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 清華家にお世話になって一か月が過ぎた。
一か月も経つというのに絢子はまだこの家に馴染んでいるようには思えなかった。しかし、一番の目的は医師になるという夢を叶えることだからそんなことはどうだっていいのだ。予備校も同時に通い始めた。

 京一郎の朝は早く、夜は遅くに帰宅する。たまに早く帰宅する日と休日に絢子に勉強を教えていた。

 絢子は試験に合格するために一日のほとんどを勉強に費やしていた。
また、予備校でも絢子と同じような優秀な生徒と一緒に机を並べることでいい緊張感があった。

 その日も京一郎の帰りは遅かった。
女中たちは敷地内の離れに住み込みで働いている。春が時間を確認してから白いエプロンを外した。

「あの、先生、…京一郎様の夕食はいいのでしょうか?」

 既に時刻は22時近くになっている。
春は相変わらず艶のある声で答えた。

「ええ、帰宅が遅くなる日は夕食は食べませんので。準備はいいと承っております」
「そうですか…」

 それでは、と言って食堂から退室する春をボーっとしながら見ていた。
絢子は京一郎のことを先生と呼んでいた。医者ということもあるが、書生としてそのように呼んだ方がいいと思っていた。京一郎は呼ばれる度に「その呼び方は…」と恥ずかしがっているように見えた。

「お腹空かないのかな…」

と、春と入れ違いになるように誰かが廊下を歩く音がした。神経をそこに集中させていると、京一郎が帰宅したようで「どうしたんだい?」と驚いた様子で足を止めた。

 既に眠っていると思っていたのだろう。

「先生はどうしているのかと思いまして…」
「僕が?この通り、今日は仕事の関係で帰宅が遅いんだ。今日というか平日はほぼ毎日なんだけどね」
「それは知っております。えっと…その、夕食は?」

おどおどしながら問うと京一郎は更に目を丸くした。

「あぁ、いいんだよ。春たちにもそう伝えている」
「お腹は…空かないのでしょうか」

 率直な疑問をぶつけると京一郎は噴き出すように笑った。何かおかしなことを聞いただろうかと顔を赤くしながら言葉を紡ぐ。

「どこかで既に食べているのならば…いいのですが。心配で」
「そうか、それはありがとう。確かに空腹だね。女中たちに悪いから作らなくていいと伝えてあるんだ。それに遅い時間に夕食を取るのは体に負担になるから」
「そうでしたか…」
「絢子さんは本当に面白いね。仕草一つ一つも」

 そう言って京一郎は絢子に手を伸ばして頭をポンポンと撫でた。
男性に触れられた経験が初めて、だった。さらに沸騰したように全身を熱くさせた絢子は困ったように眉尻を下げた。

「では、先生の帰宅が遅い日は軽い軽食を作らせてくれませんか?普通の書生は他にも仕事をしているようですから」
「…うん、そうだね。しかしあまりに遅くなるようだったら絢子さんの就寝時間も遅くなるからそういうときは無理して起きていなくていいよ」
「わかりました!」

 ぱあっと顔を明るくさせきゅっと口角を上げた。勉強だけしていることに罪悪感を感じていた絢子は喜びを前面に押し出し無邪気な子供のように喜ぶ。
この日から絢子の仕事が増えた。平日の遅くなる時間帯に帰宅する京一郎の軽食を作るという簡単なものではあったが、勉強の合間に胃の負担にならない食事を考えるのが楽しくなっていた。

まるで“花嫁修業”をしているようだった。