「何が?」
首をかしげるあやの。
「樋渡っちがさ、けっこーヤバいらしいよ? 離婚寸前だって」
不意に、室内から音が消えた。アタシの思考が急停止する。そして空白となったアタシの脳内を浸食するかのように、彼のあの時の表情が再生される。
「なにそれ……? 誰が言ったの?」
さっきまでとは真反対のあやのの声。
「う、うん。事務所で近藤さんと社長が話してるの聞いちゃって……」
少しだけ口をもごつかせながらもきりかは答えた。
「なんか、だいぶ前から奥さん出て行っちゃったらしいよ。深宇ちゃん連れて。それで今は別居中だって」
深宇ちゃんは樋渡っちの娘さん、彼のスマホの待ち受けでにこやかに笑うあの子のことだ。
「そんな……あんなに仲良さそうだったじゃん!? 休みの日は家族で出かけてたし、深宇ちゃんの行事の日は必ず有休をとってたじゃん?」
アタシが言うのもなんだけど、彼は誰もがうらやむ家庭を持っていたじゃない。それが何? だいぶ前から別居って、どういうこと?
「でも樋渡っち、アタシたちのために結構残業とか休日出勤とかしてたっぽいしさ。そういうのが積み重なっていくうちに……って事なんじゃない?」
あの日の涙で頬をぐしょぐしょに濡らしていた理由が、唐突に明確になっていく。そうか。やっぱり彼が涙を流す理由は家族だったんだ。そうとしか考えられない。そして、学校で岸野が話していたことも思い出す。俺なんかよりよっぽど深刻な事情だろうからな……本当だよ、岸野……。
「えっと……そうすると、まずくない?」
口元に手を当て何かを考えながら、あやのが話し出す。
「まぁ、樋渡っち的にはだいぶマズイし、元には戻ってほしいけど……」
「そうじゃなくて。聞いたことない? ウチの事務所の不文律……」
「は、何それ?」
「あっ……!」
アタシは思わず声を上げて、身体をのけぞらせた。人気商売であるアイドルや若手俳優に異性のマネージャーを付ける場合、必ず既婚者から選ぶ。それが、ウチの事務所の不文律だ。もし樋渡っちが離婚し独身となった場合、〈パスデビ〉のマネージャーはどうなる?
「えっ何それ、初めて聞いたんだけど!?」
あやのから説明されて、きりかは目を大きく見開いた。
「ねえきりか、その話本当なの?」
アタシはきりかの眼を見つめる。にらみつけるような形になってしまったかもしれない。きりかはアタシと目が合うとたじろぐように、少しだけ身体が後ろへ退がった。
「出鱈目言ったりしてないよね?」
「何それ? そんなコト言うわけないじゃん。樋渡っちのことだよ!?」
アタシのキツめの声色に反発するように、きりかの声もトゲついたものになる。
「ちょ、ちょっと落ち着きなって二人とも!」
即座にあやのが間に入る。
「そうだよ、樋渡っちのことだよ? それを何? いくらきりかがゴシップ好きでも、身内のそういう話は違くない?」
「ゴシップって……私はそんなつもりじゃ!」
「あやの落ち着いてってば!るみさ、アンタこそそれは違うでしょ!」
わかってる。怒りの矛先があらぬ方向へ向かっている。きりかに当たっても仕方ない。落ち着け、アタシ。前に樋渡っちがいった通り、アタシは〈パスデビ〉のセンターとして二人を引っ張っていかなきゃいけないのに……。こんな口ゲンカ、してる場合じゃないのに……。
「ちょっと、るみさ?」
アタシは二人から目をそらし、乱暴にロッカーの扉を開けた。タオルとポーチ掴み取り、シャワースペースへ向かう。その態度を咎めるようにあやのがアタシの名前を呼んだ。
「ごめん。ちょっと今は冷静でいられないから。いったん待って。まずは本当のことを知りたい……」
ごめん岸野、こうなった以上ムリだわ。この後、樋渡っちをどう問い詰めようか、頭の中はそれでいっぱいとなってしまった。
首をかしげるあやの。
「樋渡っちがさ、けっこーヤバいらしいよ? 離婚寸前だって」
不意に、室内から音が消えた。アタシの思考が急停止する。そして空白となったアタシの脳内を浸食するかのように、彼のあの時の表情が再生される。
「なにそれ……? 誰が言ったの?」
さっきまでとは真反対のあやのの声。
「う、うん。事務所で近藤さんと社長が話してるの聞いちゃって……」
少しだけ口をもごつかせながらもきりかは答えた。
「なんか、だいぶ前から奥さん出て行っちゃったらしいよ。深宇ちゃん連れて。それで今は別居中だって」
深宇ちゃんは樋渡っちの娘さん、彼のスマホの待ち受けでにこやかに笑うあの子のことだ。
「そんな……あんなに仲良さそうだったじゃん!? 休みの日は家族で出かけてたし、深宇ちゃんの行事の日は必ず有休をとってたじゃん?」
アタシが言うのもなんだけど、彼は誰もがうらやむ家庭を持っていたじゃない。それが何? だいぶ前から別居って、どういうこと?
