学校生活において、体育の授業というのは特別な時間だ。

いつもは小田っちのゆるゆる指導なので好き勝手やってるけど、今日は用事があって細木が代理を務めるらしい。

あたしたちは体操服姿で校庭に整列させられていた。

「あー。……。本日は……よろしくお願いします」

 そう言って細木はペコリと頭を下げた。

そんなこと言われたって、あたしたちもどうしていいのか分からない。

どう反応していいのかも分からず、ただ困って立ちつくしているあたしたちを前にして、あたしたち以上に細木は困っていた。

「えー……っと。……いま何やってんの?」

 いつもなら小田っちが授業の始まってすぐ「今日は何するー?」って聞いてくるから、体育館なら「バスケがいい」とか、運動場なら「ドッチボール」とか言って始まるのに。

もちろん「今日はマット運動じゃないとダメだからマットね」とか言われることもあるけど……。

チラリと細木を見上げた。

 何かのノートをめくっている。

どうやらそこに細木の探す答えは見つからなかったようだ。

ますます困った顔をしてあたしたちを見下ろす。

「体育の教科担当は?」

「はい」

 あたしとさーちゃんが手をあげた。

細木の顔が明らかに極端に曇る。

「なんすか」

「『なんすか』じゃないです。今は授業で何をやっているのですか」

 クラスのみんながざわざわとし始める。

あたしは前に出たさーちゃんと目を合わせた。

「どうする?」

「いつも通り、みんなに聞いてみんのがいいんじゃない?」

 あたしはくるりと振り返った。

「今日は何するー?」

 あれこれと意見が上がるなか、最終的に野球という意見に約30秒でまとまった。

「野球で」

 そう言ったのに、やっぱり細木は困っている。

てゆーかこの先生のこと、困っているところしか見たことない。

「ダメ?」

「お、俺は……。先生は、あまり野球が得意ではないんですが……」

 あたしとさーちゃんは、全くの同じタイミングと同じ角度で首をかしげた。

「それ、関係ある?」

「いや。多分ない……、です」

「じゃ、野球で」

 この先生と話していたら、貴重な体育の時間がもったいない。

「それでいいですか?」

「……はい」

 そうとなったら話しは早い。

バットやグローブを運びたい子は運んで、ファウルラインを引きたい子は「一回コレやってみたかったんだよねー!」とか言いながら準備を始めている。

そんなことも全く気にしないでキャッチポールを始めてるのもいれば、出てきたスコアボードへの落書きに夢中なのもいたりする。

「チーム分けはクラス対抗でいいよね」

「5回交代にしよっか」

「ピッチャーの位置、もっと前に出さない?」

 細木はずっと何かを言いたげに後ろでうろうろしてるけど、小田っち流でやってきてるあたしたちは、勝手にどんどんルールを決めていく。

細木の小言は全部無視。

「まずは教科書の……って、持って来てないか。キャッチボールの基本の構えとかバッターボックスとか、インコースアウトコースの公式ルールでは……」

「とりあえず、やりながら考えようぜ」

「了解!」

 合同で体育やってる一、二、三組の体育係で意見がまとまればそれでOK。

今日の気分が乗らない子は、記録係と公式ルール確認係だ。

最初に一組が審判係を引いたから、二組のうちとさーちゃんのいる三組が試合をすることになった。

「誰がどのポジションにつく?」

 そんなのも全部30秒で決まる。

自分のやりたいポジションがある子たちが勝手に集まって交代の順番決めてるし、誰もいないポジションには余ってる子が、適当に気を利かせて入る仕組みだ。
「よっしゃ、勝つぞ!」

 背が一番高いという理由で、うちの先発ピッチャーはいっちーになった。

あたしはファーストにつく。

三組の1番バッターが打席に入った。

「ストライク!」

 ファウルボールをいつくか打ってからの5球目。

突然キャッチャー役の子が立ち上がった。

「痛ぁ~い! 手の皮がむけちゃった」

 普段使うことのないミットを使用したせいで、親指の付け根が赤くめくれている。

「交代する?」

 キャッチャー交代を告げると、細木が駆け寄ってきた。

「何ですか。こんな簡単に選手の交代はしません!」

「だけどさぁ!」

 彼女の手を見せると、細木はグッと押し黙る。

「保健室、つれて行っていい?」

 ベンチ入りしている子が細木に言った。

「これくらい一人で行けるでしょう。自分で行ってきなさい」

「えぇ~!」

「サボる気ですか?」

 細木は二人を見下ろす。

なんだコイツ? 

