「栞里ちゃん。わたしにもなにか手伝えることないかな」
軽く家の中を案内してもらった後、居間に荷物を置いた澪は、冷蔵庫の中を見て思案に耽っていた栞里へ近づいていく。
「澪はお客さんだから、ゆっくりしててくれて大丈夫」
「お客さんじゃないよ。これからしばらくお世話になるのはわたしの方なんだから」
「む。でも」
「いわば今のわたしは居候……だと、ちょっと味気ないかな……」
良いこと思いついた、という風に澪は人差し指を立てた。
「えへへ。今のわたしは、栞里ちゃんの家族だよ」
「家族?」
「うん。ただの居候が図々しいかもしれないけど……わたしは栞里ちゃんの家族がいい」
だからね、と澪は栞里の手を取った。
「家族なら栞里ちゃん一人に任せるのは違うと思うの。わたしも自分にできることをしたい」
「そっか……わかった。澪は本当にいい子だね」
「そう、かな? でも、子って……わたしは栞里ちゃんと同い年だよ」
確かに、体型はちょっと子どもっぽいかもしれないけど。
そんな風に、むーっ、と不満げに頬を膨らませた澪の頭に、すっと栞里の手が伸びた。
そして当然のように撫でる。
澪はこれを今までも何度かやられている。だからきっとこれは栞里なりの好感の示し方なのだろうと、なんとなくはわかっている。
けれど今だけは、なんだか年が離れた子どもとして見られているみたいで、ちょっと納得がいかなかった。
だから澪は必死に背伸びをして、自分より背の高い栞里の頭に目がけて手を伸ばした。
「んー……! んーっ……!」
「……なにしてるの?」
「わ、わたしも栞里ちゃんと同じことを……! よ、よしよし、よしよしー……!」
(……七夏にも同じことされたっけ。でも……)
七夏の時は事前にしゃがむように言われたので背が低い七夏でも普通に届いていたが、今の栞里は普通に立っているので、七夏よりもさらに小さい澪では、精一杯に手を伸ばしても全然届いていないようだった。
必然的にすぐそばで澪が背伸びしている姿を目にすることになって、あんまりに必死で頑張っているものだから、なんだか応援したいような気持ちになってくる。
「……う、うぅ……そ、そんな微笑ましいものを見るみたいな目で見ないでー!」
栞里の視線に気づいた澪は、顔をゆでダコみたいに真っ赤にして叫ぶと、膝を抱えてうずくまった。
澪を励ますため、また頭を撫でようとした栞里だったが、今の澪には逆効果だろうと直前で思い直し、手を引っ込める。
ならばどうすればいいのだろうと悩んで、思い浮かんだのは母の教えだ。
言葉を大切にすること。栞里のために頑張ろうとしてくれた彼女に言うべき言葉はすぐに見つかった。
「澪。ありがとうね」
「……うん」
しぼんだように小さな返事だったが、栞里はそれで満足した。
澪から視線を外し、作るものも決まったので、冷蔵庫の中に手を伸ばす。
(……ずるいなぁ、もう)
未だ熱が残る頬を撫でながら、澪は心の中で嘆息した。
栞里本人は気づいていないだろうけれど、ありがとうとお礼を言った時、彼女はかすかに笑っていた。
心のまま、精一杯の感謝と愛情を伝えるように。
そんなものを見せられたら、文句を言う気も失せてしまうというものだった。
「澪。これ」
いつまでもうずくまっているわけにもいかない。
澪が立ち上がると、栞里からエプロンを手渡される。
「制服に汚れがつくといけないから。それとも、制服から着替えてくる?」
「ううん。このままで大丈夫だよ。ありがとう、栞里ちゃん」
桃色のラインが可愛らしい、手作りと思しきエプロンだ。
一方で栞里が身につけているのも、藍色のラインが入った、同じく手作りであろうエプロンである。
(……どっちも使い古した感じ……?)
片方が使えなくなったから、もう片方を使ったという風ではない。
どちらも同じように使われていると感じた。
(栞里ちゃん、私がしばらく泊まるってことになった時も誰にも連絡してなかったし、てっきり一人暮らしなのかなって思ってたけど……違うのかな)
もしも他に誰か家族と暮らしているのなら、しばらくお世話になりますと挨拶をしなくてはいけない。
栞里がなにも言わないということは、きっと澪が泊まることに反対するような人ではないのだろうけれど……。
「澪。これの皮剥いてもらってもいい?」
「あ、うん」
台所には包丁なども置いてあるし、あんまり上の空でいると怪我をしてしまいかねない。
一旦考え事は保留として、澪はひとまず栞里の手伝いに集中することにした。
栞里はずいぶんと作り慣れているようで、効率よく調理を進めていく。
澪もたまに母の手伝いをしたり、母の帰りが遅い時は代わりに簡単なものを自分で作ることはあるけれど、栞里の慣れた手際は母のそれと同じだった。
いつもこうして一人で作っているのだろうか。作業に迷いがない。
(栞里ちゃん、授業も中学までの範囲なら全部覚えてるって言ってたし。勉強ができて、料理もできて、スタイルもよくて……たぶんだけど運動もできるよね? うーん……わたしとは比べ物にならないハイスペックだ……)
ちょっと変なとこもあるけど、と最後に付け足さざるを得ない部分も多々あるが。
「むー……栞里ちゃんって……なにか苦手なこととかあるの?」
「苦手なこと?」
「栞里ちゃん、わたしの中だとどんなことでもそつなくこなせる人って感じの印象だから。苦手なことってあるのかなーって」
「苦手なこと……んー……」
栞里は首を縦にも横にも振らず、曖昧なまま答える。
「苦手だなって思ったことは、苦手じゃなくなるまで続けるだけだから」
「わっ。努力できる人の言葉だなぁ……」
「でもそういう意味で言えば、魔法少女としての活動はまだ、苦手の部類に入るんだと思う」
いつもとは少し低いトーンで、苦い思い出でも思い返すように、栞里は言った。
今、栞里がなにを思っているのか、気にしているのか。
澪だからこそ、その内容には察しがつく。
「栞里ちゃんが言ってるのって、もしかして、今日の魔法少女活動のこと?」
「うん」
「やっぱり……なんていうか、すごかったね。先輩たち」
栞里はこくりと頷いて同意する。
澪もまた、今日の魔法少女としての初活動を頭の中で振り返ってみた。
「えへへ……わたし、ほとんどなにもできなかったや。ただ沙代先輩の後ろをついて行ってただけで……ヘイトリッドを見つけた時だって、子犬くらいのちっちゃい相手だったのに、庇われてばっかりだった」
「澪も?」
「うん。やっぱり栞里ちゃんも?」
「うん」
知らないことだらけ、初めて体験することだらけだったからしかたがなかったものの、栞里は結局のところ、七夏におんぶに抱っこだった。
ヘイトリッドを見つけるまでの道程はもちろんだが、遭遇した時だってそうだ。
きっと栞里はあの時、戦わせて《《もらっていた》》。
七夏は初め、自分の顔に目がけてヘイトリッドが飛びかかってきた時、攻撃を躱すとともに、ヘイトリッドに蹴りを入れていた。
だけどもしもあの時、蹴りではなく手に持った剣を振るっていれば、それだけで戦闘が終わっていただろう。
もちろん、飛びかかってきたのは突然のことだったし、蹴りを入れるのと剣を振るうのとでは体勢がまったく違うから、蹴ることと同じようにはできなかったかもしれない。
だけど栞里には、七夏にはそれだけのことができた、と。そんな確信があった。
七夏はあの時、蹴ると同時に自身の魔力をヘイトリッドに紛れ込ませて、いつでも《調和》を発動できる状況を作った。
不測の事態が起きようと即座に対処できるように仕組んだ上で、栞里の方へ蹴り飛ばし、わざとヘイトリッドと相対させたのである。栞里に経験を積ませるために。
実際は栞里などいなくとも、あれくらいのヘイトリッド、七夏一人でも簡単に退治できたはずだ。
「七夏は、私のことをパートナーだって言ってくれた。でもだからこそ……より一層情けなかった」
「少しでも先輩たちの役に立ちたかったね」
「……きっとパートナーっていうのは、お互いに助け合う存在だと思うから。もっと強くなりたい。いつか、七夏のパートナーを名乗っても恥ずかしくなくなるくらいに」
初めは魔法少女なんて存在、信じてもいなかった。
だけど今、湧き上がるその気持ちに、嘘偽りなど欠片もなかった。
「助け合う存在、かぁ……」
栞里の言葉を反芻した澪は、ふと、栞里の横顔をじっと眺め始めた。
それから一人でうんうんと頷いたり、わずかに笑ったり。
どうしたの? と栞里が首を傾げて問いかけてみると、澪は自らの両の手のひらをそっと合わせて、かすかに上ずった楽しげな口調で言った。
「ねぇ、栞里ちゃん。後で勉強会してみない?」
「勉強会?」
「うん。魔法少女の勉強会。レンダちゃんや先輩たちに教わったこととかを振り返ってみたりとかしたいなーって」
「ん、なるほど」
「それにね。わたし、栞里ちゃんよりちょっとだけ早く魔法少女になってるから、栞里ちゃんが知らないことをちょっとは知ってると思うの。それも教えてあげられたらな、って」
「いいの?」
「うん。パートナーはお互いに助け合う存在、なんだよね? レンダちゃんが言ってなかった? いずれはわたしと栞里ちゃんでパートナーを組んでもらうって」
「あ……そういえば言ってた」
「でしょ? だからわたしね……」
照れくさそうに、それでいて嬉しそうに、彼女は言った。
「パートナーとして、栞里ちゃんの助けになりたいの」
蕾が花開くかのような、いじらしく、可愛らしい微笑みだった。
打算など欠片もない、純粋な好意のみが織りなすその鮮やかな笑顔に、栞里はつかの間、目を奪われる。
栞里は自分があまり笑わない方だと自覚しているし、人付き合いも苦手な方だ。
こんな風に誰かから笑いかけられたのは、果たしていつぶりだっただろうか。
……いや。
もしかしたら、いつぶりというよりも。
……初めて、だったかもしれない。
「……栞里ちゃん?」
返事が来ないことを不思議に思ったのか、こてんと小首を傾げて、澪は栞里の顔を覗き込んだ。
それは本当になんてことのない、何気ない仕草だったが、ぼーっとしてしまっていた栞里は、ビクッと肩を跳ねさせてしまう。
そのせいで、ちょうど手に持っていた包丁を握る力が緩んで、その刃が指に落ちた。
「いっ――!」
「あっ! だ、大丈夫栞里ちゃんっ!?」
だいぶ深く切ってしまったようだ。
血が次々溢れ出てきて、まるで止まる気配がない。
「ばっ、絆創膏っ、絆創膏ー……じゃなくて、まずは消毒……? きゅ、救急箱は……!」
「澪、大丈夫……そんなに慌てなくても」
「で、でもこれ、たぶん骨まで……」
「大丈夫」
それは強がりでもなんでもなく、きちんとした根拠に基づいた返答だった。
栞里は、自分の中の魔力の存在を意識した。
魔法少女だけが使えるという、特異魔法を自分自身に行使する。
「全然大丈夫、じゃ……え……あれ? 怪我……なくなって……?」
瞬きする間に、栞里の傷は初めからなかったかのように塞がっていた。
突然の現象に理解が追いつかないように、澪は口を半開きにしている。
もしかして逆の手だった? と、澪が栞里のもう片方の手も確認したが、当然ながらそちらにも傷はない。
「だから言ったはず。大丈夫、って」
「……あっ。もしかして今の、栞里ちゃんの……?」
「そう。私の特異魔法」
「そっか……《回復》……それが栞里ちゃんの魔法……」
かつて七夏が天秤ばかりを使って《調和》を見せてくれたように、特異魔法は変身せずとも使うことができる。
無論、その出力や精度は変身している時と比べればだいぶ劣るが、包丁で誤って切ってしまった程度の切り傷であれば問題なく治すことが可能だった。
「生き物だけじゃなくて、壊れた物とかも元に戻せる。だから今補助具に入ってる修復の魔法とかはいらないかなって思ってる。近いうちに新しい魔法に変えてもらうつもり」
「確かに聞く限りだと、栞里ちゃんには必要ないかもね」
澪はほっと大きな息をつく。
「でも……うぅ、よかったぁ……大事に至らなくて」
「心配させてごめんね」
「ううん。包丁持ってるのに話しかけたわたしも悪かったから」
これからはちゃんと黙ってるよ! と、お口にチャックをする仕草を取る澪。
栞里はそんな澪の頭を撫でてやりたかったが、調理中の水洗い等で若干手が湿っていたため、しぶしぶ控えた。
どことなくしょんぼりとした栞里の様子に澪は首を傾げたが、ちゃんと黙っているという宣言通り問いただすことはせず、栞里の調理のサポートに回ったのだった。
「ごちそうさまー……ふぅー、おいしかったぁ。栞里ちゃん、料理本当に上手なんだね」
夕食を食べ終えた二人は、ゆったりと談笑していた。
澪の褒める言葉に栞里は満更でもなさそうに胸を張る。
「それにしても、澪は偉い。好き嫌いせずに全部食べた」
「偉いって……わたしもう高校生だよ? 仮に嫌いなものが入ってたって残すような真似はしないよ」
「でも、お母さんはピーマンが献立にある日はいっつもピーマン最後まで残してた」
「えぇ……あ。アレルギーとか?」
「特にそういうのはない」
「……まあでも、一つくらいはどうしても食べられないってものがあってもしかたはない、かも……? 人間ってそういうものだと思うし」
澪は自分よりはるか年上だろう人が恥ずかしげもなく好き嫌いしている事実に臆するも、栞里の母親ということで、なんとかフォローを試みる。まごうことなき良い子である。
しかし栞里は、はたと間違いに気づいたように首を横に振った。
「ちょっと誤解を招く言い方だった。残してるのは最後までだけで、一応、他のものが全部食べ終わった後には食べるの」
「あ、そうなんだ。すっごく苦手なんだろうに、偉いねぇ」
「うん。偉い。いつも最後に、『栞里……好き嫌いすると体の健康も心の健康も保てないから、どんなものもきちんと食べるのよ……』って言いながら、顔面蒼白で全身痙攣させながら涙目で食べてた」
「本当に偉いね……」
きっとこれ以上ないほどに苦手なんだろうに、娘の前だからと必死に頑張っていたのだろう……。
