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「真子さん」
ふと、愛しの声が降ってきた。
文学の世界に没頭していた意識を、勢いよく浮上させる。
古びた電球の下、健二くんがいた。カウンターをはさんで向かい合いながら、無邪気にほほえんでいる。
────そう、そうだよ。この笑顔が見たかったの。
久しぶりに見た気がした。
文化祭が終わって1ヶ月。今までずっと、今日みたく図書委員の当番がある日は、健二くんと一緒に帰った。毎週必ず顔を合わせて、笑ってるはずだった。
なのにどうしてなつかしく感じるんだろう。
「部活おつかれさま」
「真子さんも当番おつかれ。なに読んでたの?」
ふたりきりの図書室。
大好きな本と、大好きな人。
なんて幸せなんだろう。
「『かぐや姫』だよ。なんとなく読みたくなっちゃって」
インクで刷られたやわらかな文字を撫でる。
派手やかな見た目に変わって、図書室の居心地を自分で壊してしまった。落ち着く雰囲気を自分自身が浮いてしまうのはなんだか物寂しい。
後悔はない。
今の自分を気に入ってる。
遅めの高校デビューだとバカにされても、前よりずっと自信を持ってられる。
それでも本が好きなのは変わらない。だからわたしはここにいる。
かぐや姫が最後月へ帰るように、わたしも結局、いちばん慣れ親しむ本の中に居座ってしまうんだ。
「そういうとこは、変わらないね」
「……え?」
そういうとこってどこだろう。
というか。
「わたしが変わったのは外側だけだよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
あぁ、また。困ったような笑い方。
どうしたらさっきみたいに笑ってくれる? もっと自分磨きがんばればいい?
「もう遅いし帰ろ」
「う、うん……」
どれも同じ笑顔のはずなのに、胸がギシギシと擦れていく。痛みすら感じない。残るのはモヤモヤした違和感だけで、うまく掴ませてくれない。
おかしいな。まだ少しもつり合ってないのかな。
夜道に自転車のタイヤがカラカラと鳴る。コンクリートの上をはずむその軽やかさに、どこか憎らしいような、都合がいいような、よくわからない感情を覚える。
健二くんの隣にいても緊張しなくなった。
冷たい手をあたためてくれなくなったのはいつからだったろうか。文化祭が終わってすぐのころは、手のひらを重ねては赤らんでいたのに。
あの熱はどこに消えたんだろう。
たしかに、こんなにも、好きなんだけどな。
新曲がむずいとうれしそうに話すあどけない横顔を、月明かりが弱々しく照らす。
今日は満月じゃない。食べかけみたいに半分とちょっと欠けている。
ついさっき読んでいた『かぐや姫』より先に、告白してくれたときのことを思い出した。
そういえば、わたしからちゃんと想いを伝えたことはなかった。
伝えたら笑ってくれるかな。またかわいいねって笑ってほしいよ。
ねえ。
「それで出だしの音が……」
「けんじ、くん」
「ん?」
「月が、綺麗だよ」
声が震えた。
だって。
だってね、健二くんが。
優しく表情を歪ませるから。
「……うん」
返ってきたのは、たった二文字だけ。
戸惑って、迷って、無理してほころぶ。
健二くんはわたしも月も見ていなかった。わたしの一方通行。
やっと健二くんと並んでも、ちぐはぐじゃなくなったんだけどな。“わたしなんか”をやめたんだよ。
健二くんのより薄い茶色のカラーコンタクト。マスカラを塗った厚いまつ毛。生え際の黒い髪とへたな巻きクセ。ピンクのカーディガンと膝上スカート。
かわいくなれたつもりだった。
健二くんの“カノジョ”になりたかった。
だから変わったの。
でも。
「……って、思ったけどね、」
無理に息継ぎをして、声の震えを止まらせた。
でも、健二くんはちがう。
────変わりたくなかったんだね。