」
ショーアの言葉は僕たちには意外だったのだろう。側にいるもの同士顔を合わせあって、お互いそうなのか尋ねあってるようだ。
僕は、佐野以外、大志、コーセー、ミーシャ、和泉は苦手だと思っていた。でも今はこんな世界に閉じ込められて、確かに仲間意識が芽生えているように思う。
「さてと、大志に会いに行くだけでも顔を出すか。ひとりできっと不安だろうし。危なかったらまた逃げればいいし」
コーセーはドアに向かった。
「そうだな。とりあえずどんな状況か見に行こう」
僕もその後を追った。みんなも僕たちの後をついて来る。佐野はショーアを気遣って何かを話していた。ふたりが急に親密になったみたいな様子に僕はちょっと妬けるけど。
廊下に出てコーセーは僕に話しかける。
「なあ、こういう時ってさ、スタンドあったらいいと思わないか。オレはやっぱりスタープラチナかな。オラオラオラオラとかやってみたい」
「何言ってんだよ、こんな時に漫画ネタかよ」
『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるキャラクターだ。スタンドは超能力を持つ守護霊みたいなもので、それらを使って敵と戦う。
「こんな時だからだよ。広瀬だってヘブンズドアがあったらいいって思うだろ。あれはお前にピッタリのスタンドだ」
あれは漫画家のキャラが持つスタンドだ。分かっているけど僕は何も言わなかった。
「なあ、広瀬。また漫画描けよ」
コーセーはついでと言わんばかりにさらりと口にした。
「手に力が入らなくてもう描けないんだ」
「別に力を入れなくったって、描ける範囲で描けばいいじゃないか。最初はちょっとしたイラストでもいい。とにかく絵を描けよ。本当は描きたいんだろ」
コーセーは僕に真剣な目を向ける。
僕は右手首を支える。他人にはわからないだろう。見た目は治っていても機能が半分に減ったということを。
鉛筆を持って絵を描こうとしたとき、手が震えた。以前のようにすっと線が引けなくなっていた。どれほどショックだったか。描こうと思えば思うほど上手く行かず苛々し、それ以上に心に怒りが湧いて正気を失い、いつも黒く塗りつぶすだけで終わってしまう。
僕が何も言わないでいるとコーセーは僕の肩を軽くポンと叩いた。
「無事元に戻れた時に考えてみてくれ。今は大志のことをなんとかしなくっちゃ」
「ああ、そうだな」
僕は軽く受け流した。
「あんたたちさっきから何話してるのよ。いい作戦でもあるの?」
和泉が問いかけた。
「いや、特にこれといって」
コーセーが答えると、ミーシャは軽く頭を小突く。
「頼りにしてるからね、コーセー」
「ええ、へへへへ、参ったな」
ミーシャに頼られて嬉しい反面、なんの対策もないのでヘラヘラとするコーセー。
僕が後ろを振り返れば、少し距離を取って佐野とショーアが話をしながら歩いていた。何を話しているんだろうと思ったが、ふたりの邪魔をするようで声をかけられなかった。
そのうち体育館の入り口に近づき、そこで能面の女と赤いお面の男が待ち構えているのが目に入る。
僕たちは一気に緊張し体が強張った。
「それじゃ出るよ」
竹本は、迷わず廊下に出る。
「あっ」
自然と声が漏れた後、竹本が振り向いて俺と目が合った。消えてない。
竹本が戻ってきて、俺はほっとした。
「なんだ、やっぱり前のドアだけがどこでもドアだったんだ」
怖くなくなった俺も廊下へ足を向けた。
「一体この世界はどんな法則があるのかわからないけどさ、蓋を開けたら意外と簡単な仕組みだったりしてな」
振り返って得意気に笑ったけど、そこには誰もいなかった。
「えっ! どういうことだよ」
「そういうことなんだよ」
誰かが話しかけるから、俺はびびってしまう。隣のクラスから黒服の仮面をつけた男が出て来た。
「ち、ちょっと誰だよ、あんた…… 何でそんな格好なんだ」
俺もよく知ってる大好きな仮面。
「ゴゴゴゴゴゴゴ」
そいつが言った擬音はまさに、僕の好きな漫画のシーンそのものだ。
「えっ、まじで石仮面?」
あれは俺の好きな漫画のアイテムだ。あれをつけると吸血鬼になって人を襲ってしまう設定だ。
俺が唖然としていると目の前で、手を顔に被せて、体をキュッとくねらせて尻を突き出した独特のポーズを取った。いわゆるジョジョ立ちといわれるその漫画で有名なポーズだ。
俺も漫画を読んで影響されたけども、全く知らない人物がいきなり登場してきてそんな事をされると薄気味悪い。
「お前は少し調子に乗りすぎた」
石仮面が喋った。じりじりと俺に近づいてくる。俺は後ずさるが、背中で何かにぶつかった。
ゆっくりと振り返れば、真っ黒な布切れをまとった者がいる。
「うわぁ!!」
それはスクリームのお面だった。俺は殺されると思った。膝がガクガクし、逃げたいのに体が思うように動かない。
かなり悲惨な顔つきをしていたのだろう。スクリームが笑っている声がくぐもって聞こえてきた。肩も震えている。俺が怖がっている事を楽しんでいた。
「おいおい、そんなに笑わなくても」
石仮面が注意する。
「それならお前がなんとかしな」
スクリームは俺をドンと突き押す。俺はつんのめりふらふらと倒れこんだ。
「けっ、ひでー奴」
石仮面はそういって俺に近づき、上から見下ろした。
「まあ、ちょっと生意気で恥ずかしい奴ではあるな。あーあ、なんか嫌だな」
そういいつつ、俺の手を取り、力いっぱい引っ張って立ち上がらせた。
「いてて」
俺が痛がると、石仮面はため息を漏らす。
「ほら、しっかりしろ。情けない奴だな」
スクリームは乱暴だが、石仮面の方は話が通じるかもしれない。
「一体、誰なんですか。俺をどうするつもりですか」
できるだけ丁寧に言った。
「なんだ、急に優等生ぶった口の聞き方は。こういうときだけいい子ちゃんぶりか。それともクラスメートが誰もいないのをいいことに、無様な格好をさらしてもいいと思ったのか? 本当はもっとプライド高く、自己中心のくせにさ」
石仮面もきつかった。
「どうした。本当の事を言われて口が聞けなくなったのか?」
石仮面の裏で一体どんな顔があるのだろう。全然知らない奴にここまで馬鹿にされ、脅かされるのは悔しい。だけどそれよりも恐怖が勝ってしまって、俺は息をするリズムも狂って喘いでしまう。
「ほ、他のみんなはどうした。もしかして始末したのか?」
「他のみんな? ほー、お前が友達の事を心配するのか。そんなに仲がいい奴らなのか?」
仲がいい? あれ? 仲がよかったっけ。
コーセーはいつも喋るけども、心底の友達とはいえない。俺にとったら都合がいいだけだ。
残りはそれ以下に、偶然同じ境遇にあっただけで、普段は喋ることすらない。そんな奴らと仲がいい? そして俺は心配している? いや心配なんてしてない。ただどうなったか知りたいだけだった。
「そ、そうだ」
一応嘘でも肯定しておいたけど、声が上擦って自分でも嘘臭く聞こえた。
「そうか。それなら当然お前の事を助けに来てくれるだろう。さあ、歩け」
俺は足を軽く蹴られた。
「ど、どこへ連れて行くつもりだ」
「体育館さ」
「みんなもそこにいるのか?」
「どこにいるかなんて知ったこっちゃない。大事なのはみんながそこへ来るかってことなんだよ。元の世界に戻る方法もいずれお前の仲のいいお友達は解明するだろう。だけどその解明した時、そこにお前がいないというのがポイントだ」
石仮面の言葉がすんなりと頭に入ってこず、俺は暫く考え込んだ。
「おいおい、こいつまだ自分の置かれている状況がわかってないぜ」
後ろからスクリームが言った。
「ちぇっ、なんでわからないんだよ」
石仮面もイラついて吐き出した。
「元に戻る方法をみんなが見つけてくれたら、それは嬉しいし、別にその方法を俺が見つけなくても、この場合俺は何も気にはしない」
俺が一番にその方法を見つけたらかっこいいだろうとは思うけども、誰かが見つけてくれたら俺はそれでいい。こんなことで別に張り合うつもりなんてない。
