「……っ」

 言葉が喉の奥に引っかかって、声が出なかった。金縛りにあったように動けなくなった僕をよそに、秋月美涼は倒れた自転車を起こし始める。

 なんで死んだ人間がここに? 

 夢? 幻覚? 幽霊?

 待てよ。ここが本当に二年前だとするなら、まさか秋月美涼が死ぬ前に戻ってきているのか?

 男性が、自由になった自分の自転車を引っ張り出し、お礼も言わずに走り去って行った。秋月美涼はせっせと手を動かし続け、最後の一台を並べると、きゅっと目尻の上がった勝ち気そうな目で、僕を見据えた。

「倒したの、あなたじゃないのに、どうして違うって言わなかったんですか? あんなふうにやってもないことに対して理(り)不(ふ)尽(じん)に怒られて、悔しくないんですか?」

 まっすぐ僕に向けられる眼差しと言葉。人が行き交う喧騒の中で、僕たちの周りだけ世界から切り離されたような感覚にとらわれた。

 本当に夢じゃないのか?

 僕は無言のまま、おずおずと腕を伸ばして、秋月美涼の肩に触れた。

 すり抜けなかった。手には確かな感触がある。

 彼女の肩がビクッと波を打ち、大きく後ろに飛びのいた。

「なにするんですか!」

 眉をつり上げ、警戒心をあらわにしてきた。僕をにらむ目は、威嚇する猫みたいで、今にも噛みついてきそうな形相だ。

「秋月美涼さん……ですか……?」
「だったらなんですか?」

 自分が今、秋月美涼と向かい合って言葉を交わしていることに、現実感が湧かなかった。相手に対して懐かしさや愛おしさも込み上げてこない。湧き上がってくるのは、疑問と混乱だけだった。

「僕、騎馬祐一なんですけど、わかりますか?」
「何回か、廊下で見かけたことはあるような気がしますけど」
「それだけですか?」
「それ以上になにがあるんですか?」

 秋月美涼は顔をしかめ、不審者を見る目つきになった。

 ダメだ。向こうも僕のことを覚えていない。というより、知らない。

 しどろもどろになりながらも、状況を説明した。

「信じられないかもしれないですけど、僕、高三の卒業式の朝から、いきなり過去に戻ってきてるんです。今年から秋月さんと同じ二年三組で、出席番号順の席が隣同士で、それで僕たち夏休みから付き合い始めたらしいんです。でも僕、秋月さんとの記憶を全部なくしちゃって、覚えてなくて!」

 秋月美涼の表情がさらに険しくなった。

「さっきからなんなんですか。意味わからない」

 僕を避けるように傍らに停めてあった自分の自転車に乗り、ペダルに足をかけた。

「待って、すず!」

 走り去ろうとした彼女の背中に向かって、そう、無意識に叫んでいた。

 秋月美涼はハンドルを握ったまま、驚いたようにこちらを振り向いた。

 どこか懐かしい匂いのする風が、サーッと音を立てて梢を揺らした。

 桜の花びらが太陽の光を反射しながら、きらきらと雪片のように宙を舞い、僕たちの間をゆっくりと落ちていく。

「今、『すず』って呼んだ?」
「あっ、いや、すみません。よくわからないんですけど、なんか勝手に出てきて」

 もう自分でもなにを言っているのか、なにを言いたいのか、わからない。

 僕はズボンの端をぎゅっと両手で握った。

「とにかく本当なんです。僕が過去に戻ってきてる話、信じてください」

 彼女のハンドルを握る手に、ぐっと力がこもるのがわかった。

 なにか言い返そうとしたのか、肩をいからせて唇を開いた。

 だが、言葉は発せられなかった。沈黙を埋めるようにふたたび風が吹き、あたりの木々が葉擦れの音を鳴らす。

 秋月美涼は僕の視線を振り払うように顔をそむけ、自転車のペダルを踏み込んだ。シャーッ、とスポークの回転する音とともに、後ろ姿が遠ざかっていく。

 タイムリープしたことがある人がいると、インターネットの記事で読んだことがある。ありえないと思いつつ、今、実際に自分の身に起きていることから、その可能性を否定できなくなり始めていた。

 夢みたいな状況だけど、夢の中ではない。秋月美涼が幻覚で見えているわけでもない。

 学校に行けば、今日が本当に高校二年生の始業式なのか、確認できるかもしれない。

 僕はいても立ってもいられなくなり、学校に向かって走り出した。