5.

「夕ごはん……どうしようかな」

 彼がいないのでは、わざわざ作る気もしない。

(今ごろ……何してるんだろう)

 何か用事でもない限り、わたしから連絡することはない。
 まして、『今、カノジョのところにいるの?』なんて訊けるはずもない。

 わたしは、顔も名前も知らないカノジョのことを想像する。
 わたしと同じように、彼と向かい合って食事して、でもきっとわたしが知らない顔で笑ったりするんだろう。
 そして、カノジョの顔に、髪に、そっと手を伸ばしたりなんかして――

「――皐月さん」

 名前を呼ぶ声……わたしの……。

「皐月さん?」

 ハッと身を起こす。いつの間にかソファの上でうたた寝してしまっていたらしい。
 閉め忘れたカーテンの向こうには、黄色い月が見えている。

「あっ、ご、ごめんなさい……寝ちゃってたみたいで……」

「それはいいんだけど……何かあった?」

 指先でネクタイをゆるめながら、彼は事も無げにそう訊ねた。

「え? 何か、って……」

「目の下、ちょっと泣いたような痕があるから」

 思わず頬を手で押さえる。
 ……どうして、そんなことには気づくんだろう、この人は。
 わたしなんて本当は、あなたが誰と一緒にいたからって泣く権利も資格もない、ただの同居人でしかないのにね。

「あ、いえ、その……テレビでちょっと感動する番組やってたので」

「そう。それならいいけど」

 そう言いながら、彼は壁のほうを向いて背広を脱ぐ。
 わたしはその彼の仕草や、白いシャツに包まれた肉付きに、思わず目を奪われてしまう。

 ……だめですよ、そんな無防備な背中、好きでもない女の前で晒しちゃ。

 わたしって、意外と肉食系だったのかな。
 ううん、ウサギだって大好きなエサを目の前にしてずっとおあずけくらっていれば、飛びつきたくもなるでしょう?

 彼がいつものようにバスルームに消えるまで、わたしはソファの上でクッションを抱えて、衝動を抑えるのに必死だった。


    *    *    *


 わたしが風呂を出て、スキンケアしたり髪を乾かしたりし終える頃には、仕事で疲れた彼はとっくに自室で横になっている。
 おかげですっぴんを気にする必要もない。

 ……足音を忍ばせて彼の寝室の前に行き、そうっと細くドアを開けた。
 静かな寝息が聞こえる。

 部屋の中をのぞいてみると、彼は左手にスマホを握ったまま眠っていた。

(カノジョとやり取りしてる途中に、寝落ちしちゃったのかな)

 起きる気配のない彼の顔からそっと眼鏡を外して、枕元に置いた。
 眼鏡をかけた顔もいいけど、かけていないときも好き。

(カノジョさん。和斗さんの寝顔を見たことあるのは、あなただけじゃないんですからね)

 そんなよくわからない対抗心も、すぐ自己嫌悪に塗り潰されてしまう。
 カノジョからすればわたしのほうが、後からのこのこ出て来たくせに、仕事や家の事情を盾にして彼を寝取った泥棒猫だ。……寝てないけど。

 彼の左手の薬指に、指輪はない。
 帰宅して、風呂に入る前にはいつも外しているのを知っている。
 ……彼にとっての『素の自分』は、わたしの夫としての速水和斗じゃないんだ。

 わたしは、少し身を屈めて彼の前髪をかきあげると、その額にそっとキスをした。

 スマホの中身を見る勇気は、わたしにはない。

――どうして、わたしだったのかな。

 何もわたしと結婚するという手段を取らなくても、彼なら他にいくらでも方法はあったと思う。

 ……たぶん、カノジョとは結ばれることができない事情があるんだろう。
 わたしの知らない事情が。

 もう一度、彼の寝顔をそっと見つめる。
 彼もきっと、辛い恋をしているんだ。

(……ばかだな、わたし)

 わたしは、入ってきたときと同じようにそっと部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。

(ほんとは、最初からわかってたくせにね)

――わたしはヒロインなんかじゃなくて、お邪魔な悪役だ。


    *    *    *


 また、朝が来る。

「行ってらっしゃい」

 こんな気持ちでこのセリフを言う新妻が、この世にどれだけいるのだろうか。

 それでも、一緒に暮らせて、そばにいられる今がいちばん幸せなんだ。

 私の望むものは全てこの部屋にあって……ただそこに、愛だけがない。

 バタンと音を立て、玄関のドアが閉まる。

 そしてわたしは、また今日もひとり――
 この甘く残酷な檻の中にいる。