休日や帰宅の早い日は先生の部屋で勉強を教えてもらう。
この時が一番集中しながらも緊張していた。

「いつになったら自然体になるのかな?」
「し、自然です!」
「集中力はすごいんだけど僕が見てるとわかるとすぐに体を強張らせる。何か悪いことをしているように思ってしまうよ」
「…それは、ドキドキしてしまって」
「ドキドキ?」
「あ!あの…そういう意味ではありません。先生のような偉大な人が近くにいるとなると…緊張してしまうのです」

 京一郎の顔が近くにあると呼吸の仕方を忘れるほどにドキドキした。これも全部男性慣れをしていないからだと思っていた。

いや、思いたかった。

「僕は、偉大でも何でもない」

そう言った京一郎の目は少し寂しそうだった。




 その日は、一日中雨が降っていた。肩を濡らした京一郎が帰宅し最初にお風呂に入ってから絢子は彼の部屋におにぎりと漬物、そして味噌汁を運ぶ。

「今日もお疲れさまでした」
「絢子さんこそ、勉強お疲れ様。夕食もありがとう」
「いえ、では…私はこれで、」

 頭を下げて退室しようとした。が、どういうわけか京一郎に止められた。

「明日は休みだし、もう少し話でもしよう」
「…はい」

疑問符を浮かべたまま、絢子は京一郎の正面に腰かけた。
浴衣姿の京一郎は一段と色気があった。

“先生”

 そう呼ぶたびに胸がときめくのは自分に男性の耐性がないからだと思っていた。

 勉強を教わる以外の時間で京一郎と関わる時間は多くはない。
目をしばたたかせながら、おにぎりを食べる京一郎をじっと見ているのも失礼な気がして屋根を叩く雨音を聞きながら外に視線を逸らす。

「予備校に友人が勤めているから絢子さんの優秀さは聞いている。本当に勉強熱心で真面目で成績もいい。これなら試験にも合格できるかもしれない」
「いえ!それもこれも先生のお陰です。何とお礼を言っていいのか…」
「お礼だなんて。僕も刺激をもらっている。こうやって近くに優秀な学生がいるとね」
「ありがとうございます…」
「ホームシックにもなっていないようだけど、実家には帰りたいとは思わない?」
「たまに思いますが私の使命は医師になることです。合格するまで帰るつもりはありません」
「そうか」


 目を細める京一郎は「今日の夕食も美味しいよ」と言ってくれた。
食べ終えるといつ京一郎の部屋から退室したらいいのか機会を伺っていた。
その視線に気が付いたのか、彼が絢子に手招きをした。

「えっと…」

 戸惑う絢子に「近くに来てくれないか」という。
頷き、そっと彼の隣に移動した。


今日はいつもの京一郎ではないような気がした。具体的にどこがどう違うとは説明できないが、纏っている雰囲気が違うように思ったのだ。

「明日は休みだから、どうだろう。銀座の方にでも行って着物でも買おうか」
「着物?」
「そう。僕が買ってあげるから」
「いえ!別に困っているわけではないですし…ちょうど春さんから頂いたものもございます。それにせっかくの休日、より一層勉強を…」
「いいかい?君の受ける試験は非常に難しい。寝る間も惜しんで勉強している生徒がほとんどだろう。でもね、勉強ばかりしていても脳が疲れるだけ。息抜きも必要だ。綾子さんに足りないのは息抜きだよ」
「息抜き…」

諳んじた絢子に喉を鳴らしてクツクツと笑う京一郎にまた心臓が早鐘を打つ。

「先生も息抜きを?」
「そりゃそうだよ。僕は散歩するんだ、息抜きにね。明日は息抜きのついでに銀座へ行こう」
「わかりました。しかし…着物は、」
「それもいいんだよ。僕がプレゼントしたいといったんだから。それとも受け取れない?」
「そういうわけではありませんが、」

 京一郎は温厚だが根は頑固なのではと思った。

結構強引に押し切られることが多々あった。渋々了承すると、京一郎は絢子の頭を撫でた。


「絢子さんと話すと…―心が安らぐ」
「っ…」
「どうしてだろうね」


 その声は絢子に向いているのではなく、京一郎自身に向いているように感じた。
紅潮した頬を隠すようにして絢子は俯きそして京一郎の部屋から逃げるように退室した。

 その日の夜はどうしてか眠れなかった。
胸の奥底がきゅうっと痛むのだ。
 京一郎の顔を見ると、思い出すと、その痛みは増した。