「ちょっ……。待って」
あたしがそう言ったら、桃たちもさーちゃんたちの様子に気づいた。
嫌がるむーちゃんに執拗に男が迫っている。
もう一人の男は、さーちゃんの髪に触れようと手を伸ばした。
「これ、カツラだから触んないでくれる?」
さーちゃんは自分で頭を取った。
正体を見せた金髪坊主のさーちゃんに、男たちの動きは止まる。
「あんたたち、邪魔だからどっか行ってくんない?」
ナンパ男たちは驚いて、さーちゃんを見下ろす。
彼らはバカみたいに笑い始めた。
「ちょ、なにその頭? それで個性とか思ってんの?」
「女の子でそれはかわいくないよ~。せっかくのおっぱいが台無し」
さーちゃんの右手が拳を固める。
彼女の半身が一歩後ろに下がった。
「もうちょっとさ、男ウケとか考えた方が……」
さーちゃんの目標が、ナンパ男の腹に定まった。
「この子たちの知り合い? そうじゃないなら、迷惑してると思うよ」
その手を先につかんだのは、桃だった。
桃はさーちゃんを見下ろす。
「ね、そうじゃない?」
「……。迷惑だね」
さーちゃんは握りしめていたその拳をほどいた。
あたしが飛びだそうとした肩を、抑えたのは金太郎だった。
浦島は桃のすぐ後ろに立つ。
「邪魔だと言われたんだ。早めに引いとけよ」
目つきが鋭く背も高い浦島に言われて、男たちはあっという間に姿を消す。
さーちゃんは桃たちを見あげてから、あたしといっちーもいることを確認した。
もう一度視線を桃たちに戻す。
「……。ありがとう」
さーちゃんはカツラをかぶり直した。
「さーちゃん、ありがとう! やーん、ちょっと怖かったぁ~」
むーちゃんはさーちゃんに抱きつく。
そんなむーちゃんぎゅっと抱きしめてから、さーちゃんは改めて桃たちを見た。
「ももといっちーの知り合い?」
「お、鬼退治仲間だから。貴重な!」
桃は何でか慌てふためいている。
浦島はカツラをかぶったさーちゃんをじっと見つめた。
「それは学祭用の衣装なのか?」
そう言った浦島を、さーちゃんは見上げる。
「どっちもよく似合っている」
「そうかな、そうでもないんじゃない」
彼女はため息をつく。
「ま、なんだっていいけどね。こんな格好するのも、今日だけだし」
桃と金太郎も、順番にさーちゃんを褒める。
「どっちだって可愛いよ!」
「髪と実際の顔の作りは無関係だって証明されたね」
きっとこれがさっきまでの教室みたいに、女の子だけの会話だったら、さーちゃんはニッと得意げに笑って、いつものように「まぁね。自分がかわいいの知ってるし」とか「今さら気づいた?」とか言ってたんだろうな。
「ももはこれから、その人たちと鬼退治?」
目も合わせずにそう言ったさーちゃんの、そんな言葉に傷つく。
あたしはそれに答えられない。
いっちーが代わりに答えた。
「ううん。この人たちは関係ないよ」
そのまま彼らを振り返る。
「私たちはこれから用事があるから、悪いけどこっからは自分たちで楽しんできて」
「分かった」
桃はにこにこと笑って、素直にいっちーに手を振った。
去りゆく三つの背に、あたしは腰のこん棒をぎゅっと握りしめる。
同じように見送るいっちーの横顔も、暗く沈んでいた。
「行こっか」
対決の時間は近い。
「そろそろ演武の時間だし」
「うん。気持ち切り替えて行こ」
いっちーの横顔はいつだって凜々しいのに、今はそれがなんだか寂しく見える。
