月花は愛され咲き誇る

 呼びかけに振り向いたその人は確かに養母だった。
 髪を振り乱し、急いで来たことが分かる。
「香夜、逃げなさい。ここは食い止めておくから」
「でも、何故――」
 早口で告げた養母に何故助けてくれたのか聞こうとするが、その前に鈴華の金切り声が響いた。
「お母様⁉︎ 何故その子を庇うの⁉︎」
「鈴華……お前のためでもあるんだよ?」
「どうして……分からないわ、お母様!」
 母に裏切られた気分になったのだろう。鈴華は幼子の様にいやいやと首を横に振った。
「落ち着いて、少し下がっていなさい。あなたの母まで殺しはしませんから」
 柏は面倒そうに眉を寄せつつも、口調だけは優しげに言い鈴華を下がらせる。
 そして冷徹な目をこちらに向けた。炎のように赤いのに、ぞくりとする冷たさがある。そこに躊躇いなど欠片もなかった。
「どいてください、と言っても無駄の様ですね」
 話し合いの余地もなくそう言ってのけた柏は、また火の玉を出現させて香夜に向かって投げつける。
「くっ!」
 そしてまた養母が結界でそれを防いでくれた。
「お養母様⁉」
「早くっ! お逃げなさい! あなたは月鬼の宝――いいえ、華乃(かの)の大事な子。あの子が亡くなったとき、私は何が何でも守ると決めたのだからっ!」
 華乃とは母の名だ。友人だとは聞いていたが、それほどに仲が良かったのだろうか?
 いや、それよりも何故ここまでして自分を守ろうとしてくれるのか。
 今まで厳しく当たってきたではないか。邪険に扱ってきたのではなかったのか。
 疑問ばかりが浮かぶ。
 だが、今目の前で自分を守ってくれているのは確かにその厳しいはずの養母だった。
「思ったより粘りますね……。だがこれで!」
「きゃあ!」
 ばきん、と結界が壊れるような音がして、養母が弾かれる。それをとっさに受け止めようとした香夜も共に倒れた。
「その娘は養女なのでしょう? 実の娘より養女を大事にするのですか?」
 柏の呆れたような声に、養母は辛そうに体を起こしつつも睨みつける。
「香夜も鈴華も、私の大事な娘です!」
「っ⁉」
 躊躇いのないその言葉は、紛れもなく養母の心からの言葉だった。
 養母が何を思って自分に厳しく接していたのかは分からない。何を考え、今守ってくれているのかは分からない。
 だが、その思いだけは本物なのだと……頭ではなく心が理解した。
 燦人によって溶かされ壊されてきた心の壁が、養母の言葉で全て砕け散る。
「お養母様……」
「……泣いていないで、逃げなさい。燦人様なら、あの方ならきっと貴女を幸せにしてくれるだろうから」
 いつの間にか零れていた涙を養母の手が拭ってくれる。
(ああ……この手だ)
 幼い頃、泣き疲れた自分を撫でてくれた手。熱に浮かされて辛そうな自分を撫でてくれた手。
 養母はずっと、自分を見守ってくれていたのだ。
 思えば、養母は厳しいだけで手を上げたりはしなかった。邪険そうに扱いながらも、穢れた娘や呪われた子などと口にしたこともなかった。
 手を上げるのも、蔑みの言葉を投げつけてきたのも、他の誰かだ。
 壁がなくなり、むき出しになった心に温かい想いが流れ込んでくる。その温もりは心に熱を灯し、強い力となって香夜を勇気づけた。
「柏! 何をしている⁉」
 そのとき、少し離れた場所から燦人の声が響く。
「もう来てしまったか……。燦人様、邪魔をしないでいただきたい!」
 柏は両の掌に炎を灯らせ、片方は香夜達に、もう片方は燦人に向ける。
「嫌……駄目よ」
 燦人も、養母も、傷つけさせない。
 彼らを傷つける者は、誰であろうと許さない!
 香夜は立ち上がり、心の赴くままその力を放った。
***
 夜も更け、とうに眠りに落ちている時間だった。
 燦人も横になり、目を瞑り眠っていた。
 だが、物騒な気配を感じてすぅ、と目を開ける。
(これは、火鬼の力の気配?)