「バーカ。何を勘違いしている。お前の仲のいいお友達は、お前の事を好きなのかってことを訊いているんだ」
階段の前に来たとき、石仮面は一度立ち止まって振り返り俺を見た。そしてまた前を見てゆっくりと階段を下りていった。
俺も暫く突っ立っていたけど、スクリームにせかされた。
「ほら、早く行け」
俺はふたりに挟まれて階段を下りていく。
『お前の事を好きなのかってことを訊いているんだ』
その意味がやっとわかった。遠まわしに俺の事を助けに来るかをこいつらは訊いている。
「あいつら、きっと俺を助けにきてくれるよ」
石仮面もスクリームも何も答えない。こんな時に無視するなよ。不安になってくるじゃないか。
階段を下り終われば、廊下の突き当たりに昇降口がある。体育館はそこを出た向かいだ。
何もこいつらに律儀についていかなくてもいいじゃないか。手足は自由だし、全力で走れば逃げ切れるかもしれない。外へ出たときがチャンスだ。
後ろを振り返れば、スクリームが立ち止まって服を調えている。視界が悪くて動きにくそうだ。
石仮面が先に外に出て、正面の体育館へと向かう。俺もその後を続いた時だった。今だ。逃げろ。
だけど、まさか校舎のすぐ出たところにまだ仲間がいるなんて考えてもみなかった。俺が右へ曲がってダッシュした直後、ドンと赤いお面の男にぶつかった。
「おっと、どこへ行くつもりだ」
もうひとり不気味に俺を見ている能面の女もいた。こいつらは一体何人いるんだ。
俺は赤のお面に首根っこを捕まれ引っ張られた。
「おい、石仮面。しっかり見とけよ」
「あっ、わりい、わりい。なんかあんまりそいつ好きじゃないわ。見てたらむかついちまって」
俺だってお前らのことは大嫌いだ。俺のことをバカにするな。腹が立つも、一対四ではどうしようもなかった。
「その気持ちは分からないでもない。俺もコーセーを見た時、あいつの頼りなさにギュってつねりたくなった」
コーセーはこいつらに出会っても上手く逃げて、なんで俺だけが捕まるんだ。
「あっ、不服そうな顔」
能面が俺に顔を近づけてくる。
「向こういけよ」
「私が女だから強気なの? はっきり言って私が一番きついよ。くらえ、でこピン!」
「いてっ、何すんだよ」
「はははは」
くるくる回って喜んでいた。
「ほら、お前も早く体育館に入れ」
赤いお面の男に押されて俺はつんのめる。
広い空間で、ボールの弾かれる音が響いている。石仮面がバスケットボールを持ってドリブルをしていた。それをバスケットゴールに投げ入れシュートを決めた。
かっこつけているが、あれぐらい俺にだってできる。バスケットは結構得意だ。
俺は石仮面に近づき、奴の持っていたボールをバシッとはたいた。
「おい、何するんだよ」
石仮面が怒っても俺はボールを手にしてドリブルしながらゴール目掛けて走る。そしてシュートを決めた。我ながら綺麗なフォームだった。
「お前な、何を張り合ってるんだ。自分の置かれている状況が分かってるのか?」
「分かってるけど、別に俺は手足を縛られるわけでもなく、危害を加えられるわけでもない。あんたが格好つけてバスケしてるもんで、ちょっと相手になってやろうと思って。あんたもバスケ好きそうだし」
ここで流れを変えて逃げる隙を見つけるんだ。
「状況に慣れると、お前は調子こくんだな。自分で判断してそう決め付けて突っ走る。まるで自分が主人公にでもなったみたいに。バスケを通じて仲良くなれるとでも思ったか?」
石仮面が手を挙げると、スクリームが側にやって来た。
「なんか用か?」
「ああ、コイツ、隙を見て逃げようとしているようだ。ちょっと見ていてくれないか」
あっ、石仮面には本心がばれていた。
「面倒くせー」
スクリームはやる気がなさそうだ。
「コイツを好きに殴っていいぞ」
ちょっと待ってくれ、なんでそんな事を指示するんだ、石仮面。
「えっ、本当にいいのか?」
やる気がなかったのになぜそこでやる気になるんだ、スクリーム。
「ああ、構わん。遠慮なくやってくれ。まあ、あれだ。サービスさ。お前には迷惑かけたからな」
どういう意味だ、サービスって。俺はお前の所有物じゃないし、提供される粗品でもない。
俺は言い返すことも出来ないまま、石仮面がバスケをする姿をただ睨んでいた。
その直後、スクリームが俺の前に立ちはだかる。同時にぞっとした。本当に殴られるのだろうか。
「さてと、石仮面がいいと言うんだから、一発くらい殴るか」
「えっ、ちょっと、待ってくれよ。一体俺が何をしたんだよ」
スクリームは腕を挙げ俺は怯んだ。だが、すぐには殴ってこなかった。
「なんてな、冗談だよ」
スクリームが腕を下ろした。そのとたん俺の緊張が解けた。
「ただのはったりかよ」
俺が口走ったその時、腰に足蹴りされた。
「いてっ。なんだよ、そのフェイント。卑怯じゃないか」
「あんまり強く蹴ってないぞ。そっちこそ大げさだな」
強いわけではなかったけども、十分鈍い痛みを感じた。急に蹴られたら納得行かない。
「人に危害を加えるなんて、それだけで異常じゃないか」
「そうだよな。お前の言い分も分かるぞ。だけどさ、お前だって簡単に手を出したことあるだろう。ふざけて、ノリで軽く虐めてさ」
確かにそれはあった。でもあれは仲間内の遊びだ。本気で殴ったことなんてない。
「お前はいつも殴る役ばかりで、殴られたものは我慢して笑っている。それを楽しんでいると勘違いしてるけど、どんなに遊びでも叩くのは、相手を見下してるからだ」
「じゃあ、あんたも俺を見下してるってことじゃないか」
「ほら、俺を責めて、やっと自分が見下しているって認めた。見下すから殴れるって肯定したのと同じだぜ」
まるで哲学のような理屈っぽさ。相手がそうだと認めた時、自分もそうである。なんだよ、これ。わけわからん。
「人間ってさ、自分を基準にして上か下かのランク付けするんだよな。そして自分よりも下だと思っていた奴が、自分よりも優れた事をすると気に入らず認められない。そうやってそいつの事が嫌いになる。または自分が目立つために邪魔をしてくる奴とかもそう。自分よりも気弱な奴を支配下に置いて管理して自分がえらいと思いこむ」
「なんだよ……」
俺は圧倒されて言い返せない。心当たりがもろにある。
「自己主張が強い者ほど、周りを気にして負けたくないと人と張り合ってしまう。そうだろ?」
「……」
「プライドが高く、負けず嫌い」
さっきからこいつは何を言っているんだ。でも耳が痛い。
「そういう奴をどう思う? お前は好きか?」
「そんなの、嫌だよ。嫌いに決まってるじゃないか」
「へぇ、そうなんだ。てっきり自己愛が強いものかと思ってたよ。お前自身のことなのに」
そうだよ。俺は自分が嫌いだよ。お調子もので、承認願望が強くてすぐに嫉妬する。こんな心の狭い自分が嫌なんだ。だから、認められてすごいって思われたいんだ。そしてもっと無理をして、嫌いになってそのループだよ。
俺はなんだか落ち込んでいく。この上なく惨めで情けなくなっていく。
「あー、これでスカッとする」
落ち込んでいる俺をスクリームは虐めて楽しんでいた。
「一体なんなんだよ。お前たちの目的は何なんだよ」
俺は打ちのめされて半分べそを掻いていた。
石仮面はさっきからひとりでバスケットをしていた。一心不乱にボールをシュートしている。ボールの跳ねる音、きゅっと靴が床を擦れる音、ゴールにぶつかる音が聞こえていた。
「もっと自分を好きになれよ。心を開けよ」
スクリームの言葉に、俺は「えっ?」と顔を上げた。
「何でも、殻に閉じこもったり、視野が狭かったり、自分の不満に押し潰されていたりすると、人間って意地の悪い根性が育っていくよな。そして攻撃的になるやつもいたら、悲観的になってうじうじするやつもいる。どんどん人間が嫌いになって、目につくやつらみんな嫌いだーなんてな」
スクリームはどこを見ているのかわからない方向を見てひとりで喋っている。もしかしてこいつもそうなのか?
