無数に散らばる写真の山。天井まで張り巡らされている。
たまたま落ちていた彼の髪の毛の匂いを嗅いで脳が蕩ける。彼の一部、彼の内情、彼の体重、身長、好きな食べ物、嫌いな食べ物、恋愛事情、神経の一つ一つ細胞の一個一個まで全部知りたい。今すぐにでも、私のものになればいいのに。
『もうすぐだね』そう言ってもまだ返事はないけれど、返事が返ってくる日は近いね。きっと巡り合う運命だったんだね、私達。
ピピピピ…ピピ…
チュンチュン…チュチュ…
鳴り響くアラームの音と小鳥の囀りが朝を告げ目を覚ます。朝というより、もう昼に近い。今日は土曜、大学も安定の休みの日で特に今日はやることもない。時計は11時32分を指す、俺の住むアパートの前ではまだ毛も生えていないような小さな子供が走り回っている。ぎゃあぎゃあ騒ぐ子供の親はその光景を遠くで見ながらママ友話に花を咲かせている。あたかも『あの子供は私の子ではありませんよ』とでも言うように。世の中皆阿呆と屑しかいない、良心を持って生まれてきた子供に毒を吐く継母や満員電車で自分の欲求を晴らすために女性をもてあそぶ豚。そんな奴らしかいないのだ。
あくびと背伸びの呻き声をあげ、くるまっていた毛布から脱出した.
気晴らしにと近くのコンビニまで散歩しようと試みた。外の日差しはつんざくかのように暑く、容赦なく俺のことを倒れさせる気満々である。普段ならこうして外へ出て何かしようとすることなど一切ないのだが今の俺がその状況に陥っているのはきっとあのせいだろう。
『…私は、噂で人を判断したりしないけど。自分が話したいって思ったからこうしていつも話しかけてるんだよ?』
あの時の台詞が頭をよぎる。よくあるべたなラブコメにありそうだ。そのまま二人は…とかいう誰でも予測できそうな展開。だがそういうよくある展開が素晴らしいと評価される時代だ。…って論点がずれた。
あいつは一体何がしたいのだろう。急に俺の前に現れ鈴を転がしたように笑い可憐な猫のように姿を消す。まるで俺は遊ばれているようだ。…そうか、俺は勘違いをしていた。あいつはそこらじゅうの男を食い荒らすために手始めに地味で根暗な俺をターゲットにしたのだ。そうだ、そうにちがいない。考えたらスッキリした、もう一度帰って寝よう。
またもやあの女はさも当たり前かのように俺の隣を陣取った。俺はうざさと呆れで嫌気がさし黙々と昼食に集中した。
『ねえ、ねえねえ。』と軽く服の袖をつかむ彼女の手を乱暴に振り払う。払われ彼女は驚くどころかにやりとこちらを見て笑っている。本当にこんな奴が高嶺の花なのだろうか。つくづく疑問に思う。だが、もう遊ばれるのはごめんだ。会話をせず突き放すと決めたのだ。しばらく俺を見つめた後、彼女は何か思いついたかのようにそそくさとどこかへ消えた。後悔も反省も一切していない。むしろすがすがしい気分だ。これで俺の平凡なキャンパスライフは保証された。これでいいのだ、これで…
ズキンと胸が痛んだ。急にどうしたのだろう、風邪か何かだろうか。
あれから何度か彼女への対応をきつくするうちに、俺の時間を自分と共有しようとすることはなくなった。それどころか、大学で彼女と出くわすと彼女は俺から離れるように方向転換して逃げるようになった。何もそこまでしろとは言っていないのに。これではまるで俺が一方的になにかしてしまったようで、芽生える必要のない罪悪感を覚える。
慣れない感情に違和感を覚えながら、この感情をかき消すために購買で買った焼きそばパンをむさぼった。
その日は研究発表の準備に追われ、帰りがとても遅くなった。窓のない資料室で作業をしていた俺は時間を忘れて黙々と作業してしまったため気づいた頃には空は真っ暗になってしまっていたのだった。鍵を閉め、早歩きで正門まで向かうと何やら建物裏で小さな話し声が聞こえた。
