朝、起床時にはアラームは設定してあるがなかなか起きれない私の為に、雫玖くんが起こしにやってくる。その後このりと一緒にそれぞれ身支度を整えて、彼等の家族と共に朝食をとる。そして少し休憩してから、雫玖くんや偶にナツさんを含め、一緒に勉強をする。休憩時にはアオさんお手製のおやつなどが配られる。昼食も勿論この一家と共にとる。お昼の後は長めの休憩を取って、それぞれ好きな事をする。私は最近、ナツさんの話を聞くことが多い気がする。外の世界を知りたくて。そして休憩が終われば、勉強の再開。夕飯の時間になれば一日分の勉強会は終了。食事をとった後は各自自由に過ごす。雫玖くんと勉強の事を話したりだとか、ずっとつまらなそうにしているこのりと一緒に遊んだりだとか、お風呂に入らせてもらったり。
 そしてある一定の時間を過ぎれば、私はお借りしている自室に入り、復習を兼ねて勉強をするのだ。こんなに一日中勉強をスムーズに行えて、苦にならないのは本当に素敵だ。いっそ奇跡と言っても過言ではないだろう。以前の私では絶対にありえなかった。
 学校で勉強を受ける時は、いつ自分が指名されるかひやひやしたし、答えられなかったときの恐怖はとんでもなかった。分からないところが分からない、という状況も多かったから先生に聞くに聞けなかった。友人であるちはるに聞く、ということさえも難しかった。勇気も無かった。だからこそ分からない、がどんどんと積み重なって、それはもう手遅れに近い存在になってしまって、成績不振という形になってしまったのだろう。
 けれど、今の環境はどうだ。少しでも躓くとすぐに察して優しく教えてくれて、こちらの体調を気に掛けてくれる恩人が居る。私の事を第一に考えてくれる神様もいる。美味しい食事や心地良い環境を作り上げてくれる神様もいる。相談ごとに乗ってくれて、勉強も教えてくれる恩人の母親もいる。
 恵まれすぎていないだろうか。罰が当たらないだろうか、なんて考えてしまうのは、きっと私だけではないはず。だって、今まで得られなかったものを一気に摂取してしまっているのだ。不安になるのも当然だと言ってほしい。

「当然だよね?」
『そういうことにしといてあげる』
 通話の先、画面の先に映っているのはちはるだ。
 彼女とはこの時間……夜の22時付近に画面通話をし、一緒に勉強をしている。私が本日学んだことを伝え、時には教え、その逆のパターンもある。不安な事があればすぐに互いに問い掛けられるのだ。
 まさか、彼女とこうして夜に一緒に勉強が出来るとは思わなかった。彼女に頼るのは、どうも恐怖心があった。それは彼女が嫌いだから、とかそう言った理由なんかではなくて、単純に私が弱味を見せるのが怖かった、というのが正しい。弱みを見せてがっかりされて、嫌われたらどうしよう、という考えを持っていたから。
 けれど、今回の様々な出来事で、彼女には色々と弱みも見せてしまったし、今更過ぎるのだ。勉強の弱みなど、相手からすれば気にもならない程度だろう。彼女も、前と変わらず……寧ろ距離が近くなったような気がするし、多少は素直になる、頼る、という行為をするのも大切なのだと、この夏休みの短い期間で沢山学んでしまった。
「何だか微妙な返事だね」
『アンタに言われたくないわ』
「なにそれ」
『いやだって……やっぱり何でもない』
 何か言おうとしたけれど、彼女は小さく溜息を吐いて、再び自身の解いている問題に目を向けていた。思わず首をかしげて、私も自身が解いている問題と向き合う。
 今年の夏休みは、本当に特別な事ばかりだ。今までずっと諦めてきたものを手に入れ、恐怖を感じる事も特に無く、過去に比べて一番心穏やかに過ごせている。それはきっと、いや、絶対に雫玖くんのおかげで。もしあの時に彼と会って話をしていなかったら、私はきっとまだ学校で勉強していて、勉強や友人に関する恐怖に勝手に襲われて、己を余計に嫌っていたのだろう。

