…―…


 京一郎の帰宅する音が聞こえ、軽い夕食を作っていた絢子はそれを彼の部屋に運んだ。

最近は勉学以外の会話はなかった。

 絢子が自ら話しかけないでほしいというオーラを放っていたからだ。

この日も同様に食事だけ運ぶとそそくさと部屋を出ようとした。
しかし、それを京一郎の手が阻止した。

「今日は、ゆっくり会話しませんか」
「いえ、明日もあるので今日はこれで」
「では、いつならば時間をくれるのでしょう」
「…」

 畳の上で膝立ちのまま、絢子は掴まれた腕のせいで動けずにいた。
これ以上彼と一緒にいると感情が爆発してしまうのだ。
泣いて、好きだと言ってしまいそうになる。それだけは絶対に言えない。

 そしてそれは京一郎も同様だ。

彼の目を見ればその熱い眼差しを見れば、絢子のことをどう思っているのかなど容易に想像ができる。

聞いてしまったら、終わりなのだ。

「絢子」

呼び捨てで呼ばれると全身が粟立った。

腕を強く掴まれたと思ったら、視界が大きく揺れる。あ、と声を出すとすぐに畳の青い匂いが鼻を掠めた。

背中と畳が接触する。押し倒されていることはわかっていた。

「先生…どうして、」
「どうして?それは絢子が一番よくわかっているはずだ。それに名前で呼ぶように言ったでしょう」

 珍しく強い口調に絢子の口は自然に閉じられていく。
掴まれた腕はピクリとも動かない。

 下半身を捩ると、衣擦れの音が響き浴衣から肌が見える。

「君が欲しい」
「…っ」
「分かっている。今、絢子に手を出せば、勘当になるだろう。それに絢子の将来も潰してしまうことになる」
「京一郎…様、」
「それでも…―」

―君が欲しい


微かに京一郎の目が揺らいでいる。涙を我慢しているように思えた。

 絢子も同じように下唇を噛み締める。

 全てを捨てて二人で生きることも可能だろう。それこそ京一郎が言ったように勘当されるだろうが、それでもその選択肢は不可能ではないのだ。
そして京一郎にすがりつけばきっとその選択をしてくれるだろう。

しかし―。

 そうすることは出来ない。ここまで良くしてもらった清華家の顔に泥を塗るようなことを…絢子は出来なかった。京一郎の未来を潰すことなど、絶対に出来ない。

「京一郎様、私は…書生でございます。清華家にお世話になっている身でございます。そして医師を目指しております」
「…」
「それなのに、ほしいなどと言われても困ります。迷惑なのです。私は勉強をしにここに来ているのですから」


 絢子は堪えきれずに涙を溢した。本心とは真逆の言葉を言うことがこれほど辛いことなど知らなかった。それはこめかみを伝い、落ちていく。

「ですので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。先生」


 京一郎が絢子の腕を離した。
苦しそうに、そして悔しそうに顔を顰める京一郎はすっと絢子に顔を近づける。

「っ」

避ける暇もなく、お互いの唇が一瞬だけ重なった。

「相変わらず、すぐに顔に出るね。絢子さんは」

この選択がお互いにとって一番なのだ。

誰が何と言おうと、この選択以外になかった。

京一郎の目は薄く光っていた。