座卓の上に広がる数枚の紙。そしてその紙に表記されている数字を見て、私の向かいに座っている人が「おぉ」と感心したような声を零した。
「見事なものだね」
「曙美さん本当に頑張ってたもんね」
「えへへ」
2人に褒められて、素直に照れた声が零れた。
一つ一つの紙を手に取って、向かいの人……アオさんは頷きながら眺めている。
「前回の時とは大違いだ。これは教師も驚いただろう」
「もう、滅茶苦茶驚いてましたね。少し疑われもしましたが」
不正をしていないか、というね。その目を向けられた瞬間、私も負けじと睨み返した。そんな私の態度を見て先生は大層驚いたようだけれど。
まあ、それもそうだろう。夏休み前は、先生の話を聞いて頭を垂れて、意気消沈していた生徒が、急に強気な姿勢でぶつかってきたのだ。この一ヶ月の期間で何があったんだと、疑問を持ち驚愕するのは人間としても普通だ。
「雫玖くんは、大丈夫だった?」
「ん? 何も問題無いよ」
にこり、と笑みを浮かべて、テスト結果と順位が書かれている紙を手渡された。受け取って眺めていれば、90点代後半は当然で中には満点もある。順位は何と学年一位だ。
流石、と思うと同時に安堵もしていた。私の勉強を見てもらっていたから、その所為で彼の成績が下がっていたらどうしようかと、それが何よりも怖かったのだ。
そういえば、ちはるが恨めしそうに成績を眺めていたな。彼女の事だ、順位が負けたことに悔しがっていたのだろう。
そんな彼女も、私のテスト結果を見て大層驚いていた。そして雫玖くんに「よくやった」と親指を立てていたのを思い出す。それと同時に、次は負けないとも宣言していた。成程、彼女の順位を今更だが察した。
「本当にこの夏、君たちは頑張ったね」
二人分の成績を眺めながら呟くアオさんの言葉を聞いて、雫玖くんと目を合わせて、思わず笑みを浮かべた。
「雫玖くんのおかげです」
「曙美さんのおかげだよ」
二人そろって同じようなことを同時に言うから、今度は三人で笑い声がこぼれた。
「そういえば、このりは……」
「ああ、あの子なら縁側にいると思うよ」
夏休みの間はずっとこの家で過ごしていたが、連休が明けて、テストが返ってきたりする期間、普段は寮暮らしの私と雫玖くんはこの家に帰ってこなかった。だから、彼と会うのは、なんだか久しぶりな気がする。夏休み明けに会ったクラスメイトのほうが、会わない期間は長かったはずなんだけれど。
アオさんに礼を述べてから「会ってきます」と一声かけてから立ち上がり、二人に手を振られて彼の待つ縁側の方へ向かった。
「……雫玖は行かないでいいのかい?」
「邪魔をするわけにもいかないでしょ」
「何度も邪魔されてたのに」
「わ、笑わないでくれるかな父さん」
アオさんのいう通り、狐の耳と尻尾を出して、ゆらゆらとそれぞれを揺らしているこのりの姿を見つけた。
「このり」
彼の名前を呼ぶと、このりは私の声に気が付いてゆっくりと振り向いた。そして、彼にしては珍しい、にこりと柔らかい笑みを浮かべた。そんな表情に思わず拍子抜けする。
そんな私を気にせず、彼は自身の隣をたたいて、そこに座るようにと無言で指示してきた。少し動きが止まっていたが、彼の言う通りに隣に腰かけた。
「このり久しぶり」
「ああ、そうだな」
彼は足をプラプラと動かして、庭を覆っている水をパシャパシャと跳ねさせていた。その姿は、幼い子供がプールサイドで遊んでいるように見える。
けれど、彼の纏う雰囲気は、どこかさみしさを感じさせた。
「このり、どうかしたの?」
「ん? 何が?」
「なんか、このりらしくない? というか……」
私の言葉を聞いて、彼は驚いたようでこちらに目を向けて、その大きな目を更に開く。そしてすぐ表情を笑みに戻して、再度庭の方へ顔の向きを戻した。
「そうかもしれない。アンタと共に過ごしていた時期を思い出して、懐かしんでいた」
「なにそれ、お別れみたいな……」
「そんなもんさ」
彼はこちらの方へ目を向ける。真っすぐと見つめてくるのは相変わらずで、思わず小さく息をのんだ。
「最近、外に出るとき、天気に恵まれないなと思ったことはないか?」
「……言われてみれば」
この家にいる間はわからなかったが、親が来るときも雨が降っていたし、夏休み明けも雨が降っていた。その後も、寮生活に戻って外に出るときは雨にあたることが増えた気がする。
今までいろいろな人に「晴れ女」と呼ばれていたのに、急に恵まれなくなったものだと、内心ちょっと寂しいと思ったのだけれど。
「それが、何かあるの?」
「……まあ、簡単に言えば、俺がアンタを加護することが出来なくなったからだな」
「え?」
「もともと晴れ女や男は狐に縁があり、雨男や雨女は竜に縁がある。お前たちがいい例だな」
「成程……」
「それで晴れ女はな、雨男に嫁入りしたりするとその効力を失うんだよ」
「よ、嫁入り!?」
そんなことをした自覚はありませんが!?
