敦貴との文通は最初のうちは毎日行われたが、だんだんと間隔が遠のいていく。彼の仕事が忙しくなり、家を空けることがたびたびあるからだ。出張も多いので、帰らない日はことさら暇だった。二日に一度の間隔で手渡しの文通を行えば、ひと月後にはすでに五、六回ほどのやり取りを経ている。
 しかし、敦貴は手紙でも日常会話でも受け身だった。彼の好きなもの、嫌いなもの、趣味趣向など探ってみるも、答えはいつも「とくになし」なので、会話が進まない。
 絹香は試行錯誤したが、いくら時事を手紙に織り交ぜたとしてもしょせんは新聞からの情報であり、世界を股にかける彼と議論を交わすにはあまりに浅識だった。無理は禁物だと思い直し、時事に関する話は早々に諦める。
 手応えが感じられないまま日だけが過ぎていき、これでいいのかと自問自答するも、いつの間にか一日が終わっていた。
 そんな日々を過ごすうちに、初めての給金をいただく日がやってくる。毎月十日、敦貴から手渡しで現金五十円が支払われることになっているが、これは職業婦人の花形であるタイピストの平均月給とほぼ同等の金額らしい。
 この日、敦貴は大阪(おおさか)での仕事を済ませ、ようやく帰宅したのが夜中の十二時近い時間だった。食事は外で済ませたらしく、あとは着替えるだけである。
 カフスを取った敦貴は不機嫌そうに眉間を険しくさせていた。絹香は声をかけられるまで黙々と待ち続ける。
「……絹香」
「はい!」
「今日は給金を払う日だったな」
 彼は気だるげにこちらを見た。その視線が痛い。
「はい……まだなんの成果も出していないので、心苦しいのですが」
 絹香は率直に言った。すると、彼は「そうだな」と冷たく相槌(あいづち)を打つ。
 絹香は敦貴の着物を用意した。前もって使用人が綺麗に畳んでいたもので、自分はなんの助力もしていない。つくづく役立たずに思えてしまう。
 そんな絹香に追い打ちをかけるように敦貴が言った。
「確かに、このひと月、君はなんの成果も出していない。使用人の方がよく働いている。給金泥棒と罵られても文句は言えまい」
「心を読まないでください……!」
「顔に書いてある」
 敦貴は鼻で笑いながら絹香が差し出した着物を受け取り、さっさと着替えを済ませて奥の寝室へ向かった。蓮が描かれたふすまの先にはすでに用意された布団があり、今すぐにでも眠れる環境だ。
 その脇を通り、おもむろに床板を外す。そこからなにやら金具を触る音がする。どうやら、床下に金庫を置いている様子。
 そんな仕掛けを見てもよいものか、絹香は視線に困った。見ないふりをしておく。こういう余計なものを見てしまうと、後で言いがかりをつけられそうで厄介だ。
 敦貴は金庫から給金袋を出した。そして、ふすまを閉めて戻ってくる。
「今月分だ。ご苦労だった。以降も励むように」
「頂戴いたします……」
 罪悪感が全身に渡り、絹香は苦笑いで受け取った。だが、初めての給金に心が踊らないはずがない。中身は後で見よう。喜びを見せないように(たもと)の中へ差し込む。
 つくづく不思議だ。こんな仕事が成立するのだろうか。世間一般の仕事とは比べ物にならないのでは。
 絹香はすぐに浮き足立った心に活を入れ、気を引き締めた。
 対し、敦貴は妙に動きが鈍かった。その場にあぐらをかいて座り、頬杖(ほおづえ)をついて絹香をジッと観察している。
「……敦貴様、まだなにか?」
「…………」
 返事がない。彼は目をシパシパさせてぼうっとしている。なるほど、眠たいのだとようやく気がついた。
「お疲れのようですね」
「あぁ……まぁ……眠い」
 そう答える口も重い。絹香は心配になって顔を覗き込んだ。
「大阪でのお仕事はいかがでした?」
「あぁ……そうだな……まぁ、それほど退屈はしなかったな」
「左様ですか。それはようございました」
「うん」
 いつもより覇気のない声が返ってくる。今日の彼はあからさまに疲れている。無防備すぎて甚だ不気味だ。
「もうお休みになられては?」
「いや……明日の話をしようと、思っていたんだ」
 敦貴はあくびをしながら言う。仕方なく絹香も付き合うことにした。
「明日の話とは?」
