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 銀座に来るのは二度目だった。
最初に京一郎と出会ったのもここだった。人力車に揺られながら、隣の京一郎を意識していた。

 移動中も続いている胸の高鳴りを抑えるために深呼吸をするのに、京一郎が隣にいるせいでそれは収まらない。

(どうしてしまったのだろう。先生の顔も見ることが出来ない)

「今日は一段と無口ですね」
「申し訳ございません。ちょっと考え事を、」
「それは、勉強以外のことですか」
「…」

 横目で絢子を捉える京一郎に心の中を見透かされているような気がした。

「勉強のことです」
「ちょうどいい、では何か難しいことを考えていたのでしょう?僕が教えてあげるので考えていたことを教えてください」
「そ、それはっ―」
「ふふ、冗談です。顔にすぐ出るところも可愛い」
「っ…」

―可愛い

そんな言葉を異性から掛けられたことのない絢子は泣きそうになりながら京一郎を見つめる。

 たった一言で動揺してしまう自分が信じられない。勉強以外に何かを考えることなど自分には今までなかった。常に将来のことを考えていた。それなのに最近は京一郎のことばかりが頭に浮かぶ。

(こんな自分は知らない…のに。)

「先生、冗談は…やめてください」
「…」
「私は…あまり異性に慣れておりません。からかわれると、…困るのです」

 これではまるで告白じゃないか、と後悔した。

あなたを意識していると伝えているようなものだ。自然に足元に落ちていく視線がもう一度上がったのは、不意に京一郎の手が絢子のそれと重なったからだ。

「先生、」
「可愛いと思ったのは事実です。それに、今は先生と呼ぶのをやめてもらえませんか?名前で呼んでください。休日なのですから」
「…え、」

見つめ合うその瞳は決して冗談でも茶化しているものでもなかった。真剣な双眸が絢子を見つめている。

 膝の上に置かれた手はすっぽりと京一郎の手と重なっている。
ドクドクと全身を流れる血液の脈をしっかりと感じながら、絢子はこの感情を誤魔化せないと悟った。

―恋、だ。

恋をしてしまった。書生という立場で先生を好きになってしまったのだ。

「絢子、」
「はい」
「行きましょう。到着しました」

自覚するとすっと胸につかえていた何かが取れたように心が軽くなる。
と、同時に苦しさが込み上げる。

書生という立場で先生を好きになっていいわけがないこともわかっていたからだ。