瞼の裏に光を感じ、わずかに身じろぎをする。素肌を晒している脚や腕を隠すように纏うタオルケットの柔らかさ。どこか懐かしい幻想をかきたてる香りが鼻孔をくすぐった。
うっすらと目を開けると、障子戸から朝日がさしていた。淡い木漏れ日のような琥珀色の光が、畳の上をゆらゆらと揺らしていた。
腹に回された重み。うなじにかかる寝息のリズム。五感がだんだんと目覚めていく。
「んぅ?」
寝ぼけ声で零れた声で、まだ自分が完全に覚醒していないのだと分かる。
けれど、何故私の腹に重みを感じるのか。それも、まるで抱き枕を引き寄せるような腕の回し方で。
ゆっくりと首だけを捻って後ろを振り返る。
差し込む朝日の熱にすけるふわふわな金髪。音を拾う様に、ぴこ、と小さく動く頭に生えている大きな耳。髪の毛と同じ、朝日を反射しているようにキラキラと眩しい、ふさふさな睫毛によって閉ざされた瞼。
極めつけに、ふさ、とふわふわの毛玉が私の素足を撫でた。
「ぎゃああああ!!」
一気に覚醒した私は俊敏な動きで布団から転げ出た。それこそ、体育のマット運動で成績を出すのなら高得点を貰えそうなほどに、俊敏に転がって脱出してみせた。
ごろごろ、と障子戸の方へ向かって数回横で転がってから最後に前転を決めて、そのまま相手の方へ体を向けて思わず身構える。
相手は私の悲鳴と、タオルケットの動きによって肌に感じた冷気で目を覚ましたのだろう。眉間に皺を寄せて、両手で布団を押し込むようにして起き上がらせ、胡坐をかいてから片膝を立てて、頭を掻きながらこっちを睨み付けた。
「朝からうるさいな」
「ちょっ、脚! 脚が危ないでしょ!」
思わず両手で目元を隠しながら声を荒げた。
目の前の彼、このりは「はあ?」と更に不満げな声を零していたが。
「普段の方が脚出てるじゃん」
「だって今見えそうだもん!」
「わけわからん」
彼のふわふわで大きな尻尾が、まるで畳を掃き掃除するように振られている。
狐は単独傾向が多いから、感情を表現する必要が無いためにあまり尻尾ふりをしないとは言われているが……。前に、犬と尻尾の振り方が似てると聞いたので、多分機嫌が悪いのだと思う。その仮説が正しいとすればの話だが。
だが、その仮説を立証する以前に、彼の表情があまり機嫌が良いとは言えなさそうなので、表情などで判断した方が早そうだ。
兎に角、目の前の彼はこの家の家主に用意された寝衣を身に纏っているために、動きによっては隠すべきところが見えそうで危ないのだ。
私だって女だ。神様とは言え異性のそう言った部位付近を目にしてしまうのは、聊か照れてしまうし何より申し訳ない。
「ていうか、何で一緒に寝て……」
「そんなことはどうでも良いだろ。だってお前に憑いてるんだ。好きなようにして何が悪い」
「暴君……」
「それより、竜の子が来るんじゃないか?」
このりの言葉の通り、此方に向かって近づいてくる音がする。足音が聞こえてくる。縁側を歩く音がする。
とすとす、と静かな足音じゃなくて……バタバタ、という重いような、少し急ぎ足のような、そんな音が……。
「曙美さんどうしたの!? 大丈夫!?」
「ひっ!」
真後ろから響く大きな慌てるような声と、スパァンッ! と障子戸勢いよく開け放たれる音。息を飲み、声のした方へ顔を向ける。顔を上げないと、声の主は見えなかった。
キラキラと宝石が散りばめられたかのように、彼の白金の髪の毛が煌めく。綺麗な水の中を表すような青い瞳が、私を捉えた。
そんな彼の背後に、水の壁が見みえる。光が差し込まれて、水の中にスポットライトのように、光の柱が揺らめき、きらきらと照らしている。
