「全然見つからない……」
「見つからないねー……」

 道中の段差に腰を下ろし、若干の休息を取りながら、ため息をこぼす。
 澪が持つ地図アプリを頼りに、印がついていない箇所を巡っていた栞里と澪だったが、結果は芳しくなかった。
 そも、栞里と澪よりずっと人数が多く情報も手段も持っている魔導協会でさえ未だ補足できていない相手である。
 栞里と澪の二人が必死になって捜索したところで、遭遇できる可能性はずっと低い。
 無論それは栞里も澪も重々承知なのだけども、一日中探し回ってもなんの手がかりも得られないという徒労感はいかんともしがたいものだった。

「あっ」

 澪がなにかに気づいたように声を上げたかと思えば、さっとキャスケット帽を深くかぶる。
 澪がさきほどまで見ていた方に目線を向けてみれば、少し遠くの方をメガネをかけた二人の女性が歩いていた。
 一見しただけでは普通の通行人にしか見えない。しかしよく観察してみれば、その二人はまるでなにか探しものでもしているかのように、さり気なく周囲に視線を配っている。
 その二人が栞里たちとは別の方角に消えたのを確認すると、栞里は澪の肩をぽんぽんんと軽く叩いた。
 澪はそれにおそるおそる顔を上げ、きょろきょろと辺りを見渡してから、ほっと息をつく。

「協会の人、だったよね。今の」
「たぶん」

 澪はスマホの地図アプリの今いる地点に、協会の関係者らしき人を見つけた印として、青い丸を書き込む。
 澪が協会から盗んだ情報の外を巡っているはずなのに、こうして書き込んだ青い丸の数は、今日だけでもう四つ目だった。
 澪は青い丸の数を数えて、ふーむ、と唸る。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……協会の情報の外を探してるはずなのにこんなに見つかるってことは、やっぱり協会の人たちも情報が盗まれてる可能性は考えてるのかな」
「だと思う」
「もしかしたらわたしたちが今やってることなんて、協会の人たちが毎日やってることなのかもね……」

 きっと栞里や澪が考えている以上の策や考えを、魔導協会は実施してきている。
 それだけやっても、まだ見つかっていない。
 栞里と澪の二人程度がエプシロンを見つけられる可能性自体、ずっと低いのだと思い知らされる。

「……もう結構な時間だねー」

 すでに西の空は夕焼けに染まり、東の空も藍色を帯びて、夜の訪れを予感させた。

「今日はもう引き上げよっか。さすがに夜に探すのは危険すぎるから」
「……でも、夜の方が見つけられる可能性は高いと思う」

 昼間は人目が多く、その犯行を関係のない一般人にさえ容易に見られてしまう危険がある。
 少しでも騒ぎが起きれば、協会はすぐさま駆けつけるだろう。エプシロンもその危険は留意している。
 実際、澪はかつて夜中に家をエプシロンに襲撃されたし、過去の被害のほとんども同様だ。
 本当にエプシロンを見つけ出したいのなら、おそらく日が沈んだ後こそが本番だ。
 しかし澪は栞里の提案に首を振った。

「わたしね、お父さんやお母さん、かほの仇を討ちたいって気持ちはもちろんあるけど、今はそれだけじゃないの」
「それだけじゃない?」
「えへへ……面と向かって言うと、ちょっと恥ずかしいけど……栞里ちゃんが昨日わたしにくれた言葉を思い出すとね、胸の奥の方があったかくなるんだ」

 澪は自分の胸の前に手を置いた。

「大切な思い出がいっぱいあったはずなのに、もうそんなこと家族の誰も覚えてなくて、ほんの少し昔を思い出すだけでも辛くて苦しくてしかたなかった。でも今は……栞里ちゃんがくれたこの温もりがあれば、いつか笑顔で思い返せる日が来る気がするの」
「澪……」
「だからいいの。こんな気持ち初めてだから、うまく説明できないけど……その……栞里ちゃんが一緒なら、わたしはそれでいい」

 澪はそう言って、照れくさそうに頬をかいた。

「ん……わかった。じゃあ続きはまた明日にして、今日はもう帰ろう」
「うんっ」
「と思ったけど、もう冷蔵庫に食材がないんだった。スーパー寄ってから帰ろう」
「あ、うん」
「ふふふ。そしてなんと私はちゃんと覚えている。今日は澪のリクエストのカレーにするって約束したこと」
「あはは……」
「気合を入れて辛口……ちょうどいい中辛……お母さんが好きだった甘口……どれも悩ましい……」

 妙に張り切って悩み始めた栞里を見て、澪は苦笑した。
 カレー云々は澪の苦しい言い訳から生じた勘違いなのだが、なんだかんだで澪も楽しみになってきていた。
 だから敢えて勘違いの訂正はせず、「甘口がいいな」と希望を告げて、栞里の横を歩いた。
 スーパーマーケットに入ると、二人は早速食材の吟味を始めた。
 今日作るカレーの材料はもちろん、後日の献立もつらつらと考えながら、食品をカゴの中に積んでいく。