「あ、そうだ」
ここで澪は、なにかを思い出したようにスマホを取り出した。
「ね、栞里ちゃん。連絡先交換しよう? 七夏先輩たちとは明日しかできないけど、栞里ちゃんなら今近くにいるからすぐできるし」
「ん。それは別に構わない、けど」
「けど?」
「……スマホ、しばらく使ってないからどこにあるかわからない」
「つ、使ってない?」
「充電もたぶん切れてる」
「えぇ……」
ちょっと現代人にあるまじき発言だったが、澪が話を聞いた限り、自室のどこかに置いてあるのは確かなようだった。
すると、栞里が言う。
「澪。お風呂入れてあるから、先に入ってて。その間に探してる」
「え。わたしが先に入っていいの?」
「……? 一緒に入りたいの?」
「んえっ!? い、いやっ、そういうことじゃなくてね?」
なんてことないようにそんなことを言い出した栞里に、澪はあたふたとする。
なぜ先に入らせるか一緒に入るかの二択なのか。後に入らせるという選択肢はなかったのだろうか。
それに銭湯ならまだしも、普通の家の浴室だ。
高校生にもなってそれに友達と一緒に入るというのは、さすがにちょっと恥ずかしいものがある。
「えっと、一応わたし居候って立場だから、一番風呂なんて頂いちゃっていいのかなって」
「居候より家族がいいって言ったのは澪」
「それは……」
「とにかく、気にしなくていい。これからどれだけこうして一緒に過ごすことになるのかわからないし、気を遣ってばかりじゃ、きっと疲れる」
「……うん、そうだね。ありがとう、栞里ちゃん」
「ん」
満足そうに頷いた栞里は、テーブルの上に残った食器を手早く片付けると、足早に居間を出て行った。
残された澪は栞里に言われた通り、持ってきた荷物から着替えを取り出して、浴室へと向かった。
手前の脱衣所で服を脱ぎ、浴室で髪と体を洗って、浴槽に浸かる。
「ふわぁ……」
体の芯を温められていく心地よさに、つい息をこぼす。
浴室の外、少し遠くの方からは時折物音が聞こえて、ちょうど栞里が自室で探し物をしているだろう状況が容易に想像できた。
「栞里ちゃんのお母さん、かぁ」
さきほど食卓で行ったやり取りを思い返して、目を閉じる。
きっと、栞里ちゃんと同じように、美人さんで素敵な人なんだろうなぁ。
……でもやっぱり栞里ちゃんと同じように、ちょっと変わった人でもありそう。
澪は一人、栞里が語ってくれた内容から彼女の母親の人物像について想像を繰り広げた。
そんな折、ふと頭をよぎったのは、澪自身の家族のことだった。
母親と父親。歳の離れた一人の妹。澪は四人家族だった。
「…………」
湯船に浸かっているはずなのに、急にその温もりが嘘のように消えていく。
代わりに覚えるのは、心臓が冷たく鋭い金属の糸で強く締めつけられるかのような感覚。
温もりに溢れた記憶のはずだった。家族と過ごした日々は、その思い出はすべて、澪にとってかけがえのないものだ。
なのに家族のことを思い出した時、澪の心を満たすものは愛おしさなんかでは全然なかった。
その胸を襲うものは、痛みと苦しみと、悲しみ。
絶望。焦り。
そしてそのすべてを糧としてどうしようもなく膨らんでしまう、心の奥底に深く根付いた、強い一つの感情――。
「っ……!」
自身の内から思わず溢れ、暴れ出しそうになる心を抑えるように、ぎゅぅっと胸の前で手を握った。
それから家族の代わりに、栞里やレンダ、七夏や沙代と過ごしたこの二日間の出来事を思い返す。
今確かにここにある、温かな日常。それを意識することで、自分の内側で暴れ狂う感情から必死に目を背けた。
そのまま何度も深呼吸を繰り返すと、少しずつ心が落ちついてくる。
そしてその頃には、浴室の外で物音がほとんどしなくなっていることに澪は気づいた。
(……栞里ちゃん、ケータイ見つかったのかな? そろそろ出た方がいいかも)
胸の奥が、まだズキズキと痛む。気を抜いたら、また思い出してしまいそうだ。
だから澪は頭の中を栞里への考えと思いで埋め尽くして、早めに浴槽から出た。
澪がパジャマに着替えて浴室から出てくると、栞里は自室ではなく、台所で洗い物をしていた。
「わたしも手伝おっか?」
栞里はふるふると首を横に振った。
「こっちはもうすぐ終わるから大丈夫。手伝ってくれるなら、できればテーブルの方を拭いてほしい」
「はーい。任せてー」
二人で夕食後の後片付けを済ませると、澪は早速自分のスマホを持って栞里に歩み寄った。
「栞里ちゃん、スマホは見つかった?」
「うん。あれ」
と、栞里が指し示したのは、コンセントに接続して絶賛充電中のスマホだ。
「これって……結構古い機種?」
「たぶん? あんまり使わないし、詳しくもないからわからない」
「まあ、充電切れのまま部屋のどこかに放置してるくらいだもんね……」
「一応、ちょっとは充電したから、もう電源はつくはず……あ、ついた」
そんなこんなで起動の処理が終わると、二人は早速連絡先を交換しようとするのだが、栞里はなにやら操作に手こずっているようだった。
初めは久しぶりに自分のスマホを触っているからと解釈していた澪だったが、こっそり画面を覗き込んでみると、明らかにそれじゃないというアプリまで起動したりしていて、これではいつ連絡先を交換できるようになるかわからない、と言った状態であった。
「あの、栞里ちゃん? もしよかったら、わたしが栞里ちゃんのぶんも操作するけど……」
「……お願い」
「あはは。うん、任せて」
栞里のスマホを触るのは初めてだが、どんな機種であろうと同じ携帯電話という道具である以上、根本的な部分は変わらない。連絡先の表示くらいはスムーズにこなせる。
まずはお互いの電話番号をお互いに登録して、それから少し考えて、
「栞里ちゃん。栞里ちゃんのスマホに新しくアプリ一つ入れていいかな?」
「あぷり……いいけど、どんなの?」
「LEINって言う無料の通話アプリ。通話だけじゃなくて、個人同士や、好きな人たちとグループを作ってチャットなんかもできるんだよ」
「……それ、本当に無料?」
「うん」
「……澪。騙されちゃいけない。そんなおいしい話があるわけがないの。昔から、タダより安いものはないってよく言う。それはきっと巧妙で悪質な罠」
至って真剣かつ神妙に、栞里は言い切った。
若干気圧されつつも、澪は苦笑いで告げる。
「だ、大丈夫だよ。本当に無料だから。これ、今時の子なら皆入れてるアプリだもん。安全性は証明されてるよ」
「澪も?」
「うん。わたしも入れてる」
「……じゃあ、信じる」
「あはは……」
あいかわらずの栞里の様子に苦笑しつつ、とりあえず許可は得られたので、澪は自分と同じアプリを栞里のスマホにもインストールする。
栞里は苦手なことは苦手じゃなくなるまでやり続ければ、なんて言っていたが、ちゃんと苦手なことはあったようだ。
少なくとも、現代機械の扱いは苦手そうだ。
(今日はいろんな栞里ちゃんが知れるなぁ)
思わず笑みをこぼしてしまいつつ、澪は栞里にスマホを返した。
「えっとね、今インストールしたのはこれ。アプリの方にもわたしの連絡先も登録しておいたから……試しにチャット送ってみるね」
「うん」
澪が適当に文字を打って送信を押せば、栞里のスマホからピコンッと通知音が鳴った。
「おお……」
さながら初めてスマホを手にしたかのような反応だ。
目を輝かせ、画面に目が釘付けになっている。
澪と同じように栞里も文字を入力して、送信を押した。
「『明日のお弁当の献立なにがいい?』って……ふふ。今は近くにいるんだから、直接聞けばいいのに」
「じゃあ明日のお弁当の献立なにがいい?」
「んー、そうだねぇ」
考えるふりをしながら澪も同じくチャットを入力し、送信と同時に栞里に笑いかける。
「『卵焼き』、かな」
「澪は本当に卵焼きが好き」
「ふふ、ちょっと違うかな。栞里ちゃんの卵焼きがそれだけおいしいんだよ」
「そうかな」
「そうなんだよ」
見つめ合い、くすくすと笑い合う。
どうやら栞里はチャットが気に入ったようだ。
なんてことないこともチャットで話そうとする栞里に微笑ましい気持ちを覚えつつ、澪がさらにスタンプの使い方を教えると、栞里は早速それを使ってくる。
明るく、可愛らしいペンギンのスタンプだった。お辞儀をするペンギンの頭上に、尖ったフォントで『ありがトリ!』なんて文字が浮かんでいる。
「どういたしまして。でも栞里ちゃん、そろそろお風呂に入った方がいいと思うよ? あんまり遅いとお湯が冷めちゃう」
「あ。そうだった」
はっとした栞里が、少し慌てた様子で着替えを持って浴室へ向かう。
それを見送って、ぽつんと居間に一人ぼっちになると、なんだか少し寂しいような気分になる。
だからだろう。浴室の方からシャワーの音が聞こえ始めると、不意に栞里が言った一言が頭をよぎった。
――一緒に入りたいの?
(すごく当たり前みたいに聞かれたなぁ……)
もしあそこで頷いていたなら、本当に一緒にお風呂に入っていたのだろうか。
それはなんというか、やっぱり少し、いや結構……かなり相当、恥ずかしいことのような気がするけれど。
きっと楽しかっただろうなぁ、なんて。
そんなあり得たかもしれない一つの光景を想像してみると、お誘いをつい断ってしまったことが、なんだかちょっともったいないことのように思えた。
時が経つのも早いもので、夕食を作っていた頃は夕焼けに染まっていた空はすでに暗く、星々が煌めいている。
栞里と澪の二人は現在、栞里の自室にて絨毯の上に向かい合って座っていた。
「次は変身の魔法についておさらいするね」
二人の間に置かれたノートを指差しながら、澪が真面目な顔で言う。
澪が指差す先に描かれているのは、変哲もない棒人間と、そこから伸びる矢印。矢印の先には、打って変わってなんかすごそうなオーラを纏った棒人間が仁王立ちしている。
題は変身だ。魔法少女にとってもっとも馴染み深く、重要な魔法である。
夕食作りの最中に約束した通り、二人は入浴を済ませた後、魔法少女の勉強会をしていた。
今までレンダや先輩たちから聞いたこと。自分が実際に体験したこと。そして栞里は知らず、澪は知っていることを交えて復習している。
その時間はすでにかれこれ一時間近くにも及んでいた。
「まず、わたしたちみたいな魔法少女が特異魔法以外の魔法……つまり、この魔力結晶の中に保存してある魔法を使うためには、先に変身をしなきゃいけないの」
澪がピンクのパジャマの袖をめくると、可憐な桜色の宝石が埋め込まれた腕輪があらわになる。
「変身も魔法の一つだから、厳密には、特異魔法と変身以外の魔法を使うには……かな? 魔力結晶がないと変身できないし、身一つで使えるのは本当に特異魔法しかないんだけどね」
オーラを纏う棒人間の頭上に、澪は小さな宝石の絵を書き加える。
魔力結晶は、魔導協会が誇る魔法技術が生み出したものの中でも特に代表的なものだ。
魔力結晶はそれ自体がさまざまな機能を持つが、その本質は増幅器である。
精霊やヘイトリッドが持つ、他者の心に触れる能力。それを擬似的に再現、応用し、人の心と魔力結晶とを接続することで、本来その人物が持つ潜在能力を刺激し増幅させ表側へと引っ張り出す。
変身時の衣装の変化もまた、それらの一環だ。
その人物が心の奥底に抱く憧れを外部にも反映することで、その心と魔力結晶との繋がりをより強固にする役割がある。
「変身すると魔力の出力が上がって簡単に魔法を使えるようになるけど、それだけじゃないの。反射神経とか空間認識とか、そういう感覚的な能力もすっごく鋭くなるんだよ。頭の中の靄が晴れるみたいに」
七夏とともにヘイトリッドと相対した時の一幕を、栞里は思い出す。
七夏は最初にヘイトリッドに襲いかかられた時、危なげなく上半身をそらして回避したばかりか、流れるようにオーバーヘッドキックまで決めた。
あれが運動神経抜群な世界的なアスリートとかならばともかく、ただの一女子高生が当たり前のごとくやってのけるなど異常である。
「もちろんデメリットもあるけど……こんな感じで……」
なんかすごそうなオーラを纏う棒人間からさらに矢印が伸びて、今度はへなへなと情けなく倒れ伏す棒人間が描かれた。
「普段は眠ってる、もしかしたら死ぬまで目覚めないままの力を無理に起こしちゃうから、それだけで心と体の負荷がすごいの。一度変身して解除するだけでも、全力疾走した後みたいにどっと疲れちゃう……」
「ん……あれはなかなかきつかった」
それもまた今日体験したことの一つである。
ヘイトリッド退治を終え、変身を解いた時の疲労は如何ともしがたい。
あまりにもひどかったものだから、思わず意識を手放して眠ってしまったほどだ。
……そしてそのせいでその後、七夏に寝顔を見られてしまったのだが。
余計なことまで思い出してしまったせいで、栞里は頬が徐々に赤らんでいく。
「えっと、栞里ちゃん? どうかしたの?」
「な、なんでもない。私は至っていつも通り完璧に平静。絶対に間違いない」
「そう……? でも、なにか心配なこととか不安なこととか、頼りたいことがあったらなんでも言ってね。必ず力になるから。なんたってわたしは栞里ちゃんのパートナーだもん」
むんっ、と小さな胸を張る澪はなんとも頼もしく、そして可愛らしい。
「えへへ。んーと、それで次は……精霊についてだね」
ページをめくると、机に突っ伏してぐーたらしているレッサーパンダが現れる。
かなりデフォルメされており、なんとも可愛らしく気持ちよさそうに眠っていた。
言わずもがな、レンダである。わかりやすく視覚的に精霊の例を挙げるにあたって、一番身近なレンダが抜擢されたのだった。
「精霊は動物と人間、二つの姿を持つの。レンダちゃんの場合はレッサーパンダだけど、他の精霊はそれぞれ違う姿になるみたい。犬とか、猫とか? そこにいても不自然じゃない、人間にとって馴染み深い姿を選んで魔法で作ってるみたいだよ」
「不自然じゃない……?」
レッサーパンダは不自然じゃないのだろうか?