「曙美は竜の子が好きなのか?」
 私達が勉強していれば、部屋の隅で壁に寄り掛かっていたこのりが突然発言した。
 バッと勢いよく顔を上げれば、それと同時にちはるも顔を上げて「竜の子?」と問い掛けた。
「あ、あ~ほら、雫玖くんの苗字が希龍だから、かな? 偶にそう呼んじゃうみたい」
『成程。このりくんは不思議だね』
「まあ、お前からすればそう見えるかもな」
 ずい、とカメラに映り込むようにこのりが顔を寄せてきた。ちょっと、と文句を言っても彼は知らんぷりだ。
『けど、君もこの二人が気になっちゃうわけだ』
「当然だ」
『へえ~』
 にこにこ、というよりはにやにや、か。ちはるが頬杖をついて此方を見ている。そんな彼女の視線を感じて、思わず、ぐ、と唇を噛みしめた。

 ビデオ通話で夜に勉強を一緒にやろうと言い出したのは、私だった。心臓をバクバクにして友人にお願いをすれば、彼女はあっけらかんと何も気にしていないとばかりに「いいよ」と簡単に了承の返事をしてきた。それに思わず間の抜けた声を零し、顔も間抜けになっていたのはおわかりだろう。
 雫玖くんに勉強を教えてもらいながら、数々の問題を解く。けれど、それだけではやっぱり不安だった。だから、友人に、私達の事情を知っているちはるにお願いをしてみる事にしたのだ。勿論断られても仕方ないと思った。だって勉強のお誘いだし、毎日のように一緒にやるわけだし。けれど、彼女は全然大丈夫と了承してくれたのだ。安堵によって泣きそうになったのは秘密だ。
 そんな私達が勉強していれば、当然同室のこのりにも迷惑がかかってしまう。どうしようかと思っていれば、先に気が付いたのはちはるだった。
 『その子誰?』と問いかけてきた彼女の示す指先に居たのは、背を壁に預けて本を読んでいるこのりだった。夜中だと言うのに叫ぶところだった。彼も気が付いて、フードを更に深く被って、私の横に並んで座り、彼女に挨拶をしたのだ。
 「雫玖の親戚のこのりだ」と。そうすれば彼女は大して混乱することも無く、どこか納得もしているように見えた。まあ、顔が整っている同士だし、同じ家に住んでいるのだから、変ではない、だろうけれど……。
 『けれど何で曙美の部屋に居るの?』と問いかかれば「曙美を守るためだ」と返事をしたために、彼女は面白い物を見つけたような目で『あらあらあら』と声を零していた。この快楽主義者め。その時の私は顔を真っ赤にさせていただろうけれど、一つ咳をしてその場をやり過ごした。

 という経緯があって、彼女はこのりという存在も知ったことになる。更に言うと、この二人は変なところが気が合う。面白いことが好き同士、とも言えよう。もう一度言おう、快楽主義者め。
 現に先程の「曙美は竜の子が好きなのか?」という問題発言にも、彼女は乗り気だ。勉強のキリも丁度良いし、今夜はもう勉強は諦めた方が良いかもしれない。私は思わず額に手を添えて、シャーペンをくるりと回しながらぽつりと呟いた。
「やっぱり、変? かな?」
『変? とは?』
「いや、本当に付き合っているわけじゃないのに、こうして家に泊まってずっと一緒にいること……」
 改めて考えると、摩訶不思議な状況なんだよなあ。友人の家に泊まったこともない人間が、異性の家にお泊りしているんだからさ。
 普通こういう、異性のおうちにお泊りって、そういう順序があってから、が普通だよなあ。
『……変というか、こういうのってさ、他人がどう思うかってより、自分がどう思ってるかなんじゃないの? まあ、二人が今に不満がないのなら、そういうのも有りなんじゃないかな』
 当事者じゃないからわからないけれど、と最後に言葉を付け足したちはるの考えに、思わずぽかんと間の抜けた表情になってしまう。
「頭のいい人は言うことが違うなあ」
