斜め後ろの席から君を見る

「どうした、久留巳?」

 フリーズしたアタシに気づき、岸野が声をかけてきた。ハッと現実に引き戻される。

「ごめん、ぼーっとしてた」
「本当に大丈夫か? 疲れてるだろお前?」
「ううん、そうじゃなくて」

 アタシは岸の顔を見る。その時ふと、そういえばこいつも男なんだよな、と当たり前のことに気づいた。そして……

「ねえ岸野。最後に泣いたのっていつ?」
「は?」

 内心でしまったと思う。唐突かつ謎過ぎる質問。アタシは岸野の眼から、視線をそらした。

「ごめん、何でもない忘れて」
「えと……四日前の、夜」

 けど明確な答えが返ってきて、ふたたび視線を戻す。

「え?」
「四日目の夜だよ、何度も言わせるな恥ずかしい」

 頬がかすかに赤くなっている。

「……聞いたからには何か反応しろよ」
「あ、うん……えっと……意外と最近……なんデスネ」

 なぜか敬語になった。小学校のころ、とかならわかる。いやクール眼鏡キャラのこいつなら幼稚園の頃に泣いたっきり、と言われても不思議じゃない。

「でも、どうして?」
「どうしてって……その、辛かったからだよ」
「辛かった? 何が?」
「勘弁してくれ。そこまで言えるわけないだろ」
「ごめん」

 岸野が泣いている様子、ちょっと想像できない。けど、樋渡っちだってあんな風になるところを昨日まで想像していなかったわけだし……。

「なんというか……男でも泣くんだ」
「当たり前だろ、そんなこと。もちろん誰かに知られたい話じゃないけど」
「え、じゃあなんで話してくれたの?」
「そりゃあさ……」

 バツが悪そうに岸野の目が泳いだ。

「お前がなんか真剣っぽかったから……。だから、ちゃんと答えないのは信義にもとるかなって……」

 武士かよ。芝居の台本でしか見たことないような熟語が出てきて、アタシは思わず心の中で突っ込む。けど、いかにも優等生の岸野っぽい受け答えだし、なによりアタシに真剣に向き合ってくれるのはうれしかった。

「そっか。……ありがと」
「それより、そんなこと突然聞くってことは、見たのか? 誰か、男の泣き顔を?」

 ドキっと、心臓が跳ねる。さすが岸野……するどい。

「あ、いや、そうじゃなくて……ほら、役作りの話で!! 心情を探らないといけないかなーって」
「役作り? 男の泣くときの心情を?」
「うん、そうそう! ほらその、アタシ男役やることになって……」

 自分の機転の効かなさに泣きたくなる。とっさのごまかしにしたって無理があるだろ。「パスデビ」はガーリーな可愛らしさと小悪魔感をコンセプトにしたユニットで、今のところその方針がブレることはない。そのセンターであるるみさ(アタシ)も、ドラマでは同年代の女の子の役しかやったことがない。
 いや単純に、相手役の男の涙をどう解釈するか、みたいな言い訳でよかっただろ。そこに気づき、とっさに自然な言い訳が出てこなかった自分を恨めしく思った。

「ふうん。まぁなんでもいいけど、もし誰かの泣き顔を見たんだとしたら……」
「だから違うって」
「下手に深追いはしない方がいいぞ」
「……!」

 言葉に詰まる。

「特にお前の周りの男ってことは、大人だろ。大人が泣くとしたら俺なんかよりよっぽど深刻な事情だ。それを分かち合うとか背負うとか、考えないほうがいい」
「…………」

 岸野の忠告に、アタシは違うともわかったとも言えなかった。
「お疲れ様でしたー」

 2週間後の土曜日。1年以上できていなかった念願のリリースイベント復活の日。アタシたちはいつにないテンションでイベントに臨んでいた。
 コロナのせいで長いことファンと直接触れ合うイベントができていなかってので、きりかもあやのも、普段以上に気合を入れていた。もちろんアタシも。
 流石に最近は、樋渡っちの泣き顔がアタシの仕事を邪魔することも無くなっていて、最高のパフォーマンスを皆の前で披露することができた。