やっぱムカつくな。

「そんなこと言ってないし」

「先生はここを離れるわけにはいかないので、一人で行きなさい」

「じゃあ先生が絆創膏貼ってよ」

 突き出される女子高生の手に、細木は後ずさった。

「……だから、一人で行ってきなさいって……」

「先生」

 ふっと現れたのは、三組のキジだ。

「私、保健委員なので、私がつれて行って手当をしてきます。それならいいでしょう? 今はスコア係の一人だし」

 キジは優等生な笑顔を見せた。

いつもの手でサボる気満々なのを知らないのは細木だけ。

「分かりました。では雉沼さんにお願いします」

 そこにいた生徒たちは全員、相変わらず上手いなーとか思ってる。

キジはこれでもう1時間は帰ってこない。

「5分で戻ってきてください」

 細木の言葉に、キジは立ち止まった。

「雉沼さんはいつも……、その、体育の時に姿が見えなくなる傾向があるので……」

「先生。ここから歩いて保健室まで行き、保健の先生に事情を説明して手当をするだけでも15分はかかると思います。それにもし、他の重傷者や発熱等の生徒がいれば、そっちを優先させるのは当たり前なんじゃないんですか?」

 キジは細木の返答を待たずに歩き出した。

負傷した子の背に手を添え寄り添う。

「5分じゃ戻れないと思うけど、行ってきます」

「じゃ、試合再開ねー」

 永遠に不機嫌な細木の相手なんかしてらんない。

あたしはフィールドで待っていた仲間に手を振った。

真っ先にスコア係を選んでいた子が、仕方ないねと入れ替わったポジションに入る。

 試合が再開されたのはいいものの、そっからの方が問題だった。

相手チームには野球部員が5人在籍していた。

こっちは0。

いっちーの入った1回は0点で交代したものの、その裏のあたしたちの攻撃は0点に終わり、ピッチャー交代。

うちのクラスのピッチャー希望者は、どこのポジションでもよかったいっちーを含め5人が一人1回で交代する予定で、投げる順番を決めていた。

そのいっちーから交代した2回の中継ぎ登板で、総崩れを起こしてしまった。

怒濤のヒット連発に走者一巡16点の大量得点を許す。

それでもまだ2アウト。
「1回10点でコールドにする?」

「そしたら、めっちゃ試合終わるの早くならない?」

 うちのクラスには、全くプレイしていない子たちも残っている。

「じゃ、次から1回10点で交代しよっか」

 こっちのピッチャーは2回に交代に交代を重ねた末、再びいっちーがピッチャープレートの前に立った。

「アウト!」

 ようやくこっちにも攻撃回が回ってくる。

「どうするよ」

「とにかく1点だけでも取ろう」

 クラスで円陣を組み、気合いを入れる。

その最初のバッターが打席に着こうとした時だった。

ずっとベンチに座っていた細木が立ち上がった。

「貸しなさい。先生も参加します」

「は?」

 細木のくせに珍しく、女子の手からバットを奪いとる。

「先生はみんなの味方です」

 バッターボックスに入った細木に、相手ピッチャーは眉をひそめた。

細木は2、3度バットを振ると身構える。

「……。なにアイツ?」

「さぁ……」

 なんだかよく分からない気合いの入った細木に対し、三組のピッチャーは困惑気味だ。

そりゃそうだ。

あたしも相手ピッチャーに同情する。

それでも彼女は気を取り直したのか開き直ったのか、投球フォームに入った。

振りかぶってからの第一球、体育教師細木のバットは快音を上げ、大きく伸びた打球は場外へと消えてゆく。

それを見送った三組のチームは、ただただポカンとしていた。

シングルホームランを決めた細木は、ゆっくりとホームを一周し戻ってくる。

あたしと目が合った。

「先生、ボールが……」

 細木は神妙な顔つきのまま、ヒーロー気取りで黙ってうなずいた。

「だから先生は、お前たちの味方だと言っただろ」