夢ではなかった。アニメや漫画、小説やドラマなどに感化されて見ていた夢ではなかった。現実だった。先程のこのりとの一悶着があったから、この世界、この空間は夢ではなかったことだけはハッキリと分かる。
私を見下ろしている神様と人間のハーフの子、希龍雫玖くんに向けて、へらりと笑みを浮かべる。
「朝から騒がしくてごめんなさい、希龍くん……おはよう」
「え、あ、おはよう……」
未だに寝衣の私とは違って、すでに私服に着替えている希龍くん。流石だ。
彼は少しだけ呆けた様に私を見てから、顔をボッと一気に真っ赤にさせて、スパン! と勢いよく障子戸を占めた。風圧で前髪が少しだけふわっと舞った。
「ご、ごめん! 勝手に部屋に入って!」
「え? だ、大丈夫だよ?」
「曙美」
どこか声を上擦らせている希龍くんを安心させるために声をかけたが、このりが私の名を呼ぶ。体勢は相変わらずだが、隠す気が無いのだと分かれば、逆にこっちも吹っ切れるというものだ。彼の方へ顔を向けて、どうしたのかと問えば、彼は己の胸元、脚をそれぞれ指さした。
「見えてたと思うぞ」
このりの胸元と脚? それは別に、と思ったが、一瞬で全てを察した。
慌てて自身の身だしなみを確認するために視線を下げれば、それはもう乱れに乱れた寝衣姿の女が出来上がっていたのだ。
今度は私の顔に熱が一瞬で集まる番だ。まるでカアッとお湯が沸騰するような様だっただろう。
「ご、ごめんなさい!」
障子戸の向こうに居るであろう希龍くんに向けて、謝罪の言葉を叫んだ。
「う、うん。大丈夫。えっと、着替えたら居間に来てもらってもいいかな……? ゆっくりで、大丈夫だから」
「本当にごめんなさい!!」
「お前等本当に高校生か?」
「うるさい!」
このりの言葉に、高校生二人で同時に叫び返事してしまった。
*
「あっはっは! 二人共顔が真っ赤だねえ」
御櫃から白米を盛りながら、アオさんは大変愉快そうに笑い声を零した。彼の言う通り、私と希龍くんは未だに顔面真っ赤なままなんだけれど。
「……曙美さん本当にごめん」
「ううん……私こそお見苦しい物を……」
「いや、そんなことは……」
「折角ならもっと見ていけばよかったのにな。結構ヘタレだよな竜の子」
「君さあ……!」
顔面真っ赤な二人で並んでいれば、狐にも揶揄われる始末。特に揶揄われた希龍くんは、少し眉間に皺を寄せているのだけど。
いや、ていうか狐、お前も早く言えよ。と思ったけど口にしなかった。だって、どうせ絶対に謝られないし。逆に笑うに決まってるもん。ていうか、お前はずっと見ていたのかと本当は怒りたいけれど。
はあ、と溜息を吐きながら、開かれている障子戸の向こうに目を向ける。水で浸っている庭に、網状模様がゆらゆらと揺れて見えた。そう言えば、この模様……集光模様とも言うのだったか。
ゆらゆらと揺れている模様と、水の壁の向こうに見える、ぽこぽこと上へ登っていく泡の影。それらを眺めていると、どこか心が穏やかになって、さっきまでの気持ちの高ぶりも落ち着いてくるような気がした。空気も澄んで景色も透き通っているように見えて、成程気持ちが良い。
「ご飯は行き渡ったかな?」
アオさんの声で意識を戻して、座卓の方へ目を向ける。
テーブルの上には、白くて艶々で一粒一粒が立っている美味しそうなご飯、だしの香りが優しく漂ってくる豆腐の味噌汁、それと数品のおかずが乗せられていく。
ご飯も味噌汁も、玉子焼きも……どれも出来たてなのか、ほかほかと白い湯気が見える。それぞれが個性的な香りを放ち、それらが混ざり合っているのに、決して不快にならない。むしろ掛け算のように、おいしそうな匂いが倍増している。唾液がじわりとにじみ出てきたのが分かる。朝の膳に、渾然とした朝のムードをかもし出す。ご飯とは、どうも不思議なものである。