『ん…この声どっかで…』聞き覚えのあるその声にちょっとした出来心で裏を覗き見てしまった。そこにいたのは、大学一イケメンと言われていた彼と吉川桃だった。
『いいじゃん、ここなら誰も来ないって』
『えー?もし来たらどうするのよ~』
猫撫で声に上目遣いのあざとさ満載の顔で見つめる彼女は、顔に『恋しています』と書かれているようなもんだった。顔は赤くほて、口元に手を当て幸せそうに笑っている。俺には一切関係のないことのはずなのに、それを見て酷く腹が立った。だが何かできるのかというとそうではなく、隅から見つからないようこっそり見つめているだけである。そんな自分にも腹が立つ。あんな糞女なんて放っておくべきなのに。…俺はいったい何をしているんだ。女一人に時間を削って。まるで阿呆だ。地面に転がる石を蹴飛ばし、小学生の学校帰りのように帰った。
俺がなぜあそこまで彼女に対して複雑になるのか自分自身さっぱり分からなかった。
人は、欲には正直。会いたい、触れたい、満たしたい、満たされたい、殺したい。すべての欲に人は逆らうことはできない。だからきっと、彼は欲求不満になって心寂しくなって私を求める。最初の押しと最後の引きさえマスターしてしまえば、男なんて簡単に手に入る。いくら特別な彼だって、中身は男の子だもん。私はただ、彼を誘導するためにほかの男に身を委ねればいいだけ。足を絡ませて、純情そうに頬を赤く染め時々余裕のないふりをして。指先まで熱を込めて演じるの。ただ、この状況に酔いしれてるこの男を快感に導けばいい。そうしてこのドラマのワンシーンみたいな場面を彼が見てしまえば完璧。…ほらね、来たじゃない。
翌日、俺は寝不足とやけ食いの副作用で体が悲鳴を上げていた。この頃眠れないことが多く大学の講義にも集中できていない。入学して間もないころ、少なくともあの女と出会う前までは講義も真剣に受けていたはずなのだが…。くわっと大きなあくびを一つして講義室の座席に着くと、何やら目の前に座っている女性がおどおどして何か探していた。周りに散らばる人達はあっけらかんとして見て見ぬふりをしている。こういう人の汚れているワンシーンを見るのはあまり心地よくない。自分もそこまで状の湧く優しい人間ではないが、平気で知らん顔をするような薄情者にはなりたくなかったため話しかけることにした。
『あの、どうかしたんですか?』
そう尋ねると『ふげえ⁉』と変な擬音を発してくるりと後ろを振り向いた。その瞬間ふんわりと甘い匂いが俺の鼻を襲った。いやらしさのない従順な香りがする彼女は外はねのオレンジベージュの髪にぱっちりとした水色の瞳をしていた。よく見ると、彼女は泣き目で少し目元が赤くなっている。
『ぁ…ぁの、ゎたし…』
声が小さすぎて聞き取れない。
『ゆっくりお願いします。』ともう一度お願いすると
『コン…タク…ト…を、落とし…てしまっ…て』ととぎれとぎれで教えてくれた。なるほど、それであんなにもあたふたしていたのか。と勝手な自己解釈をした後、机といすの間を探しまわった。
『あぁ…これか。』思ったより早く見つかって、跪いて探すあの子に場所を教えた。流石にコンタクトを触って受け渡すのは気が引けたので自分で取ってもらう選択をした。ぺこぺことお辞儀をする彼女に手を振って自分の席へ戻る。ほんの少しの出来事だったが性格が改正されたような感覚になった。清々しく、周りの知らん顔のクズたちに心の中でふっ、と笑って見せた。
また遅くまで資料作りに熱中してしまった。やはり空は暗くなり、カラスが阿呆らしく泣いている。この時間になると毎日あの時のことを考えてしまう。もう俺のことなんて気にせずほかの男とベッドインしていることだろう。これでよかったのだ、そもそも俺と彼女は出会うべきではなかった。彼女は別世界の人間だ。