「あぁ、明日は休日だ。大口の仕事も片付いたところだから、君をどこかに連れていってやろうと思ったんだが……なにか欲しいものはあるかね」
 そう訊かれ、絹香は眉をひそめた。
「それって……」
「恋人は休日に出かけるものだろう? 大阪の支店長から聞いた」
 支店長というのはおそらく銀行関係の部下だろう。思わぬ申し出に絹香は前のめりになった。いつもは受け身でそっけない敦貴が自ら誘ってくるなんて、これは確実に進歩だ。
 しかし、すぐに理性が働く。
「敦貴様、お忘れですか?」
「なにを?」
「敦貴様には許嫁の沙栄様がいらっしゃいます。それなのに、わたしと出かけるなんて、周囲によからぬ誤解を招く可能性がありますわ」
「よからぬ、誤解……?」
 敦貴は腕を組んだ。しばし沈黙した後、合点したように唸るも首をかしげて絹香を見る。
「周囲への誤解を懸念しているのだな。しかし、それではこの契約の根本を否定することになる」
「そうですけれど……恋人というのは、男女が成す営みでございますゆえ、そのお考えは正しいのですが……わたしたちは偽物の恋人なのです。不用意な行動は慎むべきです」
 念を押すと、敦貴は冷ややかに睨んだ。
「あぁ、わかっている」
 そのぶっきらぼうさに、絹香はたちまち萎縮し口をつぐんだ。
「この邸で完結するのなら、別に君じゃなく使用人でも問題なかったんだが」
 確かに、彼の考えも理解できる。
 絹香は顎に手を当てて考えた。しかし他に回避する文句が出てこないので、納得せざるを得ない。
「おっしゃるとおりです……が、よいのでしょうか?」
「私がよいと言っている。君は私の、仕事上のパートナーというやつだ」
「仕事上のパートナー、ですか。相方という意味ですね」
「そう捉えてくれ。正直、君の手紙は退屈で仕方がない。それに、手紙は面倒だ。書く時間が惜しい。そして、精神的な負担にもなる」
 その意味がわからず、絹香は首をかしげた。精神的な負担になるような失礼なことは書いていないはずだ。話がつまらないのは確かに負担かもしれないが。
 すると、敦貴はため息交じりに口を開いた。
「返事を書かなければという強迫観念が働くんだよ。私の手紙を待っている君を思うと、気が散って仕事に差し支える」
「そう、ですか……申し訳ありません」
 絹香は落胆した。仕事の邪魔をしているとは夢にも思わなかった。
「わたしは、敦貴様との文通が楽しかったのですが……お邪魔になるのでしたら仕方ないですね」
 たわいない手紙を書くのは迷いもあるが、楽しかった。そして、ぎこちなくも生真面目に返事をする敦貴の心遣いが嬉しかったのだが……。
 肩を落とすと、敦貴は頭をかいて顔をしかめた。
「そんな顔をするな。文通はやめない」
「えっ?」
「君はまだ人生の半分も語ってないだろう? いつもその日の稽古や天気の話など、代わり映えのない話がつまらんと言っただけだ。もっとさらけ出して書いてみなさい。私は君のことが知りたいんだ」
 彼の言葉はまたしてもぶっきらぼうだ。しかし、冷たさはない。気を抜けば眠ってしまいそうなほどまばたきが遅く、またあくびをする。ゆえに、彼の気持ちがわかりにくくて疑わしい。
「本当にそう思っておられますか?」
「思っている」
「……でも、わたしのあの家での話なんて、恥ずかしくてとてもできません」
 敦貴の即答に面食らいつつ、正直な気持ちをおずおずと述べる。
 絹香も叔父の家での生活について、誰かに相談したくはあった。だが、それこそつまらず、出てくる内容がすべて暗い色に染まりそうで怖かった。毒物じみた過去を持っている自分を恥じていた。それを敦貴に知られるのが嫌だ。
 また普段は心を読んで深くは踏み込もうとしないくせに、こういう時に限って彼はろくに頭を働かせずうとうとしているので少々不満を感じてもいる。
「……敦貴様?」
 声をかけてみるも、彼は返事をしない。腕を組んでそのまま静かに寝入ってしまった。
「そんな。嘘でしょう……ねぇ、敦貴様。起きてください。お布団で寝ましょう」
 肩に触れた途端、敦貴の首がガクンと落ちた。慌てて受け止めると、敦貴はそのまま絹香の肩の上に伸しかかった。
 ──どうしましょう……どうしたらいいの?