「いや、そうじゃなくて……」

 元華族の大名屋敷跡に建てられたという学校だ。

広大な敷地は校庭を野球のグラウンド代わりにしても、まだ十分に余裕がある。

細木のボールはその先にある茂みの中へと消えていた。

城壁に囲まれているから、校内にボールがあるのは間違いないけど……。

「探してこないと」

「何を?」

「ボール」

「なくしたら探さないと」

 細木の顔が見る見る青ざめる。

あたしはため息をついた。

「試合中断して、みんなで探す?」

「いや、いいです。先生が探してくるので続けてください」

 そう言ってとぼとぼと歩き出したと思ったら、遠ざかるにつれ徐々にスピードをあげ、最終的には猛ダッシュになって消えていった。

さーちゃんとあたしは、また同時にため息をつく。

「ねぇ、どうする?」

 あたしはクラスのみんなを振り返った。

スコアボードには細木の入れた1点の文字が書き加えられている。

「コレ、いらんくね?」

「いらないよねぇ!」

 とたんに黙っていたみんなが声をあげ始めた。

「つーかなんで細木入って来た?」

「意味分かんねぇ。邪魔!」

「得点消しちゃう?」

「消そう消そう」

「そうだよ、消そうぜ」

 満場一致で合意したところで、あたしたちはもう一度円陣を組み直す。

「1点取るぞー!」

「おぉっ!」

 ようやく試合再開。

いっちーが守り抜いてくれているものの、バッターが打てないと意味がない。

相手の野球部の子はピッチャーポジションではないらしいけど、こっちが本気なら向こうも本気だ。

互いの応援にも熱が入る。

「いっけー、たかち!」

「走れ、走れ!」

 何とかバットにボールが当たるようになってきた。

塁に出る子も出始める。

大量の得点差は埋まらないけど、互いに遠慮は一切ない。

5回表、最後の攻撃が始まった。

あたしはベンチで拳を握りしめ、ハラハラしながら成り行きを見守っている。

細木が帰ってきた。

「なんで俺の得点が消えてんだ?」

「は? あんなの、ノーカンに決まってんでしょ」

「なんでだ。俺がちゃんと1点入れただろ。なんでなかったことになってる?」

「もー、ちょっとうるさいよ」

 今はそれどころじゃない。

あたしに出来ることはもうないから、全力で応援中なのだ。
「雉沼さんたちもまだ帰ってきてないし」

「は? なんか言った?」

 ヒットが出た! 

ランナーは走り出す。

三遊間へ飛んだボールは、すぐに捕らえられ一塁に投げられる。

駆け抜ける走者の足は、一瞬先に塁を踏んでいた。

大歓声が上がる。

「よっしゃぁ!」」

「このまま行くよ!」

 盛り上がるクラスの横で、細木はまだふてくされている。

「花田、保健室見に行ってこいよ」

「いま授業中ですけど」

「やっぱサボってんじゃねーかアイツら」

「気になるなら先生が見に行けばいいでしょ」

「やだよ。なんで俺が行かなくちゃいけないんだ。花田が行って来いよ。絶対おかしいだろ」

 次の打者がバッターボックス立つ。

緊張のにらみ合い。

バットを構えた。

放たれた剛速球に「ストライク!」の声が響く。

「は? 保健室で吐き散らかした子でもいたんじゃないの?」

「片付けの手伝いをしてるって?」

 バッターは次の打球を見送った。

判定はファウル。

ピッチャーとバッターの視線はフィールドでバチバチに絡み合う。

「もう出番ないんだろ? 見に行って来いよ」

 振りかぶったピッチャーから放たれる白球。

バットは動いた。

だけどそれはイヤな音をあげる。

「あぁっ!」

 高く上がった打球は、相手にとって格好の獲物だ。

難なくフライに打ち取られる。これで1アウト。

「ドンマイ!」

「次だ、次!」

 細木はまだブツクサ何かを言っている。

あたしは本当にそれどころじゃないってのに!