『ふざけてんじゃねぇぞお前!!!!』バチンという何かをはたいたような音と怒鳴り声が建物裏から聞こえてきた。そのあとか細く聞こえてきたのは女性がすすり泣く声だった。
まさか…と俺は嫌な予感がして荷物をその場に投げ捨て声の聞こえる場所まで走った。
『…ぅ…ごめん…なさい…もぅ許して…』と頭を押さえて座り込んでいる桃。顔を紅潮させ歯を剝き出しにして怒り散らす男。その光景を見た途端俺は衝動的に動き出していた。
『え…要君…?どうして…』
『なんだよお前、俺とこいつの話に首突っ込んでんじゃねえよ』
彼が話し出した途端、勢い強く右手を振り下ろし彼の頭に命中させた。その場にうずくまり頭を押さえながらぶつぶつと何かつぶやいている。
『女性に手を挙げるなんて最低だぞ。感情のままに動いてお前餓鬼か?』
今の状況だと俺にもブーメランだがそんなことどうでもいい。そのまま彼女の手を引いてその場から去った。慌てて我に返り彼女から手を放す。
『…要君…ごめんなさい。私、間違ってたの。要君に急にああして話しかけて、べたべたして…』
『嫌…だったよね?』と上目遣いをされ思わずドキッとする。これをほかの男にもしていたのかと思うと謎のチクっとした心の痛みが出てくる。
『別に、嫌ではなかった。』きっと俺は今顔が笑ってしまっているだろう。分かり合えるってこんなにも嬉しいことなのか。頬がどうしても緩んでしまう。
あの後は駅まで彼女を送ることになり二人で歩いて向かった。時々並ぶ方がぶつかり合いお互いに恥じあう。揺れる金木犀の香りがして胸がきゅっと締め付けられる。
『ここまででいいよ』
くるりと後ろを向いてそう言う彼女は建物の明かりに照らされて髪や瞳が儚く輝く。もう少し隣を歩いていたい気分だ。余韻に浸ろうとしていると信号が青になり『またね』と彼女が手を振る。気持ちがこみあげてどうしようもないこの感情が体を操る。横断歩道を渡ろうとする彼女の手を引いて引き止める。
『好きだ。』
不器用に言い放った言葉。まっすぐに彼女を見つめると驚いた顔をした後フフッと笑って
『要君』
『少しかがんでもらえますか?』
言葉通りかがんでみた。彼女は俺に近づく。その時、頬に触れた柔らかい唇の感触。外の騒がしい音はすべて彼女への気持ちに溶けてしまった。もう、君以外見えない。
淡い盲目を嬉しいながら貫く。
『これが私の返事、じゃあね。』と不器用に手を振った。目が離せない。俺はやっと分かった、彼女への本当の気持ち。俺はずっと、きみに恋していたんだ。
朝は普通に来て、何の変哲もない平凡な一日が始まる。まるで昨日会った特別なことが噓だったかのように。でも、俺にとっては今日という日は特別かつ大事な日である。一瞬あれは夢の出来事だったのではないかと頭をよぎる。ありきたりにほっぺをつまんでみると痛みがある。ほうと落ち着いてスマホを片手にテーブルの上のカップ麵に手を伸ばした。
どうしても頭に浮かんでしまう彼女のこと。今は何をしているのだろう、とか朝は何を召し上がったのかとか意味不明な質問をなぜかしてしまう。頬が緩み鏡の中の自分と目が合う。ああ、俺はいつからこんなだらしない顔をするようになってしまったのだろうか。だが嫌じゃない、嫌じゃないんだ。今日は特別な日だから。
ものうるさいと思っていた学内の騒ぎ声も青春の音とありきたりな思いを空想で述べている。たった一人の女と気持ちが通じ合っただけでこんなにも暖かくなれるのか。
『要君』と甘く蕩けてしまうような優しい声が僕の名前を呼ぶ。
『桃』と真似て呼んでみた。口元に手を当ててフフッと笑った。そんな彼女を見て俺も嬉しくなる。なんて愛しい存在なのだろう。目に入れても痛くないとはまさにこのことか。
『要君、私達一緒に暮らしてみない?』
思考が止まる。一緒に暮らす?俺が?そんなことが許されるのか?
