『遊びに来ると良い』と言われても、行き方教わらなければ行けるわけなくない?
 イライラを隠すように、頬杖をつきながら右手で持つシャーペンをくるりと回す。上手く回り切れず、こつん、こつん、と机の上に転がった。その音が変に大きく響いて、周りの視線が突き刺さる。
「……すみません」
 私が謝れば、一緒に振り向いていた先生も授業を再開した。
 ほ、と安堵の息を吐いて、今度はまじめにとノートに文字を書きこんでいく。

 不可解な出来事を経験し、数日が経った。水没屋敷(水の中にある家だから勝手にそう呼んでいる)から出る時、考えておいてよと神様ことアオさんは笑みで私を見送った。その言葉に曖昧な返事をしてから、彼等の家の玄関扉を開いて一歩踏み出した先は、私が落下した例の場所だった。
 目をこれでもかと開いて、驚いて振り向いてみると、そこにはもう何も無かった。
 どこで〇ドアか?
 いくら周囲を見渡したところで、あの家が現れる事もないし、扉も現れない。短い時間の間でこの世の物とは思えない経験を詰んだ私は、もう動揺もしなかった。神様だもんね、で考えを済ませてしまった。そう、そう済ませてしまった方が楽なのだと気づいた。それか、あれは夢のような物だったのかもしれない。ここで昼寝して、海が近かったからこそ見た夢。そう考えてしまった方が、納得する。何で寝たのかは考えない方向にする。余計なことを考えるのは得策じゃない。
 ていうか『遊びに来ると良い』と言われたのに扉が無いんだったら、行くに行けないじゃん。そう気づいたのは、寮に辿り着いてからだった。
 考えられる方法としては、最初と同じ様にまた海に落ちないといけないという事だと思うけれど、自ら海(死地)に飛び込めるほどの勇気は持ち合わせていないのだ。きっと一人で飛び込んだら、今度こそ海の藻屑になってしまう。それはまだ勘弁してほしかった。
 ということで、神様の約束を破ってしまっているわけだけれど……。
 ちらり、と外を見れば、激しい雨が窓に打ちつけていた。夏休みに入った初日から大雨で、それがここ数日続いている。予定と言えば学校に通うくらいだから、まあ良いけれども。いや、正直に言えば嫌だけれどね。靴に雨が染み込んで、足元とか濡れるし。かと言って、晴れてくれなきゃ特別困る、というわけでもない。雨の中の登下校など、学生人生を考えれば普通に沢山あったのだから。
 先生が講義をしながら、黒板でチョークを削らせていく。羅列していく文字をノートに必死に書きこんでも、先生のアドバイスを聞いても、何一つ理解が出来ない。
 当たり前だ。この夏休みの講習は、生徒は基礎をとっくに理解しているという前提で行われている。基礎も何も理解できていない最下層に居る私が受けたって、理解できるわけがないのだ。
 ただ、真面目に受けていますよ、というアピールをするだけ。
 何を言っているのかも分からない、先生の声もうるさい、黒板にたたきつけるように書き続けるチョークの音がうるさい、外の雨と雷と風の音がうるさい。
 謎の不快感が、しっとりと胸を湿らす。音を立てない程度に、シャーペンでノートを何度も突く。この動作、誰かに似ているな。そう思うと脳裏に過るのは、担任に呼び出された時の彼の指の動き。担任の行為に不快感を持っていたを思い出し、似たようなことをしている自分にも不快になり、すぐに止めた。頬杖を付きなら、窓の外を見る。昼間なのに薄暗い景色の中に見えるのは、灰色や茶色に濁った海が大きく荒れているだけ。それと、傘をさしている一人の青年が、学校にやってくるくらい……。
「ん?」
 思わず窓の外を凝視して、その歩いてくる人物を注意深く観察する。遠目から目立つ白金の髪。そんな髪色を持っているのは、彼しかないない。
 伏せていた顔を上げて、彼は真っ直ぐと私の方へ目を向けた。
 迷うことも無く、真っ直ぐと、私の目を射抜いた。
「っ!」
 がたっ、と音を立てて思わず立ち上がってしまった。
「狐坂どうしたさっきから。何か質問か?」
「え? あ、いや……すみません、何でもないです……」
 謝りながらゆっくりと腰を下ろす。
 気のせい、きっと気のせいだ……。そう思いたいのに、同じ様に教室に居た子がヒソヒソ声で、けれどほんのり甘さを含んだ様な、期待を含んだ様なきらめきの声を零す。
「ね、希龍くんじゃない?」