顔を真っ赤にして否定すると、彼はくつくつと喉を鳴らしながら笑う。
「竜の奴が言っていただろう?『君はもう、俺達の家族みたいなものだから』と。そして、鍵をもらった」
「あ……」
「その瞬間、アンタは完全に、俺の加護から外れてしまったわけだ。だから、晴れ女としての力も失った」
理解したか? そういわれて、小さくうなずく。神様の力は馬鹿に出来ない。神様の放つ言葉には力がある。そう、改めて実感したようだった。
元々、アオさんとこのりの力の差は明確だった。だが、今回の件で彼はアオさんに力を完全に抑えられてしまったんだろう。
「……じゃあ、このりはどうなっちゃうの?」
私との縁が切れた彼は、どうなってしまうのだろう。雫玖くんが言うには、このりは分霊だとかそういう存在だと言っていた。だとしたら、本霊の元に、あの神社に帰ってしまうのだろうか。
ぎゅ、と小さく拳を握っていると、腕を急にひかれた。
「わっ、」
「なんだ? 俺がいないと寂しいのか?」
引かれた先。そこはこのりの腕の中だった。私より小柄な彼の腕の中に納まったのはいいけれど、少しだけ狭い。けれど、なんだか温かいと感じた。
「そ、そりゃあそうだよ!」
「……俺はもう、お前を守れない。そんな役立たずでもか?」
ぎゅう、と抱きしめられた腕に力が込められた。
いつだって自信満々で、強気だった彼が、こんなに弱気になるだなんて、思いもしなかった。彼の表情はどうなんだろう。今は隠れて見えないけれど、声が少し震えていた限り、寂しそうな顔をしていたんじゃないか。
そう思うと少しだけ口元が緩んだ。
「役立たずかなんて、考えたことがないし、これからも考えることはない。ていうか君が言ったんだよ、私の味方で居続けるのは変わらないって。それがどれだけ嬉しいか、わかる?」
「……あはは! そうだったな!」
彼はひとしきり笑った後、ゆっくりと私から離れた。
彼の瞳はもう寂しさを感じさせることはなく、私の知っている力強い瞳を持つ赤色だった。
「最初は本霊に戻ろうかと思ったんだが、やめた! ここに居候することにした」
「ふ、アオさんに許可取ってるの?」
「おう。竜夫婦にはずっと居ていいって言われたぞ」
少しだけ胸を張って少し自慢げ。そんな姿がかわいらしい。
「だから、いつでもここに来るといいさ。勿論、竜の子とな」
彼は私の後ろに視線をやる。つられて振り向いてみると、雫玖くんが優しい表情を浮かべてそこに立っていた。
彼のその表情を見た瞬間、このりの『嫁入り』だとか色々な言葉を思い出す。
思わず顔を真っ赤にしていれば、雫玖くんが慌てて駆け寄って、膝立ちの体勢になって私の頬に手を添える。
「どうしたんだい!? 大丈夫!?」
「だ、大丈夫!」
眉を下げて、とても心配していますと言わんばかりの表情は、それはもう美麗で思わず目をつぶってしまった。輝きで目が潰れてしまうと思ったのだ。
そんな私たちの様子を見て、このりは大笑いしてから立ち上がり。ゆらゆらと尻尾を揺らしながら、私たちの横をすれ違った。
「ああ、そうだ。もう一回言っておこうか。おめでとう、曙美」
夏休み明けの時にも言われた言葉だ。前回も含めどういうことなのかと、再度首をかしげたけれど、さっきまでの彼との会話を思い出して、すぐにどういう意味を込めていったのか察した。
「このり!」
「わ、どうしたんだい曙美さん!」
「あはは! 邪魔者は部屋に引きこもってるさ!」
