私たちは食事を済ませると、カフェから出た。その絵本の展示会は近くの商業施設の中にある7階フロアにあるため、建物に入りエレベーターに乗った。
展示会にたどり着くと、初日だったこともあるため人は多くいた。年齢層は様々で、厚いスーツを見に纏った老人、大学生くらいの若い男性もいれば親子連れもいた。
『〜清宮正 15年にわたる絵本の世界〜』という看板を立っている。15年も長い間、私が生まれてから間もない頃から絵本作家として長く活躍されているようだった。
ギャラリー内に入り、経路順に従って歩き、一つ一つの作品を見ていく。一つの作品につき、その絵本の絵画が壁に飾られてあり、簡単なあらすじの説明がされているものと、実際に手に取って読むことが出来る絵本が展示している。
私たちは一作品ずつ時間をかけて見ていた。
「この話、なんとなく覚えがあります。懐かしい」
中には、読んでもらった記憶のある絵本もあった。可愛いらしさのある絵に、思わず少し笑ってしまうエピソード性。清宮正らしさの絵のタッチには長く愛される理由がいくつもあった。
「俺も、よく覚えてる。それ、ラストが笑ってしまうんだよね」
「そう。でも大人になっても読んで面白いんですね。子供の時とは違う見方が出来て楽しい」
久々に読む絵本は新鮮だけど、どこか懐かしさもある。子供じゃなくても見る立場によって深みが変わる。絵本の楽しさを思い出すことが出来た。
昔を思い出せば、母よりも父に絵本を読んでもらった記憶が強い。父の膝の上に乗って座り、背中から伝わる体温と低い声が心地よくていつのまにか寝てたこともあった。忘れていた記憶が蘇った。
次の本の展示へ移動するとそこには見たことのない絵本があった。
「これ、俺好きだったなぁ」
先輩はその絵本を見て呟いた。タイトルは『ニキとお月様』。
あらすじを簡単に言えば、これは猫とお月様の物語だ。主人公は子猫のニキ。
ニキはお母さんに林へ行っては迷子になるから行ってはいけないと注意されていたが、その約束を破って林へと遊びに行く。案の定迷子になり、夜になると真っ暗の中で泣き喚く。
そこでお友達になったお月様が道を照らしてくれて家まで帰る手助けをしてくれるお話。
林の中には意地悪なキツネに悪戯されたり、怖い樹木が話しかけてきたりする。そばにはお月様がいるけど、お月様は輝きを放ち、道を照らしてくれることしかできない。
何も手助けできないお月様とニキが途中喧嘩になりながらも家へたどり着く。
先輩はその本を手に取り、懐かしそうにページを捲った。
「子供ながらに読んでて怖かったなぁ。林の中でニキを襲いかける幽霊も出てきたりして。家への帰り方が分からないから自分もそうならないように林の中に遊びに行かないようにした」
「たしかに子供の時に読むと、怖いかも」
「そうそう。それにお月様、すごく優しいんだ。真っ暗の道に光を当てることしか出来ない。君がどんなに怖いものに出会しても、助けることが出来ないって嘆くんだ。それをニキは最初役立たずな月だとか酷いことを思うんだけど、結局お月様がいなかったら自分は家に帰れないことに気づくんだ。そして家に着いた時、お月様は雲に隠れていなくなる。ニキはお友達であるお月様が消えて泣いてしまう。だけどお月様は言うんだ。また明日の夜、会えるよ。だから安心してって。それでニキは安心してその日の夜、ゆっくり眠る。それでエンド。良い話でしょ?」
「良い話ですね。お月様とニキが最後は仲直く終わってよかった。ニキがお月様の存在が大事だったんだ、ってことに気づけるんですね」
真っ暗な道。照らしてくれた光。
『キミがいなきゃ、何もできなかった。』
そのフレーズが目に入る。最後のシーンで、ニキが消えていくお月様に手を伸ばすシーンが可愛らしい絵だけど切なく思った。
また次の日の夜、ニキはお月様に会った時にどんなことを言うのだろう。
この本はシリーズ化していて、ニキとお月様は色々な夜の旅をするらしい。他の本が気になった。
「ごめん、受付のスタッフが知ってる人だった。挨拶してくるから待ってて」