『あ、だめならいいの。ほら私達アパートの場所も近いしどうせなら同じ場所から通ったほうがいいかなって…』
俺のことを思ってくれたのか。なんて優しいのだろう。うるうると目をさせる彼女に酔いしれながら『しよう、一緒になろう』と了承した。俺のアパートの場所をわざわざ調べて負担を考えてくれるなんて。
それから俺は荷造りを早急に済ませ早速彼女のアパートへと移住を試みた。彼女の部屋からは何とも言えないいい香りがした。
『狭くてごめんね、部屋は…一緒でいいかな。』顔をほてらせ甘く袖をつかむ。ありきたりであっても関係ない、俺のこの瞳には彼女しか映らない。カーテンの隙間から差し込む日差しをぴしゃっと締め唇と唇を優しく絡ませた。
『桃、そろそろ行こう。』
同居生活にも慣れ桃とは心を通じ合った本当の恋人になれたようだった。朝の登校や買い物、できるだけの時間を共有して互いを求め、互いを信じ、互いを理解した。
『あの二人、付き合ってるんだって。』
『ウソ、桃があのド陰キャと?』
周りから白い目で見られ、我に返り視線を気にしてしまうことがあるが桃の横顔と今の幸せを糧にすれば痛くもかゆくもなくなったのだ。
そんな日々が続いたある日のことだった。登校中、忘れ物をしたことに気づき桃を先に行かせ一人で家へ戻った。
『確かここに…お、あった。』
勢い良く資料を引っ張ったせいでほかの資料が床にばらまかれてしまった。
『あーあー…ったく時間がないときに限って…』
その瞬間目に入った小さな封筒。はがきサイズの小さな封筒で、妙に分厚くずっしりと重い。興味本位で分厚い封筒の中身を覗くとそこにあったのは全て紛れもない俺の写真だった。
その写真にカメラ目線のものはない。つまり盗撮されたものだった。一枚や二枚ならまだしも、そこにあったのは何百枚、何千枚もの写真だった。
『なんだよこれ…』
とりあえず頭を冷やそうと水を飲みに立ち上がると床にばらまかれた資料が目に入る。
『ぎゃああああああ!!!!』
赤茶色のにじんだ文字で『要君』と無数につづられている。その紙が何枚も。この赤茶色のインクは…考えたくもない。怖くなった俺は急いで資料を片して家を飛び出した。
夕飯の時のことだった。
『ねえ、要君。今日朝家に戻った時、家で何か変なもの見た?』
どきんとした、心臓の音が早くなり目がぼやぼやする。桃のことを見るだけであんなに愛おしくてたまらなかったのに今は桃という存在が怖くてたまらない。
『要君、大丈…』と近づいてくる桃を無意識に突き飛ばし
『お、俺疲れてるから寝るわ。そ、その話は明日にしてくれ。』と断って寝室に閉じこんだ。
寒気と吐き気でどうしようもない。思えばいくつもおかしいところはあった。そもそもなぜあいつは俺のアパートの場所を知っていた?なぜあいつは俺に初めて絡んできたときから俺の昼食のメニューを隅々まで把握していた?なぜああも都合よく男に言い寄られているときに俺がタイミングよく出くわせた?