部屋に戻るまで、彼はずっと笑っていた。そんな彼を見て、少しだけ唸っているような声を零していたら、雫玖くんがくすりと小さく笑みを浮かべた。
私の顔は依然赤いままで、雫玖くんに心配され続けていたけれど、大丈夫だと言い続けていれば、彼も了承してくれた。
「隣、座ってもいい?」
彼の問いかけに、両親と会う前日のことを思い出した。
あの時も、彼は私を気にかけてくれていたんだよなあ。あの時が、なんだかひどく遠く感じてしまう。本当は、たった数週間前くらいなのに。
「どうぞ」
あの時と同じように、私の隣を手で指し示せば、彼が私の隣にゆっくりと腰かける。相変わらず、彼の脚の長さはえげつない。
「このりから聞いたんだけど、あの子、ここに住むって聞いた?」
「ああ、父さんから聞いた。父さんも、いつも一人だったから、彼がいてくれた方が楽しいんだろう」
ふ、と優しく笑みを浮かべる。
そうか。奥さんであるナツさんはいつ帰れるかわからないトラベルライターだし、息子である雫玖くんも今は寮暮らしだ。アオさんはこの広い家の中で、一人で暮らしている。
それなら、二人で楽しく過ごしてくれるなら、彼の選択も有りなのかな。なんて思えば、私も小さく笑みがこぼれた。
「私以外の人は家に招かないの?」
「う、難しいところだな……」
「ちはるはきっと大丈夫だと思うけれど」
「確かに、彼女なら大丈夫そうだ」
二人で顔を合わせて、同時に笑みをこぼした。こうして彼女のことも心から信じることが出来るようになったことも、他にも沢山得たことは、全部全部、この家に来ることが出来たからで。そのきっかけをくれたのは、隣にいる雫玖くんなのだ。
「雫玖くん、本当にありがとう」
「ん? どうしたんだい急に」
「改めて言いたくなったの」
パシャ、と水を小さく蹴った。
「今までの私は怖がりで、弱虫で。心から安心できる場所はどこにもなかった」
私は何度も挫けてきた。何度も、何度も。
自分が弱くて、自分が嫌になった。誰かを心から信じれない、自分が嫌だった。自分の気持ちを伝えきれない自分が嫌だった。誰かにお願いや頼ることが出来ない自分が嫌だった。
失敗は許されない。失敗したら、きっと失望される。失望されて、私は嫌われる。
そう、ずっと思い込んでいた。
「それでも、こんな感情を抱いていても、こんな私自身を助けてくれた、雫玖くんが本当にありがたくて……」
少しだけ震える手を握りしめて、言葉を続けた。
「本当にありがとう」
「そんなこと言ったら、俺だってそうだよ。君と出会っていなかったら、きっと今でも俺は一人で居続けて、誰のことも信用できず、一人で生きていたと思う」
「そっか。じゃあ似た者同士だったのかもしれないね」
「ふふ、そうかもね」
風が吹いて、水面がゆらゆらと揺れる。そして光の反射で、きらきら瞬いている。少し耳をすませば、庭に水滴が落ちる音がして、案外水面の揺れる音も小さく聞こえてきて。世界って静かな音であふれてるんだな、なんて思った。
「雫玖くん。これは、独り言なんだけど」
「うん」
「わがままかもしれない。けれど、私は、好きな人と一緒に居たいなあ」
ぽつり、と呟いた声は少しだけ緊張でだろうか、震えていた。握っていた拳も、ぎゅ、力がこもる。あくまで独り言だといったのは、やっぱり私はまだまだ弱いところがあった証拠だろう。けれど、そんな自分も許したい。だから、この独り言も許してほしい。なんて、私、中々我儘になったかもしれない。