「あのさぁ、吐き散らかしたゲロの始末のあとに、生理の血で汚れたベッドのシーツ洗うのも手伝ってるかもしんないでしょ?」

 そう言ったら、ようやく細木は黙った。

「そんなに気になるんなら、本当に自分で見に行きなよ」

「……。もういい」

 立ち上がり、少し離れた場所に座った。

まだ顔が怒っているけど、そんなの知るもんか。

次のバッターは三振に終わる。

最後のバッターが打席に立った。

緊張のにらみ合いからの、あっという間に2ストライク。

次が最後の一球となってしまった。

あたしたちは全員で両手を組み天に祈る。

みんなの応援が最高潮に高まった。

「ストライク! バッター、アウト!」

 結局、1点ももぎ取れることはなく、終わってしまった。

「ゴメンなさぁ~い!」

 あたしたちはみんなで、半泣きのバッターをねぎらう。

「いいよ、いいよ!」

「次は頑張ろう」

 慌ただしくチームの交代が行われているなか、細木は0の並んだスコアボードの前に立っていた。

ふいにチョークを手に取ると、2回の裏に「1」の文字を書き足し、最終得点にも「1」を付け加える。

「あの、交代なんで、消しちゃっていいですか?」

「あ、はい」

 速攻で消されてるの、マジでウケる。

校外のどっかへ行っていたらしい小田っちが、スーツ姿で現れた。

「あぁ、細木先生。すいませんね。無事にやれてますかね」

「あ、はい。大丈夫です!」

 細木はパッと立ち上がって、にっこにこの満点笑顔でペコリと頭を下げる。

「花田、大丈夫か?」

「せんせーい。大丈夫だよー」

 そう言って手を振ると、小田っちも満足そうに笑顔で手を振り返してくれた。

次の試合が始まる。

機嫌を直したらしい細木は、そこからずっとにこにこしながら大人しく試合を見守っていた。

「平和だなぁ~」

 あたしはそうつぶやくと、青い空の下主審についた。
 その平和な学校が、ある朝突然大変なことになっていた。

「なにコレ……」

 うちのシンボルでもあった学校をぐるりと取り囲む高い城壁に、細い足場がびっしりと組まれている。

「学校からの連絡見てないの?」

 キジだ。

「老朽化が進んで、周辺住民からの苦情が多かったんだって。崩壊の危険があるって。それで解体工事が始まったらしいよ」

「壊されんの?」

「さぁ」

 焦げ茶色のレンガにまとわりつくそれは、チョコレートを食べに来たシロアリみたい。

「来年度の共学スタートに合わせて、この壁も撤廃するんだって」

「……。シロアリはチョコ食べないか」

「工事のこと?」

「うん」

「私は分解者が蜘蛛の巣みたいに菌糸を張り巡らせたように見えるわ」

「……。え?」

「なんでもない。気にしないで」

 崩れてゆく城壁の、その壁で守られたお城の中へ、登校してきた女生徒たちは次々と吸い込まれてゆく。

「おはよう」

 いっちーも来た。

いっちーは日本刀をぶら下げた桃と一緒に立っている。

「おはよう」

 こん棒のいっちーはいつになく妙に機嫌が悪い。

「どうかした?」

「別に。キジ、こないだの公園の女の子のこと、ありがとう」

「ねぇももちゃん。この辺りで鬼が出たって本当?」

 真剣な表情で、桃はあたしに尋ねる。

「アプリに情報上がってて、びっくりした。こないだ俺たちが巡回した直後だよね」

 あたしはチラリといっちーの顔色をうかがう。

「あぁ、……うん。それで……、心配して、いっちーについて来たの?」

 彼は顔を真っ赤にした。

「べ、別にそういうわけじゃないんだけど、鬼が出たっていうから……」

 ため息をついたのはキジだった。

「平気でしょ、いっちーだし。私たちもいたんだから」

 キジは普段の柔らかで優雅な物腰とは全く違う、ガチガチに硬直したような冷淡な物言いで桃を突き放す。

「君も鬼退治サークルのメンバー?」

 そう聞かれたキジは、桃を見上げた。

「……そうかもね。早く自分の学校行ったら?」