俺は…ずっと彼女に…
彼女とのことで一睡もできず、今朝はドア越しに対話をした。心配した素振りを見せていた声だったが、すべて偽りに聞こえて仕方なかった。
遅れても授業には出席しようとゆっくりと部屋を出て彼女がいないことを確認して準備を始めた。昨日見てしまった写真の山も血だらけの手紙もデスクの上から消えていた。
朦朧とする中俺は一番後ろの席に座った。ふと、見覚えのあるオレンジベージュの髪が視界をよぎった。あの時のコンタクト少女だ。するとあっちも気づいたようで『あ…』と声を漏らした。
『お隣…ぃぃですか?』相変わらず聞き取りにくい声量だが嫌な気はせず、『どうぞ』と椅子を引いた。
『この間はどうも…』
『今日はコンタクト落とさないんですね。』
『ぁ、ぇえと…はい。』
ぎこちない会話が続くが、途切れることはなくそのまま続く。表情がころころと変わり見ていてとても面白い。
『そういえば…名前、なんていうんですか?』
『宮下要です。そっちは?』
『か、金沢凛です。』
想像していたより遥かにピッタリな名前だった。
『可愛らしい容姿にピッタリですね。』
『へ、へえ⁉』
『おいそこ、うるさいぞ。』
教授に注意されるが、二人で顔を見合わせて笑った。いつの間にか恐ろしく思っていた彼女のことを忘れることができていた。
『ねえ、最近帰ってくるの遅くない?そんなに課題立て込んでるの?』
『いいだろ、俺にもいろいろあんだよ。』
『要君が急に変わったのって、やっぱり忘れ物取りに帰った日からだよね。』
トーンが変わり体中に電流が走ったように動けなくなる。長い前髪で顔色まではうかがえないが、少なくとも笑顔ではない。
『何が言いたいんだよ。』息をのんで尋ねるとしばらく彼女からの返事がない。表情もわからない。怖さで鳥肌が立つが怖気づかず彼女をまっすぐに見つめた。
『ううん、忙しいんだもん仕方ないよね。』と眉を下げて無理に笑っていた。安心感と違和感が入交じり曖昧に『お、おう…』と返した。
あれから何度か凛さんとは学内で会い、会話していくうちに時間を共有することも多くなっていた。そして彼女しかメンバーのいない天文学サークルに誘われ俺は放課の時間をサークル活動へと費やすことになった。
『遅れてすみません。凜さん』
『あ、大丈夫ですよ。活動も特に決めてないグダグダサークルですから。』
『それと、凛で大丈夫です。』
『わかった、じゃあ俺も要でいいよ。』
敬語は抜けないが特にやることも決めずのんびりと天体観測するこの時間は無意味であるが楽しい。それに今の俺にとってこのサークルは唯一家から逃げられる策でもあった。
『見てください要さ…要。』と照れて俺の名前を呼ぶ。
『この星、名前はないんですけどほかの星よりキラキラしてて…なんだか、私から見た要みたい。』
『俺がこの星?』
『うん、要と初めて会った時なんて優しいんだろう、って思ったの。声をかけてもらった時、要のことが星みたいにキラキラ輝いて見えたの。』
目を細めて笑う彼女こそキラキラと輝く一等星そのものだ。
『じゃあ、この星に名前を付けよう。凜が。』
『え、私⁉…じゃ、じゃあ要ボシ…そのままだけど』
『凛らしいね。』
『え、それどういう意味…⁉』
あーあ、明日の月は綺麗だろうな。
翌日、凜は大学へ来なかった。その翌日もそのまた翌日も凜は忽然と姿を消した。彼女がいたからこそ成り立っていた天文学サークルは廃れ、同時に俺もだんだんと廃れてしまった。
『…』
同じ家に住んでいても、もう桃と会話することはめっきり減った。帰ってもお互いに何も言わず、夕食の時も風呂に入る時も何も言葉を交わさなくなっていた。それは桃への疑惑が拭えないからと単純に桃への気がなくなっていたからだった。
だからといって飯や洗濯物はちゃんと作りちゃんとこなしていた。ありがたみはなかったわけではないが、いう義務はないと感じ取った。
今日はビーフシチュー。ふんわりとスパイスのにおいがして好物だった俺は誰かにとられそうなように頬張った。
『…そんなにおいしんだぁ、凛ちゃん。』
…ん?今こいつなんて言った?