 敦貴の体を抱きしめるようにして中腰でいる。ふわりと香る白檀(びゃくだん)が上品で、鼻腔に届いた瞬間に絹香の心臓がせわしなく動く。無防備に眠る男性を抱きしめているという状況を再認識し、恥ずかしさが全身に回った。
「敦貴様、起きてください! 明日のお話をするんでしょう? まだ寝ないでください!」
 助けてほしい。でも、誰も通りかからないでほしい。
 揺さぶってみようか。さすがに外部から眠りを邪魔されては覚醒するはずだ。
「し、失礼します……」
 敦貴の肩に手を起き、控えめに揺する。
「敦貴様、起きてください」
「……嫌だ」
 ボソボソとした声が返ってきた。顔を覗き込んで見るが、彼は眠っていた。声に反応して答えただけか。それにしては受け答えがしっかりしている。
 わざと困らせるような性格でもないから、絹香はただただ焦っていた。すると、肩にもたれる敦貴がゆっくりと言った。
「君は……温かいな」
 なにを意味するかわからない言葉。それから彼はもうなにも発することなく深い寝息を立ててしまった。
 考える余裕などなく、とにかく今は一刻も早く彼を布団へ寝かせたい。ここは引きずってでも床に入れるしかないのでは。腕力に自信はないが、こうなったらやるしかない。
 絹香は敦貴の後ろに回った。そして、無礼を承知でズルズルと引きずり、寝室のふすまを開けた。六尺以上ある背丈の男を動かすのはつらいものである。数分を要し、最終的には敦貴を布団の中へ転がした。
「さすがに世話が焼けますよ!」
 小声で苛立ちを向ける。眠っているのでなにを言っても構わないと判断した。
 絹香は呆れて行灯の火を消した。使用人の前でもこんなふうなのだろうか。国を守る役目を担う人材とはいえ、あまりにも無防備ではないか。そう思ったが、ふと彼の生い立ちを思い出す。
 彼は幼い頃からひとりだった。使用人に囲まれていても、孤独だったに違いない。
 布団で寝息を立てる彼の姿は、おそらく誰も知らないのではないだろうか。
 そこまで考えて、ふと手のひらを見る。気づかぬうちに熱を持っていた。
 ──まさか、わたしが原因?
