「はーい、それじゃあ今日はここまでだね。皆、今日もおつかれさま」

 魔法少女としての見回りを終えて部室に戻ってきた四人に、魔導協会からの連絡事項を話した後、レンダはそう締めくくった。
 協会からの連絡は、二週間後の土日に精霊獣エプシロンを対象とした大規模な調査を実施することが決定したこと。それまでは、今まで通りパートナー同士で同居すること。
 主にはその二つだった。

(精霊獣……個体、エプシロン)

 昨日聞いた時は、まだ他人事のようだった。
 テレビ越しにニュースを聞いているような、そんな感覚。
 だけど今はもう知っている。エプシロンとは、澪の家族を奪ったものの正体だ。
 そして昨日ここで見た資料にあった、奇跡的に無事だったという一人の目撃者。それこそが澪である。

(……澪)

 横目で彼女の顔を覗いてみる。
 普段通りの表情を張りつけているが、ふっと栞里が視線を下げると、その拳が固く握られていることに気づく。
 昨日レンダの話を聞いていた時も、同じような反応をしていたのだろうか。

「明日と明後日は土日で休日ってことになってるけど、緊急の呼び出しが来る可能性もあるから電話にはいつでも出られるようにしておいてね」
「はーい。って言っても、確かエプシロンが行動起こす時って電波妨害の魔法とか使ってくるんじゃなかったっけ?」

 七夏が確認を取ると、レンダが困り顔で頭を抱えた。

「それなんだよねぇ。今ちょうど協会の方でそれの対策中でねー。その対策が完了するのが予定的にちょうど二週間後くらいでさ」
「あー、だから二週間後に大規模な調査……」
「ほんと、厄介な魔法を作ってくれたものだよ。いくら僕たち精霊でも、瞬時に魔法を作れるわけじゃない……ましてや、同じ精霊が作った魔法への対策となるとね。どうしても時間がかかるんだ」

 レンダは、やれやれと肩をすくめた。

「でもまあ、いくら電波妨害って言っても効果範囲は必ず存在するから、その外にいる人同士なら連絡が取れる。必ずしも呼び出しが来ないってわけじゃないから、一応注意しててね」
「ほいほい。了解ー」

 そんなこんなで解散となり、七夏と紗代はそれぞれお疲れさまと口にして去っていく。
 栞里も軽く手を振り返し、いざ澪とともに帰ろうと思ったが、一つやり残したことを思い出した。

「栞里ちゃん? 帰らないの?」
「ん……ちょっとレンダと話がある。すぐ終わるから、外で待っててほしい」
「はーい。じゃあ、校門前で待ってるね」

 そう言うと、やはり普段通りの明るい顔で微笑んで、澪は部室を後にした。
 夢を見なければ、澪がとてつもなく重いものを抱えていることに、ずっと気づかなかったかもしれない。
 彼女自身、誰にも心配させまいとしているのだろう。
 一番苦しいのは澪のはずなのに、まるで自分から一人になるみたいに、いつだって気丈に振る舞っている。

「それで栞里、話ってなにかな。栞里はまだ魔法少女になって間もないし、なにか質問とか?」

 小首を傾げるレンダに向き直ると、栞里は制服の袖をめくり、魔力結晶が埋め込まれた腕輪を外した。

「いらない魔法がいくつかあるから、代わりに新しい魔法を入れてほしい」
「ありゃ……そういうの、まずはデフォルトの魔法に慣れてからの方がいいと思うけど……まあでも確かに、栞里の特異魔法のことを考えると、いらない魔法もいくつかあるか」

 栞里から腕輪を受け取ると、レンダは「どんな魔法がいいの?」と希望を聞く。
 昨日はまだ考えが固まっていなかったが、今はもう、どんな魔法が必要かのイメージは明確にできていた。