ボールが弾む音が近づいてくる。石仮面が俺の方にやってきていた。
「まだこいつを助けに来ないな」
「みんな元の世界に戻ってたりして」
スクリームが茶化した。
俺は心配になってくる。みんな俺を助けに来てくれるのだろうか。それだけの友情が俺たちにあったのだろうか。
いや、全くなかった。
こんな訳のわからない奴らを前にしてどうやって俺を助けにくるというのだろう。あいつらだって得体の知れない連中を見て怖がっていたに違いない。危険を冒してまで来るわけない。
その時、ボールが俺の体にバンと当たった。
「いてっ、何するんだよ」
石仮面が俺を見ていた。
「ほら、助けてくれってお友達に言えよ。それとも、プライドが邪魔してそんな事も言えないか?」
またボールをぶつけられた。
「ちょっとやめてよ」
「これでわかっただろう。お前は忘れられてるんだよ。誰も助けに来ないんだよ」
「そんな」
俺は追い詰められていく。誰も助けに来てくれないと思うと、自分がしてきたことを後悔していた。
「ほらほら、今の心境を声に出してみろよ。プライド捨ててもっと素直になってみろよ!」
石仮面が俺に怒鳴った。
「た、助けて……」
「えっ、聞こえないぞ。もっとお友達に聞こえるように言ってみな」
「た、助けて、早く助けに来てくれ!!」
俺はもう限界だった。
「そうだよ。素直に言えばそれでいいんだよ。それでもし、仲のいいお友達が本当にお前の事を助けに来たらどうするんだ?」
「それは、もちろん感謝します」
「罪を悔い改めるほどか?」
石仮面は鼻で笑うように言った。
窮地に立たされて、頼れるのがかつてバカにしていたクラスメートたち。あいつらが本当に助けにくるのだろうか。俺は体育館の真ん中で迷子になった子供のように途方にくれて突っ立っていた。
石仮面とスクリームがこそこそ何かを話し、体育館の入り口付近にいた赤のお面に指示を出していた。
赤のお面が姿を消して暫くすると女性の声で校内放送が流れてくる。
「この放送を聞いている諸君へ、胡内大志からの伝言です。『早く助けに来てくれ』だそうです。以上」
「これで助けに来なかったら、お前は心底嫌われているってとこだな」
石仮面が言った。
俺はへなへなと床の上にへたってしまった。
能面の女と赤いお面の男は何も言わず、僕たちを体育館へと案内する。すでに彼らに会っていたコーセーとミーシャは憎らしい目を向けて緊張していた。
がらんとした体育館に入れば、床に座り込んだ大志がすぐに目に入った。あまりにも疲弊して魂を抜かれたような姿に、僕たちは驚いて思わず走り寄って近づく。
「大志、大丈夫か?」
コーセーが声をかけた。
大志はぐっと堪えていた喉の下の何かを震わせ、一気にそれを吐き出したように激しくひっくひっくさせて目を潤わせた。
はっきり言って情けない顔だった。一体何があったのだろう。コテンパンにやっつけられたみたいに大志は泣いていた。
僕たちは、申し訳ないような、罪悪感を持った困った顔をして彼を見ていた。
「ほら、立てる?」
和泉が最初に大志に手を差し伸べ、大志はゆっくりと立ち上がった。
「来てくれて、ありがとう」
大人しく素直に礼をいう大志。見放そうとしていた僕とコーセーは顔を見合わせ苦笑いになってしまった。
「でも無事でよかったよ」
ミーシャは軽く大志の背中を叩く。
一瞬よろっとした大志をショーアが咄嗟に支えた。
「いい友達を持ったね、大志君」
「えっ、あの、誰……ですか?」
知らない顔に大志は戸惑っていた。
「この人は一年先輩のショーアさん。僕たちと同じ境遇さ」
僕は簡単に紹介した。それ以上どのように説明していいかわからなかった。僕と佐野以外、誰もショーアが幽霊だなんて思ってもみない様子だ。
「俺たちの他にもここに来てたんだね」
大志はショーアを見て軽く挨拶する。
「さてここから、どうやって教室に戻ろう。教室に戻れたら、私たちは元の世界に戻れるかもしれない」
和泉の言葉に大志は反応する。
「元に戻る方法がわかったのか?」
「ええ、あとは実行すればいいだけ」
そういえばいつの間にか能面も赤いお面も見当たらない。
「あれっ、体育館には誰もいなくなった。今なら走って教室に戻れるかも」
僕はがら空きの体育館の出口を見つめた。
「あっ」
その時、佐野が舞台の方を見て驚く。僕たちも同じ方向を見れば、ゆっくりと緞帳が上がっていた。横一列に立つ足が見え、それは徐々に姿を現す。逃げることも忘れるほど圧倒された。
左端から順に、能面、赤いお面、スクリーム、石仮面、ハゲの博士、くノ一がぴしっと背筋を伸ばしてドドドドドドと立っていた。
「何なの、あれ」和泉は唖然とし、「えっ、石仮面!?」コーセーも僕もびっくりし、「はぁ?」とミーシャは呆れ、大志は「あいつらめ」と怨み、佐野とショーアは訳がわからないまま息を飲んでいた。
僕は我に返る。
「今がチャンスだ。みんな、出口まで走るんだ」
今なら逃げられるかもしれない。だが、開いていた出口は独りでにばたんと閉まってしまった。何だか怖い。
六人は舞台から降りこちらへ近づいてくる。
「まだそんなに慌てて逃げなくてもいいじゃない。私たちと勝負をしましょう」
ハゲの博士が言った。
「またクイズなの?」
和泉が答える。
「いいえ、体を張った勝負をするの。どちらかが生き残るまで」
それを聞いて僕たちはぞっとする。
「もしかして、あいつらオレたちをナイフで刺しに来るんじゃ」
「ちょっとコーセー、縁起でもないことヘラヘラした顔で言わないで」
ミーシャがぺしっとコーセーの頭を叩いていた。
僕たちが不安になっていると、くノ一が走って床に落ちていたバレーボールを拾って投げてきた。
バレーボールは弧を描き、そして落ちて二、三度はねてから転がってくる。
「ほら、それをとれよ。これから地獄のドッジボール大会だ」
石仮面がそういうと、僕たちは「えっ?」と耳を疑った。
「俺たちに勝ったら、お前たちは自由だ」
あいつらはすでにコートの陣地に入り、ハゲの博士が相手側のコートの周辺に立った。向こうはすでに準備が出来ていた。
「何をしている。早く準備しろ」
石仮面がせかした。
「ちょっと、どうするの?」
和泉はどこか浮かない顔をしている。
「やるしかないじゃん。やってやろうじゃないの」
大志はやる気になっている裏で、やり返してやりたい恨みが見える。ボールを拾いコートに向かった。
「そうよ、こっちは七人、ひとり多いわ。きっと勝てる」
ミーシャも自信に溢れていた。
大志もミーシャも運動神経がいい。すばしっこく逃げられて、怖がらずにボールに向かっていけるだろう。
「やるしかないのかな」
コーセーは諦め気味に覚悟を決めた。
「ドッジボールなんて、かなり久しぶりだ」
ショーアは自分が幽霊と思っているからこの状況で暢気だった。
「どうしよう。足でまといにならないかしら」
佐野は不安そうだ。
僕は困った。手首を激しく動かす運動は骨折して以来した事がないし、力が入らない分、一番不利だ。
だけど、みんながコートの中に入ったらついていくしかなかった。
「よし、俺が外から攻撃して、倒していく。みんなはそれまでなんとか陣地に残れよ」
大志は鋭い視線を相手チームに向けて、所定の位置につく。残りの僕たちも陣地に入っていった。
「もし、オレたちが負けたらどうなるの」
コーセーがふと訊いた。
「もちろん、お前たちの命を貰う」
赤のお面が答えると、僕たちはハッとする。
「ちょっと、嘘でしょ」