「ああーーー!楽しかったーー!」

 これまでのフラストレーションを一気に発散させたようなあやのの声が、ロッカールームに響く。同感だ。やっぱりコールとペンライトの光の中で歌い踊るのは、最高に楽しい。そもそもアタシはこれをやりたくて、アイドルになったんだ。

「ファンのみんなもめっちゃ喜んでたし、ほんとよかった!」
「このまま、お渡し会や握手会も復活できるといいんだけどね」
「ほんとそれー!!」

 アタシの声もあやのの声にも、ステージの興奮が強く残っていた。まだ、ファンのみんなと直接触れ合うようなイベントは再開できそうにない。リリイベだって、世の中の情勢次第ではまた取りやめになるかもしれないという話だ。はやく、前みたいな活動ができればいいのに。つくづくそう思う。

 ガタンと、ドアが開く。ロッカールームにきりかが入ってきた。イベントが終了し、スタッフに挨拶して回ってる時に彼女とは別行動になってしまっていた。きりかとも今の興奮を分かち合いたい。そう思って、話しかけようとした時だった。

「ねえ、今聞いちゃったんだけど……」

 きりかの声も興奮でうわずっている。けど、それはアタシたちのものとは何か違うように感じられた。アレ? 即時に頭の中にはてなマークが発生する。

「2人ともさ。知ってた?」
「何が?」

 首をかしげるあやの。

「樋渡っちがさ、けっこーヤバいらしいよ? 離婚寸前だって」

 不意に、室内から音が消えた。アタシの思考が急停止する。そして空白となったアタシの脳内を浸食するかのように、彼のあの時の表情が再生される。

「なにそれ……? 誰が言ったの?」

 さっきまでとは真反対のあやのの声。

「う、うん。事務所で近藤さんと社長が話してるの聞いちゃって……」

 少しだけ口をもごつかせながらもきりかは答えた。

「なんか、だいぶ前から奥さん出て行っちゃったらしいよ。深宇(みう)ちゃん連れて。それで今は別居中だって」

 深宇ちゃんは樋渡っちの娘さん、彼のスマホの待ち受けでにこやかに笑うあの子のことだ。

「そんな……あんなに仲良さそうだったじゃん!? 休みの日は家族で出かけてたし、深宇ちゃんの行事の日は必ず有休をとってたじゃん?」

 アタシが言うのもなんだけど、彼は誰もがうらやむ家庭を持っていたじゃない。それが何? だいぶ前から別居って、どういうこと?

「でも樋渡っち、アタシたちのために結構残業とか休日出勤とかしてたっぽいしさ。そういうのが積み重なっていくうちに……って事なんじゃない?」

 あの日の涙で頬をぐしょぐしょに濡らしていた理由が、唐突に明確になっていく。そうか。やっぱり彼が涙を流す理由は家族だったんだ。そうとしか考えられない。そして、学校で岸野が話していたことも思い出す。俺なんかよりよっぽど深刻な事情だろうからな……本当だよ、岸野……。

「えっと……そうすると、まずくない?」

 口元に手を当て何かを考えながら、あやのが話し出す。

「まぁ、樋渡っち的にはだいぶマズイし、元には戻ってほしいけど……」
「そうじゃなくて。聞いたことない? ウチの事務所の不文律……」
「は、何それ?」
「あっ……!」

  アタシは思わず声を上げて、身体をのけぞらせた。人気商売であるアイドルや若手俳優に異性のマネージャーを付ける場合、必ず既婚者から選ぶ。それが、ウチの事務所の不文律だ。もし樋渡っちが離婚し独身となった場合、〈パスデビ〉のマネージャーはどうなる?

「えっ何それ、初めて聞いたんだけど!?」

 あやのから説明されて、きりかは目を大きく見開いた。

「ねえきりか、その話本当なの?」

 アタシはきりかの眼を見つめる。にらみつけるような形になってしまったかもしれない。きりかはアタシと目が合うとたじろぐように、少しだけ身体が後ろへ退がった。

「出鱈目言ったりしてないよね?」
「何それ? そんなコト言うわけないじゃん。樋渡っちのことだよ!?」

 アタシのキツめの声色に反発するように、きりかの声もトゲついたものになる。

「ちょ、ちょっと落ち着きなって二人とも!」

 即座にあやのが間に入る。

「そうだよ、樋渡っちのことだよ? それを何? いくらきりかがゴシップ好きでも、身内のそういう話は違くない?」
「ゴシップって……私はそんなつもりじゃ!」
「あやの落ち着いてってば!るみさ、アンタこそそれは違うでしょ!」