「今から聞くみたいな魔法がもしあったら、それを入れてほしい」

 そう前置きして、栞里はレンダに欲しい魔法の具体例を告げた。



   ✿   ✿   ✿   ✿



 栞里が昇降口から出て校門の方を見ると、栞里に気づいた澪が手を振っていた。

「おかえり栞里ちゃん。レンダちゃんとなに話してたの?」
「ん、ただいま。ちょっと魔法入れ替えてもらってた。あと、これ」
「……? これは?」

 栞里が澪に手渡したのは、クマ柄のお守りだ。

「レンダが渡し忘れたって」
「そうなんだ。精霊獣関係で最近物騒だもんね」

 澪と並んで、帰路を歩く。
 話題は自然と今日の魔法少女活動のことになっていった。

「栞里ちゃん、今日は紗代先輩と一緒だったよね? 紗代先輩、どうだった?」
「ん……よく私のことを見てて、気にかけてくれた」
「そっかー。紗代先輩ってすごく落ちついてて、ほんわかってしてて取っつきやすくて……なんていうか理想のお姉さんって感じでしょ? えへへ。実は憧れの先輩なんだ」

 栞里が見た夢によれば、澪は実際に妹がいるお姉ちゃんのようだったから、より一層憧れが強いのだろう。
 栞里は、かつて澪の身に起きたことについて、いつ話を切り出そうか迷っていたが、少なくともこんな人通りがある場所でする話ではないだろうと思い直し、一旦その思考は打ち切る。
 今は澪と他愛もない話を続けよう。

「栞里ちゃん。ちょっと寄って行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
「……? うん」

 今日は栞里と紗代のペアも、澪と七夏のペアもどちらもヘイトリッドには遭遇しなかったため、昨日より帰る時間は少し早い。
 夕暮れに染まり行く空を見上げる。
 近場なら寄り道しても暗くなる前には帰れるだろう。

「ありがとね。じゃあ、こっち来てー」

 栞里の自宅への道から外れ、澪の案内に従って進み始める。
 なにか買い物でもしていくのか。あるいは、澪の家に忘れ物でも取りに行くのか。
 そんなのんきな想像をしながらついていった先にたどりついた場所は、病院だった。

(ここは……)

 そこは栞里にとっても馴染み深い場所だ。
 母が亡くなる数ヶ月前まで毎日のごとく通っていた、母の病室があった病院である。

「ここはね、魔導協会が支援してる施設の一つなの。病院とか、孤児院とか……協会はそういう世界中のいろんな施設に支援してて、その代わりに魔法の存在の隠蔽とかに力を貸してもらってたりしてるんだって」

 澪の説明を聞きながら中に入っていく。
 病院についた頃から、澪がなにか怪我でもしてしまったか、それともどこか調子が悪いのかと栞里は心配していた。
 だけどそんな思考は、澪が受付で口を開いたタイミングで吹き飛んだ。

「父と母と、妹の面会に来ました」
「っ――」

 夢の記憶がよみがえる。普通の夢と違い、時間を経てもおぼろげになることのない、現実感が伴った不思議な夢。
 あれが澪の記憶の再現だとするのなら、澪以外の澪の家族は皆、精霊獣に襲われてしまっている。
 だが思い返してみれば確かに、夢の中の三人はあくまで気を失って倒れていただけで、命を落とした人間は一人もいなかった。
 今もまだ生きているのは自明だ。
 だけど精霊獣の被害にあった人たちは、確か……。
 栞里は澪の方を見るが、彼女は栞里をちらりと一瞥しただけで、なんの説明もしてくれない。

「栞里ちゃん。こっち」
「……」

 病院への道中はそれなりに話をしながら歩いていたが、今は互いに無言だった。
 栞里が見た夢のこと。澪の両親のこと。ここにつれてきた理由。
 聞きたいことは山ほどあったけれど、そのどれもが見境なく頭の中で混ざり合って、うまく言葉になってくれない。
 それに、その答えは急がずとも間もなくあちらからやってくるということも、栞里はなんとなく理解していた。

「ついたよ。お父さんは別部屋だけど……」

 澪と同じ凪沢の姓を持つ二人の名前が書かれた病室の前で立ち止まって、澪が栞里の方に振り返る。
 引き返すか、否か。そんなことを問いかけるような視線だった。
 栞里がそれを正面から見返すと、栞里の意を汲み取った澪は小さく頷いて、病室の戸を開ける。

「入って」

 先に入った澪の手招きに応じ、栞里も中に足を踏み入れた。
 二つあるベッドの片方には大人の女性が一人、そしてもう片方にはまだ一〇歳前後だろう小さな少女が横になって瞼を閉じ、眠っている。
 それだけなら普通の病室だったのだが、唯一異様だったのは、二人とも器具でベッドに拘束されていたことだ。
 二人のうち、小さな少女の方に澪が近づくと、物音に気がついたのか、少女がおぼろげに瞼を開けた。