というか、不自然だったから栞里は初対面の時にレンダを鞄で張り倒し交番に送り届けたのだが……。
栞里が考えていることには検討がついているようで、澪は苦笑した。
「精霊は人とおんなじ姿になれるけど、本質的には人とは違うみたいだから。たぶん、小動物ならなんでも同じように見えるんじゃないかなぁ」
澪はレッサーパンダの絵の下に『かわいい』と書き加える。
「自分で選んで自分で作った姿だから、なにか愛着があるのかも? そういう感情なら、わたしたちでも少しはわかるでしょ?」
「ん……そうかも?」
栞里は自分のベッドの枕の横にある、ぬいぐるみを横目で見た。
クマなのかネズミなのかタヌキなのか、はたまたウサギなのか、なにがなんだかよくわからない拙い姿をしている。
あれは昔、栞里が自分で作ったものだった。
ずいぶんと古ぼけてしまっていて、色も変色している。
でも、たとえ拙くても、不自然でも、自分の手で作ったものなら、そこには確かになんらかの価値がある。
そんなことを栞里が考えている横で、澪はノートに、レッサーパンダから伸びる矢印を書いていく。
今度は変化できる姿についての記述のようだった。『動物』『人間』と書き連ねて、そこで終わるかと思いきや、澪はさらに三行目にペンの先を置いた。
だけどそこに書かれたものは、『?』のマークだ。
「これは?」
「えっとね……動物と人間。基本はこの二つの姿を使ってるみたいだけど、一応、そういうのとは別に本来の姿っていうのもあるらしくて」
「本来の姿?」
「うん。でも、それはあんまり見せたくないんだって。詳しいことはわたしも知らないけど……」
「ふーむ……あ。化粧してない顔を見られるのは恥ずかしいとか、そんな感じ?」
「ふふっ。そんな女の子みたいなこと……あれ? でも精霊とは言えレンダちゃんも女の子だし……ありえなくない、かも……? むむ……?」
そうなると人間と動物の姿を使い分ける形態変化の魔法を化粧目的で使っていることになってしまうのだが、いかがしたものだろう。
「ま、まあその話はまた今度にして、話を戻そっか」
澪が咳払いをすると、栞里もこくんと頷く。
「さっきは変身の魔法と魔力結晶について話をしたよね? 元をたどれば、それも精霊たちが魔導協会と協力して作ったものなんだよ。資格がある人間を魔法少女にできるのも精霊だけ……いわば精霊は魔法の祖と言ってもいい存在なの」
ぐーたらしているレッサーパンダの上に、今度は「実はすごい!」と集中線を伴って書き加えられる。
「魔法少女が魔力結晶を介さないと使えないいろんな魔法を、精霊は身一つで行使することができる。その力のほども、精霊と魔法少女とでは雲泥の差があるらしいの。魔法少女の魔法なんて、精霊にとってはおもちゃも同然とかなんとか……」
「精霊って、そんなにすごいの?」
「うん。初めてレンダちゃんと会った時に教えてくれたんだ。変身で出力を上げなきゃ使えないような魔力結晶の魔法じゃ、まず精霊の魔法には敵わないって」
「……」
魔力結晶の中には魔法を円滑に扱うための武具、魔法補助具が保管されている。
栞里の補助具は双銃型だ。一時的に質量を付加した魔力を放つ、魔弾という魔法を放つことにもっとも適しているとされる。
この魔弾の魔法には、コンクリートでできた校舎の壁に容易く穴を開けてしまうほどの威力がある。
だが、これもしょせんは魔力結晶の魔法であることに変わりはない。
つまるところ精霊が行使する魔法の前では、コンクリートの壁を穿つ程度の力ならば取るに取らないということなのだろう。
「レンダちゃんいわく、魔法少女に唯一精霊に抗える力があるとすれば、それは……」
「特異魔法……?」
「あ、先言われちゃった。えへへ……そう、わたしたち魔法少女だけが使える特別な魔法、特異魔法。これだけは唯一、精霊が使う魔法を上回る力を発揮できるって聞いたよ」
今のところ栞里が仔細を知る特異魔法は、二つだ。
自身の魔力が干渉した二つのものの力を同じにする、七夏の《調和》。
生命や非生命を問わず傷を修復し元に戻す、栞里の《回復》。
正直栞里にはそれらがそんなにすごい魔法には思えないのだが……魔法について他のどんな存在よりも熟知しているからだろうか?
魔法少女だけが使えるというその魔法は、精霊の目にはよほど異質に映るらしい。
「……そういえば澪の特異魔法、って――」
問いかけようとする最中、抗い切れない欲求に苛まれて、栞里は大きくあくびをした。
ただでさえ今日は初めてのヘイトリッド退治を体験した後だ。変身し、慣れない魔法を何度も使った心の疲れも未だ抜け切っていない。
自分の体調を自覚するとどんどん眠気が襲ってくるものだから、栞里は堪えるように目元をこする。
「ふふっ。今日はもうお開きにしよっか。思ってたより長引いちゃったし……栞里ちゃん疲れてるみたいだから」
「私はまだ……だいじょう、ぶ」
「む」
眠気を我慢するような栞里に、澪は見せつけるように指でバツマークを作った。
「めっ! だよ。夜更かしはお肌にも健康にもよくないの。栞里ちゃん、せっかく肌が綺麗なんだから大事にしないと」
「む、むぅ……お母さんみたいなことを……」
「えへへ。もしかして、よく言われてた?」
「そんなこと……………………ない」
「沈黙がすごい長かったけど……」
とにかく夜更かしはダメ! と強く主張する澪の根気に負けて、栞里はしぶしぶ了承した。
本当はやっぱり、もうちょっとだけ勉強会を続けていたい気持ちがあったけれど、
「よろしい」
なんて、まるで母親の真似をする子どものように澪に楽しげに笑われては、文句を言うこともできなかった。
そんなこんなで勉強会の片付けを終えると、栞里はベッドへ、澪はそのすぐ横に敷いた布団の中にいそいそと身を委ねる。
当初、澪が居候する期間がまだ明確でないことから、栞里は澪に個別の部屋を貸し与えようと思っていた。
いや、実際に近いうちにそうする予定ではある。ただ、今日はひとまず同じ部屋で寝泊まりするという話でまとまっていた。
というのも、澪に使ってもらおうと思っていた空き部屋がしばらく見ない間にずいぶんと埃が溜まっていて、衛生上あまりよくなかったからである。
栞里は謝ったが、その時の澪は、ほんの少しだけ嬉しそう、にも見えた気がする。
平日はあまり時間がないことも多いことから、明後日の休日にでも掃除をしようということとなり、それまでは一緒の部屋で寝泊まりすることが決まったのだった。
「……ね、栞里ちゃん」
照明を消した、静かで薄暗い部屋の中。
まだ起きているか確認するように澪が小さく呟いた。
すでに眠気でうつらうつらとし始めていたが、なんとか意識を保って栞里は相槌を打つ。
「栞里ちゃん、さっきそこのぬいぐるみ見てたよね? ……そのぬいぐるみって、もしかして――」
あんまりにも眠すぎて、寝起きでもないのに寝ぼけていたのか。
ぬいぐるみのことを聞かれて、栞里は半ば無意識のうちに、枕の横のそれを澪に差し出していた。
「そうだった……はい、おかーさん」
「栞里ちゃんがつく、え、えっ?」
話の途中で突然当たり前のようにベッドの上からぬいぐるみを手渡されて、澪は目を白黒とさせた。
「だって、おかーさんはこれがないとねむれな……あ」
もう半分以上瞼を閉じて、呂律もつたなくなっていた栞里が、はっとしたように声を上げた後、すっかり沈黙する。
澪からは角度的に栞里の顔は見えなかったけれど、なんとなく、顔を赤くしてどこか恥ずかしがってるような、そんな雰囲気だけは伝わってきた。
そんな栞里の様子に澪はちょっと頬を緩ませながら、改めて聞いてみる。
「これ、栞里ちゃんが作ったんだよね?」
「…………うん」
羞恥の奥から、絞り出すような声だった。
なんかちょっと可愛い、なんて思う澪。
「その、ごめん……寝起きでもないのに、ちょっと寝ぼけてた……」
「ふふ。眠いんだからしかたないよ。わたしこそごめんね。もうちょっとで寝れそうって時に話しかけて」
「澪は悪くない」
暗闇の中、カーテンの隙間から差し込むわずかな月明かりを頼りに、澪は目を細めてぬいぐるみの輪郭を捉える。
「んー……クマさん、かな? ふふっ。可愛いねー」
「……コアラ」
「え?」
「それ、コアラ」
「あ、はい」
なんとも言えない無言の圧力を感じ、反射的に敬語になる。
「……それは昔、お母さんにプレゼントしたものなの。お母さんは、よくそれを抱いて眠ってた。まだ裁縫が苦手だった頃に作ったものだから、継ぎ接ぎだらけで、出来も全然よくないのに……クマに見間違えられるくらいなのに」
「そ、そのー」
「気にしてない」
「あ、はい……」
どう見ても気にしていたが、本人がそう主張するなら尊重しなければならないだろう……。
「……もうこれがないと眠れないって、いつも大事そうにしてくれてた」
「そうなんだ……」
「四六時中家の中で抱えてて……肩にかける紐まで取りつけて……しまいには仕事にまで持っていって、一時的に没収されて泣いてた」
「た、大変だったんだね……」
(……でも……なんだか……)
栞里の口から聞く、彼女の母のエピソードは、どれもまるで思い出話を語るみたいで。
それを語る栞里もなんだか、とても大事な宝物を扱うかのように、楽しげで。
でもどこか……少し寂しそうにも見えた。
そんな栞里を眺めていると、ずっとずっと聞きたかった、でも踏み込めずにいたその質問を、澪は自然と口にしていた。
「ねぇ、栞里ちゃん。栞里ちゃんのお母さんは、今、どこにいるの?」
本当のことを言えば……その答えを、澪はもう半ば予想できてしまっていた。
澪がしばらく居候することになっても、誰にも連絡していなかったこと。
実際に家に来てみても、栞里以外の誰もおらず、帰ってくる気配もない。
二つあった、使い古したエプロン。
母のことを語る彼女の、ずっと遠い別の景色を眺めるような眼。
澪の質問に栞里は、ほんの少し間をおいて、ぽつりと答えを告げた。
「もう、いない。どこにも」
「……」
「私が中学三年生の時の……この前の冬に、病気で亡くなったから」
「……そっか……」
「……」
「……」
二人の間に、沈黙が落ちる。
気まずいような、そうでもないような。
澪は、今手元にある、栞里の母がいつも抱いていたという栞里の手作りのぬいぐるみを見下ろしてみた。
それから栞里の母がやっていたと言うように、ぎゅっと抱いてみる。
なんとなく、どこか安心するような、不思議な感覚だった。
(……この感覚を、栞里ちゃんのお母さんも覚えてたのかな……)
だとしたら。
「……栞里ちゃんのお母さんは、きっと」
ぬいぐるみを撫でながら、澪は微笑む。
「栞里ちゃんと一緒にいられて、幸せだったんだね」
「っ――――」
残念ながら、返事はなかった。
(んー……すごく眠そうだったし、さっきちょっと黙っちゃった時に、寝ちゃったのかな……)
だとしたら、明日、また謝らないといけないだろう。
今更だけれど、やっぱりよくなかった、と思うのだ。
勢いで聞いてしまったけれど、無遠慮に彼女のプライベートに踏み込んだことは。
ごろん、と栞里のベッドに背を向けて、澪は目を閉じる。
(……栞里ちゃんも、お母さんのことが大好きで……)
たとえ母がもうこの世にいないんだとしても、彼女にとってそれはずっと、綺麗な思い出のままで……。
今抱いているこの感情が、どれだけ汚く、醜いものなのかを澪は自覚していた。
栞里が感じたであろう悲痛を、なにも考慮していない。浅ましい嫉妬だ。
それでもそれを思わずにはいられなかったのは、澪自身が、失意のままにすべてをなくしてしまったから。
(ちょっと……羨ましいなぁ……)
ぬいぐるみを抱きしめて、暗い闇の中、澪は思い出していた。
一人になるといつも頭の中をよぎる、あの日のことを。
澪の家は、ありふれた家庭だった。
父と母と、澪自身と、年の離れた妹。四人家族。
両親の仲も良好で、姉妹仲も決して悪くはない。
母が作ってくれるお弁当の中には、いつも甘い卵焼きが入っていた。
妹は、毎日毎日同じ品物が入っていることに若干ふてくされていたけれど。というか澪も、さすがに毎日はきついなって思ってたけど……。
それでも残すようなことはしなかった。
幼い頃からずっと続いていた日々だったから、これからも、それがずっと続いていくんだろうと、無意識のうちに、そんな風に思い込んでいた。
でも、まだ魔法少女になる前の、あの日に。部活動が長引いてしまって、いつもより帰りが遅くなった、あの日。
突然すべてが崩れ落ち、それでいて淡い夢だったかのように、儚く消えてしまった。
『……? 明かりが消えてる……?』
家にたどりついた時、いつもと違う家の状態に澪は眉をひそめた。
いや、本音を言えば帰り途中からもうすでに、なにか言いようのない違和感を覚えていた。
これまでずっと同じだったはずのことが、どこか違うような。違う場所に、迷い込んだみたいな。
嫌な予感に急かされるように足早に帰路を歩いた。
帰りが遅くなったとは言っても、しょせんは中学の部活動の範囲だ。一九時までには家につくくらいの時間。
でも春に近い冬の頃だったその時はまだ、外が暗くなるのは早かった。
『鍵は……開いてる』
澪を置いてどこかに出かけているとか、そんな感じでもなさそうだった。
もしそうだったなら、どんなによかっただろう。
早く入らなければいけないような、理由もわからない焦燥を胸に、澪は家の中に足を踏み入れる。
その時だ。家の奥の方から、幼く甲高い悲鳴が聞こえたのは。
妹の声だった。
『っ、かほ!』
薄っすらと感じていた嫌な予感が形を伴って浮き上がり、妹の名を呼んで、声がした方向へ急ぐ。
居間の奥、台所の方に、妹のかほと『それ』はいた。
邪悪に口の端を吊り上げて笑う、闇の中にあって妖しく光る瞳を持った女性。
かほはそんな彼女を、尻もちをつき、恐怖を顔に張りつけて見上げていた。
『あらぁ? あなた、この子の家族? ふふっ、まだいたのねぇ。消音の魔法は使ってたはずなのに躊躇せず入ってくるものだから、一瞬ちょっと焦っちゃったわぁ』
光る瞳の女性が振り返って、唖然とする澪を見た。
そしてその時、ふっと気がつく。
さきほどまで、この女性の瞳の色は紫だった。
でも澪に視線を送る最中、その色が目まぐるしく変化していた。
角度によって、青に、赤に、黄色に、形容のしがたいさまざまな色に。
(人間じゃ……ない……?)