 癒やしの異能のせいで敦貴の睡眠を誘発したのか。ありえる。
「敦貴様……」
 真っ暗な寝室で、彼の耳元に口を寄せてみる。
「ゆっくりお休みください」
 寝顔を間近で見ると、その麗しさに見惚れた。
 しばらくした後、絹香は自室に戻って高鳴る胸を抑えながら床についた。まだ心臓が緊張している。抱きとめた彼の温度が全身に残っており、新鮮な感情があふれ出す。
 絹香は頬に手を当てた。この熱は感情から来るものだ。
 普段は威圧的で沈着冷静な彼の意外な一面に不覚にもときめいている。慌てて煩悩をかき消した。
「はしたないわ。あぁ、もう、敦貴様のお顔が頭から離れない……!」
 冷たい布団に入れば少しは熱も冷めるだろうか。灯りを消して、暗がりに顔を埋める。
 ダメだ。まだ胸が鼓動を鳴らし、辺りが静かでは余計に心音が際立っていく。小さく丸まって目をつむった。
「絹香、しっかりして。敦貴様は偽物の恋人。好きになってはいけないの。これは、ごっこ遊びなんだから」
 しかし、いくら言い聞かせても深く眠ることはできず気がつけば朝で、そういえば手紙を書いていなかったと後悔した。

 ***

 敦貴の目覚めは規則正しい。六時半にはきっちり目が覚めるが、今日は頭がすっきりしなかった。その割に体は幾分も軽やかで、凝っていた肩がとても柔らかい。
 眠りも深かったようだが、眠っている位置がいつもと違う。寝相は悪くない方なのに今日は布団の端っこで眠っていた。はて、昨夜のことがうまく思い出せない。
「……給金は渡したよな?」
 思わず呟く。そして床板を外し、金庫を確認する。絹香宛の給金袋がないので、おそらく手渡してあるのだろう。では、その後どうなったのか。出かけることを彼女にきちんと約束をした覚えがない。
 敦貴は釈然としないながら寝室を出て、朝の支度を始めた。休日だろうとしっかり身支度をし、読書をしながら朝食を待つ。たまに仕事の公文書に目を通すこともあるが、今日は仕事を持ち込んでいなかったので手持ち無沙汰だった。
「おはようございます、敦貴様」
 障子戸の向こうから侍女の恒子が声をかけてくる。彼女は敦貴の身の回りを世話する役目を担っているので、当然、朝食の支度をしに毎朝やってくる。
「入れ」
「失礼いたします」
 恒子は伏し目で膳を運んできた。
「おはよう、恒子」
「おはようございます。今朝の朝刊もどうぞ」
「あぁ。すぐに読むから、これを絹香に渡すように」
「かしこまりました」
 恒子は無感情に返事した。彼女が米びつに入ったホカホカの白米を茶碗に盛る間、敦貴は新聞を読んでいた。
 最近、情勢が乱れている。内閣もころころと変わり、庶民たちの運動が頻発しているらしい。活気づくのは結構だが、少々行きすぎではないかと思う今日この頃である。
 恒子が茶を入れると同時に、敦貴は新聞を畳んだ。いつもならもう少し読みすすめるのだが、気が乗らなかった。連載中の小説も読み飛ばす。
 白米に浅漬、味噌汁、数品の小鉢という簡素な膳をさっさと済ませた。
 その間、恒子は寝室の布団を畳み、洗濯物と一緒に持っていく。そして洗濯場で待機する侍女たちに渡し、また敦貴の部屋へ戻ってきて今日の着物を選ぶのだ。平日は洋装の支度を、休日は和装の支度をし、敦貴が食事を済ませるまでに脇へ着物を畳んで置いておく。しかし、今日の敦貴は恒子の選んだ着物を見て迷った。
「今日は、もう少し軽い色みにしてくれないか」
 敦貴の言葉に、恒子は顔をハッと上げた。
「お気に召しませんでしたか?」
 その問いには答えず、敦貴は自らタンスの中を物色した。
「絹香はもう起きているだろうか?」
 敦貴は着物を選びながら訊いた。すると、恒子は「はぁ」と気の抜けた声をあげた。
「早起きされる方ですし、もう起きてらっしゃるのでは?」
「呼んできてくれ」
「……はぁ。かしこまりました」
 恒子は怪訝そうながらも素直に部屋から下がっていった。
 絹香がどんな服を着るかで、着物の合わせ方が変わるだろう。だったら、絹香に決めてもらう方が効率的であると敦貴は思った。