 桃は「一花をよろしくね」と言い残し、いそいそと背を向けた。

いっちーは吐き捨てるようにつぶやく。

「アイツ、結局私を分かってないんだよ」

「どういうこと?」

「自分の見たいようにしか見てないってこと」

「誤解してるってこと?」

 いっちーはそれには答えない。

校内に向かって歩き出した。

「そうだと思う」

 そのいっちーの代わりに、キジが答える。

「あぁいうのは、大嫌い」

 キジも歩き出した。

彼女の長い黒髪が風に揺れる。

「早く教室に入らないと、ホームルームが始まっちゃうよ」

 その日のクラスでは、学園祭の話しになった。

「ももはどうすんの?」

「悪いけど、あたしは鬼退治サークルの方があるから、裏方で」

 そうだ。

立ち上げたばかりでまだ認知すらされてないサークルを、おもいっきり宣伝しないと。

そんでもって来年度入学してくる新入生を集めないことには、せっかく起ち上げたこのサークルも、速攻でお終いになってしまう。

「いっちー。あたしたちもなんか考えよう」

「だね」

 クラスのことはクラスに任せておいて、自分たちの作戦を練る。

出来るだけ目立つようにしたい。

あたしたちは考えに考えた末、学校敷地内の空きスペースを利用して、チャンバラ対決をすることにした。

対戦者はあたしかいっちーを選んで勝負する。

道具はこん棒のみ。

鬼退治サークルの校内周知と勧誘が最大の目的だ。

「今年は一般公開するんだって。文化祭」

「え? 在校生のみじゃないの?」

「来年度の共学化に向けて、転入生も受け入れるらしいから、当日は在校生の関係者や他校の生徒も入れるって」

 毎年中学生の参加は認められてきた。

中学生相手の剣技ならといいと思ったのに……。

「もも、どうする?」

「それでも、やるしかないっしょ。適当にルール決めて、時間制限つけよう」

 あたしたちはこれから鬼と対峙しようとしているんだ。

怖いものなんてない。

「いっちー。とにかく練習あるのみだよ」

「了解」

 クラスの出し物はお祭り屋台。

ヨーヨー釣りに綿アメとチョコバナナだって。

準備はお手伝いして、当日の当番はいっちーと時間を合わせてもらう。

学祭までの空いた時間はずっと剣術の稽古をして、当日のチャンバラ対決の時間も決めた。
「細木せんせーい」

 顧問の先生に許可を取ってからじゃないと、何事も出来ないことになっているので、書き上げた書類を持って行く。

細木は相変わらず、誰もいない体育科準備室の机の下に隠れていた。

「な、なんだ。お前らか」

 もぞもぞと這い出してくるのを、あたしといっちーは大人しく待っている。

「学祭の出し物決めたから許可して」

 紙を突き出しても直接受け取ろうとはしない。

机をトントンと指で指すから、そこに置く。

一息入れてからようやく拾い上げ、目を通した。

「なんで俺がこんなこと……」

 ブツブツと文句を言いながらも、顧問の承認印を押す。

「どうでもいいけど、俺に迷惑かけるなよ。問題起こしたら速攻解散だからな」

「はーい」

 ハンコさえもらえれば、コイツにもう用はない。

あたしたちはひたすら練習をして、学園祭当日を迎えた。

 今年の学祭は、去年までと随分雰囲気が違っている。

共学化に伴う、数十年ぶりといかいう一般公開も話題になって、とにかく人の数が多い。

鬼退治サークルのチャンバラ対決場には、小さな立て看板を一つ置いていた。

そこに開催時間が書いてある。

それまではクラスのお手伝い。

「いらっしゃいませー」

 あたしといっちーは裏方で、ひたすらヨーヨー釣りの風船を膨らましていた。

おまけでついてきたエアポンプなんて、ほとんど役に立たない。

膨らました風船を、ゴム紐でぐるぐる巻き付けてクリップで綴じたらお終い。

隣のクラスが自分たちの宣伝にやって来た。

「お疲れ~。うちにも遊びに来てねー!」

 隣の三組はコスプレ喫茶だ。

派手な格好をした連中の間に交じって、見慣れない奴がいる。