あたしは身を引き締めた。
自分たちで出来ることは、やっぱり自分たちでやりたいしやらなくちゃいけない。
桃たちには悪いけど、この先は来てほしくないんだ。
そうやってやって来たチャンバラ会場には、誰もいなかった。
周囲に立ち並ぶ他の部活のブースには、それなりの人だかりが出来ているのに……。
そんな知っていたはずのことにまで、ちょっぴりショックを受ける。
「マジでもうみんな、鬼退治とか興味ないのかな」
あたしたちの立つ看板の横には、対戦者用のこん棒も用意していた。
腕には巡回中の正式な腕章もしたし、その下には『模擬中』の白い腕章もつけている。
これはちゃんとしたルールだ。
「……。こんなんで、新入部員集まるのかな」
いっちーからの返事はない。
ここでは外の世界みたいに、こん棒をぶら下げて腕組みするあたしたちを笑うような人間はいない。
だけど、だからといって全てを認め受け入れられているワケでもない。
「呼び込みしよう」
こんなこともあろうかと、あらかじめ借りていたプラスチックのメガホンが役に立った。
あたしは大声を張り上げる。
それでもやるって決めたことに、変わりはないのだから。
「鬼退治サークルで、挑戦者を受け付けておりまーす!」
いっちーも大声を張り上げた。
「ももかいっちーの、好きは方を選んでチャンバラ対決出来ますよー!」
呼び込みにも来場者の反応は薄い。
4歳くらいの女の子がこん棒に興味を持ってくれたけど、大きすぎて持ちきれなかった。
中学校の制服を着た男の子数人は、こん棒を手にするまではしてくれたけど、打ち合いまでは至らない。
30代くらいの女の人が一人、「私も昔、本当はやってみたかったのよねー」とか言いながら、話しかけて来てくれた。
数回カツカツと打ち合わせただけで、すぐに「ありがとう」と退散してしまう。
この企画は失敗だったのかな? そんな不安や焦りがピークに達した時だった。
「これは、誰が挑戦してもいいの?」
傘立てに立てかけたこん棒の、一本が引き抜かれる。
「じゃあ、相手してくれる?」
まっすぐにそれを構えたのは、桃だった。
腰には鬼退治専用の公式刀がぶら下がる。
「桃が?」
「ダメ?」
「ダメじゃないよ」
桃の目は、今までに見たこともないほど真剣だった。
あたしは腰のこん棒に手を置く。
「じゃあ、あたしが対戦をお願いしてもいいかな。いっちーの強さは知ってるんでしょ」
「そうだね。お互い手の内やクセを知ってる」
桃はこん棒を構えたまま、ゆっくりと間合いをとる。
こんなところで挑戦を受けて、引き下がれるハズがない。
「じゃ、お願いします」
「こちらこそ」
これがオフザケだとか一時の気の迷いだとか、そんな簡単なものじゃないってことを、知らしめないと。
あたしはこん棒を抜くタイミングを見計らっている。
きっと桃も踏み込むチャンスを見ている。
互いにじっと合わせた視線から、深く集中してゆく。
辺りが急に静かになった。
あたしは腰のこん棒を抜いた。
「ちょっと待ったぁっ!」
ガツンと3本のこん棒が重なり合う。
あたしと桃の間に割り込んできたのは、細木だった。
「何だよ、邪魔すんな!」
あたしは2本のこん棒を真横になぎ払う。
桃と細木は飛び退いた。
細木に向かって振り下ろしたそれは、ガツンと受け止められる。
「くっ……」
やっぱりパワーじゃ敵わない?
