その日、私は初めて彼が泣いているのを見た。
「え……」
声をかけようとした。けど、彼の頬が涙で光るほどに濡れているのに気が付き、言葉が詰まる。
「久留巳さん? どうしたんですか、収録は?」
「えっと、いまは休憩中……樋渡っちが途中で出てったから、その……」
ヤバイ。声がうわずってる。14歳も年上の、仕事の大事なパートナーで、何よりアタシが数年間近く片想いしてる男の人。彼が初めて見せる表情に、脳も心臓もバグってる。
「そうでしたか。すみません、ちょっと電話がありまして」
マネージャーはスーツの袖で顔をぬぐうと、たちまち仕事人間の顔に戻った。声も落ち着いている。アイドルグループ〈パスデビ〉のマネージャー樋渡陸の、いつも通りの姿だった。
「えっと……なんか……」
一方でアタシ、〈パスデビ〉のセンター"るみさ"こと久留巳美沙は混乱したままだ。「なんかあった?」と、そう聞けばいいだけなのに、喉から言葉が出てこない。
収録中、珍しく通路へ出ていく姿を、たまたまアタシは壇上から見ていた。といってその時はまだ、いつものように仕事の電話だろう、くらいにしか考えていなかった。20分が経ち30分が経ち、いつまでも彼の姿がスタジオに戻ってこない。彼の定位置である左の壁際のスペースを見るたびに、私の中の違和感が大きくなる。収録中は基本的に私を見守っていてくれるはずの彼が、今日に限っては外に出たっきり戻ってこない。いったいどうした?
スタジオセットの配置換えのために小休憩が入ると、私はすぐに通路へ出た。彼はどこだ? 自販機のある休憩スペースにも、出演者以外の関係者の待機場所として開放されている会議室にもいない……。私がその衝撃的瞬間に立ち会ったのは、人気のない非常階段の前だった。
「戻りましょうか」
にこやかに言う樋渡っち。白い歯がこぼれるそのさわやかスマイルには、もうあの涙顔の面影はない。結局タイミングを逃してしまった。この人がこんな顔するなんてよっぽどだ。何かあったに違いない。けど大の大人が涙を流す理由を、17歳になったばかりの私が尋ねるのはマズイ気がした。
――樋渡陸と初めて出会ったのは、アタシがまだランドセルを背負っていた頃。12歳の春だった。その時、彼は26歳だった。
『皆さんの担当マネージャーになった、樋渡です。よろしくお願いします!』
アイドルのライブ動画をテレビに映して踊っているアタシを見ていたママが、新しいアイドルグループのオーディションにエントリーした。そこからトントン拍子に話は進み、アタシは合格。新グループ〈Pastel Devil〉、後の〈パスデビ〉のメンバーになった。そして当時26歳の彼が、アタシたちのマネージャーだと紹介された。
『久留巳美沙さん、ですね。これから一緒に頑張っていきましょう!』
樋渡っちはアタシたちに、敬語で接してきた。最初、そのことにびっくりしたのを覚えている。アタシを子供扱いせずあくまで仕事仲間として接してくれる、その感じは12歳のアタシには新鮮で、くすぐったかった。
『レッスンお疲れ様です!先生、久留巳さんのことを褒めてましたよ。見所があるそうです!』
初めてのダンスレッスンの後、彼はガッツポーズでアタシを出迎えた。思春期に入り始めたアタシたちにとって、そのテンションは少し暑苦しかった。けど嫌だと思っていたわけじゃない。同じうるささでも、クラスの男子たちのガキっぽい感じとはぜんぜん違う。その熱っぽい言葉を聞くと不思議と安心したし、「アタシはやれる!」とポジティブな気持ちになることができた。
『これ使ってください。大丈夫、失敗しても取り返せばいいんです。私たちも、それにファンの皆さんも、これくらいで久留巳さんを見捨てるようなことはありませんから』
念願だったイベントの後、彼はそう言ってアタシにハンカチを貸してくれた。大事なステージで2番の歌詞が飛んでしまい、楽屋で泣いていた時だ。悔しくて悔しくて涙が止まらない。そんなアタシが落ち着くまで、樋渡っちは隣にいてくれた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったハンカチ。今ではアタシの宝物であり、ライブを成功へ導いてくれるお守りだ。
