――リリイベの後、アタシは樋渡っちと事務所の会議室にいた。

『まずは、余計な心配をかけてしまったことを謝ります』

 彼はアタシたちをミニバンで事務所まで連れて帰り、一旦解散した後にアタシと話すという段取りをとった。事務所までの道中、いつもの席に座ったアタシは、運転席を見ることができずずっと窓の外だけを眺めていた。

 事務所に着くと、きりかたちも同席したいと言ってきたが、それは辞めてもらった。2人の気持ちもわかるけど、まずはユニットのセンターとして二人きりで話がしたかった。その方が樋渡っちも話しやすいだろうからと説明し、二人には納得してもらった。
 本当はアタシの方が、ちゃんとした態度をとり続ける自信がなかったから……二人の前でアタシの嫌なところを見せたくなかったから、だった。
 そして、その危惧は見事に的中してしまった。

『社長の話を聞いてしまったというなら、隠しはしません。私生活の件で事務所にご迷惑をかけています』

 ことの始まりは、あの収録があった日の前日らしい。いつも通り彼は遅くまでスケジュール調整や書類の作成などを行い、日付が変わる頃に帰宅した。しかし、家族は家におらず、食卓に置き手紙だけが残されていたという。
 理由はあやのが想像して通り。仕事一辺倒の彼についていけなくなった、という事らしい。

『手紙にしばらく放って欲しい旨、これからのやりとりは代理人を通してやって欲しい旨が書かれてました』

 代理人? 誰のことか分からず戸惑っていると「弁護士のことです」と彼は付け加えた。私は考えてもいなかった職業が出てきたことに、より困惑した。

『仕事柄、法律の専門家と話す機会は何度かありましたし、こういう修羅場も見てきたつもりでしたが……自分が当事者になるとダメですね』

 彼は自嘲気味にそう続けた。

『その……ごめんね。こんな"もしも"は聞くべきじゃないのかもしれないけど……樋渡っちが担当を外れることってあるの?』

 アイドルの担当は同性か、既婚者に限る。この事務所の暗黙のルールに従うなら、今の彼にはそういう可能性もある。

『いいえ! それはありません!』

 彼は断言した。

『私は妻との関係修復を諦めてません! それに、もし駄目だったとしても、これまでの実積を元にかけ合うつもりです! 大事な時期の皆さんを放り出したくはない。上には決して間違いなど起こさないと信じてもらいます!』

 間違い。その言葉が何故だかズシンと響く。あれ? アタシは今なにを望んでいるんだ? 彼が立ち直ること? 〈パスデビ〉がこれまで通り活動できること? それとも……別の何か?
 いや、落ち着けアタシ。彼はちゃんと話してくれた。とりあえず安心できる材料ができた。

『樋渡っちのことはよくわかったよ。ありがとう。きりかとあやのにもアタシの方から説明しておく』
『ありがとうございます』
『それはそれとして……樋渡っちもその……無理、しないでね?』

 そう声をかけた時、彼の顔が歪んだ。切なそうな顔、そして目にたまり始めた涙を見て、アタシの心がざわつく。
 同じだ、あの日収録スタジオで彼の泣き顔を見た時と、全く同じ感情が心の中に湧き上がった。何なのこれは? この感情はいったい何?

『ちょっと、また表情ヤバくなってるよー』

 出来るだけ明るく振る舞いながら、カバンに入っているハンカチを取り出した。

『ホラ、これ使って』

 それを受け取る彼はふふっとかすかに笑う。

『なんか前に、似たようなことありましたよね』
『あん時は立場逆だったけどね。ていかソレ、その時のハンカチだよ』
『あ、確かに……これは私のハンカチですね』

『娘は……本当に生き甲斐だったんだ。それが突然会えなくなって……訳が分からなくって……』

 そう言うとともに、彼の目にたまった雫がほろほろと流れ始めた。それを見て、アタシは思わず手で自分の顔を覆った。
 まるでダムが決壊するようにあらゆる感情がアタシの中にあふれていく。
 いつもアタシたちを支えてくれた彼を裏切るような仕打ちをした彼の奥さんに対する怒り。彼と深宇ちゃんを引き離したことに対する怒り。同時に、家庭をそんなになるまで顧みなかった彼への怒り。家庭の問題にアタシたちを巻き込もうとしている二人に対する怒り……。

 そして何より……今自分の中に芽生えた喜びに対する怒り……。

 彼が弱っている。彼に隙ができている。こんな姿をアタシにだけ見せてくれている。そんな思いがアタシを高揚させた。愛おしい。
 今なら……そう、今なら手が届くかもしれない。アタシが足を踏み入れることができない聖域は崩れ去った。彼を想っているのはアタシだけだ。そう今なら!

 彼への恋愛感情を自覚してから数年間、こんな気持ちになったのは初めてだ。

 アタシ、こんなに最低だったんだ……。

 片想いというのが、どういう状態なのか全く理解していなかった。ただ、ミニバンの斜め後ろのシートから彼を眺めていればそれでいいと思ってた。確かに、嫉妬心はある。嬉しそうに深宇ちゃんの話をする彼の顔を見ると、いつだって心のがチクチクとした。けど納得していた。そういうのも含めて、アタシの恋愛なんだと思っていた。違う! 全然違う!

 心の奥の奥の奥の底で、アタシはずっとこの時を待っていたんだ。二人の中を進展させる事ができるこの時を。アタシは樋渡陸を奪ってやろうと思っていたんだ。彼の家族がむちゃくちゃになるのをずっと待ち続けていたんだ。

 アタシの奥底に眠る、暗く汚い部分があらわになる。それを自覚した時、世界が闇に包まれるような感覚に陥った。