「あら」

 そんな折、夜が近いこともあり、少し二人で手分けをして買う物を漁っている時だった。

「あ。ご、ごめんなさい」

 振り返った拍子に、澪は同じように買い物をしていた女性に軽くぶつかってしまった。
 澪が頭を下げると、その女性は「いいのよ」と返して、不思議な薄ら笑いを浮かべて去っていった。

「……あれ」

 ふと足元を見ると、小さく畳まれた紙切れが落ちていることに澪は気がついた。
 さっきまでは落ちていなかったものだ。
 もしかしたら今ぶつかった人の落とし物かもしれない。だとしたら、早く拾って届けないと。
 そう思い、紙に触れた瞬間、澪は言いようのない違和感を覚えた。
 これ自体はただの紙だ。それは間違いない。
 だけどなにか、普通と違うような……。

(……これ……もしかして、魔力?)

 網膜に魔力を張って見てみれば、そこには確かに、ヘイトリッドが残すような魔力の残滓があった。
 不審に思いつつ、紙切れを開く。
 そしてそこに書いてあった文字に、澪は大きく目を見開いた。

『家族の記憶を取り戻したければ、
 五年前の冬、妹にマフラーをプレゼントした小さな公園に一人で来なさい。
 誰かに知らせるようなら、私はもう人前に出てこない。
 あなたの家族の記憶は永遠に戻らない。
 私は常にあなたを見ている。

 あなたを愛するエプシロンより』

 バクバクと、うるさいくらいに心臓が脈を打つ。
 呼吸が乱れる。紙切れを持つ手が震える。
 ――エプシロンが、近くにいる。

「さっきの……!」

 さきほどぶつかった女性の顔を、澪は見ていなかった。
 彼女は一度もこちらに顔の正面を向けずに立ち去った。
 それは敢えてそうしていたのだと今更になって気がつく。
 精霊は人間の姿をかたどっている時、その瞳が見る角度によって色を変える。それが見えないようにしていたのだ。
 慌てて後を追ってみたが、もうどこにもその後ろ姿は見当たらなかった。

(……でも……)

 澪はまた紙切れに視線を落とす。
 常にあなたを見ている。この文章を見る限り、まだ近くにいることは間違いない。
 だけどそれは、澪の動きを監視するためだ。
 監視して、協会に連絡するような怪しい素振りを見せれば、即座に逃げるため。
 闇雲に手を打てば、せっかくの手がかりを失う羽目になってしまう。

(それに……『家族の記憶を取り戻したければ』って……)

 澪はてっきり、一度精霊に食べられてしまった記憶は二度と戻らないものだと思っていた。
 人が胃の中で消化してしまったものを食べる前の状態に戻せないように、もう消えてなくなってしまったのだと。
 もしかしたら、こんなものは澪を確実に一人でおびき寄せるためだけの嘘っぱちに過ぎないのかもしれない。
 だけどおそらく澪がそう考える可能性まで考慮した上で、エプシロンはこの紙切れを落としていった。
 なぜなら『五年前の冬、妹にマフラーをプレゼントした、あの小さな公園』という、その一文。
 澪は心当たりがあった。
 そしてそれは、澪と妹のかほ以外の誰も知らない思い出のはずなのだ。
 少なくとも、かほの記憶はまだエプシロンの中に残っている――暗にそう伝えるような、意地の悪い文章だった。

(……どうすれば……)

 もし栞里に接触を図れば、その時点でエプシロンは澪の前に現れなくなるだろう。
 なら、今すぐ電話で協会に知らせれば、あるいはエプシロンが逃げる前に間に合うだろうか?
 ……いや、エプシロンは電波を妨害する魔法を使うことができる。そしてそれを、おそらくもう使われている。
 スマホを取り出したところで、どうせ圏外だ。
 どれだけ考えたところで、結局のところ澪に提示されている選択肢は、エプシロンが思い描いた二つしかない。
 家族の記憶を取り戻すことを完全に諦め、栞里のもとへ戻るか。
 たとえすべてを失うかもしれなくても、今すぐ一人で指示された場所へ向かうか。

(……お父さん……お母さん……かほ……)

 笑い合ったあの日々は、もう戻らないと思い込んでいた。
 たとえ寂しくても、この痛みを抱えたまま、この先を生きていくしかないと思っていた。
 でももしかしたら、ほんの小さな可能性なのだとしても……またあの日常に、戻ることができるかもしれない。
 ふつふつと湧き上がる淡い期待が、澪の心を惑わしていく。
 それがエプシロンの思い通りの展開だとわかっていても、溢れ出る思いを止めることはできなかった。

(…………ごめん……栞里ちゃん……わたしは……)

 逡巡の後、栞里がいる方向に背を向けた澪は、建物の出口へ向かって駆け出した。
 家族の記憶を取り戻すため、かつて思い出を刻んだ公園を目指す。

(……栞里ちゃん、嘘つきでごめんね……)

 最後にほんの一瞬だけ振り返り、心の中でそう告げて。
 澪は、暗闇の向こうへと姿を消した。