和泉が驚き、ミーシャも眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
「ええー」
コーセーは急に怖じ気ついてしまった。
僕も無意識に右手首に触れていた。
「みんな、しっかりしよう。私たち絶対勝てるって」
それを言ったのは佐野だった。
「そうだよ、力を合わせて勝とう」
ショーアの顔を見たら、生き生きとしている。彼にとって最後のこの瞬間をしっかり生きようとしているように見えてならなかった。
「そうだ、弱気になっちゃだめだ。絶対勝とう」
僕も全力を尽くす覚悟を決めた。
後には引けない。それこそ命がけで挑まないと。僕は一度死に掛けた。それでも助かった。その意味することは、僕はこの先も生きなきゃならないんだ。
「分かっていると思うが、一応ルールの説明だ。コートの中の者にボールを当てて外に出すだけだ。ボールに当たってそれが地面に落ちた時点でアウト。コートから出てもアウトだ。制限時間はなし。どちらかのチームのメンバーが最後まで残っていたら勝ちだ」
石仮面が説明した。
「それじゃ、試合開始だ」
それを言ったのは大志だった。いきなりオーバースローを投げて、油断しているところを狙った。ボールは石仮面めがけて飛んでいく。
ずるいけど、手段を選んでられない。これで石仮面に当たれば――。
石仮面はくるりと振り返り、ものの見事にボールをつかんだ。
「くっそ!」
大志は悔しがっていた。
しかし、そのしわ寄せが僕たちに降りかかる。僕たちは慌ててコートの端へと逃げた。石仮面は素早くボールを投げてくる。大志と同じオーバースローだが、足の重心を上手く利用して、体全体に力をかけて飛ばした。
それが和泉に向かっていた。
かなり低めに飛んできたボールは掴みにくい。だが和泉はいきなりそれをレシーブし、空中に高く飛ばした。そして落ちてきたものをあっさりと掴んだ。
「ナイス! 和泉」
コーセーが掛け声を掛けた。
こんなのありなんだろうか。でも相手チームは何も言わなかった。
「私、バレーボールなら得意なの」
そして口を一文字にきーっと結んで力いっぱいオーバースローさせて敵地に投げた。それは能面に向かっていたが、きわどいところでするっと避けていた。
「やるわね、あの能面」
ミーシャが感心していた。
ボールはまた大志に渡る。素早く投げたけどもまだ誰にも当たらない。まだどちらも機敏に動き回り、確実に取れるボールしか手を出さなかった。
ドッジボールは持久戦だ。疲れが出てくると動きも鈍くなってくる。まだ始まって間もないが、コートの中を行ったり来たりして、緊張が続くと体力を消耗するのが早く感じる。このまま動きっぱなしだといつかは疲れてくるのが目に見えていた。
そんな時、和泉がまたボールをレシーブした。だけど今回は当たり所が悪く斜めに飛んでしまった。
「任せて」
ミーシャが走って上手くそれを掴んだ。ぶつかったボールが地面に落ちなければ、別のものが掴んでもセーフだ。
誰もが安心してた時だった。
「アウト!」
くノ一が叫んだ。
「誰が取ろうと、地面に落ちなければいいじゃない」
ミーシャは抗議するが、くノ一は首を横に振った。
「足がコートから出てるの。だからアウト」
くノ一の言う通りだった。ミーシャの片足がコートからはみ出していた。
「しまった」
ミーシャは悔しがる。和泉も自分の失敗を悔やんでいた。
「これはボールが当たったものと、コートから出たものふたりアウトとする」
石仮面が言った。
「ええ、そんな」
コーセーが嘆いた。
「仕方ないわね」
和泉は潔く受けいれた。
「大丈夫だから。外からの攻撃で必ず倒すから」
ミーシャは気を取り直し、残っている僕たちを励まそうとする。
これで僕たちのチームは一度にふたり失った。
「大丈夫よ。ふたり減ったけど、私たちのチームの方がひとり多かったんだから」
佐野の言う通りだ。四対五と考えたらまだ大丈夫だ。
僕たちは気を取り直し、試合に挑む。絶対に勝たなくては僕たちに明日はない。
今度は外からミーシャの攻撃が始まった。アウトになって悔しかったミーシャの一撃は、誰かにぶつかれと思いっきり投げられた。力んだために高めに弧を描いて飛んでいく。誰も掴む事ができずに、僕の方へとやってきた。
その時、逃げようとしていたスクリームがバタッと僕の目の前でこけた。どうやら纏っていた布の裾が長くて自分で踏んづけたようだ。なんと間抜けな。
今がチャンスだと思った僕は、ボールを掴み、スクリームに向かって投げた。力があまりなくとも、ボールは立ちあがろうとしていたスクリームの背中に命中した。
「やった!」
僕が叫ぶと、みんなも興奮して一緒になって飛び跳ねて喜んだ。
「広瀬君、やったね」
ショーアが僕の肩を軽く叩いた。
「広瀬、その調子だ!」
敵陣地の向こうからも大志が叫んでいた。
他のみんなも僕を持ち上げていた。なんだか照れる。
スクリームはしぶしぶとコートから出て行く。ざまーみろ、なんて心で思ってしまう。
喜びも束の間、その後コーセーが能面に当てられてしまった。しかも思いっきり頭を狙われて、コーセーはくらくらしていた。
「おいおい、手加減してやれよ」
赤のお面が能面に忠告していた。
「好きにやらせてよ」
能面はかなり気ままなようだ。
これで僕、佐野、ショーアの三人と、能面、赤のお面、石仮面、くノ一の四人が残り、三対四だ。気が抜けない。
ボールを持ってコーセーが外に出ると、ミーシャが何か耳打ちしていた。
「よし、いくぞ」
コーセーが投げた時、ボールが高く宙に上がる。みんなは虚を突かれてそれを見ていると、横からミーシャがばしっとアタックした。
それが見事に能面の顔に命中した。
「やった! コーセーの仇だ」
ミーシャはコーセーと手を叩きあって喜んだ。
能面は何も言わず、コートから出て行く。それを静かに赤のお面は見ていた。
これで三対三だ。
試合はまだまだ続く。今のところ、僕たちのチームは逃げ、攻撃は外のみんなに任せた。
どちらもしぶとく、暫く当てる事ができないでいた。
ハゲの博士がボールを投げた時、それが佐野に向かっていた。佐野は「あっ」と驚きながら、上手い具合にそれを体で受け止め掴んでいた。僕も見ていてホッとした。
佐野はそれをくノ一に向かって投げた。佐野らしい控えめな投げ方だった。これは取られると思ったとき、くノ一はタイミングを逃してうまくつかめずに落としてしまった。
「やった、佐野!」
僕は自分の事のように喜ぶと、佐野ははにかんで照れていた。コートの向こうでもみんなが喜んでいた。
くノ一が頭巾に触れながらコートを出る。どうやらずれてしまって視界が悪くなっていた様子だ。
「広瀬君、私、今最高に楽しいと思った」
「ああ、この調子で頑張ろうぜ」
「あのね、広瀬君……」
佐野が何かを言おうしたが、試合はまだ続行だった。
「佐野、油断は禁物だ。ボールが来るぞ」
外に出たくノ一がボールを投げた。僕たちは無難に逃げ見送る。ボールは相手コートに入って石仮面が取った。
石仮面は手ごわい。僕たちは緊張しコートのギリギリまで逃げる。ボールが飛ばされるとまた反対側に逃げる。コートを端から端まで行ったり来たりしてしまう。僕たちがここでボールを取らないと、攻撃ができない状態だ。
そろそろ体の動きも鈍くなってくるのがわかる。そんな時、逃げ送れた佐野が外からの攻撃でボールに当たってしまった。
「あっ」と思ったときにはアウトだった。僕が残念がっていると佐野はにこっと微笑んだ。
「大丈夫。必ず勝てる。自分を信じて」