ぞっとした感覚で、後ずさる。
逃げなければ、と。そんな思考が頭をよぎる。
当然だ。だって、澪はまだ中学生の普通の女の子でしかない。こんな得体の知れないものを見て、恐怖を感じない方がおかしい。
けれど視界の端に映った、かほやこの女性とはまた別の、二人の人間の姿を見て、澪は後ずさる足を止めた。
『お、父さん……お母……さん……?』
うつ伏せで倒れた見慣れた背中。十数年ずっと見続けてきたのだ。見間違えようがない。
気を失っているだけで、外傷はなさそうだった。でもだからと言って、無事だという感想はまったく出てこない。
よくはわからない。わからないけれど。
なにか、もう取り返しのつかないことになってしまっているような、そんな予感がした。
『あぁ、それねぇ。なかなか美味だったわぁ。とても幸せな家庭だったのねぇ。幸せの味はおいしいから、私、好きよ』
『なに、言って……』
『だから期待してるの。あなたと、この子の記憶。それもさぞ美味なんでしょうねぇ、って』
言っていることはなに一つとして理解できない。
だけどわかったことが一つだけあった。
この女が、父と母をこんな風にして、そして今度は妹に手を出そうとしている、すべての元凶である。
縋るような眼で澪を見つめるかほの姿を見て、澪は胸の内を支配しかけた恐怖の感情を振り払った。
震える手を握りしめ、持っていた鞄を光る瞳の女性に向かって投げつける。視線を遮るように、顔に向けてだ。
女性がそれを振り払っている間に、澪はその横を駆け抜けた。
『かほ……!』
怯えて座り込んだ妹を抱きしめる。そして、そのままくるりと振り返った。
光る瞳の女性は愉快なものを見るような目で、澪とかほを二人を観察している。
どういうわけか、すぐに手を出してくる気配はなさそうだった。
『おねえ、ちゃん……』
『……かほ、落ちついて。大丈夫だから。お姉ちゃんが……なんとかしてあげるから』
最後に一度だけ笑って頭を撫でて、澪はかほを離した。
調理台の上に置きっぱなしだった包丁を素早く手に取って、光る瞳の女性に向けて構える。
『へえ』
なにやら感心したように、光る瞳の女性がぽつりと漏らした。
『はぁ……ふぅ……』
うるさく鳴り響く心の臓を落ちつけるために、懸命に呼吸を整える。
この光る女性を見た時、確かに澪は恐怖を覚えた。でも今感じている恐怖は、それとは別種のものだった。
刃物を、人を殺せる道具を人に向けるのが、こんなに怖いなんて。
だけど、それでも。
自分がやらなければ。どんなことになっても、せめて妹だけは守らなければ。
『お、おねえちゃん……』
『……わたしが隙を作るから……かほは、横を通り抜けて。それから外に出て、大声で助けを呼んで。怖いかもしれないけど……』
『……だい、じょうぶ……やれる、から』
澪の覚悟を汲み取ったのか、目に希望を取り戻して、こくりと頷いてみせるかほ。
未だ、光る瞳の女性は愉快げにこちらを眺めているだけだ。
澪は最後に一度深呼吸をして、きっと目を鋭く細めて駆け出した。
『かほ!』
走り出してすぐに、妹の名を呼んだ。背後でそれに反応して、同じように駆け出す音がした。
やることは一つだ。この包丁で、この女性を刺し貫く。
致命傷になろうと構わない。その後、過剰防衛とかなんとかで、逮捕されようと構わない。
そんな覚悟で、澪は女性の胴体へ包丁を突き出した。
――けれど。
『いいわねぇ。気に入ったわぁ』
『えっ?』
刃の切っ先が澪の頬を裂き、宙を飛ぶ。
なにが起きたのか、まるでわからなかった。
ただ、突き出した包丁が女性の体に届くよりも先に、なにもない空中で弾かれたのだ。なにか硬いものにでも衝突したように。
驚きで目を見開く澪の横を、かほが過ぎ去る。
ダメだ、と静止する暇もなく、かほは難なく光る瞳の女性に首を掴まれ捕まった。
『あぐっ――』
『っ、や、やめてっ!』
光る瞳の女性が首を掴んだかほを掲げ、大きく口を開く。
なにかを食べようとするかのようだった。
止めようとしても、見えない壁に阻まれて、澪はそれを、見ていることしかできなかった。
やがてかほが、だらんと両手を下げた。全身の力を抜いた。
そんな彼女を、光る瞳の女性は、もう用済みだと言わんばかりに両親と同じ方へ投げ捨てる。
死んでしまったわけでは、なさそうだった。
でも、やっぱり、なにか取り返しのつかないことになってしまったような、そんな感覚だけが心にこびりついて、離れてくれない。
『か……ほ……どうし、て……』
なんの役にも立たなかった欠けた包丁が、からんっと床に転がった。
かほのなにかを食べた光る瞳の女性は、なにやらご満悦そうに、恍惚に嗤っていた。
『子どもの記憶もいいわねぇ。量は少ないけど、純粋な記憶ばかりで質がよくて……』
絶望に膝をつき、頭を垂れるしかない澪を、光る瞳の女性は見下ろす。
……次はきっと自分の番なのだろう。澪はそう思った。
初めてこの女性を見た時、そして包丁を向けた時はこれでもかというほどの恐怖を感じたのに、なぜか今はなんの感情も浮かばない。
光る瞳の女性は、そんな澪に無邪気な悪魔のように笑いかけると、くるりと身を翻した。
『あなたはいいわ。もうお腹いっぱいだし、デザートも食べたしねぇ。そろそろ協会のやつらが嗅ぎつけてくる頃だし……あなたのその心だけは生かしてあげる』
『……え……?』
『今日は気分がいいからねぇ。ふふ、感謝なさい? こんなことは滅多にないのだから。無様に、惨めに、後悔しながら生きるといいわ。慎ましく……ね』
見下すようにそれだけ告げて、女性は去っていった。
追いかけることは、できなかった。しても無駄だということは澪自身が一番よくわかっていた。
家族を置いていくこともできない。
ただ膝をついたまま、呆然としていることしかできずに。
やがてやってきた魔導協会を名乗る人たちに、澪は保護された。
ギシリ、と小さな物音で目が覚めて、栞里は薄っすらと瞼を開けた。
(……み、お……?)
薄目の向こうに見える彼女は、寝る時に着ていたようなパジャマではなくて、制服を身につけている。
栞里を起こさないようにするためだろう。できる限り足音を立てないよう、静かに扉を開けて、澪は部屋を出ていく。
時計を見れば、まだ朝の五時で、外も薄暗かった。
学校は八時にでも家を出れば間に合うくらいなので、行くには少し早すぎる。
こんな時間に、いったいなにをしに行くのか。
声をかけようかとも思ったが、ほんの一瞬見えた彼女の横顔が、なにかとてつもなく重いものを抱えているように思えて、言葉が喉につっかえた。
そして同時に、直前に見たおかしな夢が頭をよぎる。
結局栞里は澪を呼び止めることはできず、再び眠ることもできず、横になったまま、ただ思考だけがぐるぐると回っていた。
✿ ✿ ✿ ✿
昨日は七夏と校内を見回ったが、今日は紗代とともに外の見回りだ。
放課後になると校門を出て、栞里は紗代から見回りの基本ルートを学びながら、二人で街を歩く。
「本当は、こんなに頻繁に見回りなんてやらなくてもいいのだけどね」
日があまり差し込まない裏通りを歩きながら、紗代は肩をすくめてみせた。
「日を置いて、週に二回くらいでいいの。二日連続で探したって見つからないことが多いし、せいぜい見つかってもネズミくらいのごくごく小さなヘイトリッドだもの。そんなに小さいと、変に逃げ回られて逆に退治しづらいしね……」
「……」
「でもレンダちゃんも言ってた通り、今は大規模な調査に向けての準備期間だから、いつも以上に念入りに退治しておかないといけないの。まだ魔法に慣れてない栞里ちゃんには負担をかけるけど……」
「…………」
「……栞里ちゃん?」
心配そうに紗代に顔を覗き込まれて、栞里ははっとした。
「ご、ごめん。ぼーっとしてた。話は聞いてたから……えっと……週に二回は大規模なネズミの準備期間だから、二日連続で逃げ回るレンダをいつも以上に念入りに退治しなきゃいけない……んだっけ?」
「それじゃあレンダちゃんがすっごく可哀想ね……」
どうやら間違っていたらしい。
栞里はバツが悪そうに顔を背けた。
「……栞里ちゃん、ちょっとじっとしててくれる?」
紗代はそう言うと、栞里の両頬を包み込み、自分の額を栞里のそれにくっつけた。
目をぱちぱちと瞬かせる栞里の目の前で、しばらく瞼を瞑って集中していた様子の紗代だったが、ほどなく栞里から顔を離す。
「熱はないみたい。よかったわ。もしかしたら、体調が悪いのに連れ回しちゃってたのかと思ってたから」
「むぅ……紛らわしくてごめんなさい」
「いいのよ。私、これでも先輩だもの。後輩の面倒を見るのは先輩の勤め。七夏ちゃんも同じようなこと言ってなかった?」
「……言ってた」
「でしょう? ふふっ、そういうことよ。だから気にしないで」
七夏も同じような言動はしていたが、紗代は彼女と違い、普段から纏う雰囲気が大人っぽい。体つきも出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ女性らしいものだ。
年上らしい魅力溢れた振る舞いに栞里は若干感嘆としつつ、こくんと大人しく頷いた。
「でも……熱がないんだったら、なにか困り事とか悩み事でもあるのかしら?」
図星だったので、栞里はビクンッと肩を跳ねさせる。
「今日、最初に会った時からずっと上の空って感じだったもの。それもなんだか、少し落ち込んでいるような感じで……言いたくないなら言わなくてもいいけれど……」
まるで自分のことのように眉尻を下げて悲しむような紗代を目にして、栞里は今朝の出来事を思い返した。
まだ外が暗い時間に一人で外出していた澪。
もっとも、その二時間後に彼女は何事もなく帰ってきたけれど……。
今、澪が栞里の家に居候しているのは、常に二人で行動して危険を減らすことが目的であるはずだ。
それなのに澪は栞里に一言も告げず、一人で外に出た。
……澪はきっとなにか、栞里に隠し事をしている。
そうでなければ、魔導協会の指示に逆らい、一人で危険を冒してまで外に出たりしないだろう。
しかし隠し事とは、隠したいから、知られたくないから隠し事と呼ぶのである。
それを、栞里が勝手に紗代に相談していいものだろうか。
そんな風に返事に詰まってしまう栞里を見て、紗代は答えてもらえなかったことに少し寂しそうに肩をすくめつつも、「ちょっと休憩しましょうか」と近くの石段を指し示した。
紗代が先に座り、その横に促されるまま腰を下ろすと、紗代は少し悩むように腕を組んだ。
「んー……ねえ、栞里ちゃん。魔法少女になるためには、その子に特別な資格が必要ってレンダちゃんが言ってたの、覚えてるかしら?」
栞里は首肯する。
栞里のように未成年で、なおかつ特別な資格を持つ少女。それが魔法少女になるための条件だったはずだ。
「それはね、素質でも資質でもなくて、あくまで資格なの」
「あくまで資格?」
「そう。素質や資質は生まれつきの能力のことを指すけれど、資格はそうじゃないでしょう?」
あえて素質や資質という単語を使っていない。
そこに意味があると紗代は言う。
「わかるかしら。魔法少女になるための資格というものはね、先天的にではなくて、後天的に備わる類のものなの」
「後天的に……」
「私や七夏ちゃんは中学に通っていた頃に魔法少女に勧誘されたわ。その時にはすでに資格が備わっていて、それを見初められたから。でも、あなたと澪ちゃんが誘われたのは高校に上がった後。あるいは、その直前に」
その意味がわかる? と、指を一つ立て、わかりきった答えを紗代は問いかけた。
「……私と澪に資格が備わったのは、まだ最近の出来事だってこと?」
「ご明答」
立てていた指をくるくると回し、紗代はその指先を自身の目に向ける。
「もちろん、精霊の目が常にこの街の人たち全員に行き渡ってるってわけじゃないから、多少のズレはあるけれどね」
「……魔法少女になるための資格って、いったいどういうものなの? なにがきっかけで、そんなものが私たちに備わったの?」
先天的にではなく、後天的に備わるもの。
だとすれば、なにかそれを得るための条件があるはずである。
その条件とは、いったいなんなのか。
ここまでもったいぶられたなら、聞かずにはいられない。
「……」
紗代は一旦沈黙し、瞼を閉じ、間もなくして再び口を開いた。
「その思想や心のあり方に大きな変革をもたらすような出来事を経験すること……それが、魔法少女の資格を得るための条件よ」
「大きな変革?」
「たとえば、そうね……大切だった人が亡くなったり、とかかしら」
「……」
そう言われて栞里が思い出したのは、まだほんの数ヶ月前、母が病気で亡くなった時のことだった。
毎日のように病院に通ったところでなにができるわけでもなく、母が亡くなる寸前まで、ただ見ていることしかできなかった。
「もちろん、資格を得るに至るまでどれだけの刺激が必要かには個人差はあるわ。人によっては、ちょっとした出会いや経験でも開花し得る。でもその条件さえ満たせば、心が不安定な十代以下の女の子なら誰しもが資格を手にできるとされているの」
「……なるほど」
「栞里ちゃんは……なにか、心当たりがあるのよね?」
栞里は自分が今どんな表情をしているかわからなかったが、紗代はなにか察したように、辛いことを思い出させてごめんね、と申しわけなさそうに微笑んだ。
(紗代は……どうしてこんな話、私にしたんだろう)
栞里がなにか悩んでいたり、落ち込んでいたりしていることを察して気にしてくれているのは、わかっていた。
でもそのことと、今のこの魔法少女の資格の話になんの関係があるのか。栞里にはまだ、その繋がりが掴めなかった。
もしかしたら単に雑談のつもりだったのかもしれないけれど、どうにも栞里には、紗代がこのタイミングでそんな他愛もない話をしてくるようなのんきな女性には思えなかった。
「……栞里ちゃん」
さきほどまでより力が入った確かな声音に促されるように顔を上げると、彼女は真剣な表情で栞里をまっすぐに見つめていた。
「実を言うとね。私と七夏ちゃんは、あなたと澪ちゃんの経歴を資料で把握してるの。だからあなたが抱えている痛みも……澪ちゃんが抱えている苦しみも、私たちは第三者として知っている」
「澪の苦しみ……?」
「そう。栞里ちゃんは、なにか夢を見なかった? たとえば、そう。悲痛に染まった、後悔ばかりが残るような、暗く冷たい夢……」
「……」
心当たりはあった。
そうだ。澪が一人で出て行ったことも、栞里が悩んでいる要素の一つでもある。
だけど一番は、その夢であった。
なんてことのない普通の中学生だった少女が、ある日突然光る瞳の化け物に――精霊獣にすべてを奪われる、そんな夢だ。
守りたかったものをなに一つとして守れず、自分だけが生き残ってしまった夢。
視点は完全にその少女のものだったから、それが誰の記憶なのかは正確にはわからなかった。
けれど今日の朝、澪が出ていく時に見せた最後の横顔が、その夢の少女の思いと重なってしかたがなかった。
だからこそ栞里は出ていく澪に声をかけることもできず、帰ってきた彼女に事情も理由も聞くことができずにいたのだ。
「……魔法少女の間では、密かに語られてるこんな話があるわ」
紗代は栞里から視線を外し、遠くの空を眺める。
「互いを思い合う魔法少女がそばで眠りについた時、お互いが資格を得るに至った夢を見る」
「それは……」
