「河井さんと話がしたいのですが」 

先生は突然の僕の訪問に少しだけ驚いた表情を見せる。

「河井さんが学校に来ていないことを古久根君も知っていると思うけど。河井さんね、気持ちでは学校に行きたいのに、実際にはそう出来ないらしいの。何か悩み事があるみたいで。体の方が正直なのだと思う」

「だからといって河井さんがいなければ劇の方向は一向にまとまらないですよ」

「今、河井さんが来てないことでクラスが困っていることは先生も知ってる。でもね、河井さんも今、苦しんでる。先生がその理由を聞こうと頑張っているけれど、電話越しで河井さんは毎回必ず言葉に詰まって、上手く話せないの。古久根君は三日に一度しか学校に来ていないから分かるとは思うけど、少しでも休んだりすると、その瞬間学校が急に馴染みのないところに感じちゃって、途端に学校に行くのが怖くなる。そういうのだと先生は思ってる」 

先生はいつもの優しげな先生だったが、いつもに増してどことなく真剣だった。

「河井さんはクラスでも一人でいることが多かったと思うけど、先生は誰かが支えになってあげる必要があると思う。今のような苦しくて一人で悩んでいるような時は特にね。先生がその役をやりたいのだけれど、恐らく先生によりも心を許している古久根君の方が適任でしょ。こうして古久根君は職員室に来てくれたのだし。先生が思うに河井さん、クラスの中では古久根君が一番仲いいように見える。だから古久根君からも河井さんから話を聞いてみてほしい。何があっても河井さんを責めないと約束できるのなら、河井さんの住所を教えてあげる。これは個人情報だから、ほんとは教えてはだめなのだけど、古久根君が悪用はしないし、直接会って話を聞くことは大切だから」 

先生は優しく言って顔を少しだけほころばせる。

僕はなんだか片山と似たようなことを言われて釈然としなかった。

「悪用や流用は決してしないですけど、別に住所じゃなくて携帯番号で十分ですよ」

「そこは河井さんが真正面からこのことに向き合えるように古久根君と直で会うのが良いと思う。逃げ道があるのは大事なことだけれど、時に逃げ道がないことが人を強くする。自分では変えられなくても、誰かが逃げ道をなくして、自分の問題に真正面から向き合わせてあげることで変わるものは確実にあるから」 

先生は少し熱く懇願する。

「そんなこと急に言われても、僕はただ河井さんが任されたはずのクラスの脚本について、どう思っているのか聞きたいだけなんですけど」

「それも大事だとは思うけど……。まずは学校に来れない理由を聞いてあげてほしいかな。寄り添ったり共感したりしなくてもいい。ただ聞いてあげるだけで河井さんは楽になると思うから。ただ聞くっていうのも簡単なことじゃないことだけは覚えておいて。それに加えて同じ学校を休みがち仲間として、休み明けの学校に来られるようになるアドバイスをしてくれると先生も助かる」

学校休みがち仲間か。

僕は別にまわりからの視線を気にしていないから、休み明けだろうと学校に行けるし、河井さんもそういうタイプだと僕は勝手に思っていた。

河井さんはこれまでも何かに悩んでいたのかもしれないし、人と深く関わろうとしない姿勢は僕にとって都合の良いものだったが、実は僕が気づかなかった複雑な人間関係の問題に悩んだ行動かもしれない。

僕は近くにいながら何も知らないことに少しだけ後悔する。

樅山先生から河井さんの住所を聞き、放課後僕は河井さんの家に行くことになってしまった。

僕の家の方角とは逆方向に二駅乗って、少し歩けば着く距離だった。
女の子の家を訪ねることになるなんて、二度目の高校生をやると聞かされたときに思いもしなかったし、今だって驚いている。

最近は驚きの連続だ。

こういう時は三日に一度の人生がすごく悔やまれる。


「古久根さー。河井と仲いいらしいじゃん。今、河井のために何かしてやろうってわけ? 悪いことは言わないけど、あいつに関わるのはやめときなよ。あいつは自己中心が過ぎるから」