ボールに当たってしまった佐野だったけど、表情はとてもすっきりして清々しい。それなのに佐野の様子が変だ。なんていうのか、とても薄くなって透明感を帯びていた。
「佐野?」
佐野も自分の状態がおかしいことに気がついた。
「あれ、体が消えていく」
「佐野さん!」
ショーアも呼んだ。
佐野はショーアに何か言おうと口を動かすが、すでに声が出なくなっていた。
「佐野!」
僕は走って佐野の腕を取ろうとしたが、スカッと空振りした。そして佐野は完全に消えてしまった。
「そんな、佐野が消えた。佐野!」
僕は取り乱す。コートの向こうのみんなも様々に佐野の名前を呼んでいた。
「広瀬君、佐野さんは多分元のところへ戻ったんだと思う」
「戻った?」
「佐野さんだけふたつに分離したみたいになってたんだよね。それが正常に戻っただけなんだと思う。元の世界で広瀬君を待っていると思うよ」
「おい、いつまで試合を中断する気だ。まだ終わってないぞ」
石仮面が催促する。佐野が消えたことなど気にも留めていなかった。
「ああ、そうだ。まだだったな」
ショーアが答えた。そして僕に真剣な眼差しを向けた。
「広瀬君、この試合必ず勝って元の世界に戻るんだ。君たちは絶対に戻れる」
そうだ、戻らないと。ここで諦めたら僕は佐野に二度と会えなくなってしまう。僕は気持ちを入れ替えた。何が何でも勝ってやる。
佐野が消えたために、ボールはコートの中だった。僕はそれを拾い、赤のお面を狙った。視線を外さずじっと睨みこむ。自分の右手首が以前骨折していたことも忘れ、力いっぱいサイドスローさせ体を回転して低めに飛ばした。僕が狙ったのは足だ。
「当たれ!」
何事も投げやりだったのに、真剣になっていた僕がいた。
その僕の気迫はボールに乗り移り、上手い具合に変化球となって赤の仮面に命中する。
「やった!」
みんなも僕の名前を呼んで歓喜していた。
「佐野君。あとひとりだ」
ショーアが言った。
残るは石仮面だけとなった。
石仮面はひとりになっても動じることはなかった。とても冷静にコートの中で機敏に動く。
先ほど夢中で投げた右手首が、今になって鈍く痛み出す。しかしここで負けるわけには行かない。気にしないようにしていたが、真正面に来たボールを受け取った時、それは誤魔化しきれない痛みとなった。
必死になって投げるも、力が入らずふわっと飛んでいく。石仮面はそれを掴んだと思うや否や、すぐさま突進してきて動きの鈍くなった僕の足を狙ってきた。
ぶつかると思ったときはすでに遅かった。足に痛みを感じていた。
「あっ、広瀬君」
ショーアが嘆いていた。
「ショーアさん。すみません。あとよろしくお願いします」
僕はボールを持って素早くコートに出る。そして石仮面を狙わず、ショーアに高くパスした。僕の意図を読んだショーアはそのボールを掴んですぐ、石仮面目掛けてサイドスローする。
「ボクは絶対に君たちを守ってみせる」
ショーアが腹の底から叫んだ言葉に、石仮面の動きが止まった。不思議なほどそれは無抵抗でただ突っ立っていたように見えた。ボールは石仮面にぶつかり、その後床にバウンドしてからコロコロとどこかへ転がっていく。石仮面はまだじっとしたままでショーアを見つめていた。
僕はどういうことだろうと違和感を覚えるも、周りのみんなが素直に喜びショーアの元へと走っていく。僕もその後を追った。
「ショーアさんありがとうございます」
和泉が丁寧に礼をいい、他のみんなも感謝の気持ちを好き好きに言っていた。
「これで俺たちは自由だ。そうだろ、石仮面」
大志が叫ぶ。
石仮面が無言で大志の前にやって来た。
「な、なんだよ」
「ああ、いつだってお前は自由だ」
石仮面が大志を抱きしめた。というより、羽交い絞めだ。
「おい、やめろよ」
大志がジタバタしていると、佐野と同じように透明になって消えていった。
「大志!」
僕たちは驚き、また血の気が引いていく。やはりこいつらは僕たちを最初から殺すつもりだ。
だが、気づくのが遅かった。僕たちはすでに取り囲まれていた。
和泉はハゲの博士、コーセーは赤のお面、ミーシャは能面、そして僕はスクリームに捉えられた。彼らに体をがんじがらめに強く羽交い絞めされる。
気が遠くなるように体が急に軽くなり浮いていく。消えているのを実感していた。
暫くして手足の感覚が戻り、気がつくと僕は教室の黒板の前に立っていた。目の前にはおしょうや動かないクラスメートたちがいる。
「おい、みんな大丈夫か」
大志の声が聞こえた。
「えっ、どうなってんの?」
コーセーの声だ。
「えっ? 元に戻れたの」
和泉が呟く。
「ちょっと、何なのこれ」
ミーシャが自分の体を確認していた。
「僕たちは自分たちの恐れに勝ったんだ。僕たちが消えたんじゃなくて、あいつらが消えたんだよ」
少なくとも僕はそう解釈した。
「みんな、自分の席に座って。今ならきっと元に戻れるはず」
和泉が言った。
僕たちはそれぞれの席に向かう。
「おい、座る時はみんな同時だ、一、二の三で行くぞ。いいな。準備はいいか?」
大志が言うと、「オッケー」「いいよー」とみんな答えていた。
僕は隣の席の佐野を見る。佐野が一足先に帰っている事を強く願った。
「そんじゃ、みんないいか。一、二の三!」
大志の掛け声の後、僕たちは一斉に椅子に座った――。
六時間目の眠たい授業。私は必死に目を開けて、おしょうの授業を受けていた。
黒板に書いてある事をノートに写しているときだった。左側から強く視線を感じる。私が振り向くと、広瀬君が、潤んだ目で私を見ていた。
ふと、足元がスースすることに気がついた。そっと机の下を見れば、私はドキッとする。あっ、上履きがない。
そこでやっと気がついた。
「お、か、え、り」
声を出さずに口パクで広瀬君に知らせた。
やっと、会いたかった広瀬君に会えた。
広瀬君は私の足を見て上履きの事を気にしていたけど、机の隣にかけてあった鞄からその上靴を取り出した。
いつかこんな日がくると思って、私はちゃんと用意していた。もちろんこの上靴はあの悪夢から戻ってきた時に履いてたものだ。それをずっと持っていた。
「あれ? 竹本、いつからそこにいたんだ? さっきまでその席空いてたように思えたんだけど」
おしょうが教壇で喋っていた。
「先生、私ずっといましたよ」
比呂美がすっとぼけている。私はくすっと笑った。
「そうだっけ?」
おしょうは、半信半疑ながらくるっと振り返って黒板を見た。
「えっ、なんだこれ?」
悪夢の中に入ってしまったメンバーの名前が書かれていた。あれは和泉の字に違いない。和泉に視線を向ければ、失敗したといわんばかりに肩をすくめていた。
おしょうは首を傾げながら黒板けしで消していた。
「まあ、いい。それじゃ、不定詞についてだけど……」
おしょうは深く気にせず、授業を再開する。
私も喋りたそうにしていた広瀬君を無視してノートをとった。
胡内君、一之瀬君、ミーシャ、和泉、比呂美、そして広瀬君、あの悪夢の世界からお帰りなさい。
私はこの日をずっと待っていました。そして本当にありがとう。
あれは今から一年前のこと。クラスの嫌な女子グループに目をつけられて、私は虐められていた。
「かわい子ぶって、ちょっと男子に人気があるからっていい気にならないでよ」
いい気になった覚えなどなかった。たまたま理科の実験で同じ班だったから、男子と一緒に協力していただけだ。
その中のひとりがクラスで一番もてる男の子、舟岡君だったから、好きな女の子たちが私に嫉妬した。