『近藤さんの最終決定ですが、私も同感です。久留巳さんならステージの上でみんなをリードできます!』
近藤さんからグループ名の改称とアタシのセンター抜擢が発表された後、彼は熱を帯びた言葉で私を激励してくれた。高校進学の少し前の話だ。そのころ、アタシは完全に樋渡陸のことが好きになっていた。大人ばかりの世界。そこで仕事をしていかなければいけない女子中学生のすぐ横に、支えてくれる大人の男性がいるんだ。恋愛感情を持つなと言われても無理だ。例えそれが、叶わぬ恋だとしても……。
『申し訳ありません。実は当日は娘の入園式なので……マネジメント部の誰かに、代理でついて行ってもらいますから』
センターとして何度目かのイベントの前に、彼は手帳を見ながら申し訳なさそうに言った。申し訳なさそうではあるが、同時にとても嬉しそうだった。その顔を見た時のちくちくとした心臓の痛みは、アタシが叶わぬ片想いをしていることを明確に自覚させた。
『私ですか? ウチは式場内のチャペルでやりましたね』
『へぇ~、そうなんだぁ』
メンバー同士での他愛のないおしゃべり。理想の結婚式についてそれぞれの想いを語ってるときに、アタシは樋渡っちの体験談を尋ねたことがあった。
彼が結婚していることは、アタシが恋心を自覚するずっと前から知っていた。そもそも人気商売であるアイドルや若手俳優に異性のマネージャーを付ける場合、必ず既婚者から選ぶというのが、ウチの事務所の不文律でもあった。
けどそんな事前知識は何の意味もなさない。芽吹き始めたアタシ気持ちは抑えることができなかった。
仕事で顔を合わせるごとに好きになっていく。手帳をめくりメモを書き込む手に、アタシたちのステージを袖から見守ってくれるその瞳に、アタシたちのことを真剣に考えてくれるその気持ちに、アタシは焦がれ続けた。
『……それと、三人ともわかっていると思いますが』
『やだなー安心してよ。いくらイケメンと共演といっても、そんなんで浮つくウチらじゃないって!』
同じ年頃の男の子と共演するとき、樋渡っちはいつも真剣な表情で私たちにくぎを刺した。アタシはアイドルで、彼はマネージャーだ。特に〈パスデビ〉は恋愛禁止を宣言しているユニットでもある。
だからアタシも彼とどうにかなりたいとか考えてるわけじゃ無かった。むしろ外でに恋人を作れない分、最も信頼できる男性を眺める事で、恋愛に対する憧れを充足させる。そういう形の片想いだと割り切っていた。
『へへーん、今日はソロのお仕事だから樋渡っちは独り占めできるね♪』
『はは、よろしくお願いします』
メンバーの名桐香澄にも綾原ののかにも、アタシの気持ちを話したことはない。そのことがアイドル活動の妨げになるのは絶対嫌だったので、ただ一人で彼のことを見つめていた。
そんな彼の涙にぬれた顔。それはアタシの心の大部分を占めていた「樋渡陸」という存在を根底から書き換えてしまうような大事件だった。
樋渡っちの……大人の男の涙を、アタシは初めて見たのだ。
収録が終わり、私はスタジオから事務所へ戻る車内から外の景色を眺めていた。
「いや〜今日のるみさの大ボケには参ったよ〜」
「ホントホントお陰で帰る時間遅くなっちゃったしぃ~」
同じく〈パスデビ〉のメンバーである、"きりか"こと名桐香澄と、"あやの"こと綾原ののかの二人がアタシをいじってくる。
「ごめん……」
「ちょっ!嫌だな、本気にしないでよ」
「そーだよ、ドンマイだって」
いつになく落ち込んでいるアタシに、二人は慌ててフォローする。
「はぁ……」
二人が言う通り、ありえないレベルでひどい収録だった。あり得ない大失態の連続……。12歳でアイドルでデビューしてから5年。配信番組で初めてレギュラーを持ってから2年。その中でもぶっちぎりで最悪だ。セリフは飛ぶ。担当コーナーの段取りは忘れる。極めつけにMCの名前を間違えてしまった。結構なキャリアを持つ落語の師匠。よりによってその人の亭号を間違えてしまったのだ。
『よくわかったな、るみさちゃん!さっき出会い頭にぶつかって二人入れ替わっちゃてな』