「私たちはそれを心の共鳴と呼んでいるわ。栞里ちゃん。あなたが見たその夢は、本当にあったことよ」
紗代はどうやら初めから、栞里の様子がおかしい原因におおよその検討がついていたようだ。
澪の過去の出来事と、心の共鳴という現象を知った上で、栞里と澪の二人が同じ家で寝食をともにした翌日、熱はなく体調に問題ない栞里の様子がおかしかった。
そうなれば確かに、なにがあったのかの答えなど自ずと導かれる。
「……とは言え、あなたと澪ちゃんの昔のことを多少知ってると言っても、私も七夏ちゃんも、しょせんは無関係の第三者」
紗代はふるふると首を横に振る。
「そんな私たちがどれだけ励まそうとしようとしたって、そんなもの、上から目線の押しつけがましい自己満足にしかならない。だからずっと知らないふりをして黙ってたの……ごめんね?」
「それは別にいい、けど……」
無関係の第三者。どれだけ励まそうとしても、しょせんは自己満足。
その言葉が栞里の心に重くのしかかる。
澪を元気づけたい。その悲しみを、ほんの少しでも和らげてあげたい。
今、抱いているこの思いも……そうなのだろうか。
結局は自己満足に過ぎず、澪には届かない。そんなものなのだろうか。
そんなことを考えていると、ぽんっ、と。不意に栞里の頭の上に手が置かれる。
紗代の手だ。
突然のことに目をぱちくりとさせる栞里に、紗代はくすりと笑みを漏らす。
「七夏ちゃんから聞いたの。栞里ちゃんはたぶん、気に入った人の頭を撫でる癖があるんだって」
「私にそんな癖が……」
「自覚なかったのね」
紗代は優しい手つきで手を動かしていく。
「きっとそれは、栞里ちゃんが知っているからなのよね。その温もりの大切さを。いつか誰かにこうして頭を撫でてもらうことが、栞里ちゃんは大好きだったのね」
「……」
「そんな辛い顔しなくたって大丈夫。あなたの思いは、きっと澪ちゃんに伝わるから」
心でも読めるのかというくらい、落ち込んだ栞里のためにかけてくれる言葉の数々は的確だった。
「さっきも言ったでしょ? 互いを思い合う魔法少女が……って。あなたが澪ちゃんをそうやって思っているように、澪ちゃんもまた、あなたを思っている」
「澪が……私を?」
「そう。あなたの力になりたい。助けになりたい。そんな風に思っている」
「あ……」
それはもう、澪の口からとっくに直接聞いていた言葉だった。
「栞里ちゃん。あなたは私や七夏ちゃんとは違うわ。澪ちゃんにとって、あなたは第三者なんかじゃない。夢を見たっていうのはね……そういうこと」
「紗代……」
「だから自分を信じて? 栞里ちゃん自身が、やるべきだと思ったことを貫くの。それが一番良い未来に繋がってるはずだって、私は思うわ」
なんて言うと、紗代は朗らかに微笑んだ。
……胸の内がぽかぽかと温かい。
紗代はさきほど、自分たちはしょせんは第三者だと言った。自分たちがなにを言っても、自己満足に過ぎないと。
それでも彼女たちは、ずっと栞里と澪のことを気にかけてくれていたのだろう。
過去の出来事は変えられないのだとしても、今日は、明日は、笑えるようにと。
「紗代」
「んー? なにかしら」
「ありがとう」
「ふふっ。ええ。ほんのちょっとでも力になれたのなら、よかったわ」
澪にどんな言葉をかけられるかは、まだわからない。
もしかしたら届かないかもしれないし、拒絶されるかもしれない。
だとしても、彼女を今のまま一人きりにさせてはいけないのだと栞里は思う。
たとえその過程が異なっていようとも、一人になることを寂しいと感じる気持ちは、同じはずだと思うから。
「はーい、それじゃあ今日はここまでだね。皆、今日もおつかれさま」
魔法少女としての見回りを終えて部室に戻ってきた四人に、魔導協会からの連絡事項を話した後、レンダはそう締めくくった。
協会からの連絡は、二週間後の土日に精霊獣エプシロンを対象とした大規模な調査を実施することが決定したこと。それまでは、今まで通りパートナー同士で同居すること。
主にはその二つだった。
(精霊獣……個体、エプシロン)
昨日聞いた時は、まだ他人事のようだった。
テレビ越しにニュースを聞いているような、そんな感覚。
だけど今はもう知っている。エプシロンとは、澪の家族を奪ったものの正体だ。
そして昨日ここで見た資料にあった、奇跡的に無事だったという一人の目撃者。それこそが澪である。
(……澪)
横目で彼女の顔を覗いてみる。
普段通りの表情を張りつけているが、ふっと栞里が視線を下げると、その拳が固く握られていることに気づく。
昨日レンダの話を聞いていた時も、同じような反応をしていたのだろうか。
「明日と明後日は土日で休日ってことになってるけど、緊急の呼び出しが来る可能性もあるから電話にはいつでも出られるようにしておいてね」
「はーい。って言っても、確かエプシロンが行動起こす時って電波妨害の魔法とか使ってくるんじゃなかったっけ?」
七夏が確認を取ると、レンダが困り顔で頭を抱えた。
「それなんだよねぇ。今ちょうど協会の方でそれの対策中でねー。その対策が完了するのが予定的にちょうど二週間後くらいでさ」
「あー、だから二週間後に大規模な調査……」
「ほんと、厄介な魔法を作ってくれたものだよ。いくら僕たち精霊でも、瞬時に魔法を作れるわけじゃない……ましてや、同じ精霊が作った魔法への対策となるとね。どうしても時間がかかるんだ」
レンダは、やれやれと肩をすくめた。
「でもまあ、いくら電波妨害って言っても効果範囲は必ず存在するから、その外にいる人同士なら連絡が取れる。必ずしも呼び出しが来ないってわけじゃないから、一応注意しててね」
「ほいほい。了解ー」
そんなこんなで解散となり、七夏と紗代はそれぞれお疲れさまと口にして去っていく。
栞里も軽く手を振り返し、いざ澪とともに帰ろうと思ったが、一つやり残したことを思い出した。
「栞里ちゃん? 帰らないの?」
「ん……ちょっとレンダと話がある。すぐ終わるから、外で待っててほしい」
「はーい。じゃあ、校門前で待ってるね」
そう言うと、やはり普段通りの明るい顔で微笑んで、澪は部室を後にした。
夢を見なければ、澪がとてつもなく重いものを抱えていることに、ずっと気づかなかったかもしれない。
彼女自身、誰にも心配させまいとしているのだろう。
一番苦しいのは澪のはずなのに、まるで自分から一人になるみたいに、いつだって気丈に振る舞っている。
「それで栞里、話ってなにかな。栞里はまだ魔法少女になって間もないし、なにか質問とか?」
小首を傾げるレンダに向き直ると、栞里は制服の袖をめくり、魔力結晶が埋め込まれた腕輪を外した。
「いらない魔法がいくつかあるから、代わりに新しい魔法を入れてほしい」
「ありゃ……そういうの、まずはデフォルトの魔法に慣れてからの方がいいと思うけど……まあでも確かに、栞里の特異魔法のことを考えると、いらない魔法もいくつかあるか」
栞里から腕輪を受け取ると、レンダは「どんな魔法がいいの?」と希望を聞く。
昨日はまだ考えが固まっていなかったが、今はもう、どんな魔法が必要かのイメージは明確にできていた。
「今から聞くみたいな魔法がもしあったら、それを入れてほしい」
そう前置きして、栞里はレンダに欲しい魔法の具体例を告げた。
✿ ✿ ✿ ✿
栞里が昇降口から出て校門の方を見ると、栞里に気づいた澪が手を振っていた。
「おかえり栞里ちゃん。レンダちゃんとなに話してたの?」
「ん、ただいま。ちょっと魔法入れ替えてもらってた。あと、これ」
「……? これは?」
栞里が澪に手渡したのは、クマ柄のお守りだ。
「レンダが渡し忘れたって」
「そうなんだ。精霊獣関係で最近物騒だもんね」
澪と並んで、帰路を歩く。
話題は自然と今日の魔法少女活動のことになっていった。
「栞里ちゃん、今日は紗代先輩と一緒だったよね? 紗代先輩、どうだった?」
「ん……よく私のことを見てて、気にかけてくれた」
「そっかー。紗代先輩ってすごく落ちついてて、ほんわかってしてて取っつきやすくて……なんていうか理想のお姉さんって感じでしょ? えへへ。実は憧れの先輩なんだ」
栞里が見た夢によれば、澪は実際に妹がいるお姉ちゃんのようだったから、より一層憧れが強いのだろう。
栞里は、かつて澪の身に起きたことについて、いつ話を切り出そうか迷っていたが、少なくともこんな人通りがある場所でする話ではないだろうと思い直し、一旦その思考は打ち切る。
今は澪と他愛もない話を続けよう。
「栞里ちゃん。ちょっと寄って行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
「……? うん」
今日は栞里と紗代のペアも、澪と七夏のペアもどちらもヘイトリッドには遭遇しなかったため、昨日より帰る時間は少し早い。
夕暮れに染まり行く空を見上げる。
近場なら寄り道しても暗くなる前には帰れるだろう。
「ありがとね。じゃあ、こっち来てー」
栞里の自宅への道から外れ、澪の案内に従って進み始める。
なにか買い物でもしていくのか。あるいは、澪の家に忘れ物でも取りに行くのか。
そんなのんきな想像をしながらついていった先にたどりついた場所は、病院だった。
(ここは……)
そこは栞里にとっても馴染み深い場所だ。
母が亡くなる数ヶ月前まで毎日のごとく通っていた、母の病室があった病院である。
「ここはね、魔導協会が支援してる施設の一つなの。病院とか、孤児院とか……協会はそういう世界中のいろんな施設に支援してて、その代わりに魔法の存在の隠蔽とかに力を貸してもらってたりしてるんだって」
澪の説明を聞きながら中に入っていく。
病院についた頃から、澪がなにか怪我でもしてしまったか、それともどこか調子が悪いのかと栞里は心配していた。
だけどそんな思考は、澪が受付で口を開いたタイミングで吹き飛んだ。
「父と母と、妹の面会に来ました」
「っ――」
夢の記憶がよみがえる。普通の夢と違い、時間を経てもおぼろげになることのない、現実感が伴った不思議な夢。
あれが澪の記憶の再現だとするのなら、澪以外の澪の家族は皆、精霊獣に襲われてしまっている。
だが思い返してみれば確かに、夢の中の三人はあくまで気を失って倒れていただけで、命を落とした人間は一人もいなかった。
今もまだ生きているのは自明だ。
だけど精霊獣の被害にあった人たちは、確か……。
栞里は澪の方を見るが、彼女は栞里をちらりと一瞥しただけで、なんの説明もしてくれない。
「栞里ちゃん。こっち」
「……」
病院への道中はそれなりに話をしながら歩いていたが、今は互いに無言だった。
栞里が見た夢のこと。澪の両親のこと。ここにつれてきた理由。
聞きたいことは山ほどあったけれど、そのどれもが見境なく頭の中で混ざり合って、うまく言葉になってくれない。
それに、その答えは急がずとも間もなくあちらからやってくるということも、栞里はなんとなく理解していた。
「ついたよ。お父さんは別部屋だけど……」
澪と同じ凪沢の姓を持つ二人の名前が書かれた病室の前で立ち止まって、澪が栞里の方に振り返る。
引き返すか、否か。そんなことを問いかけるような視線だった。
栞里がそれを正面から見返すと、栞里の意を汲み取った澪は小さく頷いて、病室の戸を開ける。
「入って」
先に入った澪の手招きに応じ、栞里も中に足を踏み入れた。
二つあるベッドの片方には大人の女性が一人、そしてもう片方にはまだ一〇歳前後だろう小さな少女が横になって瞼を閉じ、眠っている。
それだけなら普通の病室だったのだが、唯一異様だったのは、二人とも器具でベッドに拘束されていたことだ。
二人のうち、小さな少女の方に澪が近づくと、物音に気がついたのか、少女がおぼろげに瞼を開けた。
「かほ。お姉ちゃんだよ。元気にしてた?」
澪が微笑みながら声をかけてからしばらく、少女――かほは返事もせず、ぼーっとしていた。
顔を右に向け、左に向け、それから澪に向けて。
「おーえぁー?」
そんなことを、彼女は言った。
呆然とする栞里をよそに、澪はかほに言葉をかけ続ける。
「ちゃんとご飯食べた?」
「いぅあー」
「看護師さんに迷惑かけてない?」
「まーう。う、う、うあーおー」
「……わたしのこと、覚えてる?」
「へあーぅ、おあーっ」
頷くとも、首を横に振るともしない。
ただ舌足らずの無感情な声が、病室にこだまする。
まるで、生まれて間もない赤ん坊のようだった。
精霊にとっての栄養。それは、人間の精神。記憶、思い出。
かつてレンダが語った、精霊の正体が頭をよぎる。
そうだ。精霊獣に襲われたということは、記憶を食われたことを意味する。
たとえ体は生き残っていようとも、家族や友人との思い出も、努力し打ち込んだ経験も、当たり前のように使っていた言語さえ、全部忘れてしまうことを意味していた。
「……ぅ?」
かほの声で目が覚めたのだろう。
澪の母が横たわっているもう片方のベッドの方で呻き声が聞こえて、栞里と澪はそちらに視線を向けた。
澪の母は初めこそ朦朧とした眼で天井を見上げていたが、突如目を見開いたかと思うと、これでもかというほど大きく口を開けた。
「ああぁああああああっ! うぅぁああああああっ!」
ガシャガシャと拘束具を鳴らし、焦点の定まらない瞳をあちこちに向けて、口の端から涎が垂れることにも構わず、大声を上げる。
栞里が目を丸くして固まっていると、澪はその横を通り過ぎて、自らの母に近づいていく。
「大丈夫だよ、お母さん。なんにも怖くないよ。怖くないから、ね」
言いながら、澪は手を伸ばした。子どもをあやすように、頭を撫でる。
澪の母はその一瞬、叫び声をやめた。
声が届いたのだろうか。そう思いかけた次の瞬間、彼女は思い切り澪の手首に噛みついた。
「痛っ……!」
「澪!」
栞里は即座に澪の母を澪から引き剥がして、痛々しく歯型がついた澪の手首に《回復》の特異魔法を使う。
澪の母は、そんなものを気にも留めず、また叫び始めていた。
「ありがとう、栞里ちゃん」
「……澪……これは……」
「……そう。これが、精霊獣エプシロンに襲われた人たちの末路だよ」
大の大人が、癇癪を起こした子どものように暴れている。そんな目の前の光景は誰がどう見ても異常だった。
かほの方も、その叫び声を聞いて泣きわめき始めた。もう収拾はつけられそうにない。
澪は慣れた様子で看護師を呼ぶと速やかに病室を退去して、廊下をしばらく歩いた後、誰もいないベンチに座った。
「……澪は、いつから気がついてたの? 私が澪の過去を知ったこと」
長い沈黙を経て、最初に言葉を発したのは栞里の方だった。
澪が気づいていたことは明白だ。そうでなければ、あんな様子の自分の家族を見せようだなんて思うはずがない。
澪は苦笑して答えた。
「そんなの朝に出て帰ってきてからすぐに気がついたよ。だって栞里ちゃん、明らかに様子おかしかったんだもん」
「そう、だった?」
「どこに行ってたの、とか全然聞いてこないし。今日はずっと雰囲気暗かったし……授業中も上の空、は昨日もだったけど……」
それにね、と澪は続ける。
「わたしも……夢、見たから。栞里ちゃんのお母さんが亡くなる、少し前の夢」
「……」
互いを思い合う魔法少女が、互いが資格を得るに至った夢を見る。
それが心の共鳴という現象だとすれば、栞里が澪の夢を見たように、澪が栞里の夢を見たこともまた、至極当然のことだ。