「かほ。お姉ちゃんだよ。元気にしてた?」

 澪が微笑みながら声をかけてからしばらく、少女――かほは返事もせず、ぼーっとしていた。
 顔を右に向け、左に向け、それから澪に向けて。

「おーえぁー?」

 そんなことを、彼女は言った。
 呆然とする栞里をよそに、澪はかほに言葉をかけ続ける。

「ちゃんとご飯食べた?」
「いぅあー」
「看護師さんに迷惑かけてない?」
「まーう。う、う、うあーおー」
「……わたしのこと、覚えてる?」
「へあーぅ、おあーっ」

 頷くとも、首を横に振るともしない。
 ただ舌足らずの無感情な声が、病室にこだまする。
 まるで、生まれて間もない赤ん坊のようだった。
 精霊にとっての栄養。それは、人間の精神。記憶、思い出。
 かつてレンダが語った、精霊の正体が頭をよぎる。
 そうだ。精霊獣に襲われたということは、記憶を食われたことを意味する。
 たとえ体は生き残っていようとも、家族や友人との思い出も、努力し打ち込んだ経験も、当たり前のように使っていた言語さえ、全部忘れてしまうことを意味していた。

「……ぅ?」

 かほの声で目が覚めたのだろう。
 澪の母が横たわっているもう片方のベッドの方で呻き声が聞こえて、栞里と澪はそちらに視線を向けた。
 澪の母は初めこそ朦朧とした眼で天井を見上げていたが、突如目を見開いたかと思うと、これでもかというほど大きく口を開けた。

「ああぁああああああっ! うぅぁああああああっ!」

 ガシャガシャと拘束具を鳴らし、焦点の定まらない瞳をあちこちに向けて、口の端から涎が垂れることにも構わず、大声を上げる。
 栞里が目を丸くして固まっていると、澪はその横を通り過ぎて、自らの母に近づいていく。

「大丈夫だよ、お母さん。なんにも怖くないよ。怖くないから、ね」

 言いながら、澪は手を伸ばした。子どもをあやすように、頭を撫でる。
 澪の母はその一瞬、叫び声をやめた。
 声が届いたのだろうか。そう思いかけた次の瞬間、彼女は思い切り澪の手首に噛みついた。

「痛っ……!」
「澪!」

 栞里は即座に澪の母を澪から引き剥がして、痛々しく歯型がついた澪の手首に《回復》の特異魔法を使う。
 澪の母は、そんなものを気にも留めず、また叫び始めていた。

「ありがとう、栞里ちゃん」
「……澪……これは……」
「……そう。これが、精霊獣エプシロンに襲われた人たちの末路だよ」

 大の大人が、癇癪を起こした子どものように暴れている。そんな目の前の光景は誰がどう見ても異常だった。
 かほの方も、その叫び声を聞いて泣きわめき始めた。もう収拾はつけられそうにない。
 澪は慣れた様子で看護師を呼ぶと速やかに病室を退去して、廊下をしばらく歩いた後、誰もいないベンチに座った。

「……澪は、いつから気がついてたの? 私が澪の過去を知ったこと」

 長い沈黙を経て、最初に言葉を発したのは栞里の方だった。
 澪が気づいていたことは明白だ。そうでなければ、あんな様子の自分の家族を見せようだなんて思うはずがない。
 澪は苦笑して答えた。

「そんなの朝に出て帰ってきてからすぐに気がついたよ。だって栞里ちゃん、明らかに様子おかしかったんだもん」
「そう、だった?」
「どこに行ってたの、とか全然聞いてこないし。今日はずっと雰囲気暗かったし……授業中も上の空、は昨日もだったけど……」

 それにね、と澪は続ける。

「わたしも……夢、見たから。栞里ちゃんのお母さんが亡くなる、少し前の夢」
「……」

 互いを思い合う魔法少女が、互いが資格を得るに至った夢を見る。
 それが心の共鳴という現象だとすれば、栞里が澪の夢を見たように、澪が栞里の夢を見たこともまた、至極当然のことだ。
 栞里と違って澪は心の共鳴については知らないはずだが、それでも直感的に気がついたのだろう。
 栞里が同じように、澪の夢を見たことを。