ぐう、とお腹が鳴った。
その音に自分でもびっくりして、自分のお腹に目をやる。アオさんも希龍くんも、少し目を開いて瞬きをしている。
「……失礼いたしました」
お腹にそっと手を添えて、赤くなっているのが明白なまま小さく謝る。
「あやまる必要ないよ。作り手としてはとても光栄だ」
「ありがとうございます……。でも、こんなに食べられるかな」
「いつもどれくらいなの? 寮で朝食出るよね」
「朝はいつもゼリー飲料でした」
私の言葉を聞いて、二人は再度、驚きの声を零しながら目を丸くする。
私は、朝食をあまりとれないタイプだった。というか、朝にあまり強くない。本日は衝撃的な目覚めをさせられたので、有無を言わせない感じで起こされたから自然と目が冴えているが。起きたばかりは意識がハッキリとしなくて、胃もなんだかまだ寝ているようで、身体もまだ重くて。そんな気分の中、物質を体内に入れ込むという行為は、どうも気が進まなかった。朝ご飯はどうも自分の中で優先順位が低い。
「なので、自分でもびっくりしています」
「美味そうだ米を炊くのも上手い」
「稲荷の君に褒められるのは光栄だね」
「ふふん。それより早く食べるぞ」
このりの言葉を聞いて、私は慌てて両手を合わせた。それと同時に、希龍くんも手を合わせる。
「いただきます」
「はいどうぞ」
「良い子だな。今どきの子は言わないと聞いていたが」
私と希龍くんを見て、このりがぱちくりと瞬き。確かに、よく聞くけれどね。給食も「給食費を払っているんだから、いただきますを言うのを止めさせろとか」そういうの。
「まあ、感謝の気持ちだよね。命も頂くわけだし」
「海外だって祈るところあるだろう。そんな不思議な事か?」
「いや、何でもない。二人揃って良い子ちゃんで俺は安心した」
まるで大人が子供を褒める様に言うものだから、思わず口を尖らせた。見た目年齢では圧倒的に私達より年下の癖に。
でも、このりが気にするのは当然の事なのかもしれない。稲荷は豊作の神様だ。食べ物に関する事には、少し厳しい目で見ている所もあるかもしれない。
再度、食前の礼を述べてから、私は箸を手に持った。
まずは卵焼きを食べよう。うっすらと焼き目のついた表面に反し、断面から見える中央辺りは、程よく半熟だ。一目で、これは美味しい物だ、と脳内で訴えてくる。
一切れを口に含めば、じゅわっとしみ出るだしの風味。自身の顔が輝いたのが、自分でも分かった。
「美味しい?」
アオさんに問われて、こくこくと何度も首を縦に振った。確か、関東と関西では、味付けの好みが違うんだっけ。関東は甘めの、関西はだしを利かせたもの。私としては、甘みのある玉子焼きがなじみ深いんだけれど、だし巻き卵もとっても美味しいのだと新たな発見が出来た。本当に、だしの風味が最高だ。
そんな私の様子を見て、彼も満足気に柔らかい笑みを浮かべた。綺麗に、笑う人だ。まあ、人ではないのだけれど。
「父さんのご飯、美味いでしょ?」
「はい、とっても美味しいです」
希龍くんの言葉に、アオさんの方を見ながら全力で首を縦に振る。どうしたらこんなに美味しい料理が作れるんだろう。ご飯も、こんなに美味しく炊けるんだろう。ちょっと硬めなのが物凄く私好み。
「だから寮のご飯が、実は物足りなくて……贅沢な悩みだよね」
「いや、これだと誰でも舌が肥えるよ」
