この日を境に×××が日に日に疲れている様子が僕には手に取るように分かった。

今日、僕は×××の部活が終わるのを待つために、新学期が始まって馴染みの薄い自分の教室で本を読んでいた。

なあ、古久根。
と突然背後から声をかけられた。
もう6月だというのに僕はクラスメイトの名前を三分の一ほどしか覚えていなかったが、その男子の名前は知っていた。

新実。
クラスの委員長で、普段から口調は厳しい奴だと僕が勝手に感じている男子。

「古久根。体調の方は大丈夫か? お前やけに休みがちだし、普段、家では何やってるんだ?」

その口ぶりはいかにも僕がずる休みをして学校に来ていないみたいな言い方だった。

「別に何してたっていいだろ」 

僕の反応に一瞬怯むがすぐに僕を威圧するような声を出す。

「ああ、別にどうでもいい。それよりお前、×××とはどういう関係なんだ?」

「それこそ新実には関係ないだろ。僕のことはほっといてくれないか」

「ああ?」 

新実は言葉にならない声を出して、少しばかり何かを逡巡した後、×××に何かしたら俺は許さないから、と発して教室から出て行った。

僕は新実が何様のつもりなんだと思った。
意味不明だった。

全く頭に入ってこない小説を閉じると、新実について余計なことを考えるのを辞めて、忘れることにする。
それよりも、この後×××と何を話せばいいのだろうかと考えた。

「最近色々と疲れてそうだね。よかったら話でも聞くよ」

校門の前で×××を待っていた僕は、部活で疲れている×××を見つけてそう言った。

「ありがとね。私って虎から見てそんなに疲れて見えるかな」 

「ああ。見えるよ」

あはは、と軽く笑って小突くように僕の肩に手を載せる。
僕はその手に僕の手を重ねた。

「虎は長生きできるなら何かしたいことはあるの?」

「うーんどうだろ、してみないと分かんないかな。僕って結構その時の気持ちに左右されそうだし。×××は何かあるの?」

「私はもっとゆっくり生きたいかな。なんなら虎みたいな三日に一回の学校でもいいかも」

「それだと学校の勉強、次行く日には結構忘れてるからおすすめしないよ」

「なるほど、経験者の意見は違いましたか」
 
そう言われて僕は軽く胸を張ると、×××はそれが面白かったようでくすくすと笑う。

「部活の方は上手くいってる?」 

「うーーん。まあ多分大丈夫だよ」

こうやって仲良く二人で帰れる日がこれで最後になるのだなんて僕は思わなかった。
帰り道に他愛ない話を続く限りどこまでも。
いつかは終わりが来ることを僕は知らなかった。

多分このときも×××は凄く無理をしていたんだと、後になって分かった。

×××にはちゃんと悩みを打ち明けられれて、一緒に辛いことを乗り越えられる誰かが必要だったんだと思う。
それは僕じゃなかった。

僕と×××の間にはいつしか心の壁みたいなモノがあって、×××は僕に頼っちゃだめだ、と心に制約をかけていたらしい。
だって僕がこんなのだから。
一度出来てしまった心の壁は目に見えない分取り除くのは予想以上に難しくて、×××は僕に負担をかけないように頑張りすぎてしまっていた。

一緒にいても何だがぎこちない関係だった。
×××は部活の女の先輩と何かあったらしく、部活内で孤立していた。
僕のことよりも自分のことで手一杯のようだった。
僕がしっかりして、安心して頼れるような男子になっていれば……。

僕といると×××はダメになってしまうような気がした。
だから一度×××に別れを申し出たこともある。
その方が×××のためだと思っていた。

だけど×××は僕が思っている以上に僕のことが好きらしかった。
僕のことがこんなにも好きなのに。僕に迷惑だってかけてないし、嫌がるようなこともしない。だから私を見捨てないで、と言って泣きつかれてしまった。

