「ち、ひろっ……!」


 ああ、そうだ。やっと……全部全部、思い出した。


「……なんで、ちょびが……」


 目の前で驚いている彼の名前は『ち』ば『ひろ』とで、私の名前は千夜美。

 ちひろ――ヒロトは、ある雨の日に捨てられていた、当時まだ子猫だった私を拾ってくれて、


『絶対に助けるから、死ぬな……!』


 衰弱しきった私を自分の上着に包み、病院までつれて行ってくれた。
 それから、お家につれて帰って、暖かい部屋でミルクを飲ませてくれた。

 彼は私にとって、この世界で何よりも大切な命の恩人だ。


「わた、し、」


 だから私は、あなたとお別れしたあの日。

 綺麗な満月の夜に流れ星をつかまえて、神様にお願いしたの。


「ち、ひろ……っ、わたし、は、」


 あの時――……ヒロトが泣いていたから。


『ごめん、ちょび……ごめんな……』


 何度も何度も謝って、私の前からいなくなってしまったから。



 ***



(ちひろ、なかないで)


 ……ああ、そっか。
 私が“猫”だから、ちひろと一緒にいられないんだ。

 だから、ちひろは泣いている。


(わたしの、せいだ)


 それなら、かみさま。おねがいします。

 どうかわたしを――……、


(にんげんに、してください)


 あのね、ヒロト。私はね。
 もう一度、ヒロトの笑顔が見たかったんだ。

 それから……欲張りを言うと、もうちょっとだけヒロトのそばにいたかった。

 ヒロトが私を助けてくれたみたいに、今度は私が……ヒロトを助けたかった。


(かならず、あいにいくよ。やくそくするよ。だから、)


 だからどうか「ごめん」じゃなくて、いつもみたいに笑って、私の名前を呼んで?



 ***



「千夜美……」


 ヒロトがぽつりと呟いて、一つまばたきをした次の瞬間には、


「!?」


 苦しいほどに力いっぱい抱きしめられていた。

 私の目から絶えずこぼれ落ちる滴が、じわじわと彼の肩にシミをつくってしまう。


「千夜美……やっぱり、千夜美なんだな……?」
「うん……っ!」


 千夜美。

 私の大切な、たった一人のご主人様が付けてくれた宝物の名前。


「千夜美……千夜美、」



 存在を確かめるみたいに、ヒロトはわずかに震える声で繰り返し名前を呼ぶ。

 そして、私の後頭部に片手を置き、ぐっと自分の体に押し付けた。


「ち、ひろ……っ」


 腕をめいいっぱい伸ばして、彼の体を抱きしめる。


「あい、たかった……! ずっと、ちひ、ろに……!」


 会って、

 それから、


「俺も……俺も、ずっと会いたかった……っ!」


 耳に届いたのは、今にも消えてしまいそうなほど小さくて掠れた声。

 少し体を離してヒロトの顔を見やれば、彼は私と同じようにぽろぽろと涙を流していた。


「ちひ、ろ……おね、が、い……なかない、で……?」
「ごめ、ん……ごめん、ちょび……ごめんな。ごめん……俺、本当に最低で……あの時、お前のことを」


 ――……捨ててしまった。

 彼がその言葉を落としてしまう前に唇を塞ぐと、ヒロトは目を見開き驚いてみせる。


「……ちひろ、」


 ずっと、あなたに言いたかったことがあるの。


「あのね、」


 私はね、ちひろ。あなたを恨んでなんかいないんだよ。
 それに、「捨てられた」なんて思ってない。

 だって……ちひろはこの世界で唯一、私を助けてくれた人。
 それに、名前だって付けてくれた。

 ううん、それだけじゃない。
 暖かい場所に、お刺身。知らない世界、楽しいこと……他にもたくさん、私にくれた。

 それから、


「拾って、くれた」


 あなたは、私のことを二回も拾ってくれた。

 だから「ごめん」はいらないんだよ。
 ちひろは、なんにも悪くない。


「わたし……っ、こんど、は……今度は、ずっと、そばにいる、から……!」
「……ちょび、」
「だか、ら……だから、ちひろ……わら、って?」


 離れてからずっと、私が祈っていたことは……あなたが今日も笑顔で過ごせていますように。たったそれだけだった。

 猫が人間になって会いにきた、なんて。きっと誰も信じてくれないような出来事なのに……ヒロトは「最初に会った時から、なんとなくそんな気がしてた」と言って、鼻水をすする。


(ちひろは流石だね)


 私が服の袖で彼の涙を拭えば、


「普通……それやるの、逆」


 ヒロトが不服そうにそう呟く様子はなんだか小さい子供みたいで、思わず笑うと、


「こーら、笑うんじゃありません」


 人差し指でピンと額を弾かれた。

 少しの間を置いてお互いに体を離し、彼は私の顔を両手で包み優しく持ち上げる。


「おかえり、千夜美」


 そこに咲いていたのは、私が見たくてたまらなかった――……ひまわりみたいに優しくて、あたたかい笑顔だった。


「ただいま、ヒロト……!」



 ***



 かみさま、かみさま。
 あと一つだけ、お願いがあります。

 もう一度、私のお願いを聞いてくれるなら。

 どうか、


「にゃー」


 不意に、道の端から聞こえてきた鳴き声。

 足を止めて声が飛んできた方向をよく見れば、草影に捨てられたダンボールが一つ。

 その中を確認すると、子猫が一匹。小さな体を震わせてこちらを見上げていた。


「どうしたー? 千葉ちゃん」
「涼哉さん……いい加減、その呼び方やめてくださいよ……なんか俺が呼ばれてるみたいで寒いです」
「えー? じゃあ、千夜美ちゃんって呼んでいいの?」
「……ダメです」
「ほらな?」


 子猫をそっと抱き上げて、ヒロトとタチバナのもとに急いで駆け寄る。

 私が何か言うよりも早く、ヒロトは口のはしを持ち上げて、


「いいよ。つれて帰ろう」


 優しい声音で言葉を繋いだ。


「ありがとう、ヒロト! この子の名前、私が付けてもいい?」
「ははっ、いいよ」
「やったー!」


 神様。
 もう一度、私のお願いを聞いてくれるなら。

 どうか、この先も――……彼の笑顔を一番そばで見られるのは、私でありますように。



 ***



『人間にしてあげる代わりに、あなたも何か代償を支払わなくてはなりません』

(だいしょう?)

『そうですね……では、記憶を預かりましょう。安心してください。一時的に忘れるだけで、完全に消してしまうわけではありません』

(どうしたら、もどりますか?)

『……いつの世も、心を溶かすのは真実の愛です。彼があなたの正体に気付き、心からあなたを愛してくれたなら……その時、記憶は戻るでしょう。ですが……正体を見破れず、さらに愛してもらえなかったら……記憶は永遠に戻りません』

(……)

『それでも、彼のために人間になりたいと望みますか?』

(はい! だって、きおくがなくなっても……わたしがちひろをだいすきだってことだけは、ぜったいにわすれない。だから、なにがあってもだいじょうぶ)