 わかってる。怒りの矛先があらぬ方向へ向かっている。きりかに当たっても仕方ない。落ち着け、アタシ。前に樋渡っちがいった通り、アタシは〈パスデビ〉のセンターとして二人を引っ張っていかなきゃいけないのに……。こんな口ゲンカ、してる場合じゃないのに……。

「ちょっと、るみさ?」

 アタシは二人から目をそらし、乱暴にロッカーの扉を開けた。タオルとポーチ掴み取り、シャワースペースへ向かう。その態度を咎めるようにあやのがアタシの名前を呼んだ。

「ごめん。ちょっと今は冷静でいられないから。いったん待って。まずは本当のことを知りたい……」

 ごめん岸野、こうなった以上ムリだわ。この後、樋渡っちをどう問い詰めようか、頭の中はそれでいっぱいとなってしまった。
 夜の公園。ベンチに座って待っていると、岸野はやってきた。

「久留巳!」

 アタシは変装用のダテ眼鏡を少しだけずらし、彼と目を合わせる。

「ごめんね、時間とらせちゃって」
「いやいい。けどお前こそ大丈夫か……その、週刊誌とか?」

 岸野はきょろきょろと周囲を見回す。人気アイドルるみさが夜の公園で男と密会! そんな見出しがつくことを恐れているんだろう。

「うん。高校のこと、何にも公表してないからこんな所にいるなんて誰も気づいてないと思う。今の時期なら、アタシたちに張り付いてる記者もいないだろうし」
「そう、か……」

 納得したのか、岸野はアタシの隣に腰を下ろした。

「けどお前こそ、よくここわかったな」
「前にファミレスでバイトしてるって言ったじゃん。あの時何となく聞いた場所だと、あの店しかなかったし……」

 岸野が今日、シフトを入れてる確証なんてなかったけど、藁にすがる思いで店へ行ってみた。

「先輩たち、混乱してたわ。あのるみさが自分の店に来たんだから」
「同じクラスだってこととか、言ってなかったんだ?」
「なんの自慢にもならないし、むしろサインもらってくれとか、そんな感じで面倒くさいだけだろ」

 いつも通りのぶっきらぼうな口調で応える。マスクと眼鏡と帽子。お決まりの変装三点セットを付けていても、わかる人にはわかってしまうらしい。岸野は水を注ぎに来るふりをして、バイトが終わる時間とこの公園の場所のメモ書きを残してくれた。

「で、どうした?」
「うん……アンタの言うとおりだったわ」
「俺、何か言ったか?」
「言ったじゃん、深追いするなって。本当にそう……」

 アタシは、リリイベの後に起きたことを話し始めた。
 ――リリイベの後、アタシは樋渡っちと事務所の会議室にいた。

『まずは、余計な心配をかけてしまったことを謝ります』

 彼はアタシたちをミニバンで事務所まで連れて帰り、一旦解散した後にアタシと話すという段取りをとった。事務所までの道中、いつもの席に座ったアタシは、運転席を見ることができずずっと窓の外だけを眺めていた。

 事務所に着くと、きりかたちも同席したいと言ってきたが、それは辞めてもらった。2人の気持ちもわかるけど、まずはユニットのセンターとして二人きりで話がしたかった。その方が樋渡っちも話しやすいだろうからと説明し、二人には納得してもらった。
 本当はアタシの方が、ちゃんとした態度をとり続ける自信がなかったから……二人の前でアタシの嫌なところを見せたくなかったから、だった。
 そして、その危惧は見事に的中してしまった。

『社長の話を聞いてしまったというなら、隠しはしません。私生活の件で事務所にご迷惑をかけています』

 ことの始まりは、あの収録があった日の前日らしい。いつも通り彼は遅くまでスケジュール調整や書類の作成などを行い、日付が変わる頃に帰宅した。しかし、家族は家におらず、食卓に置き手紙だけが残されていたという。
 理由はあやのが想像して通り。仕事一辺倒の彼についていけなくなった、という事らしい。