栞里と違って澪は心の共鳴については知らないはずだが、それでも直感的に気がついたのだろう。
栞里が同じように、澪の夢を見たことを。
「知られないようにずっと気を張ってたのに、夢でばれちゃうだなんて……魔法少女って不思議な存在だよね」
「……」
「栞里ちゃんは優しいから、きっとわたしを元気づけようと一所懸命悩んでくれてるんだろうなって、そう思ってた」
ぽつぽつと澪は言葉を漏らしていく。
「だからね、申しわけないなぁ、って思ってたんだ。わたしなんかのことで気に病ませちゃって、申しわけないなぁ……って」
「……澪は、『なんか』なんかじゃない」
わたしなんか。
そんな風に自分のことを軽んじて考えてほしくなくて、そう口を挟んだ。
けれど澪は栞里の言葉を受け入れるつもりはないようで、首を横に振る。
「わたしなんて、なんかでいいんだよ。わたしは栞里ちゃんとは、皆とは、違うから」
「違うって……」
「……栞里ちゃんは知らないだろうけど、特異魔法っていうのはね、その人の心のあり方を表したものなの」
急に、魔法の話になる。
だけどそこに澪が自分を卑下する理由の一端があるのだろうと察し、栞里は黙って話の続きを待った。
「その人がかつて望んだこと。その人が抱いた憧れ。強い思い。そういう心が形になったものが、特異魔法なの」
そう言って、澪は自分の手首を見下ろす。
そこはさきほど、自らの母親をなだめようとして噛みつかれた箇所だった。
「栞里ちゃんの特異魔法は、すごく優しいよね。これ以上ないくらい優しくて……綺麗な力」
「そんなこと……ない」
「ふふ。そんなことあるよ。栞里ちゃんは、ずっとずっと治してあげたかったんだよね? 毎日毎日、日を経るごとに、どんどん病状が悪化していくお母さんを……」
わたしにはもったいないなぁ、なんて彼女は続ける。こんな綺麗な力を使われていいほどの人間じゃないのに、と。
栞里はなにも言えず、押し黙ることしかできなかった。
「栞里ちゃんだけじゃない。皆が手を取り合えるような七夏先輩の《調和》も、誰かへの憧れが形になったみたいな紗代先輩の《模倣》も、わたしには眩しすぎるの」
澪は不意に懐から十円玉を出すと、そのまま握りしめた。
「……どれもわたしの《破壊》とは大違いなんだもん」
澪が次に手を開いた時、そこに十円玉は存在しなかった。
代わりにあったのは、かつて十円玉だったわずかな黒い塵だけだ。
「《破壊》……それが澪の……」
「そう。栞里ちゃんとはまるで正反対で、誰かを傷つけて、壊すことしかできない……そんな心を持つ人間なんだよ、わたしは」
澪はかつて妹のかほを守りたい一心で、包丁を手に精霊獣に挑みかかった。
でも結局その刃は届かなかった。おそらくは、その精霊獣が行使した魔法に阻まれて。
だからこそ、澪は望んだのだ。
ただ、《破壊》を。
もしあの日の自分に、あの精霊獣の魔法を破壊し、殺せるだけの力があれば――と。
家族を元に戻すことではない。過去の事実を否定し、復讐のための力を得ることを澪は望んだ。望んでしまった。
「最初はね、お父さんやお母さん、かほの意識が戻ったって聞いた時、もしかしたらって気持ちがあったんだ」
精霊獣に家族を襲われ、魔導協会に保護されて以来しばらくは、眠ったままの家族の病室を訪れて眺めるだけだった。
大切なものを失ったような空虚感の奥に、まだどこかしら期待があったのだ。
目が覚めたら、なんてことないように笑って迎えてくれて、またあの幸せに戻れるかもしれない。
でもそんな期待は、目覚めの知らせを受けて病室を訪れた最初の日に崩れ去った。
『お母さん、目が覚めたの!?』
病室の扉を開けると、母はベッドで横たわって天井を見上げていた。その目は確かに開いている。
嬉しさに涙が溢れそうだった。なくしたものが戻ってくる気がした。
だけど母に近づくと、澪はその異様さに気がついた。
『いぅー。うぅーあー』
『お母さん……?』
『あぅー』
この頃はまだ拘束されていなかったものだから、澪の母は突然ごろごろと体を動かし始めたかと思うと、そのままベッドから転げ落ちた。
澪は慌ててベッドに戻そうと近づいた。しかし澪の母は澪には目もくれず、まるで歩くことさえ忘れたみたいに四つん這いになって歩き始める。
『どう、したの……? お、お母、さ……』
近くでもう一度声をかけてようやく澪のことに気づいたようで、澪の母が澪を見た。
まだほんの少し、期待していた。
自分の名前を呼んでくれるかもしれない。覚えてくれているかもしれない、と。
……だけど。
『おあーっ』
『ひっ』
赤ん坊のようなつたない声を上げ、手を伸ばしてくる母の手を、澪は無意識に振り払っていた。
澪の心が、こんなのは自分の母親などではないと拒絶した。
そうしてその時、ようやく澪は理解した。
もう澪以外の家族の誰一人として、今まで一緒に過ごした思い出を覚えていない。
自分は、一人になったのだと。
「……ずっとずっと、消えてくれないの。お父さんやお母さん、かほのことを考えるだけで、どうしようもない怒りが湧き上がって、わたしの心を支配するの」
ぎゅう、と。澪は胸の前で手を強く握りしめる。
「今回だってね……わたしは、栞里ちゃんを傷つけるためにここに来たんだよ」
「私を……傷つける?」
「わたしの家族の状態を見せれば、わたしを止めることを諦めてくれると思ったから」
今までに見たことがない、怒りの感情をたたえた暗い表情を彼女は浮かべていた。
栞里の前では、ずっとそれを隠してきたのだろう。
でも本当はきっと、自分のすべてを奪ったエプシロンに対して、彼女はずっと怒っていた。
「栞里ちゃんは気づいてるんでしょ? わたしが朝に外出してた理由」
「……精霊獣エプシロンを探し出して、始末するため」
澪は頷いて肯定する。
「もし見つけられても……たぶん、敵わない。精霊は魔法少女よりずっと強いらしいから。ましてや新米魔法少女のわたしなんかじゃ、絶対返り討ちだと思う」
「……」
「でもね。それでも、せずにはいられないの。お父さんやお母さん、かほと同じような末路になるんだとしても……やめられない」
澪は、懇願するように栞里を見た。
「だから、栞里ちゃん……わたしのことは放っておいていい。救わなくていい……忘れてくれたっていいから。どうか……わたしのことは諦めて?」
「澪……」
「わたしの、一生のお願い」
姿勢を正し、澪は真摯に頭を下げた。
栞里は、澪が今、どんな気持ちなのかを想像してみる。
澪の家族の状態に、自分の母親を当てはめて、想像してみる。
……痛みで胸が張り裂けそうだった。
(……どうすれば……)
一番苦しいのは自分のはずなのに。一番悲しいのは自分のはずなのに。
忘れてくれたっていいだなんて。
そうされることの痛みを誰よりも知っているはずなのに、そんなことを自分から言ってしまえるくらい傷つきながら進もうとしている彼女を、どうすれば癒やしてあげられるだろう。
誰にもすがろうとしない彼女に、辛い時は目一杯甘えていいのだと、どうすれば教えてあげられるのだろう。
(お母さん……)
――一つ目は、言葉を大切にすること。言葉は力を持つから。
――あなたの言葉が誰かを救うこともあれば、きっと、誰かを傷つけることもある。その責任は他の誰でもない、あなたのものなの。
母から言われた、大切にしてほしいと言われた三つのことのうちの一つ。
どんな言葉なら澪に気持ちを伝えられる?
どんな言葉なら……。
「……澪」
まだ、わからない。まだ見つからない。
それでも少なくとも、今の彼女をこのままにしておくわけにはいかない。
その一心で栞里は口を開いた。
「澪は一つ、勘違いしてる」
「……勘違い?」
「私は澪を止めたいわけじゃない。澪の力になりたいと思って、ここにいる」
「えっと、それって……?」
「つまり、澪の精霊獣探しを手伝いたいってこと」
そう言うと、澪は見るからに狼狽え始めた。
「な、なに言ってるの栞里ちゃん!? そんな、き、危険だよっ? 下手したら栞里ちゃんも……!」
「危険云々は澪には言われたくない」
「そ、それは……でもっ」
「どうして慌てるの? 澪は、私を傷つけるためにここに連れてきたんでしょ?」
「ちがっ……わない、けどっ……これはわたしの問題で……!」
乱心した栞里をどうにか止めようと躍起になっている澪を見て、ああ、と栞里は気づいた。
結局のところ、澪はただ、栞里を巻き込みたくないだけなのだ。
栞里を傷つけるためだなんて彼女は言っていたけれど。
きっと彼女は、わざわざそうなるように仕向けた自分を誰よりも嫌って、栞里が傷つく以上に、自分で自分の心を傷つける。
澪は嘘つきだ。
嘘をつくにはいささか純粋すぎて、不器用な嘘つき。
「ねえ、澪」
一度言い始めたら、次々に言葉が浮かんでくる。
言いたいことがたくさんあった。伝えたいことがたくさんあった。
「お金は……とても大事だから。人間社会において九割以上のものはお金で買える」
「え? う、うん」
急になんの話? と、澪は目をぱちくりとさせる。
「私が作った卵焼き、おいしかった?」
「おいしかった……よ?」
「ちょっとしたことで澪とおかえりとただいまって言い合うの、実は私結構気に入ってる」
「わたしもそれは悪い気はしないかなって思ってた、けど……」
「あのLEINっていう謎の通話アプリももっと使って澪と話してみたい」
「謎ではないよ……?」
「勉強会も楽しかった。あの疑いようもなくコアラのぬいぐるみも、澪に気に入ってもらえてたみたいで嬉しかった」
「えっと……栞里ちゃん……?」
栞里がなにを言いたいのか掴めないようで、澪は困惑している。
けれど栞里が言いたいことなど、本当に簡単なことだ。
「澪。澪は私を巻き込まないように、私を遠ざけようとしてる。わざと嫌われるようなことをしてまで。違う?」
「……それは……」
「自惚れかもしれないけど……それは澪が、私のことを大切だって思ってくれてるからだって、私は感じてる」
大切だから、失いたくない。父や母、妹と同じようになってほしくない。
澪は栞里のことを、そう思ってくれている。
でも澪はまだ気づいていない。それは結局、逆も同じことなのだ。
夢を見たということは、お互いがお互いを思っているということで、それはつまり、栞里もまた澪のことを大切に思っているということで。
同じように、失いたくないと思っている。
「澪。私は澪がいなくなったら、悲しい。澪が私のことを忘れたら、もっといっぱい悲しい」
「……栞里ちゃん……」
「私がいなくなったら、きっと澪がたくさん悲しんでくれるように、私も澪と同じ気持ちになる」
澪は、辛そうだった。
どうかそんなこと言わないでほしい。お願いだから、もう、自分なんかに構わないでほしい。
そう懇願するような、悲しい顔だ。
でも栞里は、澪にそんな顔をしてほしいわけじゃなかった。
だからまだ、伝えなくてはならない。
もしかすれば彼女がもっと辛く、悲しい思いを味わう結末に終わるだけかもしれなくても、伝えなくてはならない。
「私は澪と出会ってから過ごした時間の全部を、大切だって思ってる。でも……それだけじゃない。私はまだ、もっと先のことを夢見てる」
「先のこと……?」
「うん。私はもっと澪と一緒にいたい。もっといっぱい話して、遊んで、それから……」
照れくさそうに、それでいて嬉しそうに、栞里は言った。
「――いつか澪と、本当のパートナーになりたい」
胸の前に手を当てて、心からの好意と感謝を込めて、栞里は澪に向かって笑いかけた。
――パートナーとして、栞里ちゃんの助けになりたいの。
思い出す。
澪がその言葉をかけてくれた時に感じた、かけがえのない気持ちを。
暗い深海の底にいたような心の奥に、ぽうっと明かりが灯って、ドキドキと胸が高鳴るような、不思議な感覚。
それを思い返しさえすれば、栞里はもう、どんな時だって笑えるような気さえした。
(そうだ……これが、私が澪に伝えたかったもの……)
これが母を亡くし、心に穴が空いたように空虚に過ごしていた栞里が、澪からもらったものだ。
知ってほしかった。たったの数日だとしても、一緒に過ごしたその短い時間を、栞里がどれだけ大事に思っているのか。愛しているのか。
もしこれでも思いが届かず、「そんなのどうでもいい」と拒絶して破滅の道を歩むようなら、もう栞里には澪を止められない。
だからせめて、さきほど澪が栞里に願ったように、栞里もまた澪に願ってみる。
もしも澪が同じ気持ちなら、これから先もその時間を一緒に紡いでほしい。
そう、強く願う。
「…………ずるい……」
長い沈黙を経て返ってきた言葉は、そんな三文字だ。
はっと栞里が澪の顔を見てみれば、彼女は泣いていた。
悲しさも嬉しさも、過去の思いも未来への思いも、全部が全部ごちゃまぜになったような顔で、大粒の雫を大量に瞳から流して泣いている。
そんな反応をされるとは露ほども思っていなかった栞里は、思わずその涙を拭おうと澪の顔に手を伸ばした。
けれど澪はそんな栞里の手を置き去りにして、栞里の胸に飛び込む。
「み、澪?」
背中に手を回し、これでもかというくらい強く抱きしめて、戸惑う栞里を離そうとしない。
「わたしは……先のことなんて、考えたくなかったのに……なんで……なんでそんなずるいこと言うの……」
終わるつもりだった。
もう一度精霊獣に挑んで、それで終わりにするつもりだった。
生き残るつもりなんて、本当は最初からなかったんだ。
父や母、妹と同じ末路をたどるなら、それでもいいと諦めていた。
始まったばかりの高校生活も、魔法少女としての日々も、栞里との語らいも。
すべてを奪った精霊獣を見つけるまでの、最期の思い出作りのつもりだったのに。
なのに。
なのにどうして、そんなわたしに未来の話なんてするのか。
「ひどいよ、栞里ちゃん……ひどい……」
「……ごめんね」
違う、違う、違う。
澪は何度も首を横に振った。
謝ってほしいわけじゃない。そうしなきゃいけないのはむしろ、澪の方なのだ。
だから、答えなければ、と思った。
栞里の思いに、願いに、答えなければ。
「……わたしも……」
澪は、その続きを言ってしまえば、今までの自分の強がりのすべてが容易く崩れてしまうことを知っていた。
そのことをずっと拒絶していたはずだったのに。それだけは言ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせていたのに。
一度言い始めてしまったら、それは心の底からの本音のように、するりとこぼれ落ちた。
「わたしも、もっと皆と……栞里ちゃんといたい……いたいよ。栞里ちゃんと……いつの日か、正式なパートナーになりたい……」
望んでしまった。終わりにするはずだった未来を。
ありえるかもしれない未来を夢想して、自分もそこに行きたいと、思ってしまった。
もう、堪えるのは無理だった。
ずっと一人で抱えて隠していた痛みが溢れ出す。誰にも見せずにいた涙が堰を切って止まらない。
「……お父、さん……お母さん……ぅ……かほぉ……」
栞里の胸に顔を埋めたまま、澪は泣きわめいた。
栞里はそんな澪の背中に手を回すと、微笑みながら、もう片方の手で頭を撫でる。
「……澪。私も澪を手伝うよ。一緒にエプシロンを見つけ出して、私たちの手で、全部終わりにしよう」
「……うん」
「負ける気なんてない。絶対に勝って、私も澪も、その先を一緒に生きるの」
「……うん」