「え、さーちゃん?」

「そうだよー」

 いつもの金髪坊主の上に、黒髪のふんわり縦巻きカールのカツラをかぶっている。

白雪姫の衣装が、背の低い彼女によく似合う。

「かっわい~!」

「でしょ!」

 一緒に来ていたむーちゃんは、得意げにさーちゃんの肩に手を置いた。

「うちの最高傑作なんだから」

 真っ白な肌にツンと高い鼻は、ハーフっぽいとは思ってたけど、青いカラコンを入れたら本当に異世界から転生してきたお姫さまみたいだ。

しかも巨乳。

「まぁね」

 さーちゃんもそのふんわり巻いた髪をさらりと後ろに流す。

「私って、実はこんなにかわいいって知らなかった?」

「あー、はいはいはいはい。カワイーデスヨー」

 笑い声があふれる。

さーちゃんも楽しそうに笑った。

「ねぇ、貴重な姿だから、一緒に写真撮ろう」

「いいよ」

 さーちゃんがそう言うと、あっという間にみんなが彼女の周りに群がった。

「ねぇ、後で一人だけのサービスショットとツーショットほしい」

「いいけど、ちゃんとうちのクラスにも遊びに来てね」

 なぜ自分たちのクラスでやらないのかとか、そんなことは誰も思わない。

他クラスのお祭り屋台の会場で始まった、身内だけの撮影会だ。

一般参加の人たちはまだ体育館や野外の出し物に引きつけられていて、校舎の中には少ない。

さーちゃんは大きな顔でニッと笑ったり、一緒に写る友達と合わせてポーズをとったり、とにかくはしゃいでいた。

「ねぇ、あたしも、あたしも!」

「いいよ。もも」

 さーちゃんと、こんな風に過ごせるのが楽しい。

なんだかんだでいっちーも、さーちゃんをパシャパシャ撮りまくっている。

だって、かわいいものはかわいいんだから仕方がない。

「いやー。いいもん見させてもらったわ」

「うん。アレにしては上出来だった」

 普段はあんまり仲良くないくせに、いっちーまでさーちゃんと写真撮ってるのに、あたしはバレないようにこっそり笑ってる。

チャンバラ対決まではまだ時間があるから、あたしたちはヨーヨー釣りの水槽の前で接客のお手伝い。

来てくれた小さな男の子に、彼が挑戦して取れなかった風船を、代わりにすくってプレゼントしてあげる。
「一花! やっと見つけたぁ~」

 桃だ。金太郎と浦島もいる。

制服じゃないから少し幼く見える彼らの腰には、やっぱり鬼退治用の日本刀がぶら下がっていた。

「来なくていいって言ったのに……」

 いっちーはぼそりとそうつぶやいたけど、きっと桃たちには聞こえていない。

桃は水槽をはさんであたしたちの前にしゃがみ込んだ。

「俺もヨーヨー釣りする」

 いっちーはムッとしたままで、釣り紐を桃に渡した。

金太郎と浦島は教室内の他の屋台をのぞいている。

「どれが取りやすいとかある?」

「ない」

 いっちーは相変わらずぶっきらぼうだけど、桃はうきうきしていた。

「ね、このあと時間ある? 金太郎と浦島も来てるからさ、ももちゃんも一緒に回ろうよ」

 桃はあたしを見つめると、ニッと笑った。

その無邪気過ぎる笑顔に、もうなんて言っていいのか分かんない。

「いっちー、行っといでよ」

「あたしはいい。ももとじゃないと嫌だ」

 あたしはため息をつく。

いっちーが本音のところでどう思ってるのかとか、あえて聞かないけど……。

「ももといっちーお疲れー。交代時間だからもう行って大丈夫だよー」

 そう声をかけてくれたのは、気を利かしてくれたのか、そうじゃないのか。

でも交代の時間は本当だから仕方がない。

勝手に待ち構えている桃たちと一緒に、あたしといっちーは歩き出した。

こん棒と日本刀という劣等感、というよりも、あたしたちのサークルがこの桃たちによって支えられているメンバーだと、見に来ている人たちにそう思われたくなかった。

 あたしといっちーは、桃たちを順番に案内して回る。

焼きそばを食べたり、ダーツしたり。

桃たちが楽しむ様子を、腕組みしながら後ろで見ていた。