『なにそれ。まあ、実際の二人の状況はどうなのかなって思うけど。多少好意は持っていないと、異性の家には行こうとは思わないよね』
 優しい表情で笑みを浮かべる友人。一回だけ瞬きをしてから、ゆっくりと視線を下に下げた。
 事の発端は、私が崖から海落ちそうだったから、雫玖くんに助けてもらったからで。助けてもらった方法が、彼の家にお邪魔することだったってだけで。
 けれど、この家にいる人達の空気が居心地がよくて。
 次に訪れた理由は、雫玖くんに誘われたからで。それを、私はもちろん断る権利だってあった。だって、彼とはそこまで深い仲ではなかったのだから。まあ、あの時も、勢いとか流れとかもあったのだけれど……。
 それでも、この家にまた行きたいと思って。雫玖くんとアオさんたちが待っているこの家に行きたいと思って。ここに来ると、心が軽くなるような、息がしやすい気がするから。水の中の家なのに、息がしやすいなんて、魚になったような気分だけれど。
「その、私、誰かの家にお泊りするのって経験したことがなかったの。ていうか、遊びに行くことも無かったの……だから、」
『へえ~成程ねえ。じゃあ正解とかが分からないから混乱してるって感じかあ』
「そう! そうなの!」
 ちはるがまるで私の気持ちを代弁してくれたようで、顔を上げて声のボリュームも少し上がってしまった。
「ごめんね、こういうのは自分で解決するべきなんだろうけど」
『しょうがないでしょ。だって初心者だもん』
「初心者って……まあ間違いではないか」
 ははは、と乾いた苦笑いがこぼれた。
 そんな私の様子をじっと眺め続けていたこのりが、首をかしげながら、少しだけ顔をのぞかせて口を開く。
「結局、曙美はアイツが嫌いってことなのか?」
「いやっ違うよ!」
「ん? じゃあ好き、なのか?」
「0か100かなのか……!」
『はは、ハッキリしてる子だね。まあまだ難しいのかもしれないし』
「む、馬鹿にするな」
『ごめんごめん。けれど、好きにも種類ってあるんだよ』
「種類……」
 顔を赤くしている私をよそに、このりに優しく説明するちはる。彼は未だに完全に理解できているわけではなさそうだけれど。
 でも、彼は神様なわけだし、それに生まれて間もないって言っていたから、まだそういった感情とかには詳しくない、疎いのかもしれない。
 本能のままに行動する。この言葉が一番納得いく気がする。
「竜とあの人間は、好きなのか?」
「アオさんとナツさんね。あの二人は好きあってるよ。仲の良い夫婦だし」
 ナツさんが帰ってきた時のアオさんの抱擁の場面と、日常における中でのアオさんからナツさんへの優しくて熱い視線は、恋愛初心者の私でも分かる程、好きという感情があふれている。見てるこっちが照れるくらいだ。
 そんなアオさんの好き、愛を受け入れて、同じまでは返せていないかもしれないけれど、ナツさんもアオさんを見る目は優しくて、大切な人を見る目をしている。
「じゃあ、曙美も竜の子と、あんな風になりたいか?」
「ぐぅ、真っすぐすぎる……!」
『あはは! 何故何故期の子みたい』
 画面の向こうの彼女は私とこのりの掛け合いを見て笑っているし。私はこんな大きな子供を育てた記憶はございません。
 彼のいうあんな風に、というのは、夫婦のような関係のことを言うのだろう。
「あんな風になるには、まだ早いというか」
「そっか。成程」
 このりは少しだけ笑みを浮かべた。口元が少し緩んでいて、喜びを隠しきれていない、と言わんばかりである。
『もしかして、曙美が取られると思って焦っちゃってるんだ?』
「ああ。まあ、まだ大丈夫だなと思って」
『やば! 曙美モテモテじゃん!』
「テンション高いな」
 このりは相変わらずの笑みを浮かべて、友人であるちはるはにやにやしていて、思わずため息がこぼれた。