栞里と澪がしようとしていることを知ったら、七夏や紗代、レンダはなにがなんでも止めようとするだろう。
これはそれほどまでに危険なことだ。
だけど、やめるつもりは毛頭なかった。
これ以上、誰も悲しむことがないように。
そして澪と同じ未来を生きるために、必要なことだ。
必ず勝つ。そして、二人で生き残る。
「澪も、約束だよ」
「…………う、ん」
涙声で言葉を支えさせながらも、確かに澪はそう答えた。
澪が泣き止むまで、栞里は澪をよしよしと撫で続ける。
澪が栞里を拒絶しようとすることは、もうなかった。
二人が栞里の家に帰ってくる頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
「その……本当にごめんね、栞里ちゃん」
「それは何度も聞いた。澪が謝ることじゃない」
家族の状態を事前になにも教えず病院に連れて行ってしまったこと。栞里に辛い気持ちを味わわせたこと。他にもいろいろ。
そんなことの一つ一つで、道中ですでに同じ謝罪の言葉を数え切れないほど聞いていた栞里は、若干呆れながら同じ答えを返す。
しかし栞里の返事に、すっかり瞼を泣き腫らしてしまっている澪は「そうじゃなくて」と、ふるふる頭を振った。
「その……服……」
「服?」
「栞里ちゃん気づいてないけど……わたしが泣いたせいで、ぐちゃぐちゃになってるから……それも、よりにもよって制服が……」
気まずそうに視線をそらす澪の言葉を聞いて、栞里はようやく自分の体を見下ろして、その惨状に気がついた
澪が顔を埋めていた辺りが湿ってふやけて汚れてしまっている。
「…………乾けばきっと大丈夫」
「答えるまで間があったけど……」
「……」
栞里は無言で制服を摘むと、湿った部分を鼻に当てて息を吸い込んだ。
澪は一瞬ぽかんとした後、瞬時に顔を真っ赤に染めて栞里に詰め寄る。
「ちょ、ちょっとぉ!? なにしてるの栞里ちゃんっ! 汚いよ!?」
「大丈夫……澪の香りしかしない。これなら乾けば大丈夫……」
「全然大丈夫じゃないからぁっ!」
主にわたしの方が! という心の声が今にも聞こえてきそうな叫びだった。
「ク、クリーニング代ならわたしが出すし……ちゃんと洗おう? ねっ?」
「むぅ」
「制服は大事にしないと!」
澪の凄まじい剣幕に押されて、栞里はしぶしぶ了承する。
澪は心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
(し、栞里ちゃん、たまに平気な顔でとんでもないことしでかすなぁ……)
動転したせいで未だドキドキと激しく脈打っている心臓を落ちつかせながら、澪は栞里とともに居間に向かった。
昨日と同じように二人で台所に立って、夕飯を作る。
昨日と同じように……。
「えへへ」
栞里に家族の様子を見せに行こうとした時から、澪はもう、栞里と今まで通りに接することはできなくなるだろうと思い込んでいた。
でも今、すべてを話した後でも変わらず、栞里は自分の隣にいてくれる。
それがなんだかたまらなく嬉しくて、澪は調理中、たびたび堪えきれず笑みをこぼしてしまっていた。
「昨日はわたしが先に入れてもらったから、今日は栞里ちゃんが先にお風呂かな。その制服も、あんまり長く着てない方がいいだろうし」
夕飯を食べ終えて、澪がそう言うと、栞里は肯定の返事も否定の返事もせず、じっと澪を見つめ始めた。
「えっと……どうかした? 栞里ちゃん」
「昨日は一人ずつだったから、今日は一緒に入ろう」
「はい? ……え、えぇええっ!? 一緒にって、あの、一緒にお風呂に入るってことっ?」
「それ以外にどんな意味が?」
「い、いや……でも……」
高校生にもなってそれは……と澪が躊躇していると、栞里が見るからにしょんぼりし始める。
「むぅ……駄目?」
「だ、駄目…………ではない、けど……」
「……けど?」
「…………駄目じゃない、です」
「そっか。じゃあ、せっかくだから一緒にお風呂、入ろう」
お風呂の話になった時に、ずっとそれを言い出そうとしていたのだろうか。
二人で一緒に入るのがそんなに楽しみなのか、栞里の目はきらきらとしていた。
そんな目をされては前言を撤回して断れるはずもなく、澪は縮こまりながら栞里の後に続いた。
着替えを用意し、脱衣所で服を脱いで、浴室へ。
一緒に入るとは言っても、栞里の家はそこまで広くはないし、お風呂も一般家庭のそれと大差ない。
さすがに十代後半の少女が二人入るには手狭で、当然ながら体を洗うのも順番ずつだ。
(……もしかして、わたしが一人になる時間がないよう、栞里ちゃんなりに気を遣ってくれたのかな……)
一足先に体を洗い終え浴槽に浸かっている澪は、髪を洗う栞里をぽーっと眺める。
(わたしはもう……平気なのになぁ)
今なら、なんとなくわかる気がする。
自分はたぶん、きっとずっと心のどこかで、誰かに自分のことを全部話して、思い切り甘えてしまいたかったのだ。
痛みも、悲しみも、苦しみも、怒りさえも。
その全部を受け止めて、受け入れてほしかった。
でも、そうしてくれるような人はもういないから。そうしてくれるかもしれなかった人こそを、失ってしまったから。
だから諦めてしまっていた。
でもそんな自分に、栞里が手を差し伸べて、救ってくれた。
感謝してもしきれない。
(……それにしても……)
年甲斐もなく栞里の胸に抱きついて、泣きわめいた時のことを思い出す。
あんなことをしでかしてしまった恥ずかしさだとかなんだとか、そういう気持ちはもちろんあるが、澪が今思い出しているものはそういう感傷的、もといセンチメンタルな感じのものでは全然なく、もっとずっと現実的なものだった。
(…………栞里ちゃんの胸、柔らかかったな……)
あられもない姿で体を洗う栞里を見ながら、澪はそんなことを思った。
(紗代先輩よりは小さいにしても……栞里ちゃんもなかなかだよね。や、紗代先輩が大きすぎるだけなんだけど……でもわたしは、栞里ちゃんくらいの方が好きかも)
頭の中だからと割と好き勝手なことを考えつつ、澪は栞里から視線を外すと、比べるように自分の体を見下ろした。
(……ちんちくりんだなぁ)
はぁ、とため息をつく。
ちょっとはあるけれど、栞里や紗代には到底及ばない。七夏になら勝てるかもしれないが、五十歩百歩だ。
(うーん……大きいのと小さいの……)
「栞里ちゃんは、どっちが好きなんだろ……」
「私がどうかしたの?」
「栞里ちゃんは、大きいのと小さいの、どっちが好きなのかなって……」
「なんの大きさ?」
「なにって、だからむ――――ひゃわぁっ!? し、し、栞里ちゃんっ!?」
髪と体をちょうど洗い終え、急に名前を呼ばれたから反応しただけだったのだが、なぜか異様に驚かれて、逆に栞里の方が目を丸くした。
「え。ど、どうしたの澪。大丈夫……?」
「だ、だいじょ、だいじょぶ……だ、だけど、い、い、いつからわたし……ど、どこから口に出てた、の……?」
「私が大きいのと小さいの、どっちが好きかって……結局なんの話?」
「えっと、あの、その……か、か、か」
「か?」
「カレーのにんじん! 栞里ちゃんは大きく切ったのと小さく切ったのどっちが好きなのかなってっ!」
目を右往左往とさせた後、瞼を力いっぱい閉じながら全力で言い切る。
あまりにも苦しすぎる言い訳だったが、栞里はこんなしょうもない言い訳で納得してしまったようで、なるほどと頷いた。
「私は小さい方が食べやすくて好き。中に火も通りやすくて、口の中で柔らかくとろけてくれる。澪は?」
「わ、わたしはその、大きくも小さくもない普通くらいの大きさが、食べごたえもあっていいかなって」
「そっか。じゃあ明日は澪の好みに合わせたカレーにしよう」
どうやらカレーを食べたいと思われてしまったようである。
得意げに人差し指を立てて提案する栞里に澪は内心謝った。
入浴を終えると、栞里の部屋で他愛もない話をする。
栞里はたびたびあくびをして、ずいぶんと眠そうにしていた。
それもしかたない。澪が朝早くに出かける際の物音で目覚めて、ずっと起きたままだったのだ。
澪は早朝の外出をここ最近何度も続けていたから慣れたものの、栞里はそうではない。
「明日は休日だから、一日中精霊獣探しができるね」
今日は明日に備えて寝ようということになると、明日することを確認するように栞里が言った。
「……うん。でも、栞里ちゃん。本当に……」
本当についてくるの? と。
言いかけた言葉は、栞里に制止される。
「私も澪と同じ気持ちだって、そう言った」
「……ん」
栞里がいなくなったら澪が悲しむように、逆も同じだ。
そう言われたら、澪はもう言い返せない。
「……ねえ、栞里ちゃん」
「うん?」
「今日は、一緒のお布団で寝てもいい?」
「うん」
二つ返事だった。
お風呂の時は栞里が言い出したことだったが、今回は澪の方からだ。
(えへへ。わたしはもう平気だけど……今日くらい弱ったふりして甘えたって、罰は当たらないよね)
澪は栞里の布団に潜り込むと、向かい合って横になった。
顔が近くて、なんだかちょっとこそばゆい感じがして、少しずつ体温が上がってくる。
照明が消えると、栞里の顔が見えなくなって、ちょっとだけ不安になった。
だから澪は、布団の中で栞の手を手探りで探し当てて、ぎゅっと握った。
栞里の体温が、手のひらを通して伝わってくる。
(栞里ちゃんの匂い……なんだか、安心する……)
次第に澪の意識は遠くなっていく。
二人で入る布団の中はちょっと狭くて、少し暑苦しかったけれど。
大切な人と手を通して繋がっている距離感と、その居心地は、他のどんな場所よりも心地よく、心から安心できるものだった。
窓越しに聞こえる小鳥のさえずりに栞里が目を覚ますと、眠る澪の顔が目の前にあった。
一瞬思考がフリーズした栞里だが、昨日、一緒の布団で寝たことをすぐに思い出す。
「……澪」
ささやくくらいの小さな声音で、名前を呼んでみる。
返事はなく、澪は変わらず規則正しい寝息を立てている。
まだ寝ているなら無理に起こすこともないだろうと判断し、栞里は澪を起こさないようにゆっくりと上半身を起こした。
朝食を作るため、ベッドから出ようとしたところで、自分の手の片方が澪のそれと固く繋がれていることに気がつく。
「……」
それがなんだか甘える子どもみたいに思えて、気がついた時には、栞里は寝ている澪の頭を撫でてしまっていた。
(そういえば、私も昔、こんな風にお母さんと一緒に寝てたっけ)
もっとも栞里の場合は、子どもだった栞里の方からではなく、むしろ母の方から毎日のごとく嬉々として誘われていたのだが……。
(あの頃のお母さんも……今の私と同じ気持ちだったのかな)
当時のことを思い返しながら澪の髪をくすぐっていると、ふと、その頬が当初より赤みを帯びていることに気がついた。
よく見てみれば耳も同様に朱色に染まっており、足ももじもじと小刻みに動いている。
なんとなく、というかほぼ確信を持って、栞里は口を開いた。
「…………澪、起きてる?」
「………………起きてない、です」
なんて答えると、おそらくはずっと薄目を開けていた眼を外気に晒して、恥ずかしげに縮こまったのだった。
✿ ✿ ✿ ✿
朝食と身支度を済ませ、家を出た栞里と澪は、並んで街の中を歩いていた。
昨日まではほぼ制服で過ごしていたが、今日は土曜日で休日のため、二人とも私服である。
とは言え、目的が目的だ。いざという時に邪魔になったり転んだりしたりしないよう、動きやすい軽装を選んできている。
ついでに栞里は七夏から譲り受けたメガネもつけて、魔力の痕跡も見えるようにしていた。
澪は魔力操作は得意な方らしく、もう道具を使わずとも魔力を見ることはできるようだ。
「エプシロンの動向について、澪はどれくらい把握してるの?」
そろそろ桜も見れなくなってきてしまった並木道を進みながら、栞里は呟く。
澪は栞里が魔法少女になる以前から、エプシロンを探すためにある程度行動を起こしていたはずだ。
だからなにか心当たりでもないかと澪の方を見たのだが、澪は申しわけなさそうに首を横に振った。
「ごめんね。実は、わたしが危ないことしそうだっていうのはレンダちゃんにもちょっと危ぶまれてて……ここ最近まで家に監視もついてたし、あんまり大きくは動いてなかったんだ」
家に監視。そういえば、レンダもそんなことを言っていた気がする。
あの時は『一人だと危険だから』といったニュアンスだったが、実際のところはそれに加え、エプシロンが一度活動した場所としての警戒と、澪が危険なことをしでかさないかの監視の二つの意味も含まれていたのだろう。
しかし同時に、レンダが言っていたように、今の魔導協会は人手不足の問題も抱えてしまっている。
だからこそ、栞里の家に澪が同居するようになったことを皮切りに、監視の目もなくなった。
そしてそれによってようやく澪はまともに動けるようになったのだった。
「一応、便利そうな地図アプリを使って自分なりに調べてはいるんだけどね」
澪は自分のスマホを取り出すと画面を操作して、そのアプリを呼び出す。
栞里も横から覗き込んでみると、画面上に表示されたこの街の地図の上に、さまざまな色の線や記号が書かれている。
「えっとね……まず赤いバツ印がエプシロンが過去に実際に人を襲ったところで、右下の小さな数字がその時間帯。黄色で囲ってある部分が、もう魔導協会が目星をつけて密かに警戒してる場所」
澪は画面上を指差しながら丁寧に説明していく。
「緑の線は協会がよく巡回している基本ルートで……青い線は、私がエプシロン探しで行ったことがある場所。それから青い丸は、巡回ルートではないけど協会の関係者っぽい人を見かけたところかな」
「……澪。大きく動いてなかったって言ってなかった?」
一個人で調べるには凄まじいほどの情報量とまとめ具合だ。
栞里が疑わしそうな目線を向けると、澪はぺろりと舌を出した。
「えへへ、動いてはないけど調べられてないとは言ってないからね。それにしばらく協会に保護されてた関係で情報は結構持ってるんだよ、わたし」
レンダちゃんとかよく寝てるから書類も見放題だったし、と得意げに澪は続けた。
栞里の中でレンダの評価が三段階くらい落ちた瞬間であった。
「……でも、こうして見てみると、協会は結構広範囲で調査してるんだ」
澪が実際に足を運んだという青い線が引いてある部分はさすがに少ないが、それでもその短い線の上に、協会の関係者らしき人を見かけたという青い丸がちらほら見受けられる。
特に協会が注意しているらしい黄色で囲ってある部分も、今まで人が襲われた赤のバツ印の位置からある程度の推論を立てて定めているように感じた。
「これだけやってるのに尻尾が掴めない……ってことは」
「ってことは?」
「……エプシロンは、協会の調査情報を掴んでる?」
あくまでも可能性の話に過ぎないが、そう仮定してみれば、これから調べるべき場所にもだいぶ目星がつけられる。
「やっぱり栞里ちゃんもそう思う?」
「澪も?」
「うん。これはわたし個人の考えなんだけどね……エプシロンの正体は、レンダちゃんと同じように協会に所属してる精霊の一人なんじゃないかなって思ってるの」
協会に所属する精霊はヘイトリッドを主な食事として、むやみに人の記憶を食べることを禁止されている。
もしもエプシロンの正体が魔導協会に属する精霊だというのなら、すなわち裏切り者にほかならない。