先輩はそう言うと受付の方に向かった。
私は頷くと、またニキとお月様の絵を見ていた。
こんなふうにゆっくりと、何かを見て集中する時間は普段、あまりない。
ご飯を食べたなら流し目でテレビを見たり、自分とは関係ない場所で起きた事件を携帯で見たり。
何気なく通り過ぎる時間を、私はいつのまにか無駄に過ごしているのかもしれない。この空間にいると、そんなことを思えた。
しばらく展示物を見ていると、背後から「見に来てくれてありがとう」と声がかかった。
振り返るとそこには男の人がいた。正装している男の人は背が高く、私は見上げた。
目尻に皺を作って柔らかく微笑んでいる。窪んだ瞳が優しかった。誰だろうと不思議に思いながら礼をする。
「廉のお友達ですか?私、清宮正です」
その男の人が名乗り、驚き慌てて返事をした。
「失礼しました、私は清宮先輩の後輩の西野莉子です。先輩からお誘いをもらって来ました」
大きく頭を下げる。
「廉の後輩の方でしたか。初めまして。今日は来てくれてありがとう」
「私、今日改めて絵本を拝見させてもらって感動しました。とても面白かったです、上手く言えないんですけど…心が落ち着きました。優しい絵本に出会えて嬉しいです。ありがとうございます」
緊張もあり、辿々しく言葉を紡いでいく。そんな私に、嬉しそうに正さんは微笑む。
「よかった、面白かった、読んでよかった、とそう言ってもらえるとすごく嬉しいです。ありがとう」
正さんの笑った顔はなんとなく先輩に似ていた。血が繋がっているのだから当たり前だけど、穏やかな喋り方も似ている。
「何か、気になる本は見つかりましたか?」
「あの、この本が気になって。ニキとお月様。他のシリーズを読んでみたいと思いました」
「ああ、これ。よかった、これはまだ廉が小学生に上がる前に書いた本でね、廉も気に入ってたんですよ」
「先輩も?」
「そうそう、廉は昔はあまり人と喋るのが苦手な子でした。学校でも一人きりで本を読むような子で。この本をずっと読んでいたんですよ。だからシリーズ化したっていう裏話もあるくらい」
「そんな裏話があるんですね」
「そうです。廉はいつもこのお月様になりたいって言ってました。心優しく、気が強いニキに何を言われても誰かを助ける心を忘れないお月様。何にも動じない光を持つお月様が1番心が強いんだ、と。そんな心の強い人になりたいと言っていました」
二人で並んで、飾られている絵本のワンシーンを見た。
お月様が1番心が強い。そんな心の強い人になりたい。先輩が小さい頃に思ったこと。
そんな風にこの本を読んでた。小さい頃なのに、そのお月様の心の強さに気づけたというのが凄い。
きっと今の自分が読んでもなかなか気づけないことではないだろうか。
先輩の知らなかったことをたくさん知ることが出来たような気がした。
「また心落ち着きたいときに、読んで頂けると嬉しいです。今日はわざわざ来てくださってありがとう。住まいはどちらの方で?」
「旭町だす。こっちの方面は初めて来ました。意外と電車は乗ったら近かったです」
「旭町ですか。この前たしか通り魔事件がありましたよね。大丈夫ですか?帰り道は気をつけてくださいね」
「心遣いありがとうございます」
「旭町…」
正さんは少し何かを考え込んで言った。
「すみません、お名前は確か、西野さんでしたか?」
「はい、そうですが…」
「ごめんなさいね、知り合いに同じ名字の方が旭町にいまして。西野さんは廉の後輩って言ってましたけど、」
「一年生です。清宮先輩の2個下です」
そう言うとまた正さんは悩むように唸った。
その様子に疑問が浮かぶ。
正さんがこれから喋り出す内容は、あまり良い話が出そうな気がしなかった。その予想は大いに当たった。
「もしかして、西野雅樹さんのところのお嬢さんですか?」
正さんは父の名前を言った。喉がぐっと締め付けられる感覚だった。
「昔のことを思い出させたら申し訳ない。私はあなたのお父さんのことを知っています」
そう言うと正は少し頭を傾けるようにお辞儀をした。私は何も言えず、頭を下げる正さんを見ていた。