 ほどなくして、床板を踏むふたり分の音が近づいてくる。絹香はおどおどとした様子で入ってきた。
「おはようございます……」
「おはよう。絹香、ちょっと来てくれないか」
 タンスの前で悩む敦貴の横に、絹香がおずおずと近寄った。その後ろで、恒子が膳を片付ける。彼女が完全に部屋から下がった時、敦貴は絹香の顔を見た。
「君に着物を選んでもらいたいんだが……そんなに顔を赤くしてどうした」
 困惑気味な様子で無言になるのはいつものことだったが、今朝の絹香は体調がすぐれないように見える。敦貴の問いに、彼女は珍しく「ふぁっ、えぇっ、あの」と慌てふためくばかりで要領を得ない。
「はっきり言え。熱でもあるのか?」
 さらに顔を覗けば、彼女は一歩後ずさって顔をうつむけた。
「おい、絹香」
「はっ、あの、申し訳ありません……」
 やはり奇妙だ。声をかけるだけでこんなに緊張することなど、あまりなかった。ますます訝り、彼女の顔色から心象を読み取ろうとしたが無理だった。見当もつかないので、なんとももどかしくなる。
 すると、絹香が意を決したように言った。
「あ、敦貴様……あの、昨夜のこと、覚えてらっしゃいますか?」
「は?」
 なんだろう。覚えがない。
「覚えてらっしゃらないんですか!?」
 絹香が驚愕(きょうがく)の表情を浮かべる。敦貴は素早く思案した。
「昨夜……寝る前に約束したよな?」
「や、約束……は、できませんでした」
「えっ」
 思わぬ回答に、敦貴も素っ頓狂な声をあげてしまう。絹香はなおも顔を赤くしており、目を合わせないようにしていた。すると、なんだかこちらまで不安になってくる。
「絹香、昨夜はなにがあった?」
「え……っと、敦貴様が、大層お疲れだったようなので、その、お布団に……」
 絹香はしどろもどろに言葉を発した。濁してしまうところを見るに、嫌な予感を察知する。
 寝ぼけた拍子に、なにか妙なことをしでかしたのか。さっと血の気が引き、自分が動揺していることにすぐさま気がついた。不安を覚え、焦りを感じるのは初めてのことだった。
「待て、言うな。もういい」
 女の口から言わせる内容じゃないかもしれない。すると、絹香も敦貴の顔色から心情を察知したらしく、大仰に手を振って訴えた。
「あ、あの、誤解しないでください! 過ちはありませんから!」
「……そ、そうか。それはなにより……すまない」
 あまりの勢いに拍子抜けし、付け加えるように謝った。
 絹香はホッと安堵し、ぎこちなく笑った。こういう時、彼女はいつも取り繕うのが上手なはずなのにいつもより下手に笑うものだから、敦貴は気まずくなってタンスに目を落とした。咳払(せきばら)いし、場の空気を整える。
「今日は君と一緒に出かけるから、着物を選んでもらいたいんだ」
 話を元に戻すと、絹香はまたも固い表情で笑った。
「お出かけするのはお控えした方がよいと、昨夜に提案したのですが……」
「なに? 私の申し出を断るのか?」
 まさか断られるとは思わず、敦貴は眉をひそめて責めるように彼女を見た。すると、その圧に耐えられなくなったらしく、絹香はあわあわと慌てて両手を振った。
「いえ! お申し出は大変嬉しいのですが……」
「『ですが』? 恋人の役目を放棄するつもりか?」
「いえ、そうじゃなく……このやり取り、昨夜もしたんですけれど」
 絹香の心底困ったような口ぶりに敦貴はため息をつき、タンスの引き出しを閉めた。
 今まで言い寄ってきた女性に振り回されることは多々あるも、申し出を断られるのは一度もなく不本意だ。せっかくまとまった休みが取れるのだから、時間を有効活用したい。
「では、旅行にしよう」
「え?」
鎌倉(かまくら)に別荘がある。母方の家の私有地だ。そこなら誰もいない。人目を気にする必要はないだろう」
「えぇっ?」
 絹香は挙動不審になった。天井を見上げ、左右をキョロキョロ見渡し、敦貴を見上げる。そしてその目線がまた下へ向かっていく。
