ギシリ、と小さな物音で目が覚めて、栞里は薄っすらと瞼を開けた。

(……み、お……?)

 薄目の向こうに見える彼女は、寝る時に着ていたようなパジャマではなくて、制服を身につけている。
 栞里を起こさないようにするためだろう。できる限り足音を立てないよう、静かに扉を開けて、澪は部屋を出ていく。
 時計を見れば、まだ朝の五時で、外も薄暗かった。
 学校は八時にでも家を出れば間に合うくらいなので、行くには少し早すぎる。
 こんな時間に、いったいなにをしに行くのか。
 声をかけようかとも思ったが、ほんの一瞬見えた彼女の横顔が、なにかとてつもなく重いものを抱えているように思えて、言葉が喉につっかえた。
 そして同時に、直前に見たおかしな夢(・・・・・)が頭をよぎる。
 結局栞里は澪を呼び止めることはできず、再び眠ることもできず、横になったまま、ただ思考だけがぐるぐると回っていた。



   ✿   ✿   ✿   ✿



 昨日は七夏と校内を見回ったが、今日は紗代とともに外の見回りだ。
 放課後になると校門を出て、栞里は紗代から見回りの基本ルートを学びながら、二人で街を歩く。

「本当は、こんなに頻繁に見回りなんてやらなくてもいいのだけどね」

 日があまり差し込まない裏通りを歩きながら、紗代は肩をすくめてみせた。

「日を置いて、週に二回くらいでいいの。二日連続で探したって見つからないことが多いし、せいぜい見つかってもネズミくらいのごくごく小さなヘイトリッドだもの。そんなに小さいと、変に逃げ回られて逆に退治しづらいしね……」
「……」
「でもレンダちゃんも言ってた通り、今は大規模な調査に向けての準備期間だから、いつも以上に念入りに退治しておかないといけないの。まだ魔法に慣れてない栞里ちゃんには負担をかけるけど……」
「…………」
「……栞里ちゃん?」

 心配そうに紗代に顔を覗き込まれて、栞里ははっとした。

「ご、ごめん。ぼーっとしてた。話は聞いてたから……えっと……週に二回は大規模なネズミの準備期間だから、二日連続で逃げ回るレンダをいつも以上に念入りに退治しなきゃいけない……んだっけ?」
「それじゃあレンダちゃんがすっごく可哀想ね……」

 どうやら間違っていたらしい。
 栞里はバツが悪そうに顔を背けた。

「……栞里ちゃん、ちょっとじっとしててくれる?」

 紗代はそう言うと、栞里の両頬を包み込み、自分の額を栞里のそれにくっつけた。
 目をぱちぱちと瞬かせる栞里の目の前で、しばらく瞼を瞑って集中していた様子の紗代だったが、ほどなく栞里から顔を離す。

「熱はないみたい。よかったわ。もしかしたら、体調が悪いのに連れ回しちゃってたのかと思ってたから」
「むぅ……紛らわしくてごめんなさい」
「いいのよ。私、これでも先輩だもの。後輩の面倒を見るのは先輩の勤め。七夏ちゃんも同じようなこと言ってなかった?」
「……言ってた」
「でしょう? ふふっ、そういうことよ。だから気にしないで」

 七夏も同じような言動はしていたが、紗代は彼女と違い、普段から纏う雰囲気が大人っぽい。体つきも出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ女性らしいものだ。
 年上らしい魅力溢れた振る舞いに栞里は若干感嘆としつつ、こくんと大人しく頷いた。

「でも……熱がないんだったら、なにか困り事とか悩み事でもあるのかしら?」

 図星だったので、栞里はビクンッと肩を跳ねさせる。

「今日、最初に会った時からずっと上の空って感じだったもの。それもなんだか、少し落ち込んでいるような感じで……言いたくないなら言わなくてもいいけれど……」

 まるで自分のことのように眉尻を下げて悲しむような紗代を目にして、栞里は今朝の出来事を思い返した。
 まだ外が暗い時間に一人で外出していた澪。
 もっとも、その二時間後に彼女は何事もなく帰ってきたけれど……。
 今、澪が栞里の家に居候しているのは、常に二人で行動して危険を減らすことが目的であるはずだ。
 それなのに澪は栞里に一言も告げず、一人で外に出た。
 ……澪はきっとなにか、栞里に隠し事をしている。
 そうでなければ、魔導協会の指示に逆らい、一人で危険を冒してまで外に出たりしないだろう。
 しかし隠し事とは、隠したいから、知られたくないから隠し事と呼ぶのである。
 それを、栞里が勝手に紗代に相談していいものだろうか。
 そんな風に返事に詰まってしまう栞里を見て、紗代は答えてもらえなかったことに少し寂しそうに肩をすくめつつも、「ちょっと休憩しましょうか」と近くの石段を指し示した。
 紗代が先に座り、その横に促されるまま腰を下ろすと、紗代は少し悩むように腕を組んだ。