『手紙にしばらく放って欲しい旨、これからのやりとりは代理人を通してやって欲しい旨が書かれてました』

 代理人? 誰のことか分からず戸惑っていると「弁護士のことです」と彼は付け加えた。私は考えてもいなかった職業が出てきたことに、より困惑した。

『仕事柄、法律の専門家と話す機会は何度かありましたし、こういう修羅場も見てきたつもりでしたが……自分が当事者になるとダメですね』

 彼は自嘲気味にそう続けた。

『その……ごめんね。こんな"もしも"は聞くべきじゃないのかもしれないけど……樋渡っちが担当を外れることってあるの?』

 アイドルの担当は同性か、既婚者に限る。この事務所の暗黙のルールに従うなら、今の彼にはそういう可能性もある。

『いいえ! それはありません!』

 彼は断言した。

『私は妻との関係修復を諦めてません! それに、もし駄目だったとしても、これまでの実積を元にかけ合うつもりです! 大事な時期の皆さんを放り出したくはない。上には決して間違いなど起こさないと信じてもらいます!』

 間違い。その言葉が何故だかズシンと響く。あれ? アタシは今なにを望んでいるんだ? 彼が立ち直ること? 〈パスデビ〉がこれまで通り活動できること? それとも……別の何か?
 いや、落ち着けアタシ。彼はちゃんと話してくれた。とりあえず安心できる材料ができた。

『樋渡っちのことはよくわかったよ。ありがとう。きりかとあやのにもアタシの方から説明しておく』
『ありがとうございます』
『それはそれとして……樋渡っちもその……無理、しないでね?』

 そう声をかけた時、彼の顔が歪んだ。切なそうな顔、そして目にたまり始めた涙を見て、アタシの心がざわつく。
 同じだ、あの日収録スタジオで彼の泣き顔を見た時と、全く同じ感情が心の中に湧き上がった。何なのこれは? この感情はいったい何?

『ちょっと、また表情ヤバくなってるよー』

 出来るだけ明るく振る舞いながら、カバンに入っているハンカチを取り出した。

『ホラ、これ使って』

 それを受け取る彼はふふっとかすかに笑う。

『なんか前に、似たようなことありましたよね』
『あん時は立場逆だったけどね。ていかソレ、その時のハンカチだよ』
『あ、確かに……これは私のハンカチですね』

『娘は……本当に生き甲斐だったんだ。それが突然会えなくなって……訳が分からなくって……』

 そう言うとともに、彼の目にたまった雫がほろほろと流れ始めた。それを見て、アタシは思わず手で自分の顔を覆った。
 まるでダムが決壊するようにあらゆる感情がアタシの中にあふれていく。
 いつもアタシたちを支えてくれた彼を裏切るような仕打ちをした彼の奥さんに対する怒り。彼と深宇ちゃんを引き離したことに対する怒り。同時に、家庭をそんなになるまで顧みなかった彼への怒り。家庭の問題にアタシたちを巻き込もうとしている二人に対する怒り……。

 そして何より……今自分の中に芽生えた喜びに対する怒り……。

 彼が弱っている。彼に隙ができている。こんな姿をアタシにだけ見せてくれている。そんな思いがアタシを高揚させた。愛おしい。
 今なら……そう、今なら手が届くかもしれない。アタシが足を踏み入れることができない聖域は崩れ去った。彼を想っているのはアタシだけだ。そう今なら!

 彼への恋愛感情を自覚してから数年間、こんな気持ちになったのは初めてだ。

 アタシ、こんなに最低だったんだ……。

 片想いというのが、どういう状態なのか全く理解していなかった。ただ、ミニバンの斜め後ろのシートから彼を眺めていればそれでいいと思ってた。確かに、嫉妬心はある。嬉しそうに深宇ちゃんの話をする彼の顔を見ると、いつだって心のがチクチクとした。けど納得していた。そういうのも含めて、アタシの恋愛なんだと思っていた。違う! 全然違う!