そう思った瞬間、細木はあっさりとこん棒を投げ捨てた。
「キミ! その腰の刀は?」
クソダサジャージの細木は、桃に向かって両腕を広げる。
「え? これは鬼退治の……」
「やっぱりそうだよね!」
細木は桃に近寄ると、ガッツリと桃の両手を握りしめた。
「僕はここで鬼退治サークルの顧問をしていてね。もしかして君はこの学校に興味があるのかな?」
「え? えぇ、まぁ……」
「そっか!」
細木が熱い。
「もしよかったら入学案内があるから僕がそこまで案内してあげよう。いやぜひ案内させてくれないか!」
桃からの返事を待たずして、細木はくるりと背を向けた。
「よし、じゃあ行こう!」
「細木!」
あたしはこん棒を振り上げる。
「本当は鬼退治になんか、興味ないくせに!」
振り下ろしたそれを、細木はパッと避ける。
そのまま落ちていたこん棒を拾い上げた。
構わす攻撃を仕掛けるあたしを、奴はガツンと受け止める。
「当たり前だ! 小田先生に言われてやってるだけだ!」
「じゃあなんで割り込んでくるんだよ!」
距離をとる。
間髪入れず踏み込んだあたしに、細木はこん棒で応戦する。
「誰がお前らなんかと鬼退治するか!」
刀身と刀身がぶつかり合う。
交差するそれを挟んで、あたしと細木はギリギリとにらみ合った。
「俺はなぁ、この学校が共学化して、男子が入ってくることだけを生きがいに頑張ってんだよ」
「何だよそれ……」
「お前こそ俺の邪魔をするな。鬼退治サークルが存続するなら、お前にとっても悪い話しじゃないだろ」
力で押し戻される。
あたしが後ろに引いたとたん、細木はやっぱりこん棒を投げ捨てパッと背を向けた。
「おぉ! よく見ればここにもお友達が!」
金太郎と浦島に駆け寄り、勝手に手を取るとぶんぶんと握手でそれを振り回す。
「君も! 君も! 名前は?」
「おいっ! 勝負のじゃなすんな!」
「お前こそ俺の勝負の邪魔すんな!」
細木の大声に、びっくりする。
コイツが今までにこんな大きな声を出したのを、聞いたことがない。
つーかこんな声出せたんだ。
細木は落ちていたこん棒をあたしに突きつけた。
「君たちはここで、サークル部員の勧誘を続けていなさい。僕は彼らを案内してくるから」
細木は持っていたこん棒を横にすると、ぐいぐい押しつけてくる。
その異様な気迫に押されて、あたしはついそれを受け取ってしまった。
「じゃ。余計な問題起こすなよ」
背を向けたとたん、突然の上機嫌に戻った細木は、桃たち三人を引き連れてどこかへ行ってしまった。
きっと転入案内のコーナーにでも行くんだろう。
「なんだあいつ!」
あたしは最高にイライラしていた。
普段の練習とかには、全く興味ないクセに!
校内で会っても目も合わさないクセに!
そもそも細木の顔を見るのは、学祭の許可をもらいに行って以来だ。
「いっちー! あたしと模擬戦しよう!」
彼女はすらりと腰のこん棒を抜いた。
あたしが打ちかかると、それに応じる。
いつも以上に熱が入った。
流暢な剣さばきに、結んだ彼女の長い髪がなびく。
ガツガツと腕に伝わる振動に、あたし自身がしびれていた。
何に対して腹が立つのか、どうしてこんなにイライラしているのか、そんなことを今だけは考えたくもない。
いっちーの繰り出す素早い剣さばきに、無心で合わせる。
繰り出される剣先を避け、また打ち付ける。
踏み込む動きに一切の無駄なんてない。
ぶつかっては離れ、離れてはまたぶつかり合う。
あたしはただただいっちーと打ち合っている。
一呼吸置いた時、ふいに拍手が沸き起こった。
いつの間にか辺りには人だかりが出来ていて、あたしたちを取り囲んでいた。
それに気づいて、急に恥ずかしくなる。
いっちーの顔も真っ赤だ。
「あ、ありがとうございました!」
二人で一礼をしてから、あわててその場を逃げ出した。
「なんか突然で、びっくりしちゃった」
「私も」
どこへ逃げ込もうか。
校舎内に駆け込んで、ようやく一息つく。
「なんか飲む?」
「う、うん。ももは?」
「あたしもなんか飲みたい」
目の前の教室で屋台が出ていた、よく分からないミックスジュースを買う。
正義のイエローダイヤと愛のレッドルビーってなんだ?