とっさにひな壇にいた、私が間違えた方の亭号を持つ別の落語家さんが寸劇を始めてくれた。この事で、私の失敗は小さな笑いに変わった。収録後、このアシストのお礼と失態の謝罪のために。樋渡っちと一緒に彼らの楽屋を周っていた。その間きりかとあやのには楽屋で待っててもらい、皆でスタジオを出るときにはすっかり夜も遅くなってしまった。夕飯を一緒に食べようと約束していたのに、樋渡っちのクルマでそれぞれの自宅に送ってもらって解散ということになった。
「けどさー、めずらしくない? るみさがあーゆーミスするなんて」
隣のシートに座るあやのが不思議そうな顔で、アタシに話しかける。
「そう! それはわたしも思った!」
後ろの席のきりかも身を乗り出す。
「ほら、セット替えの休憩のあたりからおかしかったよね?」
「…………」
図星だ。やっぱり5年間一緒にやってる戦友にごまかしは効かない。樋渡っちの……アタシの片想いの相手の泣き顔に、心はかき乱されていた。初めて見る苦しそうな、切なそうな表情。今もアタシの胸を締め付けてくる。
「あの時、樋渡っちがるみさのこと連れて戻ってきたけどなんかあったの?」
樋渡っちがアタシを連れて……? そうか、アレって二人にはそう見えたのか。少しだけホッとする。なんとなくだけど、樋渡っちの異変について二人には知られたくなかった。
「うん、いや、なんでもないよ。ねえ、樋渡っち?」
アタシはハンドルを握る樋渡ったの方を見た。
「ええ。あの時はわたしが仕事の電話をしに外に出てて。たまたま休憩してた久留巳さんと一緒に戻っただけですので」
樋渡っちは事もなげに、捏造したストーリーを二人に説明する。そのよどみない口調には、流石にアタシもたじろいだ。
そもそもアンタのせいなんだけど、アンタの……。
心の中で毒づく。なんでこの人は、すんなり切り替えできてるんだ? こっちはアンタの泣き顔見てから動揺しまくりなんですけど……?
言うわけにはいかない文句を飲み込む。例えマネージャーの涙を見てうろたえたとしても、本番で切り替えられないのはプロ失格だ。もちろんそんな事はわかっている。けど、それでも、あの泣き顔は私の中で大事件だった。
「ねーねー二人ともこれ食べる?」
あやのが、お菓子の箱を開けて差し出してきた。きりかは迷わず手を伸ばすが、食欲のない私は遠慮する。そのまま二人はお菓子の品評会を始めたので、アタシはイヤホンで音楽を聴くふりをして樋渡っちの方を見た。
ミニバンは夜の都内を走っている。ウチの事務所には何台か社用車があるはずだけど、彼は必ずこのクルマを使う。3人グループの〈パスデビ〉を荷物込みで送るのには丁度いい大きさだからというのもあるのだろうけど、ソロの仕事でも彼は決まってこのクルマだ。
そして私が座るシートも同じ。2列目の左側が私の専用席だった。理由はシンプル。運転中の樋渡っちがちゃんと見える唯一の角度だから。この位置からは彼のハンドルを握る腕や、首筋と耳の後ろ側を拝むことができる。仕事が終わった後、普段目を見て話すときとは違うアングルで大好きな彼を眺める。それがいつものアタシにとっては何よりのご褒美だった。
けど、今日だけはちがった。
やっぱり、家族のこと……かな? 仕事であんな顔するなんて、樋渡っちに限ってありえないし……。
アタシは無言で、ハンドルを握る彼の姿を見つめる。樋渡っちは娘さんを溺愛している。可愛らしい女の子の写真を彼がスマホの待ち受けにしていることを知っている。彼が電話やメッセージ送信を行うたびに、その笑顔が一瞬だけ見えて、そのたびにアタシの胸が締め付けられていた。
彼が大粒の涙を流すとしたら、家族絡みと考えるのが自然だ。でも、病気やケガではなさそう。それならこの人は私を置いて、娘さんのもとに飛んでいくだろうから。
「うーん、るみさ本当に大丈夫? 体調良くない?」
何も話さないアタシに、きりかとあやのも本気の心配モードになっていた。
「ん、ありがと。大丈夫だから……」
そう答えるアタシの声には力が無かった。
翌日の学校。コピー機がガーガーと唸りを上げながら、紙を吐き出している。購買部横のコピー機。テスト前には長蛇の列ができる場所だけど、今の時期使っている人はほとんどいない。
「いつもありがとうね、岸野。ホント助かる」
