――樋渡陸と初めて出会ったのは、アタシがまだランドセルを背負っていた頃。12歳の春だった。その時、彼は26歳だった。

『皆さんの担当マネージャーになった、樋渡です。よろしくお願いします!』

 アイドルのライブ動画をテレビに映して踊っているアタシを見ていたママが、新しいアイドルグループのオーディションにエントリーした。そこからトントン拍子に話は進み、アタシは合格。新グループ〈Pastel Devil〉、後の〈パスデビ〉のメンバーになった。そして当時26歳の彼が、アタシたちのマネージャーだと紹介された。

『久留巳美沙さん、ですね。これから一緒に頑張っていきましょう!』

 樋渡っちはアタシたちに、敬語で接してきた。最初、そのことにびっくりしたのを覚えている。アタシを子供扱いせずあくまで仕事仲間として接してくれる、その感じは12歳のアタシには新鮮で、くすぐったかった。

『レッスンお疲れ様です!先生、久留巳さんのことを褒めてましたよ。見所があるそうです!』

 初めてのダンスレッスンの後、彼はガッツポーズでアタシを出迎えた。思春期に入り始めたアタシたちにとって、そのテンションは少し暑苦しかった。けど嫌だと思っていたわけじゃない。同じうるささでも、クラスの男子たちのガキっぽい感じとはぜんぜん違う。その熱っぽい言葉を聞くと不思議と安心したし、「アタシはやれる!」とポジティブな気持ちになることができた。

『これ使ってください。大丈夫、失敗しても取り返せばいいんです。私たちも、それにファンの皆さんも、これくらいで久留巳さんを見捨てるようなことはありませんから』

 念願だったイベントの後、彼はそう言ってアタシにハンカチを貸してくれた。大事なステージで2番の歌詞が飛んでしまい、楽屋で泣いていた時だ。悔しくて悔しくて涙が止まらない。そんなアタシが落ち着くまで、樋渡っちは隣にいてくれた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったハンカチ。今ではアタシの宝物であり、ライブを成功へ導いてくれるお守りだ。

『近藤さんの最終決定ですが、私も同感です。久留巳さんならステージの上でみんなをリードできます!』

 近藤さん(プロデューサー)からグループ名の改称とアタシのセンター抜擢が発表された後、彼は熱を帯びた言葉で私を激励してくれた。高校進学の少し前の話だ。そのころ、アタシは完全に樋渡陸のことが好きになっていた。大人ばかりの世界。そこで仕事をしていかなければいけない女子中学生のすぐ横に、支えてくれる大人の男性がいるんだ。恋愛感情を持つなと言われても無理だ。例えそれが、叶わぬ恋だとしても……。

『申し訳ありません。実は当日は娘の入園式なので……マネジメント部の誰かに、代理でついて行ってもらいますから』

 センターとして何度目かのイベントの前に、彼は手帳を見ながら申し訳なさそうに言った。申し訳なさそうではあるが、同時にとても嬉しそうだった。その顔を見た時のちくちくとした心臓の痛みは、アタシが叶わぬ片想いをしていることを明確に自覚させた。


『私ですか? ウチは式場内のチャペルでやりましたね』
『へぇ~、そうなんだぁ』

 メンバー同士での他愛のないおしゃべり。理想の結婚式についてそれぞれの想いを語ってるときに、アタシは樋渡っちの体験談を尋ねたことがあった。
 彼が結婚していることは、アタシが恋心を自覚するずっと前から知っていた。そもそも人気商売であるアイドルや若手俳優に異性のマネージャーを付ける場合、必ず既婚者から選ぶというのが、ウチの事務所の不文律でもあった。
 けどそんな事前知識は何の意味もなさない。芽吹き始めたアタシ気持ちは抑えることができなかった。
 仕事で顔を合わせるごとに好きになっていく。手帳をめくりメモを書き込む手に、アタシたちのステージを袖から見守ってくれるその瞳に、アタシたちのことを真剣に考えてくれるその気持ちに、アタシは焦がれ続けた。

『……それと、三人ともわかっていると思いますが』
『やだなー安心してよ。いくらイケメンと共演といっても、そんなんで浮つくウチらじゃないって!』

 同じ年頃の男の子と共演するとき、樋渡っちはいつも真剣な表情で私たちにくぎを刺した。アタシはアイドルで、彼はマネージャーだ。特に〈パスデビ〉は恋愛禁止を宣言しているユニットでもある。
 だからアタシも彼とどうにかなりたいとか考えてるわけじゃ無かった。むしろ外でに恋人を作れない分、最も信頼できる男性を眺める事で、恋愛に対する憧れを充足させる。そういう形の片想いだと割り切っていた。

『へへーん、今日はソロのお仕事だから樋渡っちは独り占めできるね♪』
『はは、よろしくお願いします』

 メンバーの名桐(なぎり)香澄(かすみ)にも綾原(あやはら)ののかにも、アタシの気持ちを話したことはない。そのことがアイドル活動の妨げになるのは絶対嫌だったので、ただ一人で彼のことを見つめていた。

 そんな彼の涙にぬれた顔。それはアタシの心の大部分を占めていた「樋渡陸」という存在を根底から書き換えてしまうような大事件だった。

 樋渡っちの……大人の男の涙を、アタシは初めて見たのだ。