僕が昇降口で、靴を履き替えていると後ろから声をかけられた。

振り返るとクラスで僕の左隣に座っている岩屋葉月だった。
どうやら僕が職員室に向かうところを見られていたらしい。

岩屋さんの鋭い眼光がまっすぐに僕を射貫く。

力強い透き通った真っ黒な目だった。

長い黒髪を後ろ手一つに束ねている彼女は陸上部のエースだと聞いている。

自分の意見を臆せず言える強気な姿勢は男子だけでなく、女子からも人気がある人だった。
この人といると安心できるみたいな類いのものだろう。

昼休みによく近くに集まってくる女子たちと賑やかに昼ご飯を楽しそうに食べている様子を見かけた。
そこではいつも流行に乗った会話が日々繰り広げられている。

僕はその会話を盗み聞きーーではなく不可抗力的に聞こえたときもある。

そんな女の子らしさが、今の彼女にあるとは言い難いほど冷たく放たれた言葉に僕は本能的に背筋が伸びる。

僕は今まで授業外ではほとんど話したことがないため、向こうからの接触に少し驚いたが、彼女の気迫が僕の気の緩みを許さない。


夕焼けに染まる昇降口に人の往来はなく、僕たち二人だけの影があった。

「河井さんって自己中心なのか? 普段あんなにおとなしいのに」 

僕は平静を装って言う。

「古久根って去年ちょっと有名になったあの事件覚えてない? まあ、いまさら蒸し返すつもりはないけどさ。あいつおとなしいし、普段から一人でいることが多いから仲間のためとかクラスのためなんて全く思ってないんだよ。今だってクラスを放っているわけだし」

やけに強い口調だった。

それだけ彼女にも何か思っていることがあるのだろうと分かる。

「岩屋さんって河井さんとどんな関係なの?」 

僕はそこが気になって訊ねた。

「あいつ、元陸上部なんだよ。去年の夏の大会での失敗以降全く部活にこなくなって……。張り合いのあるやつで一緒に頑張っていたのに。正に今と同じ。こんなことを繰り返すとはね。変わらないんだよ、あいつは。自己中心的で急に態度を変えて、また裏切るようなことをする」

「本当にクラスのためを思っていないのか、それとも何か事情があるのか。それを聞きに行ってくる。今の僕には河井さんが何を思っているのか分からないから」

片山や先生に頼まれてしまったからには僕はやるべきことをする。

僕を止める理由が岩屋さんにあるとしても、僕は彼女に変に肩入れをしない。
河井と直接話す必要があるから。

「そんなの誰にも分からないよ。古久根が行くのを止めはしないけど、これだけは言っておく。河井は皆のことを考えるようなやつじゃない」
 
岩屋さんの澄んだ声が直接僕の芯まで響いた。

片山や河井さんと違って、僕が隣で見ていた岩屋さんは授業も真面目に受けるし、人からの相談を受けることも多い。
そのたびにひとしきり考え込み、考えをまとめるとすぱっと思ったことを真っ直ぐ伝える。

僕が客観的に見てもいい人で、皆からの熱い信頼を寄せられていることも頷ける。

岩屋さんの言うことを信じられるが、こればっかりは自分で判断したかった。


いつもと違う方向の電車に乗る。

途端に周りは知らない景色。家々が次々に通り過ぎていく。
違和感しかなかった。

今は雨が降っていないが、見上げると梅雨続きで見慣れた相変わらずの曇り空だった。

駅から先生に教えてもらった通りに進んでいくとあっさりお目当ての家が見つかった。

青っぽい灰色の屋根の二階建てで、周りを金属の柵で囲われた中庭の先に屋根付きの駐車場がある。
車通りの少ない道路に面し、一軒家にしては敷地が広い。
駐車場に一台も車は止まっていない。

僕は少しだけインターホンを目の前に躊躇する。
一体なんて話せばいい。

しかし今、河井さんの方が苦しいのなら、僕が些細な事情で躊躇することなんて何もないじゃないか。

そう思って僕はインターホンを押した。