 心の奥の奥の奥の底で、アタシはずっとこの時を待っていたんだ。二人の中を進展させる事ができるこの時を。アタシは樋渡陸を奪ってやろうと思っていたんだ。彼の家族がむちゃくちゃになるのをずっと待ち続けていたんだ。

 アタシの奥底に眠る、暗く汚い部分があらわになる。それを自覚した時、世界が闇に包まれるような感覚に陥った。
 ――夜の公園。
 気がつくと一気にまくしたてていた。顔は涙でぐちゃぐちゃになり、声はかすれていた。
 自分の嫌らしいところ、醜いところ、洗いざらい岸野に聞かせてしまった。何でここまで話してしまつまたか分からない。これまで、彼への想いを誰にも話さなかった反動? それにしたってやり過ぎだ。岸野はどう思っただろう? いや、考えるまでもなくドン引きと幻滅だろう。せっかく、時間をとってくれたのに、酷いことしてしまった……。

「ごめんね、延々と変な話聞かせちゃっ……」
「つらかったんだな」

 アタシの言葉を遮るように、岸野はそう言った。メガネの奥の瞳はなんだか、優しげな光をたたえていた。

「つらい?」
「だってそうだろ、そんだけ強い思い抱えて、何年も誰にも話さなかったかったんだから」

 思いがけない言葉だった。でも違う。そうじゃない。アタシは自分のクズなところから目を逸らして、大人の彼に甘えきってただけだ。辛いとかそう言う話じゃない。

「いやいや、そんなんじゃなくてアタシは……」
「俺には殺したいくらい憎い奴がいる!」

 突然の宣言に、アタシは言葉がつまった。

「常にそいつが邪魔をしている。どうあがいても、何をしてもそいつには勝てない。勝たなきゃいけないのに全く勝ち目がない。だから憎いんだ……」

 岸野は本当に悔しそうに顔を歪ませていた。クールなクラス委員。たぶん私だけじゃなくてみんながそう思っているコイツにも、こんな顔をさせてしまうような相手がいるんだ……。

「そんなもんだろ。みんな何か醜いものを抱えてる。自分ひとりがクズだとかか思わないほうがいいぞ。むしろお前に必要なのは……」

 そう言って岸野はポケットからハンカチを取り出して、アタシに握らせた。

「何年も押さえ込んでいた自分を認めてやる事なんじゃないの?」
「あ……」

 その言葉を聞いた時、不意に体が軽くなった気がした。もう涙は止めようがないくらいに溢れ出ている。

「この公園、この時間通る人少ないし。今のうちに思いっきり泣いとけ。それでスッキリして、それから色々なことを考えるんだ」
「う……うん! うっ……うぐっ……」

 うわあああああああああぁぁぁぁ!!

 アタシの鳴き声が、夜の公園の木々を揺らした。いろんなものが胸の奥から湧き上がってきたが、全部涙で流してしまうことにした。
 岸野はの間ずっと、アタシの横にいてくれた……。
 あの日、久留巳の話を公園で聞いてからひと月が経った。

 あの直後、久留巳は学校だけでなく、アイドル活動も一週間だけ休んだらしい。けど、その一週間で自分の気持ちを整理することができたそうだ。翌週、学校に来た久留巳はどこかすっきりしたような顔をしていた。そこから一か月、何も変わっていない。週に1~2回学校にきて、昼休みに購買で俺のノートをコピーする。ちょうど今と同じように。

「ホント、岸野がいてくれて助かるよ。いつもありがとうございます」

 久留巳はそう言ってぺこりと頭を下げた。

「別に。むしろ、人に見せることを考えてノートをとる分、俺の頭も整理されるから……」

 内心でしまった、と思う。もっと朗らかに応えればよかったかもしれない。久留巳の前だと、どうしても冷たい感じになってしまう。

「いつもしてもらったりは悪いし、アタシたまにはお礼したいんだけど……そうだ! 今度のリリイベ、関係者席用意しよっか?」
「いいよそんなの。アイドルに興味ないし……」
「アンタ、アタシの前でそういうこと言っちゃうわけ?」

 あきれ顔の久留巳。嘘をついた。本当は〈パスデビ〉のCDは全部持っている。けど、リリースイベントに行きたいとかそういう気持ちはない。増して関係者席なんて……。特別扱いされるのが嫌だ、というのももちろんあるけどそれ以上に、その席の周囲にいるだろうある人物を見て平静を保てる自信がない……。