「知られないようにずっと気を張ってたのに、夢でばれちゃうだなんて……魔法少女って不思議な存在だよね」
「……」
「栞里ちゃんは優しいから、きっとわたしを元気づけようと一所懸命悩んでくれてるんだろうなって、そう思ってた」

 ぽつぽつと澪は言葉を漏らしていく。

「だからね、申しわけないなぁ、って思ってたんだ。わたしなんかのことで気に病ませちゃって、申しわけないなぁ……って」
「……澪は、『なんか』なんかじゃない」

 わたしなんか。
 そんな風に自分のことを軽んじて考えてほしくなくて、そう口を挟んだ。
 けれど澪は栞里の言葉を受け入れるつもりはないようで、首を横に振る。

「わたしなんて、なんかでいいんだよ。わたしは栞里ちゃんとは、皆とは、違うから」
「違うって……」
「……栞里ちゃんは知らないだろうけど、特異魔法っていうのはね、その人の心のあり方を表したものなの」

 急に、魔法の話になる。
 だけどそこに澪が自分を卑下する理由の一端があるのだろうと察し、栞里は黙って話の続きを待った。

「その人がかつて望んだこと。その人が抱いた憧れ。強い思い。そういう心が形になったものが、特異魔法なの」

 そう言って、澪は自分の手首を見下ろす。
 そこはさきほど、自らの母親をなだめようとして噛みつかれた箇所だった。

「栞里ちゃんの特異魔法は、すごく優しいよね。これ以上ないくらい優しくて……綺麗な力」
「そんなこと……ない」
「ふふ。そんなことあるよ。栞里ちゃんは、ずっとずっと治してあげたかったんだよね? 毎日毎日、日を経るごとに、どんどん病状が悪化していくお母さんを……」

 わたしにはもったいないなぁ、なんて彼女は続ける。こんな綺麗な力を使われていいほどの人間じゃないのに、と。
 栞里はなにも言えず、押し黙ることしかできなかった。

「栞里ちゃんだけじゃない。皆が手を取り合えるような七夏先輩の《調和》も、誰かへの憧れが形になったみたいな紗代先輩の《模倣》も、わたしには眩しすぎるの」

 澪は不意に懐から十円玉を出すと、そのまま握りしめた。

「……どれもわたしの《破壊》とは大違いなんだもん」

 澪が次に手を開いた時、そこに十円玉は存在しなかった。
 代わりにあったのは、かつて十円玉だったわずかな黒い塵だけだ。

「《破壊》……それが澪の……」
「そう。栞里ちゃんとはまるで正反対で、誰かを傷つけて、壊すことしかできない……そんな心を持つ人間なんだよ、わたしは」

 澪はかつて妹のかほを守りたい一心で、包丁を手に精霊獣に挑みかかった。
 でも結局その刃は届かなかった。おそらくは、その精霊獣が行使した魔法に阻まれて。
 だからこそ、澪は望んだのだ。
 ただ、《破壊》を。
 もしあの日の自分に、あの精霊獣の魔法を破壊し、殺せるだけの力があれば――と。
 家族を元に戻すことではない。過去の事実を否定し、復讐のための力を得ることを澪は望んだ。望んでしまった。

「最初はね、お父さんやお母さん、かほの意識が戻ったって聞いた時、もしかしたらって気持ちがあったんだ」

 精霊獣に家族を襲われ、魔導協会に保護されて以来しばらくは、眠ったままの家族の病室を訪れて眺めるだけだった。
 大切なものを失ったような空虚感の奥に、まだどこかしら期待があったのだ。
 目が覚めたら、なんてことないように笑って迎えてくれて、またあの幸せに戻れるかもしれない。
 でもそんな期待は、目覚めの知らせを受けて病室を訪れた最初の日に崩れ去った。

『お母さん、目が覚めたの!?』

 病室の扉を開けると、母はベッドで横たわって天井を見上げていた。その目は確かに開いている。
 嬉しさに涙が溢れそうだった。なくしたものが戻ってくる気がした。
 だけど母に近づくと、澪はその異様さに気がついた。