どうやら黄色系と赤系の市販のジュースをいくつかミックスしたものらしい。
「あ、知らない味だけど悪くないよ」
「うん。不味くはないね。むしろアレとアレを混ぜたらこんな感じになるんだって感じ」
見慣れた校内を行き交う沢山の見知らぬ人たちの前で、あたしたちは色んなものがごちゃ混ぜになった不思議なジュースを流し込む。
ようやく落ち着いたところで、生徒会本部役員のはーちゃんとしーちゃんに出くわした。
「もも!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
はーとしーは慎重に辺りを見渡すと、小声でささやく。
「鬼が出たっぽい」
マジな感じの様子に、空気が凍りつく。
「ホントに?」
二人はうなずいた。
「先生たちも巡回してるけど、ももたちもお願いできるかな」
「分かった」
「いっちーと二人でね。絶対一人になっちゃダメだよ」
深く息を吸ってから、ゆっくりとそれを吐き出した。
あたしはこん棒の位置を確認する。
いっちーと目を合わせた。
「よし。行こう」
「任せろ」
ウォーミングアップは出来ている。
さっきまでの緊張とは、全く意味が違う。
あたしは巡回中の腕章に手を触れた。
この校内でそんなこと、絶対に許さない。
賑わう教室一つ一つを、丁寧に見て回る。
あたしの傷は疼いていなかった。
出入りの激しい学祭の最中で騒ぎ立てるわけにもいかず、笑顔を振りまきながら慎重に見て回る。
「あれ? どうしたの、二人とも」
さーちゃんとキジだ。
さーちゃんの頭が坊主に戻ってるから、今は休憩中らしい。
「鬼が入り込んだって」
声を潜めて、そうささやく。
さーちゃんとキジの顔色も変わった。
「その巡回中の腕章はもうないの? あるなら貸してくれない?」
キジが言う。
あたしはポケットから余っていたそれを取り出した。
「あるけど、いいの?」
「仕方ないじゃない。鬼が出たと聞いて、黙ってはいられない」
キジは腕に腕章を通した。
「ベルトとこん棒は?」
「体育科準備室横の倉庫に入ってる」
鍵も渡す。
さーちゃんは食べていたパイナップルを平らげた。
「しょうがないな」
その串をくわえたまま、ニッと笑った。
「協力してやんよ」
「腕章つけてれば、他の人も分かってくれると思う」
「了解」
さーちゃんとキジが味方になってくれるなら、心強い。
はーちゃんとしーちゃんだけでなく、あたしの見知らぬ生徒の腕にも『巡回中』の腕章がついている。
あたしはこん棒の柄を、もう一度しっかりと握りしめた。
「絶対にぶっ殺す」
イベント会場になっている校舎の中は全部見た。
あとは屋外会場だけだ。
一旦校舎の外に出る。
遠くに見かけたクソダサ青ジャージの細木も、腕に腕章をつけていた。
まぁ先生ならみんなつけてるか。
ぐるりと一周してみたけど、特に気になるところもない。
「もう一回校舎に戻って、トイレとか見て回る?」
いっちーはスマホをとりだした。
「あ、ダメだ。鬼検索アプリ、終わってたわ」
中庭から校舎を見上げた。
賑やかに飾り付けられた、いつもとは全く違う落ち着かない校内に、あたしの胸も騒ぐ。
「もう一回全体を回ろう」
鬼の気配を探っている。
嗅覚を働かせるように、感性を研ぎ澄ます。
人の多すぎるせいか、腕の傷はなにも教えてはくれない。
「一花! ももちゃん」
桃たちがやって来た。
彼らの顔にも緊張が見られる。
鬼退治の公認刀をぶら下げているんだ。
連絡は入ってるか。
「見つけた?」
桃は首を横に振った。
「こればっかりは、対面しないとどうしようもない」
時計を見上げる。
一般公開の時間は3時までだ。
間もなく2時半になろうとしていた。
「それまでに見つかるかな」
「出来れば何事もなく、退散してくれることを願うね」
巡回のため桃たちと別れる。
すぐに一般公開終了を知らせるアナウンスが入った。
それと同時に、人々の波は引き始める。
屋台や出し物の片付けも始まった。
本当にこのまま退いてくれるかな。
「後で被害の報告がなければいいんだけど」
いっちーのスマホに連絡が入った。
桃たちは学園を後にしたらしい。
在校生だけの後夜祭準備が慌ただしく始まっている。
疼かない傷に、あたしは少しほっとしている。
一般公開が終了して、在校生以外は全員が外に出た。
正門の高い鋼鉄門が閉じられるのを見届けると、ようやくその緊張を一段階解く。