「なるほど……確かにそれなら、いくら調べても尻尾が掴めないのにも説明がつく」
「精霊の姿は魔法で作ったものだから、いくらでも誤魔化しもきくだろうしね。でもそうなると、わたしがあの夜に見たエプシロンの顔や姿も、どの程度参考になるか……」
「ふむぅ……」
「たぶんだけど、裏切りの可能性には協会の人たちも気づいてるんじゃないかなって思うの。でも大々的にそんな推測を口にしたら、当然エプシロンに警戒される……」
栞里はここで、二日前にレンダから見せてもらったエプシロンについての資料の内容を思い出した。
「……だから資料には、精霊の裏切りを示唆するような記述はなかった?」
「うん。何度も言うみたいに、全部推測に過ぎないけどね」
ともすれば自分の人生を投げ売ってでもエプシロンを見つけ出そうとしていた澪の推測ならば、じゅうぶん信頼に足るものだ。
つまるところエプシロンを探すのならば、この地図上の印がついた箇所以外のどこかということになる。
「それじゃまずは、近くのこの辺から行ってみよっか。栞里ちゃんもそれでいい?」
「ん」
こうして二人は、澪の地図アプリを参考に調査を始めた。
エプシロンを見つけることももちろん重要だが、もう一つ注意すべきこともある。
それは魔導協会所属と思しき者に、栞里と澪の目的が露見しないように気をつけることだ。
もし独断でエプシロンを探そうとしていることが知られれば、まず間違いなく保護されて新たな監視をつけられる。
そうなればもう自由にエプシロンを探して回ることはできない。
幸いなことと言えば、栞里と澪の二人とも、まだ新米の魔法少女という点だろう。
協会の人間にほとんど顔が知られていない関係上、そもそも協会の所属だと悟られる危険自体少ない。
ただし栞里と違い澪は一度魔導協会に保護されているし、精霊獣事件の被害者の家族でもある。わかる人にはわかってしまう可能性もあった。
「似合うかな?」
そういうわけで栞里と澪の二人は急遽、澪の軽い変装用の小道具を買うために衣料品店を訪れていた。
少し大きめのキャスケット帽をかぶった澪が、姿見の前でくるりと回る。
「ん。似合ってる」
「えへへ……でも、なんだかちょっと残念そうな顔してるよ?」
本当は似合ってないんじゃ……? と不安そうにする澪に、栞里はふるふるとかぶりを振る。
「じゃあ、どうしたの?」
澪の問いに栞里は帽子の上から、ぽんっと澪の頭の上に手を置いて答えた。
「帽子越しだと……撫でにくい」
むむむ、と無念そうに唸る栞里。なにやらこだわりがあるようだ。
なるほどねぇ、と澪は苦笑した。
「……でも、似合ってるのは本当。これまで制服かパジャマしか見てなかったから、私服の澪は新鮮。帽子でさらにおしゃれになった。いじらしく咲いた花みたいで、とても可愛い」
「へっ!? あぅ、えとっ、その……うぅ……あ、ありがと……」
なんてことないように急に持ち上げてくるものだから、澪は一気に顔を朱に染め上げて、しぼみがちに返事をした。
「し、栞里ちゃんも、雰囲気が普段と違って見えて……すごくかっこよくて、可愛い、よ?」
「ん。ありがと」
「め、メガネも! 凛々しくて知的に見えていい感じ!」
「これはエプシロンを少しでも見つけやすくするためにつけてるだけだけど……私はまだこれがないと魔力の痕跡が見えないし」
「…………むー……」
澪なりに頑張って褒め返したつもりだったのに、なんてことないように流されて、澪はぷくーっと頬を膨らませた。
しかし澪はそこで良いものでも見つけたように顔を上げると、小走りで栞里の横を通り抜けた。
栞里の背後の商品棚にあった物を手に取り、栞里が声をかける間もなく会計を済ませて、栞里のもとに戻ってくる。
「はい、栞里ちゃん」
「……ヘアピン? もらっていいの?」
「うん。昨日たくさん迷惑かけちゃったから、そのお詫びとお礼を兼ねて……かな?」
「そんなのいいのに」
「わたしがしないと気が済まないだけだからいーのっ。それにね、さっき一目見た時に思ったの。絶対栞里ちゃんに似合うって。だからこれ、栞里ちゃんにつけてみていい?」
「……ん」
目を閉じて、頭を差し出した栞里の髪に、澪は買ってきたヘアピンをつける。
変に髪型を変えると本人も違和感を覚えるだろうから、邪魔にならないようサイドの髪をほんの軽くまとめる程度だ。
「はい、できたよ」
「……花の飾りがついてる」
姿見でヘアピンを確認し、指先で触れる。
さきほど澪がこのヘアピンを持っていった棚を見る。そこにはご丁寧にモチーフとなった花の名前も書かれていた。
「ルリトウワタ?」
「別名オキシペタラム、ブルースターなどだって」
栞里の聞いたことがない花の名前だったが、いつの間にやらスマホでネット検索をかけていた現代っ子こと澪が横から補足する。
「咲いた花の形が青い星みたいだからブルースターって呼ばれるようになったみたい。花言葉は……ふふ」
「……? どうしたの?」
「花言葉は、幸福な愛。信じ合う心、だって。栞里ちゃんにぴったり」
「ぴったりかな」
「ぴったりだよ。だって栞里ちゃんがそういう人だったから、わたしは今もこうして一緒にいられるんだもん」
栞里はもう一度鏡の前に立って、ヘアピンをつけた自分を見る。
そこで栞里は自分の口角がわずかに上がっていることに気がついた。
(……そっか。嬉しいんだ、私)
「ありがとう、澪」
「あ……う、うん……どういたし、まして」
栞里の笑顔に弱い澪は、顔を赤くして口ごもる。
(あ、あれ……褒めても全然照れてくれなかったから仕返しのつもりだったのに、これ結局わたしが二度恥ずかしい思いをして終わっただけじゃ……)
うー、と澪は頭を抱えてうずくまる。
栞里はそんな澪を見て不思議そうにしていた。
なにはともあれ澪の軽い変装用の小道具ことキャスケット帽を買い終えた二人は、ようやく本格的なエプシロン探しを始めたのだった。
「全然見つからない……」
「見つからないねー……」
道中の段差に腰を下ろし、若干の休息を取りながら、ため息をこぼす。
澪が持つ地図アプリを頼りに、印がついていない箇所を巡っていた栞里と澪だったが、結果は芳しくなかった。
そも、栞里と澪よりずっと人数が多く情報も手段も持っている魔導協会でさえ未だ補足できていない相手である。
栞里と澪の二人が必死になって捜索したところで、遭遇できる可能性はずっと低い。
無論それは栞里も澪も重々承知なのだけども、一日中探し回ってもなんの手がかりも得られないという徒労感はいかんともしがたいものだった。
「あっ」
澪がなにかに気づいたように声を上げたかと思えば、さっとキャスケット帽を深くかぶる。
澪がさきほどまで見ていた方に目線を向けてみれば、少し遠くの方をメガネをかけた二人の女性が歩いていた。
一見しただけでは普通の通行人にしか見えない。しかしよく観察してみれば、その二人はまるでなにか探しものでもしているかのように、さり気なく周囲に視線を配っている。
その二人が栞里たちとは別の方角に消えたのを確認すると、栞里は澪の肩をぽんぽんんと軽く叩いた。
澪はそれにおそるおそる顔を上げ、きょろきょろと辺りを見渡してから、ほっと息をつく。
「協会の人、だったよね。今の」
「たぶん」
澪はスマホの地図アプリの今いる地点に、協会の関係者らしき人を見つけた印として、青い丸を書き込む。
澪が協会から盗んだ情報の外を巡っているはずなのに、こうして書き込んだ青い丸の数は、今日だけでもう四つ目だった。
澪は青い丸の数を数えて、ふーむ、と唸る。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……協会の情報の外を探してるはずなのにこんなに見つかるってことは、やっぱり協会の人たちも情報が盗まれてる可能性は考えてるのかな」
「だと思う」
「もしかしたらわたしたちが今やってることなんて、協会の人たちが毎日やってることなのかもね……」
きっと栞里や澪が考えている以上の策や考えを、魔導協会は実施してきている。
それだけやっても、まだ見つかっていない。
栞里と澪の二人程度がエプシロンを見つけられる可能性自体、ずっと低いのだと思い知らされる。
「……もう結構な時間だねー」
すでに西の空は夕焼けに染まり、東の空も藍色を帯びて、夜の訪れを予感させた。
「今日はもう引き上げよっか。さすがに夜に探すのは危険すぎるから」
「……でも、夜の方が見つけられる可能性は高いと思う」
昼間は人目が多く、その犯行を関係のない一般人にさえ容易に見られてしまう危険がある。
少しでも騒ぎが起きれば、協会はすぐさま駆けつけるだろう。エプシロンもその危険は留意している。
実際、澪はかつて夜中に家をエプシロンに襲撃されたし、過去の被害のほとんども同様だ。
本当にエプシロンを見つけ出したいのなら、おそらく日が沈んだ後こそが本番だ。
しかし澪は栞里の提案に首を振った。
「わたしね、お父さんやお母さん、かほの仇を討ちたいって気持ちはもちろんあるけど、今はそれだけじゃないの」
「それだけじゃない?」
「えへへ……面と向かって言うと、ちょっと恥ずかしいけど……栞里ちゃんが昨日わたしにくれた言葉を思い出すとね、胸の奥の方があったかくなるんだ」
澪は自分の胸の前に手を置いた。
「大切な思い出がいっぱいあったはずなのに、もうそんなこと家族の誰も覚えてなくて、ほんの少し昔を思い出すだけでも辛くて苦しくてしかたなかった。でも今は……栞里ちゃんがくれたこの温もりがあれば、いつか笑顔で思い返せる日が来る気がするの」
「澪……」
「だからいいの。こんな気持ち初めてだから、うまく説明できないけど……その……栞里ちゃんが一緒なら、わたしはそれでいい」
澪はそう言って、照れくさそうに頬をかいた。
「ん……わかった。じゃあ続きはまた明日にして、今日はもう帰ろう」
「うんっ」
「と思ったけど、もう冷蔵庫に食材がないんだった。スーパー寄ってから帰ろう」
「あ、うん」
「ふふふ。そしてなんと私はちゃんと覚えている。今日は澪のリクエストのカレーにするって約束したこと」
「あはは……」
「気合を入れて辛口……ちょうどいい中辛……お母さんが好きだった甘口……どれも悩ましい……」
妙に張り切って悩み始めた栞里を見て、澪は苦笑した。
カレー云々は澪の苦しい言い訳から生じた勘違いなのだが、なんだかんだで澪も楽しみになってきていた。
だから敢えて勘違いの訂正はせず、「甘口がいいな」と希望を告げて、栞里の横を歩いた。
スーパーマーケットに入ると、二人は早速食材の吟味を始めた。
今日作るカレーの材料はもちろん、後日の献立もつらつらと考えながら、食品をカゴの中に積んでいく。
「あら」
そんな折、夜が近いこともあり、少し二人で手分けをして買う物を漁っている時だった。
「あ。ご、ごめんなさい」
振り返った拍子に、澪は同じように買い物をしていた女性に軽くぶつかってしまった。
澪が頭を下げると、その女性は「いいのよ」と返して、不思議な薄ら笑いを浮かべて去っていった。
「……あれ」
ふと足元を見ると、小さく畳まれた紙切れが落ちていることに澪は気がついた。
さっきまでは落ちていなかったものだ。
もしかしたら今ぶつかった人の落とし物かもしれない。だとしたら、早く拾って届けないと。
そう思い、紙に触れた瞬間、澪は言いようのない違和感を覚えた。
これ自体はただの紙だ。それは間違いない。
だけどなにか、普通と違うような……。
(……これ……もしかして、魔力?)
網膜に魔力を張って見てみれば、そこには確かに、ヘイトリッドが残すような魔力の残滓があった。
不審に思いつつ、紙切れを開く。
そしてそこに書いてあった文字に、澪は大きく目を見開いた。
『家族の記憶を取り戻したければ、
五年前の冬、妹にマフラーをプレゼントした小さな公園に一人で来なさい。
誰かに知らせるようなら、私はもう人前に出てこない。
あなたの家族の記憶は永遠に戻らない。
私は常にあなたを見ている。
あなたを愛するエプシロンより』
バクバクと、うるさいくらいに心臓が脈を打つ。
呼吸が乱れる。紙切れを持つ手が震える。
――エプシロンが、近くにいる。
「さっきの……!」
さきほどぶつかった女性の顔を、澪は見ていなかった。
彼女は一度もこちらに顔の正面を向けずに立ち去った。
それは敢えてそうしていたのだと今更になって気がつく。
精霊は人間の姿をかたどっている時、その瞳が見る角度によって色を変える。それが見えないようにしていたのだ。
慌てて後を追ってみたが、もうどこにもその後ろ姿は見当たらなかった。
(……でも……)
澪はまた紙切れに視線を落とす。
常にあなたを見ている。この文章を見る限り、まだ近くにいることは間違いない。
だけどそれは、澪の動きを監視するためだ。
監視して、協会に連絡するような怪しい素振りを見せれば、即座に逃げるため。
闇雲に手を打てば、せっかくの手がかりを失う羽目になってしまう。
(それに……『家族の記憶を取り戻したければ』って……)
澪はてっきり、一度精霊に食べられてしまった記憶は二度と戻らないものだと思っていた。
人が胃の中で消化してしまったものを食べる前の状態に戻せないように、もう消えてなくなってしまったのだと。
もしかしたら、こんなものは澪を確実に一人でおびき寄せるためだけの嘘っぱちに過ぎないのかもしれない。
だけどおそらく澪がそう考える可能性まで考慮した上で、エプシロンはこの紙切れを落としていった。
なぜなら『五年前の冬、妹にマフラーをプレゼントした、あの小さな公園』という、その一文。
澪は心当たりがあった。
そしてそれは、澪と妹のかほ以外の誰も知らない思い出のはずなのだ。
少なくとも、かほの記憶はまだエプシロンの中に残っている――暗にそう伝えるような、意地の悪い文章だった。
(……どうすれば……)
もし栞里に接触を図れば、その時点でエプシロンは澪の前に現れなくなるだろう。
なら、今すぐ電話で協会に知らせれば、あるいはエプシロンが逃げる前に間に合うだろうか?
……いや、エプシロンは電波を妨害する魔法を使うことができる。そしてそれを、おそらくもう使われている。
スマホを取り出したところで、どうせ圏外だ。
どれだけ考えたところで、結局のところ澪に提示されている選択肢は、エプシロンが思い描いた二つしかない。
家族の記憶を取り戻すことを完全に諦め、栞里のもとへ戻るか。
たとえすべてを失うかもしれなくても、今すぐ一人で指示された場所へ向かうか。
(……お父さん……お母さん……かほ……)
笑い合ったあの日々は、もう戻らないと思い込んでいた。
たとえ寂しくても、この痛みを抱えたまま、この先を生きていくしかないと思っていた。
でももしかしたら、ほんの小さな可能性なのだとしても……またあの日常に、戻ることができるかもしれない。
ふつふつと湧き上がる淡い期待が、澪の心を惑わしていく。
それがエプシロンの思い通りの展開だとわかっていても、溢れ出る思いを止めることはできなかった。
(…………ごめん……栞里ちゃん……わたしは……)
逡巡の後、栞里がいる方向に背を向けた澪は、建物の出口へ向かって駆け出した。
家族の記憶を取り戻すため、かつて思い出を刻んだ公園を目指す。
(……栞里ちゃん、嘘つきでごめんね……)
最後にほんの一瞬だけ振り返り、心の中でそう告げて。
澪は、暗闇の向こうへと姿を消した。