その男の子はもてるだけあってかっこいい。気さくで話も面白いから、つい彼の話術にはまって笑ってしまった。それが仲良くしてたと見えたのだろう。
そこから積み木が崩れるように嫌がらせが始まった。不幸だったのは、唯一私と仲がよかった有里奈ちゃんが、私から離れて違うグループに入ったことだった。中学一年の子供じみた友達関係には熱い友情など全くなかった。昨日まで普通に喋っていたのに、急によそよそしくなって私から去っていく。これも仕組まれたことなのだろう。
私はひとりぼっちになり、教室に居辛くなっていく。そのうち、誹謗中傷がネットの裏サイトで流れたみたいで、私の評判はどんどん悪くなっていった。
私の知らないところで誰かが私の悪口を言う。何もしてないのに、気に入らないと立場の強い者が言えば、それに同調していく。誰ひとり、おかしいことだといわなかった。
気の弱い私は、被害妄想でどんどん悪い方向に考えてしまい、自分で自分を追い詰めてしまう。
先生に相談したくても、クラスには虐めがないと思い込んでいるから、私の話に耳を傾けてくれそうにない。
虐めといっても、無視や疎外され、誹謗中傷を隠れてされているから直接的な証拠が得られない。精神的に追い詰められているだけだ。
気持ちが落ち込んで、自分はダメだと思いこみどんどん暗くなっていく。そのうち鬱になってしまった。学校に行こうとすると原因不明のめまいや吐き気に襲われることも度々だった。
どうしてこんな目に合わないといけないのだろう。楽になりたくて、私は自分が消えてしまう事を安易に望んでしまった。
学校が嫌い。人間が嫌い。自分が嫌い。どうしようもなく、死ぬことばかり考えていた。
そんなある日、家に手紙が送られてきた。差出人が封筒にかかれてなく、何かの嫌がらせかと思ったけど、とりあえず封を開けてみた。すると一枚の紙がでてきた。そこには蜘蛛の巣のような変な絵が描かれ、一言添えられていた。
「夢は見たのか?」
何これ? その時は訳がわからなくて、その手紙は放っておいた。そしてまた暫くして鬱っぽくなり、どうしようもなく死にたいと思い行動を起こしてしまう。
クローゼットの服をかけるところに、延長コードを引っ掛けそれをわっかに結ぶつもりでいた。首吊りだ。そこでクローゼットの引き戸を開けた時だった。目の前に広がる光景に私は驚いた。なぜならそこはいきなり教室だったからだった。
この時、初めて広瀬君たちに会った。そこでも、問題が発生していた様子で、クラスのほとんどが動かず、動けるものだけで訳のわからない論議がされていた。
私だけが裸足でピンクのスウェットを着ていた理由。私はさっきまで自分の部屋に居たからだ。私の部屋のクローゼットと教室のドアがなぜか繋がってしまった。
「どうして、私がそこに座ってるの?」
しかも知らない制服を着て、知らない生徒に囲まれて、知らないクラスで授業を受けている。ここは自分の通っている中学ではないのに。
なぜこんなことになっているのか、私は混乱していた。
そのうち広瀬君が動かない私が履いていた上靴を持ってきてくれた。履かないわけにはいかない。でも一度足を通せばとても履き心地よくて驚いた。
「あの、一体何が起こってるんでしょう。ほとんどの人が動いてないなんて」
みんなも混乱し、状況が分からず話が噛み合わない。そのうち私はみんなから記憶喪失にされてしまった。記憶を失っているわけじゃなかったのに。
「何をどう考えたらいいのかわからない。ただ私は……」
――自殺をしようとしていた。その先はもちろん言えるわけがなかった。
和泉とミーシャが私に寄り添って心配してくれる。友達がいない私にはそれがとても不思議だった。でもふたりに優しくされて私は温かいものを感じていた。
みんなは色々この状況について話し合い、感情をぶつけ合っていた。和泉は冷静にこの場のまとめ役を勤め、ドリームキャッチャーの事を言い出した。
「私、同じようなのを見たことある」
教室の後ろに飾られたドリームキャッチャー。あれは手紙に書かれていた絵と同じものだった。その時、初めてそれがドリームキャッチャーという事を知った。そしてこの不思議な状況はあの手紙のせいだと私は気がついた。
広瀬君もドリームキャッチャーに反応して、私の手を取って教室から飛び出したけど、あれは私が仕掛けたことだ。でもあの時はそのからくりなど私は知る由もなかった。
違う空間に移動し、私たちはそこでショーアさんを追いかけ美術室に行った。そこでひとつ謎が解けることになる。
「僕たちは中学二年生の生徒だ」
ショーアさんと話をしようとした広瀬君がいった言葉に私ははっとした。
中学二年生? 私はまだその時、中学一年生だった。そこでそれを説明しようとしたのに、広瀬君は聞いてくれなかった。
私だけ一年早くあの世界に訪れていた。だからまだみんなのことを知らなかった。だけどまだあの時は半信半疑だった。なぜ私は二年生からこの中学に来ていたのかがわからなかった。私も自分でこの状況について考えながら、悪夢の世界に身を置いていた。
広瀬君がショーアさんとしゃべるうち、この世界は広瀬君が作った悪夢と結論付けようとした。でもショーアさんはそれを否定し、自分にも作った可能性があることをほのめかした。その時、私も同じ事を考えていた。
つい口に出してしまったから理由を聞かれたけど、自分が自殺しようとしたことでこの世界が開いたなんて言えなかった。うまくショーアさんが言ってくれたけど、今を思えばショーアさんは私の状況に気づいていたんだと思う。
そこからここが死後の世界かもしれないと議論された。そう思うのも無理はなかった。ショーアさんはすでに自殺を図ってたからだ。
ショーアさんが自殺したことを言ったのは衝撃的だったけど、あのあとスクリームの殺人鬼が出てきてパニックになってしまった。そのせいで私たちの話は中途半端に終わってしまい、逃げることに必死になった。
そこで一之瀬君とミーシャに出会い保健室に逃げ込んだ。ミーシャと出会ったとき、抱きつかれたお陰で私は少し落ち着きを取り戻していた。
お互い何かに追いかけられているという事を知り、殺されるんじゃないかと怖くなった。そこで私はハッとする。自殺しようとしていたのに、死を恐れていた事を。
私は自分自身で考えていた。自分はなぜここに一年早く来てしまったのか。みんなを見ながらその理由を見つけようとしていた。
おしょうの話が出たとき、私もいい先生だと感じていた。ショーアさんも同じように思いながらも会うチャンスがない事を悲しそうにしていた。私はなんとかできないか思案していた。
「ちょっと、みんなそこにいるの? 私よ、和泉よ。開けて」
ここで和泉が現れた。
和泉は真っ先に私の事を心配してくれて寄り添ってくれた。ミーシャもそうだけど、こんな素敵な人たちが本当に私の友達なの? なんだか信じられない。でも私はすでにふたりの事が大好きになっていた。
和泉が時系列で何があったか説明する。それが終わった時、私は質問した。
「私は何か学校の問題に気がついていたの? 例えば、虐めがあったとか、学校に来なくなった生徒がいたとか、そういうことを探していた?」
未来の私は何か特別な事をしてないか確認した。もし私が元の世界に戻れたのなら、きっとショーアさんについて調べていると思ったからだ。
「よくわからないけど、私にはドリームキャッチャーの事を訊いた事があった。理夢は学校でそれを探していたけど、理由を訊いても教えてくれなかった」
和泉はそういったけど、私がドリームキャッチャーを探していた?