「だよね? えー、なんでだろう」
「でもラッキーかも~!」
 黄色い声を零す彼女達。気のせいじゃなかった。私はもう、彼女達と同じ様に喜べない。だって、とんでもない出来事を経験してしまったんだから……。
 頭を支えていると、教室の扉がノックされる音がした。全員が扉の方へ目を向ければ、ゆっくりと扉が開く。喜んでいた女子が、再び黄色い声を小さく上げた。
「すみません、少し失礼します」
「希龍どうかしたのか?」
「いえ、ちょっと忘れ物を……」
 そう言って彼は私の方へ向かって足を進めてきた。へ? と混乱の声を零していたが、すぐに彼の動きの理由が思いつく。今日の自由参加講習は私達のクラスで行っていて、席は自由。そこで私は、窓際で教卓から程々に距離のある席を選んで腰かけた。そう、窓際の席が似合う彼の席に、自然と座っていたのだ。
 しまった、と考えがいきつくと同時に、希龍くんが薄く笑みを浮かべた。
「ごめん。机の中見ても良い?」
「ど、どうぞ!」
 慌てて椅子ごと後ろに下がる。椅子の足と床が擦れ合って、ごりごり、と削れるような音がした。ありがとう、と彼は礼を述べて、机の中に入っていた辞書を取り出し、先生にも礼を述べた。
「そうだ、折角だったら希龍も受けていくか?」
「え? 良いんですか?」
 何言ってんだおめえ。先生に向けて思わず言いたくなった。
 先生としては、学年トップの生徒が参加している、という箔をつけたいのかもしれないけれど、希龍くんは何で受け入れているんだよ。君には必要のない物だろう。
「ああ、空いてる席に座ってくれ」
「分かりました」
 そう言って、彼は私の隣に腰かけた。
 なんで! と机を叩き、叫びそうになる。
 他にも空いている席はあるのに。文句を言いたくなったが、(不可抗力ではあるけれど)先に彼の席を取ってしまったのは私なのだし、文句は言えまい。
 彼の方へ顔を向ければ、ごめん、と手を合わせて謝ってくる。
「ルーズリーフ、貰っても良い? 数枚ほど。返すから」
 だと思ったよ。だって、君の引き出しの中、辞書しかないもん。置き勉はしない派なんだもんね、偉い。勉強だっていつもちゃんとノートでとってるみたいだし。ルーズリーフなんて必要ないのだろう。
「いいよ。好きに使って?」
 私はノートに取ってるし、使いたいだけ使ってほしいとルーズリーフの入っている袋ごと手渡す。
「あ、シャーペンとかある? 予備あるから、貸せるんだけど……」
「ああそうだよね。借りても良い?」
「どうぞ」
 彼の手にペンと消しゴムを差し出す。三色ボールペンにシャーペンがセットされているやつだ。これなら赤ペンとしても使えるだろう。
 彼は少し驚いていたけれど、ありがとうと礼を述べて、先生の話を聞く態勢に入った。
 1人で身構えていた私が恥ずかしい。私も前を向いて、理解できない言葉の数々を書きこんでいった。



 相変わらず、授業内容など何も理解できない。ただ、先生の書く文字と、口にした注意するようなポイントをメモはしている程度。こんなんで、夏休み明けのテストの成績とか上がるのだろうか。成績が上がらなかったら、私はまた色々な人に嫌味言われるんだろうな。
 頬杖を突き、小さく息を溜息を吐く。
 こんこん、と机を軽く叩く音がした。ノートと並行するように伏せていた顔をあげ、音の元に目を向ける。どうやら机をペンで叩かれていたらしい。叩いてきた本人は明確だ。当人の方へ目を向ければ、彼は薄く笑みを浮かべて、一枚のルーズリーフを見せてきた。読んで、ということだろうか。
 ルーズリーフを受け取って、私はそれに目を通す。
 先生が説明していた数式、重要らしい点。それらが書かれていたルーズリーフの隅に、彼らしい綺麗で流れるような字体で何かが書かれていた。
『先生の説明あまり上手くないね』
 そう書かれていて、思わず目を開き、勢いよく希龍くんの方へ顔を向けた。彼はすぐに気が付いて、眉を下げて溜息を吐くジェスチャーをする。
 希龍くんでもそう思う事、あるんだ。いや、頭の良い彼だからこそ、余計にそう思うのかもしれない。彼が分からないのなら、私が理解できなくたって不思議じゃないな。なんて、思わず考えちゃって小さく笑みが零れる。
 彼から受け取ったルーズリーフに、私のシャーペンを走らせる。
『全然理解できないまま時間が過ぎてた……』