『それでもさ、曙美の気持ちは一旦置いておくとするでしょ?』
「うん」
『雫玖くんはね、曙美のことすっごく好きだと思うの』
「へ?」
 顔に熱が一気に集まった。ボンッ、と爆発したんじゃないかと思うくらいだ。
『男女の差は多少あるかもしれないけれど、人間的に好意を持つ相手以外は家に泊まらせないでしょ?』
「まあ、そうかもね?」
『それも、雫玖くんから誘ってるんでしょ? そんなの絶対好きじゃん! アンタにいいところを見せたくて張り切ってるんじゃん! は~雫玖くんも健全な男子だったわけね』
 少し興奮しているのかテンション高く、少しだけ早口な彼女の言葉に押されそうになる。最後の、雫玖くんも健全な男子だったわけ、というのには少し納得はしたけれど。
 まるで神様が作った(まあ神様の子ではあるんだけれど)ような造形美の容姿に、成績優秀運動神経抜群の文武両道で、儚い雰囲気から醸し出す、一つの宗教画のような彼が、他にもいるクラスの男子と同じような存在なのだと、漸く最近実感できている気がする。
 彼は人間なのだと、知っていたはずだけれど、やっと実感できている気がする。
『そんな男の子に好意を寄せられて、お泊りも誘われているわけですけど、実際どうですか?』
「え、えっと……」
『その場しのぎのフォローだったとはいえ、付き合ってる設定にしたのは貴方らしいですが、不快感はありませんでしたか?』
「ニュースのインタビューみたいに聞かないでよ」
 顔を半分手で覆い隠して、空いているもう片方の手で彼女の映るスマホのほうへ手を少しだけ寄せる。赤くなっているであろう自分の顔を、あまり見られたくなかったのだ。
 自分が見えないと同時に、相手の顔も見えないはずだが、彼女は相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべているのは想像するのは容易い。
「そ、その……」
『うん』
「不快感は、なかった、というか……」
『フゥ~!』
「茶化さないでよ!」
『ふふ、ごめんごめん。嫌じゃなかったのは、雫玖くんだからだ』
 こちらを指さすように、まるで推理して出した答えが正解したかどうか相手に問うように、ちはるは言う。
 雫玖くんだから。その言葉がすごいしっくりときた。これが他の人だったらどうだろう、と考えたら、少し嫌だったかもしれない。
 あの時、私を誘ってくれた時、純粋に、真っすぐと私を見て、私の力になろうとしてくれた彼の好意が嫌じゃなかったから、私はこうしてこの家にずっとお世話になっているのかもしれない。
『曙美。さっきも言ったけど、今のアンタ達の状況は別に変とか考えないでいいんだからね』
「……うん」
『雫玖くんもさ、何かを特別に期待していたわけでもないと思うんだ。だから曙美も、「普通に好き」という感覚でいても良いんじゃないかな』
 普通に好き、か。なんだか、心が軽くなるような言葉だった。
 私は、ちはるが好きだ。アオさんが好きだ。ナツさんが好きだ。このりが好きだ。
 雫玖くんも、好きだ。
 普通に、好きだ。それはきっと、友情から少しずつはみ出してきている感情なのかもしれない。けれど、私は変わらずに、彼のことが普通に好きなのだ。
「ちはるありがとね。人生何周目? って思っちゃった」
『なにそれ、老けてるって言いたいのか!?』
「ごめんて、褒めてるの。凄い深い言葉をいっぱいもらっちゃったからさ」
『ふぅん。まあいいや。じゃあ、また詳しい話はまた後日だね』
 頬杖をつきながら、彼女はにたりと笑みを浮かべる。隣にいる狐の彼の面影をこっそりと感じてしまった。
『じゃあおやすみ』
「おやすみ」
 手を振って、通話終了のボタンを押す。そのままスマホを手に取って、アプリを閉じて、電源ボタンを軽く押せば、画面は真っ暗になる。そこに反射して写る私の顔は、聊か赤みを増しているように見えた。