腕章をつけた先生や生徒会メンバーも、全員がそこに集まっていた。
小田っちがあたしたちに声をかける。
「よっ。無事だったか?」
「せんせ~い!」
うっかり涙声になってしまった。
「もう大丈夫だ。俺が保証する」
あたしは鼻水をすする。
「だけどな、このこん棒ぶら下げている以上、いつでも気ぃ引き締めとけよ」
「はーい」
ぞろぞろと引き上げていく先生たちの間に、細木と堀川の姿もあった。
あたしはなぜだかそれに、またちょっとだけ不安と安心を覚える。
「もも。後夜祭行こう」
だけど、いっちーにも笑顔が戻ったし、ヘンな心配はさせたくない。
あたしは元気よくそれに笑顔を返した。
「うん! さーちゃんとキジも誘おう」
屋外の特設ステージに先生たちが上がった。
そこには細木の姿もあって、相変わらず生徒からヘンな笑いを奪っている。
湧き上がる会場のなかで、なんだか言葉にならない不安と緊張を抱えていることに、あたしは気づいた。
高校の二年生というヤツは、学祭が終わってしまえば本当にすることがない。
だらだら学校に通って部活やって友達とおやつ食べてるくらいしか、本当にすることがない。
あたしは教室で退屈を持て余していた。
「あーひまー」
もう今日の更新分の漫画は読んだし、ゲームのデイリーミッションもクリアしてしまった。
昼休み明けの体育からの国語。
これはもうそんな時間割を組んだ先生たちが悪い。
さっさと着替えて次の授業になんて、備えられるワケがない。
「だりーの極みだな」
いくら女子校といえども、運動の後の体臭は気になるのだ。
流れる汗を拭き取って、ボディケアの真っ最中。
「こないだ見つけたの。ブリリアントパールの香り~」
「もはや何の匂いか分からねぇ!」
とかいいながら、鼻を近づける。
さっぱりとした爽やかで上品な香りがする。
「高そうな匂いだな」
「ブリリアントパールだけに」
「ウケる」
高らかな笑い声が響く。
すぐにそれは教室中に連鎖して、愛用するフレグランスご披露大会の始まり。
「これ、なっちゃんが使ってるやつだって」
どこからか次のボトルが回ってくる。
「フレッシュローズガーデンの朝露の香り」
朝露に香りがあるかどうかはおいといて、確かにバラ園の朝っぽい。
あたしは少量を手に取って肌に滑らせる。
「これもいいよ」
今度はマンダリンブルーの深海の香り。
濃すぎるフルーハワイみたいな、甘い匂いがする。
さっきとは反対の腕につけてみた。
休み時間終了を告げるチャイムが鳴る。
廊下の向こうから、特徴のある足音が聞こえてきた。
その足音だけで何者かが分かる。
敵の接近を知らせる「ウグイス張り」の廊下をもじって「堀川張り」。
略して、ただ「バリ」と呼ばれている足音だ。
「バリ来たよ」
その瞬間、勢いよく教室の扉が開いた。
「ほら! いつまでもダラけてないで、さっさと席につく!」
秋も終わりの季節とはいえ、今日は暖かい。
冷暖房の行き届いた教室で、誰がまともに着替えなんかしてるかっつーの。
「さっさと服を着なさい! なんなの制服忘れてきたの? てゆーか、なによこの教室、あんたたち色々つけすぎ! 凄いよ今この部屋の匂い!」
あたしは手にあったボトルを見た。
「先生、これ『ボタニカルエンジェルハート』だって」
「は? 植物性天使の心? 意味不明だし」
とか言いつつも、やっぱり鼻先を近づける。
チョコレートのようでただのチョコレートではない、激烈に甘い匂いがする。
「この場合、ハートは『心』じゃなくて『気持ち』じゃない? 天使だし」
それを左の太股にすり込む。
揮発する成分で、そこだけが少しひんやりとした。
「やかましいわ。さっさと着替えなさい」
「国語の先生じゃん!」
堀川は教卓に置かれてあったボトルを手に取った。
「やだ、これ誰の? ちょっともらっていい?」
ソルティレモンバームの香りを手に取ると、堀川はその巨乳ではち切れんばかりのブラウスのボタンを外した。
「おぉっ!」
チラ見えするブラは、総レースの如何にも高そうなもの。
寄せて上げてしっかり胸の谷間を形成している。
「そのブラどこで買ったの? なんていうやつ?」
クラス中の視線が集まる。
「あんたたちには絶対に教えないから、安心して」
「なんだよそれー!」
「教室の窓全開にして、冷気を入れられたくなかったら、さっさと着替えなさい」
この時点でも、まだ誰一人としてまともに着替えていない。