『いぅー。うぅーあー』
『お母さん……?』
『あぅー』

 この頃はまだ拘束されていなかったものだから、澪の母は突然ごろごろと体を動かし始めたかと思うと、そのままベッドから転げ落ちた。
 澪は慌ててベッドに戻そうと近づいた。しかし澪の母は澪には目もくれず、まるで歩くことさえ忘れたみたいに四つん這いになって歩き始める。

『どう、したの……? お、お母、さ……』

 近くでもう一度声をかけてようやく澪のことに気づいたようで、澪の母が澪を見た。
 まだほんの少し、期待していた。
 自分の名前を呼んでくれるかもしれない。覚えてくれているかもしれない、と。
 ……だけど。

『おあーっ』
『ひっ』

 赤ん坊のようなつたない声を上げ、手を伸ばしてくる母の手を、澪は無意識に振り払っていた。
 澪の心が、こんなのは自分の母親などではないと拒絶した。
 そうしてその時、ようやく澪は理解した。
 もう澪以外の家族の誰一人として、今まで一緒に過ごした思い出を覚えていない。
 自分は、一人になったのだと。

「……ずっとずっと、消えてくれないの。お父さんやお母さん、かほのことを考えるだけで、どうしようもない怒りが湧き上がって、わたしの心を支配するの」

 ぎゅう、と。澪は胸の前で手を強く握りしめる。

「今回だってね……わたしは、栞里ちゃんを傷つけるためにここに来たんだよ」
「私を……傷つける?」
「わたしの家族の状態を見せれば、わたしを止めることを諦めてくれると思ったから」

 今までに見たことがない、怒りの感情をたたえた暗い表情を彼女は浮かべていた。
 栞里の前では、ずっとそれを隠してきたのだろう。
 でも本当はきっと、自分のすべてを奪ったエプシロンに対して、彼女はずっと怒っていた。

「栞里ちゃんは気づいてるんでしょ? わたしが朝に外出してた理由」
「……精霊獣エプシロンを探し出して、始末するため」

 澪は頷いて肯定する。

「もし見つけられても……たぶん、敵わない。精霊は魔法少女よりずっと強いらしいから。ましてや新米魔法少女のわたしなんかじゃ、絶対返り討ちだと思う」
「……」
「でもね。それでも、せずにはいられないの。お父さんやお母さん、かほと同じような末路になるんだとしても……やめられない」

 澪は、懇願するように栞里を見た。

「だから、栞里ちゃん……わたしのことは放っておいていい。救わなくていい……忘れてくれたっていいから。どうか……わたしのことは諦めて?」
「澪……」
「わたしの、一生のお願い」

 姿勢を正し、澪は真摯に頭を下げた。
 栞里は、澪が今、どんな気持ちなのかを想像してみる。
 澪の家族の状態に、自分の母親を当てはめて、想像してみる。
 ……痛みで胸が張り裂けそうだった。

(……どうすれば……)

 一番苦しいのは自分のはずなのに。一番悲しいのは自分のはずなのに。
 忘れてくれたっていいだなんて。
 そうされることの痛みを誰よりも知っているはずなのに、そんなことを自分から言ってしまえるくらい傷つきながら進もうとしている彼女を、どうすれば癒やしてあげられるだろう。
 誰にもすがろうとしない彼女に、辛い時は目一杯甘えていいのだと、どうすれば教えてあげられるのだろう。

(お母さん……)

 ――一つ目は、言葉を大切にすること。言葉は力を持つから。
 ――あなたの言葉が誰かを救うこともあれば、きっと、誰かを傷つけることもある。その責任は他の誰でもない、あなたのものなの。
 母から言われた、大切にしてほしいと言われた三つのことのうちの一つ。
 どんな言葉なら澪に気持ちを伝えられる?
 どんな言葉なら……。

「……澪」

 まだ、わからない。まだ見つからない。
 それでも少なくとも、今の彼女をこのままにしておくわけにはいかない。
 その一心で栞里は口を開いた。

「澪は一つ、勘違いしてる」
「……勘違い?」
「私は澪を止めたいわけじゃない。澪の力になりたいと思って、ここにいる」
「えっと、それって……?」
「つまり、澪の精霊獣探しを手伝いたいってこと」

