「……変な人」

 顔を上げると、刺々しい声とは裏腹に、それまでつり上がっていた目が、柔らかくゆるんでいた。

 秋月美涼は手に持っている手帳を開き、ページに素早くなにかを書き込んだ。そしてその部分を切り取ると、文字に青い蛍光ペンでラインを引き、僕に差し出してきた。

「過去の騎馬くんが私を好きだったって言われても、それは今の騎馬くんの気持ちじゃない。未来では付き合っていたって言われても、今日はあくまで今日であって、未来じゃない」

 手渡された紙に視線を落とすと、達筆な字が並んでいた。

【駅前で、自分が倒したわけでもない自転車を一生懸命起こしている男の子を見かけて、私も手伝った】

【今朝、駅前で見かけた男の子と、新しいクラスで隣の席になった。名前は騎馬祐一くん】

「これって?」

 問いかけた僕を、秋月美涼はまっすぐ見つめ返した。

「まだ起きていないことを〝思い出す〟のは無理だよ。だったら、今、起きたことを忘れないようにすればいいんじゃない?」

 外から生徒たちの話し声が聞こえ始め、彼女はパタン、と手帳を閉じた。

「もうすぐ始業式が始まるね。私たちも体育館に行きましょう」
「すず!」

 部室を出ようとした背中に向かって、僕はとっさに声を上げていた。秋月美涼は、えっ、と僕を振り返った。

 まただ。この呼びかたが、勝手に口をついて出てきてしまう。

 過去の僕が、そう、彼女のことを呼んでいたのだろうか。

「……じゃなくて、秋月さん」
「いいよ、すずで」

 秋月美涼は口の端をかすかに上げて言った。

「その呼びかた、不思議と嫌な感じはしないんだよね」

 そして僕にくるっと背中を向け、部室のドアを開け放った。

 前方から射し込んだ朝陽で彼女の身体(からだ)が白く輝き、そのカメラのフラッシュのようなまぶしさに、僕は思わず目をまたたいた。


 部室を出てから、すずが僕に話しかけてくることはなかった。

 始業式では席が離れていたし、教室に戻ってからホームルームが始まるまでの休み時間は、頬杖をついて窓のほうに顔を向けていた。彼女が持つ強い瞳は、外をぼんやり眺めているというより、なにかを一心に見つめているように見える。

 記憶を失ってから、写真でしか見たことがない自分の彼女と、こうやって並んで座っていることが、ただただ不思議だった。話さなきゃいけないことは山ほどあるはずなのに、なにを話題にすればいいのかわからず、横目で様子を窺うことしかできない。

 ホームルームでは、新しいクラスメイトたちと自由に話す時間が設けられた。

 近くの席の男子たちが、ぎこちない調子で話しかけてくるけど、実際は一年間同じクラスで過ごした友達だ。初対面のように接してくることに違和感を覚えつつも、他愛もない雑談を交わした。

 結束力が強い女子たちは、教室の後ろ扉の近くに集まっていた。すずはそれに参加する気はないようで、席から離れずにじっと窓の外を見つめ続けている。その横顔は、気軽に話しかけるのもはばかられるほどに毅然としていて、実際に彼女に話しかける人は誰もいない。

 僕の意識は、クラスメイトたちと話していても、ずっと隣の席に向けられていて、会話が全然頭に入ってこない。適当なタイミングで相槌を打ったり、作り笑いを浮かべたり、そうしているだけで精いっぱいだった。

 クラスメイトたちの話し声が、右から左へ抜けて行く。

 にぎやかなクラスの光景が、一枚の分厚い膜を隔てたように遠くに感じられる。

 身の回りで起きていることのすべてが、映画館のスクリーンに流れる映像みたいで、僕はただそれをぼんやりと眺めているような感覚だった。