「敦貴様、どうしてそこまでのことを? いえ、恋人役ですから、仕事をお与えくださるのは大変ありがたいのですけれど……でも……」
 絹香は警戒しているのだろう。敦貴はどう答えたらよいものか、しばし考えあぐねた。
 彼女を恋人役に任命したのは自分だ。すべては許嫁、沙栄のため。手紙や会話をするだけでは進展がなく、愛情を習得できているのか実感が持てない。
 それに、基本的に女性に断られるという経験がないので意地になっているのは薄々感じていた。そして導き出した答えは……。
面子(めんつ)のためだ」
 きっぱり答えると、たちまち絹香の顔がどんよりと曇った。
「左様ですか……わかりました。謹んでお受けいたします」
 なにか気に障ることでも言っただろうか。絹香はそれきり口をつぐんでしまった。どことなく不満を抱くようでもあるが、どうすることもできない。
 敦貴は絹香に旅行の支度をするように言いつけ、あとは使用人たちにもその旨を伝えた。

 ***

 旅行は来週の予定となり、絹香はあれこれと買い物をしなくてはならなかった。それまで自分の持ち物は最低限しかなく、給金をいただいてから買いに行こうと決めていたのだ。
 しかし、その買い物に、やはり敦貴も同行することになった。米田もいるとはいえ、それなりに有名な長丘家令息と街を歩くのは心に負担がかかる。それに、敦貴はどこへ行っても目立つのだ。
 街の中心に最近できた、なんでも揃うという百貨店へ来たが、誰も彼もが振り返ってはささやき合う様子が散見され、絹香はうつむきっぱなしだった。
 せっかくの華やかな百貨店なのに、楽しむ余裕がない。きらびやかな調度品や南国らしい植物など珍しいものがあったのだが、あまり目に入れることができず、絹香は前を歩く敦貴の後ろを追いかけるだけ。
 見目麗しい青年に連れ添うのが、どこの馬の骨ともわからぬ娘であるのがたまらなく恥ずかしく肩身が狭い。絹香はすっかり自信をなくしていた。それを敦貴は読み取らず、とにかくことあるごとに絹香にあれやこれを買い与える始末である。
 面子がかかっているのだと彼は言った。おそらく誘いを断ろうとした仕返しなのかもしれない。絹香はやや疑心暗鬼であった。
 旅行用のカバンはガマ口の革製で、しっとりなめらかな質感。下着や着物の替え、浴衣なども上等な素材のものを選び、さらには小物や化粧道具までを勝手に店員へ見繕ってもらうという、今までに経験したことのない豪華な買い物だった。
 それから百貨店の最上階にあるパーラーで休憩することとなり、それまで生きた心地がしなかった絹香はようやく息を整えて切り出した。
「敦貴様、あの……」
 疲れている絹香に対し、彼はどこ吹く風で平静そのものである。
「こんなにたくさんのもの……立て替えていただくのはありがたいのですが、その、お支払いがいつになるやらわかりませんよ……」
「なにをたわけたことを。これは私からのプレゼントだよ」
 なに食わぬ顔でサラリと言われ、絹香は思わず立ち上がった。
「そこまでしていただく義理はありません!」
 取り乱すあまり、失礼な言葉を投げつけてしまう。だが、敦貴は不思議そうに眉をひそめるだけだった。
「義理……恋人は一緒に出かけて、プレゼントを贈るものだと聞いたのだが」
「それも大阪の支店長さんからの情報ですか? だから実行に移そうとお考えに?」
「あぁ。私だって本気なんだ。悪いが、付き合ってくれ。そういえば、浅草に劇場があったな。『凌雲閣(りょううんかく)』も流行っている。君がどうしても行きたいのなら連れていくが」
 絹香は頭を抱えて悩んだ。突然の積極的な行動についていけない。ここで素直にうなずけばよいのか、彼と自分の身を案じて行動を控えるよう注意した方がよいのか……答えは出ない。
 実際、恋人がどんな遊び方をしているのか、てんでわからないのだ。
 新聞や小説で読むものといえば、会えない寂しさを噛みしめ、たまに会えた時の喜びを分かち合って公園で語らうか、人目を忍んで川辺を眺めるか。