「そういえば、教室でドリームキャッチャーを見た事があると言っていたけど、それはどこで見たんだい?」
次に、広瀬君が訊いた。
「あれは、家に手紙が送られてきたの。そこにドリームキャッチャーの絵が描かれていた……」
ここまで言った時、私ははっとした。
私は誰よりも早くこの世界に来ていたのに、誰にもこの事を話していない。話さなかったのは、この状況からみてもわかるように、みんな私が過去から来ていると知らなかった。それは必然的なもので、黙っていなければならなかったからだ。
ドリームキャッチャーのことだけを話したのは、それがこの先の悪夢について鍵になるからだ。あれを見つければ、この世界が始まると私は思ったからそれを探して教室の後ろの壁に飾ろうと思っていた。
でも実際あれを飾ったのは私ではない。私がしたことは、自分に届いたあの手紙を広瀬君の机の中に入れたことだけ。広瀬君がこの世界に気づいてくれるのを願ってそうした。
広瀬君もそうだけど、和泉もミーシャも私は友達になりたいと必死に自分から話し掛けた。きっと仲良くなれると信じて、おどおどしながらも積極的に話し掛けた。
悪夢にいる時はまだ未来で私がどうするのかわからなかったけど、どうしても確かめたかった。
「和泉、ミーシャ、私はあなたたちの友達だよね」
もちろんこの後私の聞きたかった言葉を聞けたから、私は自分の未来を信じようと思った。このときやっと生きる希望が湧いた。
和泉もミーシャも私が泣いたことで戸惑っていたけど、説明できるわけもなく、私は嬉しくてひたすら泣いていた。
「この放送を聞いている諸君へ、胡内大志からの伝言です。『早く助けに来てくれ』だそうです。以上」
この時、放送が流れた。
この後みんなで助けに行くことになるけど、その途中で私はショーアさんとふたりだけで話しをする機会が持てた。
私が元の世界に戻った時、ショーアさんを助けたいと思い、ショーアさんにだけは本当の事を話した。自分が虐められて自殺しようとしてこの世界の扉を開いてしまったこと。なぜこっちに来ているのかはわからないけど、自分の通う中学校の名前と住んでいる町の事を伝え、自分だけが一年早くこの世界にやって来た事を言った。
「そうすると、君は別の中学に通う一年生ってことかい?」
「そうなんです」
「なるほど、だから佐野さんは一時的にふたり存在したのか。過去の君と未来の君」
ショーアさんはその事を興味深く感じていた。
「そうなると、私は確実にこの世界から出られるということです。戻った時、ここで会ったみんなとは未来で会うことになります。だから……」
私が伝えたかったこと、過去に戻ってショーアさんの自殺を食い止めること。頭のいいショーアさんはそのことに気がついていた。
「佐野さん、気持ちは嬉しいけど、ボクがここで幽霊になって存在している以上、それは手遅れなんじゃないだろうか」
「だから、その前に私が……」
「佐野さんは過去と未来の存在で辻褄が合うけど、もしボクが過去の佐野さんに助けられて生きていたら、この世界はなかったことになるんじゃないかな。どこかでパラドックスがでてしまう」
ショーアさんの言う事がすんなりと私の頭に入ってこない。パラドックス? 一体どんなことになるというのだろう。
「ボクが思うに、佐野さんは過去に戻る、それが佐野さんにとって現在になるわけだけど、そこからボクを探しきれなかったんだと思う」
「そんな」
「だからこの世界はそのままに出来上がった状態で、ボクは幽霊としてここに存在する」
「要するに、ここでのことはもう変えられないってことですか?」
「多分、そうだと思う」
私は納得いかなくてシュンとしてしまう。
「でもね、もしかしたらボクは学校にとり憑いた幽霊として存在しているのかもしれない。佐野さんはすでに比呂美という友達に幽霊がいるかどうか訊いていたんじゃなかったのかい?」
そうだ。保健室で和泉が説明している時だ。私は自殺した生徒がいないか訊いて、比呂美に幽霊がいないか尋ねていた件があった。やはり私はショーアさんを探しきれないでいる――。ショーアさんはもうすでに自分がどういう状態なのか理解していた。
「何も悲観になることないよ。ボクは幽霊でもまた君たちに未来で会うんじゃないだろうか。だから、幽霊のボクを探してみてくれないか。僕はその時もこの学校にいるようにするからさ」
ショーアさんは自分の運命を受けいれていた。だから明るく笑って私を励まそうとしてくれていた。でも私はまだ納得がいかない。
だけど、すでに体育館の前にきてしまい、それ以上ショーアさんと話をする事ができなくなった。
そして恐れていた者たちとドッジボールを命がけですることになったけど、途中で私だけが先に消えてしまった。
あの試合で真剣にボール投げをして楽しかった余韻のまま自分の部屋に戻り、もっとみんなと一緒にいたかった未練に気がついた。その時、未来を信じて私は生きようと強く思った。
その後その未来が本当にやってくる――。
なぜ中学が変わったのか、それは両親が引越しを決めたからだった。クラス替えの後の新学期から一緒に始めると、みんな私が引っ越して来たものだと知らないでいた。別のクラスにいた知らない誰かと思っているみたいだった。
そこで広瀬君に出会って、つい嬉しくて話かけようとしたら無視されてびっくりした。それもそのはず、まだあの悪夢を体験してないのだから仕方ない。でも私は待ちきれずに、未来を信じて広瀬君と親しくなろうと努力する。和泉とミーシャは私が心を開いて接したらすぐに仲良くしてくれた。私はすでにふたりの事が大好きだったから、全力でぶつかった。私の大切な友達。悪夢で私を気遣い助けてくれたから、私もふたりの力になりたいと思っていた。
私だけが先に見ていた未来。でも今、やっとみんながひとつになれた。
放課後、私たちはドリームキャッチャーの前に自然と集まった。
「おい、お前ら、あれは夢じゃねーよな」
胡内君が確かめる。
「悪夢だったから、一応夢だったんじゃない?」
一之瀬君が相変わらずとぼけた感じで答えていた。
「ん、もう。そういう意味じゃなくて、体験したかってことよ」
ミーシャが突っ込む。
「でも私、まだ混乱してる」
和泉が言った。
「だけど、楽しかったよ」
それを言ったのは広瀬君だった。
「うん、楽しかったよね」
私にとったら一年前の出来事だけど、やっとオープンに話せて嬉しかった。
「ちょっと、あんたたち、一体何を経験したの。あーあー、私ももう少しいたらよかった。なんで早くひとりだけ解決しちゃったんだろう。ねぇ、あとで何があったか全てを教えてよ」
みんなの話を聞いていた比呂美がひとり後悔していた。
私たちは暫く、ドリームキャッチャーを見つめ、自分たちの経験した事を振り返っていた。
「あっ、ショーアさん」
広瀬君が叫んだ。
比呂美だけが知らなかったので、私が簡単に説明する。そして、ここで初めてあの時の私は一年ずれて訪れていた事を話した。
「あー、そういうことか」
「えーそうだったの?」
様々な反応が返ってきた。
そしてショーアさんが自殺をしてしまい、幽霊になってそこに存在していたことも説明した。広瀬君以外知らなかったみんなはびっくりしていた。
一足早くショーアさんについて私はすでに探していたことも話し、何の手がかりも得られなかったことも伝えた。
「もしかしてさ、この学校で自殺はなかったということは、他の学校だったってことじゃねぇ?」
胡内君が言った。
「同じ制服だったし、この学校の生徒に間違いなかった」
広瀬君が指摘する。
「それじゃ、ショーアさんはあの世界だけに存在する幻だったの?」
私が訊いた。みんなは考え込んだ。
「きっと、この学校で本当に自殺があったのよ。それが不慮の事故死扱いになったのかもしれない」
和泉が仮定した。
「それはありえるかも……」
一之瀬君が広瀬君を見つめてボソッと言った。
「そんなの酷い!」
ミーシャが憤る。
「ねぇ、私たちがあの悪夢でショーアさんに会った理由はショーアさんの死の真相を見つけだすことじゃないのかしら」
私は気がついた事を口にした。
「それがショーアさんへの供養……」
広瀬君が呟く。
悔しい気持ちは広瀬君が一番理解できるだろう。同じように事件を事故ともみ消されたように。
私たちはこの件について出来る限りの事を調べようとする。
その真相がわかったのは随分後になってからだった。
ドッジボールの試合に勝ったのはいいが、ボクの前から彼らは消えてしまい、そして残ったのはお面をつけたり、仮装したりしている黒服の大人たちだった。
みんなは一体どこにいったのだろう。もしかして、この人たちに抹殺されたのだろうか。ボクだけが幽霊だから残ってしまったんだろうか。
ボクが顔を青ざめて不安になっていると、大人たちは勝手に会話を始めた。
「あいつら、今頃、教室に戻っただろう」
石仮面が言った。
教室に戻った? じゃあ無事なのだろうか。
それにしても一体これは何のキャラクターなのだろう。見た事がない。
「あー裾が長すぎて動きにくかった。隠れていた掃除用具入れから出たときも踏んでこけそうになってたのを踏ん張ってたけど、試合でとうとうこけてしまったよ」
死神が言った。
そういえば、あの時変な動きをしていたけど、あれは裾を踏んで慌てていたからなのか。
今となっては怖くないけど、これも何のキャラクターだろう?