「でも樋渡っち、アタシたちのために結構残業とか休日出勤とかしてたっぽいしさ。そういうのが積み重なっていくうちに……って事なんじゃない?」
あの日の涙で頬をぐしょぐしょに濡らしていた理由が、唐突に明確になっていく。そうか。やっぱり彼が涙を流す理由は家族だったんだ。そうとしか考えられない。そして、学校で岸野が話していたことも思い出す。俺なんかよりよっぽど深刻な事情だろうからな……本当だよ、岸野……。
「えっと……そうすると、まずくない?」
口元に手を当て何かを考えながら、あやのが話し出す。
「まぁ、樋渡っち的にはだいぶマズイし、元には戻ってほしいけど……」
「そうじゃなくて。聞いたことない? ウチの事務所の不文律……」
「は、何それ?」
「あっ……!」
アタシは思わず声を上げて、身体をのけぞらせた。人気商売であるアイドルや若手俳優に異性のマネージャーを付ける場合、必ず既婚者から選ぶ。それが、ウチの事務所の不文律だ。もし樋渡っちが離婚し独身となった場合、〈パスデビ〉のマネージャーはどうなる?
「えっ何それ、初めて聞いたんだけど!?」
あやのから説明されて、きりかは目を大きく見開いた。
「ねえきりか、その話本当なの?」
アタシはきりかの眼を見つめる。にらみつけるような形になってしまったかもしれない。きりかはアタシと目が合うとたじろぐように、少しだけ身体が後ろへ退がった。
「出鱈目言ったりしてないよね?」
「何それ? そんなコト言うわけないじゃん。樋渡っちのことだよ!?」
アタシのキツめの声色に反発するように、きりかの声もトゲついたものになる。
「ちょ、ちょっと落ち着きなって二人とも!」
即座にあやのが間に入る。
「そうだよ、樋渡っちのことだよ? それを何? いくらきりかがゴシップ好きでも、身内のそういう話は違くない?」
「ゴシップって……私はそんなつもりじゃ!」
「あやの落ち着いてってば!るみさ、アンタこそそれは違うでしょ!」
わかってる。怒りの矛先があらぬ方向へ向かっている。きりかに当たっても仕方ない。落ち着け、アタシ。前に樋渡っちがいった通り、アタシは〈パスデビ〉のセンターとして二人を引っ張っていかなきゃいけないのに……。こんな口ゲンカ、してる場合じゃないのに……。
「ちょっと、るみさ?」
アタシは二人から目をそらし、乱暴にロッカーの扉を開けた。タオルとポーチ掴み取り、シャワースペースへ向かう。その態度を咎めるようにあやのがアタシの名前を呼んだ。
「ごめん。ちょっと今は冷静でいられないから。いったん待って。まずは本当のことを知りたい……」
ごめん岸野、こうなった以上ムリだわ。この後、樋渡っちをどう問い詰めようか、頭の中はそれでいっぱいとなってしまった。