 そう言うと、澪は見るからに狼狽え始めた。

「な、なに言ってるの栞里ちゃん!? そんな、き、危険だよっ? 下手したら栞里ちゃんも……!」
「危険云々は澪には言われたくない」
「そ、それは……でもっ」
「どうして慌てるの? 澪は、私を傷つけるためにここに連れてきたんでしょ?」
「ちがっ……わない、けどっ……これはわたしの問題で……!」

 乱心した栞里をどうにか止めようと躍起になっている澪を見て、ああ、と栞里は気づいた。
 結局のところ、澪はただ、栞里を巻き込みたくないだけなのだ。
 栞里を傷つけるためだなんて彼女は言っていたけれど。
 きっと彼女は、わざわざそうなるように仕向けた自分を誰よりも嫌って、栞里が傷つく以上に、自分で自分の心を傷つける。
 澪は嘘つきだ。
 嘘をつくにはいささか純粋すぎて、不器用な嘘つき。

「ねえ、澪」

 一度言い始めたら、次々に言葉が浮かんでくる。
 言いたいことがたくさんあった。伝えたいことがたくさんあった。

「お金は……とても大事だから。人間社会において九割以上のものはお金で買える」
「え? う、うん」

 急になんの話? と、澪は目をぱちくりとさせる。

「私が作った卵焼き、おいしかった?」
「おいしかった……よ?」
「ちょっとしたことで澪とおかえりとただいまって言い合うの、実は私結構気に入ってる」
「わたしもそれは悪い気はしないかなって思ってた、けど……」
「あのLEINっていう謎の通話アプリももっと使って澪と話してみたい」
「謎ではないよ……?」
「勉強会も楽しかった。あの疑いようもなくコアラのぬいぐるみも、澪に気に入ってもらえてたみたいで嬉しかった」
「えっと……栞里ちゃん……?」

 栞里がなにを言いたいのか掴めないようで、澪は困惑している。
 けれど栞里が言いたいことなど、本当に簡単なことだ。

「澪。澪は私を巻き込まないように、私を遠ざけようとしてる。わざと嫌われるようなことをしてまで。違う?」
「……それは……」
「自惚れかもしれないけど……それは澪が、私のことを大切だって思ってくれてるからだって、私は感じてる」

 大切だから、失いたくない。父や母、妹と同じようになってほしくない。
 澪は栞里のことを、そう思ってくれている。
 でも澪はまだ気づいていない。それは結局、逆も同じことなのだ。
 夢を見たということは、お互いがお互いを思っているということで、それはつまり、栞里もまた澪のことを大切に思っているということで。
 同じように、失いたくないと思っている。

「澪。私は澪がいなくなったら、悲しい。澪が私のことを忘れたら、もっといっぱい悲しい」
「……栞里ちゃん……」
「私がいなくなったら、きっと澪がたくさん悲しんでくれるように、私も澪と同じ気持ちになる」

 澪は、辛そうだった。
 どうかそんなこと言わないでほしい。お願いだから、もう、自分なんかに構わないでほしい。
 そう懇願するような、悲しい顔だ。
 でも栞里は、澪にそんな顔をしてほしいわけじゃなかった。
 だからまだ、伝えなくてはならない。
 もしかすれば彼女がもっと辛く、悲しい思いを味わう結末に終わるだけかもしれなくても、伝えなくてはならない。

「私は澪と出会ってから過ごした時間の全部を、大切だって思ってる。でも……それだけじゃない。私はまだ、もっと先のことを夢見てる」
「先のこと……?」
「うん。私はもっと澪と一緒にいたい。もっといっぱい話して、遊んで、それから……」

 照れくさそうに、それでいて嬉しそうに、栞里は言った。

「――いつか澪と、本当のパートナーになりたい」

 胸の前に手を当てて、心からの好意と感謝を込めて、栞里は澪に向かって笑いかけた。
 ――パートナーとして、栞里ちゃんの助けになりたいの。
 思い出す。
 澪がその言葉をかけてくれた時に感じた、かけがえのない気持ちを。
 暗い深海の底にいたような心の奥に、ぽうっと明かりが灯って、ドキドキと胸が高鳴るような、不思議な感覚。
 それを思い返しさえすれば、栞里はもう、どんな時だって笑えるような気さえした。

(そうだ……これが、私が澪に伝えたかったもの……)