言葉を口にしながら、小松菜の胡麻和えを口にひょいひょいと放り込んでいく。この小松菜のゆで加減も完璧。玉子焼きがだし巻だからか、ごまは少し甘めのテイストだ。これだけでご飯が進みに進む。
「希龍くんはどうしてるの?」
「俺は自分で作ってるよ」
「料理も出来るの……?」
本当に完璧じゃん。非の打ち所がないんだけれど。
「父さんの味の見様見真似って感じだけど、どうもね」
「それでも凄いよ。寮暮らしで自炊してる人の方が少ないと思う」
確かに各部屋には簡易キッチンがあるが、寮には共同の食堂がある。因みに、料理をお弁当にして売っている。だから寮生の多くは弁当を貰って、友達と共に食堂を利用することが多いだろう。部屋で食べたい人はそのまま部屋に持っていけばいい。私は持ち帰って食べながら勉強したりしていたが、自分で作ろうとは思えなかったなあ。
「希龍くん凄いねえ……」
「そ、そうかな? ありがとう……」
少し頬を染めて、ふさふさの睫毛で覆われた瞼を閉じて、彼も綺麗な笑みを見せてくれた。こっちまで嬉しくなってしまう。
「そういえば、曙美は竜の子を名前で呼ばないんだな?」
一人でモリモリとご飯を食べていたこのりがポツリと口にした。その言葉を聞いて、思わず笑顔のまま動きが止まる。
「竜の子は下の名前で呼んでいるのに」
「ちょ、このり!」
希龍くんが慌てて止めに入っているが、ほんのりを通り越して真っ赤な顔でこのりに止めに入っている。
「だって希龍ってのは苗字だろ? 竜ともある意味同じじゃないか。希龍って呼んだら二人の事を指すんじゃないか?」
「ア、アオさんはアオさんじゃないの……?」
「ん? まあ、これは貰った名前だからね。人間で言えば、確かに希龍アオになるのかな? 奥さんが希龍って姓だったから」
にこーっとアオさんが笑みを浮かべる。面白がっている、悪乗りしている、確実に。
「そっか、ぞれじゃあ苗字呼びだと分かりにくいなあ?」
「アオさんって呼んでるじゃないですか!?」
「んー?」
神様二人とも面白がってる。私の顔がだんだんと赤くなっていく。うぐぐ、と小さく声が零れた。
「曙美さん……? 無理に呼ばなくても大丈夫だよ?」
「折角だから名前で呼んじまえよ」
「このりは希龍くんから優しさを分けてもらった方が良い」
名前、名前呼び……! こうして改めて呼ぶ機会を与えられる、それも親御さん(神)の前で呼ぶのは些か緊張してしまう。緊張を通り越して、別の感情になってしまいそうだが。
高校生になると、急に男女の違いが出て、距離が人によって大きく変わってしまう。もう察してるだろうけれど、私は男子を名前で呼んだことなんて無い。神様達は除外して。
そう考えると、恥ずかしさが大きい。それを隣の優しい彼も察しているので、ずっと気にしてくれている。優しい。
「……雫玖くん」
「っ!」
顔を真っ赤にしながら彼の名前を口にすれば、名前を呼ばれた彼が一番驚いたように息を飲んだ。
そしてすぐに嬉しそうに表情を綻ばせて、優しくて温かみのある、けれどどこか甘みを感じそうな瞳を蕩けさせて、心底嬉しそうな顔をしたのだ。
「なに? 曙美さん」
「――っ! 名前を呼んだだけです! 早く朝ご飯を食べて、一緒に勉強しましょう雫玖くん!」
「うん」
にこにこと、本当に嬉しそうに笑うものだから。それに合わせて彼の親でもある神様のアオさんも微笑まし気に見守ってくるものだから。このりは少しだけ口角を上げて、ニヤニヤしているのでちょっとムカつく。
この空間から早く逃げてしまいたい。そんな思いで聊か気分が急ぐ。少しだけ慌てる様に、メインディッシュの卵焼きを取って口元へ運べば、慌てなくていいよとアオさんと雫玖くんに笑われて、少しだけ顔が熱かった。