 そう書きこんで彼に渡す。彼は礼を述べて受け取って、私のメッセージを読む。ちょっとドキドキする。授業中に手紙交換とか久しぶりすぎる。中学時代は凄い流行っていたから、私も手紙の配達を手伝ったりしたものだ。
 彼は頷いてから、また書きこんで、手渡してきた。
『同情する』
『同情されてしまった……』
『こんな雨の中わざわざ来たのに……』
『私の靴と靴下返して』
 最後の私のメッセージに、彼が小さく笑い声を零したのが分かった。先生にばれない様に必死に堪えていたけれど。
『じゃあ一緒に勉強しない?』
 そう返されて、思わず「え?」と声が出る。どういうことかと確かめると、彼は頬杖を突きながら私の方を見ていて、綺麗な笑みを浮かべていた。
 顔が爆発して、真っ赤になって血が集まって行くのが分かる。まるで宗教画のように神々しいその姿に、とろりと少し甘い砂糖水を混ぜたような瞳がアンバランスで、けれどとても魅力的で。心臓がバクバクと騒がしくなったのが分かった。
 一緒にどうか、と誘われたのはこれで2回目だ。それなのに……いや、だからこそだろうか。彼に少しの余裕があって、それが余計に彼の美を強調しているような気がする。
 これは断れない。逃げられない。顔が熱い。
 今度は手紙を返さず、こくり、と頷けば、彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。

 本日の講習が終わって、生徒たちが立ち上がる。
 結局、授業内容を一つも理解できないまま終わった。先生の授業に関係なく、問題そのものは解けなかったわけなのだから、結局は私の努力不足は否めないわけだ。
 はあ、と溜息を吐けば、カタリと椅子から立ち上がった音がして、私に影が覆い被さった。顔をあげれば、希龍くんが薄く笑みを浮かべていた。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「あ、うん」
 授業は理解できなかったけれど、彼が教えてくれる。これほどまでに心強いことはあるだろうか。力強く首を縦に振った。
「あ、その前に寮とかに行って準備した方が良いのかな?」
「ん?」
 なんだか、私達の間に噛み合わない何かが存在している気がする。なんで寮? 準備? 何の話?
 私の間の抜けた声を気にせず、彼は顎に指を添えて、少し考えている様子だった。
「ど、どこに?」
「ん?」
「どこに行くの?」
「え? ああ、俺の家」
 あの家じゃん。あの、水没屋敷……! 脳裏に浮かぶのは、神様という存在であるアオさん。私は普通に図書室とか、問ういう所で勉強するのかと思ったんだけれど!?
 もしかして、これって何かの罠なんじゃ? そう思ってしまって、思わず身構えてしまう。
 だって、私をあの家に呼んだってなにもメリットってなくない? アオさんに誘われたのも、そもそも理解できない。何で、また私を呼びたいのかも分からない。
 ぐるぐると思考が回って、上手く返事が出来ないでいると、此方に誰かが寄ってきたのが分かった。
「ねえねえ希龍くん、このあと時間ある?」
「え?」
 声をかけてきたのは、同じ様に講義を受けていた数名の女子だった。頬をピンクに染めて、口元に手を添えるポーズをして、上目遣いで希龍くんを眺めている。
 あまり見慣れない容姿だと思ったが、違うクラスの子も居たようだ。だから、クラスの高嶺の花である彼に話かけたのか。同じクラスの女子は、春先で全員彼に話しかけるのをほぼ諦めたから。ちはるを除いて。
 私達の学年にとって高嶺の花的な存在だった彼が、講習に参加したのだ。別のクラスの子にとっては、このチャンスを逃すわけにいかないのだろう。
 ぼう、と彼女達を眺めていると、一人が私に気が付いて、机の上に手を乗せてきた。
「狐坂さん、ちょっとどいてくれる?」
「え? あ、」
 ごめん、と謝まろうとしたけれど、別の誰かが机に両手を乗せてきた。その際に、バンッと肩音が大きく響いて、思わず肩が跳ねる。
 顔をあげれば、彼女達の冷たい目線が私の方を向けているのが、ハッキリと分かった。ひやり、と背中に冷や汗が伝ったのが分かる。
 いつまでそこにいるの。邪魔なんだけど。どいてくれないかな。
 そんな気持ちを隠そうともしない。蛇に睨まれたような蛙状態になるまえに、必死に自分を鼓舞して、何とか椅子から立ち上がる。