「ね、次はどこ行く?」

「あぁ、そうだね……」

 金太郎にそう言われて、あたしは困ってしまった。

次と言っても思いつく場所がもうない。

いっちーはどうやら、考えることも放棄してしまってるようだ。

浦島はそんなあたしたちを見てフッと笑った。

「いつもどこで昼飯とか食ってんの? 二人が普段、どこでどんなことをしてるのか知りたいな」

「そう! それ。そういうの」

 桃は急に振り返って、笑顔を振りまく。

「教室の席とか、いつも通る廊下とか、階段の手すりとか、校庭の思い出の場所に行きたい。いつも、一花とももちゃんが見ている風景が見たい」

 あたしはいっちーをチラリと観察する。

いっちーはムッとしたまま動かない。

仕方なくため息をついた。

「今は学祭だから、普段とは全然違うけど……」

 あたしは桃に話してあげる。

いつもお弁当を食べてる場所、サッカーしてた校庭、保健室、いっちーとあたしがいつも……。

「いつも、練習はどこでやってんの?」

「練習? あぁ、鬼退治サークルの? それは……」

 さーちゃんとむーちゃんが歩いている。

さーちゃんはかわいい白雪姫で、むーちゃんは赤ずきんの狼だ。

その二人が見知らぬ男二人に絡まれていた。
「ちょっ……。待って」

 あたしがそう言ったら、桃たちもさーちゃんたちの様子に気づいた。

嫌がるむーちゃんに執拗に男が迫っている。

もう一人の男は、さーちゃんの髪に触れようと手を伸ばした。

「これ、カツラだから触んないでくれる?」

 さーちゃんは自分で頭を取った。

正体を見せた金髪坊主のさーちゃんに、男たちの動きは止まる。

「あんたたち、邪魔だからどっか行ってくんない?」

 ナンパ男たちは驚いて、さーちゃんを見下ろす。

彼らはバカみたいに笑い始めた。

「ちょ、なにその頭? それで個性とか思ってんの?」

「女の子でそれはかわいくないよ~。せっかくのおっぱいが台無し」

 さーちゃんの右手が拳を固める。

彼女の半身が一歩後ろに下がった。

「もうちょっとさ、男ウケとか考えた方が……」

 さーちゃんの目標が、ナンパ男の腹に定まった。

「この子たちの知り合い? そうじゃないなら、迷惑してると思うよ」

 その手を先につかんだのは、桃だった。

桃はさーちゃんを見下ろす。

「ね、そうじゃない?」

「……。迷惑だね」

 さーちゃんは握りしめていたその拳をほどいた。

あたしが飛びだそうとした肩を、抑えたのは金太郎だった。

浦島は桃のすぐ後ろに立つ。

「邪魔だと言われたんだ。早めに引いとけよ」

 目つきが鋭く背も高い浦島に言われて、男たちはあっという間に姿を消す。

さーちゃんは桃たちを見あげてから、あたしといっちーもいることを確認した。

もう一度視線を桃たちに戻す。

「……。ありがとう」

 さーちゃんはカツラをかぶり直した。

「さーちゃん、ありがとう! やーん、ちょっと怖かったぁ~」

 むーちゃんはさーちゃんに抱きつく。

そんなむーちゃんぎゅっと抱きしめてから、さーちゃんは改めて桃たちを見た。

「ももといっちーの知り合い?」

「お、鬼退治仲間だから。貴重な!」

 桃は何でか慌てふためいている。

浦島はカツラをかぶったさーちゃんをじっと見つめた。

「それは学祭用の衣装なのか?」

 そう言った浦島を、さーちゃんは見上げる。

「どっちもよく似合っている」

「そうかな、そうでもないんじゃない」

 彼女はため息をつく。

「ま、なんだっていいけどね。こんな格好するのも、今日だけだし」

 桃と金太郎も、順番にさーちゃんを褒める。

「どっちだって可愛いよ!」

「髪と実際の顔の作りは無関係だって証明されたね」

 きっとこれがさっきまでの教室みたいに、女の子だけの会話だったら、さーちゃんはニッと得意げに笑って、いつものように「まぁね。自分がかわいいの知ってるし」とか「今さら気づいた?」とか言ってたんだろうな。