もう少しだけ、美味しい朝食を味わってからでも、良いかもしれない。
うっすらと目を開けると、障子戸から朝日がさしていた。淡い木漏れ日のような琥珀色の光が、畳の上をゆらゆらと揺らしていた。
腹に回された重み。うなじにかかる寝息のリズム。五感がだんだんと目覚めていく。
「んぅ?」
寝ぼけ声で零れた声で、まだ自分が完全に覚醒していないのだと分かる。
けれど、何故私の腹に重みを感じるのか。それも、まるで抱き枕を引き寄せるような腕の回し方で。
ゆっくりと首だけを捻って後ろを振り返る。
差し込む朝日の熱にすけるふわふわな金髪。音を拾う様に、ぴこ、と小さく動く頭に生えている大きな耳。髪の毛と同じ、朝日を反射しているようにキラキラと眩しい、ふさふさな睫毛によって閉ざされた瞼。
極めつけに、ふさ、とふわふわの毛玉が私の素足を撫でた。
「ぎゃああああ!!」
一気に覚醒した私は俊敏な動きで布団から転げ出た。それこそ、体育のマット運動で成績を出すのなら高得点を貰えそうなほどに、俊敏に転がって脱出してみせた。
ごろごろ、と障子戸の方へ向かって数回横で転がってから最後に前転を決めて、そのまま相手の方へ体を向けて思わず身構える。
相手は私の悲鳴と、タオルケットの動きによって肌に感じた冷気で目を覚ましたのだろう。眉間に皺を寄せて、両手で布団を押し込むようにして起き上がらせ、胡坐をかいてから片膝を立てて、頭を掻きながらこっちを睨み付けた。
「朝からうるさいな」
「ちょっ、脚! 脚が危ないでしょ!」
思わず両手で目元を隠しながら声を荒げた。
目の前の彼、このりは「はあ?」と更に不満げな声を零していたが。
「普段の方が脚出てるじゃん」
「だって今見えそうだもん!」
「わけわからん」
彼のふわふわで大きな尻尾が、まるで畳を掃き掃除するように振られている。
狐は単独傾向が多いから、感情を表現する必要が無いためにあまり尻尾ふりをしないとは言われているが……。前に、犬と尻尾の振り方が似てると聞いたので、多分機嫌が悪いのだと思う。その仮説が正しいとすればの話だが。
だが、その仮説を立証する以前に、彼の表情があまり機嫌が良いとは言えなさそうなので、表情などで判断した方が早そうだ。
兎に角、目の前の彼はこの家の家主に用意された寝衣を身に纏っているために、動きによっては隠すべきところが見えそうで危ないのだ。
私だって女だ。神様とは言え異性のそう言った部位付近を目にしてしまうのは、聊か照れてしまうし何より申し訳ない。
「ていうか、何で一緒に寝て……」
「そんなことはどうでも良いだろ。だってお前に憑いてるんだ。好きなようにして何が悪い」
「暴君……」
「それより、竜の子が来るんじゃないか?」
このりの言葉の通り、此方に向かって近づいてくる音がする。足音が聞こえてくる。縁側を歩く音がする。
とすとす、と静かな足音じゃなくて……バタバタ、という重いような、少し急ぎ足のような、そんな音が……。
「曙美さんどうしたの!? 大丈夫!?」
「ひっ!」
真後ろから響く大きな慌てるような声と、スパァンッ! と障子戸勢いよく開け放たれる音。息を飲み、声のした方へ顔を向ける。顔を上げないと、声の主は見えなかった。
キラキラと宝石が散りばめられたかのように、彼の白金の髪の毛が煌めく。綺麗な水の中を表すような青い瞳が、私を捉えた。
そんな彼の背後に、水の壁が見みえる。光が差し込まれて、水の中にスポットライトのように、光の柱が揺らめき、きらきらと照らしている。