「はーい。ここテストに出すよー」
堀川はそんな教師ならではの権力を行使しながら、無理矢理授業を始めた。
教科書のページを読み上げ始めた堀川に、その数字を聞き逃さないようあたしたちは声を潜め、必死にメモを取る。
「つーかソレ、結局テスト範囲全部じゃね?」
「全員席についた? じゃあ授業を始めます」
そんな日常を繰り返しながら、やがて冬になった。
冬にはサツマイモ星からやって来た、芋しか食べられないサツマイモ星人のように、焼き芋ばかりを食べて過ごす。
今日は特に寒くって、空に小雪が舞っていた。
「今日の芋もうまいな」
「焼き芋に外れはないよ」
演武場前の階段に並んで腰を下ろしたその目の前には、取り崩されたレンガの残骸が山となって積まれている。
それはこの学校のシンボルでもあった、あたしたちを取り囲むぐるり高い城壁で、もうあたしたちを守るその壁は存在しない。
取り壊されたチョコレート色のレンガの後には、細い針金のフェンスが取り付けられていた。
そのあみあみの向こうには、今まで見えなかった外の世界が見える。
冬のお日さまは信じられないくらいのスピードで沈んでいって、まだ明るくてもいいはずに時間にもう辺りは薄暗い。
「体動かした後の芋は、最高だね」
「間違いないね」
焼き芋の熱と吐く息とが混ざり合い白く濁る。
新学期が間近に迫っていた。
「……。やっぱ芋うまいな」
「最高だよ」
春が来た。
百年以上続いてきた学校の歴史が大きく変わる、記念すべき年度の始まりだった。
共学化新年を祝って植えられた桜の若木は、チラチラとみずみずしい花をつけている。
最高学年になったあたしたちは、新入生を迎える準備にかり出されていた。
女子の制服はそのままで、そのデザインに合わせた男子の制服が登校してくる。
真新しいそれに身を包み、生まれ変わった校舎に入り込んだそれは、きっと春先にふさわしい新鮮な空気を運んで来ているのだろう。
「もも。あのさ……」
新入生の受付案内をしているあたしの横で、いっちーは言った。
「ん? なに?」
「……。私のこと、嫌いにならないでね」
「どうして?」
流れてくる新入生たちの波が、急に騒がしくなった。
一段と目を引くその中心に、桃たちがいる。
「あ、一花とももちゃんだ。すげー。早速一番に会えた」
そう言って桃はうれしそうに笑う。
その横には当然のように金太郎と浦島もいた。
「マジで転入してきたの!」
「まぁ色々、優遇制度があったからね。瑶林といえば、人気の伝統校だし」
桃はいっちーを見て、にっこりと微笑んだ。
「同じ学校になれてうれしい。これからよろしくね、先輩!」
いつまでたっても何だかんだ言って、桃はいっちーから離れようとしない。
しびれを切らした金太郎と浦島がようやく桃を引きずって、入学式の会場となっているホールへ向かう。
桃はそれでもまだこっちに向かって手を振り続けていた。
「なんで先輩? 同級生だよね」
「学校在学歴が長いからだって、言ってた」
いっちーの頬が少し赤くなって、ぼそりとつぶやく。
「バカだから許してやって」
他にも男女ともに転入組はそこそこいて、突然クラスが2つ分増えた。
全転入組の割合を見ると、男子は女子の3分の1くらい。
新学期は、はーちゃんとしーちゃんとはクラスが分かれちゃったけど、いっちーとさーちゃん、キジとは同じクラスになった。
見慣れた女の子ばかりの空間に、見知らぬ男子がいるのは違和感しかないけど、まぁ気にならないと言えば、正直気にはならない。
「担任誰になるかなー」
新担任の発表は、朝のホームルームに登場してくるまで分からない。
ざわざわと落ち着かない教室の外で、複数の足音が聞こえた。
この中の誰かが扉を開けてこの教室に入ってくる。
入って来たソイツがこのクラスの担任だ。
「おはようございます!」
姿を見せたその人物の、正体を知っている在校組の女子たちは大騒ぎになった。
「うっそ、マジかよ。もしかして初担任がうちらってこと?」
「最悪じゃん!」
「コイツが『先生』とか出来んのかよ」
その新担任は、教卓にドンと手をついた。
「在校組は黙れ。転入生、入学おめでとう」
細木はいつものクソダサジャージではなくて、安っぽいスーツを着ていた。
「うっざ!」
「そこ。花田もも。ウザいとか言うな」
「あ?」
一部でクスクスと小さな笑みがこぼれる。
誰だ笑ってんの?
