ヘマをしてしまった。
僕は制服の上衣を脱ぎ、流血を隠すために腕にかけた。手首の少し上がザックリ裂けている。日本刀で切りつけられた傷だ。
ターゲット以外は難なく動きを止めて侵入出来たのに、本人に仕掛けるタイミングが一拍遅れてしまったせいで、思わぬ反撃に遭った。僕だって物理的攻撃を受ければ、普通に怪我をしてしまう。
どうにか依頼通りの状態にして出て来たのだが、傷は思ったより深く、なかなか塞がらない。
僕は人通りの少ない道を選んで自宅へ向かった。
――あんな場面を見てしまったせいだ。
図書室の書架の向こう側で、大地は蒼空にキスしていた。
そっと頬に触れた右手と、強めの力で頭の後ろを押さえている左手。長身を屈め、蒼空の小さな唇を慈しむように啄む。
今まで見てきた女子たちとの醜悪な場面と違って、それはとても崇高な行為に見えた。
――どうして大地の優しいキスを受けるのが僕じゃないの?
わかっている。
わかっているのだ。
大地を白く癒《いや》せるのは蒼空だけで、黒い命を吹き込んだ僕の出る幕などない。
永遠にない。
「海斗?」
自宅の手前で路地を抜けると、目の前に蒼空がいた。
驚いた顔で僕を見つめている。
「どうしたの!? 大丈夫?」
「大丈夫って、なにが?」
僕は平静をよそおい笑みを浮かべた。
「だって、その血……」
言われて自分の体を見下ろすと、ワイシャツの胸の部分が赤く染まっていた。傷のある腕を胴体に寄せ過ぎたのだろう。
こんな失敗は全くもって僕らしくない。
「轢かれた猫を助けようと……あの……」
だめだ、うまく誤魔化せない。
僕は上着ごと腕を抱えるようにして逃げ出した。
自宅のドアを開けると、そこには父親が立っていた。
「しくじったな」
答えるより早く、僕の体は見えない何かにがんじがらめにされ、宙吊りにされてしまった。
父親は腕組みしたまま、背中から生やした黒い手で僕の制服を切り裂く。
高く掲げられた腕の傷から血が流れ、裸の肌を爪先まで伝って床に滴り落ちていく。
「これはこれで美しい」
黒い手が傷をなぞり、鋭い爪を沈める。新しい血がどくどくと湧き出す。
痛みに思わずうめくと、父親はヒトの形をした両腕をほどき僕に手を伸ばしてきた。
おぞましい口づけ。
血を塗りたくるように肌を撫でまわす無数の黒い手と、僕を握りしめるヒト形の手。
吐き気がする。
それなのに無理やり昂らされた快楽に抗えず、奥深いところまで侵入を赦してしまう。
僕は深淵を覗きながら、いったい自分はどこにいるのだろうと考えている。
深淵のふちに立っているのか、堕ちかけているのか、それとも……もうとっくに墜落してしまっているのか。
「治してやろう」
獣欲を満たした父親は微笑み、僕から羽を一枚ぶちっと抜き黒い霧に変えて傷を覆った。
もやもやと傷口に吸い込まれていく霧を眺めているうちに父親は姿を消し、僕は解放されて床に崩れ落ちる。
とても……とても疲れていた。
だから、気が回らなかったのだ。
「海斗なの?」
やわらかく清浄な空気が僕を包む。
肩に温かい手を感じて身を起こすと、そこには蒼空の姿があった。
――どうしてここに?
いや、訊くまでもない。僕の様子が変だったから、心配して訪ねて来たのだろう。
「綺麗ね」
蒼空はそっと僕の翼に触れた。
「熱っ」
声を上げた僕に慌てて手が離れる。
見れば、蒼空が触れた部分の羽が白くなっていた。