夢ではなかった。アニメや漫画、小説やドラマなどに感化されて見ていた夢ではなかった。現実だった。先程のこのりとの一悶着があったから、この世界、この空間は夢ではなかったことだけはハッキリと分かる。
私を見下ろしている神様と人間のハーフの子、希龍雫玖くんに向けて、へらりと笑みを浮かべる。
「朝から騒がしくてごめんなさい、希龍くん……おはよう」
「え、あ、おはよう……」
未だに寝衣の私とは違って、すでに私服に着替えている希龍くん。流石だ。
彼は少しだけ呆けた様に私を見てから、顔をボッと一気に真っ赤にさせて、スパン! と勢いよく障子戸を占めた。風圧で前髪が少しだけふわっと舞った。
「ご、ごめん! 勝手に部屋に入って!」
「え? だ、大丈夫だよ?」
「曙美」
どこか声を上擦らせている希龍くんを安心させるために声をかけたが、このりが私の名を呼ぶ。体勢は相変わらずだが、隠す気が無いのだと分かれば、逆にこっちも吹っ切れるというものだ。彼の方へ顔を向けて、どうしたのかと問えば、彼は己の胸元、脚をそれぞれ指さした。
「見えてたと思うぞ」
このりの胸元と脚? それは別に、と思ったが、一瞬で全てを察した。
慌てて自身の身だしなみを確認するために視線を下げれば、それはもう乱れに乱れた寝衣姿の女が出来上がっていたのだ。
今度は私の顔に熱が一瞬で集まる番だ。まるでカアッとお湯が沸騰するような様だっただろう。
「ご、ごめんなさい!」
障子戸の向こうに居るであろう希龍くんに向けて、謝罪の言葉を叫んだ。
「う、うん。大丈夫。えっと、着替えたら居間に来てもらってもいいかな……? ゆっくりで、大丈夫だから」
「本当にごめんなさい!!」
「お前等本当に高校生か?」
「うるさい!」
このりの言葉に、高校生二人で同時に叫び返事してしまった。
*
「あっはっは! 二人共顔が真っ赤だねえ」
御櫃から白米を盛りながら、アオさんは大変愉快そうに笑い声を零した。彼の言う通り、私と希龍くんは未だに顔面真っ赤なままなんだけれど。
「……曙美さん本当にごめん」
「ううん……私こそお見苦しい物を……」
「いや、そんなことは……」
「折角ならもっと見ていけばよかったのにな。結構ヘタレだよな竜の子」
「君さあ……!」
顔面真っ赤な二人で並んでいれば、狐にも揶揄われる始末。特に揶揄われた希龍くんは、少し眉間に皺を寄せているのだけど。
いや、ていうか狐、お前も早く言えよ。と思ったけど口にしなかった。だって、どうせ絶対に謝られないし。逆に笑うに決まってるもん。ていうか、お前はずっと見ていたのかと本当は怒りたいけれど。
はあ、と溜息を吐きながら、開かれている障子戸の向こうに目を向ける。水で浸っている庭に、網状模様がゆらゆらと揺れて見えた。そう言えば、この模様……集光模様とも言うのだったか。
ゆらゆらと揺れている模様と、水の壁の向こうに見える、ぽこぽこと上へ登っていく泡の影。それらを眺めていると、どこか心が穏やかになって、さっきまでの気持ちの高ぶりも落ち着いてくるような気がした。空気も澄んで景色も透き通っているように見えて、成程気持ちが良い。
「ご飯は行き渡ったかな?」
アオさんの声で意識を戻して、座卓の方へ目を向ける。
テーブルの上には、白くて艶々で一粒一粒が立っている美味しそうなご飯、だしの香りが優しく漂ってくる豆腐の味噌汁、それと数品のおかずが乗せられていく。
ご飯も味噌汁も、玉子焼きも……どれも出来たてなのか、ほかほかと白い湯気が見える。それぞれが個性的な香りを放ち、それらが混ざり合っているのに、決して不快にならない。むしろ掛け算のように、おいしそうな匂いが倍増している。唾液がじわりとにじみ出てきたのが分かる。朝の膳に、渾然とした朝のムードをかもし出す。ご飯とは、どうも不思議なものである。