「別に。自分用に書いたものをコピらせてるだけだし」
アタシの横に立つ眼鏡をかけた男の子は、ぶっきらぼうに答えた。クラス委員の岸野。学年トップクラスで勉強ができる秀才で、私が仕事で休んでる間のノートをいつも貸してくれる。
「いやぁ、さっきの地理の授業全然わかんなくってさぁ……」
チェルノーゼム、穀倉地帯、土の皇帝……あらゆる単語がアタシの脳をすり抜けていった。いや、地理だけじゃない。1限から3限まで、現文、数学、化学どの授業もだった。
「だろうな。今日のお前、ずっとボケーっとしてたもの」
岸野が言う。
「え、ボケーって……まさかずっと見てたの!?」
「俺の席、お前の斜め後ろだぞ? 黒板を見ようとしたらどうしたって視界に入る」
「あ、そっか」
頭の中で、アタシと岸野の机の位置関係を思い浮かべた。
「仕事、忙しいんだろ? 大丈夫なのか、学校にきて?」
「うん、親との約束だしね」
高校は卒業するというのが、アイドルとして活動するための両親との約束だ。だから、授業に出られるときはちゃんと出ておかないといけない。
「にしても、ホント助かってるよ。岸野のノートには」
「そりゃどうも」
さすがトップクラス秀才が作るだけあって岸野ノートはわかりやすい。彼にノートを借りてテストの点数が上がったという証言もあり、コピーが高値で取引されているという噂が出たほどだ。この噂以来、岸野は今では誰かにノートを貸すことはほとんど無くなってしまった。数少ない例外が、仕事で半数近くの授業に出られないアタシだ。
アタシは、クラスのメイトのほとんどの子たちと距離を感じている。大多数が、「あの"るみさ"だ……」と遠巻きに眺め、ごく一部(知らないけど、たぶんカースト上位グループの子たち)だけが、アタシに話しかけてくる。ただそれも、アタシと話すことをトロフィーか何かだと思っていたり、あわよくば芸能界のゴシップを聞き出そうとしたり、そんな感じで友情をはぐくみたいとは思ってるわけではなさそうだった。
数少ない例外が、今隣にいる岸野だ。こいつだけはアタシを"アイドルのるみさ"ではなく、クラスメイトの久留巳美沙として扱ってくれる。休みがちなアタシのことをクラス委員として気にかけてくれるのだ。
「よし、現文のノートはこれで終わり、と。次は?」
「数学。お前最後に出た授業、先週の火曜だろ? 4回分あるから」
そう言って岸野は別のノートを広げる。
「アンタ、よくアタシの出席した日まで覚えてるね」
さすがクラス委員、そういうところはマメだ。こういう人、芸能界でも生き残るんだよなー。ふとそんなことを思う。タレントでも裏方でも、仕事相手のことを気遣い、筋を通すことを忘れない人は出世する。逆にわがまま放題で気まぐれな子を、この5年間でたくさん見てきたが全員姿を消してしまった。
マメという意味では、樋渡っちは最強かもしれない。昨日だって、収録の後にすぐに謝罪の段取りをつけてくれて……
「…………」
とたんに、昨日の彼の泣き顔を思い出す。というか、今朝からずっと20分おきくらいに思い出してる。授業が全く頭に入らなかった理由も、実はそれなのだ。
「どうした、久留巳?」
フリーズしたアタシに気づき、岸野が声をかけてきた。ハッと現実に引き戻される。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「本当に大丈夫か? 疲れてるだろお前?」
「ううん、そうじゃなくて」
アタシは岸の顔を見る。その時ふと、そういえばこいつも男なんだよな、と当たり前のことに気づいた。そして……
「ねえ岸野。最後に泣いたのっていつ?」
「は?」
内心でしまったと思う。唐突かつ謎過ぎる質問。アタシは岸野の眼から、視線をそらした。
「ごめん、何でもない忘れて」
「えと……四日前の、夜」
けど明確な答えが返ってきて、ふたたび視線を戻す。
「え?」
「四日目の夜だよ、何度も言わせるな恥ずかしい」
頬がかすかに赤くなっている。
「……聞いたからには何か反応しろよ」
「あ、うん……えっと……意外と最近……なんデスネ」