戻ろうか、そう声をかけようとした瞬間、私の手を、隣の彼が被せるように握ってきた。
驚いて彼の顔を見れば、彼の顔は今まで見た表情の中でも一番真っ赤で、瞳はどこか期待を帯びている様な欲と熱を感じて、夏の透明な海のように綺麗な青い色が私の目を射抜いてくる。
「自惚れだったらごめん。勘違いだったらごめん。……俺は、君の好きな人になれているのかい」
「……あ、ごめん、迷惑、だったよね」
バレちゃった、と言わんばかりに苦笑いを浮かべる。自虐的なのは相変わらずかな。
「誰もそんなこと言っていない」
ぎゅう、と力が込められた。あ、ちょっと怒ってる。もう一度謝れば、その手の力は少し弱まった。
「けれど、ああ、嬉しいね」
「え?」
「君にとって好きな人になれて、とても幸せだと思ったんだ」
耳元に直接響くような、彼の甘い言葉。どくんどくんと心臓がうるさい。身体が熱い。血が逆流しそうだ。
「好きな人と一緒に居たい。そう言ってくれてありがとう」
「え、えっと……その、どういたしまして?」
なんて返すのが正解かわからなくて、思わず首をかしげながら答えてしまった。
「俺もね、曙美さんが大切で、大好きだよ」
彼の真っすぐな声に驚いていると、彼は小さく笑みを浮かべながら、ゆっくりと手を解いてから、私を抱きしめてきた。彼の優しい力加減と、彼の体温と、彼から香る爽やかなにおいが、とても安心した。
「あの時俺を救ってくれたウソを、本当にしてくれませんか」
彼のいうウソとは、あの時のことを言うのだろう。私が彼の家へお邪魔するきっかけとなった、あの時のとっさのウソ。
「……はい」
「ふふ、ありがとう」
彼はそう言って私を一層力強く抱きしめてきた。
「これからも、一緒にゆっくりと頑張っていこう。俺は、君の隣に居続けるからね」
「っ、ありがとう」
小さく息をのんでから、彼の背中に回している手に力を込めると同時に、ゆっくりと涙をこぼして泣いていた。
嬉しくて涙をこぼしたのは、どれくらい久しいだろう。
それでも、海に沈んでいるこの屋敷の中で、彼は私の背中を撫でながら、優しい言葉を掛け続けてくれていた。
「見事なものだね」
「曙美さん本当に頑張ってたもんね」
「えへへ」
2人に褒められて、素直に照れた声が零れた。
一つ一つの紙を手に取って、向かいの人……アオさんは頷きながら眺めている。
「前回の時とは大違いだ。これは教師も驚いただろう」
「もう、滅茶苦茶驚いてましたね。少し疑われもしましたが」
不正をしていないか、というね。その目を向けられた瞬間、私も負けじと睨み返した。そんな私の態度を見て先生は大層驚いたようだけれど。
まあ、それもそうだろう。夏休み前は、先生の話を聞いて頭を垂れて、意気消沈していた生徒が、急に強気な姿勢でぶつかってきたのだ。この一ヶ月の期間で何があったんだと、疑問を持ち驚愕するのは人間としても普通だ。
「雫玖くんは、大丈夫だった?」
「ん? 何も問題無いよ」
にこり、と笑みを浮かべて、テスト結果と順位が書かれている紙を手渡された。受け取って眺めていれば、90点代後半は当然で中には満点もある。順位は何と学年一位だ。
流石、と思うと同時に安堵もしていた。私の勉強を見てもらっていたから、その所為で彼の成績が下がっていたらどうしようかと、それが何よりも怖かったのだ。
そういえば、ちはるが恨めしそうに成績を眺めていたな。彼女の事だ、順位が負けたことに悔しがっていたのだろう。