「んー……ねえ、栞里ちゃん。魔法少女になるためには、その子に特別な資格が必要ってレンダちゃんが言ってたの、覚えてるかしら?」

 栞里は首肯する。
 栞里のように未成年で、なおかつ特別な資格を持つ少女。それが魔法少女になるための条件だったはずだ。

「それはね、素質でも資質でもなくて、あくまで資格なの」
「あくまで資格?」
「そう。素質や資質は生まれつきの能力のことを指すけれど、資格はそうじゃないでしょう?」

 あえて素質や資質という単語を使っていない。
 そこに意味があると紗代は言う。

「わかるかしら。魔法少女になるための資格というものはね、先天的にではなくて、後天的に備わる類のものなの」
「後天的に……」
「私や七夏ちゃんは中学に通っていた頃に魔法少女に勧誘されたわ。その時にはすでに資格が備わっていて、それを見初められたから。でも、あなたと澪ちゃんが誘われたのは高校に上がった後。あるいは、その直前に」

 その意味がわかる? と、指を一つ立て、わかりきった答えを紗代は問いかけた。

「……私と澪に資格が備わったのは、まだ最近の出来事だってこと?」
「ご明答」

 立てていた指をくるくると回し、紗代はその指先を自身の目に向ける。

「もちろん、精霊の目が常にこの街の人たち全員に行き渡ってるってわけじゃないから、多少のズレはあるけれどね」
「……魔法少女になるための資格って、いったいどういうものなの? なにがきっかけで、そんなものが私たちに備わったの?」

 先天的にではなく、後天的に備わるもの。
 だとすれば、なにかそれを得るための条件があるはずである。
 その条件とは、いったいなんなのか。
 ここまでもったいぶられたなら、聞かずにはいられない。

「……」

 紗代は一旦沈黙し、瞼を閉じ、間もなくして再び口を開いた。

「その思想や心のあり方に大きな変革をもたらすような出来事を経験すること……それが、魔法少女の資格を得るための条件よ」
「大きな変革?」
「たとえば、そうね……大切だった人が亡くなったり、とかかしら」
「……」

 そう言われて栞里が思い出したのは、まだほんの数ヶ月前、母が病気で亡くなった時のことだった。
 毎日のように病院に通ったところでなにができるわけでもなく、母が亡くなる寸前まで、ただ見ていることしかできなかった。

「もちろん、資格を得るに至るまでどれだけの刺激が必要かには個人差はあるわ。人によっては、ちょっとした出会いや経験でも開花し得る。でもその条件さえ満たせば、心が不安定な十代以下の女の子なら誰しもが資格を手にできるとされているの」
「……なるほど」
「栞里ちゃんは……なにか、心当たりがあるのよね?」

 栞里は自分が今どんな表情をしているかわからなかったが、紗代はなにか察したように、辛いことを思い出させてごめんね、と申しわけなさそうに微笑んだ。

(紗代は……どうしてこんな話、私にしたんだろう)

 栞里がなにか悩んでいたり、落ち込んでいたりしていることを察して気にしてくれているのは、わかっていた。
 でもそのことと、今のこの魔法少女の資格の話になんの関係があるのか。栞里にはまだ、その繋がりが掴めなかった。
 もしかしたら単に雑談のつもりだったのかもしれないけれど、どうにも栞里には、紗代がこのタイミングでそんな他愛もない話をしてくるようなのんきな女性には思えなかった。

「……栞里ちゃん」

 さきほどまでより力が入った確かな声音に促されるように顔を上げると、彼女は真剣な表情で栞里をまっすぐに見つめていた。

「実を言うとね。私と七夏ちゃんは、あなたと澪ちゃんの経歴を資料で把握してるの。だからあなたが抱えている痛みも……澪ちゃんが抱えている苦しみも、私たちは第三者として知っている」
「澪の苦しみ……?」
「そう。栞里ちゃんは、なにか夢を見なかった? たとえば、そう。悲痛に染まった、後悔ばかりが残るような、暗く冷たい夢……」
「……」