なぜか敬語になった。小学校のころ、とかならわかる。いやクール眼鏡キャラのこいつなら幼稚園の頃に泣いたっきり、と言われても不思議じゃない。
「でも、どうして?」
「どうしてって……その、辛かったからだよ」
「辛かった? 何が?」
「勘弁してくれ。そこまで言えるわけないだろ」
「ごめん」
岸野が泣いている様子、ちょっと想像できない。けど、樋渡っちだってあんな風になるところを昨日まで想像していなかったわけだし……。
「なんというか……男でも泣くんだ」
「当たり前だろ、そんなこと。もちろん誰かに知られたい話じゃないけど」
「え、じゃあなんで話してくれたの?」
「そりゃあさ……」
バツが悪そうに岸野の目が泳いだ。
「お前がなんか真剣っぽかったから……。だから、ちゃんと答えないのは信義にもとるかなって……」
武士かよ。芝居の台本でしか見たことないような熟語が出てきて、アタシは思わず心の中で突っ込む。けど、いかにも優等生の岸野っぽい受け答えだし、なによりアタシに真剣に向き合ってくれるのはうれしかった。
「そっか。……ありがと」
「それより、そんなこと突然聞くってことは、見たのか? 誰か、男の泣き顔を?」
ドキっと、心臓が跳ねる。さすが岸野……するどい。
「あ、いや、そうじゃなくて……ほら、役作りの話で!! 心情を探らないといけないかなーって」
「役作り? 男の泣くときの心情を?」
「うん、そうそう! ほらその、アタシ男役やることになって……」
自分の機転の効かなさに泣きたくなる。とっさのごまかしにしたって無理があるだろ。「パスデビ」はガーリーな可愛らしさと小悪魔感をコンセプトにしたユニットで、今のところその方針がブレることはない。そのセンターであるるみさも、ドラマでは同年代の女の子の役しかやったことがない。
いや単純に、相手役の男の涙をどう解釈するか、みたいな言い訳でよかっただろ。そこに気づき、とっさに自然な言い訳が出てこなかった自分を恨めしく思った。
「ふうん。まぁなんでもいいけど、もし誰かの泣き顔を見たんだとしたら……」
「だから違うって」
「下手に深追いはしない方がいいぞ」
「……!」
言葉に詰まる。
「特にお前の周りの男ってことは、大人だろ。大人が泣くとしたら俺なんかよりよっぽど深刻な事情だ。それを分かち合うとか背負うとか、考えないほうがいい」
「…………」
岸野の忠告に、アタシは違うともわかったとも言えなかった。
「お疲れ様でしたー」
2週間後の土曜日。1年以上できていなかった念願のリリースイベント復活の日。アタシたちはいつにないテンションでイベントに臨んでいた。
コロナのせいで長いことファンと直接触れ合うイベントができていなかってので、きりかもあやのも、普段以上に気合を入れていた。もちろんアタシも。
流石に最近は、樋渡っちの泣き顔がアタシの仕事を邪魔することも無くなっていて、最高のパフォーマンスを皆の前で披露することができた。
「ああーーー!楽しかったーー!」
これまでのフラストレーションを一気に発散させたようなあやのの声が、ロッカールームに響く。同感だ。やっぱりコールとペンライトの光の中で歌い踊るのは、最高に楽しい。そもそもアタシはこれをやりたくて、アイドルになったんだ。
「ファンのみんなもめっちゃ喜んでたし、ほんとよかった!」
「このまま、お渡し会や握手会も復活できるといいんだけどね」
「ほんとそれー!!」
アタシの声もあやのの声にも、ステージの興奮が強く残っていた。まだ、ファンのみんなと直接触れ合うようなイベントは再開できそうにない。リリイベだって、世の中の情勢次第ではまた取りやめになるかもしれないという話だ。はやく、前みたいな活動ができればいいのに。つくづくそう思う。
ガタンと、ドアが開く。ロッカールームにきりかが入ってきた。イベントが終了し、スタッフに挨拶して回ってる時に彼女とは別行動になってしまっていた。きりかとも今の興奮を分かち合いたい。そう思って、話しかけようとした時だった。
「ねえ、今聞いちゃったんだけど……」
きりかの声も興奮でうわずっている。けど、それはアタシたちのものとは何か違うように感じられた。アレ? 即時に頭の中にはてなマークが発生する。
「2人ともさ。知ってた?」