そんな彼女も、私のテスト結果を見て大層驚いていた。そして雫玖くんに「よくやった」と親指を立てていたのを思い出す。それと同時に、次は負けないとも宣言していた。成程、彼女の順位を今更だが察した。
「本当にこの夏、君たちは頑張ったね」
二人分の成績を眺めながら呟くアオさんの言葉を聞いて、雫玖くんと目を合わせて、思わず笑みを浮かべた。
「雫玖くんのおかげです」
「曙美さんのおかげだよ」
二人そろって同じようなことを同時に言うから、今度は三人で笑い声がこぼれた。
「そういえば、このりは……」
「ああ、あの子なら縁側にいると思うよ」
夏休みの間はずっとこの家で過ごしていたが、連休が明けて、テストが返ってきたりする期間、普段は寮暮らしの私と雫玖くんはこの家に帰ってこなかった。だから、彼と会うのは、なんだか久しぶりな気がする。夏休み明けに会ったクラスメイトのほうが、会わない期間は長かったはずなんだけれど。
アオさんに礼を述べてから「会ってきます」と一声かけてから立ち上がり、二人に手を振られて彼の待つ縁側の方へ向かった。
「……雫玖は行かないでいいのかい?」
「邪魔をするわけにもいかないでしょ」
「何度も邪魔されてたのに」
「わ、笑わないでくれるかな父さん」
アオさんのいう通り、狐の耳と尻尾を出して、ゆらゆらとそれぞれを揺らしているこのりの姿を見つけた。
「このり」
彼の名前を呼ぶと、このりは私の声に気が付いてゆっくりと振り向いた。そして、彼にしては珍しい、にこりと柔らかい笑みを浮かべた。そんな表情に思わず拍子抜けする。
そんな私を気にせず、彼は自身の隣をたたいて、そこに座るようにと無言で指示してきた。少し動きが止まっていたが、彼の言う通りに隣に腰かけた。
「このり久しぶり」
「ああ、そうだな」
彼は足をプラプラと動かして、庭を覆っている水をパシャパシャと跳ねさせていた。その姿は、幼い子供がプールサイドで遊んでいるように見える。
けれど、彼の纏う雰囲気は、どこかさみしさを感じさせた。
「このり、どうかしたの?」
「ん? 何が?」
「なんか、このりらしくない? というか……」
私の言葉を聞いて、彼は驚いたようでこちらに目を向けて、その大きな目を更に開く。そしてすぐ表情を笑みに戻して、再度庭の方へ顔の向きを戻した。
「そうかもしれない。アンタと共に過ごしていた時期を思い出して、懐かしんでいた」
「なにそれ、お別れみたいな……」
「そんなもんさ」
彼はこちらの方へ目を向ける。真っすぐと見つめてくるのは相変わらずで、思わず小さく息をのんだ。
「最近、外に出るとき、天気に恵まれないなと思ったことはないか?」
「……言われてみれば」
この家にいる間はわからなかったが、親が来るときも雨が降っていたし、夏休み明けも雨が降っていた。その後も、寮生活に戻って外に出るときは雨にあたることが増えた気がする。
今までいろいろな人に「晴れ女」と呼ばれていたのに、急に恵まれなくなったものだと、内心ちょっと寂しいと思ったのだけれど。
「それが、何かあるの?」
「……まあ、簡単に言えば、俺がアンタを加護することが出来なくなったからだな」
「え?」
「もともと晴れ女や男は狐に縁があり、雨男や雨女は竜に縁がある。お前たちがいい例だな」
「成程……」
「それで晴れ女はな、雨男に嫁入りしたりするとその効力を失うんだよ」
「よ、嫁入り!?」
そんなことをした自覚はありませんが!?