 それを理解した途端目が覚める。
 ここは月鬼の里だ、火鬼は自分を含め三人しかいない。炯は自分に付き従っているため今も隣の部屋で休みつつ待機している。
(となると柏なのだろうが……)
 どうしてか嫌な予感がした。
 羽織を着て気配の下へ向かう準備をしていると、襖の向こうから「燦人様」と静かに声を掛けられる。
「炯、行こう」
 炯も気配を感じ取り目が覚めたのだろう。燦人は余計なことは口にせず端的にそう言うと、自ら襖を開け足早に外へ出た。
 向かいながら、僅かにだが月鬼の力も感じる。嫌な予感は増すばかりだ。
 案の定向かった先では柏が香夜に向かって力を放っていた。
「柏! 何をしている⁉」
 そう叫ぶが、理由など分かり切っている。
 柏は向かう先が月鬼の里だと聞いた時から納得のいかない顔をしていた。それでも当主の決定だということで大人しく運転してきたと思ったら……。
(やはり納得はしていなかったという事か)
 それどころか不満に思っていたのだろう。香夜に危害を加えるという暴挙に出るほどに。
「燦人様、邪魔をしないでいただきたい!」
 そう叫んだ柏は、炎をあろうことか自分に向けてきた。次期当主である自分に、だ。
 遠縁である柏との力の差は歴然。敵うわけがないというのに。
(だが、いいだろう)
 燦人は込み上げてくる怒りに身を任せて思った。
(私の婚約者を害そうとした罪、その身で(あがな)わせてやる)
 暴力的な感情が沸き上がる。
 求めて焦がれて、やっと会えた存在。可愛くて大事な婚約者。
 彼女を傷つける者は、誰であろうと容赦はしない。
 そんな思いのまま、全力で叩き潰すために変転しようとしたときだった。
「嫌……駄目よ」
 微かな声。だが燦人の耳にははっきり聞こえた愛しい人の声。
 その彼女が立ち上がり、閉ざしていたはずの力を放つ。
 瞬間、キィンと澄んだ音がした。
 彼女の周囲と、自分の周囲に張られた結界。その結界は他の女鬼が張る盾のようなものではなかった。
 円蓋状の、全方面から守る結界。本来の月鬼が持ち得る力。
 燦人は舞台の上に目をやり、眩しそうに細める。
 そこには、月がいた。
 満月を思わせる薄黄色の目。月光を思わせる白銀の髪。そして、鬼の証である二本の角。
 下弦の月の下。かつて、まさに月だと言わしめた月鬼本来の姿となった香夜がそこにいた。
「……美しい」
 無意識に呟いたであろう炯の声が聞こえる。
 燦人は視線を舞台に向けたまま心の中で同意した。
(ああそうだ。美しく可愛い私の月鬼)
 八年前に感じた時よりさらに強い力を持ってそこにある。
 強さ故に惹かれるのか。美しさ故に惹かれるのか。もはや理由など分からない。
 だが、八年前から彼女のこの気配に惹かれていたのだ。
 この思いはやはり変わりないのだと、確信する。
(ただ、願わくば……彼女の心を開放するのは、私の役目でありたかったな)
 香夜の近くで倒れている彼女の養母に一瞬視線をやり、そんなことを思った。
 やがて香夜は力尽きたのか普段の姿へと戻る。
 倒れそうになる彼女を受け止めるため、一週間前と同じように素早く舞台へと上がった。
「燦人様……」
 受け止めた香夜は安心したように微笑むと、そのまま瞼を閉じてしまう。
 閉じていた力を突然解放したのだ。疲れてしまったのだろう。
 燦人は香夜を抱き上げ、先ほどの結界で弾かれてしまっていた柏に視線を移す。
「……柏」
「っはい……」
 冷たく呼びかけると、恐縮した様子で柏は姿勢を正し頭を下げた。
「お前は自分が何をしようとしていたのか、理解したか?」
「……はい」
 多くは聞かない。
 聞かずとも、変転した香夜を見た時の表情を見れば分かる。畏れ、憧れ、敬慕。それらが読み取れた柏に、もはや害意はないだろう。
 ……だが。
「戻ったら当主に報告させてもらう。それなりの罰は覚悟しておくように」
「はっ!」
 今柏を罰したところで困るのはこちらでもあった。自動車を運転する者がいなくなるのだから。
 それに害意がないと分かっているのなら、後で当主からしっかり罰を与えてもらった方が良いだろう。
 燦人は香夜に視線を戻し、安らかな寝顔に相好を崩す。
「貴女は凄いな」