細木の正体を知っているクラスの8割が、そっちを振り返った。
とたんに見られた転入組は黙る。
いつもならここで、クラス中が細木に向かって非難ごうごうの嵐になるのに……。
「みんな、仲良くな」
昼休みになった。
うちのクラスの転入組は、男女合わせて7人ぐらいか?
互いに知り合いみたいで、比較的仲良くしている。
「一緒に食べよう」
あたしはいっちーとさーちゃん、キジと机を合わせる。
いっちーはいつも、お兄ちゃんや家族の分の弁当を手作りしてくるので、ちゃんとしたやつ。
キジはお母さんが作ってくれるみたい。
あたしとさーちゃんはどっかで買ってきた何か。
「俺たちも混ぜて。一緒にご飯食べよう!」
入って来たのは、桃と金太郎と浦島だ。
「え、自分のクラスで食べなよ」
「いーじゃん別に」
そう言って勝手に机をくっつけ始める。
「ねぇ、食べ終わったらみんなで、学校の案内してよ」
「そういうのはいっちーの役目でしょ」
彼女のビクリとした目が、ちらりとあたしを見た。
「私の役目って……。もも、みんなで行こうよ」
「えーやだぁ」
いっちーからの提案に、あたしは即答する。
昼休みはいつも昼寝をすると決めていた。
じゃないと午後の体育のあとは、寝るしか出来ない。
「どっかで剣の練習でもすんの?」
桃のお昼はあたしと同じどっかで買ってきた何か系だけど、金太郎と浦島は普通にお弁当だった。
浦島はふとさーちゃんに視線を移す。
「頭、触っていい?」
「は?」
浦島の手が伸びる。
さーちゃんは無言のままじっと固まってしまった。
そんな彼女の手前で、浦島は一旦動きを止めたけど、逃げもせず拒否もしなかった坊主頭にそっと手を添えた。
「この手触り、一回確認してみたかったんだよね」
そう言ってなで回す。
「すっげー。やっぱ男のとは違うな」
浦島の手が引っ込んだ。
さーちゃんは彼を見上げる。
彼女がキレ散らかし始めそうな予感がして、あたしはとっさに、さーちゃんの頭へ抱きついた。
「分かる! いや、男の坊主頭をなでたことはないけど、短い髪って下から逆なですると気持ちいいよね」
さーちゃんの頭は女の子の柔らかい髪質の上に、同じ長さでびっしりそろっているから、そんじょそこらの毛並みとはワケが違うのだ。
彼女はため息をつく。
「あんたたちも、いっつも触ってくるもんね」
あたしはさーちゃんの、キンッキンの頭をなで回す。
その隣でキジは、真剣な顔つきをしていた。
「私も好き」
キジもさーちゃんの頭を撫でまわす。
さーちゃんの頬は、わずかに赤くなった。
「さー学校回るか!」
「さー昼寝すっか!」
あたしと桃の声が同時に重なった。
「あたしは寝るからね。つーかこないだの学祭で、学校回ったでしょ」
「学祭と普段は違うって、そん時も言ってただろ」
あたしは桃を無視して、いっちーに視線を向ける。
「いっちーに頼みなよ」
「……う、うん」
ほら大人しくなった。ど
うせ桃は、いっちーがいいクセに。
いや、嫌みとか嫉妬とかじゃ全然なくて。
「ももは来ないの?」
金太郎が割って入る。
「あ、もしかして鬼退治の自主練?」
あたしは立ち上がった。
「別に。じゃ、お先に」
数ヶ月前まで、いつもいっちーと二人でだべっていた場所に行く。
その高い城壁にもたれて、どこまでものんびりできていたのに、その壁はもうない。
あみあみフェンスでは、向こうからもこっちが丸見えだった。
通りがかった知らないじいさんと目があう。
「おいコラ、サボってんじゃねーぞ。しっかり勉強せぇ」