顔を真っ赤にして否定すると、彼はくつくつと喉を鳴らしながら笑う。
「竜の奴が言っていただろう?『君はもう、俺達の家族みたいなものだから』と。そして、鍵をもらった」
「あ……」
「その瞬間、アンタは完全に、俺の加護から外れてしまったわけだ。だから、晴れ女としての力も失った」
理解したか? そういわれて、小さくうなずく。神様の力は馬鹿に出来ない。神様の放つ言葉には力がある。そう、改めて実感したようだった。
元々、アオさんとこのりの力の差は明確だった。だが、今回の件で彼はアオさんに力を完全に抑えられてしまったんだろう。
「……じゃあ、このりはどうなっちゃうの?」
私との縁が切れた彼は、どうなってしまうのだろう。雫玖くんが言うには、このりは分霊だとかそういう存在だと言っていた。だとしたら、本霊の元に、あの神社に帰ってしまうのだろうか。
ぎゅ、と小さく拳を握っていると、腕を急にひかれた。
「わっ、」
「なんだ? 俺がいないと寂しいのか?」
引かれた先。そこはこのりの腕の中だった。私より小柄な彼の腕の中に納まったのはいいけれど、少しだけ狭い。けれど、なんだか温かいと感じた。
「そ、そりゃあそうだよ!」
「……俺はもう、お前を守れない。そんな役立たずでもか?」
ぎゅう、と抱きしめられた腕に力が込められた。
いつだって自信満々で、強気だった彼が、こんなに弱気になるだなんて、思いもしなかった。彼の表情はどうなんだろう。今は隠れて見えないけれど、声が少し震えていた限り、寂しそうな顔をしていたんじゃないか。
そう思うと少しだけ口元が緩んだ。
「役立たずかなんて、考えたことがないし、これからも考えることはない。ていうか君が言ったんだよ、私の味方で居続けるのは変わらないって。それがどれだけ嬉しいか、わかる?」
「……あはは! そうだったな!」
彼はひとしきり笑った後、ゆっくりと私から離れた。
彼の瞳はもう寂しさを感じさせることはなく、私の知っている力強い瞳を持つ赤色だった。
「最初は本霊に戻ろうかと思ったんだが、やめた! ここに居候することにした」
「ふ、アオさんに許可取ってるの?」
「おう。竜夫婦にはずっと居ていいって言われたぞ」
少しだけ胸を張って少し自慢げ。そんな姿がかわいらしい。
「だから、いつでもここに来るといいさ。勿論、竜の子とな」
彼は私の後ろに視線をやる。つられて振り向いてみると、雫玖くんが優しい表情を浮かべてそこに立っていた。
彼のその表情を見た瞬間、このりの『嫁入り』だとか色々な言葉を思い出す。
思わず顔を真っ赤にしていれば、雫玖くんが慌てて駆け寄って、膝立ちの体勢になって私の頬に手を添える。
「どうしたんだい!? 大丈夫!?」
「だ、大丈夫!」
眉を下げて、とても心配していますと言わんばかりの表情は、それはもう美麗で思わず目をつぶってしまった。輝きで目が潰れてしまうと思ったのだ。
そんな私たちの様子を見て、このりは大笑いしてから立ち上がり。ゆらゆらと尻尾を揺らしながら、私たちの横をすれ違った。
「ああ、そうだ。もう一回言っておこうか。おめでとう、曙美」
夏休み明けの時にも言われた言葉だ。前回も含めどういうことなのかと、再度首をかしげたけれど、さっきまでの彼との会話を思い出して、すぐにどういう意味を込めていったのか察した。
「このり!」
「わ、どうしたんだい曙美さん!」
「あはは! 邪魔者は部屋に引きこもってるさ!」
部屋に戻るまで、彼はずっと笑っていた。そんな彼を見て、少しだけ唸っているような声を零していたら、雫玖くんがくすりと小さく笑みを浮かべた。
私の顔は依然赤いままで、雫玖くんに心配され続けていたけれど、大丈夫だと言い続けていれば、彼も了承してくれた。
「隣、座ってもいい?」
彼の問いかけに、両親と会う前日のことを思い出した。
あの時も、彼は私を気にかけてくれていたんだよなあ。あの時が、なんだかひどく遠く感じてしまう。本当は、たった数週間前くらいなのに。
「どうぞ」
あの時と同じように、私の隣を手で指し示せば、彼が私の隣にゆっくりと腰かける。相変わらず、彼の脚の長さはえげつない。
「このりから聞いたんだけど、あの子、ここに住むって聞いた?」
「ああ、父さんから聞いた。父さんも、いつも一人だったから、彼がいてくれた方が楽しいんだろう」
ふ、と優しく笑みを浮かべる。
そうか。奥さんであるナツさんはいつ帰れるかわからないトラベルライターだし、息子である雫玖くんも今は寮暮らしだ。アオさんはこの広い家の中で、一人で暮らしている。
