2年前の今日、隼人の妹である紅葉が、車に追突されて亡くなった。

 橘紅葉は純粋無垢で、素直な子だった。

 人が死んだと報道されれば、知り合いでもなんでもないのに、まるで家族が亡くなったかのように涙を流し。感動物語にも涙を忘れない。

 涙腺が崩壊してしまうのでは無いか、と周りが心配してしまうほど、涙脆く、そして人の心が分かる子だった。

 殺されるようなことはしていない。

 誰かに恨まれるような子ではない。殺されていいような子ではなかった。紅葉を知る者は、皆口を揃えて言った。
 
「それなのに--」

 橘紅葉は17歳という若さで、この世を去ることになった。

 警察に連行された犯人は、後日こう供述している。

『自分はただ、復讐をしただけ』
『大切な家族を、先に奪われたのは自分だ』
『今回、自分が轢き殺した女の兄の手によって、自分の家族は殺された。報いを受けるのは、女の兄の方だ』

 普通に聞いていれば分かると思うが、女というのが橘紅葉のことで、その兄とは橘隼人のことである。

 ではなぜ、その兄の方ではなく、妹のことを狙ったのか。

 警察の問いに、犯人はこう供述している。

『大切な家族を突然奪われる悲しみや苦しみ。それら全てを味わわせてやろうと思った。ただそれだけだ』

 それが答えだった。

 確かに、犯人の言葉は正しいと、隼人は納得した。やられたからやり返した。先に始めたのは隼人であり、犯人はただやり返しただけ。そう言われてしまうと、確かにその通りだ。間違っていない。それは認めよう。

 だが--

 やられたからやり返した、ということがありなのなら、またやり返しても問題ないよな? それをするということは、やり返される覚悟があるということなのだから。

 当時の隼人の頭の中はぐちゃぐちゃだった。必死にそれを行う理由を探していた。

 犯人が供述したことが報道されたその日、隼人はふらりと、とある場所へと向かった。無表情のまま、心に殺意だけを忍ばせて。

 次の日、犯人は死亡した。
 鋭利な刃物で喉元を切り裂かれて。

 テレビでその事が報道されたのを見た時、隼人は嗤っていた。警察は犯人を捜したが、遂に見つけることは出来なかった。証拠が何1つとして、残されていなかったからだ。

 普通に考えれば、犯人の供述で兄がいると分かっているのだから、兄である隼人に捜査の矛先は向くはず。だが、警察はそれをしなかった。警察の調べによると、橘紅葉は孤児で、兄はもちろん、家族すらいないという、よく分からない調査が事前に行われていたからである。結果として、隼人が捕まることはなかった。

 テレビを消すと、痩せこけた男がそこにいた。真っ黒な黒髪に、目の下の隈が酷い男。身なりはそこそこ良いようだ。誰だろう、と隼人は思ったが、隼人が立ち上がるとそれも一緒に立ち上がり、そこでようやく気が付いた。

「ああ、これが今の俺か」

 橘紅葉がこの世界を去ってから、橘隼人は随分と変わってしまった。

 橘隼人を知る者は皆、口を揃えて言った。

『紅葉が死んでから、隼人は死んだように生き続けている。死に場所をずっと探している』

「あれから2年……か。俺の心は穴が空いたまま塞がらないよ。ねえ、紅葉。俺、もう疲れたよ。お前のいない世界で生きることに。もう……そっちの世界にいっても、いいかな」

 当然、返事は聞こえない。
 死んだ者の考えていることなど、生者には分からない。いや、死者がどうなっているのかすら、生者は知らない。死者の気持ちなど、死者になってみないと分からない。