「ももはこれから、その人たちと鬼退治?」

 目も合わせずにそう言ったさーちゃんの、そんな言葉に傷つく。

あたしはそれに答えられない。

いっちーが代わりに答えた。

「ううん。この人たちは関係ないよ」

 そのまま彼らを振り返る。

「私たちはこれから用事があるから、悪いけどこっからは自分たちで楽しんできて」

「分かった」

 桃はにこにこと笑って、素直にいっちーに手を振った。

去りゆく三つの背に、あたしは腰のこん棒をぎゅっと握りしめる。

同じように見送るいっちーの横顔も、暗く沈んでいた。

「行こっか」

 対決の時間は近い。

「そろそろ演武の時間だし」

「うん。気持ち切り替えて行こ」

 いっちーの横顔はいつだって凜々しいのに、今はそれがなんだか寂しく見える。

あたしは身を引き締めた。

自分たちで出来ることは、やっぱり自分たちでやりたいしやらなくちゃいけない。

桃たちには悪いけど、この先は来てほしくないんだ。
 そうやってやって来たチャンバラ会場には、誰もいなかった。

周囲に立ち並ぶ他の部活のブースには、それなりの人だかりが出来ているのに……。

そんな知っていたはずのことにまで、ちょっぴりショックを受ける。

「マジでもうみんな、鬼退治とか興味ないのかな」

 あたしたちの立つ看板の横には、対戦者用のこん棒も用意していた。

腕には巡回中の正式な腕章もしたし、その下には『模擬中』の白い腕章もつけている。

これはちゃんとしたルールだ。

「……。こんなんで、新入部員集まるのかな」

 いっちーからの返事はない。

ここでは外の世界みたいに、こん棒をぶら下げて腕組みするあたしたちを笑うような人間はいない。

だけど、だからといって全てを認め受け入れられているワケでもない。

「呼び込みしよう」

 こんなこともあろうかと、あらかじめ借りていたプラスチックのメガホンが役に立った。

あたしは大声を張り上げる。

それでもやるって決めたことに、変わりはないのだから。

「鬼退治サークルで、挑戦者を受け付けておりまーす!」

 いっちーも大声を張り上げた。

「ももかいっちーの、好きは方を選んでチャンバラ対決出来ますよー!」

 呼び込みにも来場者の反応は薄い。

4歳くらいの女の子がこん棒に興味を持ってくれたけど、大きすぎて持ちきれなかった。

中学校の制服を着た男の子数人は、こん棒を手にするまではしてくれたけど、打ち合いまでは至らない。

30代くらいの女の人が一人、「私も昔、本当はやってみたかったのよねー」とか言いながら、話しかけて来てくれた。

数回カツカツと打ち合わせただけで、すぐに「ありがとう」と退散してしまう。

この企画は失敗だったのかな? そんな不安や焦りがピークに達した時だった。

「これは、誰が挑戦してもいいの?」

 傘立てに立てかけたこん棒の、一本が引き抜かれる。

「じゃあ、相手してくれる?」

 まっすぐにそれを構えたのは、桃だった。

腰には鬼退治専用の公式刀がぶら下がる。

「桃が?」

「ダメ?」

「ダメじゃないよ」

 桃の目は、今までに見たこともないほど真剣だった。

あたしは腰のこん棒に手を置く。

「じゃあ、あたしが対戦をお願いしてもいいかな。いっちーの強さは知ってるんでしょ」

「そうだね。お互い手の内やクセを知ってる」

 桃はこん棒を構えたまま、ゆっくりと間合いをとる。

こんなところで挑戦を受けて、引き下がれるハズがない。

「じゃ、お願いします」

「こちらこそ」

 これがオフザケだとか一時の気の迷いだとか、そんな簡単なものじゃないってことを、知らしめないと。

あたしはこん棒を抜くタイミングを見計らっている。

きっと桃も踏み込むチャンスを見ている。

互いにじっと合わせた視線から、深く集中してゆく。

辺りが急に静かになった。

あたしは腰のこん棒を抜いた。

「ちょっと待ったぁっ!」

 ガツンと3本のこん棒が重なり合う。

あたしと桃の間に割り込んできたのは、細木だった。

「何だよ、邪魔すんな!」

 あたしは2本のこん棒を真横になぎ払う。

桃と細木は飛び退いた。

細木に向かって振り下ろしたそれは、ガツンと受け止められる。

「くっ……」

 やっぱりパワーじゃ敵わない? 

そう思った瞬間、細木はあっさりとこん棒を投げ捨てた。

「キミ! その腰の刀は?」

 クソダサジャージの細木は、桃に向かって両腕を広げる。

「え? これは鬼退治の……」

「やっぱりそうだよね!」

 細木は桃に近寄ると、ガッツリと桃の両手を握りしめた。

「僕はここで鬼退治サークルの顧問をしていてね。もしかして君はこの学校に興味があるのかな?」

「え? えぇ、まぁ……」

「そっか!」

 細木が熱い。

「もしよかったら入学案内があるから僕がそこまで案内してあげよう。いやぜひ案内させてくれないか!」

 桃からの返事を待たずして、細木はくるりと背を向けた。

「よし、じゃあ行こう!」

「細木!」

 あたしはこん棒を振り上げる。

「本当は鬼退治になんか、興味ないくせに!」

 振り下ろしたそれを、細木はパッと避ける。

そのまま落ちていたこん棒を拾い上げた。

構わす攻撃を仕掛けるあたしを、奴はガツンと受け止める。

「当たり前だ! 小田先生に言われてやってるだけだ!」

「じゃあなんで割り込んでくるんだよ!」