ぐう、とお腹が鳴った。
その音に自分でもびっくりして、自分のお腹に目をやる。アオさんも希龍くんも、少し目を開いて瞬きをしている。
「……失礼いたしました」
お腹にそっと手を添えて、赤くなっているのが明白なまま小さく謝る。
「あやまる必要ないよ。作り手としてはとても光栄だ」
「ありがとうございます……。でも、こんなに食べられるかな」
「いつもどれくらいなの? 寮で朝食出るよね」
「朝はいつもゼリー飲料でした」
私の言葉を聞いて、二人は再度、驚きの声を零しながら目を丸くする。
私は、朝食をあまりとれないタイプだった。というか、朝にあまり強くない。本日は衝撃的な目覚めをさせられたので、有無を言わせない感じで起こされたから自然と目が冴えているが。起きたばかりは意識がハッキリとしなくて、胃もなんだかまだ寝ているようで、身体もまだ重くて。そんな気分の中、物質を体内に入れ込むという行為は、どうも気が進まなかった。朝ご飯はどうも自分の中で優先順位が低い。
「なので、自分でもびっくりしています」
「美味そうだ米を炊くのも上手い」
「稲荷の君に褒められるのは光栄だね」
「ふふん。それより早く食べるぞ」
このりの言葉を聞いて、私は慌てて両手を合わせた。それと同時に、希龍くんも手を合わせる。
「いただきます」
「はいどうぞ」
「良い子だな。今どきの子は言わないと聞いていたが」
私と希龍くんを見て、このりがぱちくりと瞬き。確かに、よく聞くけれどね。給食も「給食費を払っているんだから、いただきますを言うのを止めさせろとか」そういうの。
「まあ、感謝の気持ちだよね。命も頂くわけだし」
「海外だって祈るところあるだろう。そんな不思議な事か?」
「いや、何でもない。二人揃って良い子ちゃんで俺は安心した」
まるで大人が子供を褒める様に言うものだから、思わず口を尖らせた。見た目年齢では圧倒的に私達より年下の癖に。
でも、このりが気にするのは当然の事なのかもしれない。稲荷は豊作の神様だ。食べ物に関する事には、少し厳しい目で見ている所もあるかもしれない。
再度、食前の礼を述べてから、私は箸を手に持った。
まずは卵焼きを食べよう。うっすらと焼き目のついた表面に反し、断面から見える中央辺りは、程よく半熟だ。一目で、これは美味しい物だ、と脳内で訴えてくる。
一切れを口に含めば、じゅわっとしみ出るだしの風味。自身の顔が輝いたのが、自分でも分かった。
「美味しい?」
アオさんに問われて、こくこくと何度も首を縦に振った。確か、関東と関西では、味付けの好みが違うんだっけ。関東は甘めの、関西はだしを利かせたもの。私としては、甘みのある玉子焼きがなじみ深いんだけれど、だし巻き卵もとっても美味しいのだと新たな発見が出来た。本当に、だしの風味が最高だ。
そんな私の様子を見て、彼も満足気に柔らかい笑みを浮かべた。綺麗に、笑う人だ。まあ、人ではないのだけれど。
「父さんのご飯、美味いでしょ?」
「はい、とっても美味しいです」
希龍くんの言葉に、アオさんの方を見ながら全力で首を縦に振る。どうしたらこんなに美味しい料理が作れるんだろう。ご飯も、こんなに美味しく炊けるんだろう。ちょっと硬めなのが物凄く私好み。
「だから寮のご飯が、実は物足りなくて……贅沢な悩みだよね」
「いや、これだと誰でも舌が肥えるよ」
言葉を口にしながら、小松菜の胡麻和えを口にひょいひょいと放り込んでいく。この小松菜のゆで加減も完璧。玉子焼きがだし巻だからか、ごまは少し甘めのテイストだ。これだけでご飯が進みに進む。