 それでも--

「お前はそれを望んでいないよな」

 隼人はギュッと拳を握った。
 紅葉は自分が自ら命を絶つことを、望んでいない。それをして会いに行っても、怒られるだけだろう。そんな風に隼人は思い、苦笑した。

「俺のせいでごめんな。また来るからな」

 墓石から背を向けた。
 その時、トンっ! と背中を押された気がした。それは悪い意味ではなく『前に進んで』と励ましているかのようだった。

 隼人は泣きそうだった。

「--紅葉、本当にありがとう。俺の妹として生まれてきてくれて、本当にありがとうな」

 俺は生きることに決めた。妹がいない世界で生きることは辛く、酷く苦しいことだけれど。それでも、妹の分まで俺が--

 隼人は帰路を目指しながら、今後のことを考えた。

 今までしてきたことを考えたら、真っ当な人間に戻ることは不可能。それでも、仕事の量を減らすなど、工夫することは出来るはずだ。

 長に相談してみよう。
 きっと分かってもらえる。

 自ら死にに行くようなものだが、それをしなければ、またこの2年間を繰り返すことになる。それだけはいけないと、隼人は心の中で覚悟を決めた。

「それじゃダメだよ。あなたはその世界で生きていく人間なんだから」

 隼人は驚いて、声のした方に顔を向けた。

 降り続ける雨の中、傘もささずに立っている。フードを深くまで被っており、その顔は見えないが、その声色からして女性。

 いや、そんなことより--

 隼人は自身の目を疑った。いつの間に? そこには誰もいなかったはず--

「君は一体……」

「私のことは別にどうでもいい。ただ、私はあなたのことを探していた」

「俺を……?」

「うん。そうだよ」

 人違いではないか。隼人がそう言おうとした時、その人物は隼人の腕を掴んだ。

「……ッ!」

 驚きのあまり、声を出せずにいると、その人物はにたりと笑った。

「いいや、私はあなたを探していた」

 まるで心が読まれたような気持ちになり、不気味に思った隼人は思わず後退した。

 けれど、腕を掴むその人物の力が強いせいで、隼人は後ろに退くことが出来ない。

「--ッ!」

「人違いではないし、何故逃げようとするの? あなたなんでしょう? 2年前に自分が原因で、唯一の家族を失った--殺し屋隼人さん?」

 そこで隼人は目を覚ました。

 隼人は大量の汗をかいていた。
 肩で大きく息をする。

 自身の手を隼人は見つめる。何も変わらぬ自分の手に、隼人は安堵した。先程のは全て夢だった。フードを被った変な人に話しかけられたあれは、現実ではない。夢の中での出来事だった。

「--はぁ、良かった。初対面の人間に俺の情報が洩れているなんて神流に知られたら、それこそ俺の首は飛んでしまう。--疲れた。少し寝よう」

 隼人はもう一度、横になった。
 もう一眠りしよう。そう思ったその時--

「ねえねえ、いつまで寝ているの? そろそろお昼の時間だよ?」

 そこに女性の声が聞こえて、隼人は勢いよく起き上がった。

「うわっ!」

 女性の声とともに、何かが落ちる音がした。それはベッドの横にいるみたいだ。

 隼人が恐る恐る顔を覗かせる。
 そこに居たのは--

「ちょっと! 起きるなら起きますよーとか、何か一言あってもいいんじゃないの?」

 翡翠色の髪に紫の瞳をした--妹の紅葉にそっくりな少女が、そこにいた。

「--は? 君……誰?」

 その容姿について訊ねるよりも前に、そんな言葉が口から零れた。

 そんな隼人に少女は言った。

「--え? どうしたの? 昨日会ったばかりじゃない。忘れちゃったの? うーん。仕方がない。忘れっぽい隼人のために、もう一度だけ自己紹介しとこうか」

 そう言うと、少女は口を開いた。

「私の名前は朝倉千尋(あさくらちひろ)。あなたに殺してもらうために、あなたに会いに来た。ふふふ。昨日話したばかりだよ? 忘れちゃったの?」

 少女の言葉の意味が理解出来ず、首を傾げることしか、今の隼人には出来なかった。