「それにさ、他にもお礼したいことがあるんだ」
「他にも?」
「ホラ、例の件……なんだけど」

 久留巳が少し憂いを帯びた顔で言った。例の件、彼女のこの雰囲気から思い浮かべるなら、きっとあの夜の公園の件だろう。

「ひわ……ウチのマネージャーがさ、家族とやり直す方向で動き始めたんだって」
「……そうか」

 確か、弁護士を通して話をするとか言ってたな。ということは冷静な話し合いが進み始めたということか。

「もちろん先は長いらしいけど、条件付きで深宇ちゃんと……娘さんと会えるようになったらしくて。それで、本当に感謝してる」
「なんで俺が? その件には何も関係ないだろ?」
「大ありだよ。あそこでアンタがいなければ、アタシ絶対に暴走してた。それで〈パスデビ〉も、あの人も、あの人の家族も、アタシ自身も滅茶苦茶になったかもしれない……」

 久留巳は苦笑する。

「それをギリギリのところで踏みとどまれたのは、アンタがいてくれたからだよ! マジ救世主だから!」
「……お前はそれでいいのか?」
「アタシ? ……うん!」

 決意に満ちているがどこか切ない顔を、彼女は縦に振った。

「今でも好きだよ。大好き! でも、そこから先に進むことはないよ。いろいろ考えて……そう決めたから!」
「……そうか」
 
 昼休みが終わり、どこかけだるい空気が漂っている五限の授業。来年例年のベテラン先生による、退屈な古文の授業ということもあり、教室全体が弛緩している。そんな中、俺の斜め前の席に座る久留巳だけがどこかそわそわしている。
 ああ、そうか今日はこのあと仕事なのか。この席から、久留巳の斜め後ろの姿をずっと見つめていた。だから、仕事の日は彼女の態度ですぐに分かった。いつも終業の時間が近づくと落ち着きがなくなる。ちらちらと窓の外を盗み見たりする。彼女の席からは見えないはずだが……そんな時はいつも校門の端の駐車スペースにミニバンが停まっているのだ。久留巳を迎えに来た事務所の人間……多分、例のマネージャーだ。腹の奥底がぐつぐつと煮えたぎる。
 チャイムが鳴った後の彼女の行動も想像がつく。そのミニバンに向かって、まるで子供のように嬉しそうに駆けていくのだ。そんな様子を、俺はもう何回も眺めてきた。だから……あの夜、彼女のマネージャーに対する想いを聞かされても、驚きはしなかった。

「……憎い」

 誰にも聞こえないくらいのボリュームで声に出す。何をやっても俺が勝てない相手、俺の邪魔をする人物。あのミニバンに向かって、嬉しそうに久留巳が駆けていく姿を見るたびに、俺の胸の奥にどす黒いものが渦巻く。そして、無力感にさいなまれ、家に帰るとめそめそとカッコ悪く泣く……地獄のような日々だ。

 一か月前のあの公園。久留巳に何か別の言葉をかければ何か変わったのか? 何度もそう思い返している。けど、そのたびにそうしないで正解だったと言い聞かす。〈パスデビ〉は恋愛禁止のユニットだ。もし、彼女がマネージャーへの想いを断ち切ったとしても、それで俺の気持ちが報われるわけではない。久留巳にはこれからもずっとアイドル活動を続けてほしかった。そのためにも、あの夜俺が話したことは正しかったんだ。

 そんなことを考えているうちに、終業のチャイムが鳴り響いた。その音と同時に板書していた腕をとめて授業を打ち切るベテラン教師。呼応するように立ち上がる生徒。中でもいち早く、跳ねるように立ったのは久留巳だ。

「久留巳!」

 俺は、教室を出ようとする彼女に声をかける。

「なに岸野?」
「次に学校来るのはいつだ?」
「えーっと……確か来週の月曜だと思う」

 今日は水曜だから、次のノートは木金の2日分か。

「じゃあさっきのお礼の話、月曜までに考えておく」

 久留巳は一瞬、虚を突かれたような表情をしたけど……

「うんわかった。じゃあ月曜に聞かせて!」

 そう言ってにかっと笑った。〈パスデビ〉の円盤で何度も見た、るみさの満面の笑みだった

-終-

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