舌打ちまでされた。
今は昼休みだっつーの。
せっかく天気もよくなって、暖かくなってきたのに、もうそこにあたしの居場所はない。
仕方なく別の場所に移動しようと振り向いた時、視界にみんなの姿が目に入った。
いっちーが桃たちと一緒に歩いている。
そこにはキジとさーちゃんもいて、金太郎と浦島も楽しそうだ。
自分でも、どうしてそうしたのか分からない。
彼女たちに見つからないよう、陰にかくれてこっそり移動する。
こんなんじゃ、今日の昼寝は無理だな。
あたしは7時間目の授業をあきらめた。
この新学年、新学期の憂鬱はどこから来ているのか。
それははっきりとしていた。
細木だ。
「じゃ、ホームルーム終わりねー」
それまでの青すぎるクソダサジャージから一新され、また違ったタイプのダサ過ぎるジャージに変わっていた。
今まではずっとおどおどした変なしゃべり方をしていたくせに、人が変わったようにあたしにも平気で話しかけてくる。
「……花田。膝を立てるな、見えてるぞ」
「なにがだよ」
目を合わせたまま、細木はグッと黙った。
「あたしはいつも、こうやって座ってんの」
「お前は俺のパンツが見たいか」
「んなワケねぇだろ。キモいわ」
「……。だったらお前も俺に見せんな」
教室を出て行く。
そんな時、いつもなら女の子たちからの「やっぱ見てんじゃん!」とか「テメーが一番キモいわ」とかの罵詈雑言が、細木の背中にこれでもかと浴びせられていたのに、今じゃなんの反応もない。
それでも最初の頃は、あたしをイジられ役と勘違いしていた転入組が笑っていたけど、もうそんなこともなくなってしまった。
あたしは肩越しに小さくなっている転入組に視線を向ける。
「お前らもなんとか言えば」
「もも。ムカつくのは分かるけど、そんな威嚇してやるなよ」
いっちーが隣でつぶやいた。
さーちゃんはため息をつく。
「私も髪伸ばそっかなー」
「なんで?」
そんな言葉が彼女の口から出てくるなんて、思いもしなかった。
あたしは本気でびっくりしている。
「別に。みんなに触られるのがウザいし、飽きてきただけ」
「伸ばすの大変そうだね」
キジがさーちゃんの頭を撫でた。
「ほら、触りおさめだよ」
いっちーの手もさーちゃんの頭に乗る。
これで触りおさめだなんて、そんなの触りたくもない。
「トイレ行ってくる」
廊下に出たら、偶然金太郎の背中が見えた。
腰にぶら下げた刀は相変わらずで、女子に取り囲まれている。
転入組の中で一番人気は、人当たりよく物腰も柔らかな金太郎らしい。
「あ、ももちゃんだ」
そんな金太郎が、あたしに気づいた。
「こんなところで会えるなんて、今日はついてるかも」
そんなウソ臭いセリフに、騙されるようなあたしじゃないし。
「そりゃどーも。あたしは招き猫かなんかなの?」
そんなちょっとしたイヤミのつもりも、にこっと笑って受け流す。
「ももちゃんは、学校ではこん棒つけてないんだね」
「今まで学校で出たことはないからね」
こん棒はいっちーのとまとめて、ロッカーの上に置いてある。
「ねぇ、今日の放課後、何か予定ある?」
「別にないけど」
あたしはトイレに行くのだ。
「そっか。ちょっと話しがしたいなって……」
「ゴメン、もうトイレ行っとかないと」
女子トイレがこんなに便利なものだなんて、知らなかったな。
同じクラスの転入女子と目があって、なぜだかペコリと頭を下げられたのに、またムッとする。
あたしはどういう扱いなわけ?