赤のお面と能面が手を取り合ってはしゃいでいる。ふたりは仲が良さそうだ。
ピンクのくノ一とハゲの博士もお互いを見詰め合って、ほっとしたように一息ついていた。
やっぱり見れば見るほど奇妙だ。顔は隠して変装してるけど、みんな黒い服というのも喪服みたいだ。
「お疲れ」
ハゲの博士が体育館の出入り口を見つめて突然声を上げる。
ボクが振り返るとまた黒いスーツをを着た眼鏡の女性がやってきた。
「終わった?」
「終わった、終わった。裏方ご苦労様」
ハゲの博士が答えた。
「私だけ、見せ場なかった」
「何言ってるの、重要な役だったでしょ」
「放送したり、扉を閉めたり、緞帳を上げたりする雑用が?」
「こんな馬鹿げた格好するよりましだったでしょ」
「それもそうだね」
ふたりは笑い合っていた。
呆然と立ち尽くすボクを静かにくノ一が見ていた。目が合うとボクに礼をする。
「ショーアさん、お久しぶりです」
ボクを知っているかのように親しく挨拶するけど、ボクは全然知らない。
「この人がショーアさんか。うわぁ、ハンサムな人だ。お会いできて光栄です」
眼鏡の女性が言った。この人は私に会った事がなさそうだった。喜んでくれているのに、瞳がどこか寂しそうで潤んでいた。
他のみんなもぞろぞろとボクの前に集まってきた。そして静かにボクを見る。こんな格好の七人の大人たちを前にすると、ボクは怯んでしまった。
「み、みんなは無事なんですか」
圧倒されながらボクは訊いた。
「あいつらはとっても無事です。ショーアさんのお陰で」
死神が答えた。
「ボクのお陰?」
ドッジボールで最後を決めて勝利に導いたからだろうか。
元の世界に戻れたのならそれでいい。ただ最後にお別れをきっちり出来なかったことだけが悔やまれた。
この時、みんなは顔につけていたものを外し出した。大人にしては若く見えるけど、自分よりはかなり年上だ。二十代後半から三十前くらいだろうか。
素顔は歴としたどこにでもいる大人たちだ。仮面を外せば笑顔が見え親しみが湧き、みんないい顔をしていると思った。
だけど、不思議と初めて会った気がしない。そしてボクを見つめるみんなの目が次第に潤んで、今にも泣きそうだ。
「皆さんは一体誰なんですか?」
ボクが訪ねるとみんなしゃきっとして姿勢を正した。
「僕は広瀬歩夢です。建築士やってます」
死神のマスクを手にぎゅっと持ちながら自己紹介を始める。
「ひ、広瀬君?」
ボクが聞き返すと、頷いた。言われたら、さっきまで会っていたあの少年の顔と面影があることに気がつく。
「それじゃ、みんなは……」
ボクははっとした。
次は石仮面だった人が口を聞いた。
「俺は胡内大志。銀行員してます」
きりっとした凛々しさが出ていた。
赤の仮面を持った人は「一之瀬光星です。お巡りさんになって町を守ってます」といい、その隣で能面を持った人が「一之瀬実紗、通称ミーシャ。パートだけど、幸せです」と言った。
このふたりの姓が同じということは結婚しているんだ。
博士だった人は「和泉貴子です。弁護士です。まだ独身です」と、堂々としていた。
「一応、私も。舟岡比呂美です。旧姓は竹本です。手芸教室を開いてます」
この子が、元に戻る鍵になった子だ。そうか、そういうことか。
「理夢・ジョンソンです」
あれ、佐野さん? 外国名? 私が不思議な顔をしていると、「国際結婚しました」と付け加えた。
「あーあ、俺はてっきり広瀬と結婚すると思ったのにな」
大志君が言った。
「だって、広瀬君、なかなか煮え切らないんだもん。私も留学したし、その時に旦那と知り合っちゃったから」
佐野さんはあっけらかんとしていた。広瀬君はまだどこか未練が残っているのか苦笑いになっている。そこは色々とあるのだろう。
「和泉もさ、まだ独身だったら俺のとこにこいよ」
調子に乗る大志君。
「今は仕事が大切なの。それにバツ一のあなたのところに誰がお嫁に行くものですか。あっ、広瀬君ならいいかも」
和泉さんは広瀬君にウインクしていた。
「私たちだけが、ラブラブだね、コーセー」
「いつまでも大好きだよ、ミーシャ」
ふたりはとても仲が良さそうだ。
「あら、私だって旦那とラブラブよ」
負けずに比呂美さんが言っていた。きっと素晴らしい旦那さんと出会ったのだろう。
「みんな立派になったんだね。大人になったみんなに会えて嬉しい。だけど、どうしてここに戻って、中学の自分自身を虐めるような事をしたの?」
ボクが訊くと、みんなそれぞれ顔を合わせて恥ずかしそうにしていた。
「ここに戻れたのは前回と同じようにドリームキャッチャーに導かれてだけど、いざ過去の自分に会ったら恥ずかしくて、まともに自分と向き合えなくて、それで俺は広瀬に全部任せっちまった」
大志君は頭を掻いて照れていた。
「お陰で、昔の仕返しが出来たよ。それはスカッとした。だけど、お前の無力さが却って可哀想にもなったよ」
「昔の俺に蹴りいれて容赦なかったからな、広瀬は。今思うと、お前酷い奴だな」
笑い飛ばしているふたりの間にはわだかまりなどみえなかった。どちらもいい笑顔だ。
「ショーアさん」
佐野さんが呼んだ。私が振り向くと真剣な眼差しを向けた。
「私たち、この世界の謎が解けました。元の世界に戻ってから私はショーアさんを探し続けました。でもショーアさんが言った通り、見つけられず私が先に体験した世界を後からみんなも体験しました」
やはり変えられなかった。それはボクも分かっていた。
「みんながこの世界を体験した後も、一緒になってショーアさんのこと調べたんです。もしかしたらショーアさんの自殺が不慮の事故にされて学校が隠匿してないかとも思いました。でもそれらしい事故も全く見当たりませんでした」
「そっか、そんなにボクのことを気がかりにしてくれてたんだね。ありがとう。でもあれは本当に自殺だったから」
ボクはつい下を向いてしまった。
「いえ、違います。ショーアさんはこの時点ではまだ死んでいないんですよ」
今度は広瀬君が言った。
「えっ?」
「自殺は図ったかもしれないけど、まだ生きている。だからこの世界から出れば、ショーアさんは生き返るんです」
みんなが力強い目でボクを見つめている。
「ショーアさん、生きて下さい。必ず元の世界に戻れます」
「戻ってきて下さい。戻らないとダメなんです」
「ショーアさん。自分を信じて。未来を信じて」
みんなが次々にボクに励ましの声をかけてくる。ボクは戸惑い、声を失っていた。
そのうちみんなの目から涙が溢れ出した。
「もしかして、生きているボクに会ったのかい?」
みんなは一斉に「はい」と返事した。
「そんな、ボクはまだ死んでない……」
信じられなかったけど、彼らがここに現れてそれを伝えに来てくれた。これが意味することは、ボクは本当に生きている。
みんなが僕に近づき、そして七人が一斉にボクにしがみついた。なんだか急に心が軽くなっていく。まるで体が浮かんでいるようだ。これはみんなが消えたときのようにボクも透明になっているのではないだろうか。
消えかける直前、彼らはボクを呼んだ。
「先生」と。
「先生?」
「どうか、過去の僕たちをよろしくお願いします」
それが聞こえたのを最後に、ボクは気が遠のいた。
次に気がついたときは、真っ白い天井があり、僕は何かの装置と繋がっていた。その側で姉が僕の手を握ってうつぶせになっていた。
ボクの姉はカリフォルニアに留学していたはずだった。その姉が戻ってきていた。
「お姉ちゃん」
ボクが声をかけると姉は目覚めた。
「必ず目覚めると思っていたよ。尚和の悪い夢全部これがキャッチしたから」
その時、姉はアメリカから持ち帰ったドリームキャッチャーを手にしていた。