「すみません……」
 そう謝りながらこの場から立ち去ろうとしたとき、手首を掴まれる感覚がした。
 がくん、と足が止まって、驚いて掴んだ主の方へ顔を向けた。私の手首を掴んでいたのは、どうやら希龍くんだったらしい。彼は真っ直ぐと女子達の方を見ながらも、口を開くことも無く、私の手首を掴んでいる。
 混乱している私を見て、グループの一人の子が気付いた。
「え? 希龍くん何で狐坂さんの手繋いでるの?」
 手は繋いでない。手首を握られているだけだ。
 大きい彼の手では私の手首は簡単に一握りできるようだ。ぎゅ、と力が込められたのが分かる。それと同時に、少しだけ、震えていることにも気が付いた。
「え? なに? そういう関係なの?」
 少しだけ呆れられたような、どこか馬鹿にされているかのような声で問われて、居心地が悪くなる。
 手首に込められた力が強くなる。思わず希龍くんの顔を見れば、あまり顔色が良いように思えなかった。誰かに助けを求める、幼い子供のようにも見えた。

 普通に考えれば分かることのはずなのに。どうして彼がいつも一人で居るのか。あまり人と話さないのか。いつも窓の向こうの海を見ているのか。

 表面しか知らない人達は、それが分からない。分かろうともしない。そして、勝手に期待して、勝手に幻滅する。人は、いつだって自分勝手だ。

 ぐ、と唇を噛んで。掴まれていた手とは逆の手で、彼の手を握る。彼は驚いたような表情で、私の方を見た。
「……うん、好きだよ」
 私が口にした言葉は教室に響いて、一瞬、シンと静まり返った。だが、すぐに大きなざわめきが起きて、数回悲鳴が聞こえて、バンッと机が叩かれる音が大きく聞こえた。
「はあ!? 希龍くんと付き合ってる!?」
「だ、誰と?」
「うそ、狐坂さんと希龍くん付き合ってんの?」
 いや付き合ってるとは言ってないじゃん! 私は彼が好きだよ、という言葉を述べただけじゃん。なんでそうなっちゃうのさ!
 まずい。面倒なことになったかも。女子からの視線、めちゃくちゃ怖いし。
 片思いしてる女の勝手な行動、として終わらせたかったのに、大事にとらえられてしまった。誤魔化すためとはいえ、もう少しまともな嘘でも言えばよかった。ていうか、希龍くんにも迷惑かける様なこと言ってしまった気がする。
 本当に馬鹿だ。ごめん、と希龍くんにだけ聞こえる声量で謝ろうとした瞬間、グンッと身体が勢いよく引っ張られた。
「え!?」
 希龍くんが私の手を取って教室から飛び出そうとする。
「ま、待って!? 希龍くん本当なの!?」
 女子の問いかけに、彼は脚を止めた。突然の停止動作に、思わず彼の背中にぶつかってしまう。いてて、と鼻を擦って見上げる。そこには、優しい笑みを浮かべた希龍くんの表情があった。
「うん。曙美さんが好きだよ」
 彼はそれだけ言って、また私を引っ張って走る。
 先程まで私達が居た教室は、また数々の悲鳴が聞こえた。黄色も有れば、悲壮感を感じるような悲鳴もある。
 その教室から必死に離れるように、二人で手をつないだままで廊下を疾走する。途中で二人の目が合って、揃って頬を膨らませてから、同時に笑みを吹きだした。
「ありがとう曙美さん」
「え?」
「助けてくれたんでしょ?」
 手を繋いで小走りする私たちの姿は、傍から見ればどう見えるのだろう。けれど、今はそれがどうでも良いと思えてしまった。
「逆にあれしか浮かばなくてごめん……」
 もっと良い言い訳とかあったかもしれないけれど、あの時の状況だと、あれしか思い浮かばなかった。
 海から落ちた時を助けてくれたこと、さっきの授業だって私の心を軽くしてくれたこと。お礼がしたくて、庇いたくて、助けたくて口を開いたが、上手くいかなかったような気がして、気持ちが落ち込む。
「ごめんね? 付き合ってることにさせちゃって」
「大丈夫。それに、そのほうが曙美さんと一緒に居ても不思議じゃないでしょ?」
「え?」
「一緒に、俺の家に行っても、不思議じゃないもんね」
 カアッと顔が赤くなる。そりゃあ、カップルなら、どちらかの家に行くことやお泊りは不思議な事ではないけれども!
 そこでようやく気付いた。
 彼が私の事を『曙美』と自然と呼び始めていたこと。目の前の彼の顔がほんのりと赤くなっている事。そして、自身の顔はそれに負けないくらい、赤くなっているであろうことを。