それなら、二人で楽しく過ごしてくれるなら、彼の選択も有りなのかな。なんて思えば、私も小さく笑みがこぼれた。
「私以外の人は家に招かないの?」
「う、難しいところだな……」
「ちはるはきっと大丈夫だと思うけれど」
「確かに、彼女なら大丈夫そうだ」
二人で顔を合わせて、同時に笑みをこぼした。こうして彼女のことも心から信じることが出来るようになったことも、他にも沢山得たことは、全部全部、この家に来ることが出来たからで。そのきっかけをくれたのは、隣にいる雫玖くんなのだ。
「雫玖くん、本当にありがとう」
「ん? どうしたんだい急に」
「改めて言いたくなったの」
パシャ、と水を小さく蹴った。
「今までの私は怖がりで、弱虫で。心から安心できる場所はどこにもなかった」
私は何度も挫けてきた。何度も、何度も。
自分が弱くて、自分が嫌になった。誰かを心から信じれない、自分が嫌だった。自分の気持ちを伝えきれない自分が嫌だった。誰かにお願いや頼ることが出来ない自分が嫌だった。
失敗は許されない。失敗したら、きっと失望される。失望されて、私は嫌われる。
そう、ずっと思い込んでいた。
「それでも、こんな感情を抱いていても、こんな私自身を助けてくれた、雫玖くんが本当にありがたくて……」
少しだけ震える手を握りしめて、言葉を続けた。
「本当にありがとう」
「そんなこと言ったら、俺だってそうだよ。君と出会っていなかったら、きっと今でも俺は一人で居続けて、誰のことも信用できず、一人で生きていたと思う」
「そっか。じゃあ似た者同士だったのかもしれないね」
「ふふ、そうかもね」
風が吹いて、水面がゆらゆらと揺れる。そして光の反射で、きらきら瞬いている。少し耳をすませば、庭に水滴が落ちる音がして、案外水面の揺れる音も小さく聞こえてきて。世界って静かな音であふれてるんだな、なんて思った。
「雫玖くん。これは、独り言なんだけど」
「うん」
「わがままかもしれない。けれど、私は、好きな人と一緒に居たいなあ」
ぽつり、と呟いた声は少しだけ緊張でだろうか、震えていた。握っていた拳も、ぎゅ、力がこもる。あくまで独り言だといったのは、やっぱり私はまだまだ弱いところがあった証拠だろう。けれど、そんな自分も許したい。だから、この独り言も許してほしい。なんて、私、中々我儘になったかもしれない。
戻ろうか、そう声をかけようとした瞬間、私の手を、隣の彼が被せるように握ってきた。
驚いて彼の顔を見れば、彼の顔は今まで見た表情の中でも一番真っ赤で、瞳はどこか期待を帯びている様な欲と熱を感じて、夏の透明な海のように綺麗な青い色が私の目を射抜いてくる。
「自惚れだったらごめん。勘違いだったらごめん。……俺は、君の好きな人になれているのかい」
「……あ、ごめん、迷惑、だったよね」
バレちゃった、と言わんばかりに苦笑いを浮かべる。自虐的なのは相変わらずかな。
「誰もそんなこと言っていない」
ぎゅう、と力が込められた。あ、ちょっと怒ってる。もう一度謝れば、その手の力は少し弱まった。
「けれど、ああ、嬉しいね」
「え?」
「君にとって好きな人になれて、とても幸せだと思ったんだ」
耳元に直接響くような、彼の甘い言葉。どくんどくんと心臓がうるさい。身体が熱い。血が逆流しそうだ。
「好きな人と一緒に居たい。そう言ってくれてありがとう」
「え、えっと……その、どういたしまして?」
なんて返すのが正解かわからなくて、思わず首をかしげながら答えてしまった。
「俺もね、曙美さんが大切で、大好きだよ」
彼の真っすぐな声に驚いていると、彼は小さく笑みを浮かべながら、ゆっくりと手を解いてから、私を抱きしめてきた。彼の優しい力加減と、彼の体温と、彼から香る爽やかなにおいが、とても安心した。
「あの時俺を救ってくれたウソを、本当にしてくれませんか」
彼のいうウソとは、あの時のことを言うのだろう。私が彼の家へお邪魔するきっかけとなった、あの時のとっさのウソ。
「……はい」
「ふふ、ありがとう」
彼はそう言って私を一層力強く抱きしめてきた。
「これからも、一緒にゆっくりと頑張っていこう。俺は、君の隣に居続けるからね」
「っ、ありがとう」
小さく息をのんでから、彼の背中に回している手に力を込めると同時に、ゆっくりと涙をこぼして泣いていた。
嬉しくて涙をこぼしたのは、どれくらい久しいだろう。
それでも、海に沈んでいるこの屋敷の中で、彼は私の背中を撫でながら、優しい言葉を掛け続けてくれていた。