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「どうかしましたか。あまり食欲がないようですが」
「いえ、何でもありません」

 女中頭の春に声を掛けられ、箸を止めた。
食欲がないのは事実だった。勉強をしているとき以外はずっと京一郎のことを考えていたからだ。

「そういえば、昨夜…京一郎様が絢子さんの部屋に行くのが見えたのですが」
「…そ、それは…勉強を教えてもらっていました」
「そうですか。でも、妙ですね。普段は京一郎様の部屋で勉強を教わっていたように思うのですが」

 春の目が光ったように感じた。
絢子は出来るだけ動揺を表に出さないようににっこり笑って見せる。

「ええ、普段はそうなのですが…昨夜は気分転換に」

 恐らく、春は気づいている。
絢子の気持ちにも、そして京一郎の気持ちにも。
全てを知っているという目を向けられてもそれを認めるわけにはいかない。

(私は、書生だからだ)

「知っているかとは思いますが京一郎様には縁談の話があります。縁談と言っても既に決定事項。清華家の長男であるのだからお相手はそれ相応のお方です」
「もちろん、存じております」
「絢子さんは聡明なお方です。聞いたところ、予備校でもトップの成績だとか。本当に素晴らしいです。しかし、結婚は家と家がするものです。綾子さんならばわかっているとは思いますが」

 嫌味でも何でもない。彼女が言っている内容は全て事実だ。
女中たちから京一郎に見合いの話が来ていることを聞いたのは少し前だ。
わかってはいた。京一郎ほどの男性が未婚のままでいいはずがない。そしてその相手となる人はそれ相応の女性でなくてはならない。

 いくら絢子が勉強を頑張って医師になったとて、上流階級の家は上流階級の家と結婚する。

当然のことだ。

「身を引くのが、賢明です」

 そう言い残し、食堂を後にした春に絢子は心の中で感謝をした。何を迷うことがあるというのだろう。
お互いがそれを分かっているからこそ、“好きだ”という言葉を言うことは出来ないのだから。