 こうして豪勢に買い物を楽しみ、パーラーに立ち寄って甘味を食すという上級の遊び方は知らない。周囲にいるのも上流階級の人間ばかりだ。経験のないキラキラした空間に気後れしてしまう。そして、自分がいかに狭い世界で生きていたのかをまざまざと思い知らされる。
 一方で、敦貴はこの景色にしっかり溶け込んでいた。今日の彼は、涼やかな白藍(しらあい)の着物で、濃い藍の縦縞(たてじま)が入っている。帯は落ち着きのある、まるで夜更けのような色だった。揃いの色の山高帽を見るところ、すべて特注のようである。
 彼は青みのある色がよく似合う。簡潔でまとまりのある配色を着こなす彼が爽やかでかっこいい。
 賑やかなパーラーの一角に座っていると、やはりこの状況は〝恋人〟のように映るのだろうか。絹香は自分の格好を改めて見直した。
 勿忘草(わすれなぐさ)のような淡い青に、細やかな淡桃(うすもも)(まり)が袖と裾にあしらわれている。帯は濃い古代紫がつややかで、上等の織物だ。束髪(そくはつ)くずしに帯と揃いの大振りなリボンをつけている。
 すでに購入されていたと思しき二着のうちどちらかを選べと、ほとんど命令に近い口調で敦貴に圧され、仕方なく選んだのがこの装いだった。もう一着は、フリルのブラウスに上品な紫苑色(しおんいろ)のスーツ・ドレスという洋装だった。ドレスを着こなし、街を闊歩する勇気はない。
 応酬も面倒になってきたところで、敦貴が頼んだ甘味が運ばれてきたので話はいったん中断された。
 目の前に置かれたのはいつか昔に食べた、サクサクの生地と粉雪のような砂糖があしらわれた格子型の菓子、ワッフルだった。脇にはリンゴのジャムが添えてある。
「洋菓子を食べたことがあると、君が手紙に書いていたからな」
 敦貴が柔らかな声で言った。彼は紅茶を頼んでいたようで、大きな口のティーカップに角砂糖をひとつ落として混ぜている。
 絹香は目をしばたたかせた。
「どうぞ。遠慮なく食べるといい」
「……いただきます」
 しばらくモジモジとしていたが観念した。そろそろと銀色のフォークをサクサクの生地に差し込む。ひと口の大きさにし、ジャムをつけて食べる。
 すぐに舌へ伝わるリンゴの酸味と甘みに頬がゆるんだ。そのままワッフルを噛めば、奥行きのある生地の甘みに感動してしまう。
 鼻を抜けるまろやかな甘さが惜しく、ひと口、またひと口と手が止まらなくなる。こんなにおいしい菓子の味をすっかり忘れていた。
「うまいだろう。ここの菓子は東京でも指折りの腕前だと聞く」
「はい、とてもおいしゅうございます」
 絹香は素直に言った。すると、敦貴は気を抜くように小さく微笑んで、すぐに咳払いした。

 夢のような休日が過ぎ去り、だが翌週も彼と一緒に旅行へ行く。絹香はその日が来てほしいような、来てほしくないような心境だった。
 前日は緊張でろくに眠れやしなかった。それでも体にはいっさいの不調がなく、これもまた異能のせいかと思うと憂鬱になる。いっそ熱でも出して寝込みたかったが、仮病を使うわけにはいかない。
 手紙を書くのも恥ずかしくなり、おざなりになっていた。敦貴もなにも言ってこないので、おそらく文通はもう行わないだろう。
 絹香は先日の買い物で着た勿忘草色の着物を選び、米田の車に荷物を預けた。
「行ってらっしゃいませ」
 使用人たちの声が聞こえ、振り返ると敦貴が屋敷から出てきた。彼の姿が見えると、絹香も深々とお辞儀する。敦貴は構わずそのまま車に乗り込んだ。
 絹香も後に続く。その姿を見送る使用人たちの様子は想像したくない。結局、彼は使用人たちにもろくに説明せず、絹香との旅行を決行したのだった。
「さて、行こうか」
 敦貴の心象はまったく読み取れない。絹香は曖昧に笑って、ただただおとなしく車に揺られるしか術がなかった。
 鎌倉は異国情緒漂う西洋建築物があちこちにあり、冷たい潮風が心地いい人気の避暑地だ。緑と青空が夏の風情を思わせ、セミの鳴き声すら涼しげだ。
 敦貴の母方の持ち物だというこの地は、外界から隔離されるように森が鬱蒼(うっそう)と生い茂り、自然豊かだった。その森を抜ければ白浜が現れる。奥にはキラキラとまたたく(あお)い水平線を望む。じっくり見つめてしまうほど、海への懐かしさを感じていた。
