2.

 ドラマや漫画みたいな政略結婚が、この現代日本――それも私の身に降りかかってくるなんて、考えもしなかった。
 実家の町工場のために、会ったこともない相手のところに嫁に行けだなんて、冗談じゃないと思った。
 その相手、新進気鋭のベンチャー企業の若手経営者である和斗さんと初めて顔を合わせたときは、夢かドッキリか何かじゃないかと思った。

 細長い手足。わたしより高すぎない身長。物静かで落ち着いた雰囲気。怜悧な印象だけど、よく見ると少し垂れ目がちな瞳。
 どこを取ってもわたしの好みのど真ん中、理想が服を着て歩いているような存在が目の前にいた。

 家のために無理やり結婚? いやいや、妄想の中から抜け出てきたみたいなこんなイケメン、こちらから土下座してでもお付き合いをお願いしたいぐらいなんですけど?

 浮かれたほうがいいのやら、あくまで気のないそぶりを見せたほうがいいのやら、自分でもどうしていいのかわからぬままトントンと話は進み、わたしは和斗さんの妻として、このタワマンの一室でふたりきりの生活を始めることになったのだ。

 ――食卓にお皿を並べる間、和斗さんがふたり分のコーヒーを淹れてくれる。いつの間にかなんとなく自然に決まった朝食の流れ。こういうの、なんだかすごく夫婦っぽい。朝から彼がカップに注いでくれたコーヒーを飲めるってだけで幸せなのに。
 おかげで苦手だった深煎りのコーヒーも今ではすっかり好きになってしまった。

 食卓についた彼の向かいに座って、彼と同じように両手を合わせて、小さく「いただきます」と言う。
 フレンチトーストのクロックムッシュ風サンドイッチ(“巌窟王”という洒落た通り名があるらしい)を切り分けて口に運ぶ彼の反応をさりげなくうかがおうとしたところ、また目が合ってしまった。
 慌てて視線を反らしたわたしの耳に、彼の静かな声音が響いて来る。

「……これ、美味しいね」

 わたしはサラダのトマトにフォークを突き刺すふりをして、少しうつむく。思わず口元がほころぶのを隠すため。
 ああ、こんな幸せな時間が、他にあるだろうか。

 ――これが最高の幸福ではないことを、残念ながらわたしは知っている。
 それでも、わたしがこれまで生きてきた人生の中で、今が間違いなくいちばん幸せだって言える。

 正式に婚姻届けを提出する前、新居として用意されたこの部屋に、わたしたちふたりが初めて訪れたときだ。
 これからの生活にひそかに胸をときめかせるわたしに向かって、和斗さんはこう言った。

「本当に申し訳ない、皐月さん。お互いの家の事情でこんなことになってしまって」

 両親にも友達にも、幾度となく呼ばれてきたはずなのに、彼の口から自分の名前が呼ばれるのはとてもくすぐったくて。
 わたしは彼の次の言葉をうっかり聞き流すところだった。

「僕の親も古い人間でね。しばらくの間、体裁だけ保っていれば、満足すると思うから」

 少しポカンとしてから、わたしはようやく彼の言葉の意味を理解した。
 和斗さんは、私が家業のためにやむなく結婚すると思っているんだ。
 いや、最初はそういう話だったし、あらためて「好きです」なんて伝える機会もなかったけど。
 あまりに和斗さんが自分の理想すぎて、わたしの好意なんて当然バレバレだろうと思い込んでいた。

 ……でもまぁ、いっか。
 わたしたちはもう結婚することは決まってるんだし。
 契約結婚から、いつしかお互い惹かれ合って……なんて、最近流行りのパターンじゃない?
 そういう物語のヒロイン気取りで、わたしは何食わぬふりをして答えた。

「いえ、平気です。とっくに覚悟はしてきてますから」

「周囲の目もあるから、しばらくここで一緒に住んでもらうことになるけど……もちろん寝室は分けるし、必要以上に干渉はしない」

 心の中では鼻唄混じりな気分で、『意外と天然だなぁ、そういうところも可愛いなぁ』なんて考えながら、わたしは彼の話を聞いていた。
 何を言ったって、ひとつ屋根の下に若い男女がふたり、そのうち自然とそういう流れになるに決まってる。
 新婚どころか恋人気分で、ゆっくり関係を深めていけばいい――

「遊びに出掛けたり、したいように生活してくれてかまわない。皐月さんにだって、好きな男性ぐらいいるだろう? 目立たないようにしてさえくれれば、誰と交際するのも自由だ」

 和斗さんは、わたしが作った食事を「美味しいね」と言ってくれるのと同じ、静かで優しい口調で、そう言った。

「……僕も、そうするつもりだしね」

 ――えっ。
 頭の中で流れていた、恋愛ドラマめいたメロディーがピタリと止まった。

「和斗さんには、その……すでにそういう人が……?」

 震える声でわたしが訊ねると、彼はこれまで見たことがないような表情で、はにかみながら小さくうなずいた。


    *    *    *


 まだ少し青さが残って固いトマトを刺し損ねて、フォークの先端がサラダボウルの底に当たる。
 その感触でわたしは現実に引き戻される。
 和斗さんとふたりきりで過ごす、朝の食卓に。

 わたしは、彼の妻。
 でも、彼には他に恋人がいて。

 そして、それでもわたしは……今この時間が、いちばん幸せ。