 心当たりはあった。
 そうだ。澪が一人で出て行ったことも、栞里が悩んでいる要素の一つでもある。
 だけど一番は、その夢であった。
 なんてことのない普通の中学生だった少女が、ある日突然光る瞳の化け物に――精霊獣にすべてを奪われる、そんな夢だ。
 守りたかったものをなに一つとして守れず、自分だけが生き残ってしまった夢。
 視点は完全にその少女のものだったから、それが誰の記憶なのかは正確にはわからなかった。
 けれど今日の朝、澪が出ていく時に見せた最後の横顔が、その夢の少女の思いと重なってしかたがなかった。
 だからこそ栞里は出ていく澪に声をかけることもできず、帰ってきた彼女に事情も理由も聞くことができずにいたのだ。

「……魔法少女の間では、密かに語られてるこんな話があるわ」

 紗代は栞里から視線を外し、遠くの空を眺める。

「互いを思い合う魔法少女がそばで眠りについた時、お互いが資格を得るに至った夢を見る」
「それは……」
「私たちはそれを心の共鳴と呼んでいるわ。栞里ちゃん。あなたが見たその夢は、本当にあったことよ」

 紗代はどうやら初めから、栞里の様子がおかしい原因におおよその検討がついていたようだ。
 澪の過去の出来事と、心の共鳴という現象を知った上で、栞里と澪の二人が同じ家で寝食をともにした翌日、熱はなく体調に問題ない栞里の様子がおかしかった。
 そうなれば確かに、なにがあったのかの答えなど自ずと導かれる。

「……とは言え、あなたと澪ちゃんの昔のことを多少知ってると言っても、私も七夏ちゃんも、しょせんは無関係の第三者」

 紗代はふるふると首を横に振る。

「そんな私たちがどれだけ励まそうとしようとしたって、そんなもの、上から目線の押しつけがましい自己満足にしかならない。だからずっと知らないふりをして黙ってたの……ごめんね?」
「それは別にいい、けど……」

 無関係の第三者。どれだけ励まそうとしても、しょせんは自己満足。
 その言葉が栞里の心に重くのしかかる。
 澪を元気づけたい。その悲しみを、ほんの少しでも和らげてあげたい。
 今、抱いているこの思いも……そうなのだろうか。
 結局は自己満足に過ぎず、澪には届かない。そんなものなのだろうか。
 そんなことを考えていると、ぽんっ、と。不意に栞里の頭の上に手が置かれる。
 紗代の手だ。
 突然のことに目をぱちくりとさせる栞里に、紗代はくすりと笑みを漏らす。

「七夏ちゃんから聞いたの。栞里ちゃんはたぶん、気に入った人の頭を撫でる癖があるんだって」
「私にそんな癖が……」
「自覚なかったのね」

 紗代は優しい手つきで手を動かしていく。

「きっとそれは、栞里ちゃんが知っているからなのよね。その温もりの大切さを。いつか誰かにこうして頭を撫でてもらうことが、栞里ちゃんは大好きだったのね」
「……」
「そんな辛い顔しなくたって大丈夫。あなたの思いは、きっと澪ちゃんに伝わるから」

 心でも読めるのかというくらい、落ち込んだ栞里のためにかけてくれる言葉の数々は的確だった。

「さっきも言ったでしょ? 互いを思い合う魔法少女が……って。あなたが澪ちゃんをそうやって思っているように、澪ちゃんもまた、あなたを思っている」
「澪が……私を?」
「そう。あなたの力になりたい。助けになりたい。そんな風に思っている」
「あ……」

 それはもう、澪の口からとっくに直接聞いていた言葉だった。

「栞里ちゃん。あなたは私や七夏ちゃんとは違うわ。澪ちゃんにとって、あなたは第三者なんかじゃない。夢を見たっていうのはね……そういうこと」
「紗代……」
「だから自分を信じて? 栞里ちゃん自身が、やるべきだと思ったことを貫くの。それが一番良い未来に繋がってるはずだって、私は思うわ」

 なんて言うと、紗代は朗らかに微笑んだ。
 ……胸の内がぽかぽかと温かい。
 紗代はさきほど、自分たちはしょせんは第三者だと言った。自分たちがなにを言っても、自己満足に過ぎないと。
 それでも彼女たちは、ずっと栞里と澪のことを気にかけてくれていたのだろう。
 過去の出来事は変えられないのだとしても、今日は、明日は、笑えるようにと。

「紗代」
「んー? なにかしら」
「ありがとう」
「ふふっ。ええ。ほんのちょっとでも力になれたのなら、よかったわ」

 澪にどんな言葉をかけられるかは、まだわからない。
 もしかしたら届かないかもしれないし、拒絶されるかもしれない。
 だとしても、彼女を今のまま一人きりにさせてはいけないのだと栞里は思う。
 たとえその過程が異なっていようとも、一人になることを寂しいと感じる気持ちは、同じはずだと思うから。