僕はこのとき、僕が“歴史渡り”に変わったことで×××が僕以上に変わってしまったのだと自覚した。
僕が決断を誤ったせいで。

いつしかクラス内で『僕は×××のことを実はめんどくさいと思っているから、学校に来てない日には他で女を作って遊んでいる』と噂が流れていた。
全くの事実無根だったが、×××の心は完全に参ってしまったらしかった。

僕を嫌う誰かが、もしくは×××に好かれたい誰かが、僕の評判を落とそうとした仕業なのだろう。
しかし現に暗く落ち込む×××を見て、クラスメイトは僕が悪者であると決めつけた。
僕へのクラスの態度は一層冷たくなり、時折僕に関する心もとない会話がグループ内から漏れ出て聞こえてくる。
もともと僕は学校に三日に一度しか行っていないから辛くもないし、むしろクラスが僕の存在を認めたような不思議な感じがした。

そんなことより僕はなんとしてでも×××と話して誤解を解かなければならないと思っていた。
しかし×××は僕をあからさまに避けていた。
怯えているようだった。

僕はもうタイミングをうかがっている場合ではないと思った。
必死になって×××の逃げようとする腕を掴んで引き留め、僕と向かい合わせる。
しかし僕が何かを言う前に彼女は訴えかけるように口を開く。

「どうして私ではダメだったの? 私は虎のことずっと好きだったのに。お願い、一緒にいてよ」

彼女の綺麗な瞳は見る間に赤くなり、頬を伝って止められないほどの涙が流れる。
声を上げて泣いていた。
僕はその背中を優しく撫でて、彼女の気持ちが落ち着くのをゆっくりと待った。

「あんな噂はデマだ。僕が×××以外の人と遊ぶわけないじゃないか。そんな時間が僕にあると思うか」 

そんなの嘘。
私に隠してる時間なんてたくさんあるもの。
どうせ私に嫌気がさしたんでしょ。
最近の虎の態度見てれば分かるもの。

そう言われてもう僕は何も言い返すことが出来なかった。

だから僕はこの際、態度で示そうかとも思った。
彼女を抱き寄せてその口を黙らせたかった。
彼女の泣く姿を僕が優しく包み隠してあげたかった。

しかし最後まで僕はそうしなかった。
彼女の泣く姿を、慟哭の言葉を、ただ正面から受け止める以外に何もしようとはしなかった。

今この状況が改善に向かったところで行き着く関係は結局同じだろう。
ならば今ここで。この関係を終わらせることがお互いにとって最善なのかも知れない。
そう信じたかった。


僕はこの日から人を信用しなくなった。
僕が普通の人と関わってはいけなかったのだ。
好きだった×××が変わってしまったという事実だけが僕の心に深い傷跡を残す。
僕はクラスに関わるのをやめた。
人とあまり喋らなくなった。
傍観すらやめた。

見ない。聞かない。関わらない。

あれからクラスの男子の何人かが×××に告白しに言ったらしい。
男子なんて可愛い子がいればすぐ惚れる。
僕と付き合い始めてより可愛くなり、クラスでもそう認知されるようになった×××のことなら尚更クラスの男子たちはほっとかないのだろう。

僕との関係が壊れ、傷心な彼女が狙い目だとでも思っているのだろうか。
しかし×××はその全てを断ったらしい。
しかもばっさりと。――もう僕には関係の無いことだ。

僕は一度、体育祭における応援合戦という縦割りのクラスによる団対抗戦の練習で僕は新実からきつい平手を一度食らった。
このときくらいは倒れ込む僕に対してクラスメイトの何人かは優しかった。
でも三日に一度の僕が皆と同じ振り付けを覚えられるわけがないじゃないか。


「一応クラスが同じなんだから、ちょっとはクラスのために動けよ」
 
このとき新実はそう言って叩いた。

一応ってどういう意味なんだろう。

僕には分からない。

僕はもうクラスのことには関わりたくなかった。

より熱心に“歴史渡り”の仕事をした。