 自分が守るまでもなく、自らの力で、その存在で、周囲を黙らせた。
 それだけの価値が、この小柄な娘にはあるのだ。
 そんな彼女が自分の婚約者なのだと、自慢したいような、隠してしまいたいような複雑な心情が胸に宿る。
 何にせよ、手放しはしない。
 香夜の価値しか見えていないような輩には、決して渡すわけにはいかないのだ。
 愛しい存在を腕に抱き、燦人はそう決意した。
 目が覚めると陽はすっかり上っていた。
 不思議な気分だった。まさか自分が変転までしてしまうとは。
 信じられない気持ちがある一方で、確かに自分にその力があると分かる。
 その事実を自身に浸透させるようにぼーっとしていると、養母が燦人達と共に部屋を訪れた。
 そして色々と話を聞かせてくれる。
 あの後柏と鈴華は大人しくなり、今は部屋に閉じこもっているそうだ。特に鈴華は色んな意味で気落ちしていて、何もする気が起きないといった様子だとか。
 養母はそう説明すると、今度は八年前のことを聞かせてくれた。
「あの事故の日。私も僅かだけど感じ取れたんだよ、お前の力を」
 そうして向かった先では親友がすでにこと切れていて、唯一生きていた娘の香夜は無傷だった。
 共に向かった里の者達はそれを気味悪がっていたが、気配を感じ取っていた養母は香夜が先祖返りであると確信したのだそうだ。
 だが、それを皆に知られると香夜は強い月鬼の子を産む道具のように扱われるだろうと判断した。それに、長の跡取り娘として育てられている鈴華の立場も危うくなるだろうと。
 だから隠し通すことを選んだ。
 元々髪色を気味悪がられていた香夜は周囲の者から辛く当たられ、自分の心を守るために心に結界を張るようになった。すると身を守るための結界を張れなくなった様だったので、そのままの状況を容認したのだとか。
「隠し通して、いずれは里から出すか比較的優しい者に嫁がせるか。少しでも幸せになれる道を探しているところに燦人様からの便りがあったんだよ」
 すぐに彼の求める者が香夜だと分かった。もしかしたら、日宮家ならば香夜を大事に守ってくれるかもしれない。
 だが、そちらでも産む道具として扱われる可能性があったので賭けをしてみたのだそうだ。
 舞台には上がらないように仕向けつつも、鈴華の近くに置くことで燦人が気付くかどうか。
 結局はお付きの炯が気付き舞台で舞うことになるという予想とは違う状況になってしまったが、と養母は僅かに自嘲した。
「……でも、燦人様は力だけではなく香夜本人を想っているように見えた。だから、それを信じてこのまま嫁入りを進めると決めたんだよ」
 そう話を締めくくると、燦人が困り笑顔を浮かべ口を開く。
「まさか私まで試されていたとは……。炯がいてくれて助かったな」
 そうして視線を向けられた炯は「恐れ入ります」と軽く頭を下げる。
「そうだ、ちゃんと伝えていなかったがこれも持ってお行き」
 思い出したように養母は横に置かれていた白い花の刺繡が刺された黒の帯を手に取る。
「これは華乃が私の嫁入りの際に祝いとして刺してくれたものだよ。お前にとっては形見にもなる。私と華乃からの祝いの品だと思って持ってお行き」
「母さんが?」
 手渡された帯を見つめ、何とも言えない感情が沸き上がる。ただ、嬉しいという事だけは確かだった。
「香夜」
 養母に場所を譲ってもらい近くに来た燦人が、改まって名を呼ぶ。
 真剣な眼差しに香夜も居住まいを正すと、強い意志と優しさをその目に宿した燦人が口を開く。
「貴女の力を日宮は歓迎する。そして、私は貴女自身が欲しい。嫁に来てくれるかい?」
 余計な言葉は邪魔だとでも思ったのだろうか。だが、直接的な言葉は香夜の心を大きく揺らす。
(欲しい、だなんて……でも、そんな風に求めてくれるなら……)
 トクトクと早まる鼓動を落ち着かせるように深呼吸をした香夜は、燦人に笑みを返し三つ指を揃える。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
 頭を深々と下げ、燦人の求婚を受け入れた。

 了

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