『お前、何言ってんだ…?』久しぶりの会話。
『その子凜ちゃんていうんでしょ?バッグあさったら名前が出てきたの、ほら。』
手に持っているのは【金沢凛】と表紙に書かれたノート。なぜこいつが凜のことを知っている?なぜ凜のノートを、なぜ凜のカバンを持っている?
全身が震えだす。察しているが気づかないふりをする。噓だ、ただの偶然だ。
『おい、冗談はやめろよ。わかったよ最近かまってないから腹いせだろ?ほらごめんって。』
優しく彼女を抱き寄せようとする。
『要らない!!!!!』怒鳴られ思い切り突き飛ばされる。
『はぁ、はぁ…要君が悪いんだよ…?気づかなければずぅっと幸せだったのに。』
『初めて要君を見たとき、運命の人だと思ったの。幸せになれる人を見つけた気がした。ねえ、要君。要君もそうでしょ?私を見て世界が変わったよね、ねえそうだよね?きっとこれは孤独の延長だよ、私が頑張って孤独を乗り越えたらきっと要君は答えてくれるんだよね。』
息を荒くさせて近づいてくる。桃の瞳に光はない。
『私ね、いっぱい我慢したよ。要君の言うこといっぱい聞いたよ。だから今度は要君が私の言うこと聞く番だよ』
『ふざけるなあ!!お前が招いた種だろ!!凜を返せ、返せないなら別れる、お前とはやっていけない!!』置時計を手に取り彼女に投げつける。ひびが入り時間の刻みが止まってしまった。
『…そっか。なら仕方ないよね。』
急に延長コードを手に持って表情を曇らせた。
『…またね、要君。』
要の首にコードを巻き付ける。強く引っ張り要はもだえ苦しんだ。せき込み、鼻水を垂らし、涙と涎で顔はぐしょぐしょだった。
『ろ…ぅして…』(どうして)
桃の服をか弱く掴む呂律の回らない要の手をやさしく桃がさする。
『大丈夫だよ要君、あと少しだからね。』そう言ってもっときつく首を絞める。要はその瞬間吐血し、白目をむいて倒れた。
『あ、要君の血で コードもまっかっか。まるで赤い糸みたい。もう、要君てば最期までロマンチックなんだから…』
床に広がった要の空の人形と血、唾液。
『そういえば、あの子も逝く時要君と同じように私の服をつかんできたなぁ。…チッ』
桃が込み上げてきたのは怒りでも涙でもなく、笑いだった。
静かで冷たくなった部屋の隅で、桃は空の人形を抱きしめていた。
『…要君、大好き。いつになったら帰ってきてくれるかな。』真っ暗な部屋で電気もつけずうずくまる。ふと目に入った時計。
『…これって…』
針は動かず止まったまま。ひび割れていて、目を凝らして見ないとまともに時刻も読めない。
『あはは…あはははは!!!!!要君が残してくれたんだね、要君が私が寂しがらないように自分がいた証拠を残してくれたんだね。』
『ねえ、要君笑って?私たちもうすぐ付き合って3か月経つんだよ。そして大学卒業して結婚して赤ちゃんができて…』
『ねえ、ねえ…要君。目、開けて?…要君…。』
部屋の強烈なにおいで耳鳴りがする。でもきっと、これも要君が遺した愛情。
『要君…心臓の音、聞こえない…ねえ、やだ、やあだ。要君、要君!!!!!』
もうどうすればいいのかわからない。意味も分からず、心臓に耳を当てて鼓動が聞こえてくることを願う。聞こえるはずがないのに。
『そっか…要君が戻ってこれないなら私が会いに逝く。』
要の首からコードを外し、自分の首にはめる。
そして私はまた、無意識の自傷を繰り返した。