今晩は下弦の月。その月が上るのは、深夜と呼べるような時間帯だ。
 ただでさえ不安だというのに、そのような時間帯に連れ出そうとするなど嫌な予感しかない。
 夜も更けた頃、鈴華の使いとして来たのは彼女の友人の一人で少しふくよかな娘だ。
 顔を青ざめさせて「来て」とだけ告げる。そんな彼女に嫌な予感は膨れ上がる。
「嫌です。……私は行きません」
 首を横に振り拒否すると、もう一人大柄な男が現れた。廊下で香夜を見張っていた男だ。
「鈴華様がそれを望んでいるんだ。無理矢理でも来てもらう」
 男は告げると同時に動き出し、大きな手で香夜の口を塞ぎ抱えてしまう。小柄な香夜には抵抗すら無意味なほどの力の差。事実暴れても口を塞ぐ手すら外せない。
 この男は鈴華に心酔している里の者達の一人だ。彼女の婚約者候補にすら名が上がらないような男だが、だからこそひたむきな程に心酔している。
 そうして結局攫われるように香夜は自室から連れ出されてしまった。
「やっと来たわね」
 篝火の焚かれた舞台の上に放り投げられた香夜に冷たい声を掛けたのは鈴華だ。
 炎の揺らめきが、彼女の美しく無表情な顔を妖しく照らしている。
 鈴華は香夜を連れてきた二人を下がらせると、冷たい眼差しのまま口元に笑みを貼り付けた。
「やっぱりどう考えてもあなたのようなみすぼらしい娘が燦人様の婚約者だなんて信じられないのよ。辞退する気はないかしら?」
 提案の言葉なのに、まるでそうしろと命じているかのようだ。
 だが、それは無理な話。
 燦人が望み、長も方針を決めた。そして何より香夜も燦人と共にいたいと思うようになっていた。
 たった数日でも、香夜の心にはもう燦人が住んでいる。自ら手放すことが出来ない程に、彼の存在は香夜にとって大きなものとなっていた。
「……嫌です」
 そう答えればどうなるか、考えなくともわかる状況。
 それでも、自分の口から辞退するなどという言葉を紡ぎたくなかった。
「そう……なら、仕方ないわよね?」
 貼り付けていた笑みすらも消した鈴華は、誰かに場を譲るように香夜から離れる。
 すると突然、火の玉の様なものが香夜の顔の横を通り過ぎた。髪が少し焦げたようだ。
「すみませんね。あなたのような弱い鬼の血を一族に取り入れたくないのですよ」
 現れた男は優しく微笑んではいるものの、その目と態度は人を馬鹿にしていた。
 里の者ではない。だが香夜にも見覚えがあった。
 珍しい自動車を運転してきた人物だ。確か燦人は(かしわ)と呼んでいただろうか。
「とはいえ私の言葉など燦人様は聞き入れないだろう。だから、こうするしかないのだ」
 そう言葉にしながら、柏の姿が変化する。
 篝火で赤みを帯びていた髪が更に赤く染まり、黒かった瞳が赤く光る。そして、額の髪の生え際辺りから、二本の角が生えてくる。
 変転。
 聞いたことはあるが、月鬼には失われたもののため初めて見た。
 驚き動けずにいるうちに、柏はその手に先ほどよりも大きな火の玉を出現させる。
「すみませんね。死んでください」
 謝罪の言葉を口にしているのに、欠片も悪いと思っていない様子で柏はその力を放った。
「っ!」
 避けることも出来ず痛みを覚悟して目を閉じた香夜だったが、中々予想していた痛みは来ない。
 熱は感じるが、何かに遮られているような感じだった。
 そっと目を開けると、火の玉と香夜の間に一人の女性がいる。彼女は結界の盾を出し香夜を守ってくれていた。
(どうして……?)
「っく! やっとこの子が幸せになれそうだというのに、こんなこと許してなるものですか!」
 そう叫んで火の玉を霧散させた彼女を香夜は驚きの表情で見つめる。
「……お養母様?」