その日、私は初めて彼が泣いているのを見た。

「え……」

 声をかけようとした。けど、彼の頬が涙で光るほどに濡れているのに気が付き、言葉が詰まる。

久留巳(くるみ)さん? どうしたんですか、収録は?」
「えっと、いまは休憩中……樋渡(ひわ)っちが途中で出てったから、その……」

 ヤバイ。声がうわずってる。14歳も年上の、仕事の大事なパートナーで、何よりアタシが数年間近く片想いしてる男の人。彼が初めて見せる表情に、脳も心臓もバグってる。

「そうでしたか。すみません、ちょっと電話がありまして」

 マネージャーはスーツの袖で顔をぬぐうと、たちまち仕事人間の顔に戻った。声も落ち着いている。アイドルグループ〈パスデビ〉のマネージャー樋渡(ひわたし)(りく)の、いつも通りの姿だった。

「えっと……なんか……」

 一方でアタシ、〈パスデビ〉のセンター"るみさ"こと久留巳(くるみ)美沙(みさ)は混乱したままだ。「なんかあった?」と、そう聞けばいいだけなのに、喉から言葉が出てこない。

 収録中、珍しく通路へ出ていく姿を、たまたまアタシは壇上から見ていた。といってその時はまだ、いつものように仕事の電話だろう、くらいにしか考えていなかった。20分が経ち30分が経ち、いつまでも彼の姿がスタジオに戻ってこない。彼の定位置である左の壁際のスペースを見るたびに、私の中の違和感が大きくなる。収録中は基本的に私を見守っていてくれるはずの彼が、今日に限っては外に出たっきり戻ってこない。いったいどうした?
 スタジオセットの配置換えのために小休憩が入ると、私はすぐに通路へ出た。彼はどこだ? 自販機のある休憩スペースにも、出演者以外の関係者の待機場所として開放されている会議室にもいない……。私がその衝撃的瞬間に立ち会ったのは、人気のない非常階段の前だった。

「戻りましょうか」

 にこやかに言う樋渡(ひわ)っち。白い歯がこぼれるそのさわやかスマイルには、もうあの涙顔の面影はない。結局タイミングを逃してしまった。この人がこんな顔するなんてよっぽどだ。何かあったに違いない。けど大の大人が涙を流す理由を、17歳になったばかりの私が尋ねるのはマズイ気がした。