翌日、凜は大学へ来なかった。その翌日もそのまた翌日も凜は忽然と姿を消した。彼女がいたからこそ成り立っていた天文学サークルは廃れ、同時に俺もだんだんと廃れてしまった。

『…』
同じ家に住んでいても、もう桃と会話することはめっきり減った。帰ってもお互いに何も言わず、夕食の時も風呂に入る時も何も言葉を交わさなくなっていた。それは桃への疑惑が拭えないからと単純に桃への気がなくなっていたからだった。
だからといって飯や洗濯物はちゃんと作りちゃんとこなしていた。ありがたみはなかったわけではないが、いう義務はないと感じ取った。
今日はビーフシチュー。ふんわりとスパイスのにおいがして好物だった俺は誰かにとられそうなように頬張った。
『…そんなにおいしんだぁ、凛ちゃん。』
…ん?今こいつなんて言った?
『お前、何言ってんだ…?』久しぶりの会話。
『その子凜ちゃんていうんでしょ?バッグあさったら名前が出てきたの、ほら。』
手に持っているのは【金沢凛】と表紙に書かれたノート。なぜこいつが凜のことを知っている?なぜ凜のノートを、なぜ凜のカバンを持っている?
全身が震えだす。察しているが気づかないふりをする。噓だ、ただの偶然だ。
『おい、冗談はやめろよ。わかったよ最近かまってないから腹いせだろ?ほらごめんって。』
優しく彼女を抱き寄せようとする。
『要らない!!!!!』怒鳴られ思い切り突き飛ばされる。
『はぁ、はぁ…要君が悪いんだよ…?気づかなければずぅっと幸せだったのに。』
『初めて要君を見たとき、運命の人だと思ったの。幸せになれる人を見つけた気がした。ねえ、要君。要君もそうでしょ?私を見て世界が変わったよね、ねえそうだよね?きっとこれは孤独の延長だよ、私が頑張って孤独を乗り越えたらきっと要君は答えてくれるんだよね。』
息を荒くさせて近づいてくる。桃の瞳に光はない。
『私ね、いっぱい我慢したよ。要君の言うこといっぱい聞いたよ。だから今度は要君が私の言うこと聞く番だよ』
『ふざけるなあ!!お前が招いた種だろ!!凜を返せ、返せないなら別れる、お前とはやっていけない!!』置時計を手に取り彼女に投げつける。ひびが入り時間の刻みが止まってしまった。

『…そっか。なら仕方ないよね。』
急に延長コードを手に持って表情を曇らせた。

『…またね、要君。』
要の首にコードを巻き付ける。強く引っ張り要はもだえ苦しんだ。せき込み、鼻水を垂らし、涙と涎で顔はぐしょぐしょだった。
『ろ…ぅして…』(どうして)
桃の服をか弱く掴む呂律の回らない要の手をやさしく桃がさする。
『大丈夫だよ要君、あと少しだからね。』そう言ってもっときつく首を絞める。要はその瞬間吐血し、白目をむいて倒れた。
『あ、要君の血で コードもまっかっか。まるで赤い糸みたい。もう、要君てば最期までロマンチックなんだから…』
床に広がった要の空の人形と血、唾液。
『そういえば、あの子も逝く時要君と同じように私の服をつかんできたなぁ。…チッ』
桃が込み上げてきたのは怒りでも涙でもなく、笑いだった。

静かで冷たくなった部屋の隅で、桃は空の人形を抱きしめていた。
『…要君、大好き。いつになったら帰ってきてくれるかな。』真っ暗な部屋で電気もつけずうずくまる。ふと目に入った時計。
『…これって…』
針は動かず止まったまま。ひび割れていて、目を凝らして見ないとまともに時刻も読めない。
『あはは…あはははは!!!!!要君が残してくれたんだね、要君が私が寂しがらないように自分がいた証拠を残してくれたんだね。』
『ねえ、要君笑って?私たちもうすぐ付き合って3か月経つんだよ。そして大学卒業して結婚して赤ちゃんができて…』
『ねえ、ねえ…要君。目、開けて?…要君…。』
部屋の強烈なにおいで耳鳴りがする。でもきっと、これも要君が遺した愛情。
『要君…心臓の音、聞こえない…ねえ、やだ、やあだ。要君、要君!!!!!』
もうどうすればいいのかわからない。意味も分からず、心臓に耳を当てて鼓動が聞こえてくることを願う。聞こえるはずがないのに。
『そっか…要君が戻ってこれないなら私が会いに逝く。』
要の首からコードを外し、自分の首にはめる。

そして私はまた、無意識の自傷を繰り返した。