 このあふれる自然の中、ひっそりと建つのは切妻(きりづま)屋根の木造洋館だった。白い外観に窓枠やバルコニー、支柱は焦げ茶色という、その色合いが意外にもかわいらしさを醸す。立派な円筒形の展望台が玄関の横に設置されている。
 ある程度の持ち物は別荘に送っており、絹香のカバンには簡単にまとめた化粧品が入っている。それを米田が屋敷の中へ運んでいった。
「絹香」
 車から降りた敦貴が呼ぶ。森の奥にある海を見つめていた絹香はハッと振り返った。
「そこからでなくとも、この展望台から海が見えるぞ」
「本当ですか!」
 思わず高揚する。この反応に、敦貴は少し面食らっていた。
「なんだ。道中、黙りこくっていたから不機嫌なのかと思っていたのに」
 彼の言葉に、今度は絹香が驚いた。
「そんなふうに思われていたんですか?」
「あぁ」
 ──敦貴様でも心が読めないこともあるんだわ。
 普段は探るように質問攻めにし、こちらの口を塞いでくるのに、今日の彼は手紙や夜に見せるゆるみがある。誰もいない休日なのだから当然と言えば当然だが。
 敦貴の後ろから、絹香は邸の中へ足を踏み入れた。
 緑がかった乳白色のシャツは縞柄(しまがら)で、吊りベルトと紺色のネクタイといった洋服をさらりと着こなしており、そんな彼の後ろを動きにくい着物でついていく。
 さっそく展望台の階段をのぼる敦貴についていこうと必死に追いかける。しかし彼の歩幅と合わず、絹香は遅れをとった。
 背中が見えなくなり、さらに慌てていると、敦貴が下りてきた。
 彼は無言で手を差し出してくる。その手をためらいがちにとると、敦貴はゆるやかに階段をのぼり始めた。
 時折、階段の踊り場の窓から差し込む陽の光が(まぶ)しかった。邸の中はひっそりとしていて、とても涼やかだ。
 三階が最上階であり、そこは木目が柔らかなドームだった。前方に海が広がっている。
「しばらく来てないから、立て付けが悪くなっているかもしれないな」
 そうこぼす敦貴が窓を開け放った途端、うねる潮風が流れ込んできた。絹香は彼の横に立った。
 窓の向こうにはバルコニーがあり、横に伸びる海を一望できる。キラキラとまばゆい白波と、反射する陽光、美しい碧がとても清々しく、心が落ち着く。
「気に入ったようだな」
 敦貴が満足そうに目尻を緩める。絹香はほころばせていた顔を伏せた。
「心を読まないでください」
「それくらい、読まなくともわかる」
 絹香は恥ずかしくなり、顔をそむけた。
「そうか。君は海の街で生まれたんだったな……」
 こちらの恥じらいに構わず、彼はバルコニーに身を乗り出しながら言った。
「東京は窮屈か?」
「いいえ。これ以上ないくらい毎日が夢のようで。憧れの場所です」
「その割に君は私と歩く時、ずっと周囲をうかがっていた。東京は嫌いなのかと思っていたんだが」
「それは……」
 ──敦貴様の横にいるのがわたしでよいものか、罪悪感が働くのです。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「私の隣にいることが不満か?」
「違います」
「では、こうかな。自分はしょせん〝恋人役〟だから、間違いのないよう振る舞わなければいけない。それくらいわかってくれ、とでも考えているのかな」
「……っ!」
 絹香は思わず顔を上げ、不満あらわに唇をとがらせる。だが、その苛立ちも長くは続かず、彼の笑顔を捉えた瞬間、すべての時が止まった。
 敦貴はふわりと目尻を垂らしていた。破顔とまではいかず、うっすらと微笑んでいる。陽の光を浴びる彼の横顔はあまりにも精巧で、美しかった。
「敦貴様、素敵です」
 絹香は驚きのあまり、つい口に出した。すると、敦貴がゆるめていた口の端をキュッと結んだ。そして、バルコニーから背を向けて部屋の陰に隠れていく。
「あまり風に当たるな。体に障る」
 そう言い残し、彼は展望台を下りていった。