 これが母を亡くし、心に穴が空いたように空虚に過ごしていた栞里が、澪からもらったものだ。
 知ってほしかった。たったの数日だとしても、一緒に過ごしたその短い時間を、栞里がどれだけ大事に思っているのか。愛しているのか。
 もしこれでも思いが届かず、「そんなのどうでもいい」と拒絶して破滅の道を歩むようなら、もう栞里には澪を止められない。
 だからせめて、さきほど澪が栞里に願ったように、栞里もまた澪に願ってみる。
 もしも澪が同じ気持ちなら、これから先もその時間を一緒に紡いでほしい。
 そう、強く願う。

「…………ずるい……」

 長い沈黙を経て返ってきた言葉は、そんな三文字だ。
 はっと栞里が澪の顔を見てみれば、彼女は泣いていた。
 悲しさも嬉しさも、過去の思いも未来への思いも、全部が全部ごちゃまぜになったような顔で、大粒の雫を大量に瞳から流して泣いている。
 そんな反応をされるとは露ほども思っていなかった栞里は、思わずその涙を拭おうと澪の顔に手を伸ばした。
 けれど澪はそんな栞里の手を置き去りにして、栞里の胸に飛び込む。

「み、澪?」

 背中に手を回し、これでもかというくらい強く抱きしめて、戸惑う栞里を離そうとしない。

「わたしは……先のことなんて、考えたくなかったのに……なんで……なんでそんなずるいこと言うの……」

 終わるつもりだった。
 もう一度精霊獣に挑んで、それで終わりにするつもりだった。
 生き残るつもりなんて、本当は最初からなかったんだ。
 父や母、妹と同じ末路をたどるなら、それでもいいと諦めていた。
 始まったばかりの高校生活も、魔法少女としての日々も、栞里との語らいも。
 すべてを奪った精霊獣を見つけるまでの、最期の思い出作りのつもりだったのに。
 なのに。
 なのにどうして、そんなわたしに未来の話なんてするのか。

「ひどいよ、栞里ちゃん……ひどい……」
「……ごめんね」

 違う、違う、違う。
 澪は何度も首を横に振った。
 謝ってほしいわけじゃない。そうしなきゃいけないのはむしろ、澪の方なのだ。
 だから、答えなければ、と思った。
 栞里の思いに、願いに、答えなければ。

「……わたしも……」

 澪は、その続きを言ってしまえば、今までの自分の強がりのすべてが容易く崩れてしまうことを知っていた。
 そのことをずっと拒絶していたはずだったのに。それだけは言ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせていたのに。
 一度言い始めてしまったら、それは心の底からの本音のように、するりとこぼれ落ちた。

「わたしも、もっと皆と……栞里ちゃんといたい……いたいよ。栞里ちゃんと……いつの日か、正式なパートナーになりたい……」

 望んでしまった。終わりにするはずだった未来を。
 ありえるかもしれない未来を夢想して、自分もそこに行きたいと、思ってしまった。
 もう、堪えるのは無理だった。
 ずっと一人で抱えて隠していた痛みが溢れ出す。誰にも見せずにいた涙が堰を切って止まらない。

「……お父、さん……お母さん……ぅ……かほぉ……」

 栞里の胸に顔を埋めたまま、澪は泣きわめいた。
 栞里はそんな澪の背中に手を回すと、微笑みながら、もう片方の手で頭を撫でる。

「……澪。私も澪を手伝うよ。一緒にエプシロンを見つけ出して、私たちの手で、全部終わりにしよう」
「……うん」
「負ける気なんてない。絶対に勝って、私も澪も、その先を一緒に生きるの」
「……うん」

 栞里と澪がしようとしていることを知ったら、七夏や紗代、レンダはなにがなんでも止めようとするだろう。
 これはそれほどまでに危険なことだ。
 だけど、やめるつもりは毛頭なかった。
 これ以上、誰も悲しむことがないように。
 そして澪と同じ未来を生きるために、必要なことだ。
 必ず勝つ。そして、二人で生き残る。

「澪も、約束だよ」
「…………う、ん」

 涙声で言葉を支えさせながらも、確かに澪はそう答えた。
 澪が泣き止むまで、栞里は澪をよしよしと撫で続ける。
 澪が栞里を拒絶しようとすることは、もうなかった。