「希龍くんはどうしてるの?」
「俺は自分で作ってるよ」
「料理も出来るの……?」
本当に完璧じゃん。非の打ち所がないんだけれど。
「父さんの味の見様見真似って感じだけど、どうもね」
「それでも凄いよ。寮暮らしで自炊してる人の方が少ないと思う」
確かに各部屋には簡易キッチンがあるが、寮には共同の食堂がある。因みに、料理をお弁当にして売っている。だから寮生の多くは弁当を貰って、友達と共に食堂を利用することが多いだろう。部屋で食べたい人はそのまま部屋に持っていけばいい。私は持ち帰って食べながら勉強したりしていたが、自分で作ろうとは思えなかったなあ。
「希龍くん凄いねえ……」
「そ、そうかな? ありがとう……」
少し頬を染めて、ふさふさの睫毛で覆われた瞼を閉じて、彼も綺麗な笑みを見せてくれた。こっちまで嬉しくなってしまう。
「そういえば、曙美は竜の子を名前で呼ばないんだな?」
一人でモリモリとご飯を食べていたこのりがポツリと口にした。その言葉を聞いて、思わず笑顔のまま動きが止まる。
「竜の子は下の名前で呼んでいるのに」
「ちょ、このり!」
希龍くんが慌てて止めに入っているが、ほんのりを通り越して真っ赤な顔でこのりに止めに入っている。
「だって希龍ってのは苗字だろ? 竜ともある意味同じじゃないか。希龍って呼んだら二人の事を指すんじゃないか?」
「ア、アオさんはアオさんじゃないの……?」
「ん? まあ、これは貰った名前だからね。人間で言えば、確かに希龍アオになるのかな? 奥さんが希龍って姓だったから」
にこーっとアオさんが笑みを浮かべる。面白がっている、悪乗りしている、確実に。
「そっか、ぞれじゃあ苗字呼びだと分かりにくいなあ?」
「アオさんって呼んでるじゃないですか!?」
「んー?」
神様二人とも面白がってる。私の顔がだんだんと赤くなっていく。うぐぐ、と小さく声が零れた。
「曙美さん……? 無理に呼ばなくても大丈夫だよ?」
「折角だから名前で呼んじまえよ」
「このりは希龍くんから優しさを分けてもらった方が良い」
名前、名前呼び……! こうして改めて呼ぶ機会を与えられる、それも親御さん(神)の前で呼ぶのは些か緊張してしまう。緊張を通り越して、別の感情になってしまいそうだが。
高校生になると、急に男女の違いが出て、距離が人によって大きく変わってしまう。もう察してるだろうけれど、私は男子を名前で呼んだことなんて無い。神様達は除外して。
そう考えると、恥ずかしさが大きい。それを隣の優しい彼も察しているので、ずっと気にしてくれている。優しい。
「……雫玖くん」
「っ!」
顔を真っ赤にしながら彼の名前を口にすれば、名前を呼ばれた彼が一番驚いたように息を飲んだ。
そしてすぐに嬉しそうに表情を綻ばせて、優しくて温かみのある、けれどどこか甘みを感じそうな瞳を蕩けさせて、心底嬉しそうな顔をしたのだ。
「なに? 曙美さん」
「――っ! 名前を呼んだだけです! 早く朝ご飯を食べて、一緒に勉強しましょう雫玖くん!」
「うん」
にこにこと、本当に嬉しそうに笑うものだから。それに合わせて彼の親でもある神様のアオさんも微笑まし気に見守ってくるものだから。このりは少しだけ口角を上げて、ニヤニヤしているのでちょっとムカつく。
この空間から早く逃げてしまいたい。そんな思いで聊か気分が急ぐ。少しだけ慌てる様に、メインディッシュの卵焼きを取って口元へ運べば、慌てなくていいよとアオさんと雫玖くんに笑われて、少しだけ顔が熱かった。
もう少しだけ、美味しい朝食を味わってからでも、良いかもしれない。